幕末 水戸の天狗党のことは知ることは知ってたのですが
あまり詳しくは知らなかったので、それと中山道を歩いていて和田峠を越えたところに
ある水戸浪士の墓や、細久手の旅籠で切腹した部屋がまだあるとか・・中山道ととても
関係の深い、水戸天狗派、ちょうど和宮の下嫁の歩いた中山道と対照的にこの時期
天狗派の進行があったということは興味があるところでした。
桜田門外の変から4年、水戸藩が守旧派に実権を握られた水戸尊攘派は農民の兵も
ふくめて1000名あまりの兵を率いて筑波山に天狗勢を挙兵する。
幕府軍の追討を受け、京都にいる一橋慶喜をたより京都へのぼることを決意
攘夷断行を掲げ中山道を進む・・・
最後は慶喜に見捨てられ敦賀の地で降伏しとらえられ斬首・・
読んでいて、中山道の和田峠での戦い・・とか実際自分が歩いたところでの戦いなど
とても興味深く、歩いた宿場を思い浮かべながら読むことができた・・・
一番びっくりしたのは美濃で幕府軍(大垣藩、彦根藩)の戦いを避けるために
谷汲から越前大野へ冬の山越えを決意し、行軍をした
あのマサヒさんがよく行っていた、落ちると死ぬといわれてる温見峠を越していつた
ところ・・・
・・・・・やがてクラミの大難所にかかった、道の右手には荒々しい岩肌を露出した山が高々とそびえており、切り立った崖になってせまってきてる、道はその中腹を細々と刻まれていた・・
・・・道は右へ左へとくねくね上っている凹凸がはげしく、しかも道に岩が突き出ていて・・・
不意に馬がいななきともに弾薬庫をのせたまま谷底に落下していった。このままでは谷への転落者が増える・・・
先頭行くものたちが黒津村にたどり着いた・・
戸数は14戸でコメは取れず栃の実などで餅にして主食としていた・・
・・・・・・・・・・・・・
あの峠を馬や大砲を引っ張って800名の大行軍をしたとはすごい・・
それにしても、京都で長州と蛤御門の戦いや長州征伐が行われてる時に
幕末の目は西にいくのですが、水戸でもこのような混乱した歴史があったとは
・・ほんとにノーマークだった。