城郭探訪

yamaziro

長浜市指定有形文化財(書籍) 「下坂家文書 697点」

2015年11月04日 | 文化財

 ・指定年月日:平成8年9月1日

 下坂家は、坂田郡下坂中村(長浜市下坂中町)に居住した湖北の有力な地侍(土豪)です。その活動は、南北朝時代から確認でき、足利幕府方(北朝)の武将として守護京極氏の軍事指揮下に入って活躍していたことが知られます。

 また、戦国時代には、一族の「左馬助」家は京極氏の家臣として、一方「四郎三郎」家は浅井氏の家臣として働いています。

四郎三郎は織田信長の小谷城攻めにあっても籠城し、その功績に対して浅井長政からは領地を与えられています。

江戸時代は地域の「郷士」的身分として、明治以降の近代は名望家として、地域では「幸内さん」と呼ばれ親しまれた家でもあります。
写真:浅井長政書状 下坂四郎三郎宛

 この下坂家に伝来した「下坂家文書」は、巻子(巻物)11巻、一枚もの302通、冊子143冊、絵図9枚などから構成されており、南北朝時代から明治初期の下坂家や地域の情勢を読み解くことができます。特に貴重なのは、冒頭に記した中世(南北朝時代~戦国時代)の古文書が収められた「甲巻」です。

この中には、戦国大名浅井氏三代の文書が、初代亮政の文書5通、二代久政の文書3通、先ほど記した三代長政の文書1通が存在します。このように合計9通にのぼる浅井氏当主文書が残るのは、同氏領国下の地侍伝来文書としては最も多く、本文書群の価値を高めています。

 その他、江戸時代の文書として、湖北の「郷士」間や彦根藩士らとの往復書簡、田村山の麓にあった只越社(現在は忍海神社に合祀)をめぐる裁判に関する古文書、さらに菩提寺・不断光院の経営に関する文書を収めています。また、下坂家から出た幕末の志士・文人として知られる板倉槐堂・江馬天江兄弟と、下坂家当主(2人の兄に当たる)高凱との往復書簡も多数現存し、解明が進んでいない幕末の長浜を考える際の基本史料とも言えます。

 昨年末、下坂家の当主であられる下坂幸正氏のご厚意で、この貴重な文書群を市へご寄贈いただきました。保管を担当します長浜城歴史博物館では、地域の魅力発信の題材として、有効に活用しつつ、永く保存していきたいと考えています。

   (『広報ながはま』平成27年1月1日号より)


長浜城(湖中城址)、近くの琵琶湖湖底で

2015年11月04日 | 平城

琵琶湖湖底に江戸期建物跡 水中遺跡で初、地震で水没か

2015年11月4日 18時35分

  滋賀県長浜市公園町の豊公園沖の琵琶湖底から、江戸時代後期とみられる木造建築の跡が見つかったと、滋賀県立大人間文化学研究科博士後期課程の中川永さん(27)らのグループが4日発表した。グループによると、長浜城(同県長浜市)近くの琵琶湖の湖底で、立ったままの柱8本や石積みが見つかったと発表した。水中遺跡で木造建築の遺構が分かる柱の発見は極めて珍しいという。地震で水没したとみられ、中川さんは「地震の以前は長浜城の敷地がさらに広かったことを示す遺構」としている。

 19世紀初頭に建てられた鎮守社とみられ、1819年の文政近江地震で湖底に沈んだ可能性があるという。県立大大学院生で、同研究会の中川永代表(27)は「液状化現象で、土地が地滑りしたか、沈没したのだろう」と推測している。

 付近一帯は長浜城遺跡と呼ばれており、長浜城歴史博物館となっている長浜城がある。建物跡は沖合約100メートル、水深約1・8メートルの湖底で見つかった。

写真は、2014年夏、滋賀県長浜市沖の琵琶湖底で発見された社の建物部分と見られる柱(右)とひさし部分と見られる柱=滋賀県立大琵琶湖水中考古学研究会提供
 
遺構は、2014年8月、湖岸にある「太閤井戸跡」から西約100m、水深1.8m地点で発見。幅1.8m、奥行き2.1mあり、高さ13cm~65cmの柱8本を確認した。

 8本のうち4本は建物の四隅の柱、2本はひさしの柱とみられ、形状などから建物は社のようなものとしている。放射性炭素年代測定で柱の木は1800年代初頭に伐採されたと分かった。

