城郭探訪

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織田 信次の墓  近江国(八日市)

2015年11月03日 | 武将

織田信次(織田 信貞の長男)

織田 信貞(おだ のぶさだ)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。織田信長の九男。母は土方雄久の娘。一説には青山氏ともいう。幼名は人、通称は藤四郎。官位は従五位下雅楽助、左京亮。
1582年、父・織田信長が本能寺の変で死去したため、埴原長久に養育されたという。信長の死後、埴原は織田信雄に仕えた。
成長した信貞は、豊臣秀吉の馬廻の一人となり、近江国の内に1000石の所領を与えられた川合寺館(津田氏邸)

1600年の関ヶ原の戦いでは、西軍に与して伏見城攻撃に参加したため、戦後に改易された。

1614年からの大坂の陣に徳川方として従軍し、功を挙げた。おそらく浪人中のことであり、この功績で再び所領を与えられたと推測される。1624年6月6日、51歳で死去した。墓地は京都・大徳寺塔頭総見院にある。なお、「織田信貞像」(岐阜市歴史博物館蔵)は、子孫の尾張藩士・織田貞辰が描かせたものである。

家督は次男の貞置が継いだ。長男の信次は病弱のために家を継げなかったが、信次の子の貞幹は貞置の養子となって尾張藩の家臣として仕えた。

貞置の子孫は徳川氏に高家旗本、および分家は旗本として仕えている。貞置は叔父の織田有楽斎(織田長益)が興した茶道有楽流を継承し、養子の貞幹(尾州有楽流)ら多数の門人を抱えた茶人としても有名である。

三熊派の画家、織田瑟瑟(しつしつ)も、信貞の子孫として伝えられている。川合寺館(津田氏邸)

写真は滋賀県東近江市瓦屋寺に残る、長男信次とその母の墓塔。
石崎山 瓦屋寺(かわらいじ)
所在地:滋賀県東近江市建部瓦屋寺町436
 
織田信長の九男 信貞には、二人の男子あり。長男が信次・次男が貞置。その次男貞置が跡を継ぎ、東京品川の菩提寺に貞置の墓がある。寛政譜にあります。
 
参考資料:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』「泰巖宗安記」貞置

川合寺館(津田氏邸)   近江国(八日市)

2015年11月03日 | 平城

織田信長の九男織田信貞を遠祖とし、豊臣秀吉より神崎郡内御園荘に領国を賜り川合寺に館を築いた 

お城のデータ

所在地:東近江市川合寺町(旧八日市市川合寺町)

区 分;居館

現 状:寺院・宅地

築城者:織田信長の九男織田信貞

築城期:織豊期

遺 構:印塔、末裔の織田瑟瑟の墓

駐車場:無し(西蓮寺の門前の空きスペース)

訪城日:2015.11.3

お城の歴史

安永8年(1779年)、こん近江国神崎郡(現在の滋賀県八日市市川合寺で、知行700石を領する。

津田家は織田信長の九男織田信貞を遠祖とし、豊臣秀吉より神崎郡内御園荘に領国を賜り川合寺に館を築いた。信貞は関ケ原の戦いおいて東軍に属し、以後は徳川家康に仕え旗本となった。

 代々江戸に住んでいたが信貞の次男で高家旗本であった織田貞置の孫・織田長経(貞秀の父)が領国 川合寺に隠棲し津田姓を称したことから川合寺津田家は始まる。

写真は滋賀県東近江市瓦屋寺に残る、織田 信貞の長男信次とその母の墓塔。

石崎山 瓦屋寺(かわらいじ)
所在地:滋賀県東近江市建部瓦屋寺町436

織田 信貞(おだ のぶさだ、天正2年(1574) - 寛永元年6月6日(1624年7月21日))は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。織田信長の九男。母は土方雄久の娘。一説には青山氏ともいう。幼名は人、通称は藤四郎。官位は従五位下雅楽助、左京亮。

生涯

1582年、父・信長が本能寺の変で死去したため、埴原長久に養育されたという。信長の死後、埴原は織田信雄に仕えた。

成長した信貞は、豊臣秀吉の馬廻の一人となり、近江国の内に1000石の所領を与えられた。

1600年の関ヶ原の戦いでは、西軍に与して伏見城攻撃に参加したため、戦後に改易された。

1614年からの大坂の陣に徳川方として従軍し、功を挙げた。おそらく浪人中のことであり、この功績で再び所領を与えられたと推測される。1624年6月6日、51歳で死去した。墓地は京都・大徳寺塔頭総見院にある。なお、「織田信貞像」(岐阜市歴史博物館蔵)は、子孫の尾張藩士・織田貞辰が描かせたものである。

子孫

家督は次男の貞置が継いだ。長男の信次は病弱のために家を継げなかったが、信次の子の貞幹は貞置の養子となって尾張藩の家臣として仕えた。貞置の子孫は徳川氏に高家旗本、および分家は旗本として仕えている。貞置は叔父の織田有楽斎(織田長益)が興した茶道有楽流を継承し、養子の貞幹(尾州有楽流)ら多数の門人を抱えた茶人としても有名である。

