怪しい中年だったテニスクラブ

いつも半分酔っ払っていながらテニスをするという不健康なテニスクラブの活動日誌

鈴木邦男・白井聡「憂国論」

2023-06-12 07:07:16 | 
本年1月に残念なことに亡くなられた鈴木邦男さん。2019年ごろから体調を崩されて活動は休止状態だったのですが、本格復帰することはありませんでした。
この本は2017年刊なので、まだまだ元気に活動していた頃に「永続敗戦論」で売り出した白井聡さんとの対談をまとめたもの。

もっぱら白井さんが時代状況を説明してそのうえで鈴木さんに当時の右翼の内実を聞いている。
かなりぶしつけな質問もあるのだが、そこは白井さん曰く「近くにいる人に不思議なくつろぎと安心感を与える大木のような」の鈴木さん、率直に真摯に答えている。
最初のテーマは、三島由紀夫と野村秋介。因みに白井さんは1977年生まれなので三島事件が起こった後に生まれている。
鈴木さんは三島事件に大きな衝撃を受け一水会を起ち上げているのだが、読んでいる三島と野村に対する深いリスペクトが分かる。三島も野村も自衛隊総監も朝日新聞社社長も殺していないのでテロではなくて自分の死をもって主張を訴えたと言う理解。
三島については文学者としての三島と楯の会の三島は明確に区分されいて、楯の会には三島の本など読んだことないものばかりを選抜している。三島には仮面の告白的指向は色濃くあるのだが楯の会にそんなことを持ち込まれた無茶苦茶になると言うのはよく分かる。政治運動としての楯の会は持田に変わり主導権を握った森田必勝に引きずられた面があるとか。文学者としての三島は、若い時から自殺願望的なところがあり何物にもとらわれない自由な発想がある。美輪明宏との関係性からもうかがえる。それでも鈴木さんには三島の同性愛的指向は見たくない現実なのだろう、その面については否定的ですが、なだいなだが紹介した三島の検視報告を見ていたはずでは。
野村秋介については事件の時はともかくほとんど印象が残っていなかったのですが、あの事件は死に場所を求めていた野村がいいタイミングで死をかけた主張をしたと言うことなのでしょうか。野村としては朝日新聞は個人的に知り合いの記者も多く一番取材を受けていたので、不倶戴天の敵ではなくある意味一番評価していたからこそだった…
三島と野村、二人ともテロについては肯定していたのだがテロリストにはならなかった。相手を殺したらただの人殺しになってしまうことを分かっていたのだと言うのが鈴木さんの見立て。
次に戦後の右翼、民族派の運動史・思想史に話は行くのだが、右翼というのは警察の分類用語で戦前戦中には自分たちは中道だと思っていた。60年安保闘争の頃に共産主義の浸透を恐れ対抗するためにヤクザやテキヤを政治結社として組織され、俺たちは右翼だと名乗るようになった。右翼を名乗ることによって公安警察には優遇され、警察の管轄が防犯担当から公安担当に替わることによってある意味庇護を受け優遇される。街宣車で大音量で更新し交通違反をしても見て見ぬふりをする。右翼は内部情報を提供し公安と一体となっていく。新右翼として旧来の右翼から決別した鈴木さんはその分公安にマークされ続けただけに公安の手口の話は具体的です。一時は赤報隊の事件での容疑者と思われたらしくアパートに放火されたこともあるのですが、その時公安は見張っていたはずなのに犯人を捕まえもせず見逃している。鈴木が焦って赤報隊と連絡を取るのではという狙いで仕掛けたと言うのですが、真相が解明されることはありません。でも公安なら何でもやりそうな闇がありそうですけど。
今いろいろ言われている日本会議については、左翼の運動を参考にして活動しているのだが、鈴木さんとは因縁浅からぬ人たちが中心メンバー。ある意味民族派学生のスターだった鈴木さんへのやっかみが原動力で、全国学協委員長追い落としから今までの保守が出来なかった運動を進め勝利してきている。ただ、白井さんは日本会議の人は暗くて陰湿だと言う印象と言っている。それは鈴木さんがカリスマ性をもって目立っていたからと言われると鈴木さんとしては苦笑するしかない。
この後議論は天皇の生前退位憲法改正、日本の行く先にまで進むのですが、白井さんの誘導に乗って鈴木さんの本音が出ています。ここから先は自分で読んでみてください。



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