城郭探訪

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塩津浜歴史研究会 20周年記念講演会

2015年11月10日 | 講座

塩津浜歴史研究会 20周年記念講演会     2015.12.16up

 

 

塩津海道常夜灯

塩津浜山城

塩津城山城

 

琵琶湖水運と塩津浜

北陸の要敦賀港と琵琶湖水運を結ぶ五里半越えの塩津海道

中嶋 守治(塩津浜歴史研究会顧問)

■北陸・奥羽と京都・大坂を結ぶ荷物の集積港として栄えた塩津浜

 四方より花吹入れて鳰の海  はせお
 近江所縁の松尾芭蕉の句にもある「鳰の海」は「あふみのうみ」「淡海」「近江」「太湖」ともいい、古来より親しまれてきた琵琶湖の古名である。歌に詠まれた琵琶湖は、物資運送の水路として古代から利用されてきた。
 10世紀(延長5年)に完成した「延喜式」第26巻「諸国運漕雑物功賃」条の中に「加賀。能登。越中等国亦同。自敦賀津運塩津駄賃。米一斗六升。自塩津漕大津船賃石別米二升」云々とあって北陸からの物資は海路で敦賀に集め、敦賀~追分~沓掛~塩津浜に至る「塩津海道」を通り湖上を船によって、京都に送るよう指示している。
「塩津海道」は別名「深坂越え」と呼ぶ。越前と近江に通ずるこの海道は難路な峠道を越えなければならなかった。「上り千頭、下り千頭」と牛、馬が漸く運ぶ物資と共に、力自慢の男たちがハァハァと肩で息をしながら大荷物を持ち上げてくる姿を谷鮟鱇(たにあんこう)とユーモラスに呼んだという。
 陸路~湖路の中継地、塩津浜は多くの問屋、旅籠、商家などが軒を連ね宿場町として大変なにぎわいを見せていた。『山本山がのいたらよかろう塩津が見えてなほよかろう』と「鄙の一節」にあって塩津のにぎわいへの羨望が歌になるほどであった。港は、湖の手前で鉤の手に曲がっている集落横の大坪川が利用されていた。波風に左右されず係留できる天然の良好に沿い、立ち並ぶ白壁の大きな倉は威風を誇っていた。

■江戸時代から発達する琵琶湖独特の帆船丸子船

丸子船

 江戸期に入ると物資の運送量は増加の一途をたどり、湖上に浮かぶ小船では対応できなくなった。そこに登場したのが、大型木造帆船丸子船であった、船の両側に長い丸い木を半分に割り付け(重木といい重心の安定を図る)たことから「丸子」とか「丸太船」とも呼ばれた。百石船(米250俵積み)以上のものを大丸子、それ以下のものを小丸子として区別していた。最大490石船の記録もある。一般的には100石積みから200石積みの船が多く、港が保有する隻数が物資輸送量を表す指針となっている。
 寛文4年(1664)敦賀の記録によると、主な上がり荷は、米75万6千俵をはじめ四十物(あいもの・塩魚)、昆布、塩鮭、紅花等。下り荷は反物、陶磁器、茶などとなっている。
 一方、陸路運送の難所、深坂越えを避け新道野越えが整備された。距離は半里(2km)長くなったが勾配、標高で有利になった塩津港には200隻を超える丸子船が従事し、荷待ちの船は港口付近に埋め尽くされていたとある。夜明け前、内嵐(陸地から湖上に向かって吹く風)に乗って次から次へと出航する丸子船の白い帆が沖合いで朝日を受けてまぶしいように光るありさまは、実に美しいものだったといわれている。

 

にぎわいを見せていた明治時代の塩津港(絵図)

■蒸気船の登場で始まる大量運送の戦国時代

 江戸末期になると、北国の各藩は藩主護衛のため、琵琶湖に自藩の持ち船を作り始めた。加賀大聖寺藩士の石川璋は藩主に「西洋では石炭を燃料とする早船を使用している、この早船を使ってはどうだろう!」と進言したところ、狂人扱いされたという。石川は大津百艘仲間の一庭啓二と二人で長崎に行き、英国人から陸用機関2組を買い入れ、大津に戻ってきた。船の横に大きな外輪、中央の長い煙突から黒煙を吐きながら「一番丸」(14馬力・4カイリ)が湖上に船出したのは明治2年3月3日であった。

江戸期の造り酒屋

 文明開化のエンジン音も高らかに走る蒸気船は、今津~大津間を5時間がかりののんびりした船旅であった。しかし、風雨に左右されない蒸気船は貨客運送の主力となり、次々と汽船会社が設立。貨客の争奪、サービス合戦、速力競争と汽船戦国時代を呈した。大量物資運送に対応するため、造船される蒸気船も大型化され、同15年には日本最初の鋼鉄船「第一太湖丸」(516総トン)、「第二太湖丸」(498総トン)も塩津~大津間に就航。
 これら大型船に対応するため、塩津港も湖に面した集落の南に移した。郡史によれば、塩津浜の街中のにぎわいは「殷賑を極めた」とあり、「街中は旅人や、牛馬車の往来繁く、荷物を扱う問屋は、百二十戸が軒を連ね、そのうち五十人以上が働く問屋は五軒あったとあり、また二十人以上泊まれる宿屋が二十数戸、飲食店は三十数戸を数え、歩くのにも不自由をきたした」と表現されている。