三熊派の画家、織田瑟瑟(しつしつ)も、信貞の子孫として伝えられている。



織田瑟瑟(織田信長の末裔)は、津田内匠貞秀の長女として誕生、幼名は政江。

幼い頃から絵を描くことに優れていたと伝えられている。父・貞秀に男子がなかったことから、政江が10代前半の時、縫殿助岐山なる風流人を婿に迎える。

 瑟瑟は京都に移り住み、やがて娘が生まれるが寛政6年(1794年)に娘は夭逝する。その後、京都鳴滝の女流画家で桜花の写生を得意とした三熊露香に入門し、本格的に絵を学ぶ。三熊露香への入門は瑟瑟自身が桜を描くことが好きであったことによる。画名を「瑟瑟」とし、これは風の吹く様、或いは深緑色を意味する。早くも寛政8年(1796年)と翌9年(1797年)京都の「東山新書画展」に夫と共に出品している(同目録)。織田瑟瑟の画像

ところが夫も寛政9年に死別する。

文化7年(1810年)の『近世逸人画史』には「平安人」と記載され京に住んでいたようだが、その後川合寺の本家に戻り、11歳年上の彦根藩士石居家の三男・信章を瑟瑟の婿養子津田信章として迎え入れた。

しかし、文化10年(1813年)瑟瑟が35歳の時に夫・信章は病死し、その後は再婚せず、子の貞逸の教育に徹する。貞逸成人後の50歳前後で剃髪、妹の八千代と共に隠棲した。なお、八千代も絵を良くしたという。また、瑟瑟に弟子がいたという所伝はないが、守山輝子という絵師が瑟瑟に類似した桜図を描いている作例があり、瑟瑟の弟子だと考えられる。

天保3年(1832年)に54歳で死去。墓は川合寺にある津田家の菩提寺・西蓮寺にあり、法名は専浄院殿天誉快楽名桜大姉。

JR安土駅前の織田信長の銅像の横に、『織田桜』の説明板

なお、墓は自分が写生し、寺に移植した桜の下に設けるよう遺言したが、現在はその桜はない。

宝筺印塔・・・

織田桜…織田瑟瑟の画像

瑟瑟が描く絵はほとんどが桜絵であったことから地元近江では「織田桜」と称され、今も数多くの作品が残る。露香門下で瑟瑟の名は類まれな彩色手法より高く評価され、瑟瑟が桜の絵を描いていると空飛ぶ鳥が実物と間違えその絵の桜に止まりに来たとの逸話も残されている。

瑟瑟の落款や画風の変遷はおよそ4期に分けられる。第一期は寛政後半から享和初年までの、結婚から死別を経て再婚するまで。款記には織田姓を記さず瑟瑟のみ記し、印には「織田氏女」「瑟瑟」の大印を用いる。画風には、師・露香の影響が残る。第二期は享和初年以降から文政4年(1821年)20代から43歳までで、貞逸が成人する頃までに当たる。落款に織田姓をほとんど書き込み「織田氏女瑟瑟」と記す。印は、第一期の大印は使用せず、「織田氏女」「瑟瑟」小印と「惜花人」印を組み合わせる。作風は師と決別し、桜そのものの描写に重きを置いていく。絵の上部は幹の上を花が覆い、絵の下方からも若枝が伸び花を咲かせるといった二層式構図が典型的に用いられる。第三期は文政4年から文政12年(1829年)51歳まで。もっぱら「貞逸母」と記す。印は第一期の大印を再び用い、「家在越渓南岸」の巨大印を併用することも多い。画風は最も特徴的で、地面は盛り上がり幹は老木となって、花はみっしり咲き誇る美しくも力強い作品が多い。第四期は文政12年から没年まで。落款は「貞逸母」から「織田氏女瑟瑟」に戻って自体は細く弱くなり、印も第二期のものに戻る。画風も優美になり、繊細かつ円熟した作品が残っている。

銅像の隣に(織田桜)大和桜と駒札銅像の隣の駒札に「織田桜」川合寺の西蓮寺で、毎年も信長の血縁の「織田瑟瑟の桜画展」が開催される。

参考資料:ウィキペディア、繖山ミニトレッキング(三角点~観音寺城址~観音正寺~瓢箪山古墳)織田瑟瑟の画像

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前田慶次:屋敷跡発掘調査 「無苦庵間違いない」

2015年11月03日 | 武将

「かぶき者」として知られる戦国武将・前田慶次が晩年住んだと言い伝えが残る山形県米沢市万世町堂森で発掘調査を行った「米澤前田慶次の会」と、調査を指導した同市教委は2日、「慶次の無苦庵(むくあん)の屋敷跡にほぼ間違いない」と発表した。納屋などと見られる直径20〜30センチの柱穴約20基や、四方から見つかった土塁や堀の工法が江戸時代初期のものと合致することなどから、慶次の武家屋敷跡との認識を示した。【佐藤良一】

 調査は10月下旬に開始。民家脇の畑を含む東西100平方メートルなどを深さ約20〜30センチ掘ったところ、柱穴約20基を発見した。約20センチの柱穴群は塀や柵、並列した状態の約30センチの柱穴群は納屋か作業小屋のものとみられるという。

