熊本熊的日常

日常生活についての雑記

読書月記2021年12月

2021年12月30日 | Weblog

内田百閒 『第三阿房列車』 新潮文庫

『阿房列車』の連載は時系列に従って書かれているが、書き下ろしだけは旅の後半、体調を崩したところから始まる。「隧道の白百合 四国阿房列車」だ。四国から大阪に向かう船の中で発熱し倦怠感もあって妙な具合だったので同行の平山氏がテキパキと動いて大阪上陸後直ちに病院へ行く。ところがその頃には平熱に下がり特段これといった異常は認められなかったという。しかし、具合はよろしくない。大阪から乗車予定の特急「つばめ」の発車時間までは間がある。大阪駅の助役室の長椅子で発車時刻まで休む。東京に帰ってすぐ、かかりつけの医師の診断を受けた。病気の詳しいことは書かれていないが「風がこじれて疲労と縺れ合い、そうなっている上になお無理が加わった」ということのようだが、それから熱が上がった。

その後、熱はまだ二三日続き、熱が取れてからも全身の倦怠感の為に起きられなかった。結局帰って来てから九日間寝て、十日目に床上げをした。目がもとの通りに見え出すには、一ヶ月近く掛かった。(84頁)

かなり重症だ。この時、内田は65歳前後で、この後81歳まで生きるのだが、他人事とは思えない。やはり人間は還暦を過ぎると生命活動はそれなりの状態になるということだろう。それを思うと平均寿命が何年であろうと、自分としては明日をも知れぬ命との自覚の下で生活をしないといけない。と、思っていても行動がどうしても伴わない。困ったものだ、と愚鈍なる読者は己のことを心配する。内田としてはどのような意図があってこの話を書き下ろしたのだろうか。

ところで、『第一』のカバーの写真は1952年10月14日の鉄道八十周年記念行事で内田が東京駅の一日名誉駅長を務めた時のものだ。『第三』に収載されている「房総鼻眼鏡 房総阿房列車」にはその時のことが登場する。ニュース番組のインタビューを受けたというのである。その時のことが引用されている。

「よく云われる事ですが、東海道線や山陽線の様な幹線の列車は、設備もよくサアヴィスも行き届いている。然るに一たび田舎の岐線などとなると、それは丸でひどいものです。同じ国鉄でありながら、こんな不公平な事ってないでしょう。そう云うのが一般の輿論です。これに就いて駅長さんはどう思いますか」
「表通が立派で、裏通はそうはいかない。当たり前のことでしょう」
「それでは駅長さんは、今の儘でいいと云われるのですか」
「いいにも、悪いにも、そんな事を論じたって仕様がない。都会の家は立派で、田舎の百姓家はひなびている。銀座の道は晩になっても明るいが、田舎の道は暗い。普通の話であって、表筋を走る汽車が立派であり、田舎へ行くとむさくるしかったり、ひなびたり、いいも悪いもないじゃありませんか」(42頁)

私は内田の方が正論だと思う。世論というものはいつの時代も馬鹿馬鹿しいものだ。しかし、内田はこれに続けて次のように書いている。

その時のはずみで、そうは云った様なものの、余りにむさくるしい三等車は恐縮する。(43頁)

この時利用した房総半島の鉄道にはいわゆる幹線がなかった。今は「わかしお」「さざなみ」「しおさい」という特急列車がある。あと、「成田エクスプレス」というものもある。ついでに京成が「スカイライナー」という優等列車を運行している。とはいえ、それらが走るからといって総武本線だの成田線だのをやはり幹線とは呼ばない。『阿房』当時、その房総半島を走る列車は少し酷い状況だったのだろう。ちなみに、鉄道八十周年記念行事のことが当時の新聞に掲載されている。内田名誉駅長の訓示に私は賛成だ。

「サービスなど以ての外」内田”阿房駅長”東京駅員に訓示
国鉄八十周年の記念行事の一こまに著名人を「一日駅長」や特急「はと」の「一日機関士、運転士」に仕立てて素人に鉄道の仕事を理解して頂こうという寸法で、国鉄では「もしも私が駅長、機関士、車掌だったら」の夢を実現、東鉄管内各駅ににわか仕立ての駅長や機関士、車掌さんが現われ各所に珍風景をくりひろげた
X
名誉東京駅長におされた”阿房列車”の作者内田百閒氏は約束の時間午前十時半きっかりに出勤、まず時間を守る駅長として及第 ”阿房駅長”は早速、駅員を駅長室に集めて訓示
命により本職本日着任す、規律のためには千トンの貨物を雨ざらしにし百人の旅客を礫殺するも差つかえない、貨物とは厄介荷物の集積であり、旅客は一所に落着いていられないバカの群衆である、職員がこのことを忘れ枝葉末節なサービスに走りこれを勤めて足れりとすれば鉄道八十年の歴史はたちまち鉄路の露と消え去るであろう、ぐずぐず申すヤカラは汽車に乗せてやらなくてもよろしい、諸子は駅長の意図に従い、いやしくも規律にもとる如き事があってはならない、駅長の指示に背く者は八十年の功績ありとも明日カク首する、東京駅名誉駅長従五位 内田栄造
東京駅では内田百閒名誉駅長のもと名誉車掌に松井翠声氏、名誉機関士に舞踊家の西崎緑さんが午後零時半発大阪行特急”はと”に乗りこんだ
真新しい紺の制服ハサミを持った翠声氏が『毎度御乗車有難う…』と改札にハリきれば、作業服の西崎機関士、スパナを片手に車輪の点検までやって大はりきり、赤線金スジ入りの駅長は発車真際になったら俄かに駅長を辞任”熱海まで行くよ”と、翠声車掌と一緒に展望車に乗りこんで行った
(読売新聞 夕刊 1952(昭和27)年10月15日付)

見出写真は2009年6月22日撮影。撮影場所は不明。札幌から函館の間のどこかの駅だろう。この時はふと思い立って夏至に夏至らしい場所へ出かけることにした。尤も出かける直前に思い立ったのではない。夏至の一月ほど前、JRの座席指定券発売の頃だ。そうでないと「北斗星」には乗れない。夏至に日本で最も日照時間が長いのは最北端にある稚内のはずだ、と思った。それで飛行機で羽田から稚内へ行った。稚内からは鉄道を乗り継いで東京へ戻り、その足で勤め先に出社した。せっかく長い日照時間を享受しようと稚内まで出かけたのに、雨だった。

 

内田百閒 『ノラや』 中公文庫

 
生き物を飼ったことがない。子供の頃は生き物が嫌いだった。怖かった。犬猫も虫も爬虫類も魚も嫌だった。たぶん、食べ物の好き嫌いが激しいこととか、風呂が嫌いであったこととつながっている。私の世界はとても小さくて、ちょっとしたことで脅かされてしまうと感じたのだろう。偏食が解消されたり、泳げるようになったりするのと軌を一にするように、生き物に対しても自然に向き合えるようになった、気がする。人に対する好悪もなかなかのものだったが、社会生活に支障のあるほどではなくなった、つもりではある。

陶芸を始めた頃、木工教室にも通った。陶芸で作ったものを収める箱がないといけないと思ったのである。その木工教室には猫がいた。教室にある作品や工具に悪戯をしたらマズイのではないかと思うのだが、よく躾けられていて、そういう心配はなかった。その猫がなぜか私に懐いた。私が作業しているとやって来て、作業台の隅にちょこんと座ってじっと私の作業を見ているのである。作業の合間を見計らって、首を伸ばしてくる。その首を掻いてやるように撫でるとうっとりとした表情をする。それを何度か繰り返すうちにどこかへ行ってしまう。それで、なんとなく猫が好きになった。

余談だが、陶芸と木工とは両立できなかった。生産性がまるで違うので、殊に轆轤で陶器を作るようになると、箱を作るのが全く追いつかなくなるのである。木工を始めて2年ほどしたところで、当時の勤め先を馘になったのを切っ掛けに、出費を抑制するためもあって、木工はやめてしまった。

ついでに犬にも懐かれるようになって、嫌ではなくなった。犬や猫が私に懐くのは、知能が同じくらいだとみられるからだと思う。彼らからすれば、ちょっと身体がデカくて二本足で歩くところが違うものの、同類には違いないと思われているのだろう。その後も生き物を飼うことはないのだが、何かの弾みで犬や猫と行き合うとき、稀にではあるが、明らかに何か話しかけられていると感じることがある。もちろん、犬語も猫語もわからないので、勝手にそう思うだけなのだが。

それで、ノラと内田とのことだが、加齢で心身ともに弱くなったところに、うまい具合に自己を重ねるのに適当な相性の生き物が現れたということではなかろうか。齢を重ねると色々なことが微妙な調子に不自由になる。もちろん病気や怪我で急に不自由になることもあるが、そういうはっきりしたことがなくても、加齢と共に、少しずつ且つ着実に、自覚するとしないとにかかわらず、それまでできたことができなくなっていく。ひとつひとつはどうでも良いことなのだが、いい気分はしない。そのなんとなく嫌な感じが複合重層するのである。そしてなんとも形容し難い微妙な無力感と寂寞感と不安に慢性的に襲われるのである。そこにノラとの出会いがあり、依存の形成があり、突然の別れが訪れて、収まりがつかなくなった。それで、あんなふうになったのだろう。

文面からすると内田はノラに依存している。無条件に内田に信頼を寄せているかのように振る舞う、また、そのように内田に感じさせる存在を通して内田は自己の存在を確認している。既に「大家」として世間に認知され、当たり前に「先生」と呼ばれる身分でありながらも、そういう己の在り方に懐疑の念を拭いきれず、言いようのない不安に苛まれていたのではないだろうか。寄って立つものは己しかなく、しかも、自己の能力のようなものを一歩引いたところから客観視できるほどの才覚があれば、当然に自己の能力に欠けているところや欠けたところが見えてしまうものだ。「作家」として日々創作活動をしていれば、その「創作」の中身は己がよくわかるはずだ。晩年はいわゆる代表作がない。『阿房列車』は立派な作品には違いないが、果たして本人がそれを「作品」とすることに満足していたかどうか。そういう中で出会ったのがノラだったのではないか。「野良猫を野良猫として飼う」などとわざわざ言うのも妙なものだ。餌を与えて「飼う」なら「野良」とは言えないくらい内田自身がよくわかっていただろう。己の何事かを守るために、「野良」という距離感を明示しておきたかったのだと思う。現実にはそんな距離感はなく内田はノラに、ノラに象徴される何事かに、溺れていた。