■貨客運送は船から鉄道に、琵琶湖水運繁栄の歴史に幕

明治に入ると日本各地に鉄道が敷設され始めた、明治15年、敦賀~長浜間に鉄道が開通。しかし、陸蒸気と称された汽車は当時の庶民にとってはまだまだ高嶺の花であった。ヤンマーディーゼルの創始者、山岡孫吉氏によれば「明治三十六年十六歳の二月三日早朝、山を越え片山港から大津まで十六銭の蒸気船に乗り大阪に向かった、当時の汽車賃は八十銭であった」と回顧している。やがて鉄道が庶民の貨客輸送の主力になると、蒸気船の姿も一気に消えてしまった。わずかに残った丸子船も高度成長の波に飲み込まれた。塩津浜繁栄の歴史は今は昔、鄙里の岸に繰り返す波音が悠久の時を今静かに刻んでいる。

船員ほけん2002年3月号に寄稿

 


伊庭城(伊庭陣屋)   近江国(能登川)

2015年11月10日 | 平城

陣屋橋を渡ると勤節館が伊庭城跡とされる陣屋

お城のデータ

所在地:東近江市(旧神崎郡能登川町)伊庭町  map:http://yahoo.jp/8Wj4jK

区 分:平城(環濠集落=水城)

築城期:室町期 建久年間

築城者:伊庭高実

陣屋主:三枝氏(江戸期)

遺 構:石垣、堀、説明版

目標地:勤節館

駐車場:勤節館

訪城日:2015.11.6

ぢんやばし

お城の概要

城跡とされる伊庭集落、現在でも豊富な水量を誇る水路が縦横にめぐっており、当時は堅固な水城であったことを窺い知る事が出来る。

伊庭城址は、明治時代に伊庭小学校に、昭和23年小学校後に現在勤節館が建てられて保存されています。城址の四囲には石垣護岸(江戸期の石垣)の水路で囲い環濠集落・水城が残り、水堀の風情が残されている。

近年までは、伊庭川の水路(堀)は田舟で行き来し、田・農作業の水路にもは活用されいた、伊庭の集落の中心部にある。

歴 史

保元元年(1156)に崇徳上皇から源為義が伊庭荘を賜ったと「平家物語」に見え、鎌倉時代(1185頃~1333)には九条家の荘園であった。

伊庭城は、佐々木氏宗家である佐々木経方の子・行実の四男・高実が建久年間(1190~ 1199)に伊庭の地を領し、築いたとされる城郭である。

 南北朝(1336~1392)の動乱期を迎えると伊庭氏は佐々木六角氏に属して活躍し、守護代に任じられるとともに、伊庭内湖周辺に広がる水田地帯の豊かな生産力や琵琶湖の湖上交通の掌握などを背景に強大な権力を持つようになっていった。

特に、佐々木六角氏による寺社や将軍奉公衆の領地の押領に対し、長享元年(1487)の将軍・足利義尚による第一次六角征伐および延徳3年(1491)の足利義材による第二次六角征伐を受け、山内・伊庭両氏を中心に家臣団が団結してこの難局を乗り越えるが、第二次六角征伐において六角氏一方の旗頭である山内政綱が戦死したことで、伊庭氏に権力が集中することになり、六角氏にとって伊庭氏は危険な存在となっていった。

伊庭氏の勢力拡大を恐れた佐々木六角氏は、文亀2年(1502)六角高頼が伊庭貞隆の排除を企て、伊庭の乱が勃発した。貞隆は一旦湖西へ逃れるが管領細川政元の援助を得て攻勢に転じ、高頼を蒲生氏の音羽城に追い詰め、地位を高めつつ室町幕府の仲介で和睦している。

 永承4年(1507)管領細川氏の内紛から将軍職を巡る争いへと発展し、これに伴い六角氏と伊庭氏の対立も再燃し、永正11年(1514)に水茎岡山城主・九里信隆が高頼によって謀殺されると、伊庭貞隆・貞説父子は信隆の子・浄椿と組んで六角氏に抗した

伊庭氏らは江北の戦国大名浅井亮政の支援を受け、永正13年(1516)には観音寺城を攻めたが失敗し、永正17(1520)高頼の子・定頼の軍勢に攻められた伊庭父子は九里氏とともに水茎岡山城に立て籠もったが敗れて没落した

江戸末期の能登川知行図(彦根藩 井伊家・旗本 三枝家・郡上藩 柳沢家・山上藩(種))

