2022年2月16日(水)、広電の廿日市市役所前駅から2駅先の山陽女学園前駅まで、西国街道を歩き、史跡巡りをした。福佐売神社(ふくさめじんじゃ)
神社の縁起として、次のように書かれていた。「三代実録」の貞観14年(872年)に、この土地の人、榎本連福佐売(えのもとむらふくさめ)を賞して位階を与え租を免除し、その節操を表彰したとの記録がある。この栄誉を後世に伝えるべく建立された。
廿日市本陣跡
芸州廿日市御本陣旧趾。「当本陣は、寛文(1661年)の昔より、世世山田氏が管する所なり」とあった。廿日市天満宮
灯ろうの明かりが灯台として、沖をゆく北前船などの安全を守っていたそうだ。梅が咲き始めていた。
津和野藩御船屋敷跡
稲荷大明神の近くに石碑「石州津和野藩御船屋敷旧趾」があったそうだが、事前調査不足で分からなかった。屋敷は、この辺り一帯だったようだ。
街道松
西国街道には、1里(約4km)ごとに1里塚松があり、道の両側に3間(約6m)ごとに街道松が植えられていた。東の佐方橋から桂公園のあたりまで、文化2年(1819年)には68本の松並木があったと説明にあった。
佐方一里塚跡碑
西国街道は、寛永(1624年)に、道幅2間半(約5m)と定められ、36丁(109m×36≒4km)ごとに一里塚が置かれた。広島市佐伯区との境近く、佐伯区内にあった。
当時の一里塚のイメージを思い浮かべるため、前に撮った萩往還の佐々並市にあった「市頭(いちがしら)一里塚」の写真を取り出してみた。一里塚は、石で畔(あぜ)を造り、土を盛って塚木を立てたので、その形から一里山とも呼び、塚木は5寸角・長さ1間(15cm角・1.8m)に統一されていたそうだ。
2022年2月9日(水)、呉市の休山(やすみやま、497.4m)に登った。公共交通機関を使わず、車で行って安く駐車できる所を探したら、「入船山公園駐車場」が1時間100円と格安だったので利用した。同駐車場から見た休山。
ガイドブックの登山ルートに従い、朱塗りの万年寺を経て、源宗坊寺を過ぎて山道に入る計画だったが、計画はそっちのけで、要所要所にあった案内板に従って登った。計画の谷筋を行くより、呉の街を眺めながら登る方が断然面白いと思った。
春は直ぐそこまで来ているようだ。正面は灰が峰(737m)。
路には落ち葉が積り、歩き難い。どうやら直登の尾根路だったようだ。
山頂の展望台からの眺めは素晴らしかった。北に、呉港と呉市街地、遠くにテレビ塔のある絵下山(593m)。
似島、江田島、江田島の向こうに宮島
南に、倉橋島など瀬戸内海の島々、遥か遠くにかすかに四国の山
東に、下蒲刈島や上鎌苅島、その左に巨大なアンテナがある野呂山(839.4m)
音戸の瀬戸方面に梅ノ木峠の高天原神社まで縦走して、下山した。
今度登るときは、しっかり計画を立て、音戸の瀬戸まで縦走しようと思った。
2022年1月31日(月)、西国街道の大竹市内の残り区間を歩いた。ゆめタウンから鳴川まで2号線を歩き、帰りに西国街道を歩くことにした。
鳴川河口から見える宮島は、見慣れた北からではなく、西からで山容が異なり、ひとつひとつ山名を確認した。
街道は、住家と道が入り混んで分からない。取り敢えずそれらしきところを歩き、散歩をしている人に尋ねて「鳴川の石畳」を見つけた。、
鳴川(なるかわ)の石畳
1632年、幕府上使が広島藩を通行することに伴い、急遽整備された石畳。
馬ためし
山道が馬にためらうほどの急な坂があったので、「馬ためし」と呼ばれた。山の上にも住家があり途中から街道が分からなくなった。地図でも点線となっており、仕方ないのかなぁと思った。
何とか下山した場所が「玖波の延命地蔵」だった。玖波の延命地蔵
保育地蔵とも呼ばれるが、特に耳の病を癒やすと言われている。角屋釣井(かどやつりい)・高札場跡と玖波の町並み
宿場町玖波の貴重な飲料水を供給した井戸。法度・掟や次駅までの定賃銭等様々な知らせの札が立てられた高札場跡。 今も宿場町の 面影を残している玖波の町並み。
玖波大歳神社「力量石(りきりょうせき)」
力比べや身体の鍛錬のための「力石」。西日本で2番目に重く、292.5kgと記されている。
瀬戸内沿いの狭い範囲に、鉄道・国道2号線・山陽自動車道、住家と大小様々な道があって、街道探しとピンポイントの史跡巡りとなった。