ノラが失踪した後、2ヶ月ほどでノラに良く似た猫がやって来る。やはり懐いたので、そのまま飼うことになる。これがクルツだ。当たり前だがノラとは別の猫なのだからノラと同じ関係性はできない。生き物には個性がある。その新たな個性と自己との交渉の中で新たな関係性ができあがる。「自己」とは自分を軸に構築された関係性の総体だ。新たな関係性が取り込まれて自己は微妙に変容する。つまり、ノラは内田の一部となっていた。それが失踪したということは自己が突然欠落したということでもある。危機だ。後釜のクルツは、そこから5年ほど内田と暮らす。そして、失踪することなく内田に見守られて寿命を全うする。クルツの晩年は体調を崩して内田をさんざん煩わせたので、内田とクルツの関係性はクルツの衰弱に伴って穏やかに終焉を迎える。内田の方には覚悟ができる余裕があったからノラの失踪の時のような動揺は、たぶん、なかった。

自分とは確たる存在ではなくて、自分を軸に形成した関係性の総体だと思う。一つ一つの関係は、ちょっとしたきっかけから少しずつ育んだものもあれば、降って湧いたようなものもあるかもしれないが、概して時間をかけて醸成されたものだ。だから、その関係性の形成に伴って自分の精神のほうも成長する。試行錯誤を重ねて形成されるので、その間に自分の中で合点のいくものがあり、内発的に何かを会得するのである。そういうのを成長という。外から押し付けられたものを理解も了解もないままに受容することはできない。「話せばわかる」などと言う人があるが、おそらく「話」というものを理解していないのだろう。物事を理解するというのは、食物を咀嚼して消化して吸収して自分の血肉骨とするのと同じことだ。「これがああで、こうで」とうだうだ戯言しか語れないうちは、きちんと理解できていない。

しかし、個々の関係性は永続しない。相手の死とか失踪とか、物理的に姿を消す形で終焉することもあれば、何がしかの対立が深刻化して別離に終わることもあるだろう。関係の相手も生きている。自分の都合の良いように付き合いが続くとは限らない。時間をかけて解消するなり変容するなりすれば、それに対する心構えもできるからどうということもないが、そういう余裕のないままに突然のように終焉するのは自分を構成しているものが欠落することであるから、動揺を免れない。その欠落した関係性の位置付けによっては、自己の存在そのものを危うくするほど動揺する。

おそらく、内田にとってノラとの関係はそういうものだったのだろう。側から見れば飼い猫にしか見えなくても、飼っている本人にしてみれば、そこに見えているのは単なる猫ではなかったのである。ノラが、猫が、内田からどう見えていたのか、内田にとってはなんだったのか、本人にしかわからないことであり、本人にも説明できないかもしれない。なぜなら、関係というのは目に見えないものだからだ。

関係性に溺れることは不幸ではない。溺れる幸せというものがあるはずだ。少なくとも溺れる対象が存在するというだけでも豊かなことだ。本書を読んで、百閒先生壊れたな、と思った。同時に自分はマズイことになるかもしれないな、とも思った。この歳になっても嫌いなものばかりで、好きなものがあまり無いからだ。あれが嫌だ、これが気に入らない、などとくだを巻いて、周囲からは疎んじられ、そのうち病院のベッドで管に巻かれて最期を迎えるのだろう。

 

内田百閒 『百鬼園随筆』 新潮文庫

 

その人間の暮らしを特徴づけるもののひとつが貧富へのこだわりだと思う。世界の人々が文化の違いを超えて交渉するには、そうした違いを超えて通用する尺度が必要で、それには数の多寡がわかりやすい、というのは確かなことだろう。しかし、それは方便であって、いわゆる価値観が全て数字で表現できる性質のものではない。ただ、数字や言葉で表現してしまうと、その表記が元の観念から乖離して独り歩きをするのは致し方の無いことでもある。

内田の書いたものには金銭の貸借に関わるものが多い。それだけを集めて『大貧帳』という立派なアンソロジーができてしまう。同書に収載されている「大人片伝」「無恒債者無恒心」「百鬼園新装」は本書に所収されている。その「百鬼園新装」にある記述については前にも少し触れたが、改めて考えたい。

 百鬼園先生思えらく、金は物質ではなくて、現象である。物の本体ではなく、ただ吾人の主観に映る相に過ぎない。或いは、更に考えて行くと、金は単なる観念である。決して実在するものでなく、従って吾人がこれを所有するという事は、一種の空想であり、観念上の錯誤である。
 実際に就いて考えるに、吾人は決して金を持っていない。少なくとも自分は、金を持たない。金とは、常に、受取る前か、又はつかった後かの観念である。受取る前には、まだ受取っていないから持っていない。しかし、金に対する憧憬がある。費った後には、つかってしまったから、もう持っていない。後に残っているものは悔恨である。そうして、この悔恨は、直接に憧憬から続いているのが普通である。それは丁度、時の認識と相似する。過去は直接に未来につながり、現在というものは存在しない。一瞬の間に、その前は過去となりその次ぎは未来である。その一瞬にも、時の長さはなくて、過去と未来はすぐに続いている。幾何学の線のような、幅のない一筋を想像して、それが現在だと思っている。Time is money. 金は時の現在の如きものである。そんなものは世の中に存在しない。吾人は所有しない。所有する事は不可能である。(170-171頁)

戯言だ。しかし、私にとっては説得力がある。人は生まれようと思って生まれるのではない。気がついたらここにいるのである。しかし、当然の如く「人権」などと称して己の権利を主張する。意志なく存在するものに主体性はなく、主体のないものが権利を主張することはできない、はずだ。しかし、現実には権利義務は当然に認められ、それにまつわる紛争があれば文明社会においては裁判所なるところにて衆目の下に紛争当事者の権利義務が規定され、その遵守が要求される。つまり、我々の社会なるものは丸ごとフィクションだ。実体はないが、「そういうことにしておこうな」という合意の上に成り立っている。当然、その合意に違和感を覚える人はいるし、力づくで反抗する者もある。

いわゆる価値なるものも合意だ。高いの安いの多いの少ないのと不平不服を述べたところで、少数意見は通らない。「働けど働けど」暮らしが立たないのは自己責任だ。うまく立ち回らないと負の連鎖を断ち切ることはできない。世間の合意に迎合するように生き方や考え方を改めないといけない、ことになっている。「幸せ」とは合意に対する納得である、とも言える。合意を受け容れる度量とも言えるだろうし、合意する覚悟とも言える。それで、幸せ?

本書の「梟林きょうりん漫筆」という章にこんな一節がある。

「金は萬能でないと、僕は沁み沁み考えた」
「どうしたんだ」
「僕が今度引越しをするだろう。それについて考えたんだが、若し僕に金があったら、隣りの家を買ってしまう」
「金がないから駄目さ」
「ないから駄目だが、あったら買ってそこへ移ろうと思ったんだけれど、考えてみるとそうはいかない」
「何故」
「隣には隣りの人が住んでるじゃないか」
「家を買ったら、出て貰えばいいさ」
「そうは行かない、僕は今自分の借りてる家を人に買われて立ち退かされるんだろう、どんなに迷惑なものかをこれ程承知した上で、人にそんな事が云われるものか」
「じゃ、どうするんだ」
「それに見ず知らずの人ではなしに、今迄隣り同志で心易くしていたものが、その家を買い取ったからって、隣の人に店だてを食わすなんて、そんな不人情な事が出来るものか、馬鹿馬鹿しい」
「じゃ、止すがいい」
「無論よすよ」
「それでいいじゃないか」
「だからさ、金は萬能じゃないと云うんだよ。持っていたって、隣りの家は買えやしない」
「下らない事を考えたものだね、金のない奴に限ってそんな事を考えたがるものだよ」
「有ったって使えないものなら、無くたって結局同じ事だ。君はただ漫然と金さえあれば何でも出来る様に思っているからいけない」
「だれもそんな事を思ってやしないよ。君が勝手な考えで、一人で金に愛憎をつかして見た丈じゃないか。つまらない事を考えていないで金儲けになる仕事でもしたがいい」
「つまらない事を考えなくたって、君がそうして僕の顔を眺めては、茶を飲んで煙草を吹かしている以上同じ事だよ」
「じゃ何か又もう一つ考えて見るさ」
(91-93頁)

戯言だ。しかし、私にとっては説得力がある。人情とは何かということは置いておいて、他人へのとりあえずの敬意とか情を抜きに自分の生活の安寧というものは成り立たないと思う。所有権を得たからというだけで、それまで心易く付き合っていた隣人に店立てを食わせることが当たり前にできてしまうようなところで生活ができるものではない。他人への敬意は他人に対してあれこれ想像力を働かせる手間と労苦なしには生まれない。それは生きる上で当然の負荷だ。お互い、生まれようと思って生まれたわけではなく、たまたまここに居合わせているのだから、とりあえず仲良くしたらいい。それが互いのためだ。そのためには相手を思いやる程度の想像力がないといけない。他者と折り合いをつけるには自分に想像力を働かせるに足る知的能力が必要なのである。実際の能力というよりは、心がけだ。そういうものへの肯定が内田の文章の底に流れていると感じるのである。

