チャコちゃん先生のつれづれ日記

きものエッセイスト 中谷比佐子の私的日記

戦争体験 3

2021年08月18日 12時49分07秒 | 日記
とりあえず六人家族は父の実家の蔵の二階に落ち着いた
長い一日だった
朝六人が一つの食卓を囲み楽しく食事をした、しかしその場所は一瞬に消え失せ、生まれて初めて過ごす蔵の二階。小さな窓から夜空の星の瞬きが見える。その星を眺めながら私一人は早々に寝入ってしまった。みんなは母屋に行って、今後んこん後のことを話し合っていたらしい

その結果か翌日から柿山の山小屋にしばらく住むことになった
薪を拾って湯を沸かし、たらいを買ってきて行水、煮炊きするかかまどは小さく、母や姉は里に下りて父の実家の台所を使って家族の食べ物を作って持ってくる。

私はあの防空壕での爆風にやられていてずっと寝たっきり。姉や兄はまだ軍需工場へ汽車で通う。夕方家族の顔がそろうとみんなほっとした
母は昔から父の親戚、母の親戚に心砕いた付き合いをしていたので、皆さんがお米や野菜を運んできてくれて食べることには全く不自由はなかった

その間私の病状はだんだんひどくなり、母のひくリヤカーに乗って医者がよい。しかしその医者は私の病状は腎臓が弱っているというのは判断できても、それに対応する治療ができない。母は意を決して漢方で治すことにし、勉強を始めたとのちに姉が教えてくれた

季節が夏だったので「唐もろこしのひげ」を煎じて飲まされたり、スイカを毎日半分、白身の魚は父が川に行ってつってく

兄や姉たちは爆弾の後の我が家に立ち寄り、へこんだ薬缶や鍋かま、壊れていない茶碗やグラスや箸スプーン。防空壕に入れてあった無傷のちゃぶ台、重箱そして本なども少しずつ運んで来て、小さなちゃぶ台を6人が囲んだ日は嬉しかった。やっと坐れた私には枝豆をつぶしたスープが、家から掘り出してきたグラスに収まっていて、緑色の美しさを今でも思い出す

そしてその夜、村人たちの知らせで外に出ると、遠くの空が真っ赤に染まっていた。大分市中に焼夷弾が落とされ町中が火の海になったのだ。誰も一言も声を発しない。真夏なのに急に寒くなり、みんな襟をかけ合わせながら空を染める火の動きを無言で見つめていた

次の朝
この村も危ないかもしれないもっと山奥へ移動、ということになり、今度は全員トラックに乗って久住高原に移住。ここは父の書生をしていた人の家で、ご家族がよくしてくださったので、私の病状も回復に向かい、近所の子供たちと遊ぶ元気も出てきた

しかしこの地にも疎開で来る人たちが多くなり、食量もままならなくなって、子供たちはみんなお腹を空かしていて、畑の作物を失敬する子も多く、人心が食べ物のために乱れてきていた
「あの子がトマト盗んだ、あの子が卵盗んだ」っと大人たちが騒ぐので、わが世話焼き母さんは
毎朝大きなかごをもって、農家を回り公民館に作物を集め、農家の人が値段をつけて、欲しい人は買っていくという制度を作ったのだそうだ。(直売制度のはしり)

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