平成28年9月13日(火)、山口市内の2つの碑を訪ねた。一つ目は、三代目奇兵隊総督赤禰武人碑。旭通り、椹野川沿いの井手ケ原河川公園近くにある。1866年(慶応2年)、幕府への内通を疑われ、斬首された場所。「世に棲む日日」では、内応のことを次のように書いている。「赤禰は、一種の寝技の政治家で、その高等戦略から佐幕派政権と一時手を握るべく秘密の単独工作をしていた」「長州奇兵隊総督でありながら、藩を単身脱走し、大坂で新選組に接触した」
二つ目は、井上馨候遭難の地。1864年(元治元年)、井上聞多(馨)が、佐幕派の刺客に襲撃され、瀕死の重傷を負った場所。中園町、山口中央公園の南、すぐ近くにある。イギリス公使館焼き討ちに加わる程の急進攘夷派から、ロンドン留学によって、開国論者へ転じた。井上は藩を滅ぼそうとするやつだ、というのがテロリストたちの理由だった。(世に棲む日日)
平成28年9月11日(日)、功山寺から北東へ10数キロ、下関市吉田へ行く。
「世に棲む日日」には、晋作の最期について、次のように書かれている。
「慶応3年(1867年)4月14日未明、晋作はずっと昏睡状態にあったが、不意に瞼をあげて、筆を要求した。枕頭にいた野村望東尼(もとに)が紙を晋作の顔のそばにもってゆき、筆を持たせた。晋作は、ちょっと考え、やがてみみずが這うような力のない文字で書きはじめた。『おもしろき こともなき世に おもしろく』とまで書いたが、力が尽き、筆を落としてしまった。望東尼は、晋作のこの尻切れとんぼの辞世に下の句をつけてやらねばならない思い、『すみなすものは 心なりけり』と書き、晋作の顔の上にかざした。晋作は、『・・・面白いのう』と微笑し、ふたたび昏睡状態に入り、ほどなく脈が絶えた。ただ、その間、一度唇が動き、短かくつぶやいた。『吉田へ』」
遺言により、晋作(東行)が創設した奇兵隊の本営があった吉田に葬られた。側室だった「おうの」は、尼となり、谷梅処(ばいしょ)と名乗って、東行庵で、菩提を弔った。
平成28年9月11日(日)、下関市長府の功山寺を訪ねる。1864年(元治元年)、長州藩は、危機に直面していた。「蛤御門の変(禁門の変)」で薩摩・会津に敗れ、幕府から「長州征討」の大軍。英・仏・米・蘭の4ヶ国連合艦隊による下関攻撃。そのような中、「幕府への恭順もやむなし」とする「俗論派」が藩政を掌握した。このとき、高杉晋作が敢然と、幕府恭順派の藩政府打倒を目指して、決起した場所である。
『世に棲む日日』(司馬遼太郎)には、次のように書かれている。「高杉は、何処から引出したか緋縅(ひおどし)の小具足を着け、桃なりの兜の緒を首にひっかけて背中に負い、頭はザンギリであった」。「功山寺の石段は、雪におおわれている。登りきると、大きな二層の桜門がある。それをくぐると、さらに石段がある」。三条実美ら5卿を前に、「馬の前脚が上がったとき、ふりかえりざま、『今から長州男子の胆っ玉をお目にかけます』と、いった」。