喜久家プロジェクト

日本一細長い半島、四国最西端「佐田岬半島」。 国内外からのボランティアとともに郷づくり「喜久家(きくや)プロジェクト」。

陰山英男コラム ~ しっかりとした生活習慣 ~

2011-06-13 | ブログ
 100マス計算で有名な陰山英男さんのコラムにこんなものがありました。

『ある市で学力の伸びた子の要因分析をしてもらった。
勉強時間を増やすより効果的なのは、朝食をしっかりと食べることだとわかった。
 朝ご飯の大切さを言ってきた私としては喜んでいいはずだが、
どうも喜べない。

 なぜなら、教師としてのあの努力はいったい何だったかということ。
しかし、こんなことすら知られないまま日本の教育は進んでいたのだ。』

 基本的な生活習慣をしっかりとすることが
勉強や仕事の力の源だということです。
 このことは、家庭の役割。

 「習慣は、才能に勝る」
と言われます。

 それを考えると、
太陽の動きとともにある田舎の生活はとてもすばらしいものです。

 今夜は、久しぶりの晴天。
きれいな星が見えるでしょう。

 そして眠りにつきます。

年輪塾 二宮金次郎調査報告会

2011-06-11 | ブログ
私が所属している年輪塾の集まりが、間もなく若松進一塾長の人間牧場で開かれます。 内容は、愛媛県内の二宮金次郎像の調査報告会です。 二宮金次郎の生き方を学ぶことを通して、自分自身の生き方をよりよくしていくことをめざしています。 自分がかわることで、家族が、職場が、地域が、日本が、世界が、未来が、少しでもよりよく変わったらいいなと思っています。この報告は、のちほどまた。

誕生日への思い

2011-06-11 | ブログ
先日、誕生日を迎えた姉にお祝いメールをしました。それに対して次のような返信がありました。『ありがとう〓45歳でぇ
歳に追い付いて行けないギャップがあり、信じられんわ~悲しみと喜びで始まった人生折り返しの40代
産み出してくれた両親とご先祖様に感謝して〓〓ボチボチ、ゆっくりと、ステキに歳を重ねられたらと思ってます』 歳を重ねるとは、肉体的には弱っても、精神的には豊かになっていくことなのでしょう。 感謝の気持ちが積み重なっていくことなのでしょう。 そう考えると、いくつになっても輝いていけます。

伊方町 「田村菓子舗」 三代目と息子

2011-06-10 | ブログ
 先日、息子の誕生日に書いたブログにたくさんの反響とメッセージがありました。
 まだ1歳になったばかりの息子が手術をし、
命の大切さと回りの人たちへの感謝を書いた内容でした。
 
 そして今日もまた田村菓子補の三代目から、
本当にすてきなメッセージをいただいたのでぜひ紹介したいと思います。

『人の気持ちがわかる!!! (三代目)
2011-06-10 01:15:14
 
 私は2歳で斜視になり、小学校3年生まで失明の危険をはらみながらすごしてきました。
左、右、左と三回の手術。
鼻はアレルギー性鼻炎、肌はアトピー。
病院通いの毎日。
 祖父母が倒れ両親はお金を稼ぐので忙しい日々。
私達兄弟は夏休みも保育園。
でも、現象的にはマイナスかもしれない、でもそんな困難を家族で兄弟で乗り越えてきた。

 気づけば仲間の中心にあってリーダーシップをとるような立場になっていた。
小学生の時は姉が児童会長、私は落ちこぼれ、いつも児童会で問題児。
後輩をつれて、二名津の船を飛び回り、屋根を飛び回り、夏は人家に向けてロケット花火を投げ込んだ。
 
 でも、自分の中に芽生えた誰よりも二名津が好きという気持ち、自分の故郷を守りたい、人を大切にしたい。
私のリーダーシップはいつもボトムアップ。
輪の中に入れない人たちに寄り添いながら共に歩んできた。

