夏にジブリの『ゲド戦記』を見てがっかりしたあと、もう一度原作を読み直そうと思いました。
第1巻『影との戦い』、第2巻『こわれた腕環』、第3巻『さいはての島へ』を読むのは3回め。
読んでいる間は現実を忘れ(現実逃避ですね)、まさに至福の時間を過ごすことができました
『ゲド戦記』は読むたびに新しい発見がある奥の深い作品です。
最初はどういう展開になるのか、ストーリーを追うのに精一杯。
2回目はストーリーを思い出し、確認しながら読みました。
そして今回、ようやく余裕を持って(?)楽しめたように思えます。
久しぶりに読むゲドは、ちっとも色褪せることなく、私をアースシーの世界へ連れて行ってくれました。
魔法の島ローク、闇の支配するアチュアンの墓所、竜のすむセリダー、青い海原とそこに浮かぶ島々、それらが目に浮かぶようです。
自分の傲慢さゆえ影を呼び出してしまい、自らも傷つき、しかし最後にはその影を自分のものとしたゲド。
アチュアンからエレス・アクベの腕環を取り戻し、巫女であったテナーを自由の身にしたゲド。
大賢人となり、王子アレンとともに世界の均衡をやぶったクモを追い、不死の国への扉を閉じるため、魔法使いとしての力を使い果たしたゲド。
この1巻から3巻までは、いわばゲドの少年時代から大賢人となった壮年期までの冒険が描かれているわけです。
そして先日、図書館で第4巻『帰還 ゲド戦記 最後の書』を見つけました。
この作品を6年前にはじめて読んだとき、正直言って3巻までのストーリーと違う暗く重いテーマにもう読みたくない、と思いました。
おまけに大賢人だったゲドが、魔法使いですらなく、ただのおじさんになってしまったことに、かなりショックを受けたのです。
だから3巻までは買ったけど、この4巻は手もとにありません。
今回も、偶然図書館で見つけなければ、たぶん読むことはなかったでしょう。
私のとっての『ゲド戦記』は、3巻までだったのです。
しかし今読んでみると、テナーの視点から描かれたこの作品は、驚くほどしっくりと私の中に入ってきました。
子どもも成人し、夫を亡くし未亡人となったテナー。
そこに突然現われた、かつての力を失ったゲド。
もう若くはない二人ですが、ただのひとりの男に戻ってしまったゲドと、ようやく彼と暮らすことができたテナーの穏やかな関係に、しみじみとしたものを感じます(そう思える年に、私もなったということかな)。
詳しくは書かれていないものの、アチュアンの墓所からゲドと共にハブナーに戻り、平和をもたらすエレス・アクベの腕環をもたらした女性として注目を浴びながらも、見知らぬ世界で苦労したであろうテナーの半生がうかがえます。
ゲドの師であった魔法使いオジオンのもとで暮らしても、結局はひとりの普通の女性としての生き方をテナーは選択したのです。
そしてそこに現われたもうひとりの重要な登場人物テルー。
彼女は子どもながら残虐な仕打ちをされ、傷つき、テナーのもとへやってきます。
以前読んだときは、このテルーにショックを受けました。
読んだ当時は、まだ今ほど子どもの虐待が毎日のニュースになっていなくて、だからその部分が強烈な印象になって、この作品が暗くて重い作品だと思い込んでしまっていたのでしょう。
今読むと、テルーの存在はけっして“絶望”なのではなく、次の世代への大きな“希望”として描かれていたことに気づいてちょっとびっくり。
魔法というものが男性の占有物であったことへの疑問。
そして新しい継承者の予感。
第3巻から16年の歳月を経て書かれたこの作品の、テーマのようなものがここに感じられます。
最後でテルーが竜のカレシンを呼び、ゲドとテナーを救ったシーンはとても、とても、感動的でした。
いつも怯えていたテルーが、さなぎから孵った蝶のように自分自身に目覚めたのです。
そして第5巻の『アースシーの風』に続いていくわけですね。
この作品は出版されたときに読みましたが、1度読んだくらいではとても理解できませんでした。
ゲドやテナーは年老い、テハヌー(テルー)の物語になっていたと思いますが・・・。
これを機会に、もう1度読んでみようと思います。
『ゲド戦記』を4巻まで読んだあと、なんだかもったいなくて他の本を読む気になれません(どっぷり浸ってる)。
本棚には、次女が図書館から借りてきたあさのあつこさんの本がたくさん並んでいるというのに
今、私の中で、『ゲド戦記』は『指輪物語』をわずかに凌ぎファンタジー部門第1位ですね
でもゲドとアラゴルンが目の前にいたら悩むだろうなあ・・・って、ありえない・・・。
これに和製の「守り人シリーズ」(上橋菜穂子作)と「勾玉3部作」(荻原規子作)が続き、ハリポタが第5位かな。
