城郭探訪

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山上城(山上陣屋) 近江国(永源寺)

2015年11月18日 | 丘陵城

お城のデータ 

所在地:東近江市(旧神崎郡)永源寺町山上 map:http://yahoo.jp/yHANDI

別 名:山上陣屋(江戸期)

区 分:丘陵城

築城期:平安末期 明応8年(1499)頃

築城者:小倉右近大夫賢治

遺 構:堀・石積・城跡碑

目標地: 安養寺

駐車場:安養寺の参拝者用駐車場

訪城日:2015.11.14

和南川の氾濫で流出した、山上城の跡地に安養寺を建立を生保4年に建築した。

お城の概要

安養寺があり、ここが城跡。安養寺山門前に【城址碑と文字】

山上城は愛知川の左岸、鈴鹿を超えて伊勢に通じる八風街道(国道421号線)沿いに築かれており、現在の浄土宗向上山安養寺、および旧永源寺役場一帯が城址である。

 安養寺境内には石碑が建てられており、この石碑付近が本丸跡とされる。安養寺東側の竹藪との境には堀跡が残っている。

歴 史

愛智郡小椋(現:東近江市(愛東町)小倉)に平安末期より小倉城を本拠とした小倉氏一族の城です。

小倉氏は室町中期に分裂し山上城を居城とする小倉氏は西家と呼ばれるようです。

 山上城は小椋荘、柿御園荘一帯に勢力を持っていた小倉氏が、伊勢へ抜ける間道の天険を有するこの地域に目をつけ、応仁の乱の頃より山上城を主力に山城として山田城、八尾城を築いたものである

 山上城は南北朝時代より小倉氏累代の居城として栄え、元来小倉(愛知郡愛東町小倉)を本拠としていたにもかかわらず、戦国時代になると、高野にも本拠が置かれるような形になった。

 小倉氏の居城は発祥の地愛知郡小椋庄に小倉城を有したが、室町中期に小倉家は3~4家に分家し小倉本家は蒲生郡佐久良庄に移り、佐久良城を築いて本城とし、周辺に四谷城・鳥居平城・長寸城等を築いて家臣を入れて守らせた。

 分家した小倉東家は愛知川小椋庄を支配して高野城ならびに小倉城を居城とし、神埼郡御園庄(山上郡)を支配する小倉西家は山上城を本拠として和南城・山田城、相谷城・九居瀬城・八尾山城等の支城を設けた。

小倉氏は、永禄2年(1559)に京都から帰途につく織田信長を、八風街道越えで伊賀に抜ける手引きをしたことを理由に六角承禎の怒りを買い、殺されてしまう(和南山の合戦)。

 

 元禄11年(1698)徳川幕府譜代の大名稲垣安芸守重定が1万3000石の諸侯に列せられて常陸の国より、近江国野洲・蒲生・神崎などの地を賜って神崎郡山上郷に山上陣屋を設けたのが山上城の跡地である。

 

 

 

お鍋の方

佐々木六角承禎の家臣 土豪:高畠源十郎(真二郎とも)の娘として近江八幡小田で生まる。佐々木六角承禎の重臣 はじめ高野城主である小倉実房に嫁いで、この間に二人の男児(小倉甚五郎・小倉松寿)をもうけた。実房が戦死した後は信長の側室となり、織田信高(七男)・織田信吉(八男)・於振(水野忠胤・佐治一成室)を儲けている。

 その後、鍋は信長の側室となり、その後を岐阜で暮らすこととなった。岐阜では七男信高、八男信吉と、後に水野忠胤・佐治一成の室となる於振を生んでいる。また、先夫の子二人は信長により庇護されたが、松千代は本能寺の変で森蘭丸・布施九郎らと共に討ち死にした。

