織田信長の九男織田信貞を遠祖とし、豊臣秀吉より神崎郡内御園荘に領国を賜り川合寺に館を築いた
お城のデータ
所在地:東近江市川合寺町(旧八日市市川合寺町)
区 分;居館
現 状:寺院・宅地
築城者:織田信長の九男織田信貞
築城期:織豊期
遺 構:印塔、末裔の織田瑟瑟の墓
駐車場:無し(西蓮寺の門前の空きスペース)
訪城日:2015.11.3
お城の歴史
安永8年(1779年)、こん近江国神崎郡(現在の滋賀県八日市市川合寺で、知行700石を領する。
津田家は織田信長の九男織田信貞を遠祖とし、豊臣秀吉より神崎郡内御園荘に領国を賜り川合寺に館を築いた。信貞は関ケ原の戦いおいて東軍に属し、以後は徳川家康に仕え旗本となった。
代々江戸に住んでいたが信貞の次男で高家旗本であった織田貞置の孫・織田長経(貞秀の父)が領国 川合寺に隠棲し津田姓を称したことから川合寺津田家は始まる。
写真は滋賀県東近江市瓦屋寺に残る、織田 信貞の長男信次とその母の墓塔。
石崎山 瓦屋寺(かわらいじ)
所在地:滋賀県東近江市建部瓦屋寺町436
織田 信貞(おだ のぶさだ、天正2年(1574) - 寛永元年6月6日(1624年7月21日))は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。織田信長の九男。母は土方雄久の娘。一説には青山氏ともいう。幼名は人、通称は藤四郎。官位は従五位下雅楽助、左京亮。
生涯
1582年、父・信長が本能寺の変で死去したため、埴原長久に養育されたという。信長の死後、埴原は織田信雄に仕えた。
成長した信貞は、豊臣秀吉の馬廻の一人となり、近江国の内に1000石の所領を与えられた。
1600年の関ヶ原の戦いでは、西軍に与して伏見城攻撃に参加したため、戦後に改易された。
1614年からの大坂の陣に徳川方として従軍し、功を挙げた。おそらく浪人中のことであり、この功績で再び所領を与えられたと推測される。1624年6月6日、51歳で死去した。墓地は京都・大徳寺塔頭総見院にある。なお、「織田信貞像」(岐阜市歴史博物館蔵)は、子孫の尾張藩士・織田貞辰が描かせたものである。
子孫
家督は次男の貞置が継いだ。長男の信次は病弱のために家を継げなかったが、信次の子の貞幹は貞置の養子となって尾張藩の家臣として仕えた。貞置の子孫は徳川氏に高家旗本、および分家は旗本として仕えている。貞置は叔父の織田有楽斎(織田長益)が興した茶道有楽流を継承し、養子の貞幹(尾州有楽流)ら多数の門人を抱えた茶人としても有名である。
三熊派の画家、織田瑟瑟(しつしつ)も、信貞の子孫として伝えられている。
織田瑟瑟(織田信長の末裔)は、津田内匠貞秀の長女として誕生、幼名は政江。
幼い頃から絵を描くことに優れていたと伝えられている。父・貞秀に男子がなかったことから、政江が10代前半の時、縫殿助岐山なる風流人を婿に迎える。
瑟瑟は京都に移り住み、やがて娘が生まれるが寛政6年(1794年)に娘は夭逝する。その後、京都鳴滝の女流画家で桜花の写生を得意とした三熊露香に入門し、本格的に絵を学ぶ。三熊露香への入門は瑟瑟自身が桜を描くことが好きであったことによる。画名を「瑟瑟」とし、これは風の吹く様、或いは深緑色を意味する。早くも寛政8年(1796年)と翌9年(1797年)京都の「東山新書画展」に夫と共に出品している(同目録)。織田瑟瑟の画像
ところが夫も寛政9年に死別する。
文化7年(1810年)の『近世逸人画史』には「平安人」と記載され京に住んでいたようだが、その後川合寺の本家に戻り、11歳年上の彦根藩士石居家の三男・信章を瑟瑟の婿養子津田信章として迎え入れた。
しかし、文化10年(1813年)瑟瑟が35歳の時に夫・信章は病死し、その後は再婚せず、子の貞逸の教育に徹する。貞逸成人後の50歳前後で剃髪、妹の八千代と共に隠棲した。なお、八千代も絵を良くしたという。また、瑟瑟に弟子がいたという所伝はないが、守山輝子という絵師が瑟瑟に類似した桜図を描いている作例があり、瑟瑟の弟子だと考えられる。
天保3年(1832年)に54歳で死去。墓は川合寺にある津田家の菩提寺・西蓮寺にあり、法名は専浄院殿天誉快楽名桜大姉。
JR安土駅前の織田信長の銅像の横に、『織田桜』の説明板
なお、墓は自分が写生し、寺に移植した桜の下に設けるよう遺言したが、現在はその桜はない。
宝筺印塔・・・
瑟瑟が描く絵はほとんどが桜絵であったことから地元近江では「織田桜」と称され、今も数多くの作品が残る。露香門下で瑟瑟の名は類まれな彩色手法より高く評価され、瑟瑟が桜の絵を描いていると空飛ぶ鳥が実物と間違えその絵の桜に止まりに来たとの逸話も残されている。
瑟瑟の落款や画風の変遷はおよそ4期に分けられる。第一期は寛政後半から享和初年までの、結婚から死別を経て再婚するまで。款記には織田姓を記さず瑟瑟のみ記し、印には「織田氏女」「瑟瑟」の大印を用いる。画風には、師・露香の影響が残る。第二期は享和初年以降から文政4年(1821年)20代から43歳までで、貞逸が成人する頃までに当たる。落款に織田姓をほとんど書き込み「織田氏女瑟瑟」と記す。印は、第一期の大印は使用せず、「織田氏女」「瑟瑟」小印と「惜花人」印を組み合わせる。作風は師と決別し、桜そのものの描写に重きを置いていく。絵の上部は幹の上を花が覆い、絵の下方からも若枝が伸び花を咲かせるといった二層式構図が典型的に用いられる。第三期は文政4年から文政12年(1829年)51歳まで。もっぱら「貞逸母」と記す。印は第一期の大印を再び用い、「家在越渓南岸」の巨大印を併用することも多い。画風は最も特徴的で、地面は盛り上がり幹は老木となって、花はみっしり咲き誇る美しくも力強い作品が多い。第四期は文政12年から没年まで。落款は「貞逸母」から「織田氏女瑟瑟」に戻って自体は細く弱くなり、印も第二期のものに戻る。画風も優美になり、繊細かつ円熟した作品が残っている。
銅像の隣に(織田桜)大和桜と駒札銅像の隣の駒札に「織田桜」川合寺の西蓮寺で、毎年も信長の血縁の「織田瑟瑟の桜画展」が開催される。
参考資料:ウィキペディア、繖山ミニトレッキング(三角点~観音寺城址~観音正寺~瓢箪山古墳)、織田瑟瑟の画像
本日の訪問、ありがとうございました!!感謝!!