城郭探訪

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織田信長の子

2015年11月02日 | 武将

織田信長の子孫

群雄割拠に時代に生きて、天下統一を目指す中戦国の世に散っていった織田信長。彼には彼を支えた妻たちと彼女たちが生んだ子供が多くいました。
信長亡き後、彼の遺伝子を受け継ぐ子供たちがどんな運命をたどったのか……。
 今回は信長が自害した本能寺の変の後の、織田信長の子供たちとその子孫について調べてみました。しかし、織田信長には血縁関係に不明なものも含めて男女合わせて20人以上の子供がいるので今回は男子のみに絞っています。

嫡男・織田信忠(織田弾正忠家当主)

織田信長の嫡男として生まれた信忠は、生まれながらにして信長の家督を継ぐことが決まっていました。1576年11月には信長から織田家の家督を生前相続し。

本能寺の変の際には信長と共に備中高松城攻めをしている羽柴秀吉の援軍に向かうべく京都の妙覚寺に滞在しており、明智光秀による謀反を知ると本能寺へ向かいますが、途中信長自害の報を受け二条御所に移動。

誠仁親王を脱出させわずかな兵と共に籠城し善戦を見せるも、明智軍の伊勢貞興が攻め込むと自害しました。享年26歳。

次男・織田信雄(信雄流織田家初代当主)

1558年に生駒屋敷にて生まれました。1569年に父・信長と北畠家の和睦条件として北畠具房の養嗣子になり、具房の妹・雪姫と結婚。1572年、元服し北畠家の家督を相続。

本能寺の変の折には近江国甲賀郡まで進軍しましたが戦わないまま撤退。兄・信忠亡き後清州会議において織田家の後継者になろうとするも当主候補にされることはありませんでした。

1583年、秀吉と信孝・柴田勝家が争った賤ヶ岳の戦いでは秀吉方につき、信孝を岐阜城に攻め降伏させ、信孝は尾張に送られ自害。三法師の後見人として安土城へ入城したが、秀吉に退去させられ、妹・徳姫の縁をたどり徳川家康に接近。その後もことあるごとに徳川と豊臣の間を行き来するも、後に徳川家康から大名に取り立てられているため大阪城内での情報を流す間者であったと推測されます。

1630年4月30日京都北野邸で死去。享年73歳。

三男・織田信孝(信孝流神戸家初代)

1558年尾張衆の岡本良勝の屋敷で生まれたとされています。1568年、父・信長が伊勢国を平定した際降伏した神戸城城主・神戸具盛の養子となり、信長によって養父・具盛が隠居させられた後の1572年に神戸市の家督を相続。

相続後は神戸検地と呼ばれる検地をおこない、城下には楽市楽座をしき、領地経営に力を注ぎました。そのため神戸は伊勢神宮参拝の街道宿場町として大いに栄えたということです。

1582年5月から四国攻めの準備をしており、本能寺の変の際は堺にて渡海の準備をしていたそうです。

本能寺の変が勃発した際は逃亡兵が後を絶たず、積極的な行動には出られなかったため明智光秀の娘婿で四国攻めの副将を命じられていた従兄弟の津田信澄を殺害しただけでした。ちなみに本能寺の変に信澄が加担していたという事実は残っていません。

山崎の戦いでは名目上の総大将になり明智光秀を撃破、後の清州会議では信忠の後を継いだ三法師の後見人になり、兄・信忠の領地・美濃国を与えられました。

その後、秀吉と対立していた柴田勝家に接近し勝家とお市の方の婚儀を仲介するも、12月秀吉が信孝に向けて挙兵し岐阜城を囲まれてしまいます。信孝は降伏せざるを得なくなり、母と娘を人質に取られ、三法師を秀吉に引き渡しました。

1583年賤ヶ岳の戦いが起きると信孝は再度挙兵。しかし、兄・信雄に岐阜城を囲まれ、柴田勝家が北ノ庄城で自害すると岐阜城を開城し降伏。信孝は尾張国の大御堂時で自害させられました。享年26歳。

信孝の側室・小妻氏の子である織田信豊の次男・織田信国の子孫だという川上家が現存しているそうです。徳川の旗本となった織田氏の一族には信豊を家祖としている家がおおくありますが、これらの子孫や末裔が本当に信孝の血筋であるのかはわかりません。

