先週末から、日本の選挙が気になり、かつての出来事や体験をまとめる気になれませんでした。どうにかリベラル派の政党が新しくでき、自民+公明+希望vs立憲民主+共産+社民+市民連合の対決構造ができて、ほっとしています。
ただ、選挙の予想をとても甘く考えている人もいれば、反対に選挙制度自体に限界を感じている人もいて、どちらもいい加減にしてほしいと思います。というのも、ここ2、3年の間、これまで滅茶苦茶な状況にしてしまった要因の何パーセントかは、甘く考えている人にも、また限界を感じている人にもあると思うからです。
僕自身、べ平連という市民運動からはじまり、学生時代はかなりラジカルな運動をしていたわけですが、それにもかかわらず日本社会の右傾化がどんどん進行していったのを、直接見て体験しているわけです。なぜ、もう少しまともな状況にできなかったのか、特に変革を求める進歩的な運動を拡大することができなかったのかという、忸怩たる思いがあります。そのような思いを込めて、大学時代のことを書いてみます。
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僕が70年代後半に入った法政大学は、学生会館が自主管理をしていることで有名だった。この時代を体験していない世代には<自主管理>という言葉の響きがどのようなものか、さっぱりわからないと思う。大学構内での<自主管理>は、68年ごろから全国で高揚する学園紛争の雰囲気というかニオイを感じさせる言葉だ。どんなものか、具体的に説明してみよう。ただ<自主管理>の事務的仕事には関わっていなかったので、事実誤認がある部分もあるかもしれないので、その点はご理解ください。
74年に作られた学生会館は、自治会(2部の民青系自治会を除く)やサークル、運動部から応援団まで同居する不思議なところだった。そのうえ、入り口には、ほぼ常時、旗をまいた竹竿で”武装”している中核派自治会の防衛隊が立っているという、シュールというか時代錯誤というか不思議な光景も見ることができた。(ちなみに竹竿だけだと、凶器準備集合罪が成立し、旗を巻いていると大丈夫と、当時は言われていたが、本当だったのだろうか?)
この学生会館は、サークルボックス棟とホール棟に分かれていて、サークルボックスが1フロアに20、確か8階ぐらいまであったから160ぐらいサークルボックスがあった。自治会や学部ごとに組織された学術団体、そして文化連盟と言われた<歴史>のある組織・サークルは1つのボックスを確保し、学生団体連合というサークル団体の場合は2~3つで同居しているところもあった。また、新しくできたサークルなどは文化連盟には入れず、学生団体連合にしか入れなく、入ってもすぐにはサークルボックスが割り当てられることはなかった。その意味では、きわめて閉鎖的な運営をしていたといえる。
そのため、学生会館のホール棟や校舎のホールなどをたまり場的に利用しているグループもかなり多かった。当時で学生数が2万人、小金井の工学部を除いても、1万5千以上、その半分ぐらい学校に来ていても7~8千人が大学構内にいるわけだから、160ぐらいのサークルボックスでは間に合わないのは当然だ。それにも関わらず、学生会館の増築や新築が要求として上がっていなかった点が、法政大学学生会館<自主管理>の限界だったと思う。いわば、本工主義労働組合の学生版だ。
ホール棟には確か400名ぐらい入れる大ホールと小ホール、会議室、音楽練習室、喫茶店などがあった。ホールも音響から照明まですべて整っている本格的なもので、当時でも学生が自主管理をしているホールは法政と京大の西部講堂だけだった。(西部講堂は今でも自主管理をしている)
学園祭のときは泊まり込みもOKだったので、オールナイトでコンサートや映画の上映などが行われていた。渡辺貞夫なども来た事があったっけ。
中にある喫茶店も、僕がいたことは応援団か体育会のリーダーがマネージャー担当で学生が運営という不思議なところで、メニューはコーヒーとカレーライスぐらいだった。
校内にはタテカン(分からなかったら、調べてください)があり、学生会館にはステッカーが張られ、ヘルメットを被った自治会の防衛隊と学ランを着た応援団が同居している不思議な空間は、独特のものだった。
当時この学生会館を管理していたグループが法大全共闘と名乗っていたノンセクト黒ヘルグループだ。こう書いても、今の人には分からないと思うので、ちょっと解説をしよう。セクトというのは党派、簡単に言えば革命を目指す政治組織のこと。ノンは否定だから、党派ではない、政治組織ではないという意味、つまりもっと緩やかで各自の自発性を尊重したグループだが、実態は違っていた。
また、当時は党派ごとにヘルメットの色を変えて自分たちをアピールしていたが、なぜかノンセクトは黒となっていた。(赤も少しあったそうだ)
全共闘というのは、全学共闘会議の略語で、もともとは学生自治会に代わる臨時組織だ。学生自治会が手続き上の複雑さや執行部の反対などで、政治的な緊急課題に取り組めないときに臨時に作ったものが<全学連>として定着、70年安保をリードしていった。70年代後半の法大全共闘がどのように人的、思想的につながっているかはよく分からない。
自治会は中核派が法学部、文学部、経済学部、経営学部を支配し、社会学部と第二教養学部がノンセクト黒ヘルのメンバーが活動していた。活動家の数でいえばノンセクト黒ヘルのほうがはるかに多いし、各サークルでサークル活動もしていたので影響力は大きかった。ただ、影響力といっても学内課題が2つ3つ(夜間立ち入り禁止の問題、町田移転の問題、期末試験など)、学外課題が三里塚や解放運動だったりしたが、政治的な核になるメンバーが弱かったので(いなかったのかもしれない)、課題について学習したという記憶はほとんどなかった。
大学は、学生会館の運営費を学生会館管理委員会(正式名称は忘れた)に渡していれば黒ヘル全共闘はそれなりにコントロールできると考えていただろう。また、中核派が支配している自治会には自治会費を渡し(4学部だからかなりの金額だ、その上、当時の中核派の学生対策責任者のは裏金も貰っていたというから、ひどい話だ)、平和共存をしていたと言える。また、当時は中核派も黒ヘル全共闘との平和共存路線をとっていたように思える。(その後、対立し、ほとんどの黒ヘル全共闘メンバーが学外へとたたき出される。何人かは暴行を受けたと聞いた。たしか79年ごろの話だ)
と、ここまで書いて、大学時代、何をやっていたのだろうか、という気持ちになってきた。中核派の”革命的”暴力支配によってクラスでの自由な討論をジャマされた当事者としては、今さらながら残念だし、腹が立つ。
当時の法政大学にはきちんと問題意識を持った学生も多かったし、社会の雰囲気もまだ今よりもはるかに自由だった。彼らの暴力的な介入がなければ、クラスでそれなりのレベルでの討論や具体的な行動ができる土壌はあったと思う。このような学内での圧殺の構造は法政だけでなく、他の大学でも同じ事例がたさんあった。それを考えると、70年代半ばから後半にかけての運動の後退は、内ゲバ党派(中核派、革マル派、解放派)の責任が大きい。
自主管理をしている学生会館に入り浸りはじめたころ、僕も仕方なく黒ヘル全共闘のメンバーとして活動を始めるようになる。そして、三里塚でも開港=空港の使用開始という大きな山場を迎えようとしていた。
写真は、上が学生会館、下が三里塚の婦人行動隊、漫画の「ぼくの村の話」