 この年になり無呼吸症候群であることがわかった。
プラスの面をみれば、私はとても幸せ。
愛する家族はみんな健康、お金はなくても仲間がいて、自分の好きなことができる。
超幸せな人生。
 時には誰かに寄り添い、時には共に涙し、時には叱咤激励する。
そんな熱い人生でありたいと願う。

 高校卒業のとき、私は地域のためにという思いで大学に進学、
仕事がないから愛する地元で働けない友人達の話を聞きながら、
自分が家業を発展させ地域の雇用の受け皿になるんだと頑なに己を信じわが道を突き進んだ。
 その時の私のスローガンは、
「人は何ともいはば言え、我なすること我のみぞ知る」
大好きな坂本龍馬の若かりし時の短歌。
自分ががんばれば世の中かが変わる、世界が変わるとそう思っていた。

 でも、この年になり初めてわかる。たくさんの人の支えの中で生かされていると。
最近は考え方が変わり、
「縁ありて花開き、恩ありて実を結ぶ」である。
家族の人の優しさの中で生かされていると感じる。

 そして、一番大切なのは「人」。
 戦国時代の武将、武田信玄は他の大名達が堅固な山城を開く中、ただ一人、平城を作っている。
それは彼の考え方が「人は石垣、人は城」という考え方があったからだ。
どんなに財を使い、堅固な城を築こうとも人の結束にはかなわない。
 同じ理念、ビジョンを共有したときに歴史が変わり、人が変わる。

 適材適所という言葉があるがそれももう昔の話。
私が思うのは、適材適所+αで適時と思う。
人間の力は知れている。
時がかなわなければうまく回らないだろう。

 くどくなってごめんなさい。
長所と短所は裏返し。
それをどうとらえるか。

 むー君の人生にとってそんな経験は必ずプラスになると思う。
 世の中無駄なものは何一つない。
犯罪ですらこの世の中をよくする為におこっている。

 むー君と酒を飲む日が来ることを思い、
先輩や後輩に恥じない生き方を言葉でなく行動で示そうと思う。』

 息子と三代目の歳の差は、約20歳。
そんな兄ちゃんからこんなに思ってもらえているのです。
うれしいです。本当、うれしいです。

 起こったできごとは、もう変えることはできませんが、
自分の気持ちは、いくらでも変えることができます。
 気持ち一つで、マイナスと思えるできごとに対してでも
勇気と元気がわいてくることもあります。
 そんな気持ちをこの田舎で育んでいきたいと思います。

 息子が酒を飲めるまで、あと6年です。

 

思い出のホンダXLRバイク

2011-06-09 | ブログ
 昨日、大洲市二宮自転車さんに息子の自転車を届けてもらったついでに、ぜひみてもらいたいものがあった。
それは、22年も前に買ったオフロードバイク。
大学時代は、これで福岡から帰省したり、全国を走り回った。
社会人になり、車を買ってからは、めっきりと乗る機会が減った。
最後に遠出したのは、25歳の時、富士登山をするために走った時だ。

 結婚して、家庭をもってからはますます減り、車庫の奥でほこりをかぶっていた。
かつての輝きはなく、まさにいつ廃車になってもおかしくない状態。
 そんなおり、東日本大震災で壊滅した街をたくましく走るオフロードバイクが注目された。
その光景が、心に灯をつけた。
また、このバイクで走ってみたいと思った。

 そんないきさつがあり、二宮自転車さんに修理できるか聞いてみた。
バイクを見回し、触ってみて、すぐに返事がかえってきた。
「まだまだ十分走りますよ。」
「今のバイクはコンピュータ制御が多く、修理もたいへんだが、
昔のバイクは単純なつくりなので長持ちする」とのこと。
それを聞いて、とてもうれしかった。

 このバイクが再び輝きをとり戻し、自然いっぱいの田舎を走る日は近い。

ミヤタ自転車が平磯に届く

2011-06-09 | ブログ
 我が家に自転車はない。
中2の息子は、ふるさと平磯に引っ越してからどこへ行くにも歩いていた。
時には、ムネの峠を越えて二名津へ。
時には道路を走って。
片道4キロ。

 誕生日祝いに祖父母が自転車をプレゼントしてくれることになった。
しっかりとしたものを長く使いたいため、知り合いの大洲市の二宮自転車さんに相談。
さまざまな条件を考えると、一番しっかりとしたミヤタ自転車の7段変速を買うことになった。
ミヤタ自転車は、老舗の一つで、フレームの強さにこだわりと自信を持っているとのこと。
さすが「餅は、餅屋に」と思った。

 二宮自転車さんのくわしい説明で、息子もずいぶん納得し、届くことを心待ちにしていた。
モノを持つには、こんな気持ちが大切だと思う。
モノ作りされる人の考えにふれ、そのこだわりのすばらしい製品を手にする。
だから、大切にしようと思う。
 たんなるお金とモノの交換ではなく、作られる人や、販売される人の思いもいただきたいものだ。

 使い捨ての時代は、もう時代遅れだと思う
息子は、さっそく自転車に乗っていた。
ペダルをこぐ足も心も軽快だった。
自転車がやってきたこの日は、思いでの一つとして残るだろう。

喜久家にオーストラリア人のボランティア

2011-06-08 | ブログ
3ヶ月ぶりに喜久家にボランティアが来てくれました オーストラリア人の女性。 日本が大好きで、名古屋にも一年交換留学していたそうです。 シドニーに帰っても日本航空支店で働いていました。 そしてもう一度、日本に来て働きたいという希望をもち、日本へ。 そして、初めてのボランティア活動を日本の田舎でやってみたいということで、喜久家を選ばれたのです。 本当、前向きですてきな女性です。 新たに平磯とオーストラリアとのつながりができていきます

童謡 「グリーン・グリーン」

2011-06-08 | ブログ
 誰もが知っているリズミカルな「グリーン・グリーン」
松山への出張中、双海町の海岸道路を走っていたとき、
ラジオから流れてきた。

 一緒になって歌っていると、
この曲の本当の意味を知った。

 歌詞とたぶり、
 私自身と父親ともとれたし、
私自身と息子ともとれた。
 涙が出てきた。

 どうぞ歌ってみよう。 


1 ある日
  パパとふたりで 語り合ったさ
  この世に生きる喜び
  そして 悲しみのことを
  グリーン グリーン
  青空には 小鳥が歌い
  グリーン グリーン
  丘の上には ララ 緑がもえる

2 その時
  パパが言ったさ ぼくを胸に抱き
  つらく悲しい時にも ラララ 泣くんじゃないと
  グリーン グリーン
  青空には そよ風ふいて
  グリーン グリーン
  丘の上には ララ 緑がゆれる

3 ある朝
  ぼくは目覚めて そして 知ったさ
  この世に つらい悲しいことがあるってことを
  グリーン グリーン
  青空には 雲が走り
  グリーン グリーン
  丘の上には ララ 緑がさわぐ

4 あの時
  パパと 約束したことを守った
  こぶしをかため 胸をはり
  ラララ ぼくは立っていた
  グリーン グリーン
  まぶたには なみだがあふれ
  グリーン グリーン
  丘の上には ララ 緑がぬれる

5 その朝
  パパは出かけた 遠い旅路へ
  二度と 帰って来ないと
  ラララ ぼくにもわかった
  グリーン グリーン
  青空には 虹がかかり
  グリーン グリーン 
  丘の上には ララ 緑がはえる

6 やがて
  月日が過ぎゆき ぼくは知るだろう
  パパの言ってた
  ラララ 言葉の意味を
  グリーン グリーン
  青空には 太陽がわらい
  グリーン グリーン
  丘の上には ララ 緑があざやか

7 いつか
  ぼくも 子供と 語り合うだろう
  この世に生きる喜び
  そして 悲しみのことを
  グリーン グリーン
  青空には かすみたなびき
  グリーン グリーン
  丘の上には ララ 緑がひろがる


「パパは出かけた 遠い旅路へ
  二度と 帰って来ないと
  ラララ ぼくにもわかった」
 パパは、どうなったのだろうか?
 病気だろうか、戦争へだろうか、離婚だろうか?
さまざまなことが思い浮かぶ。

 でも僕は、パパとの約束を守り、
辛くても悲しくても泣くことなく、
こぶしをかため、胸をはり、立っていた。

 家族が一緒に暮らせることは、
何よりの幸せだと感じる。

四国最西端の田舎平磯の休日

2011-06-06 | ブログ
 昨日日曜の朝、雨がしとしと降っていた。
雨が緑の葉をますます深くしている。

 特に職場に行く用事もなく、落ち着いた休日。
雨を見ながら、ゆったりとした朝食。

 その後、やり残した仕事をするため、地下室の書斎へと降り、昼過ぎまで没頭した。
一区切りついたため、地下からはい出てきた昼下がり。
雨は上がり、日差しが降り注ぎ、なま暖かい空気が部屋を通り過ぎる。
冷えた缶ビールを片手に、バルコニーでグイッと一杯。

 ちょっと体を動かそうと思い、玄関先から道路へと続く小径を50メートルほど掃き掃除。
雨上がりの木々の匂いが鼻につく。
初夏の匂いだ。
きれいになった小径を歩きながら、はるか昔の往来を想像する。

 お金を使わない田舎の休日。
それなのに、とても満たされた時間。
豊かな生活。

 気持ち一つで人生が変わるようだ。

月桃の花 ~ガマ~

2011-06-05 | ブログ
東温市安国寺の浅野泰厳和尚さまから映画のお誘いを受けました。
 沖縄戦をえがいた、月桃の花~ガマ~。
沖縄戦では、多くの民間人が犠牲になりました。
 
 映画は、本当のフィルムを交えながら、その壮絶さを伝えています。
避難所となった自然の鍾乳洞であるガマでも、集団自決などの痛ましい様子がありました。
 その一方で、生き抜くたくましさを胸をしめつけるような強さで伝えています。

 今、自分が生きていることを深く考えずにはいられません。
 娘のひかると2人で二時間半かけて、観に行きました。
帰りの車の中で映画を振り返りながら、さまざまな話をしました。

「お父さん、私が生きちょるのはすごいことなんよな。」
という娘の思いが心に残っています。

平礒で迎える誕生日

2011-06-04 | ブログ
 昨日6月3日は、息子の14歳の誕生日。
ふるさと平礒で迎える初めての誕生日。
 娘のさやかが
「じいちゃんとばあちゃんも呼んでくる」
と言って、にぎやかな誕生会となりました。

 田村菓子舗の三代目よっくんが作ってくれたケーキ。
名前入りの真心こもったメッセージが、ジーンときました。


 続いて、娘ひかるの進行で、ハッピーバースデーの歌へと。


 そして武蔵がろうそくを吹き消します。


 ケーキをめったに食べないじいちゃんも、この日は孫の誕生日を祝って久しぶりに食べました。


 我が家では、誕生日を「感謝の日」としています。
 誕生日を迎えた人が、回りの人に感謝する日です。

 息子は、生まれて数ヶ月経った定期検診で、心室中隔欠損症と診断されました。
心臓をへだてている壁に小さな穴が開いていて、血液が逆流するという病気です。
1000人に3人ほどの割合で見られ、そのうち半数の人は成長するるにつれふさがります。
 息子の場合は、それがふさがる可能性がないため心臓手術をすることになりました。
1歳を迎えてすぐのころでした。

 夏休み、妻は松山の日赤に泊まりこみ、
私は仕事が終わって松山まで通うという日々が続きました。

 手術の日、私たち夫婦、妻の両親、私の両親、妹が見守る中、
白い手術服を着た息子は、診察台に乗せられ、手術室に入っていきました。
妻の母は
「まだあんなに小さいのに、むげなや」
と言って涙を流していました。
私の両親は、手を合わせて祈っていました。
 私も初めて自分の命と引き換えになるようなことがあれば、そうしたいと思いました。
きっとみんなそう思っていたでしょう。

 それから何時間経ったでしょうか。
手術室から医師が出てこられ、
「無事終わりました。どうぞ会ってください。」

 居ても立ってもおられず妻と一緒に手術室に急ぎました。
手術台には、麻酔のためか目がとろーんとした息子が、上半身裸でちょこんと座っていました。
お腹からは何本かの管が通され、痛々しい姿でした。
それでも私たち7人は、無事終わったことを喜び、涙したことを覚えています。

 そんな息子がはや14歳。
月日が経つのは早いものですが、そんなことがあったことを忘れません。

 1年に1度の誕生日。
今こうして自分があるのは、回りの人のおかげ。
そんなふうに感謝する日が、誕生日であっていいと思います。

 終わった後、息子と2人でそんな話をし、深い眠りにつきました。
 
                   岬人(はなんちゅう)

喜久家プロジェクト ~ドイツのジェナイとの再会~

2011-06-04 | 喜久家の情報


 3年ぶりの再会です。

 積もる話が、山ほどありました。

 新居に寄ってもらったので、家の話をしました。
 ドイツでは、石造り(れんが造り)の家が多く、
築100年を超えるような家は、法律により保存されるしくみができているようです。
壁などが厚く、自然にとけこむ作りとなっているので、光熱費も少なくて済むとか。

 それに比べ日本では、一部で古民家再生という取組はあるものの、
ほとんどは古くなったら建てかえるという消費型になっています。

 私のふるさと平礒では、まだまだリサイクル型社会が残っており、
家はリフォームして長く住まうことが多いです。

 日本の木造の家は、
香りが良くとてもすばらしいとほめてもらいました。

 このような話が、止まることなく盛りあがり、夜はふけていきました。

 本当になつかしい。

 そして今度は私がドイツに行くことを約束してお別れをしました。
夢は広がります。

           岬人

ドイツのジェナイ

2011-06-02 | 喜久家の情報
 3年前、3ヶ月間喜久家ボランティアとして活動してくれたドイツのジェナイ。

 彼女が昨日から喜久家に来てくれています。
 昨夜は、消防団の集まりに参加し、そのままスナック「ゆり」に行ったようです。
考一あんちゃん、恒吉あんちゃん、吉三郎あんちゃんと。

 本当にすばらしいつながりです。
今夜は、僕も会いに行きます。

               岬人

花のように美しい城下町 ~ 松山 ~

2011-06-01 | ブログ


 愛媛県庁本館の県民プラザに張られていたポスターです。
松山は、美しいまちです。

 花をちりばめたように輝く灯り。
その中心に小高い山があります。
そこに松山城が建っています。

「春や昔 十五万石の 城下かな」
という句を詠んだのは、松山市出身の正岡子規(1867~1902)。

 この句は、明治28年(1895)春、
日清戦争の従軍記者として出征するため、
東京から一時帰省した時に詠んだ句です。

 ひさしぶりに帰郷した際、
松山市の中心におわんを伏せたようにたたずむ、
勝山(標高132m)山頂の松山城に上り、
城下を見渡して、昔に思いをはせて、懐かしみ詠んだ句です。

 松山藩は、伊予松平藩十五万石の徳川親藩です。
子規の父常尚(つねひさ)も松山藩に仕えていましたし、
子規自身も藩の給費生となり,東京の常盤会寄宿舎に入っています。

 松山市内には、数多くの句碑が建っていますが、
子規のこの句の句碑は2ヶ所あります。
1つは、JR松山駅前に大きな石碑が、
2つ目は、道後公園(道後温泉近く)子規記念博物館敷地の小さい石碑です。
碑の文字は「寒山落木」の子規自筆の文字を拡大して刻まれました。
こちらの方が趣があります。

 子規が松山城を詠んだ句には・・・。
「春や昔 十五万石の 城下町かな」
「松山や 秋より高き 天守閣」
「旅人の 城へ上がるや 春の風」
「山城に 残る夕日や 稲の花」
などがあります。

 ふるさとをなつかしむ気持ちが、
ひしひしと伝わってきます。

 あなたのふるさとの風景ってどんなものですか?

                  岬人(はなんちゅう)