四男・羽柴秀勝

織田信長の四男として1568年に生まれました。1576年10月側室との間に生まれた石松丸秀勝を亡くした秀吉が織田家に主家との養子縁組を願い出たため、四男の於次丸秀勝は羽柴秀吉の後継者になるために養子になりました。

残虐非道のイメージがある織田信長ですが、信長は血族を優遇していたことから、秀吉が自分の地位を擁護するためだったとも考えられています。

1582年3月8日信長の命で秀吉が中国征伐に出征し備中を攻める際にはそれに従って17日の備前児島・常山城攻めで初陣を果たします。4月からの高松城攻めにも参加。

6月2日の本能寺の変で父・信長が自害したのちは秀吉の中国大返しに同行。信長の四男として山崎の戦いに参加、異母兄・信孝と共に弔い合戦の旗印となりました。

信長の後継者を決める清州会議では秀吉が信長の孫である三法師を推したため後継者候補にはなりませんでした。織田領の再分配により於次丸秀勝は丹波亀山城の城主となりました。

1583年賤ヶ岳の戦いにも参加し、1585年には正三位・権中納言にまでなりますが病に倒れ病床につきます。1585年12月10日、母・養観院に看取られながら、丹波亀山城で死去。享年18歳。

五男・織田勝長(勝長流織田氏)

勝長は岩村城主遠山景任の未亡人で織田信長の叔母であるおつやの方の養子になりました。それは景任が嗣子がないまま死去してしまったため、遠山氏を継がせるためにおつやの方が信長に頼み込んだためです。

しかし、信長は乗り気ではなく、勝長も養子として遠山家の家督を継いだものの幼かったために、実権はおつやの方が握っていました。

1572年11月、甲斐の武田信玄が美濃国へ侵攻してきた際、武田の家臣・秋山虎繁に攻められ岩村城は降伏、武田の居城となってしまいます。

おつやの方は岩村城代となった虎繁を夫とし武田方との和議を結びました。その際に勝長は甲斐国へ人質として送られ、信玄の養子になります。

これに激怒した信長は後年岩村城を奪回した際に秋山虎繁とおつやの方を逆さ磔にしています。1581年11月、武田勝頼によって送還され同年元服。尾張国犬山城主となります。

その後は兄・信忠の与力として活躍しますが、本能寺の変で信忠と共に明智光秀の軍勢に攻め込まれ二条御所にて奮戦するも討死。

勝長の長男・勝良は織田信雄に仕え、そののち加賀の前田家に仕えました。その子孫もそのまま金沢藩に仕えたということです。

六男・織田信秀

1571年頃生まれました。父・信長から美濃国揖斐地方に所領を与えられていたそうです。1582年本能寺の変が起きた時は美濃の仏照寺に落ちて難を逃れました。

清州会議後、近江国栗太郡へと所領を移され、1583年に元服し名を信秀と名乗るようになります。秀吉が権力を握ると稲葉良通の口添えで秀吉の家臣となり1585年、羽柴姓を与えられます。

その後豊臣姓も与えられています。キリスト教徒で1587年の九州征伐の際にはロザリオをつけて出陣したそうです。晩年は剃髪し浦坊を号しました。

信秀の長男・重治は理由不明ですが所領を相続していません。次男・虎法師は比叡山に入り僧となっていましたが修業中に賊に襲われ殺害されました。

七男・織田信高(信高流高家織田氏当主)

1576年織田信長の七男として生まれました。1582年の本能寺の変で信長が自害すると、氏家行広に預けられ養育されます。1585年兄・織田信秀が羽柴姓を与えられた際に仲介してもらい豊臣秀吉に仕えました。

1591年には自らも羽柴姓を与えられ、羽柴藤十郎と名乗りました。

1603年12月12日、死去。享年28歳。

信高の嫡男・高重は幕臣として1616年に近江・安房に2000石を与えられています。高重の孫の信門は高家となり、明治維新まで高家旗本として存続していました。

八男・織田信吉(水戸津田家先祖)

1573年に織田信長と側室・お鍋の方の間に生まれました。七男の信高の方が3年遅く生まれていますが、織田家中の席次が信高の方が上であるため便宜上信高が兄とされています。

本能寺の変後、母・お鍋の方(興雲院)とともに小倉にて蟄居していましたが、1583年に羽柴秀吉により召し出され、羽柴姓と武蔵守の官、近江国に2000石の所領を与えられます。

1600年の関ヶ原の戦いでは西軍につき弟の長次と共に平塚為広勢に加わりました。本戦では同陣の諸将が討ち死にする中、脱出に成功。戦後は豊臣家を頼り大阪城下で暮らしました。晩年は剃髪し京都で暮らしていましたが、1615年死去。享年43歳。