 中川さんによると、江戸期の琵琶湖岸の標高は約85m。発見地点が82.6mであることから、1819年の「文政近江地震」で水没したと推定した。

 長浜城跡は現在の豊公園。同城は1615年の大坂夏の陣で豊臣家が滅亡した後は廃城となり、その後は田畑になったと伝わる。中川さんは「今回の調査で現在地よりはるか沖合に長浜城の敷地が広がっていたと考えられる」としている。

 琵琶湖底の遺跡を調査してきた林博通・県立大名誉教授は「柱がそのままの状態で発見されたのは水中遺跡研究史上、画期的」と話し、日本の城郭に詳しい県立大の中井均教授は「長浜城の敷地が水没したことが明らかとなった。今後の調査に期待できる」としている。

 14、15の両日午前10時から彦根市八坂町の県立大で報告会を行う。

岐阜新聞:2015年11月04日 18:35・京都新聞2015年11月04日 23時00分
 

安土考古博物館 開館23周年記念展示

2015年11月04日 | 番外編

開館23周年記念展示

昭和天皇の来館 企画展の冊子

~これまでの歩み一覧~

安土城・観音寺城のジオラ

    博物館から安土城祉(遠望)安土山・繖山(古地図) 安土城図江州安土古城図安土城天主(宮上茂隆復元案)を模した(伊勢・安土桃山文化村にある天守風建物)

 

滋賀県立安土城考古博物館

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
 
Japanese Map symbol (Museum) w.svg 安土城考古博物館
Spacam01s2816.jpg
施設情報
正式名称 滋賀県立安土城考古博物館
前身 滋賀県立近江風土記丘資料館
専門分野 考古学
事業主体 滋賀県
管理運営 滋賀県
年運営費 滋賀県
延床面積 5,846m²
開館 午前9時
閉館

午後5時

・ただし入館は午後4時30分まで

所在地 521-1311
滋賀県近江八幡市安土町下豊浦6678
位置 http://yahoo.jp/mblQrf
 
 

滋賀県立安土城考古博物館(しがけんりつあづちじょうこうこはくぶつかん)は滋賀県近江八幡市安土町下豊浦にある城郭と考古を主たるテーマとする登録博物館。1992年に開館した。

歴史公園「近江風土記の丘」の中心地である文芸の郷に、その構成要素である特別史跡安土城跡をはじめ、観音寺城跡、瓢箪山古墳、大中の湖南遺跡(だいなかのこみなみいせき)の4件の国の史跡と文化財建造物群の調査研究と保存、普及活動を担う拠点施設として設立された。1970年に開設された滋賀県立近江風土記の丘資料館の後身にあたる。特別展、企画展、博物館講座などの催しもさかんである。

 


講演; 中世惣村と菅浦の景観

2015年11月04日 | 講座

 史料館新営20周年記念特別展
 

重要文化財菅浦文書を読み解く




 日  時:10月13日(火)~11月20日(金)
        ※土・日・祝日休館
        (ただし、10月31日、11月7・8日は開館します。)
 開館時間:9時30分~16時30分
 場  所:滋賀大学経済学部附属史料館1階展示室

  経済学部附属史料館では平成24年度以来、科学研究費助成事業「中・ 近世「菅浦文書」の総合的調査・公開と共同研究-中・近世村落像の再検討」の採択を受けて、当館に寄託されている菅浦文書の再調査を実施してまいりました。今年はその事業の最終年度にあたり、また史料館が独立棟として開館してから20年目にもなります。
 そこで、これまでの調査と研究成果の公表を兼ねて、史料館新営20周年記念特別展「重要文化財菅浦文書を読み解く」を開催いたします。当館で菅浦文書を一般公開するのは平成17年以来であり、実に10年ぶりとなります。今回の展示では、「菅浦の生活空間と生業」「菅浦と浅井氏」「菅浦文書の花押・略押」「湖(うみ)と山の権利をめぐって」といったコーナーを設けて、中世菅浦の多彩な世界に迫ります。菅浦文書のうち21点を一挙に公開しますので、お見逃しなきよう、ぜひご観覧にお越し下さい。


 菅浦与大浦下荘堺絵図
菅浦与大浦下荘堺絵図(菅浦文書722号)
長浜市西浅井町菅浦区寄託 


 現在の菅浦(遠景)
現在の菅浦(遠景) 