鍋は信長の2人の子供を抱え小田(近江八幡)に住む姉の家に身を寄せたといわれている。

天正10年(1582)に本能寺の変で信長が死去した後の鍋は、信長の菩提を弔うことに尽力したといわれ、それを見た羽柴秀吉は鍋は、豊臣秀吉の奥向きの女房(侍女)として取り立てられる。秀吉や、秀吉の正室の高台院、側室の京極龍子から多大の信頼を得る。
 近江愛知郡内に182石を与えた。天正11年(1583)にさらに400石が加増された。
また、長男の甚五郎が加賀松任城主に任じられたという話もあるが定かではない。

慶長5年(1600)、関ヶ原の戦で信長との子の信吉と共に、石田三成側に立ったため、母子共に、徳川家康によって領地を没収される。
その後、高台院と豊臣秀頼から禄を与えられ京都で暮らし、慶長17(1612)年に没した。
 その後信吉はかろうじて高家としての扱いを受け京都で晩年を過ごし、慶長17年(1612)に死去した。墓所は信長と同じ京都の大徳寺塔頭総見院にある。

小田(近江八幡)には、お鍋さんの屋敷跡」が残されており、お鍋の弔いお鍋塚の伝承地の「お鍋の松」は枯れ、今もその後に植えられた3本の松が残されている。

 信長を暗殺した敵を憎むお鍋の妄念は消えようとしても消えず、いつしか「白蛇」のたたりとなって、この堀を掘ったり、松を切ろうとすると発熱させたりしびれさせたりするという言い伝えも、今に伝えられている。

  小倉鍋(おぐらなべ)(鍋(なべ)の方(かた))は、本能寺の変後信長の遺品を岐阜へ持ち帰り、信長が岐阜時代に祈願所としていた崇福寺へ納めて、信長・信忠(6月2日、二条御所で明智光秀勢に襲撃されて討死)父子の位牌を安置し、供養塔を建ててここを廟所としました。
 このことを同寺に依頼した鍋の書状が二通残されており、いずれも流麗な仮名文字で書かれています。
 一通は、「天正拾年(1582年)六月六日」の日付があり、信長が本能寺の変で倒れた4日後です。変後の混乱を恐れて信長の祈願所であった崇福寺へ「上(うえ・信長)の位牌所」とする旨を伝え、あらためて保護を依頼したものです。
 もう一通は、信長の重臣であった丹羽五郎左衛門(長秀)へあてたもので、日付はありませんが、前の書状に近い時期と考えられます。
 羽柴秀吉が明智光秀を討った「山崎の戦い」(6月13日)の後、長良(岐阜市)に陣取った長秀へ、鍋の方が崇福寺で信長との間に生まれた三人の子に「親子の忌中」をさせたいので、長秀に同寺の警護を命じたものです。
 鍋の方は近江国の土豪高畠源十郎の娘です。同国八尾山城主小倉賢治に嫁ぎましたが、夫が反信長の六角氏に攻められて討死しましたので、信長を頼って岐阜城下へ賢治との間に生まれた二人の子どもを連れてやって来たのです。
 信長は彼女を側室とし、岐阜城下に居館を与えて保護しました。二人の間には、信高・信吉・於振(おふり)の二男一女が生まれています。
 崇福寺は現在でも信長ゆかりの品が残されているほか、毎年10月第一土曜日にはぎふ信長まつりにあわせて信長公追悼式が行われています。

 

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査」・『近江小倉城』・『神崎郡志』『織田信長と岐阜』、他  

         今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。感謝!!


山田城 近江国(永源寺)

2015年11月18日 | 丘陵城

お城のデータ

所在地:東近江市(旧・神崎郡)永源寺町山上町   map:http://yahoo.jp/gAAbLF

現 状:山上小学校・旧山上小学校

標 高:210m   比高差:30m

遺 構:和南川が前堀、切岸、土塁・堀

区 分:丘陵  

築城者:小倉氏   

築城期:室町期

目 標:山上小学校

訪城日:2015.11.14

お城の概要

山田城は、愛知川本流と和南川の合流点に向かって北北西に伸びる丘陵の先端部に築かれた丘城で、北東面は愛知川に、西面は和南川に向かって急激に20m程落ち込み、背後の南側は120mの比高を持つ山地となる台地状地形を呈している。
現在は、山田城は、和南山から嘴状に突きだした支尾根の先端部を利用した城だ。 西と北側は急斜面で、西を流れる和南川と北を流れる愛知川が堀の役目を果たし、西側にある八幡神社から見ると比高もあり、築城に適した要害の地と云える。

