
民主主義は定義が難しい。国家の意思決定を主権者たる構成員の国民が行う、と言っても…
国民が主役の民主主義は、国民が選択した国家(権力)の行為に普段の監視を続けなければならないし、国家が過ちを犯した場合はその過ちを検証・反省しなければならない。という行為を永遠にし続けることこそが民主主義足る所以であろう。であるならば、アメリカは日本より大分民主主義「度」が進んでいると思わざるを得ない。
国家として歴史の浅いアメリカは、大英帝国からの自由を求めて、宗教的にはカトリックの規範を破った英国独自のキリスト教の自由度を嫌い、海を渡りつくられた国である。アメリカが認めた自由はアフリカから大量の黒人奴隷を「輸入」する自由であり、求めた自由は人間は皆平等であるという民主主義を叶える自由であった。
しかし、多種多様な市民の合意を形成していくという民主主義のルールは、時に富や財、己の欲望を実現するためなら他者を差別しても構わないとする自由主義と衝突する。その争いによって統一を目指したのが南北戦争であり、奴隷制度という人間の尊厳を根本から否定した前近代的価値観を墨守するか打破するかの相克であった。
そもそも奴隷ではない「自由黒人」であったソロモン・ノーサップ自身、自由でない黒人がいることを前提にその身分が保証されていたのであるから、同じ黒人、いや人間の中に差別が存在することを認めていたのと同様である。しかし、奴隷を人間ではなく所有物としていた支配層たる白人こそここでは責められるべきであろう。そして、ノーサップが白人に騙されて奴隷にされるところから物語は始まる。
最初の主人フォードは温厚で、プラット(ノーサップに無理やり付けられた奴隷名)を頼りにする。がそれが面白くないフォードの下で働く大工のティビッツに目の敵にされ、ついに命まで奪われそうになる。プラットをティビッツから遠ざけるため、フォードは彼を綿花畑の所有者エップスに売る。フォードにとっても奴隷はやはり売買する所有物にすぎなかったのだ。アカデミー賞受賞作とあって、作品そのものも意義深いが、俳優陣がすばらしい。なかでも、プラットら黒人を恐怖で支配し、若い女性奴隷パッツィーを性的にも搾取する卑劣極まりない綿花農園主エップスを演じたマイケル・ファスベンダー。「ジェーン・エア」(シンプルな筋立てに普遍性を実感 「ジェーン・エア」http://blog.goo.ne.jp/kenro5/e/b6ec3bbbc9f387aa9a1c878380eba6e7)で暗く陰のある、そして狂気も内包したようなロチェスターを演じたファスベンダーは、本作の監督スティーヴ・マックィーンの出世作「SHAME シェイム」でセックス依存症の男を演じた怪優であり、名優である。それに賢さ、機転、能力のどれをとっても自分にはないため白人というだけの優越性でプラットを虐げるティビッツを人品卑しく演じたポール・ダノも抜群。助演女優賞を射止めたパッツィー役のルピタ・ニョンゴもはまっていた。
南北戦争で勝利する北部連合リンカーン大統領が奴隷解放宣言をしたのが1862年。ノーサップの囚われた12年の最終年はそれより10年も以前だが、それほど夥しい数のプラットらが国家として解放を宣言されるのに10年もかかったということでもある。日本では江戸幕府末期の時代、封建時代の身分制度が否定されたのは、明治になってから。しかし言うまでもなく天皇制を抱いた「近代」国家日本は皇族という特別の身分を保ち、被差別(民)をも形成した。
黒人を奴隷から解放したアメリカに黒人差別がいまだなくなっていないことは自明である。しかし、近代化の過程で自らの国家が犯した過ちをたとえ映画というエンタテイメントの手法によっても直視しようとした国との違いは大きい。
本作の日本タイトルは「それでも夜は明ける」。ノーサップの決してあきらめない思いを表しているであろうが、やはり「12 YEARS A SLAVE(12年、奴隷として)」でいいのではないだろうか。