 特別展関連講演会

   10月31日(土)13時30分~  於 経済学部第2校舎棟第21講義室
  講演「中世菅浦の景観」       長浜市長浜城歴史博物館館長 太田浩司氏
  シンポジウム「菅浦の歴史と史料を語る」        科研費研究グループ 


共催:科研基盤研究B「中・近世「菅浦文書」の総合的調査・公開と共同研究」
   課題番号(24320127)グループ
後援:長浜市長浜城歴史博物館・(公財)陵水学術後援会

講演「中世菅浦の景観」…長浜市長浜城歴史博物館館長 太田浩司氏

レジュメ

長浜市西浅井町菅浦は、琵琶湖の最北端。深く入り組んだ湖岸沿いに竹生島と葛篭尾崎の先端。標高400mの山々に包まれた菅浦集落。

 集落の入口(西側)には「四足門」と言われる茅葺きの門があり、村の出入りを監視する要害の門、今で言う関所の役目を果たしていた門だ(扉も無いため、集落を守る象徴的な役割)。また別名を「四方門」とも呼ばれ近年までは東西南北(現存するのは東西の二箇所のみ)の集落入口に設置され集落内を明確にしていた。この四足門は菅浦に残された文書から中世後期からすでに存在していたる。

西門をくぐると、淳仁天皇を祭神とする須賀神社がある。この地域には淳仁天皇の伝説が残っている。

菅浦の人々は淳仁天皇の氏子として暮らして来きた。 葛篭(かご)に隠れて舟で乗り…葛篭尾となり、葛篭尾崎と地名になっている。交通手段は船が主で陸の孤島だった、隠れ里。

 菅浦の地には、奈良時代恵美押勝(えみのおしかつ)の乱で道鏡や孝謙上皇に負け、廃位になった淳仁(じゅんにん)天皇が住んでいたという伝説が残っている。淳仁天皇は、幽閉地で憤死したといわれ、須賀神社の裏山に淳仁天皇の御陵という塚が残っている。菅浦の村に入る東西の道には、四足門と呼ばれる茅葺きの門が残っている。かつては、ここで村に入ってくる外来者の監視にあたった(扉も無いため、集落の団結を象徴的な役割)。

また、鎌倉時代から明治時代初めにかけて作られた村落や漁村生活を記した菅浦文書が残されており、菅浦郷土資料館に保存されている。
<重文>菅浦文書1261点、菅浦与大浦下庄堺絵図(須賀神社)

・中世の村落共同体『惣村』の資料でも著名である。

・村人が朝廷へ食物を納める供御人(くごにん)だったことが分かる誓約書、警察権や裁判権を村が所持していたこと示す『村掟』

・特に、隣村の大浦との二世紀渡る日指(ひさし)・諸河(もろこ)の田畑めぐる闘争は、『菅浦文書』の中に多くの訴状資料を残す原因

菅浦は三方山に囲まれ、前面は湖だったので、集落周辺には田畑は無かった。村人は北側の山を越えて約2.3km離れた日指・諸河の谷まで耕作に行っていた。菅浦の北の集落 大浦が日指・諸河を大浦庄内と主張するのに対し、両村の境界がこれらの田畑より北にあり日指・諸河を菅浦庄内と応戦する。

この対立は、村落間の合戦に発展し、それを村人が記録した『合戦記』が現存する。のも同文書の価値を高める。

 菅浦は中世から『惣村』として強固な団結力を持っていた。それを確認できるのが『四足門』である。現在は、西門・東門の2棟のみだが、かつては山から集落に入る2本の道にも、南門・北門にも存在した。

  琵琶湖上をゆく【葛籠尾崎湖底遺跡と菅浦】 菅浦 2013.9.21

波よけの石垣 

 安相寺(長浜市西浅井町菅浦)

概略

浅井長政の子、万菊丸(万寿丸、幾丸、虎千代丸とも)が小谷落城の際、織田信長の追手から逃れるためこの安相寺に匿われたと『布施山温古記』に伝わる。安相寺は福田寺の末寺で、後に万菊丸は伝法院正芸と称し、福田寺の十二世を継いだといわれている。
万菊丸の縁のために福田寺と安相寺は毎年七月に進物を送りあうのを欠かさなかったという。

