今朝、新聞で詩人茨木のり子さんの訃報を知りました。
最近は詩を読むこともほとんどない私ですが、数年前彼女の『自分の感受性くらい』を目にしたとき、脳天をガンと一発くらったような衝撃を受けました。
生温いミルクに浸ったような毎日で、動き出さない自分に対する苛立ちと自己嫌悪。
それらをすべてまわりのせいにしていた自分。
そんなとき彼女の詩を読んだのです。
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
どきっとしました。
初心消えかかるのを
暮しのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった
そこそこの年になるといろんなことが重たくて、何かをするにはかなりのエネルギーが必要で、もうこのままでもいいじゃない、と言ってるもうひとりの自分もいて。
そう、いくらでも言い訳ができるんです。
でも、結局それに一番納得していないのは自分自身。
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
あれから数年たったのに、あの頃とたいして変わらない自分がいます。
あいかわらず忙しいからと言い訳して。
自分に残された時間があとどれくらいなのか、知りもしないで。
今日もう一度この詩をじっくり読んでみようと思います。
茨木のり子さんのご冥福を祈りつつ。
最近は詩を読むこともほとんどない私ですが、数年前彼女の『自分の感受性くらい』を目にしたとき、脳天をガンと一発くらったような衝撃を受けました。
生温いミルクに浸ったような毎日で、動き出さない自分に対する苛立ちと自己嫌悪。
それらをすべてまわりのせいにしていた自分。
そんなとき彼女の詩を読んだのです。
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
どきっとしました。
初心消えかかるのを
暮しのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった
そこそこの年になるといろんなことが重たくて、何かをするにはかなりのエネルギーが必要で、もうこのままでもいいじゃない、と言ってるもうひとりの自分もいて。
そう、いくらでも言い訳ができるんです。
でも、結局それに一番納得していないのは自分自身。
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
あれから数年たったのに、あの頃とたいして変わらない自分がいます。
あいかわらず忙しいからと言い訳して。
自分に残された時間があとどれくらいなのか、知りもしないで。
今日もう一度この詩をじっくり読んでみようと思います。
茨木のり子さんのご冥福を祈りつつ。