信吉の息子・信之は僧になり、娘は紀州徳川家の侍女になりました。信之には4人の息子がいましたが、その内の一人は出家し、二人は京極高国の家臣になりました。子孫は水戸へと移住し津田姓を名乗りました。

九男・織田信貞(高家織田氏当主)

1574年に生まれたとされています。1582年父・信長が本能寺の変で死去したため埴原長久に養育されたそうです。埴原は信長の死後、次男の信雄に仕えていました。

1600年、関ヶ原の戦いでは西軍を支持し伏見城攻めに参加しました。1614年の大阪の陣の際は徳川方として従軍、功績をあげました。1624年6月6日死去。享年51歳。

信貞の長男・信次は病弱で家督を継ぐことができなかったため次男の貞置が家督を相続。信次の子貞幹は貞置の養子となり尾張藩の家臣として仕えました。貞置の子孫は徳川氏に高家旗本、分家は旗本として仕えたそうです。

十男・織田信好

1582年の本能寺の変が起きた時はまだ幼かったため、秀吉に引き取られ家臣になりました。茶人だったそうです。1609年7月14日死去。

十一男・織田長次

生年は不詳で1574年~1582年の間だと言われています。謎が多く1582年本能寺の変で父・信長が自害した後は羽柴秀吉の馬廻になったそうですが、豊臣時代のその後は不明です。

1600年の関ヶ原の戦いでは西軍を支持し、信長の八男で兄・信吉とともに平塚為広勢に加わり戦いました。しかし、9月15日の本戦で所属していた大谷軍が壊滅し、為広らとともに戦死しました。

いかがでしょうか?戦国武将・織田信長の子供たちはその後の世の中でもそれぞれの道を生きていきました。関ヶ原の戦いでは東軍・西軍に兄弟も分かれてしまうのですが、それでもきっと自分が信じた道を模索し進んだ結果なのでしょう。

豊臣政権下で生き残り、徳川の世で旗本として働き、明治維新や世界大戦を乗り切り、この現代でもきっと織田信長の血をひく人は沢山生きているのでしょうね。

参考資料:「3分でわかる織田信長」から、転載


織田信長と9人の妻

2015年11月02日 | 武将

織田信長と9人の妻

延暦寺を焼き討ちしてみたり、神仏に対する信仰心が薄く、残虐非道なことでもやってのける時代の革命児織田信長。その陰で敦盛を好み、茶の湯を愛し、自ら相撲大会を開催してみたり以外にもお茶目なところがあるのもまた事実。
そんな戦国の世に生きた織田信長を支えた妻たちについて調べてみました

戦国時代は一夫多妻制

戦国時代の武将の多くは正妻の他に側室と呼ばれる公認の愛人もいるのが普通でした。当時は当然のことながら、今のように医療技術が発達しているわけもなく女性が子供を妊娠し、無事出産するのは今以上に大変なことだったのです。

そのため地位の高い大名たちは自分の子孫を残すために正室の他に側室も抱えていることが多かったのです。

では正室・側室・継室の違いはなんでしょうか?簡単にまとめてみました。

正室とは……正妻のことです。正室はこの時代も一人しかいません。

側室とは……正妻以外の妻というか子孫を残すための公認の妾のことです。

継室とは……正妻と何らかの形で離縁したり、正室が死去してしまった後に迎えた後妻のことです。

簡単ですね。極まれに正室しかいなかったという人もいますが大体正室と側室がいました。そしてほとんどが家同士の同盟関係であったり、重臣の娘であったり政治のために利用されることが多かったようですね。

織田信長を支えた9人の妻たち

織田信長には正室・側室含めて9人の妻がいました。それでは一人ひとり見てみましょう。

濃姫(帰蝶) 正室

織田信長の正室は美濃国の蝮・斎藤道三の娘・濃姫でした。1548年に信長の父・信秀と敵対していた美濃国の斎藤道三との和睦が成立し、その証として政略結婚が行われました。

信長と濃姫の間には子供がなかったようで、織田信忠に家督を相続する際信忠を濃姫の養子にしたという説もあります。

この時代の女性にはよくあることですが、いくら身分の高い人であっても後世に伝わるような記述が残っていることが少ないため信長と結婚した後のことはほとんど謎に包まれています。

私が調べた範囲では、現在は総見院に「養華院殿要津妙玄大姉」という法名で埋葬されている可能性が高いということ。根拠としては今は廃寺となっていますが以前は総見院のすぐ横に養華院という塔頭が存在したこと、それを施したのが信長の寵妾・帰蝶で法号を院号としたことが「龍宝山大徳禅寺志」に記載されているからです。

しかし、生きている間に何をしたなどということは父・斎藤道三の菩提を弔うために常在寺に道三の肖像画を寄進したくらいでしょうか?

