城郭探訪

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境目の城~長比(たけくらべ)城 近江国(山東) 

2015年11月17日 | 戦国山城

 境目の城~長比(たけくらべ)城

  戦国時代の近江では江北を支配する京極氏・浅井氏と、江南を支配する六角氏が勢力争いを繰り広げており、現米原市域は両者の勢力圏の境界に位置していました。またその東側は美濃と国境を接しており、領国の境界でもありました。こうした境界警備を目的として築かれた城を「境目の城(さかいめのしろ)」と呼んでいます。米原市長久寺の長比城はそうした境目の城のひとつで、元亀元年(1570)、浅井長政が織田信長に敵対し、近江と美濃との国境付近に築いた城です。標高400mの野瀬山の山頂部にあり、土塁(どるい)や食い違い虎口(くいちがいこぐち)などの遺構を見ることができます。

 今回の講座では、濃尾国境に位置する長比城跡を、文化財専門職員の案内で御覧いただきます。

 日時 平成27年11月15日(日) 10:20~16:30

 場所 講義:米原市柏原生涯学習センター(米原市柏原)講義・昼食

    講師 講題「戦国期の近江と美濃」 松下浩氏(滋賀県教育委員会文化財保護課)

現地見学:柏原宿歴史館・旧中山道柏原宿・長比城跡(米原市柏原・長久寺)・成菩提院

 現地探訪ガイド 桂田峰男氏(米原市柏原宿歴史館館長)

 行程・柏原宿歴史館(自由見学)→柏原宿本陣跡→八幡神社→長比城跡(※急峻な山登り)→成菩提院→JR柏原駅 全行程約4km 

柏原宿歴史館の近くに(箕浦館)

 

柏原宿本陣跡

八幡神社

長比城跡(※急峻な山登り)→

お城の概要

 長比城は、江濃国境(近江と美濃の国境)近くの中山道(現国道8号線)沿いにある標高(約390m)の山の山頂付近に築かれた山城である。

長久寺の神明神社鳥居をくぐり、神明神社と秋葉神社方面への分かれ道を秋葉神社側にに登る。神明神社方面から登ると、道なき急斜面を登ることになる。

 秋葉神社の北からは、5m程で左へ尾根道をのなるが、神社の横を30~40分ほども登ると虎口を設けた曲輪に出る。
曲輪は東西30m、南北20mほどで周囲を高さ1.5m~2mほどの分厚い土塁を廻らせ、東側に虎口を配し、食違い虎口としているのが印象的だ。

 食違い虎口を抜け、更に登ると山頂の主曲輪に出る。周囲は土塁で固められているが、南側、および北側の土塁は低くあまり明瞭ではない。
主曲輪の南側は山の斜度がきついために防御する必要性がなかったのか。北側の食違い虎口を抜けると北に延びる尾根へと続く。

歴 史

 長比城は須川山砦,大峰砦,干畳敷遺構(別名を田中の城)等と共に中山道沿いにあって、浅井氏の江濃国境(近江と美濃の国境)の防塞ラインの重要拠点として補強改築砦城である。

 元亀元年(1570)4月、織田信長は越前・朝倉氏攻めの軍を起こすと、近江路を経て若狭・国吉城に逗留した後、越前に攻め込んだ。

 織田軍は4月25日には疋壇城手筒山城(天筒山城)を落とし、手筒山城とは峰続きの金ヶ崎城を攻める織田信長に「浅井長政離反」の報せがもたらされた。

 信長は朽木谷の朽木元綱の協力を得て、越前敦賀から朽木を越えて(朽木越え)、京へ逃げ延びた。これが世にいわれる「金ヶ崎の退き口」である。

しかし、守将の堀秀村・樋口直房が信長の調略に乗り、戦うことなく呆気なく開城してしまった。

 美濃へ帰国して軍を立て直す信長に対し、浅井長政は江濃国境を固めるために中山道を押さえる長比城、および北国脇往還道を押さえる刈安尾城と上平寺城を改修した。

この時のことが、信長公記に

・・・たけくらべ・かりやす取出の事・・・・

さる程に、浅井備前、越前衆を呼び越し、たけくらべ・かりやす、両所に要害を構へ侯。信長公御調略を以つて、堀・樋口御忠節仕るべき旨御請なり。

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 「たけくらべ」は長比城のことであり、「かりやす」とは刈安尾城、および上平寺城のことである。また、堀とは門根城城主で浅井氏の重臣・堀次郎のこと、また樋口とは堀氏の家老・樋口三郎兵衛直房のことである。

