2016年6月17日、栃木県の壬生町に行ってきました。
栃木市を抜けて県道2号線を走り壬生町へ。
最初に訪れた所は雄琴神社でした。
両側の木立に陽射しを遮られた参道を行きつい
た所に社殿がありました。約1,000年前に創建
された雄琴神社は、壬生の総鎮守として信仰を
集めているようです。
雄琴神社の後に黒川という川が流れていて、そこ
にしののめ桜橋という吊り橋が架かっていました。
この橋を渡って、しののめ公園に行きました。
しののめ公園の黒川沿いはしののめ桜堤と
いって、サクラの名所になっているみたいです。
川とは反対側にアジサイがきれいに咲いた小路
があり、写生をしている方を何人か見ました。
東武線沿いを北東方面に歩いていると古い木造
の家の軒先に、写真のような電話№のプレート
が架かっていました。十二番と、二桁の電話№、
いったいいつ頃のものなのでしょうか?
着いた所が、愛宕塚古墳という前方後円墳。国
史跡に指定されています。写真では分かり辛い
ですが、ちゃんと墳丘になっていて、周りには
堀の跡も残っていました。
そこから700m位東に行った所の牛塚古墳。
帆立貝型の前方後円墳で、こちらも国指定史跡。
牛塚古墳の対面にあった車塚古墳。同じく国
史蹟。大きな円墳でした。丸い形がよく分かり
ました。
周りに巡らされた堀(周溝)部分。
次に、2号線を西に向かい壬生寺に行きました。
壬生寺は慈覚大師生誕の地です。
山門を潜って境内へ入りました。前方の赤い
お堂は大師堂です。
大師堂の左にある慈覚大師産湯の井戸。
大師堂の右隣に本堂がありました。中に入って、
住職から大師が唐から持ち帰った白檀で作られた
大師像にまつわる説明などをしてもらいました。
壬生寺から南へ行った所の精忠神社。鳥居家初代
鳥居元忠を祀った社です。次男の忠政が初代山形
藩主。四月に山形へ行った際にその名を記憶し、
その関係から今回興味を持って訪れました。
本殿裏にあった畳塚。元忠が関ヶ原直前、家康の
命で死守した伏見城で自刃した際血を流した畳が、
江戸城伏見櫓階上におかれていたが、明治維新に
より城を明け渡されるときに、その畳を埋めたと
されているものです。
精忠神社近くにある筈と探したがなかなか見つ
からず、ようやく探し当てた常楽寺。山門前に
白象が置かれていました。壬生初代城主・壬生
筑後守胤業が、室町中期に創建した曹洞宗の寺。
江戸中期から、壬生城主・鳥居家の菩提寺と
なったお寺です。
常楽寺西の城址公園にやってきました。壬生城の
あった所。
門から中へ入った所。土橋の両側には掘が残って
いました。
橋を渡って、左の土塁の中にあった壬生領榜示杭
(ぼうじくい、石標)。左の榜示杭には「従是南
壬生領 下野国都賀郡家中村」と刻まれていました。
城址公園の東口でしょうか、そこから公園内を見た
所です。公園内には中央公民館や、図書館、歴史
民族資料館などもありました。
城址公園の隣に精忠神社の大鳥居がありました。
ここが本来の入口になるのでした。
公園前の道路(大手前通り?)を歩いて行くと
歴史を感じさせる建物が出てきました。
敷地は交差点角まで続いて、肥料店になって
いました。
その店の前の道路は、昔の街道筋みたいな風情で、
現在は蘭学の道と呼ばれているみたいです。写真は
その道路を北へ少し行った所にあった長屋。
長屋の隣の興光寺。徳川初期、本陣松本家の
隠居地であった所みたいです。
長屋の真ん中に入口が設けられていて、覗いて
みたら奥には何やら趣のある家がありました。
ここの電話№は四十六番でした…
先ほどの肥料店角まで戻って、丁度対角線の
角にあったおとうふ屋さん。なかなか雰囲気
がありますねー!! 左の道路を真直ぐ行くと
雄琴神社へ出ます。
蘭学の道を南へ歩くと脇本陣だったらしい家が
ありました。蔵が三つも並んで、奥まで家が
ずうっと続いていました。
最後に、興生寺に寄って帰りました。大きなカヤ
の木が目を惹きました。
この日は梅雨の間の晴れ間というか、本格的な夏の
陽射が照りつけ、歩いて見て回るには少し不向きな
日になってしまいました。それでも、歩いている間
は、そんなことは忘れてしまい、次から次へと歩き
続けてしまいました!!