冗長になるのを承知で書き写しておきたい箇所がある。同じく「梟林漫筆」の一節で高校時代の先生が亡くなった時のことである。

大阪から帰って、黒枠の葉書を見て以来、段段私の心は苦しく、真面目になって来た。是非一度遺宅を訪ねて、仏になった人の前に御辞儀をして来たいと思いつめた。そうして、とうとうその日に行った。そうして行くまでの私の胸には、ただ私の追懐の心だけがあった。仏壇の前に位牌を拝んで来たいと計り思って行った。そうして私は門を開けた。玄関に金網張の燈籠が釣るしてあった。何だか岡山の門田の家で見た事のある様な気がした。私の卒業した時、竹井と二人でミュンヘンビールと鮨か何かを買って、故人の許へ飲みに行った事をちらりと思い出しかけた。私の声を聞いて出て来たのは、髪を真中から分けた女の人であった。私は今、何と云って私の来意を通じていいかわからなかった。第一その女の人が何人なのだか、まるで見当がつかなかった。表の標札には、天沼という字が三つ書き並べてあってその真中に貴彦という故人の名前がその儘に残っている位だから、その女の人は奥さんであるにしても、だれの奥さんだかわからなかった。「甚だ突然ですが、私は内田と申す者です。此間は御宅に御不幸が御座いましたそうで、私は岡山で御厄介になった者ですから、御悔やみ上がりました」と云うような事を無器用に述べた。するとその女の人は、左手の方から奥へ入ってしまった。それから大分長い間、玄関に起ったまま待っていた。その間、私は何を考えていたのか忘れてしまった。暫くして、今度は向うの襖の陰から、違った女の人が、三つ位になる男の子を横だきにして出て来た。その女の人は、私が妻だとも云わなかった。私も奥様ですかと聞きもしなかった。ただ、お辞儀をして目をあげた。その可愛らしい男の子の顔が、どこか故人の俤に似ていると思った瞬間から、私は全く自分を取り失ってしまった。「始めて御目にかかります。私は岡山でいろいろお世話になりました。御不幸の時は旅行していまして」と云った時に、私の目には、心の奥底から絞り出された様な泪が、今にもまぶちを溢れそうになった。この若い寡婦と可愛らしい子供とを私は見ていられなくなった。未亡人はそれに何か応えた。私は自分の醜態をかくすため、手に持っていた花束の新聞包をべりべりと引き裂いた。すると中から濡れた花が出て来た。私はそれを渡さなければならなかった。「どうぞ仏様におそなえ下さい」と云って出したら、未亡人は何とも云えない悲しい様なうれしい様な声をした。「何よりのものを有り難う御座います」と云って、花束の上に子供を抱えたまま俯伏せになった。私は早く帰ろうと思った。けれども、私の狼狽した言葉は、私を裏切ってへらへらと咽喉から辷り出した。いやにかすれて顫えていた醜い声が、今でも耳についている。「こちらへ御出になったのは去年でしたか知ら」と馬鹿な事を云った。「いいえ今年の四月で御ざいまして」と未亡人が云いかけた。私はそれをよく承知していた筈である。「その時御葉書をいただいて、一度御邪魔に伺いたいと思っているうちに今度の御不幸で」と云ってまた行き詰まってしまった。そうして又あとから云った。「岡山ではいろいろ御世話になりました。よく御邪魔に伺いました」私は同じ事を繰り返しているのに気がついて居ながら、止められなかった。しまい頃には何を云ったか、どうして始末を付けたか、はっきりしない。門を出て、小路を歩いていたら、泪が両方の頬を伝って落ちた。私は、何をしに行ったのだろうと思った。そうして非常にすまない事をしたと云う自責が強く起こって来た。私は、ただ自分の心に隠しておいてすむ事を、何の必要もないのに、勝手に自分に一種の情を満足させようとして、気の毒な未亡人に新しい悲しみをそそったではないか。私は始めから道徳を行う為に行ったのではなかった。礼儀を尽くしに行ったのでは猶更なかった。ただ私の故人を思う責心の為に行ったと自分で思っている。私はその心持を自分に向かって弁解する必要も、証明しなければならない不安もない。けれども、その心を外に表わすのは、ただ私の我儘と勝手である事に気がつかなかった。私は自分の道徳を利己主義で行った徳義上の野蛮人であった。(96-98頁)

「徳義上の野蛮人」という言葉に私は動揺した。

 

内田百閒 『立腹帖』 ちくま文庫

 
あるとき百閒は、辰野隆との対談で、こんなことを言っていた。
- 辰野さん、僕のリアリズムはこうです。つまり紀行文みたいなものを書くとしても、行って来た記憶がある内に書いてはいけない。一たん忘れてその後で今度自分で思い出す。それを綴り合わしたものが本当の経験であって、覚えた儘を書いたのは真実でない。(「当世漫話」)
(294-295頁)

「真実」とは何か、という話になるのだが、自分自身の脳の中で創り上げられたものを、あたかも誰にとっても同じであるかのように無造作に信じ込んでいる人が多い気がする。「私」の世界は私だけのもので、そこで認知されている事象について誰かと語り合えば、何となく話が通じるので、相手も同じものを見ていると思いがちだが、それを確かめることはできないのである。明らかな相違を指して「誤解」と称したりするのだが、そこに何事かの解釈が行われた結果であるので、「誤解」は「理解」の一形態だ。自他の別がある限り、世界観の相違は当然にあるわけで、それを超えて恒久的かつ友好的にわかり合おうなんていうのは儚い夢想だと思う。

たまたま先週の土曜日に所用で高田馬場にある日本点字図書館を訪れた。通りに面した外壁にたくさんの金属製の鎖がぶら下がっていて、一見したところ「ちょっと危ねぇなぁ」という雰囲気だ。しかし、晴天だが時折風が強く吹く日で、鎖が風に吹かれてぶつかり合い、サラサラと音がした。そうか、視覚に障害がある人にでも鎖の音で存在がわかるのか、とその時は思った。しかし、風が吹くとか地震で揺れるとかしなければ音はしない。ただ、音はなくとも鎖の質感というか、何か異質なものがあるという気配は感じられるかもしれない。設計は鈴木エドワードだが、鈴木エドワード設計事務所のウエッブサイトには同図書館は紹介されていない。適度な音で存在を示すための鎖なのか、別の意図があってのものなのか、私は知らない。

これも偶然だが、最近、「ほぼ日」で操上和美、養老孟司、糸井重里の鼎談が掲載されていた。その中で、養老孟司が視覚について話をしている。

養老 だいたい人間ってのは、目で物を見てないんですよ。
糸井 目で見てない?
養老 目っていうのは、網膜に映った像が一次視覚野という、脳みそのうしろあたりに来るんです。位置関係もそのままで来る。ところが、一次視覚野に入ってくる網膜からの入力は1割程度なんです。あとの9割は脳の他の部分から来る。
操上 ほほう。
養老 だから目で見てる部分は、ほんとうは全体の1割しかない。つまり、われわれは目というより、脳で物を見てる。
操上 そうか。目はただの窓。
養老 そうですね。
糸井 じゃあ、小さい窓ですね。
操上 小さいけど広がってるからね。視野というのは。
糸井 脳が埋めてるわけですね。それ以外の情報を。
養老 寝ているときの夢は、目からの入力がないのに、ものすごくシャープに見えるときがありますよね。
(03 「目はただの窓。人間は脳で見ている。」2021年12月17日公開)

この会話を受けて操上和美は写真家が何を見て写真を撮影しているのかということについてサラッと触れている。

操上 カメラマンも同じですよ。やっぱり、目で物は見てないよ。
養老 そうでしょうね。9割は頭のなかで見てる。
操上 ときどき撮影中に「カメラで見てどうですか?」って聞かれることがあるんだけど、「いや、カメラで見てないし」と思うよね。いきなり反発しないけど、内心は。
糸井 あぁ、あぁ。
操上 カメラで見られるなら楽ですよ。いいカメラで撮ればいいんだから。
でも、そうじゃないでしょう。カメラはただの最終的な道具だから。
糸井 いまのカメラってモニターがあって、「こう撮れますよ」っていうのが見えてる状態で撮ることができますよね。
操上 うん。
糸井 それは、そのモニターに写るものが情報のすべてになるってことだから、ファインダーをのぞくのとは、全然ちがう変化になりますね。
操上 だから、ファインダーのぞきますよね。やっぱり。
糸井 のぞきますか。
操上 ファインダーをのぞいたほうが、じぶんの視野として、こう、コントロールしやすくなりますね。モニター見ても撮れますけど、セッションっていう感じにはならない。

素人が撮影する写真と職業としての写真家が仕事とか作品として撮影する写真の違いが何となく了解できる。

文筆家も写真家も職業表現者なのだが、表現するものをどう創るか、つまり世界をどう見るかという環境認識のそもそものところが常人とは全く違うのだと思う。内に温めたものが違うのだから、それを文章に起こしたり映像として切り取ったりすれば自ずと「作品」と呼ばれるものになるのである。

内田の作品の中で『ノラや』が他と違うのは、内田による執拗な校正を経ていないことだそうだ。内容が内容なので、読み返すとノラのことを思い出して取り乱してしまい、他の作品で当たり前にするように読み返して朱を入れることができなかったのだという。あの作品を読んで私は、百閒先生壊れたな、と思ったと書いた。それは内容のこともあるけれど、本人の校正を経ていない完成度という所為もあったのだと思う。つまり、「真実」になりきっていないのである。

ところで、鉄道80周年記念行事の一環で内田が東京駅の一日名誉駅長を務めた時のことを『第三阿房列車』のところで長々と書いたが、駅長に選出された経緯や、当日に突然駅長を辞任して特急「はと」に乗って熱海まで行ってしまう企てのことが本書に書かれている。本書の解説(穂苅瑞穂)の後に中村武志氏が「阿房列車の留守番と見送り(抄)」という文章がある。中村氏は『阿房列車』の中で「見送亭夢袋」として登場する元国鉄職員で、平山三郎氏(『阿房列車』で「ヒマラヤ山系」として登場)の上司でもある。その中村氏の文章の中に内田が東京駅の一日駅長を務めることになったことを国鉄の側から書いた箇所がある。これらを読むとあの訓示の解釈も違ったものになるし、内田が鉄道の記念行事で東京駅の一日駅長になったということが読者である私の中で以前よりも立体的に認識される気がする。月並みではあるが、やはり人の話は聞いてみるものだと思うし、自分の第一印象と理解とを区別しないといけないという反省も生まれてくる。簡単にわかったような気になっていると、自分の世界は広がらないという当然の現実を突きつけられたような気分だ。

 

内田百閒 『御馳走帖』 中公文庫

 
「御馳走」といって何を思い浮かべるか、というところにその人の人となりとか生き方のようなものが表れる気がする。字義としては、奔走してあれこれ集めてこしらえた料理ということだろう。私は貧乏性なので、そんなことをしてもらったら恐縮して喉を通らない。尤も、出されれば有り難く頂くとは思うが、経験がないので本当のところはわからない。