国民が主役の民主主義は、国民が選択した国家(権力)の行為に普段の監視を続けなければならないし、国家が過ちを犯した場合はその過ちを検証・反省しなければならない。という行為を永遠にし続けることこそが民主主義足る所以であろう。であるならば、アメリカは日本より大分民主主義「度」が進んでいると思わざるを得ない。
国家として歴史の浅いアメリカは、大英帝国からの自由を求めて、宗教的にはカトリックの規範を破った英国独自のキリスト教の自由度を嫌い、海を渡りつくられた国である。アメリカが認めた自由はアフリカから大量の黒人奴隷を「輸入」する自由であり、求めた自由は人間は皆平等であるという民主主義を叶える自由であった。
しかし、多種多様な市民の合意を形成していくという民主主義のルールは、時に富や財、己の欲望を実現するためなら他者を差別しても構わないとする自由主義と衝突する。その争いによって統一を目指したのが南北戦争であり、奴隷制度という人間の尊厳を根本から否定した前近代的価値観を墨守するか打破するかの相克であった。
そもそも奴隷ではない「自由黒人」であったソロモン・ノーサップ自身、自由でない黒人がいることを前提にその身分が保証されていたのであるから、同じ黒人、いや人間の中に差別が存在することを認めていたのと同様である。しかし、奴隷を人間ではなく所有物としていた支配層たる白人こそここでは責められるべきであろう。そして、ノーサップが白人に騙されて奴隷にされるところから物語は始まる。
最初の主人フォードは温厚で、プラット(ノーサップに無理やり付けられた奴隷名)を頼りにする。がそれが面白くないフォードの下で働く大工のティビッツに目の敵にされ、ついに命まで奪われそうになる。プラットをティビッツから遠ざけるため、フォードは彼を綿花畑の所有者エップスに売る。フォードにとっても奴隷はやはり売買する所有物にすぎなかったのだ。アカデミー賞受賞作とあって、作品そのものも意義深いが、俳優陣がすばらしい。なかでも、プラットら黒人を恐怖で支配し、若い女性奴隷パッツィーを性的にも搾取する卑劣極まりない綿花農園主エップスを演じたマイケル・ファスベンダー。「ジェーン・エア」(シンプルな筋立てに普遍性を実感 「ジェーン・エア」http://blog.goo.ne.jp/kenro5/e/b6ec3bbbc9f387aa9a1c878380eba6e7)で暗く陰のある、そして狂気も内包したようなロチェスターを演じたファスベンダーは、本作の監督スティーヴ・マックィーンの出世作「SHAME シェイム」でセックス依存症の男を演じた怪優であり、名優である。それに賢さ、機転、能力のどれをとっても自分にはないため白人というだけの優越性でプラットを虐げるティビッツを人品卑しく演じたポール・ダノも抜群。助演女優賞を射止めたパッツィー役のルピタ・ニョンゴもはまっていた。
南北戦争で勝利する北部連合リンカーン大統領が奴隷解放宣言をしたのが1862年。ノーサップの囚われた12年の最終年はそれより10年も以前だが、それほど夥しい数のプラットらが国家として解放を宣言されるのに10年もかかったということでもある。日本では江戸幕府末期の時代、封建時代の身分制度が否定されたのは、明治になってから。しかし言うまでもなく天皇制を抱いた「近代」国家日本は皇族という特別の身分を保ち、被差別(民)をも形成した。
黒人を奴隷から解放したアメリカに黒人差別がいまだなくなっていないことは自明である。しかし、近代化の過程で自らの国家が犯した過ちをたとえ映画というエンタテイメントの手法によっても直視しようとした国との違いは大きい。
本作の日本タイトルは「それでも夜は明ける」。ノーサップの決してあきらめない思いを表しているであろうが、やはり「12 YEARS A SLAVE(12年、奴隷として)」でいいのではないだろうか。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます