お城のデータ
所在地:栗東市六地蔵町 map:http://yahoo.jp/o9C2Uj
現 状:寺院・竹藪
築城期:南北朝期
築城者: 菅沼吉郎右衛門
城 主:高野甲斐守(佐々木六角臣)・林土佐守(青木氏の臣)
区 分:平城
遺 構:主郭・郭・土塁・空堀
標 高:ー m 比高差:ーm
駐車場:無し(路上駐車)
目標地:福正寺:滋賀県 栗東市 六地蔵574
訪城日:2015.11.5
お城の概要
滋賀県中世城郭分布図調査には、旧東海道添いの「福正寺」がその所在地され、かつては本丸・二の丸の地名が残る存在した。境内の南西側には、堀・土塁が残るとある。
福正寺の北に六地蔵地蔵尊がある。その境内に土塁が残る。また竹藪の中には低土塁の一部を見ることができる。
土塁2mを図る。
竹藪(ゲットボール場に竹藪の扉がある)は、屋敷跡か?(未整備のため、全体は把握出来ない)
堀址か?(用水路)
竹藪ないの低土塁
歴 史
『江州佐々木南北諸士帳』に「栗太郡六地蔵 住 菅沼吉郎右衛門」と記す。
南北朝の頃、六角氏の臣高野甲斐守が入城しており、永正年間に高野甲斐守が窪江城に移ってのちは、青地氏の臣林土佐守が入城していた。
永禄十一年に廃されたが、本丸・二の丸の地名が残る。
旧東海道 六地蔵の町並み浄玖寺(背後に、「織田信長の多喜山城(日向山)」が見える)
東海道・中山道は交通の要衝栗東
昔から、交通の要所として栄えてきた栗東は、江戸時代に入り、整備された東海道・中山道に挟まれた交通の要衝として、一段と賑やかになりました。
近江地方における東海道は、伊勢参宮道としての要素を兼ね備え、「伊勢道」とも言われていました。
梅ノ木立場(うめのきたてば)…宿場の中間地点に設置された休憩所
東海道の石部宿(湖南市)と草津宿(草津市)の約中間点に、「梅ノ木立場(うめのきたてば)」(現在の栗東市六地蔵あたり)がありました。立場とは、幕府公用の馬や駕籠などを止めて休息する所で、ちょうど宿場と宿場の中間地点に設置される事が多かったようです。
和中散屋 (旅人の道中薬”和中散”を商う薬屋)
福正寺のそばにある和中散本舗は江戸時代に草津宿・石部宿の中間にあって、東海道の休憩所の役割を持っていた住宅で、道中薬「和中散」という薬を売っていた大角弥右衛門の店鋪兼住宅です。
徳川家康が永原御殿(野洲市)で腹痛をおこした際、この薬を服用してすぐに治ったことから、有名になったとされます。建物は、寛永年間(1624~44年)の建物がそのまま残っていて重要文化財であり、庭園は小堀遠州作といわれ、国史跡です。
また、旅人の休憩等に利用された「間の宿」でもあり、旅人に薬を売るため、梅ノ木に和中散屋が生まれました。
和中散とは、胃痛や歯痛などにもよく効く薬で、旅人の道中薬として重宝され、その始まりは元和元年(1615)、本家是斎家(大角家)が、京都の名医半井ト養(なからいぼくよう)の娘をめとって、和中散や小児薬の奇妙丸の製法を伝授され、大きな梅樹の木蔭で旅人に売るようになったと伝えられています。
また、慶長16年(1611)、徳川家康が野洲郡永原陣屋で腹痛を起こした時、典医が和中散を勧めたところ、たちまち快癒したとあります。
和中散を商う薬屋は最も多い時には7,8軒あり、宝永年間(1704~1711)には、すでに東海道名物として全国的に有名になっていたようで、「是斎(ぜさい)」・「如斎(じょさい)」・「定斎(じょうさい)」・「是済(ぜさい)」などの屋号を名乗り、互いに競い合っていました。
大角家 (和中散屋・小休屋)…多くの大名が休憩に立ち寄った
和中散屋を営むかたわら、小休屋も兼ねていた大角弥右衛門家には多くの大名が休憩に立ち寄っていたようです。
小休屋として賑わっていた大角家(おおすみけ)に、安永2年5月4日、雲洲様と言われていた松江藩(島根県)の藩主松平治郷が、参勤交代の途中、旅程が1日延びたために、草津宿・石部宿に宿泊できなくなり、急遽大角家に宿泊の依頼があり、村人総出で対応したと記録が残っています。 文政9年(1826)、ドイツの医学者でオランダ商館の医員として長崎に来ていたシーポルトは、江戸へ向う途中、大角家に立ち寄り、当主弥右衛門との話がはずみ、薬を参考資料として貰い受け、周囲の植物を収集して、長崎の出島に送ったとされています。
大角家 (建物…国の重要文化財、池泉鑑賞式庭園)
また、池泉鑑賞式庭園があり、旅の疲れを癒していたのではないでしょうか。本庭には、築山(芝山)があり、背後には日向山(にっこうやま)が望まれ、東海道という連続した旅情の一場面を切り取った庭という趣が感じられます。
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査 3 旧野洲・栗太郡の城、栗東町志、淡海の城他
本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!