食べ物の好物としては大豆と大豆加工品、特に納豆だ。豆腐は冷奴も湯豆腐もどちらも好きで、醤油はいらない。醤油をつけるとしたら、美味い醤油でないといけない。せっかくの豆腐の味を邪魔して欲しくないのである。もちろん、納豆にも醤油やタレはいらない。いらない、のではなく入れてはいけない。邪魔だ。油揚を焼いて、美味い醤油をつけるのは良いが、そうでない醤油ならいらない。実は、それ用の醤油はちゃんと用意してあって、切らさないようにしている。

たまに妻が豆腐を作る。自分で作ると好みの固さにできる。本当に好みの固さにすると、大量の大豆を消費して僅かな量の豆腐しかできないことに愕然とする。美味いけれど精神衛生には良くない。気楽に買ったほうがいい。なんでも自分で作れば良いというものではない。油揚には味噌をつけるのも良い。

味噌は自分で作る。今消費しているのは2018年か2019年に仕込んだもの。毎年寒の内に作業をする。茹でた大豆をすり潰したものと塩と糀の混合物を「味噌」にするのは私ではなく主に糀菌の働きだ。ここ数年は神田明神前で育った糀を使っている。大豆は北海道産のことが多いが、東京農工大の演習畑産のものを使ったこともあったかも知れない。10年ほど前に初めて味噌を作ったときは富山の豆だった。味噌の味は豆よりも糀に左右される気がする。来月は味噌を仕込む月だ。

余談だが、こうじは「麹」ではなく「糀」と書きたい。麦ではなく米で培養したものを使うからだ。「麹」と「糀」のことは、以前に発酵学の権威である小泉武夫先生の講演を聴いて大変感銘を受けて以来、気をつけている。

世間には「手料理」だとか「手作り」だとかを無闇に有難がる風潮があるように感じているのだが、不味いのはダメに決まっている。「気持ち」の問題はこの際二の次だ。なかには手をかければかけるほど不味くする不可思議な特技の持ち主もいるが、そういう不合理に時間と労力をかけるのは即刻止めるべきだ。人類のために。限りある資源を無駄にするのは許されない。

また、そいう反逆者を煽てるのも同罪だ。不味いときに正直に「不味い」と言えない人間関係は既に破綻した関係だ。食は生命に直接関わることであるということを忘れてはいけない。そういう生きることの根幹で無理を重ねると互いにとってとんでもないことになる。

確かに、諦めずに「頑張る」という姿を「美しい」とする見方はある。しかし、それは他人事だから「美しい」のであって、自分のこととなるとそんなことは言ってられない。料理に自信がないなら、料理をすることに特段の喜びを感じないなら、無理をせずに納豆とか豆腐といったものをどこかで調達すれば良い。そこにアツアツのご飯があれば、これに勝る御馳走はない。

ご飯といえば、今、ふるさと納税でいただいた南魚沼のコシヒカリを食べている。美味い。あちこちの米を取り寄せて食べているが、他とはレベルが違う。私は職場に弁当を持参しているので、冷たくなったご飯も食べる。南魚沼のコシヒカリは冷や飯でも美味い。今は賃労働に従事して給与所得があるので、確定申告をすることによって実質無料であちこちの産物を頂くことができているが、近くそういう結構な身分とは決別することになるので、その後のことも考えないといけない。魚沼のコシヒカリは買うと高い。勤めを辞めた後は、たぶん、食べられなくなる。調子に乗って贅沢をしていると後になって辛くなるかもしれない。しかし、明日のことなどわからないのだから、食べられるときにうんと食べておく。

ところで、自分で作る納豆や豆腐に使う大豆やふるさと納税でいただく米は国内産だが、市販の加工食品の原材料となる漁業農産畜産物は殆ど輸入品だ。農林水産省の統計によれば、2020年のカロリーベースの食料自給率は37%だ。さすがに米だけ見れば98%だが大豆は21%でしかない。小麦が15%、畜産物は47%だが餌を考慮すれば17%、魚介類は51%だが海のものを日本の資本が水揚げに従事したというだけのことだし、今や漁船員の多くが他所の国の人であることも勘定に入れたら意味がある数字とはいえまい。

しかし、そもそも食料を自給することは可能だろうか。第二次世界大戦後、世界は自由貿易と市場原理を宗として歩んできた。関税や諸政策による多少の制限はあるものの、原則として必要なものは世界中どこからでも調達できる建て付けになっている。直近の事例では、例の感染症のワクチンは全量輸入だが、今やほぼ全国民に行き渡り、製造国よりも低い感染率を維持している。その感染症で人の往来は途絶えても物流は概ね維持されて、生活に特段の問題は起きていない。それどころか、在宅勤務で運動不足になり肥満した人が増えたという話は聞くが、食料が不足して大変だという話は聞かない。自給率が37%でしかないのに、だ。

食料自給率の定義からすると自給と生産は実質的に同義だが、入手に関わる政治、外交、行政、経営、その他国家としての総体の枠組みのなかでは、食料自給と食料生産は同義ではないのである。思い切りざっくり言ってしまえば、稼ぐことができるうちはゼニを出せば大抵のものは手に入るのである。もし、「食糧安保」というような化石古典的概念に拘泥するなら、「100%」以外の数字は意味を成さない。つまり、自給率の数字に意味はないのである。そもそも今の日本にとっては達成不可能だ。

農業は、どれほど手間暇かけ、全身全霊を尽くしても、例えば収穫前に台風が来たら、その年は収入が無い。AIだかITだかを駆使してどうこうと吐かす輩がいるが、現実は自分の頭で考え自分の手足を動かさないと何も産まれてこない。どこかに雇ってもらって何をしてもしなくても決まった日に給与が支給される廃人製造業とはわけが違う。

「この道一筋50年」といえば大抵の仕事なら「熟練者」とか「達人」とか、ひょっとしたら「神」と呼ばれる領域に入る。しかし、農業の場合はたった50サイクルしか経験できていない。しかも、今年と同じ四季は二度と巡ってはこない。或る特定のパターンを各一回50回経験しただけ、つまり、常に初心者だ。人に当然に自己実現欲求があるとすれば、仕事で満足を得るというのはなかなか難しいのが農業だ。しかも、自然相手なので、自分の都合で勝手に休んだりできない。そういう暮らしに一生を賭ける覚悟が要求される。放っておけば農業に従事する人が減少するのは自然なことだ。

それでも食料自給率を本気でどうこうしようと語ることのできる人はこの国にどれほどいるだろうか。現実は、政治や行政の立場上は食料自給であるとか食糧安保といったことを標榜する姿勢を見せつつも、ゼニでどうこうできるうちはゼニでとりあえずの型をつける、ということだろう。人は他人事には雄弁だが、自分のことには寡黙になるものだ。

で、本書のことだが、内田はいわゆる美食家ではない。だから、読んでいて我が事のように愉しい。殊に食は生命に関わる一大事だ。そこに向き合う姿勢は生き方そのものとも言える。当然に食を巡って人間関係も露わになるし、綺麗事ではない人の本性も露わになる。本書だけでなく、『東京焼盡』を読んだ時も感じたのだが、誰彼となく内田の好物を気にしている様子が描かれていることに憧憬を覚える。好物と言っても、酒やビールなのだが、それにしても物資の乏しい時代ですら、周囲が気遣いをしてくれるのは、やはり内田の人徳だと思うのである。「御馳走」とは食べ物のことではなく、その背後にある人間関係のことを言うのだとつくづく思った次第だ。


読書月記 2021年11月

2021年11月30日 | Weblog

内田百閒 『追懐の筆 百鬼園追悼文集』 中公文庫

内田がメディアに寄せた追悼文を集めたもの。誰かの依頼で書いたものなので、追悼する相手との面識があるとは限らない。本書で内田が追悼している相手は以下の通り。

 夏目漱石 師
 芥川龍之介 友人
 田山花袋 面識なし
 寺田寅彦 漱石門下
 鈴木三重吉 漱石門下
 太宰治 面識なし
 豊島与志雄 陸軍士官学校・法政大学同僚
 森田草平 漱石門下
 尾崎士郎 
 杉山元 面識なし 職務上の接触はあり
 三代目 柳家小さん 一観客として
 久米正雄 漱石門下
 宮城道雄 箏の師
 堀野寛 岡山時代の友人、妻の兄
 柴田豊 岡山時代の友人
 中野勝義 法政大学航空研究会 学生
 長野初 ドイツ語の個人授業の生徒
 片山敏彦 法政大学同僚 東大後輩

こうして並べてみると、師弟関係を軸にした弟弟関係とでも呼ぶべき横のつながりがあるように見える。もちろん、ここに収載された追悼文は文芸誌や新聞に掲載されたものなので、内田がそうしたところからの依頼を受けて書いたものだろう。それでも、宮城道雄や長野初の追悼文は故人への哀惜が溢れているように感じられ、生前の交流の暖かさのようなものが伝わってくる。いろいろな内田評があるが、根は優しい人だったと思う。

追悼文には俳句が添えられているものがある。内田の俳句も好きだ。

亀鳴くや夢は淋しき池の縁
亀鳴くや土手に赤松暮残り
(「亀鳴くや」『小説新潮』昭和二十六年四月)


入る月の波きれ雲に冴え返り
(「鶏蘇仏」『六高校友会誌』明治四十三年六月)

本書には「追悼句集」として俳句ばかり十句並べた章もあるが、文章の後に座った俳句の方が、文章も締まるし俳句も趣を増す気がする。

私が死んでも追悼とか追懐してくれる人はいないのだが、こういうものを読んでいると追悼文というのはいいものだと思う。自分で自分の追悼文を書いてみようか、などと思ってみたりもする。昨年から、旅行に出かけた時に旅先から自分宛に絵葉書を書いて投函しているのだが、これがなかなか楽しい。一泊一通を基本にしているので、今年も奈良と京都から都合3通出した。去年はまだ葉書に書く歌とか俳句を考えるのに四苦八苦していたが、今年はだいぶ手慣れてきた。

