「エレニの旅」から10年。同じエレニでありながら、物語は続いていない。けれど、エレニの生きてきた長さは同じく深い。
これまでの台詞の極端に少ないロングシーン、ワンショットのアンゲロプロス作品とはかなり違う趣の「エレニの帰郷」。若い頃と老いた時代が交錯するオムニバス形式の本作は、エレニが主役であるが、その息子映画監督のAの視点で進行する。Aの母親エレニは学生の頃共産主義者として囚われ、脱走する。しかし亡命先のソ連シベリアで収容され、恋人スピロスが苦難の道を歩み救いに来る。時はちょうどスターリンの死去を伝える1953年。スターリンの死にむせび泣く民衆も帰り、路面電車にひそんで逃げる時を待っていた二人は情交の声のために見つかり捕えられてしまう。再び離れ離れになった二人が再開するためには、56年のスターリン批判を経て74年のオーストリア越境まで待たなければならなかった。しかしスピロスを追ってニューヨークに渡ったエレニ、彼女を愛するシオニストのヤコブも寄り添うなか、エレニが見たのはほかの女性と暮らすスピロスの姿だった。
ベルリンの壁が崩れ、久しぶりに息子Aに会いにくるエレニには夫スピロスが寄り添い、彼らのベルリン訪問を聞きつけたヤコブも会いにくる。「恋敵」のスピロスとヤコブも今や仲のいい好々爺。しかし、何かわだかまりがあるし、体調を崩していたエレニは息絶え、ヤコブも自ら命を絶つ。離婚後娘の情緒不安定に翻弄されていたAは娘の無事は確認するが、母を失う。
ギリシアを舞台に壮大な抒情詩を描き続けてきたアンゲロプロスの本作にはギリシアが前面には出てこない。しかし、「エレニの旅」がディアスポラ(離散民)を描いた傑作であったように「帰郷」もはやりディアスポラという主題からは逃れられない。ヤコブは解放されたときユダヤ人として約束の土地イスラエルに還ることもできたのに、愛するエレニのそばにいたかったため、そうはしなかった。そうしてユダヤ人としてのアイデンティティを持ちながら「祖国」の土を踏まなかったヤコブ。一方エレニは女子大生の時テサロニキに囚われていたことからギリシア人のようにも見える。そうするとスピロスもギリシア人だが、二人を描くギリシアの影はない。
Aは冒頭ローマの映画撮影所を走り回っている。そしてAと3人が再会し、Aの娘が保護されるのはベルリンである。Aの自宅もベルリンのようで、Aの元妻も出てくるからドイツ人か。この映画がアンゲロプロスの描くディアスポラの系図に連なると考えたのは、誰もが祖国におらず、あるいははっきりしないことである。しかもエレニらは一時ニューヨークに滞在しているし、Aが母エレニに成人して初めて会うのはアメリカ=カナダ国境である。
ヨーロッパは地続きであるため、容易に異動し、また分離する柵を設ける。そこを越え、また越えられないディアスポラは、地理的にディアスポラであることはもちろん時に意志的に、意識的にディアスポラでもある。あるいは余儀なくされる。今回ヨーロッパの枠組みを超えユーラシア大陸という巨大な地勢で物語を描きつつ、1950年代から20世紀の終わりまでエレニという一人の女性と彼女を取り巻く人たちの「戦後」も描いた本作は、社会主義を弾圧したギリシア、シオニズムによりパレスチナアラブの民に「分離壁」を強いたイスラエルをも想起させ、あるいはニューヨークというアメリカの象徴が多くの亡命ユダヤ人を受け入れ、許容しあるいは差別してきた歴史さえも地続きであると示してくれる。
世紀が変わるお祭り騒ぎの中で、「戦後」を生き抜いたエレニとヤコブは静かに生を終える。しかし、エレニの抱擁により生き続ける望みを見出したかのように見えたAの娘ら若い世代にディアスポラの歴史が伝えられることを、そして何故のディアスポラかが伝えられることを想起させる本作に、古くはギリシア叙事詩からの題材までも描いたアンゲロプロスの遺言と思えてならない。そして、差別、分離、離別、抵抗…。民主主義の構築を経験し続けるヨーロッパの強靭な挑戦さえも本作は内包している。
翻って、政治の世界から戦争を知る人たちが去り、「戦後も終わった」「日本を(戦前に?)取り戻す」と威勢のいい人たちが政権の中枢に座り、歴史修正主義的発言を繰り返す日本。沖縄問題は世界標準からみれば民族問題と喝破した佐藤優氏の言に倣い、そのような歴史修正主義者らに本作を突きつけたい。この国でもディアスポラはあり、しかし一切直視してこなかったのではないかと。