 現在は、山上小学校の旧敷地となっていて、城の遺構は何も残っていない。 八幡神社から小学校への登る「肥後坂」(旧小学校敷地東側)辺りが城跡の雰囲気を残していた。 

山上小学校のグランドの南に堀と低土塁となり遺構残っていた。県道188号線から小学校へ登る「肥後坂」(旧小学校敷地)や西側の切岸に城跡の雰囲気を残している。

お城の歴史

山田城は、室町時代に山上城主小倉氏によって築かれた。

山田城は、天正元年(1573)に図師越後守定清と見え、弘治年間(1500年代半ば)に六角義賢から感状を
 得た六郎兵衛尉もいる。また文明12年(1480)には、山田姓を名乗る山田右京亮幸実が見える、とあります。

小倉氏は、小掠荘・柿御園荘に勢力をもっていたが、応仁の乱後に山上城を拠点とし、出城の山田城や八尾城(詰め城)を築いた。 

肥後坂から遠景(山上小学校のグランドの南側に堀と低土塁が残る)

肥後坂

肥後坂

山上小学校のグランドの南側に『堀と低土塁』が残る

和南川の切岸の上

さくら -小倉殿の戦いー  より 小牧山へ

中略(抜粋)  夜が明けても、鳥居平城周辺では合戦が続いていた。
翌日、なお長寸城と鳥居平城の間で激戦が繰り広げられていたが、その分、愛知川沿いは比較的安心で、お鍋の一行と共に高野へ向かった。
「ご夫君が右近大夫殿に従うとすれば、それは八尾城が、山田城と山上城に近すぎるためです。両城から攻められることを恐れてのこと。でも、山田城の左近助殿がご本家側になれば、ご夫君もご本家側になられるかもしれません」

左近助は和南山の戦いでは静観していた。本家側ではなかったが、右近大夫に加勢したわけでもない。
 お鍋は納得したのだ。「先ず高野に帰って、ご夫君を説得するのです」「息子の命がかかっているのですもの。必ず説得します」 お鍋は強く頷いた。
「右京亮様は、八尾城でございます。山田城への攻撃のために──」
 八尾城に着いた時にはすでに宵の口で、戦支度は万端整っている。これは攻撃を止めさせることは不可能ではないかと、第六感が語っていたが、焦りがそれを否定していく。
 結局、翌日、右京亮は山田城を攻撃した。 右京亮に山田城を攻めさせたのは右近大夫だが、それには理由がある。
 長寸城の本家側はしぶとく、鳥居平城に何度も仕掛けてきていた。そして、蒲生家がいつ参戦してくるかわからない。
 右近大夫は確実に味方を確保しなければならなかった。鳥居平城を一旦諦めてでも。いつまで経っても態度をはっきりとさせない左近助を脅す目的で、山田城を攻撃させたのである。
まさしく右京亮が、山田城を攻撃しては誘ってきていた時分。 山田城が随分破壊された後であった。
**********************