山田風太郎の『人間臨終図巻』で内田百閒のところを開いてみた。最後の作品となった随筆集『日没閉門』のことが書かれている。

 内田百閒が次第に痩せ衰え、起居も困難な状態になったのは、昭和四十二年春先からであった。最後の随筆集『日没閉門』は、夫人に背中から支えさせて書いたものである。
 かつて一劃もゆるがせにしなかった文字は、判読に苦しむほど乱れたものになった。
 そしてこの本の校正刷が出はじめたのは、昭和四十六年二月からであった。(山田風太郎『人間臨終図巻』徳間文庫 第四巻 217-218頁)

結局、見本が上がってきたのが死の翌日四月二十一日だったが、二十二日の出棺には間に合い、棺の中に収められた。この『日没閉門』を担当した編集者は新潮社の山高登だった。

自宅の門柱には、人を食ったように「日没閉門」と記した陶板が掛かっていた。山高さんはそれを最後の単行本のタイトルにした。「思い切って凝った造りにしましたが、わずかな時間差で間に合いませんでした」。(日本経済新聞夕刊「彼らの第4コーナー 内田百閒 下」2007年5月27日)

私が本を手にするのは、普段の生活の中でちょっとした引っ掛かりを感じて、そこから辿り着いたものを選ぶ。読み始めてその作者のことが気になり、同じ作者の本を続けて読むこともあるが、そうこうしているうちに別の引っ掛かりも出てくるので、結果としてはデタラメに読むことになる。それなのに、ここで山高登が登場すると、ちゃんと繋がるところは繋がっているのだと気づいて不思議な心持ちになる。

山高登は夏葉社の本を続けて読んだ時期に出会った名前だ。珍しく私が本はいいなぁと思った関口良雄の『昔日の客』に木版の挿絵を寄せたのは、新潮社を退職して版画家として活動していた山高だ。夏葉社からは『東京の編集者 山高登さんに話を聞く』という本が出ている。島田潤一郎氏によるインタビューをまとめた本で、ここに収められた写真や山高の版画がとてもいい。ここにも内田百閒のことが書かれている。

 昭和三○年代半ばには新潮社の出版部には八○人くらいいましたが、百閒さんのような気難しい先生はだれも担当したがらなかったんです。人が大嫌いでね。
 世の中に人の来るこそうるさけれ
 とは云うもののお前ではなし
 世の中に人の来るこそうれしけれ
 とは云うもののお前ではなし
って玄関のところに貼ってあるんですよ。「日没閉門」なんて書いてある表札みたいなものも掲げてあって。
 でも、ぼくはひねた人が好きですし、百閒さんは中学校のときから読んできた作家でもありますから、担当させてほしいといったんです。
(『東京の編集者 山高登さんに話を聞く』夏葉社 77-78頁)

山高は内田の葬儀に当然参列し、出棺には棺を担いだそうだ。最後まで担当者だ。『東京の編集者』には出棺の時の写真が載せてある。先日、内田が暮らした場所を見に行ったので、その写真を見て、あそこか、とすぐにわかった。本を読んでいると、読んだ本の間でのつながりが不意に現れてきて面白い。意識はしていなくても、人生も同じなのかもしれない。生きていて嫌なことは山ほどあるけれど、わずかばかりの面白さを頼りに今日も生きている。

 

内田百閒 『東京日記 他六篇』 岩波文庫

何かの対談記事だったか講演だったかで俵万智が歌は順番が大事だと語っていたのを思い出した。30とか50のまとまった数の歌を投稿したり、連歌を詠んだり、歌集を編むときのことだ。順番を変えることで全体も個々の歌も変わったものになるというのである。

「朝三暮四」は「目前の違いにばかりこだわって、同じ結果となるのに気がつかないこと」の意で用いられる言葉だが、「朝に三つ、暮れに四つ」と「朝に四つ、暮れに三つ」では大違いということが生活の中にはある。

音楽のアルバムがレコード盤だった時分には、曲順はとても大事だった。それは今でも、例えばコンサートでの演奏順とかMCのタイミングといったものにも言えることだろう。ビートルズの『サージェントペパー』が名盤とされるのはあの曲順でしか成立しないアルバムであるからで、『レットイットビー』が「名曲」が並んでいても「名盤」にならないのは、、、こういう話はやめておこう。

内田百閒を小説から入るか随筆から入るかで、内田という作家に対するイメージは全く違ったものになる気がする。私はたまたま最初に手にしたのが『大貧帳』で、戦中戦後の日記、追悼文と続いた後に小説を読んだ。今だから随筆から読み始めても結果は然程違わないかもしれないが、若い頃だったら全然違ったものになったかもしれない。随筆や日記を読んで形成された自分の中の「内田百閒」があり、その上で小説を読むと、何となく、この人ならこういう作品を書くだろうと納得する。また、そういう所為でこういう作品が愉快に感じられる。

今、思い出したのが司馬遼太郎で、江戸から明治にかけての実在の人物を主人公に据えた一連の作品は若い頃にワクワクしながら読んだ。そして「日本人」というのは大したものだと思い、そこに自分を重ねてみたりもした。しかし、随分ポンコツになった今になって同じ作品群を読んだとしても、娯楽作品としか思えないだろう。個人を「ヒーロー」っぽく描くとどれほど検証を重ねた上での作品であったとしても漫画にしか見えない。ただただ嘘臭さが鼻を突くだけになってしまう。

人との出会いも同じだろう。血縁というどうしようもないものは置いておくとして、知人友人との出会いには順の妙のようなものがある気がする。時間を巻き戻すことはできないので検証は無理だが、この順番で出会ったから助かったこともあれば、トンデモないことになってしまったこともあるだろうし、順番を変えても同じかなと思うようなこともあるだろう。しかし、考えてみれば、人との出会いとは自分の時間の使い方、生き方でもある。現実は一回こっきり。順番というものは変えられるようで変えられない。だから時々刻々真剣に生きなければならない、と今思った。同時に、手遅れだと悟った。

ところで本書のことだが、どの作品も誰にでもありそうな日常の、ちょっとしたところを膨らませたことで生じる奇異を描いている、とでも言ったら良いだろうか。人は誰でも少しオカシイのである。

 

内田百閒 『冥土・旅順入城式』 岩波文庫

『東京日記』の後に読んだので、どうということなく読了したが、いきなり本書を手にしていたら内田に対する印象は全く違ったものになったと思う。前にも書いたが、順番は大事だ。

奇譚ばかりなのだが、話の中身と長さのバランスが絶妙だと思う。奇譚ではあるが、誰にでもありそうなことを少しだけ奇怪な方に拡張した話とも言える。人が当たり前に持っている業が奇をもたらすのかもしれない。そうであるとすれば、フツーの生活というものは奇なるものと安らかなるものとの間のかなり危うい均衡の上に成り立っているということにもなる。

私にはわからないのだが、小説とは何なのだろう。『山高帽子』に登場する野口は明らかに芥川龍之介をモデルにしている。なぜそれがわかるかといえば、内田の『追懐の筆』の中に『山高帽子』とほぼ同じ記述があるからだ。もちろん、全ての創作に元ネタがあるわけではないだろうが、人は経験を超えて発想はできないと思う。時々刻々様々のことが生起する中で、創作の得意な人はその様々の中から常人の意表を突くような組み合わせや展開を創り出すことができる感性を持っているのだろう。

『件』は『変身』の百閒版のような話だ。内田はドイツ語の教師だったので、カフカの『変身』を読んでいたかもしれない。もちろんストーリーは違うが主人公が突然人ではないものに変わってしまうのは同じだ。突然、虫になる、身体が牛で顔が人という生き物になる、というと奇怪なようだが、突然、病に斃れる、事故に遭う、というのは当たり前にあることだ。昨日と同じ今日があって、今日と同じ明日がある、というのは決して「当然」のことではない。或る周期の組み合わせでこの世の物事が展開していくとするならば、突然の変異は確率としては小さいのかもしれない。しかし、確率というのは全体とか平均についてのことであって、個々に対してはあるかないか、起こるか起こらないかの二択だ。平均で自分のことを考えることに意味があるのだろうか。個人を平均で語って平気なのは保険の外交員くらいのものだろう。詭弁に騙されてはいけない。

『短夜』は異類譚。よく昔話に狸や狐が人に化ける、あるいは人を誑かすものがある。落語にもそういう話はたくさんある。或る噺家がそういう噺のマクラのなかで真面目な顔をして、「ほんとうは狐や狸は人に化けたんじゃないかと思うんですよ。でもね、人が横柄になって無茶ばかりするようになったから人を見限って、人に化けたり誑かしたりというようなことをやめてしまったんじゃないか、って時々思うんです」と語っていた。客席は微妙な雰囲気になったが、私はそれは本当なんじゃないかと思うのである。人は自己を序列の中に見出す。様々な尺度を考え出して大小優劣の序列を作って、その中に自分を位置付ける。それができないと不安に苛まれて落ち着いていられない。事実、社会の秩序は序列とセットにして成り立っている。そして、当然のように自分を、自分の属性を、序列の上の方に想定する。それが精神の安定には不可欠だ。狸や狐が人に化けたり誑かしたりするのはあってはならないことだ。なぜなら、生物の序列の中で、狸や狐は人間よりも劣位にあるとされているから。しかし、昔話の中ではそういうことがある。なぜだろう。

本書の収められている一つ一つの話に思うところはあるのだが、際限が無いのでこれくらいで止めておく。

 

内田百閒 『第一阿房列車』 新潮文庫

また内田百閒だ。この調子だと今年は内田で暮れる。以前、だいぶ若い頃、どこかの書店で立ち読みをした時には『阿房列車』をそれほど面白いとは思わなかった。今は自分が『阿房』執筆の頃の内田に近い年齢になったことと関係があるのかないのかわからないが、この本はいけないと思う。面白すぎる。人生の黄昏時を迎え、生きることに関する責任がほぼなくなった、何の役にも立っていない私如き境遇にある者にはこういう本を読んで笑い転げている特権があると確信している。無駄に齢を重ねた愚者だけに許される特権。書いている内田は作家先生なので、行く先々で周りの人々があれこれ世話を焼いてくれる。そこのところは書く側と読む側との間に越え難い深い溝がある。そんなことはどうでもいい。

