お城のデータ
所在地:東近江市(旧神崎郡)永源寺町山上 map:http://yahoo.jp/yHANDI
別 名:山上陣屋(江戸期)
区 分:丘陵城
築城期:平安末期 明応8年(1499)頃
築城者:小倉右近大夫賢治
遺 構:堀・石積・城跡碑
目標地: 安養寺
駐車場:安養寺の参拝者用駐車場
訪城日:2015.11.14
和南川の氾濫で流出した、山上城の跡地に安養寺を建立を生保4年に建築した。
お城の概要
安養寺があり、ここが城跡。安養寺山門前に【城址碑と文字】
山上城は愛知川の左岸、鈴鹿を超えて伊勢に通じる八風街道(国道421号線)沿いに築かれており、現在の浄土宗向上山安養寺、および旧永源寺役場一帯が城址である。
安養寺境内には石碑が建てられており、この石碑付近が本丸跡とされる。安養寺東側の竹藪との境には堀跡が残っている。
歴 史
愛智郡小椋(現:東近江市(愛東町)小倉)に平安末期より小倉城を本拠とした小倉氏一族の城です。
小倉氏は室町中期に分裂し山上城を居城とする小倉氏は西家と呼ばれるようです。
山上城は小椋荘、柿御園荘一帯に勢力を持っていた小倉氏が、伊勢へ抜ける間道の天険を有するこの地域に目をつけ、応仁の乱の頃より山上城を主力に山城として山田城、八尾城を築いたものである
山上城は南北朝時代より小倉氏累代の居城として栄え、元来小倉(愛知郡愛東町小倉)を本拠としていたにもかかわらず、戦国時代になると、高野にも本拠が置かれるような形になった。
小倉氏の居城は発祥の地愛知郡小椋庄に小倉城を有したが、室町中期に小倉家は3~4家に分家し小倉本家は蒲生郡佐久良庄に移り、佐久良城を築いて本城とし、周辺に四谷城・鳥居平城・長寸城等を築いて家臣を入れて守らせた。
分家した小倉東家は愛知川小椋庄を支配して高野城ならびに小倉城を居城とし、神埼郡御園庄(山上郡)を支配する小倉西家は山上城を本拠として和南城・山田城、相谷城・九居瀬城・八尾山城等の支城を設けた。
小倉氏は、永禄2年(1559)に京都から帰途につく織田信長を、八風街道越えで伊賀に抜ける手引きをしたことを理由に六角承禎の怒りを買い、殺されてしまう(和南山の合戦)。
元禄11年(1698)徳川幕府譜代の大名稲垣安芸守重定が1万3000石の諸侯に列せられて常陸の国より、近江国野洲・蒲生・神崎などの地を賜って神崎郡山上郷に山上陣屋を設けたのが山上城の跡地である。
お鍋の方
佐々木六角承禎の家臣 土豪:高畠源十郎(真二郎とも)の娘として近江八幡小田で生まる。佐々木六角承禎の重臣 はじめ高野城主である小倉実房に嫁いで、この間に二人の男児(小倉甚五郎・小倉松寿)をもうけた。実房が戦死した後は信長の側室となり、織田信高(七男)・織田信吉(八男)・於振(水野忠胤・佐治一成室)を儲けている。
その後、鍋は信長の側室となり、その後を岐阜で暮らすこととなった。岐阜では七男信高、八男信吉と、後に水野忠胤・佐治一成の室となる於振を生んでいる。また、先夫の子二人は信長により庇護されたが、松千代は本能寺の変で森蘭丸・布施九郎らと共に討ち死にした。
鍋は信長の2人の子供を抱え小田(近江八幡)に住む姉の家に身を寄せたといわれている。
天正10年(1582)に本能寺の変で信長が死去した後の鍋は、信長の菩提を弔うことに尽力したといわれ、それを見た羽柴秀吉は鍋は、豊臣秀吉の奥向きの女房(侍女)として取り立てられる。秀吉や、秀吉の正室の高台院、側室の京極龍子から多大の信頼を得る。
近江愛知郡内に182石を与えた。天正11年(1583)にさらに400石が加増された。また、長男の甚五郎が加賀松任城主に任じられたという話もあるが定かではない。
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦で信長との子の信吉と共に、石田三成側に立ったため、母子共に、徳川家康によって領地を没収される。
その後、高台院と豊臣秀頼から禄を与えられ京都で暮らし、慶長17(1612)年に没した。
その後信吉はかろうじて高家としての扱いを受け京都で晩年を過ごし、慶長17年(1612)に死去した。墓所は信長と同じ京都の大徳寺塔頭総見院にある。
小田(近江八幡)には、お鍋さんの屋敷跡」が残されており、お鍋の弔いお鍋塚の伝承地の「お鍋の松」は枯れ、今もその後に植えられた3本の松が残されている。
信長を暗殺した敵を憎むお鍋の妄念は消えようとしても消えず、いつしか「白蛇」のたたりとなって、この堀を掘ったり、松を切ろうとすると発熱させたりしびれさせたりするという言い伝えも、今に伝えられている。
小倉鍋(おぐらなべ)(鍋(なべ)の方(かた))は、本能寺の変後信長の遺品を岐阜へ持ち帰り、信長が岐阜時代に祈願所としていた崇福寺へ納めて、信長・信忠(6月2日、二条御所で明智光秀勢に襲撃されて討死)父子の位牌を安置し、供養塔を建ててここを廟所としました。
このことを同寺に依頼した鍋の書状が二通残されており、いずれも流麗な仮名文字で書かれています。
一通は、「天正拾年(1582年)六月六日」の日付があり、信長が本能寺の変で倒れた4日後です。変後の混乱を恐れて信長の祈願所であった崇福寺へ「上(うえ・信長)の位牌所」とする旨を伝え、あらためて保護を依頼したものです。
もう一通は、信長の重臣であった丹羽五郎左衛門(長秀)へあてたもので、日付はありませんが、前の書状に近い時期と考えられます。
羽柴秀吉が明智光秀を討った「山崎の戦い」(6月13日)の後、長良(岐阜市)に陣取った長秀へ、鍋の方が崇福寺で信長との間に生まれた三人の子に「親子の忌中」をさせたいので、長秀に同寺の警護を命じたものです。
鍋の方は近江国の土豪高畠源十郎の娘です。同国八尾山城主小倉賢治に嫁ぎましたが、夫が反信長の六角氏に攻められて討死しましたので、信長を頼って岐阜城下へ賢治との間に生まれた二人の子どもを連れてやって来たのです。
信長は彼女を側室とし、岐阜城下に居館を与えて保護しました。二人の間には、信高・信吉・於振(おふり)の二男一女が生まれています。
崇福寺は現在でも信長ゆかりの品が残されているほか、毎年10月第一土曜日にはぎふ信長まつりにあわせて信長公追悼式が行われています。
参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査」・『近江小倉城』・『神崎郡志』『織田信長と岐阜』、他
今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。感謝!!