天嶮の要塞に守られた村

万菊丸は存在自体疑問視される声が強く、なかなか話題に上ることもありません。
しかし、同市湖北町二俣には、万菊丸が逃れるときに守護したという中島左近の子孫が現在され、当時の槍が残されているそうです。
上山田には万寿丸の母と思しき女性(お弁の方)の伝承もあります。
もちろん、これだけ伝承があるなら万寿丸が存在したに違いない!という逆説のあり、いなかったとは言い切れない…
安相寺は、万寿丸を匿うためにこれ以上の場所はない。三方を山にもう一方は湖に守られ、他の集落とは隔絶した菅浦という土地。

須賀神社がある

鳥居から拝殿までは長い参道が続き、その参道の中ほどから先は神域の清浄保持のため土足で立ち入ることが出来ない。もともとは素足で参拝するという村の決まりであったが、今では観光客のことを思ってか、参道の左手に靴箱とスリッパが用意されている。

橋板

講演終了

 滋賀大学…経済学部キャンパス

新営20周年記念特別展「重要文化財菅浦文書を読み解く」を会場

史料館新営20周年記念特別展(冊子) 


クマに注意してください!!(米原市HP)より

2015年11月04日 | 番外編

クマと遭遇しないために

冬眠前の11月の目撃情報が一番多いようです

  1. クマに自分の存在を知らせてください。
    クマは臭覚・聴覚が人より優れており、人の接近をいち早く察知し、人を避けます。ラジオ・笛・鈴などで音を出して行動してください。
  2. クマは明るい場所を避けますので、見通しのよい明るい場所で行動してください。クマの糞、足跡などを見つけたらすぐに引き返すか迂回してください。
  3. 早朝や夕方の外出は特に注意してください。
  4. 人家周辺でも細心の注意をしてください。

それでもクマに遭遇してしまったら

  1. 子グマに出会った場合、そっと立ち去ってください。見えなくても親グマが近くにいて危険です!
  2. クマまで距離があるようなら、そっと立ち去ってください。
  3. 急に大声をだしたり、ものを投げつけたりするとクマは興奮します
  4. 走って逃げず、静かに退避してください。クマは人間より早く走ることができ、逃げるものを追いかける習性があります。クマから目を離さないようにして、背中を見せず、ゆっくりと後退してください。
  5. クマからの攻撃が避けられないときは、頭や首などの急所を守ってください。攻撃が避けられない状況になったら、すばやく地面の窪みにうつ伏せになり、両手で首の後ろをガードします。
糞_クマ ★握りこぶし以上の大きさのフンでまとまって落ちています。
★クマは消化器官は肉食獣に近く、単純な構造のため、食べたものをそのまますりつぶしたようなフンになります。ドングリを食べたクマのフンは黄土色、リンゴを食べたクマのフンはまるですりおろしリンゴのようです。くさい匂いもほとんどなく、食べたものそのままの匂いがします。(写真は秋に、ドングリを食べたフンですが、少し古くなったものです)
糞_シカ

★俵状のフンがころころと転がっています。
カモシカのフンも同じ形状をしていますが、シカとは異なりまとめて糞をします(1か所にフンが300粒以上あれば、カモシカと考え てよいとされています。)

痕跡_イノシシ
★長細い蹄の跡が2つ。シカと似ていますが、その後ろに1対の副蹄の跡がつくのがイノシシの特徴です 。
しかし、副蹄は写真のような泥地など、柔らかい地面でないと跡がつきません。
その場合はシカとの区別は難しいです。掘り返し跡や糞を探して、シカと区別しましょう。
痕跡_クマ
★こんなビックサイズの足跡はクマしかいません。
子グマの足跡は小さいですが、大きめの手のひらとアーモンド形の肉球が特徴です。
その他痕跡_掘り起し ★イノシシは土中のミミズや草木の根を探し、地面を掘り起こします。
ライン
その他痕跡_ぬた場
★イノシシやシカは体についたダニやノミを落とすために泥浴びをします。
このような泥浴び場を、「ぬた場」といいます。
ライン
その他痕跡_体こすり ★泥浴びをしたのち、体を木の幹にこすりつけます。
ライン
その他痕跡_爪痕 ★クマは秋にドングリを食べるため、木に登ります。その時に爪痕が木の幹に残ります 。
こんな大きさの爪痕を残すのは、日本にはクマしかいません。

         本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!