旅行とか旅とか『阿房』の頃はたぶん今とは違う。人々の意識の中で「旅行」とか「旅」が占める位置が全然違っていたと思う。仕事や用事があっての移動を「旅行」とは呼ばない。旅行は時間と懐の余裕があってこそ楽しむことのできるものだ。その時間と懐具合は交通機関と交通も含めた社会インフラ、つまり世の中総体の経済力に依存する。たまに人生を旅に喩えるというようなことを書いたり言ったりする人がいるが、おめでたくて結構だ。そういう呑気な境遇におさまりたいものである。

1回目の阿房列車は1950年10月大阪への旅だった。本書の中に日時の記述は無いが、日本経済新聞の2007年5月13日付夕刊にある「彼らの第4コーナー 内田百閒 上」にそう書いてある。時に内田は61歳。不整脈の持病があるため内田は一人で長距離の移動はしなかった。阿房列車には旧知の国鉄職員で内田のファンでもある平山三郎氏が同行する。『阿房列車』はこの平山氏の存在抜きには成り立たない。人あるいは物語というものは、人と人との縁とか関係性を抜きにしては存在し得ないということがよくわかる。そして、今の自分に欠けているのがそういう縁だということも痛感させられる。もちろん、こうして社会生活を営んでいるのだから何がしかの縁はある。しかし、それは今にも切れそうな危うい縁ばかりだ。おそらく自分は孤独死するのだろう、と薄々感じている。尤も、今の世間の圧倒的大多数は似たようなものだろう。

本書を読みながら考えたこと、というよりも思いついたことはたくさんある。その切掛となった記述のいくつかを引用しておく。何を考えたかという事の詳細についてはそのうち別に書くかもしれない。

用事がないのに出かけるのだから、三等や二等には乗りたくない。汽車の中では一等が一番いい。私は五十になった時分から、これからは一等でなければ乗らないときめた。そうきめても、お金がなくて用事が出来れば止むを得ないから、三等に乗るかもしれない。しかしどっちつかずの曖昧な二等には乗りたくない。二等に乗っている人の顔附は嫌いである。(7頁)

その後、国鉄の優等列車の編成は普通車とグリーン車とに変更された。ざっくりと言えば、普通車が『阿房』の時代の三等車でグリーンが二等車だ。但し、当時の二等と三等との価格差は今の普通とグリーンよりも大きい。かなり平準化した上での等級差になった。何より「普通車」という言い方がいかにもな感じがする。戦後の民主化のなかで所謂「特権」的なるもの、そうしたものを想起させるものが廃止されたのである。近頃は「格差社会」などと喧伝する向きもあるが、いまだにJRの特急列車は普通とグリーン、たまにグランクラスとなっている。それだけ世の中に「民主化」が定着したということなのかどうかはわからないが、少なくとも、誰もがこうしてあたり構わず好き勝手なことを公衆通信回線に垂れ流していられるくらいに「民主的」な世界であることは確かだ。

『大貧帳』に借金のことが縷縷記されていたが、阿房列車も費用は借金で賄っている。尤も、貸す方は返済への期待があればこそ貸すのである。それくらいの作家なのだが、それでも借銭のやり取りは愉快だ。

色色と空想の上に心を馳せて気を遣ったが、まだ旅費の見当がついていない。いい折を見て、心当たりに当たってみた。
「大阪へ行って来ようと思うのですが」
「それはそれは」
「それに就いてです」
「急な御用ですか」
「用事はありませんけれど、行って来ようと思うのですが」
「御逗留ですか」
「いや、すぐ帰ります。事によったら著いた晩の夜行ですぐに帰って来ます」
「事によったらと仰ると」
「旅費の都合です。お金が十分なら帰って来ます。足りなそうなら一晩ぐらい泊まってもいいです」
「解りませんな」
「いや、それでよく解っているのです。慎重な考慮の結果ですから」
「ほう」
「それで、お金を貸して下さいませんか」
(13-14頁)

1950年と言えば敗戦から5年しか経っていない。愉快なエッセイだが、戦争の残影のようなものは散見できる。

れそれからからは毎晩、お膳の後で汽車の時刻表を眺めて夜を更かした。眺めると云うより読み耽るのである。ヒマラヤ山それから系が新しく改正になったのをくれたので、急行列車等の時間の工夫が大体戦前の鉄道全盛当時に近くなって居り、くしゃくしゃに詰まった時刻時刻の数字を見ているだけで感興が尽きない。こまかい数字にじっと見入った儘で午前三時を過ぎ、あわてて寝た晩もある。(17頁)

私は支那蕎麦に余り馴染みはない。しかし山系君の好物である。だから旅は道連れの仁義からおつき合いする。先年彼の地から帰って来た者に、本場の支那蕎麦はどうだと尋ねた。あちらにこんな物はありません。支那蕎麦の本場は新橋の烏森の辺りでしょうと云った。山系君も兵隊で行って、北京を知っている。そちらが本場でないとすれば、帰って来てからラアメンを啜って曾遊を忍ぶと云うのも筋違いである。(250頁)

やはり平和、平穏に勝るものはないと思う。もちろん私自身は戦争とかそれに類することの経験はない。特にどうというほどのこともない59年を過ごした。ここ直近で感染症騒動もあったが、流行病というのはいつの時代にもあることだ。そういうことを勘案しても、やはりどうというほどのことではない。ありがたい時代を生きることができた。と過去形で書くと、まるですぐにも死ぬような風だが、もう死んだも同然なので、やはりありがたい。

うだうだと長くなったついでに、内田の魅力が存分に表出していると思った箇所を引用して本稿を終わる。「区間阿房列車」で東京から御殿場線経由で沼津へ向かう途中、国府津で御殿場線に乗り損なう場面だ。

 歩廊の上に、今著いた汽車から降りた人が散らばっている。箒を持った駅員に、御殿場線の乗り換えは、あれかと山系が尋ねた。山系が指差した線路の向こうの歩廊に、五六輛連結の短かい列車が停まっている。
「乗り換えですか。早く早く、この列車は遅れて著いたけれど、あっちのは、それを待っていないから、すぐ出ますから早く早く」と駅員が云った。
 そんな馬鹿な事があるものかと思いながら、むっとして歩き出した。
 ヒマラヤ山が気を揉んで、走りましょうかと云うから、いやだと云った。
 抱えている外套を持ってやろうと云ったけれど、いいと云って渡さなかった。私を身軽にして、どたどたしているおやじを、少しでも早く連れて行きたいと云うつもりなのは解っているが、接続する列車が、前の遅れた分を無視して発車すると云う法があるものかと考えているので、ヒマラヤ山系の焦燥に同じない。それで山系はあきらめて、私を同じ歩調で歩いている。
 しかし、私だって、遅れてもいいつもりで、ふらりふらり行っているわけではない。走り出すのはいやな事だが、出来るだけ足を早めて歩廊を急いだ。歩廊の突き当りに地下道へ這入る階段がある。降りかけると、後から走って来て、私達を追い越す人もあった。
 地下道を通り、向こうの歩廊に出る階段を五六段上がった所で、もう一寸でその歩廊に出ると云う所で、頭の上あたりにいた機関車が、ぼうっと云う、汽船の汽笛の様な調子で、発車の汽笛を鳴らした。
「あっ、発車する」と思ったら、階段の途中で一層むっとした。
 その音を聞いて、あわてて階段の残りを駆け登るのはいやである。人がまだその歩廊へ行き著かない内に、発車の汽笛を鳴らしたのが気に食わない。勝手に出ろとは思わない。乗り遅れては困るのだが、向こうが悪いのだから、こちらに不利であっても、向こうの間違った処置に迎合するわけには行き兼ねる。
 歩廊に出たら、その列車は動き出している。まだ徐行だが、歩廊の縁をすうと辷っている。階段を上がり切った所の前は荷物車だけれどもデッキがある。乗れば乗れない事もないが、荷物車に乗らなければならない因縁もないし、何よりも動き出している汽車に乗ってはいけない。乗ろうと考えてもいけない。昔からそう云う風に鉄道なり駅なりから、しつけられている。山系は曖昧だったが、私が乗ろうとしないので、あきらめた様である。
 動き出しているけれど、余り速くはならない。その時階段を駆け上がって来た男が、私達の後を走り抜けて、中程の車のデッキに飛びついた。自分の事を忘れて、見ていてはらはらした。前部の方では、その男と同時に階段を上がって来たらしい女の人を、助役と駅務掛と二人がかりで、動き出しているデッキに押し上げた。そこへ又一人、上がって来たのか、前からいてうろうろしていたのか知らないが、まだ乗らずにいるのを、その時はもう男だか女だか解らなかったが、助役が荷物車のデッキに押し上げた。
 気がついて見ると、機関車から機関士らしいのが半身乗り出して、こっちを見ている。歩廊の様子を見、助役の相図を待って、徐行を続けているらしい。列車の最後部の歩廊に起っていた駅員がこっちを向き、機関車の近くにいたもう一人の助役がそっちを見て、それから半身乗り出している機関士に相図したら、機関士が身体を引っ込めて、目の前にのろのろしていた列車が急に速く走り出した。
 最後部が行ってしまったので、私共の前が豁然と明るく広くなった。何となく目がぱちぱちする様な気持である。考えて見ると、面白くない。考えて見なくても面白くないにきまっているのだが、こう云う目に遭うと、後でその事を一応反芻して見た上でないと、自分の不愉快に纏まりがつかない。
「仕方ない」と私が云った。「ベンチにでも掛けようか」
 だれもいない歩廊の中程にあるベンチに二人で腰を下ろした。
「前の列車の、もっと前部の車に乗っていたら、間に合ったのですね」とヒマラヤ山が云った。
 それはそうだけれど、そんな事で間に合いたくない。だれが間に合ってやるものかと云う気持である。
 暫くだまっていた。股の間に立てたステッキに頤を乗せて、向うの何でもない所を見つめて考えた。段段に不愉快がはっきりして来る。
「行って、そう云ってこようか」
 ベンチから起ち上がって、歩廊の端に近い所にある駅長事務室へ歩いて行った。一緒に来た山系に向かって、私が云った。
「何か云う事があるなら、今頃になって、少し気が抜けてから云いに行くよりは、さっき汽車が本当に動き出して、歩廊を離れかけた時、あの時はまだ助役が二人共そこに起っていたのだから、そこで、なぜ汽車を出したかと云えばよかったのだけれどね」
 そうすれば、後から駅長事務室へ出頭して文句を云うより、どれだけ適切だったか知れない。それは前からわかっているのだが、しかし私には第一に戦闘的精神が欠如している。腹が立つ時には立つのだが、それを人に向かってぶつけると云う気魄に乏しい。次に、そうでありながら、又こんな事も考える。こちらに理があって相手に迫る場合、相手をのっぴきならぬ条件に置いて責めるのは、君子の、或いは紳士の為す可き事でない。兎に角自分を優位に置いて考える事の出来る側の為す可き事でない。為すをいさぎよしとせざる所である。だから私はそうしなかったと考える。今の事で云えば、私と山系と二人の乗客を歩廊に残して、汽車が動き出した時、まだその場を立ち去らない二人の助役をつかまえて面詰すれば、こちらの云う事に理のある限り、先方には逃げ道がない。逃げ道をなくしておいて責めては可哀想だと云う優越感がある。同時に、逃げ道がないから歯向かって来たら厄介だと云う警戒心も働く。口論や喧嘩で歯向かわれても、
「そうでしたか、相済見ません、一寸お待ち下さい」と助役が云って、機関車に相図し、動き出している汽車を停めて、「さあどうぞお召し下さい」と云う事になれば、「御手数でした」と澄まして乗れるものではない。そんな羽目になったら、理がありながら、こちらの敗北である。(85-89頁)

