平成28年12月30日(金)、団地の東にある鬼ケ城山(282.4m)に登る。広島近郊の山歩きを本格的に始めて20年近くなるが、鬼ケ城山登山は初めて。今年の初日の出は、鈴ケ峰山頂で迎えたので、次の初日の出は鬼ケ城山と決め、その下見。鬼ケ城山は、登山のガイドブックには、鈴ケ峰(西区井口)から大茶臼山(西区己斐)の縦走路にある小山で紹介されているが、広島市街地を文字通り一望できた。
自分が住んでいる団地や近隣の団地の家々がよく見えた。
今年1年見ていただき、有難うございました。来年は、今年よりも少しでも充実させ、明るく、さわやかに、楽しく見ていただけるブログにしたいと思います。引き続き、ご覧いただきたいと思います。
平成28年12月25日(日)、防府駅の南にある桑山公園近くの野村望東尼(のむら ぼうとうに)終焉の宅を訪ねた後、10分くらい歩いて、桑山南麓の共同墓地内にある墓にお参りをした。野村望東尼は女流歌人で、勤王志士と交流し、高杉晋作の介護、最期を看取った人物である。
晋作が詠んだ辞世の上の句に、望東尼が下の句をついでいる。この経緯が、司馬遼太郎「世に棲む日々」で、次のように書かれている。
〔慶応3年(1867年)4月14日未明〕晋作は、筆を要求した。枕頭にいた野村望東尼が紙を晋作の顔のそばにもってゆき、筆をもたせた。晋作は辞世の歌を書くつもりであった。ちょっと考え、やがてみみずが這うような力のない文字で、書きはじめた。『おもしろき こともなき世に おもしろく』とまで書いたが、力が尽き、筆を落としてしまった。・・・・
望東尼は、晋作のこの尻きれとんぼの辞世の句に下の句をつけてやらねばと思い、『すみなすものは 心なりけり』と書き、晋作の顔の上にかざした。望東尼の下の句は変に道歌めいていて晋作の好みらしくはなかった。しかし晋作はいま一度目をひらいて「面白いのう」と微笑し、ふたたび昏睡状態に入り、ほどなく脈が絶えた。
(東行庵の石碑)
平成28年12月19日(金)、山口藩庁から歩いてすぐの一の坂川沿いの錦旗製作所址を訪ねる。錦旗製作の経緯について、品川弥二郎の伝記に、次のように書かれている。
慶応3年(1867年)、品川弥二郎は、薩摩の大久保一蔵とともに、岩倉具視に呼ばれ、別荘に行く。この曲者の公家は、「征討軍には、やはり錦旗が必要じゃ。できるか」と、むかし大江匡房が著した『皇旗考』を参考にした錦旗の図案を示した。弥二郎は錦旗の図案と反物を携えて山口に帰った。萩の有職師士岡吉春が、一の坂川べりの諸隊会議所で、30日かけて、日月章の錦旗各二旒、菊花章の紅白旗十旒を製作した。
藩庁が山口に設けられると、役所や役人の住まいが大量に必要になり、豪農・豪商の屋敷や離れが藩士の住まいとされた。竪小路で醤油業を営む萬代家の離れ「十朋亭(じっぽうてい)」もその一つで、桂・久坂・高杉・伊藤・井上・山縣らも訪れたそうだ。(平成30年オープンの資料館を敷地内に建設中のため、現在は閉館)
平成28年12月19日(月)、美祢から萩に向かう。これまで訪ねたことがない史跡を訪ねる。山縣狂介(有朋)の誕生地。山縣有朋は松下村塾門下生。奇兵隊軍監、戊辰戦争で活躍し、明治政府で陸軍の創設を主導し、「陸軍の父」と呼ばれた。第3・9代内閣総理大臣。(山縣有朋公像は、下関の東行庵にあるもの)
山田顕義。禁門の変・下関戦争・功山寺挙兵・第二次長州征伐・戊辰戦争など、長州藩の戦いにほとんど参加した。初代司法大臣で、日本大学や国学院の創設者。
小田村伊之助。吉田松蔭の親友。松下村塾の行く末を託されたと言われている。明治維新後は、群馬県令として富岡製糸場の存続に尽力。老兄(伊之助)の気力、詩力、酒力は、わが及ぶ所に非ず。(吉田松蔭)