《御霊神社》の社殿です。江戸期くらいの建物かと思いますが、欄間の彫物などはなかなかの意匠が凝らされています。
御神輿にもあしらわれていましたが、この神社の紋所は皇室と同じ菊の御紋です。というのも、関東地方では非常に珍しいのですが、この御社の御祭神が崇道天皇という帝なのです。聞き慣れない天皇名だと思いますが、この帝は平安京に遷都した桓武天皇の弟君で、早良親王(さわらしんのう)という皇子のことです。
この皇子は桓武天皇の皇太弟として、本来なら次の帝になるはずでした。ところが、あらぬ謀反の疑いをかけられてその地位を剥奪された上流罪となってしまい、最後まで無実を訴えながら憤死してしまいました。
その死後、都で桓武帝の母君を初めとした近親者が次々亡くなったり、疫病が流行したりといった凶事が続いたため「これは早良親王の祟りではないか」と人々が恐れたため、その御霊を鎮めるために贈られたのが《崇道天皇》という諮号(しごう=送り名)です。
京都市にある大きな《御霊神社》はよく知られているのですが、何故都から遠く離れた平塚の地にこの御社が祠られているのかは、全国の神社を統括している神社本庁のHPを見てもわかりませんでした…。
御神輿にもあしらわれていましたが、この神社の紋所は皇室と同じ菊の御紋です。というのも、関東地方では非常に珍しいのですが、この御社の御祭神が崇道天皇という帝なのです。聞き慣れない天皇名だと思いますが、この帝は平安京に遷都した桓武天皇の弟君で、早良親王(さわらしんのう)という皇子のことです。
この皇子は桓武天皇の皇太弟として、本来なら次の帝になるはずでした。ところが、あらぬ謀反の疑いをかけられてその地位を剥奪された上流罪となってしまい、最後まで無実を訴えながら憤死してしまいました。
その死後、都で桓武帝の母君を初めとした近親者が次々亡くなったり、疫病が流行したりといった凶事が続いたため「これは早良親王の祟りではないか」と人々が恐れたため、その御霊を鎮めるために贈られたのが《崇道天皇》という諮号(しごう=送り名)です。
京都市にある大きな《御霊神社》はよく知られているのですが、何故都から遠く離れた平塚の地にこの御社が祠られているのかは、全国の神社を統括している神社本庁のHPを見てもわかりませんでした…。