栃木市を抜けて県道2号線を走り壬生町へ。
最初に訪れた所は雄琴神社でした。
両側の木立に陽射しを遮られた参道を行きつい
た所に社殿がありました。約1,000年前に創建
された雄琴神社は、壬生の総鎮守として信仰を
集めているようです。
雄琴神社の後に黒川という川が流れていて、そこ
にしののめ桜橋という吊り橋が架かっていました。
この橋を渡って、しののめ公園に行きました。
しののめ公園の黒川沿いはしののめ桜堤と
いって、サクラの名所になっているみたいです。
川とは反対側にアジサイがきれいに咲いた小路
があり、写生をしている方を何人か見ました。
東武線沿いを北東方面に歩いていると古い木造
の家の軒先に、写真のような電話№のプレート
が架かっていました。十二番と、二桁の電話№、
いったいいつ頃のものなのでしょうか?
着いた所が、愛宕塚古墳という前方後円墳。国
史跡に指定されています。写真では分かり辛い
ですが、ちゃんと墳丘になっていて、周りには
堀の跡も残っていました。
そこから700m位東に行った所の牛塚古墳。
帆立貝型の前方後円墳で、こちらも国指定史跡。
牛塚古墳の対面にあった車塚古墳。同じく国
史蹟。大きな円墳でした。丸い形がよく分かり
ました。
周りに巡らされた堀(周溝)部分。
次に、2号線を西に向かい壬生寺に行きました。
壬生寺は慈覚大師生誕の地です。
山門を潜って境内へ入りました。前方の赤い
お堂は大師堂です。
大師堂の左にある慈覚大師産湯の井戸。
大師堂の右隣に本堂がありました。中に入って、
住職から大師が唐から持ち帰った白檀で作られた
大師像にまつわる説明などをしてもらいました。
壬生寺から南へ行った所の精忠神社。鳥居家初代
鳥居元忠を祀った社です。次男の忠政が初代山形
藩主。四月に山形へ行った際にその名を記憶し、
その関係から今回興味を持って訪れました。
本殿裏にあった畳塚。元忠が関ヶ原直前、家康の
命で死守した伏見城で自刃した際血を流した畳が、
江戸城伏見櫓階上におかれていたが、明治維新に
より城を明け渡されるときに、その畳を埋めたと
されているものです。
精忠神社近くにある筈と探したがなかなか見つ
からず、ようやく探し当てた常楽寺。山門前に
白象が置かれていました。壬生初代城主・壬生
筑後守胤業が、室町中期に創建した曹洞宗の寺。
江戸中期から、壬生城主・鳥居家の菩提寺と
なったお寺です。
常楽寺西の城址公園にやってきました。壬生城の
あった所。
門から中へ入った所。土橋の両側には掘が残って
いました。
橋を渡って、左の土塁の中にあった壬生領榜示杭
(ぼうじくい、石標)。左の榜示杭には「従是南
壬生領 下野国都賀郡家中村」と刻まれていました。
城址公園の東口でしょうか、そこから公園内を見た
所です。公園内には中央公民館や、図書館、歴史
民族資料館などもありました。
城址公園の隣に精忠神社の大鳥居がありました。
ここが本来の入口になるのでした。
公園前の道路(大手前通り?)を歩いて行くと
歴史を感じさせる建物が出てきました。
敷地は交差点角まで続いて、肥料店になって
いました。
その店の前の道路は、昔の街道筋みたいな風情で、
現在は蘭学の道と呼ばれているみたいです。写真は
その道路を北へ少し行った所にあった長屋。
長屋の隣の興光寺。徳川初期、本陣松本家の
隠居地であった所みたいです。
長屋の真ん中に入口が設けられていて、覗いて
みたら奥には何やら趣のある家がありました。
ここの電話№は四十六番でした…
先ほどの肥料店角まで戻って、丁度対角線の
角にあったおとうふ屋さん。なかなか雰囲気
がありますねー!! 左の道路を真直ぐ行くと
雄琴神社へ出ます。
蘭学の道を南へ歩くと脇本陣だったらしい家が
ありました。蔵が三つも並んで、奥まで家が
ずうっと続いていました。
最後に、興生寺に寄って帰りました。大きなカヤ
の木が目を惹きました。
この日は梅雨の間の晴れ間というか、本格的な夏の
陽射が照りつけ、歩いて見て回るには少し不向きな
日になってしまいました。それでも、歩いている間
は、そんなことは忘れてしまい、次から次へと歩き
続けてしまいました!!