今日3月20日は、あの地下鉄サリン事件のあった日です。今から19年前の1995年3月20日午前8時頃、丸の内線、日比谷線、千代田線といった各地下鉄の大手町駅やその近隣の電車内に猛毒のサリンが撒かれ、乗客・駅員13名が死亡するという、前代未聞の化学テロ事件でした。
毎年この日は事件の起きた午前8時に合わせて、大手町駅構内に設けられた献花台に献花と黙祷が捧げられます。今日もその様子がニュースで流されました。
実は、私はあの日の朝早くに厚木を電車で出発して、当時千葉県柏市にある国立がんセンターのホスピスケア棟に入院していた母を見舞いに向かっていました。代々木上原駅で千代田線に乗り換えてそのまま柏駅に到着し、そこからバスで30分ほどかかる病棟に着いて、泊りがけで母に付き添っていた妹と看病を交代しました。
いわゆる延命治療を施さない終末医療の病棟ですから、詰めたからといって別段何をするわけでもありません。たまたま音声を絞って点けっぱなしにしていたテレビを観るでもなく、母の背中をさすったり、取り留めない話をしたりしていました。
そうしたら、ふとテレビの画面に目をやった母が…
母:「お前、今日千代田線でここまで来たって言ってたよね?」
私:「うん。時間かかるけど、それが一番面倒くさくないからね。」
母:「いや、今テレビに大手町で人が倒れてるのが映ってるけど、知らないの?」
『へ?』と思いつつテレビの画面に目をやると、確かに大手町駅の地上出口の辺りに累々と人々が横たわり、ヘルメットを被った救急隊やレスキュー隊が盛んに駆け回っている様子をヘリコプターから映している上空からの映像が流れていました。急いで絞っていた音声のボリュームを上げてみたら、その当時は『地下鉄構内で何らかの爆発があった』ということが繰り返し報じられていたのを覚えています。
そして、母と私の脳裏に過ぎったのは、さっき送り出した妹のことでした。
当時は今と違って携帯電話というものがそんなに激しく普及していたわけではないので、不測の事態の中から気軽に個人を呼び出す術などありませんでした。だから、結局私たちはただひたすら妹の無事を祈りながら、妹から病院宛てに電話がかかってくることを待つのみ…。
結局その後何時間かしてようやく妹から電話が入りましたが、駅前の公衆電話に長蛇の列ができてしまっていて、自分の順番が回ってくるまでに物凄い時間がかかってしまったのだそうです。とりあえず身内の無事を確認して安堵しました。
しかし、これは後で調べてみて分かったことなのですが、どうやら私が乗っていた電車が大手町を出発した後に着いた電車が、この事件の当該車両だったようなのです。ということは、もし私があの日、あの時私の乗った1本後の千代田線に乗っていたら、もしかしたらあの累々と横たわる人々の中に私もいたかも知れなかったのです!
あの事件で亡くなられた13名の方々には申し訳ありませんが、今でもそれを思うと戦慄が走ります。こういう事件に遭遇して亡くなってしまった運命、出会わずに済んでしまった運命というものは、かくも紙一重なところに存在するものなのかと…。
それから程なくして、母は彼岸に旅立ちました。今でも阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件のニュースが流れると、母が旅立ってからもうそんなに経ってしまったのか…ということが同時に想起されます。そして、あれからもう19年もの歳月が流れたというのに未だに裁判すら開かれていない旧オウム信者がいることに、言いようのない理不尽さをも覚えます。
明日はお彼岸のお中日、せめてこの事件を含め様々な理由で旅立たれた多くの御霊に、心からの哀悼を捧げたいと思います。
合掌。
13人が犠牲に・・・オウム地下鉄サリン事件から19年(14/03/20)
毎年この日は事件の起きた午前8時に合わせて、大手町駅構内に設けられた献花台に献花と黙祷が捧げられます。今日もその様子がニュースで流されました。
実は、私はあの日の朝早くに厚木を電車で出発して、当時千葉県柏市にある国立がんセンターのホスピスケア棟に入院していた母を見舞いに向かっていました。代々木上原駅で千代田線に乗り換えてそのまま柏駅に到着し、そこからバスで30分ほどかかる病棟に着いて、泊りがけで母に付き添っていた妹と看病を交代しました。
いわゆる延命治療を施さない終末医療の病棟ですから、詰めたからといって別段何をするわけでもありません。たまたま音声を絞って点けっぱなしにしていたテレビを観るでもなく、母の背中をさすったり、取り留めない話をしたりしていました。
そうしたら、ふとテレビの画面に目をやった母が…
母:「お前、今日千代田線でここまで来たって言ってたよね?」
私:「うん。時間かかるけど、それが一番面倒くさくないからね。」
母:「いや、今テレビに大手町で人が倒れてるのが映ってるけど、知らないの?」
『へ?』と思いつつテレビの画面に目をやると、確かに大手町駅の地上出口の辺りに累々と人々が横たわり、ヘルメットを被った救急隊やレスキュー隊が盛んに駆け回っている様子をヘリコプターから映している上空からの映像が流れていました。急いで絞っていた音声のボリュームを上げてみたら、その当時は『地下鉄構内で何らかの爆発があった』ということが繰り返し報じられていたのを覚えています。
そして、母と私の脳裏に過ぎったのは、さっき送り出した妹のことでした。
当時は今と違って携帯電話というものがそんなに激しく普及していたわけではないので、不測の事態の中から気軽に個人を呼び出す術などありませんでした。だから、結局私たちはただひたすら妹の無事を祈りながら、妹から病院宛てに電話がかかってくることを待つのみ…。
結局その後何時間かしてようやく妹から電話が入りましたが、駅前の公衆電話に長蛇の列ができてしまっていて、自分の順番が回ってくるまでに物凄い時間がかかってしまったのだそうです。とりあえず身内の無事を確認して安堵しました。
しかし、これは後で調べてみて分かったことなのですが、どうやら私が乗っていた電車が大手町を出発した後に着いた電車が、この事件の当該車両だったようなのです。ということは、もし私があの日、あの時私の乗った1本後の千代田線に乗っていたら、もしかしたらあの累々と横たわる人々の中に私もいたかも知れなかったのです!
あの事件で亡くなられた13名の方々には申し訳ありませんが、今でもそれを思うと戦慄が走ります。こういう事件に遭遇して亡くなってしまった運命、出会わずに済んでしまった運命というものは、かくも紙一重なところに存在するものなのかと…。
それから程なくして、母は彼岸に旅立ちました。今でも阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件のニュースが流れると、母が旅立ってからもうそんなに経ってしまったのか…ということが同時に想起されます。そして、あれからもう19年もの歳月が流れたというのに未だに裁判すら開かれていない旧オウム信者がいることに、言いようのない理不尽さをも覚えます。
明日はお彼岸のお中日、せめてこの事件を含め様々な理由で旅立たれた多くの御霊に、心からの哀悼を捧げたいと思います。
合掌。
13人が犠牲に・・・オウム地下鉄サリン事件から19年(14/03/20)