 翌日は突然の激戦となった。
永源寺が突然、高野に繰り出してきたのだ。 永源寺の僧兵を率いているのは、九居瀬城主の小倉行国。永源寺は六角家に深く帰依されているから、謀反人は許せないのである。 攻められたら、応戦するしかない。右京亮は永源寺の兵に当たる。
右近大夫は永源寺に攻めて行くと、焼き討ちを開始した。永源寺はびっくりし、慌てて高野館から引き上げると、消火に奔走。その後はなりをひそめてしまった。
 右近大夫は勢いのまま、行き先を近くの相谷城に変更し、一気に押し寄せて行く。
 相谷城の面々はろくに戦わずに敗走。残された城兵たちは降伏した。
 その兵たちに、今度は九居瀬城を囲ませ、右近大夫の本隊はついに小倉城へ向かって行った。
  右京亮が行く前に、右近大夫が小倉城攻撃を開始してしまうだろう。「とりあえず、八尾城に行こう」 いったん高野を捨て去って、八尾城で陣を立て直すことにした。
 小倉城にはすでに、右近大夫が永源寺焼き討ち、相谷城を落とし、さらに九居瀬城への包囲などが伝わっている。
 左近助は山田城を右京亮に攻められたために、兵をそちらにも多く割いていたため、小倉城はやや手薄気味である。
 右近大夫についに取り囲まれたこと、そして、右京亮が永源寺と戦ったことなど、すでにお鍋の耳にも達している。右京亮が永源寺と戦になったのは、やむを得ない状況だったわけだが、そこは正確には伝わらないのが戦場だ。
「織田家家臣・滝川一益の手のものにござる。お助けに参りました」音もなくお鍋の傍らに寄った。(忍の者?)「主・滝川は甲賀の人なれば、ご存知やに存じまするが?」 しかし、今、織田家家臣と言ったような。
「相谷城の面々が敵に降伏、寝返って九居瀬城を包囲し──永源寺と戦った高野の面々は八尾城に籠もった──なるほど、右近大夫に囲まれても、この城に助けに来る軍勢は一つもないわけか。仕方ない……」 左近助は覚悟を決めたらしい。
ついに開戦となり。しばらくして小倉城は落城寸前にまで追い込まれる。城主・左近助の命は風前の灯火であった。小倉良親と言う人がいる。彼は相谷城にいたが、辛くもそこから逃走して、小倉城に向かおうとしていた。小倉城の現状を知る由もなかった。

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』『近江小倉城』『小倉殿の戦い』

   今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。


高野館(お鍋館=姫屋敷) 近江国(永源寺)

2015年11月18日 | 丘陵城

虎口・・・信長の側室お鍋方(元小倉右京亮の正室)

お城のデータ

別 称:お鍋館・姫屋敷

所在地:東近江市(旧・神崎郡)永源寺高野町 map:http://yahoo.jp/IZ83KA

区 分:平城(河川段丘)

現 状:田畑地

遺 構:石垣、虎口

築城期:織豊期

築城者:豊臣秀吉

城 主:お鍋の方・羽柴武蔵守信吉は(信長とお鍋の子・織田信吉)

城 域:約80m×50m

標 高:205m  段丘下より比高差15m

目標地:紅葉橋・高野神社の鳥居

駐車場:路上駐車

訪城日:2015.11.14

お城の概要 

高野館は、高野地区の西端部、愛知川を見下ろす位置に築かれていた。 発掘調査の結果、石垣や虎口などが出土したが現在は埋め戻されている。

高野館、西辺には川原石を用いた野面積みの石垣が約50m程の長さに渡って残されていた。

現在も『姫屋敷』『お鍋館』には、本丸には本丸櫓跡や空堀が残り、穴太積(あのうづみ)の石垣が東西約七十mの長さで比較的良く保存されている。城跡は、全面水田に耕作されていて、前の細い田が堀の名残りといわれている。」とあります。

「姫屋敷」「お鍋館が位置している、愛知川右岸を下流へ行くと高野神社があり高野の集落で、旧八風街道の紅葉橋近く。

 

虎口

段丘下から望む

 

近江国の高野城主である小倉実房に嫁いで、この間に二人の男児(小倉甚五郎・小倉松寿)をもうけた。

和南の合戦
右京大夫が延暦寺領山上郷の年貢を横領したとして、

  • 永禄元年(1558)織田信長の八風峠越えの道先案内が縁で手を組む、これより佐々木六角との関係を断つ。
  • 永禄2年(1559)の信長上洛の帰路では美濃衆の襲撃を回避する為に、小倉領から鈴鹿山脈を越えて伊勢へと抜ける八風峠越えを行ったが、実房その際に織田軍の水先案内を務めた。
  • 永禄3年(1560)六角のゆかりの寺院永源寺に放火
  • 永禄4年(1561)永安寺・興源寺・退蔵寺他永源寺はの寺院に放火
  • 永禄13年(1570)に起きた金ヶ崎の戦いでも千種越えに協力して織田軍の岐阜城帰還を助けたが、
  • これに怒った六角義治承禎攻められ、八尾城で小倉右京秀切腹

