川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

「標高は4mです」。

2011-10-09 09:22:33 | 川越・近郊

10月8日(晴れ)

 妻と姉とのドライブの途中で富士見市の難波田城公園に寄りました。

  ●ciwww.ty.fujimi.saitama.jp/30shisetsu/11nanbadajyo/

 水塚というものがあることを「市民学芸員」の名札を付けた方が教えてくれ、水害にまつわる話をあれこれと聞かせてくれました。

 解説図とこの公園にある水塚の写真です。

『水塚』・・・・・・過去記事更新版難波田城公園②水塚

この辺りの水田の平均標高は4m位だといいます。これがえらく印象に残りました。東京湾から荒川を30~40kmさかのぼった辺りの標高が4mなのか。自転車で川越~葛西臨海公園を往復してもほとんどUP/DOWNがないのが頷けます。遠い昔は海であちこちに貝塚があるのですから当然といえば当然ですね。

 これでは大水が出たときに満潮と重なれば洪水被害が大きくなるのは自然のことです。

水塚を作って財力のある人たちはその上に倉を建てたのです。宅地は水田より約1m高く、水塚はさらに1・5m土盛りされています。つまり水塚の土盛りの頂までの標高は6・5m位です。災害時の緊急避難の場所として利用したのでしょう。倉には米や味噌などのほかお母さんの嫁入り道具などがしまってあったそうです。

 1910年(明治43年)の大洪水時のこの辺りの最高水位を示す表示が志木の郷土館にあるといいます。

     標高8195m

これでは水塚の上に逃げてもどうもなりません。当時の荒川・新河岸川の堤防は田面から2m位だったそうで洪水にはとても歯が立たなかったのでしょう。川越なども含めて大変な被害があったようです。荒川放水路の建設をはじめとする大治水工事が始まるきっかけになったようです。

 明治43年(1910)水害●http://www.ktr.mlit.go.jp/arajo/arajo00035.html

 水害に悩まされたこの辺りも今や穀倉地帯です。青山士(あきら)をはじめとする荒川改修に人生をかけた人々のことを改めて思ったことでした。

 それでも、とも思います。1000年に一度の天変地異にあったときこの広い広い平野はどうなるだろうか?遠い遠い昔、貝塚が作りあげられた時代のように海がここまで来てもおかしくはないのでは?

 今度は水子貝塚公園にも行ってみよう。

水子貝塚公園

  ●http://www.city.fujimi.saitama.jp/30shisetsu/10mizuko/