所在地:東近江市(旧神崎郡能登川町)伊庭町 map:http://yahoo.jp/KTL_8p
現 状:伊庭地区事務所・宅地

区 分:平城 比高:ーーm 
築城期:室町期 築城者:伊庭氏


遺 構:堀・石垣・説明板
目標地:伊庭地区事務所

駐車場:伊庭地区事務所

訪城日;2015.11.9

お城の概要

 現在は集会所として使用される勤節館のある一帯であったとされ、方形状の居館跡が残ります。周囲の石垣が残り堀跡と思われる小川が城址を巡ります。小字名を「西殿」と呼ぶ。その広さは100m四方である。東隣には小字「東殿」が、さらに東に「古城」なる小字が残っており、伊庭氏時代の伊庭城の正確な位置は分かっていない。 

 

お城の歴史

 建久年間(1189年~1198年<建久三年(1192年)鎌倉幕府成立>)に佐々木行実の四男高実が伊庭氏を名乗りこの地を領しました。

元禄十一年(1698年)に旗本三枝氏が領主となりここに陣屋を構えました。 <現地案内板より>

伊庭城は、江戸時代に永禄11年(1697)旗本三枝氏が伊庭領主となって陣屋を構え、現在は集会所として使用される勤節館のある一帯であったとされ、小字名を「西殿」と呼ぶ。その広さは100m四方である。東隣には小字「東殿」が、さらに東に「古城」なる小字が残っており、伊庭氏時代の伊庭城の正確な位置は分かっていない。

歌碑勤節館の前に室町時代の有名な連歌師宗祇の生誕碑

能登川・林中央公園の連歌師宗祇の銅像(旅好きな連歌師)。……東北の白河、北九州の太宰府、それに越後へは7回訪れ、最後は旅先の箱根(湯本)で亡くなった。)

 伊庭城と宗祇、案内板によると連歌師宗祇は伊庭氏の出身で出生の地。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、東近江市史能登川の歴史、現地説明板

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!


武曽館 近江国(高島)

2015年11月10日 | 丘陵城

 お城のデータ

所在地 : 高島市(旧高島郡)高島町武曽横山 map:http://yahoo.jp/Bv006D

区 分:丘城

現 状:宅地・竹林

築城年 :室町期

築城者:横山頼信  (佐々木高信の孫の頼信が高島氏を称え、その孫・頼信

遺  構:土塁、堀

目標地:日吉神社

駐車場:日吉神社の空きスぺース

訪城日:2015.11.7

 

お城の概要

武曽集落は丘陵先端部に位置し、鴨川支流を西の堀に琵琶湖に向けて構える。

詰め城部カ? http://yahoo.jp/vkXwPs

『日本城郭大系』には、武曽集落の氏神である日吉神社の北西背後の丘陵上に土塁と堀に囲まれた削平地を横に連ねた遺構が残っているとする。

また、『滋賀県中世城郭分布調査』には、城郭体系の山城とともに日吉神社南東の土塁が残る居館跡を報告しており、武曽城は居館と詰城からなる城郭であったようだ。

武曽館

  • 居館は、武曽集落の東端付近で日吉神社の鳥居から100m程、東に行った道路北側の資材置き場のような建物の裏手にある。                               藪の中に西面、北面、南面の明瞭な土塁と堀が残存している。北西角では折れが見られ、東面は斜面となっているようだ。が、遺構付近の竹の繁茂は激しく、郭内へは立ち入り困難。

  • また、日吉神社の鳥居から100m程、西に行った道路の北側添いに土塁を伴った郭(館)が鴨川支流を堀に残存する。横山氏の一族か?。臣下の屋敷か?。

お城の歴史

横山城の支城で、佐々木氏庶流で高島七頭の一人で武曽横山を所領とした横山氏の城館とされる。

横山氏は、近江国守護・佐々木信綱の二男・高信が高島郡に移り、高信の孫の頼信が高島氏を称え、その孫・頼信が横山に移り住み横山氏を称えたことにはじまるとされる。

横山下野守高長のとき、浅井長政に攻められてその軍門に降った。しかし、元亀三年(1572)に織田信長に攻められて降伏した。翌天正元年(1573)には、同じく信長に降った(南西500mのところにあ)る伊黒城が、長政に攻め落とされている。その後の武曽城および横山氏について詳細は不明である。

『日本城郭体系 11』によりますと、所在地は「高島郡高島町武曾横山」、形式は「平山城」です。城の歴史は「武曾城は、横山城の支城で、横山下野守高長のときに浅井長政に攻められて、横山の本城と共に敗れ浅井氏に降った。そして元亀三年(一五七二)、今度は織田信長の攻略によって降伏する。現在、武曾には字名として中殿・中殿前・大門等々が残っている。武曾城は、日吉神社の北西に位置し、南面は鴨川が西から東へ流れている。武曾城の本城横山に対する役割は、横山城が八田川を中心に北面を治めていたのに対して、武曾城は立地から鴨川を中心に横山城の南面を守るために築城されたものと解釈することが許されるであろう。」とあります。なお、高島郡高島町武曾横山は現在高島市武曽横山になっています。

次回に・・・・山上『詰め城』は、ここかhttp://yahoo.jp/vkXwPs

武曽集落(武曽城)  http://yahoo.jp/Am7OzR

  • 日吉神社・武曽集落

ここから詰め城へ

日吉神社境内の神社 土塁・平削地

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、 日本城郭体系、高島の城、淡海の城

       本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!