実房の死した後は、信長の側室となり、信長の七男織田信高・八男織田信吉・於振(水野忠胤・佐治一成室)を儲けている。

天正10年(1582)に本能寺の変で信長が死去した(信高は1600年、関ケ原の戦いで西軍に加わり)後は、信長の側室の代表的存在として行動し、織田家の位牌所を守ったとされている。ただし、崇福寺に残る位牌所設置の書状の署名が「なへ」であるため、興雲院の書状であろうとされているが、「なへ」は当時の一般的な女性名であるため、興雲院ではない可能性もある。なお、次男・松千代は本能寺で信長に殉じた。こうした経緯を経て羽柴秀吉の庇護下に置かれ、化粧領(化粧料とも)として近江国愛知郡182石を与えられた。その翌年には更に400石を加増される。

秀吉の正室・北政所(ねね)に仕えて、孝蔵主・東殿(大谷吉継の母)と共に側近の筆頭

小倉右京太夫との長男・甚五郎が天正11年(1583)に加賀松任城主に任じられたという記録もあり。 

 信高は(1600年、関ケ原の戦いで西軍に加わり)、信高は愛智郡菩提寺村、神崎郡山上村などに2000余石、信吉は近江国神崎郡高野村、犬上郡宇尾村などに2000余石を与えられ、信吉は高野に城を築き居住したとされる。

関ヶ原の戦いで信高、信吉は西軍に加わったため改易、お鍋の領地も召し上げられた

 しかし、その後信吉はかろうじて高家としての扱いを受け、お鍋も京都で晩年を過ごし、慶長17年(1612)に死去した。

『日本城郭体系 11』によりますと、城の歴史は「織田信長は近江へ入ると、永禄11年(1568)9月、永源寺に安堵書を与え、信長の側室「お鍋の方」の館がこの地に造られた。

「お鍋」は信長との間に二男一女をもうけて高野城に安穏な日々を送ったが、天正10年(1582)6月2日、本能寺で信長が討たれたのち、安土城は焼亡し、「高野城」も明智の支配下となり、「お鍋」もわずかの家臣と共に行方をくらました。』

 

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』・『近江神崎郡志』『日本城郭体系11』

                本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!!


鎌刃城見学会(隅から隅まで)

2015年11月18日 | 戦国山城

鎌刃城見学会(隅から隅まで)



お城の歴史

  • 土肥氏が築城、のち堀氏が居城する。
  • 文明四年 (1472) 坂田郡の土豪今井秀遠が堀次郎左衛門の籠る鎌刃城を攻める。
  • 文明十八年 (1486) 多賀宗直に属する鎌刃城主堀氏成が今井秀遠に攻められる。
  • 天文二年 (1533) 同四年(1535)、同七年(1538)に近江守護六角定頼が今井定清に命じて鎌刃城を攻め島秀安が城代となる
  • 佐々木六角氏に降った堀氏が再び城主となる。
  • 禄二年以降 (1559) 浅井方の城となる。
    元亀元年 (1570) 浅井長政は織田方に降った堀氏に換えて百々越前守を入れる。
  • 姉川合戦後には織田信長が堀氏を最前線基地となる。
  • 元亀二年 (1571) 浅井軍に攻められるが、横山城を守備する木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)の加勢により落城を免れる。
  • 天正二年 (1574) 堀氏が改易され廃城となる。

八尾城 近江国(永源寺)

2015年11月18日 | 戦国山城

お城のデータ

所在地:東近江市(旧・神崎郡)永源寺山上町  map:http://yahoo.jp/CEbqQE

現 状:森林

区 分:山城

築城年 :南北朝期

築城者:小倉右京亮実房

城 主:小倉右京亮実房

遺 構:低土塁・基壇・自然の地形を利用した堀・区割

城 域:200m×100m

標 高:270m 永源寺そば、から比高差50m

目標地:東近江市永源寺支所・永源寺そば(滋賀県東近江市山上町123)

