今日は渋谷のParco Musiumで開催されている「大宮エリー 思いを伝えるということ展」に行った。
最近、深夜ドラマの「デカ黒川鈴木」にハマっている。板尾創路さんの飄々とした演技と、田辺誠一さんのボケっぷり、そして、鶴田真由さんのズレた感じがいい。そのドラマの脚本を担当しているのが大宮エリーさんだ。彼女の名前は数年前から知ってはいたものの、彼女の作品に触れる機会はなかった。そんな時にこの展示会のことを知った。
会場に入ると、「思いを伝えること」の大切さが込められた言葉が並び、また、造形がその言葉を膨らませる。その展示を見ているうちに、「自分はこれまできちんと自分の言葉で思いを伝えていただろうか…」と自分自身に問いかけると共に、ドラマのイメージがいっぺんに吹き飛び、心を抉られるような感覚に陥った。そこに綴られている言葉は、今までの僕にそのまま当てはまる。
「思いが実を結ばなかったらどうしよう」とか、「相手が嫌な思いをしないだろうか」とかあれこれ考えるが、それは全て「傷つきたくない」と「億劫だ」という自分の思いから生まれるものだということをわかっていつつ、そこから抜け出せない。いや、結局は本気で人を好きになったことがないのかもしれない。
砂の上に瓶が並んでいた。そこに書かれた思いを読み、また自分の思いを書いて瓶に詰めることもできるというので、自分の気持ちを文字にして丸めて瓶に詰めてみた。僕の言葉を読んだ誰かがどのような思いを持つのかはわからない。でも、言葉ってそんなものなのかもしれない。誰かに思いを伝えるのも同じで、どのような思いを持つのかなんて伝える前からわかるわけでもないし、伝えなければ何も始まらない。そして、その次へも行けない。だいたい、その人を思っての言葉に、相手を傷つける要素などないだろうに。
会場の出口に掲げられた言葉を読んでいたら、涙が溢れて来た。入ってからはどこで泣いてもおかしくないくらいだったが、周りに人がいるのも気にせずに心に任せた。建て前ではなく、自分の気持ちのままに…
会場でのみ売られている本を買い求めた。展示された言葉と繋がるエッセイが掲載されている。まだまったく読めていないが、ゆっくり楽しみたい。そう、巻末には大宮さんと谷川俊太郎さんとの対談も載っている。
ところで、この本を読み終えたら自分の思いを伝えることができるようになるだろうか。まあ、まずは読んでから…
最近、深夜ドラマの「デカ黒川鈴木」にハマっている。板尾創路さんの飄々とした演技と、田辺誠一さんのボケっぷり、そして、鶴田真由さんのズレた感じがいい。そのドラマの脚本を担当しているのが大宮エリーさんだ。彼女の名前は数年前から知ってはいたものの、彼女の作品に触れる機会はなかった。そんな時にこの展示会のことを知った。
会場に入ると、「思いを伝えること」の大切さが込められた言葉が並び、また、造形がその言葉を膨らませる。その展示を見ているうちに、「自分はこれまできちんと自分の言葉で思いを伝えていただろうか…」と自分自身に問いかけると共に、ドラマのイメージがいっぺんに吹き飛び、心を抉られるような感覚に陥った。そこに綴られている言葉は、今までの僕にそのまま当てはまる。
「思いが実を結ばなかったらどうしよう」とか、「相手が嫌な思いをしないだろうか」とかあれこれ考えるが、それは全て「傷つきたくない」と「億劫だ」という自分の思いから生まれるものだということをわかっていつつ、そこから抜け出せない。いや、結局は本気で人を好きになったことがないのかもしれない。
砂の上に瓶が並んでいた。そこに書かれた思いを読み、また自分の思いを書いて瓶に詰めることもできるというので、自分の気持ちを文字にして丸めて瓶に詰めてみた。僕の言葉を読んだ誰かがどのような思いを持つのかはわからない。でも、言葉ってそんなものなのかもしれない。誰かに思いを伝えるのも同じで、どのような思いを持つのかなんて伝える前からわかるわけでもないし、伝えなければ何も始まらない。そして、その次へも行けない。だいたい、その人を思っての言葉に、相手を傷つける要素などないだろうに。
会場の出口に掲げられた言葉を読んでいたら、涙が溢れて来た。入ってからはどこで泣いてもおかしくないくらいだったが、周りに人がいるのも気にせずに心に任せた。建て前ではなく、自分の気持ちのままに…
会場でのみ売られている本を買い求めた。展示された言葉と繋がるエッセイが掲載されている。まだまったく読めていないが、ゆっくり楽しみたい。そう、巻末には大宮さんと谷川俊太郎さんとの対談も載っている。
ところで、この本を読み終えたら自分の思いを伝えることができるようになるだろうか。まあ、まずは読んでから…