共 結 来 縁 ~ あるヴァイオリン&ヴィオラ講師の戯言 ~

山川異域、風月同天、寄諸仏子、共結来縁…山川の域異れど、風月は同天にあり、諸仏の縁に寄りたる者、来たれる縁を共に結ばむ

あれから丸3年

2014年03月11日 17時40分32秒 | 日記
今日は3月11日、今から3年前に、東北地方の太平洋側を中心に発生した東日本大震災が起きた日です。

写真は3年前とちょうど同じ時間くらいの今日の厚木一番街の様子です。御覧のように何の変哲もない風景ですが、これと同じくらい何の変哲もない時間の中で、あの未曾有の災害が発生しました。

あの日は金曜日、私はあざみ野の教室にいて、レッスンの準備をしていました。他の講師も出勤してきていた中で「…あれ?」と思った次の瞬間、教室の入っているビルが、建物ごと地面から遊離したのではないかと思うくらいに大きく横に揺れ動きました。各レッスン室の中のピアノもガタガタと音をたてて揺れ動いていたのですが、取り合えず出口を確保すべく全ての部屋の扉と出入口のガラスのドアを開けて、その当時天井から提げられていた照明が大きく揺れるのを、側にあったテーブルに上って落ちないように必死に掴んでいました。

それからどのくらいの時間が経ったのか分かりませんが、揺れながらも『これだけ大きな横揺れならば、これは直下型の地震ではない』という確信のようなものがあったので、とりあえずそのことを安心材料として、揺れが収まるまでこの場から動かないようにと声を掛け合いました。

やがて揺れが収まって辺りを見回したところ、幸いなことにピアノや本棚が倒れたり、時計や照明が落ちたりといった被害はありませんでした。ただレッスン室内が暗くなっていたので、程なく停電が起こったことは分かりました。それでも直後は自分達のいるビルだけが停電になったものと思い、1階にある分電盤のところに行ってみると、他のテナントの人達も既に集まっていました。

しかし、それからしばらくして誰かが「あ!街中が停電してる!!」と言ったので周りを見ると、通りの信号機が点いていないのに気づき、向かいの店も真っ暗になっていたのを確認して、大変なことが起こってしまったという実感が湧き始めていました。

次に気づいたのは、ありとあらゆる情報が入ってこないことでした。テレビはつかない、ラジオもつかない、電池を入れても繋がらない、電話も通じない、携帯も繋がらない、メールもやりとりできない、ワンセグも観られない…とにかくあざみ野界隈は、あらゆる情報から隔絶された『陸の孤島』になってしまったのです。

それから数時間後、一駅隣のたまプラーザは電気が点いているらしいという話を頼りに全員でたまプラーザに移動したら、駅周辺と東急百貨店を含めた一角だけが、奇跡のように明るく浮かび上がっていました。教室の本店もちょうどその一角の中にあったので、とりあえず出勤した講師同士でお互いの無事を喜び合ってから、何はさておき今日は絶対に帰れなくなるから…ということで、全員で手分けして当座の食糧を調達しました。

それから全員で新しくオープンした第2センターに移動して、そこの廊下に取り付けてあったテレビモニターで、私達が知らない間に世の中で起きていた衝撃的な出来事の数々を初めて認識することになったのでした。

結局その日は帰宅難民になったのですが、何しろ電気は点くし、テレビは観られるし、靴は脱いで上がれるし、トイレは使えるし、食糧はあるしといった感じでしたので、あの日ホテルのロビーや公共施設の廊下で雑魚寝以下で過ごしていた方々には申し訳ないくらい快適な状況で過ごすことができました。あの時ほど会社に感謝したことはありません。

あれから丸3年経って、自分が暮らしている街に関しては平穏を取り戻したように見えます。しかし被災地、特に私の生まれ故郷である福島県は、未だにどこから手を付けていいのかも分からないような状況下にあります。

思うのですが、こんなに対応が遅れていて『先進国』といえるのでしょうか。

これから復興しなければならない問題が山積している状況ですから、必要としているところには申し訳ありませんが、一度海外へのODAや国連負担金を数年間免責してもらって、その分を復興に充ててはいけないのでしょうか。他所の国にいい顔をするのも外交上大事なことなのかも知れませんが、事情を話せば分かってもらえると思うのです。

とにかく政府には、一日でも早く自国民の安寧を図ってもらいたいと、切に願わずにはいられません。
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