駐車場:路上駐車

訪城日:2105.11.14

 

お城の概要

小倉氏が伊勢へ抜ける間道の天険を有するこの地域に、応仁の乱の頃より山上城を主力に出城として山田城、八尾城等を構えていた。
小倉氏は、承暦年間(1077~80)に清和源氏満季流の小倉景実が小椋庄の愛知川を望む天然の要害に築いた小倉城を本拠として、以後、愛知、神崎、蒲生三郡の東部に勢力を伸長し、隣強の佐々木六角、蒲生の両氏と雄を競った一族である。
しかし、室町中期には三・四家に分流し、本家が蒲生郡佐久良庄に移り

小倉西家が神埼郡御園庄を支配し、山上城を本拠に和南城、山田城、相谷城、九居瀬城、八尾城等の支城を設け一族を配した。

愛知川本流と東側は渋川(藤切川)に接し西側と南側は最高270mの累々たる山岳ひ連なる天然の要害地に営まれた八尾城は、本城の『山上城の奥の支城』として、構築された。中世数百年の歴史の中で、大々的に戦闘が行われた史実は無く反永久的に城砦の遺構が残る。

 

歴 史

山田城主・小倉右京秀の詰城として築城。

 永禄年間(1558~69)に至ると小倉氏一族の間に内訌が起こり、山上の小倉西家は独立志向が強く、用水の権利などをめぐって小倉宗家と対立、時折小規模な武力衝突を繰り返していたが、

永禄6年(1563)には永源寺が蒲生の軍勢に力を貸したとして、西家の小倉右京太夫が同寺を攻撃し、翌7年3月23日堂塔が悉く焼き払われるなど緊張状態が続いた。

和南の合戦
また、同年 右京大夫が延暦寺領山上郷の年貢を横領したとして、怒った六角義治は佐久良城主である宗家の実隆に右京大夫の討伐を命じた。 実隆は、直ちに速水氏・寺倉氏など蒲生郡の諸氏を従えて討伐に出るが、これに対し右京大夫は山田城・和南城・八尾城・相谷城ら支城の西家一門に応援を要請し、戦闘域は山上だけに留まらず宗家と西家全体の戦に発展した。宗家の実隆側は速水勘六左衛門尉が和南城主の小倉源兵衛を討つなどしたが、後に実隆自身が西家側の兵に討たれてしまい、宗家方が敗北してしまった。 勢いづいた右京大夫は、奥津保(愛知郡、蒲生郡)の辺りを制圧し勢力を拡大するが、この事態に実隆の実家である蒲生(定秀)氏が介入し、兵を率いて西家の所領へ攻め入り、右京大夫らの西家を討伐した。 佐々木六角義賢・義弼親子によって攻められ、八尾城で小倉右京秀切腹。これにより内訌の沈静化には成功したものの小倉氏の力は大幅に衰退し、以後の小倉氏は蒲生氏の麾下のような存在になっていった。小倉実房の妻・鍋と子の小倉甚五郎・小倉松寿は、尾張に落ち延びました

その後、鍋は織田信長の側室となり、子は織田信長の家臣となりました。小倉甚五郎のその後はよくわかりませんが・・・
松寿は本能寺の変の際に京におり、変を聞きつけて本能寺へ向かいました。そこで明智軍と戦って討死しました。

  • 永禄元年(1558)織田信長の八風峠越えの道先案内が縁で手を組む、これより佐々木六角との関係を断つ。
  • 永禄2年(1559)の信長上洛の帰路では美濃衆の襲撃を回避する為に、小倉領から鈴鹿山脈を越えて伊勢へと抜ける八風峠越えを行ったが、実房その際に織田軍の水先案内を務めた。
  • 永禄3年(1560)六角のゆかりの寺院永源寺に放火
  • 永禄4年(1561)永安寺・興源寺・退蔵寺他永源寺はの寺院に放火
  • 永禄13年(1570)に起きた金ヶ崎の戦いでも千種越えに協力して織田軍の岐阜城帰還を助けたが、これが承禎の怒りを買い攻め滅ぼされた。

