城郭探訪

yamaziro

中畑・古里遺跡:方形周溝墓見つかる 

2015年11月13日 | 遺蹟

中畑・古里遺跡:方形周溝墓見つかる 弥生中期後葉 野洲 /滋賀

毎日新聞 2015年11月13日 地方版

見つかった方形周溝墓=滋賀県野洲市妙光寺で、村瀬優子撮影
 

 県文化財保護協会は12日、中畑・古里遺跡(野洲市行畑・妙光寺)で、弥生時代中期後葉(約2000年前)の方形周溝墓(しゅうこうぼ)2基が見つかったと発表した。墓前に供物をささげるための供献(きょうけん)土器も出土し、協会は「弥生時代の人々の生活や、当時の野洲川流域の集落構成を明らかにする上で貴重な発見」としている。

 方形周溝墓は周囲を四角い溝で囲った墓。内側の盛土に集落の有力者らを埋葬している。今回見つかった2基は、共に約8・5メートル四方の大きさで、溝幅は0・6〜2・2メートル。うち1基の溝からは、供献土器とみられるつぼが出土した。

 県文化財保護協会は14日午後1時半から現地説明会を開く。問い合わせは協会(077・548・9780)。【村瀬優子】

 

 

中畑・古里遺跡の現地説明会開催のお知らせ

公益財団法人滋賀県文化財保護協会では、国土交通省滋賀国道事務所および滋賀県教育委員会からの依頼により一般国道8号野洲栗東バイパス工事に伴う発掘調査を平成27年5月から実施しています。
 調査では、弥生時代中期後葉(約2100年~2000年前)の方形周溝墓や、奈良時代の掘立柱建物・柵・井戸、平安時代中期の溝などがみつかりました。特に、方形周溝墓から供献土器が出土するなど、中畑・古里遺跡における弥生時代の人々の生活や野洲川流域の集落構成を考える上で、新たな資料が加わりました。

つきましては、一般の方々を対象とした現地説明会を下記のとおり開催します。

1.開催日時:平成27年(2015年)11月14日(土) 午後1時30分から開催
2.開催場所:中畑・古里遺跡発掘調査現場 野洲市妙光寺
3.交通機関:JR琵琶湖線 野洲駅下車 東へ徒歩20分
        ※駐車場がありませんので、自家用車でのご来場はご遠慮ください。交通公共機関をご利用ください。
4.そ の 他:雨天決行。雨天の場合は、足元が悪いため、長靴をご用意ください。
5.問い合わせ先:公益財団法人滋賀県文化財保護協会
         大津市瀬田南大萱町1732-2
         TEL:077-548-9780(8:30~17:00)


 

=弥生の方形周溝墓=

滋賀報知新聞2015.11.18

発掘された方形周溝墓

◇野洲
 滋賀県文化財保護協会は十二日、国道8号線野洲栗東バイパス工事に伴う発掘調査で、野洲市妙光寺の中畑・古里遺跡から弥生時代中期後葉(約二千百年~二千年前)の方形周溝墓二基が見つかったと発表した。
 調査は、今年五月から来年二月の予定で、七千九百平方メートルを対象に実施されているもの。方形周溝墓からは、墓前に供物や食物をささげるため使われたと考えられる弥生土器壺などが出土し、同遺跡における弥生時代の人々の生活や野洲川流域の集落構成を考えるうえで新たな資料が加わった。

 

出土した供献土器

 方形周溝墓は、周囲を溝で区画し、その内側に盛り土(墳丘)をする弥生時代を代表する墓で、地域の有力者や一族が葬られた。中畑・古里遺跡で発掘された方形周溝墓の墳丘は、いずれも一辺八・五メートルで、周囲の溝の幅は〇・六~二・二メートルだった。溝内部からは、多数の土器が出土した。墳丘内部の埋葬施設は、後世に削られたため残っていなかった。
 今回の調査結果について県文化財保護協会は、「方形周溝墓は有力者一族を埋葬するため群集してつくられるのが一般的だが、同遺跡の方形周溝墓は二基のみだったことから、限られた時期につくられたとみられる。このため、同遺跡のムラは短期間しか存在しなかった可能性を示している」としている。


佐目館(明智屋形 通称:十兵衛屋敷)  近江国(多賀)

2015年11月13日 | 居館

高室山への登山道に【高室山城】が、下屋敷【佐目館】(滋賀県中世城郭分布より)

お城の概要

別 名 :伝明智屋形 通称:十兵衛屋敷

所在地:犬上群多賀町佐目 map:http://yahoo.jp/aixGVb

現 状:宅地、畑地

築城年:室町期

築城者:佐目氏{伝明智氏)

区 分:居館

標 高:233m  比高差:ーm

遺 構:末裔に見津(けんつ)氏宅

目標値:十二相神社

駐車場:十二相神社の近く空き地に路上駐車

訪城日:2015.11.12

 

お城の概要

『滋賀県中世城郭分布調査5』地図番号15Dに高室山城、佐目館の位置図が記す。

伊勢への旧街道を警戒・警備していた。

明智屋敷(通称:十兵衛屋敷)の伝説があり、佐目館【伝・十兵衛屋敷】・・(十二神社本殿と鳥居の間)

歴 史

『淡海国木間攫(おうみのくにこまさらえ)』、には「佐目村 此邑ニ往古明智此処ニ明智十右衛門尉門住ス、出生ハ美濃ノ土岐成頼ニ続セシカ後成頼に背テ浪人シ当国ニ至リ六角高頼ヲ頼ミヨセケル処御屋形曰明智ハ土岐ノ庶流旧家ナリトテ扶養来ヲ与ラレ二三代モ此処ニ居住スト云息十兵衛ニ至リテ越前ヘ立テ越前朝倉家ニ仕ランコトヲ望ム~云々」と記す。

『淡海温故録』には、「佐目 此処ニ明智十左衛門住ス云明智ハ本国美濃ノ者ニテ土岐成頼に続センカ後ニ成頼ニ背テ浪人シ当国ニ至リ六角高頼ヲ頼ミ寄席セケル処屋形日ハ土岐ノ庶流旧家ナリトテ扶養米ヲ与ラレ二三代モ此処ニ住スト云息十兵衛ニ至リテ器量優レタル者ニテ越前ヘ立テ越前朝倉家ニ仕ランコトヲ望ム~云々」と記す

犬上郡多賀町佐目に明智光秀伝説の存在が記されている。

佐目集落の南東端に佐目館が位置する、「十二相神社と鳥居の間に明智屋形(通称:十兵衛屋敷)」の伝承地がある。

 この地に末裔の見津(けんつ)氏が、現在も立派庭園付き屋敷にお住まいで、運良くこの日御当主にお話しを聞けた。(見津(けんつ)の由来は「明智光秀の光を見津に変え、見津(けんつ)」と読み、この地に住み続けている。)

庭が立派な【見津(けんつ)氏宅】・・・(明智氏の末裔宅のようです)

明智光秀の光(みつ)を三津(みつ)に置き­換え、三津(けんつ)と読み・・・多賀町議­さんの説で(自宅で調べましたので)

ご主人に腰越の城鳥瞰絵図(長谷川博美氏の作図の鳥瞰図)を見せて頂きました。十二相神社の鳥居

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査

    本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!