 嶋記録には姉川の戦いの中で、「さるほどに元亀元年春の頃、織田信長、浅井下野守久政、同備前守長政がことにおよびしかば、小谷(小谷城)より箕口おさえとして、野瀬、堀次郎、同家の子樋口三郎兵衛之丞を入れおきけるが、その頃堀若年なりしが、三郎兵衛の所存にて、たちまち心変わりし野瀬の要害へ信長勢を引き入れ、おのが居城鎌の刃(鎌刃城)へ引きしりぞきしかば、刈安をはじめ近辺の城々ことごとく、あけしりぞけり、されば、今井小坊師丸母は堀次郎が伯母なり云々」とある。

 なお、嶋記録に記述されている「箕口」とは美濃口、つまり関ヶ原に通じる今須口のことである。

成菩提院へ

皇帝ダリア満開

2015.11.15 (日)連続講座「近江の城郭」【境目の城~長比(たけくら)城】「戦国の近江」

 主催:滋賀県教育委員会 協力:米原市教育委員会      

 参加者:60名(事前申込制) 参加費 無料

 〒521-1311 滋賀県近江八幡市安土町下豊浦6678 城郭調査事務所

  TEL0748-46-6144 FAX0748-46-6145 E-mail ma16@pref.shiga.lg.jp

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』・『日本城郭大系』・『信長公記』 

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本郷城 近江国(山東)

2015年11月17日 | 平城

お城のデータ

所在地:米原市(旧坂田郡山東町)本郷町 map:http://yahoo.jp/A6cfmE

現 状:公民館

区 分:平城

遺 構:石碑

築城期:室町期

築城者:黒田氏

城 主:黒田氏・荒尾氏

目標値:本郷公民館

駐車場:本郷公民館の駐車場

訪城日:2015.11.15

お城の概要

本郷集落の縦看板あり、入ってすぐの浄休寺手前を右に曲がると左手が公民館。

公民館前に御屋敷址の石碑があり、道を挟んで水路が流れる。

法證寺 この地を治めた黒田宗満の菩提寺。

黒田宗満を祭る荒尾神社が隣接します。法證寺には、寺伝の「黒田系図」があり、荒尾神社はかつて黒田神社と呼ばれていました。付近には宗満の屋敷跡を示す石碑が立っています

荒尾神社 滋賀県米原市本郷275

御祭神 黒田宗満公
御由緒
創祀は約400年前で、黒田氏の祖黒田宗満の霊を祀り、同家の氏神であったが、黒田氏が移住の後、姻族の荒尾氏一族が崇敬するところとなって、荒尾神社と称せられたと伝えられている。

歴 史

浅井氏の家臣、本郷長兵衛が当城を守り信長に対したが、浅井攻めの時樋口三郎兵衛が内応した。

 近江源氏佐々木氏の流れの黒田宗清が鎌倉末期から南北朝(宗清:弘安元年(1298年)生~延文二年(1357年)没)の間に伊香郡黒田に住し、この地にも居たとされます。

黒田氏が離れた後も黒田氏の一族の荒尾氏の居館であったようです。

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』、『浅井三代記』

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寺倉城 近江国(近江町)

2015年11月17日 | 館跡

お城のデータ

所在地:滋賀県米原市(旧・坂田郡近江町)寺倉334 map:http://yahoo.jp/pskA0J

区 分:平城

現 状:集落・宅地・神社

遺 構:なし

築城期:室町期

築城者:寺倉氏

目標地:槻倉神社

駐車場:槻倉神社前の公園駐車場

訪城日:2015.11.15

堀痕のような池

お城の概要

国道21号線添いの琵琶湖側、米原市寺倉集落。

遺構は無いようだが、槻倉神社の前に【堀痕のような池】・【印塔】が。

印塔

歴 史 

 坂田郡(旧近江町)寺倉の西隣の大字西円寺にある西円寺館は、今井氏の一族寺倉氏の屋敷とあげられ、旧米原町の三吉・寺倉には地頭山(じとうやま)城があって、堀氏が築城して守備した鎌刃城(番場)の支城であり、浅井長政の頃は今井氏が守備し、三吉の門根城は浅井家臣堀氏の屋敷だと記されます。

永正七年(1510)頃の浅井家臣に、坂田郡箕浦城を本拠とする今井肥前守がおり、西円寺館には、

今井ー族の墓

その墓が西円寺にあるといわれます。

寺倉にある禅寺・総寧寺(そうねいじ)は、亨禄年中に兵火にかかった後、新庄氏によって再建されました。

これらに見える今井・寺倉・堀・新庄はみな同族で、藤原秀郷流と称されます。(近江の寺倉氏とその一族について 安土城郭調査研究所)

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』・『浅井三代記』

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