 調査地の北と東の外側では「V字型」の堀が、南と西の外側からは高さ約1メートルの土塁が見つかった。堀は「薬研堀(やげんぼり)」、土塁は「版築(はんちく)」と呼ばれる工法で造られており、慶次が米沢に住んだとされる江戸初期の技法と見られるという。

 測量の結果、屋敷全体は東西109メートル、南北72メートル四方の広さがあったことが判明。同市教委文化課の手塚孝主任は「この広さなら武家屋敷に間違いない」と断言した。屋敷の母屋は地形から判断して、中心にある現在の民家付近にあったと考えられるという。

毎日新聞 「無苦庵」屋敷跡を報道陣らに説明する米沢市教委の担当者=米沢市万世町で2015年11月2日・・・佐藤良一撮影

  土塁からは、古伊万里焼の茶碗片1点が見つかったほか、柱穴群からは白磁皿片1点、堀からは木坑1点が出土した。屋敷跡は、慶次が生活に利用したといわれる「慶次清水」と約300メートルの水路でつながっている。

 慶次は1602年、上杉景勝とその家臣直江兼続を慕って米沢に住み、12年に堂森で死去したと伝えられているが、死亡場所には諸説ある。慶次の会によると、上杉氏の米沢藩が、慶長年間(1596〜1615)初期に編集したとされる村勢一覧「邑鑑(むらかがみ)」には、堂森地区に武家屋敷の記載はないという。同会の梅津幸保会長は「編集後に慶次が居を構えたとすれば理屈に合う」と話し、「400年前から堂森一帯に伝わる慶次居住の痕跡を確認できた」と喜んだ。

 3日午前8時半から午後4時まで一般向けの現地説明会を行う。慶次の供養塔がある善光寺北側で。雨天決行。4、5日に埋め戻し、来年3月までに報告書をまとめる予定。

 慶次はドラマや人気漫画の主人公として取り上げられ、一時ブームが起きた。今回の調査結果で、さらにファンが訪れそうだ。

情報:毎日新聞


織田淡水の墓(供養塔)  近江国(八日市)

2015年11月03日 | 武将

織田淡水墓石 供養塔(正面)

墓石の表面には「織田淡水府君墓」と刻まれ、側面や背面には一之の事蹟などが述べられています。

織田淡水墓石(側面)

織田淡水墓石(背面)

所在地:東近江市野村町(旧・八日市市野村町)  map:http://yahoo.jp/x0X50Wttpこの地図のURL

 織田淡水の墓(供養塔)

滋賀県には、安土城をはじめ信長に係わるものは数多くあります。ところが、その子孫となるとどうでしょう。ほとんどの人がその名前すら知らないでしょう。

信長のひ孫にあたる人物。 信長の七男に信高、その子高重の時に旗本寄合となり、近江国神崎郡に約2千石を与えられました。その場所は現在の近江国(現在・東近江市)神田町・野村町・外町にあたります。高重を継いだのは一之です。

一之は淡水と号し、元禄8年(1695)6月12日に亡くなっていますが、その墓が東近江市野村町の陽泉院境内にあります。

墓はもともと境内にあったものではなく、八風街道に近い林の中にあったものが、数度の移転を経て陽泉院に置かれるようになったと

 
 

織田一之の本当の墓は東京深川の要津寺にある。
一之はここに知行を持つとはいえ旗本だったので、江戸に暮らし、墓も江戸にある。
信高流家系の当主のうちどうして一之の墓のみがここに建立されたか。
「歴代当主の中でも、特に知行地である野村町一帯と縁が深く、供養碑として建立されたのでは・・・」
 
 元フィギアスケートの選手で、織田信長の子孫として知られている織田信成さん、この信高流家系の末裔です

おすすめPoit

 陽泉院境内には、織田淡水の墓とともに「鳩塚」なるものがあります。これは、旧陸軍によって飼育されていた伝書鳩の墓のようです。軍隊によって用いられていた伝書鳩のことを「軍鳩(ぐんきゅう)」とも言い、日本には明治年間に入ってきたそうです。

 野村町に隣接する沖野には、かつて旧陸軍の飛行場があったことから、その関係で陽泉院境内に「鳩塚」が建立されたのでしょう。

この「鳩塚」ですが、わかりにくい場所にあります。

なお、彦根市にある護国神社の境内には、軍によって使われた馬や犬・鳩のための慰霊碑が昭和60年(1985)に建てられています。

 鳩塚

 
周辺おすすめ情報
すぐ近く神田町自治会館に太鼓櫓が残っています

集落・家並みは続いてますが、神田町です

 陽泉院より徒歩数分のところに神田町公民館がありますが、その敷地に太鼓櫓が建っています。太鼓櫓とは、太鼓の打ち方によって火災や水害・集会の知らせなどに使われた、合図のための施設です。旧八日市市内には、こうした太鼓櫓が7基残っているそうです。

参考資料:滋賀県文化財保護協会HP

本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!!