怪しい中年だったテニスクラブ

いつも半分酔っ払っていながらテニスをするという不健康なテニスクラブの活動日誌

千田嘉博「城郭考古学の冒険」

2023-06-14 16:58:05 | 
今は空前のお城ブームで、BSでは日本の名城とかの番組が盛んに放送されている。
そんな時に必ず出演しているのが奈良大学教授の千田さん。お城と言えばこの人という感が強いのですが、いつもニコニコしてフットワーク軽くお城を歩き回り、そのキャラもあってご活躍、人気です。

ちなみにですが、千田さん大学卒業して名古屋市教育委員会に就職。見晴台遺跡で発掘調査の仕事をしていました。考古学はもっぱら資料のない時代の遺跡発掘がほとんどで、中世のお城などは考古学の対象とされないと言う考えで、千田さんが城の発掘に興味があるのには異端視されていたとか。敗戦によって軍事研究はタブー視されていたので、戦国時代と言えども戦いの拠点である城の発掘調査、研究は触れにくく、それなりに文献もあるので文献研究で十分と言うこともあったのでしょう。
でも文献資料があるにしても、公式文書は勝者の歴史であり、書かれていない重要なことも多く、なおかつ後世の脚色も多くてどこまで信じていいのか。それを考古学の手法で発掘調査して文献と突合していけば、真実の歴史が解明できるはずです。
千田さんはパイオニアとして城の発掘調査研究に取り組み、今日のお城ブームの礎を築いて行きました。
ところでお城と言っても古くは、吉野ケ里遺跡も堀と柵を備えた一種のお城ですし、古代の岡山の鬼ノ城とか宮城の多賀城も館を柵と堀で囲んだお城です。でも普通わたしたちがお城というと戦国時代末期からのもので、お城を見に行くと言うと天主・天守に登って満足しています。天主は信長が安土城築城に際して初めて作ったもので、お城としての本当に重要なところは領国統治・防御拠点としての縄張りであり、防御施設としての堀であり土塁とか石垣。
とは言っても江戸時代からの現存天守は12しかなくて、お城で一番目立つシンボルでもあるので行けば天守に登らなければ許さないからねとなるんですけど…
でも石垣は戦国時代からの積み方から織豊時代、江戸時代へと進化していくところが城によっては同時に見れますし、分かりやすいので覚えておく価値ありです。最近では金沢城へ行って来た時に石垣の右と左で時代の変遷が分かって感心した次第。もっとも石垣も大々的に取り入れられたのは信長の城以降で、それまでは主に土塁。関東などは石が調達しにくかったのか戦国期後半でも土塁です。
千田さんは最初に城の変遷の歴史を概括して、その鑑賞術を伝授。だんだんマニアックになってきます。
戦国時代、日本全国には地域、築城主体の差によってさまざまな城郭があって発展の可能性があったのだが、いま私たちの思い描く城は織豊系城郭がほとんど。近世城郭は構造の階層性と求心性が見られる。そうやって思うとなんだかんだと言えども織田信長は中世から近世への扉をこじ開けていったと思う。
そこでまずは城から見た織田信長を論述しているのですが、信長の城と言えば、清州城から小牧山城、岐阜城へと拠点を移し、最後は安土城を築城する。
小牧山城では城下町を持つ山城で山麓から山腹迄駆け上る直線大手道を持ち山腹からはそれまで尾張地方にはなかった高さ3~4メートルの堅固な石垣を積み重ねていった。石垣は今も小牧市が発掘調査していますが、実際に見ることが出来ます。のちに家康が小牧長久手の戦いの時に改修して防衛力強化を図っていますが、石垣は信長時代のものです。
岐阜城では山上に復元天守があるのですが、信長時代の石垣も残っています。さらに最近の発掘調査で大規模な山麓御殿があったことが分かってきました。山麓の御殿は公的な正式対面の御殿であり、山上の御殿は信長と家族が日常的に居住していた。それにしてもあの山の上に暮らしていたと言うのは足腰丈夫な人でも大変だったのでは。
安土城は今は石垣だけしか残っていませんが、発掘調査によって信長の意思の集大成だったことが分かってきています。その石垣は当時の最先端の技術を結集して、城郭の中心部を10メートルを超える高さで囲っている。安土城の家臣屋敷の配置からは信長との関係性が現れている。
城から見た明智光秀では、坂本城、亀山城、福知山城を取り上げている。そこにも縄張りを見ると光秀の家臣の関係が分かるのだが信長とは目指すものが違うことが分かるとか。残念ながら私は何れも行った事がありません。
城から見た松永久秀では、信貴山城と多聞城を取り上げている。この城郭構造を見てみると梟雄というイメージとは違って松永久秀は家臣に君臨したのではなく、家臣たちと連合的な性格を築いていたのが見えてくる。
城から見た豊臣秀吉では、大阪城と聚楽第を取り上げているのですが、聚楽第の調査からは秀次事件の真相が分かって来るみたいです。
城から見た徳川家康では、名古屋城の馬出しについて詳細に述べています。名古屋城の馬出し?名古屋城は何回も行っているしある時期は昼休みの散歩コースだったのですが、どこに馬出しにあったのか思い浮かばない。全体が広すぎて歩いている分には城の縄張りが分からないままだったんですね。その他岡崎城、浜松城、江戸城、駿府城と馬出市の変遷とともに家康の城を分析しています。
いろいろ全国各地の城が出て来て、私が行った事のある城も多いのですが、縄張りを詳しく見るわけでなく天守に登って満足していました。
因みに千田さんは観光優先で歴史、考古学的成果を無視した史実と違った城の復元には当然ながら批判的です。ただし完全復元と言っても今は軍事拠点を復元するのではなく文化財として整備するのであって、国民に文化と歴史を体感してもらうための復元整備。健常者に限定するのではなくバリアフリーを目指して整備していくべきと言っている。某市長は理解していないだろうな。
今度はこの本を熟読して縄張り、石垣、堀などと確認しながらじっくり城歩きをしてみたいものですが、実際にはすぐ諦めてしまいそう。

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