養華院が濃姫であったとして享年78歳。

生駒吉乃 側室

信長の側室で信忠・信雄・徳姫の実母です。吉乃という名前は実名ではないそうですが、馬借(馬を利用し荷物を運搬する戦国時代の輸送業者)生駒家宗の娘です。

1556年夫が戦死したため実家に戻っていましたが、信長に見初められ側室となりました。信長最愛の女性とも言われています。しかし、信忠・信雄・徳姫を産んだものの産後の肥立ちが悪く死去。

お鍋の方 側室

七男の信高と八男の信吉、娘・於振の母です。近江の豪族・高畑源十郎の娘と言われています。しかし、お鍋の方宛の書状は「小倉」や「小椋」と宛名が書かれており、俗説でははじめ近江国・高野城主である小倉実房に嫁いで男子を二人もうけたが実房の戦死後、織田信長の側室となったとのこと。

1582年の本能寺の変勃発後は豊臣秀吉の庇護下に置かれ、正室・ねねに仕え、側近の筆頭であったようです。1600年の関ヶ原の戦い後は淀殿から50石の知行を与えられ京都で晩年を過ごしました。

また崇福寺に信長の遺品を届け埋葬したのもこのお鍋の方だと言われています。

坂氏 側室

三男の信孝の母です。この方の出自は不明で、いつ信長の側室になったのかもわかっていません。

信孝を出産後の届け出が遅かったためか、坂氏が身分の低い家の生まれだったためか、次男とされている信雄より信孝の方が20日ほど早く生まれていたようですが三男という扱いになったと言われています。

1568年、息子の信孝が伊勢の神戸具盛の養子になると同族と思われる坂仙斎とともに信孝に同道しています。1582年本能寺の変が起こり信長が自害すると岐阜城の城主となった信孝に従い美濃へと移り住みました。

信孝は柴田勝家と組んで豊臣秀吉と敵対し、12月岐阜城を秀吉に攻められ降伏。その際に信孝の娘と共に人質となりましたが、1583年に信孝と勝家が再挙兵すると秀吉により孫娘とともに磔にされました。

養観院 側室

秀吉の養子となった羽柴秀勝の母。信長の次女・冬姫も養観院の娘であるという説もありますが定かではありません。

秀勝が丹波亀山城城主になると共に亀山城へと移りました。しかし、秀勝は病弱で1585年12月死去。その後、丹波から京都へ移り出家して、信長や秀勝たちの菩提を弔いました。

土方氏 側室

九男・信定の母。織田信長の父・信秀の代からの家臣である土方信治の孫娘と言われています。土方氏の父・雄久は信長と信雄の二代に仕え、後に豊臣秀吉の家臣として仕え1万石の所領を与えられた人物です。

慈徳院 側室

織田信忠の乳母で三の丸殿の母です。信長の嫡男・信忠の乳母を務めたことから信長の目にとまり側室となりました。信長の寵愛を受け、後に豊臣秀吉の側室となる三の丸殿を出産。

本能寺の変の後、信忠の菩提を弔うために妙心寺内に塔頭・大雲院を建立。一説に慈徳院の兄は僧門にあったとされ、兄が大雲院の開山になったとされています。

原田直子 側室

織田家の家臣・塙直政の妹で織田信政の母とされている人物です。1554年那古野城で信政を出産したとされていますが、信政はその存在が疑問視されています。

その後は1566年に古渡城に移り住んだと言われていますが、古渡城は1548年に廃城となっているためその後の消息は分かりません。

いかがでしたか?織田信長を支えた妻たちです。この時代どうしても女性に関する資料は少なく正確なことはわかりません。

しかし、天下を取ろうという戦国武将の傍にいたのですから肝の座った女性たちだったのでしょう。

武将の妻だというだけで人質に取られたり、殺されてしまうことも当たり前だった時代。それでも妻として母として女として生きた彼女たちはきっと素敵な女性だったのでしょうね。

参考資料:「3分でわかる織田信長」から、転載