八尾城への林道

 

→星野溜

 

八尾城(遠景)・・・愛郷の森の道より

神埼郡御園庄を支配した小倉西家は山上城を本拠とした。小倉西家の小倉右近太夫、山田城主・小倉三河守良秀が支城として築いたのが相谷万灯山城。小倉右近太夫らが築いた支城には、和南城、山田城、相谷城、九居瀬城、八尾城等がある。

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』・『神崎郡志』・『安土城郭研究所』・『永源寺町史』・『近江小倉城』

         本日の訪問、ありがとうございました!!感謝


高野城   近江国(永源寺)

2015年11月18日 | 丘陵城

お城のデータ

所在地 : 東近江市(旧神崎郡永源寺町)高野町 map:http://yahoo.jp/8mAbQx

区 分:丘陵城

築城年 :南北朝期      改築年 :織豊期

築城者:小倉右京亮実房   改築者:織田信吉

城 主:小倉右京亮実房   城 主:織田信吉

遺 構:土塁・基壇・堀・区割

現 状:圃場・森林

城 域:約80m×50m

標 高:210m ここから比高差9m

目標地:紅葉橋・高野神社の鳥居

訪城日:2105.11.14

駐車場:路上駐車

 旧八風街道沿い

お城の概要 

比定地(高野集落の北端の田地・林)

お城の概要

 高野城は、近江の古刹の一つである臨済宗の永源寺が近くに有るにも関わらず、その膨大な数に上る永源寺所蔵の中世文書にすら構築された年代や累代の城主名等を明らかにするような資料は残っていません。

 高野城は、縄張り等を示す絵図面もなく、「城屋敷」という小字名が残っているに過ぎません。

「姫屋敷」のお鍋館も含めて、小倉氏の河川段丘上の城。ここでは「城屋敷」を高野城とする。「姫屋敷」「お鍋館」は別途にする。

 

ここは、高野城は愛知川の河岸段丘上に有り、この八風峠越え(現在の根の平峠)を滋賀県側に下った通称八風街道と対峙する位置にあり、愛知川が天然の要害となっています。 

高野街道

高野城へ

高野城址

城跡は、全面水田に耕作されていて、前の細い田が堀の名残りといわれている。

一部は森林が残っています

西の段丘の出丸へ

河川段丘の下から…綺麗に下草の除去で石垣が(後世の土留め石垣か?)

歴 史

応仁の乱以降に愛知川沿いに展開する土豪の城砦や館のうちの一つですが、近くにある和南城とともに愛知川の上流に位置しています。

伊勢の国に通じる間道が集中しているところで、佐々木氏の部将小倉氏が「君が畑越え」、「八風峠越え」、「千草越え」といった交通の要衝に目付役を置き監視に当たらせた所です。

  高野城の築城年代は定かでないが、小倉氏によって築かれたとされる。小倉氏は、小倉城を本拠に蒲生、神崎、愛智郡の東部に勢力を張った一族で、室町中期になると三、四家に分流し、愛知郡小椋庄を領地とする小倉東家が高野城、小倉城を本拠にするようになった。

 本能寺の変後、秀吉より織田信吉は近江国神崎郡高野村、犬上郡宇尾村などに2000余石を与えられ、信吉は高野に城を築き居住したとされる。

『関原軍記大成』などでは、信高は弟信吉・信貞らとともに西軍に属して戦後赦免されたとする。弟信吉と同様に西軍に属したために失領したと思料される。もっとも、本戦に参加したとする記録はない。信高、信吉は西軍に加わったため改易、お鍋の領地も召し上げられた

 しかし、その後信吉はかろうじて高家としての扱いを受け、お鍋も京都で晩年を過ごし、慶長17年(1612)に死去した

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査・神崎郡志・安土城郭研究所、『日本城郭体系 11』

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