この秋には守り人の新刊が出るみたいだし、秋の夜長はファンタジーで過ぎていきそうです。
第1巻『影との戦い』、第2巻『こわれた腕環』、第3巻『さいはての島へ』を読むのは3回め。
読んでいる間は現実を忘れ(現実逃避ですね)、まさに至福の時間を過ごすことができました
『ゲド戦記』は読むたびに新しい発見がある奥の深い作品です。
最初はどういう展開になるのか、ストーリーを追うのに精一杯。
2回目はストーリーを思い出し、確認しながら読みました。
そして今回、ようやく余裕を持って(?)楽しめたように思えます。
久しぶりに読むゲドは、ちっとも色褪せることなく、私をアースシーの世界へ連れて行ってくれました。
魔法の島ローク、闇の支配するアチュアンの墓所、竜のすむセリダー、青い海原とそこに浮かぶ島々、それらが目に浮かぶようです。
自分の傲慢さゆえ影を呼び出してしまい、自らも傷つき、しかし最後にはその影を自分のものとしたゲド。
アチュアンからエレス・アクベの腕環を取り戻し、巫女であったテナーを自由の身にしたゲド。
大賢人となり、王子アレンとともに世界の均衡をやぶったクモを追い、不死の国への扉を閉じるため、魔法使いとしての力を使い果たしたゲド。
この1巻から3巻までは、いわばゲドの少年時代から大賢人となった壮年期までの冒険が描かれているわけです。
そして先日、図書館で第4巻『帰還 ゲド戦記 最後の書』を見つけました。
この作品を6年前にはじめて読んだとき、正直言って3巻までのストーリーと違う暗く重いテーマにもう読みたくない、と思いました。
おまけに大賢人だったゲドが、魔法使いですらなく、ただのおじさんになってしまったことに、かなりショックを受けたのです。
だから3巻までは買ったけど、この4巻は手もとにありません。
今回も、偶然図書館で見つけなければ、たぶん読むことはなかったでしょう。
私のとっての『ゲド戦記』は、3巻までだったのです。
しかし今読んでみると、テナーの視点から描かれたこの作品は、驚くほどしっくりと私の中に入ってきました。
子どもも成人し、夫を亡くし未亡人となったテナー。
そこに突然現われた、かつての力を失ったゲド。
もう若くはない二人ですが、ただのひとりの男に戻ってしまったゲドと、ようやく彼と暮らすことができたテナーの穏やかな関係に、しみじみとしたものを感じます(そう思える年に、私もなったということかな)。
詳しくは書かれていないものの、アチュアンの墓所からゲドと共にハブナーに戻り、平和をもたらすエレス・アクベの腕環をもたらした女性として注目を浴びながらも、見知らぬ世界で苦労したであろうテナーの半生がうかがえます。
ゲドの師であった魔法使いオジオンのもとで暮らしても、結局はひとりの普通の女性としての生き方をテナーは選択したのです。
そしてそこに現われたもうひとりの重要な登場人物テルー。
彼女は子どもながら残虐な仕打ちをされ、傷つき、テナーのもとへやってきます。
以前読んだときは、このテルーにショックを受けました。
読んだ当時は、まだ今ほど子どもの虐待が毎日のニュースになっていなくて、だからその部分が強烈な印象になって、この作品が暗くて重い作品だと思い込んでしまっていたのでしょう。
今読むと、テルーの存在はけっして“絶望”なのではなく、次の世代への大きな“希望”として描かれていたことに気づいてちょっとびっくり。
魔法というものが男性の占有物であったことへの疑問。
そして新しい継承者の予感。
第3巻から16年の歳月を経て書かれたこの作品の、テーマのようなものがここに感じられます。
最後でテルーが竜のカレシンを呼び、ゲドとテナーを救ったシーンはとても、とても、感動的でした。
いつも怯えていたテルーが、さなぎから孵った蝶のように自分自身に目覚めたのです。
そして第5巻の『アースシーの風』に続いていくわけですね。
この作品は出版されたときに読みましたが、1度読んだくらいではとても理解できませんでした。
ゲドやテナーは年老い、テハヌー(テルー)の物語になっていたと思いますが・・・。
これを機会に、もう1度読んでみようと思います。
『ゲド戦記』を4巻まで読んだあと、なんだかもったいなくて他の本を読む気になれません(どっぷり浸ってる)。
本棚には、次女が図書館から借りてきたあさのあつこさんの本がたくさん並んでいるというのに
今、私の中で、『ゲド戦記』は『指輪物語』をわずかに凌ぎファンタジー部門第1位ですね
でもゲドとアラゴルンが目の前にいたら悩むだろうなあ・・・って、ありえない・・・。
これに和製の「守り人シリーズ」(上橋菜穂子作)と「勾玉3部作」(荻原規子作)が続き、ハリポタが第5位かな。
この秋には守り人の新刊が出るみたいだし、秋の夜長はファンタジーで過ぎていきそうです。