これまでの台詞の極端に少ないロングシーン、ワンショットのアンゲロプロス作品とはかなり違う趣の「エレニの帰郷」。若い頃と老いた時代が交錯するオムニバス形式の本作は、エレニが主役であるが、その息子映画監督のAの視点で進行する。Aの母親エレニは学生の頃共産主義者として囚われ、脱走する。しかし亡命先のソ連シベリアで収容され、恋人スピロスが苦難の道を歩み救いに来る。時はちょうどスターリンの死去を伝える1953年。スターリンの死にむせび泣く民衆も帰り、路面電車にひそんで逃げる時を待っていた二人は情交の声のために見つかり捕えられてしまう。再び離れ離れになった二人が再開するためには、56年のスターリン批判を経て74年のオーストリア越境まで待たなければならなかった。しかしスピロスを追ってニューヨークに渡ったエレニ、彼女を愛するシオニストのヤコブも寄り添うなか、エレニが見たのはほかの女性と暮らすスピロスの姿だった。
ベルリンの壁が崩れ、久しぶりに息子Aに会いにくるエレニには夫スピロスが寄り添い、彼らのベルリン訪問を聞きつけたヤコブも会いにくる。「恋敵」のスピロスとヤコブも今や仲のいい好々爺。しかし、何かわだかまりがあるし、体調を崩していたエレニは息絶え、ヤコブも自ら命を絶つ。離婚後娘の情緒不安定に翻弄されていたAは娘の無事は確認するが、母を失う。
ギリシアを舞台に壮大な抒情詩を描き続けてきたアンゲロプロスの本作にはギリシアが前面には出てこない。しかし、「エレニの旅」がディアスポラ(離散民)を描いた傑作であったように「帰郷」もはやりディアスポラという主題からは逃れられない。ヤコブは解放されたときユダヤ人として約束の土地イスラエルに還ることもできたのに、愛するエレニのそばにいたかったため、そうはしなかった。そうしてユダヤ人としてのアイデンティティを持ちながら「祖国」の土を踏まなかったヤコブ。一方エレニは女子大生の時テサロニキに囚われていたことからギリシア人のようにも見える。そうするとスピロスもギリシア人だが、二人を描くギリシアの影はない。
Aは冒頭ローマの映画撮影所を走り回っている。そしてAと3人が再会し、Aの娘が保護されるのはベルリンである。Aの自宅もベルリンのようで、Aの元妻も出てくるからドイツ人か。この映画がアンゲロプロスの描くディアスポラの系図に連なると考えたのは、誰もが祖国におらず、あるいははっきりしないことである。しかもエレニらは一時ニューヨークに滞在しているし、Aが母エレニに成人して初めて会うのはアメリカ=カナダ国境である。
ヨーロッパは地続きであるため、容易に異動し、また分離する柵を設ける。そこを越え、また越えられないディアスポラは、地理的にディアスポラであることはもちろん時に意志的に、意識的にディアスポラでもある。あるいは余儀なくされる。今回ヨーロッパの枠組みを超えユーラシア大陸という巨大な地勢で物語を描きつつ、1950年代から20世紀の終わりまでエレニという一人の女性と彼女を取り巻く人たちの「戦後」も描いた本作は、社会主義を弾圧したギリシア、シオニズムによりパレスチナアラブの民に「分離壁」を強いたイスラエルをも想起させ、あるいはニューヨークというアメリカの象徴が多くの亡命ユダヤ人を受け入れ、許容しあるいは差別してきた歴史さえも地続きであると示してくれる。
世紀が変わるお祭り騒ぎの中で、「戦後」を生き抜いたエレニとヤコブは静かに生を終える。しかし、エレニの抱擁により生き続ける望みを見出したかのように見えたAの娘ら若い世代にディアスポラの歴史が伝えられることを、そして何故のディアスポラかが伝えられることを想起させる本作に、古くはギリシア叙事詩からの題材までも描いたアンゲロプロスの遺言と思えてならない。そして、差別、分離、離別、抵抗…。民主主義の構築を経験し続けるヨーロッパの強靭な挑戦さえも本作は内包している。
翻って、政治の世界から戦争を知る人たちが去り、「戦後も終わった」「日本を(戦前に?)取り戻す」と威勢のいい人たちが政権の中枢に座り、歴史修正主義的発言を繰り返す日本。沖縄問題は世界標準からみれば民族問題と喝破した佐藤優氏の言に倣い、そのような歴史修正主義者らに本作を突きつけたい。この国でもディアスポラはあり、しかし一切直視してこなかったのではないかと。
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