調査は、穴太野添古墳群の範囲内の北半で実施しているものです。これまで今回の調査範囲内では古墳の存在は確認されていませんでしたが、新たに7基の横穴式石室が確認されました。石室は後世の削平等により上半はなくなってしまっていますが、石室の下半、特に床面は良好な状態で残存していました。木棺の釘が埋葬当時からほとんど移動せずに残っているものや、ミニチュア炊飯具セット(カマド・カマ・コシキ・ナベ)やカンザシといった副葬品が出土しています。この地域は渡来人の存在が想定されていますが、今回検出したものも、その出土品や石室の形態などから渡来人の影響のあるものと考えられます。
横穴式石室跡を発見 大津市教委、穴太野添古墳群で7基
見つかった横穴式石室跡=大津市坂本で
大津市教委は四日、同市坂本の穴太野添(あのうのぞえ)古墳群発掘調査で、古墳時代後期の横穴式石室跡七基が見つかったと発表した。周辺の古墳群でも出土している渡来系の影響を受けた墓跡で、一帯に渡来人系の墓域が広がっていたことがあらためて裏付けられたという。
石室跡は、下段部分の石材が残っており、縦約三メートル、幅二メートル。内側へ積まれていることから、屋根は丸みのあるドーム型の墳丘とみられる。
石室内からは、副葬品で高さ八センチ、幅十五センチのミニチュアのかまどや銀製のかんざし、木棺を止めるためのくぎ四十本や、土師(はじ)器、須恵器なども見つかった。
ミニチュアかまどやかんざしは、大津市北部の古墳群のほか奈良県や大阪府でも見つかっており、渡来系の影響を強く受けたものとされる。
同市北部は、渡来系の人が多く住んだ地域とされ、坂本から千石台の地域に三十一の古墳群が広がっている。
現地説明会は七日午前十時半から。駐車場はなく、京阪穴太駅から徒歩十分。雨天決行。
(問)市文化財保護課=電077(528)2638
穴太野添古墳群位置図(PDF:1.5MB) 市内初、銀製U字形かんざしも
大津市坂本、穴太両地区に広がる穴太(あのう)野添(のぞえ)古墳群で、6世紀の円墳とみられる古墳7基が確認され、市教委が4日、発表した。1基からは市内で初めて銀製のU字形かんざしを発見。玄室の構造や副葬品の状況から、いずれも渡来系の人々の墓とみられる。(池内亜希)
同古墳群は、6世紀前半~7世紀前半の円墳とみられる約150基があり、1969年から24基で発掘調査。
今回はグラウンド造成に伴い、7月から約1000平方メートルを調べた結果、7基を確認した。
石室はいずれも横穴式で、うち5基は遺体を納めた玄室(長さ2・8~3・2メートル、幅1・5~2メートル)の保存状態が良く、壁の石が少しずつ内側にせり出し、天井がドーム状だったと推定できた。
玄室内の西側には鉄製のくぎ、北東側からは土師器(はじき)や須恵器の甕(かめ)、壺(つぼ)が、おおむね共通した配置で出土。くぎは木棺を作る際に使用したとみられ、ほぼ元の位置で残っており、木棺の規模を復元できる可能性がある。
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出土したミニチュアの炊飯具
3基の玄室では、十センチ前後程度の大きさに作られたミニチュアの炊飯具が出土。県外の渡来系の人々の墓でもみられるカマド、カマ、ナベ、コシキの4点がそろったものもあった。
市内で初めて確認された銀製のかんざし(幅6センチ、長さ16センチ)はU字形で、1基から出土。玄室の中央付近で見つかり、保存状態も良い。
ドーム状の天井や炊飯具などの副葬品は、渡来系の人々の墓にみられる特徴で、同古墳群でのこれまでの発掘結果と一致する。
市教委は「6世紀に同じ葬送儀礼を持った渡来系の集団が周囲にいたことがわかる」としている。
現地説明会は、7日午前10時30分から開始。当日は市職員が京阪穴太駅で案内する。