川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

今年も12月14日は「あの日を忘れない新潟港追悼集会」

2011-10-20 09:04:51 | 韓国・北朝鮮

移民政策研究所が主催する「あの日を忘れない!新潟港追悼集会」が今年も行われるそうです。

   12月14日(水)午後 (詳細未定)    新潟港中央埠頭

 1959年12月14日に始まった「北朝鮮帰国事業」で北に送られたまま犠牲になった人々を追悼し、日本人妻などの一日も早い帰国を実現するのが目的です。

 友人たちがこの日のことを忘れないでできれば新潟に駆けつけてくれますように早めにお知らせします。

 半世紀以上の年月が経ってしまったので社会の底辺に押し込まれた日本人妻のほとんどは亡くなられたと考えられます。それでも救いを待つひとびとはおられます。今すぐに手を差し伸べなければ後の祭りになってしまいます。

 心ある人々の新潟への結集を呼びかけます。詳しいことが決まり次第「川越だより」でもお知らせします。

2009年12月新潟港追悼集会

    ●http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/88fdf36f32241222725e5da63b127023

2010年12月新潟港追悼集会

  追慕・追悼   藤田勝久



 12月14日、午後1時半より、新潟西港中央埠頭にて追悼式が

行われた。
 
  51年前の1959年12月14日、午後2時9分に清津港に向け

船は出港して行った。

 その時刻、2時すぎに51年後の埠頭で「アリラン」を絶唱する女性は

オペラ歌手、田月仙さんである。

 彼女の声は、港の緑青色の冷たい波間を越えて港外遥か清津に

届くかのようであった。

 Iさんと話をする。

 「あの日、この港から船に乗りましたよ。 8歳でした。 何も分らず

はしゃいでいましたよ。 一家、10人で行ったのですよ。」

 坂中英徳氏が話をしている。

 「亡くなる前、日本婦人は、頭を日本に向けて埋葬するよう遺言した。」と。

 Iさんは言う。

 「うちのかあさんも、同じこと言いましたよ。 だけど、頭を日本に向けた

 ら見にくいと思って、こういう風に斜めにして、日本が見えるように埋葬しまし

 た。」 

 彼は、朝見かけた人が夕方には死んでいる1997年の大飢餓の時代に

 妻子を連れて脱北する。 2年後、ロシアを経て新潟空港に辿り着いた。

 港に来て埠頭に立ち寄ったが、その日、新潟は猛吹雪で彼の子供は必死で

彼の服を掴んで歩いていたという。

 軍役10年を勤めあげ頑健には見えるが、もう59歳、今後の平安を祈らず

 には いられない。

 Iさんは言う。

 「2,3年のうちに、あの国は解放されますよ。 間違いないですよ。」と。


(蛇足)脱北してきたAさんは「日本」は遺言でも禁句だから実際は「東海(トンへ)」と言ったとのことでした。「東海」は日本海を指す朝鮮語です。(けいすけ)

出典●http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/834add85a4b1aab1cc470ed5516ef873