この引用部分の後半に、私は深く感心した。

 

内田百閒 『第二阿房列車』 新潮文庫

ざっくりと『第一』の二、三年後のようだ。やはり国鉄現役職員の平山氏が同道しているが、職務だったのだろうか。本文の中でチラリと「休暇を取って」と書いてあるが、本当だろうか。こういう仕事なら私もしてみたい。そういう余計なことが気になる質だ。

気のせいかもしれないが、『第一』に比べると、本書の方が紀行文風な第一印象がある。そもそも『阿房列車』は「小説新潮」の連載で、それがある程度まとまったところで三笠書房から単行本として順次刊行され、さらにそれがこの新潮文庫版で現在流通しているのである。だから、連載が進むに従ってスタイルに多少の変化が生じるのは当然で、その変化をある程度の期間で区切っているので『第一』と『第二』の印象が変わることに何の不思議もない。また、読む側も『第一』を読んだ上で、何がしかの先入観を持って『第二』を手にするので、たとえ書き手の側に心境の変化がなくても、違った受け取り方をすることにやはり何の不思議もない。さらに、時間の経過とともに国鉄の列車の方も変化する。蒸気機関車による牽引だったのが電気機関車になるとか、編成が変わるとか、それだけでも乗る側の印象はだいぶ違う。

ついでに言えば、機関車が牽引する場合、殊に蒸気機関車が牽引する場合、出発した時の初速がかなりゆっくりだ。いきなり60km/hとか80km/hとかにはならず、しかも、例えば東海道本線なら東京を出れば新橋、品川、と比較的短い距離で次の駅に停車するので、乗る側の気持ちが旅モードというか、勝手な盛り上がりというか、今の新幹線での移動とはちょっと違う気がするのである。

少なくとも、駅の雰囲気は当時と今とでは全く違うはずだ。『第二』の表紙のカバーは駅のホームにある水場で内田が鏡を見ながら頭に手をやっている写真だ。かなり大きな流し台だが、私が中学生くらいまでは、東京とか上野のような長距離列車のターミナル駅にはこういう大きな水場があった。蒸気機関車が旅客列車を牽引していた時代は、煤で顔や身体が汚れるので、ホームに水場が必要だったのである。もちろん、私が中学生の頃には既に蒸気機関車は引退して随分経過していたが、ホームの設備には名残があった。あと、けっこう最近まで赤帽と呼ばれる荷物運びの人たちがいた。私自身は利用したことはないが、幾許かの手数料を支払って手荷物を運んでもらい、身軽に駅構内を移動できるようにするのである。そんなこんなで駅とか鉄道まわりの風景が『阿房列車』と今とではだいぶ違うことは、やはり頭に入れた上で読まないといけないと思う。駅の風景の変化は旅とか旅行にまつわる意識の変化と無縁ではない。今の鉄道風景しか思い浮かべることができないままに本書を読み進めるというのは、勿体無いというか、寂しいというか、貧しいことのように思うのである。

そういう意味では、見出写真に電車というのも、ちょっとナンだとは思う。しかし、機関車牽引の列車にはなかなかお目にかかることのできない時代になってしまったのだから仕方がない。ちなみに、この写真は信越本線柏崎駅に停車中の115系。右に越後線のE129系が見えている。撮影日は2019年8月10日。現在は信越本線の主力はE129系だ。妻の実家に出かける時、東京から新幹線で長岡に行き、信越本線に乗り換えて柏崎駅で下車する。他に、越後湯沢で上越線経由でほくほく線に入り、犀潟で信越本線に乗り換えて柏崎というルートもあるし、新幹線で燕三条まで行って弥彦線に乗り換え、さらに吉田で越後線に乗り換えて柏崎というルートもある。乗り換えの便とか全体の所要時間から最も一般的な経路は長岡乗り換え信越本線なのだが、信越本線の方が以前に比べると本数が減り、列車の編成が短くなった。それで、以前に比べると少しずつ不便になっている。

国鉄が赤字になったのは東海道新幹線が開業した昭和39年のことらしい。それが累積して民営化を招き、民営化によって不採算路線が次々に廃止され、今日に至っている。分割民営化後の旧国鉄の鉄道会社のうち東日本、東海、西日本、九州は株式の公開を果たしたが、北海道、四国、貨物の上場は無理だろう。北海道と四国は会社の存続そのものが困難な状況にあると思う。かつて鉄道網は軍事とも関連して日本国内の津々浦々まで張り巡らされ、国家が直接管理運営した。鉄道省という役所があり、戦後も日本国有鉄道として水道光熱と同様の社会基盤を担った。しかし、それは国家が成長というベクトルで運営されていた時代のことであり、少子高齢化で国内至る所に「限界集落」と呼ばれる消滅方向のベクトルを有した地域を抱える時代には、それまでとは違った鉄道のあり方が模索される。人口が減るのに鉄道を維持することはできない。国の管理下にあれば、人口が減らない工夫も含めて鉄道の維持開発が行われるべきだが、民間企業なら会社の存続が基本で、そのために不採算路線を廃止することに何の不合理もない。ましてや株式を公開し多くの利害関係者を抱えるとなると、会社は利益を計上して株主に配当や株価上昇というリターンをもたらす経営責任を負う。むしろ積極的に不採算路線を整理しなければならない。同じことは他の民営化事業にも言えることであって鉄道だけの話ではない。いわば、公益事業の民営化は国家の終活の一環でもある。

終活といえば、生きるとはどういうことなのか、奇しくも感染症の世界的かつ爆発的流行は人類に問いかけたと見ることもできようが、結局は感染がどうのワクチンがどうの予防がどうのと目先だけの薄っぺらな議論に終始して、むしろ人間抜きで物事を進める方向へ踏み出したかのような印象がある。ソーシャルディスタンスとか、リモートナントカとか、人間同士が膝突き合わせることなく事が済んでしまう状況がたくさんあることが判明した。結局、我々の今の暮らしはそういう暮らしなのである。目に見えないウイルスさんたちが人間の孤独と浅はかさを教えてくれた格好だ。

生身の人間同士の交流なくして「人間」とは何なのか。人と人との「間」がないから単に「人」だ。「人」は「ヒト」、つまり単に生き物、畜生と同じ。そういう言い方をすると畜生には失礼だ。そういう意図ではなくて、人もそれ以外の生き物も皆結局は同じであって、生物進化の頂点が「人間」だ、という思い上がりが木っ端微塵に打ち砕かれた、と言いたかっただけだ。人間もフツーの生き物だったというだけのことだ。

結局、本書の中身については何も書かなかったが、『第三』を読んだ後にまとめて何か書くかもしれない。


読書月記 2021年10月

2021年10月31日 | Weblog

内田百閒 『百鬼園戦後日記』 全3巻 中公文庫

初版が出た頃の世情は経験していないのでわからないが、決して誰もが安楽に暮らすことのできる状況ではなかっただろう。本書の中でも新旧円切替というのがある。円という単位こそそのままだが、実態としては通貨単位の仕切り直しだ。つまり、そうしなければならないくらいに経済が破綻していたということだ。そういう中にあって、日記の記述の核を成すのは酒の調達への情熱と酒を呑む喜びなのである。

確かに、自分でどうこうすることのできないことを思い悩んだところでどうしようもない。個々人の生活というのは、当事者がどれほど思い悩んでいようがいまいが、側から見れば滑稽なものでしかないのかも知れない。それくらい人は己の目の前のことへの関心に執着している、ということだろう。

百閒先生の場合は、とどのつまり「やっぱり酒が好き」か。私は下戸なので、いわゆる酒呑みが長時間に亘って体内に液体を摂取し続けることができることが不思議でならない。酒呑みであろうとなかろうと、胃袋の容量も腸の長さも然程違いがあるはずもない。それが一升を一人一晩で空けて何事もないかのようにしていられる人が少なからず存在することを人類あるいは人体の驚異とよばずに何としょう。

何年か前、健康診断で再検査になり、肛門から内視鏡を突っ込む検査を受けた。その検査に際し、2リットルの下剤を30分以内に飲むことになった。私の人生において、これほど短時間にこれほど大量の液体を摂取することは後にも先にもこの時だけだ。その苦痛だけでも並大抵ではないのに、検査本番では塗炭の苦しみを味わうことになる。同じ内視鏡検査でも胃と腸とでは世界が違う。以来、健康診断の一か月程前からは繊維質のものを多く食し肉類は控えて便が固くならないようにして裂肛の回避に努めている。また、検便の採便に際しては細心の注意を払って色艶の良いところを選んで提出容器に納めている。

さて、何の話だったか。「やっぱり猫が好き」いや、酒が好き、か。何にせよ、好きなものがあるというのは結構なことだ。本書と『東京焼盡』を合わせると昭和19年11月1日から昭和24年12月31日までの百閒先生の日常を覗き見たような気になる。しかし、こうして刊行される「日記」は本当の日記ではない。『戦後日記』の中で昭和19年11月1日から昭和20年8月21日までの日記であるはずの『東京焼盡』が昭和24年に執筆されていることがわかる。もちろん、全くの絵空事ではなく、下地となるメモなり本当の日記なりがあるはずだ。百閒先生は刊行物としての「日記」の核に酒の調達と呑むことを据えた。それがどういうことを意味しているのか、一考の価値はあると思うのである。本書については、改めて書くかもしれないが、一応読了の印としてここに記す。


読書月記 2021年9月

2021年09月30日 | Weblog

『文選 詩篇(二)』 岩波文庫

今年最初に読んだの本は岩波文庫の『文選』の第一巻。短歌や俳句を読むのに何か足しになるものでもあるのではないかと思って、漢詩を読み始めた。流石に漢詩を白文で読むことはできず、読み下しと注と解説を頼りに読むので、容易に読み進めることができない。だから手に取るのが億劫になる。一巻目を1月に読んで、二巻目を読み終えたのが9月だ。全部で六巻ある。今年中には読み終わらない。しかし、そんなものを読むのも、それはそれで不思議と愉しい。

いきなり顔延之の「秋胡の詩」というすごい詩から始まる。何がすごいかというと詩に歌われている物語だ。夫婦の話である。美しい娘と君子と誉高い美男の夫。新婚早々、夫が遠方へ出張を命じられる。時代は4−5世紀、そこその官位にあるので、移動は牛馬が引くのか人が引くのか知らないが車である。それでも、今と比べれば荒野を行くが如きの大移動だ。命懸けといっても過言ではない過酷な移動である。無事に勤めを終え帰路についた夫は、大命を果たし終えて気が緩んだのか、車窓から農作業に精を出す美しい女性を見つける。移動の隊列を止め、その女性に話しかける。話しかけるという穏やかなものではなく、いわゆるところのナンパをする。しかし、その女性は堅い。全く相手をしないのである。男は諦めてそのまま帰宅する。帰ると母親しかいない。妻の行方を尋ねると農作業に出ていて直に戻るという。戻ってきた妻は、さっきナンパをした女性だった。女性はそれが夫であることに気づいていた。この後修羅場を迎えたらしいことが示唆されて、最後はこう締める。

愧彼行露詩
甘之長川氾

こんな男と夫婦になるとは恥である。こうなったら川に身を投げるほかはない。絶縁宣言だ。当時の倫理観の基礎にある儒教の考え方を反映したものらしいのだが、こういう作品が残るということは実情がその反対だったということでもある。一夫一婦というのは誰が決めたのか知らないが、社会の単位として家庭を捉えれば、そこに厳然たる秩序がなければ社会も安定しないと考えるのは当然だ。しかし、集団の特性とそれを構成する個別要素の特性は無関係である、というのは数学の集合論の常識だ。

よくいろいろなところで使われる蟻の集団の話がある。蟻の群は、よく働く2割の蟻が8割の食料を集めるとか、本当に働いているのは全体の8割だとか、よく働いている蟻とそうでもない蟻と働かない蟻の割合は2:6:2になるとかいうものだ。そして、そのよく働く蟻だけを集めて群をつくると、やはりそのような比率の群になるというのである。なぜだろう。

60年近く生きてみた実感としては、まぁどうでもいいんじゃないの、ということになるか。人は生まれることを選べない。気がつけばここにいる。それを周りからああせいこうせいと言われてもねぇ、と思うのである。

命というものが何なのか、というのは誰にもわからないことで、だからこそ宗教が必要なのだろう。わからない、というのは生きる上で大変マズイことなのだと思う。確たる真理のような秩序があって、その中に自分を位置付けることで人も、おそらく他の生物も、平穏な日常を営むことができる。その拠り所の一つが家庭という集団だと思う。知覚し認識する世界を自分なりに理解して構成する世界観の基礎となる実体験が家庭だ。だから、家庭の構成員は必ずしも生物的な繋がりがなくても良いし、実体があったという記憶が残っていれば良いので今ここにいる必要もない。

何もないところに自分一人しかいないとすれば、そもそも自己を認識できないので他者が例え妄想の中であっても必要だ。その他者との関係性の中に「自分」があり、その「自分」の集合として「世界」が生まれるのである。当然、私が認識している世界は「あなた」(=私以外)のそれとは違う。しかし、どのように違うかは互いにわからない。私はあなたではないからだ。そこで私とあなたが共に生きるためには共有する「正解」が必要になる。世の中はそういう「正解」でできている。ただ往々にして私の「正解」はあなたのそれとは一致しない。そこで諍いが生じる。そして、その不一致が私の生存の基盤となる世界観に重大な脅威となると認識されれば、あなたには消えてもらわなければならない。かくして世に争い事は絶えないのである。

この文章をパソコンの液晶画面を見ながら打っている。画面には文字が現れ、自分が考えたことが文として表示されている。この画面を物理的に分解すればただの液晶の点でしかない。一つ一つの点だけを見ても文字はわからない。人はこの点のようなものなのだと思う。

『文選』に収載された作品は1500年ほど前のものだ。そのままかどうは知らないが、それをこうして読むことができる。漢詩というと山水画の世界を詠んでいるイメージを持っている。そういう平穏な世界が詩に詠まれ、それが後代に受け継がれているということは、現実がその正反対であったということでもある。

『文選』の詩人たちも同様の悲劇には事欠かず、嵆康、潘岳、陸機などは讒言により処刑された。それが本当に讒言であったのか否かはさておき、文学が讒言を被ったとされる側から生み出されているのは確かだ。259頁
だからこそ、山水画の世界のように、山奥の静かな土地で気の合った友人同士集まって、釣りをして遊んだり、酒を酌み交わしたり、というようなことが漢詩には描かれている。その本意は、酒を飲むということや隠遁することの記号性を読み解くと別の世界が見えてくる。1000年やそこらで人間というもののありようが変わるとも思えないが、身の回りがざわついている時にこそ、漢詩の世界はありがたいものに感じられる。

中国の文学において、飲酒はしばしば世俗や体制に対する反発、抗議の意を含むものであった。59頁
富と権力への欲望に支配された世間に背を向け、清貧に甘んじて高潔を貫く態度は、士大夫の精神の拠り所としてその後も継承されていく。68頁

謝霊運は山水詩の祖とも称されるが、その詩はただ単に山水の風景をうたうだけではない。政治の混乱に翻弄された人生の軌跡が、直接あるいは間接に反映されている。260頁

ところで、今の中国の人たちも漢詩を読んだり詠んだりするのだろうか。習近平の詠んだ詩があれば是非読んでみたいものだ。

 

 

小菅宏 『小松政夫 遺言』 青志社

街で芸能人を見かけることはあまりないのだが、少ない経験では皆それとわかるオーラのようなものを発している気がする。もちろんメディアへの露出で、こちらが視覚情報を持っている所為もあるだろう。しかし、世に出る人というのは、それだけではないと思う。小松政夫をみかけたのは2016年7月17日、芦花公園駅前のバス乗り場だった。杉並公会堂での喬太郎と三三の二人会を聴くのに荻窪行きのバスに乗るとき、彼がバス停で誰かと立ち話をしていた。客をバス停まで送ってきたようで、その客とおぼしき人がバスに乗った。小松政夫はこのあたりに住んでいるんだと思った。それだけのことでこの本に興味を覚えた。

小松は「芸人」と呼ばれることを嫌ったという。喜劇役者であることに拘りがあったというのである。憧れたのは堺駿二とジャック・レモン。堺のほうは知らないが、ジャック・レモンは私も好きで、『アパートの鍵貸します(原題:The Apartment)』は劇場で何度も観て、DVDも持っている。1960年に公開された作品なので、ロードショーではなくて、名画座でのリバイバルだ。今は映画館が少なくなったが、私が学生の頃はちょっとした街には名画座の一つや二つはあった。『アパートの鍵貸します』は荻窪とか新宿で観た記憶がある。公開から20年ほど経っていたが、けっこうあちこちの映画館でやっていた記憶がある。

どのようなものでも創作というのは既存のものを乗り越えないと価値が認められないという厳しさがある。その所為かどうか知らないが、1960年代くらいまでのアメリカ映画は伸び伸びしている印象がある。もちろん、時間は連続しているのだから、当時は当時なりの創作のハードルがあったはずだ。それでも今から見れば、多分創造の余地が大きかったとは思う。ハリウッドの作品だけでなく、テレビ黎明期の日本も、映画や番組の雰囲気が今とは違って素朴に明るい気がする。小松の師匠である植木等がいたクレージーキャッツも然り。

役者としてキャリアを積む中で小松が考えたことは、自分の日常の所作を意識することだという。役者に限らず、なんでもない毎日をきちんと過ごすことが生きるということだと思う。どのような職業であろうと、どのような人生であろうと、人として守るべきはそれしかあるまい。

昨日の日曜日はこの本を読んだ他に、You Tubeでジャズ番組を観た。1995年2月にNHK衛星第2で4夜連続で放送されたものらしい。『タモリのジャズスタジオ』、司会はタモリと大西順子。ゲストは日替わりで毎回複数名、林家こぶ平、景山民夫、糸井重里、細川ふみえ、安部譲二、清水ミチコ、ピーター・バラカン、桑野義信、斉藤晴彦、八木橋修といった面々だ。ジャズに詳しい人もそうでない人もいて、それがまた楽しい。本書では、植木等以外では高倉健と萩原健一に多くのページが割かれているが、タモリについても数ページを使っている。小松はタモリがプロになる前からの知り合いで、互いに刺激を受けたらしい。

本番でのタモリは自分から振った話を他人に強要しない。分かる人が分かり、笑える人が笑うに任せるタイプ。しかし彼の話には必ず「裏」があると知れば、テーマによって発せられる蓄積された知識での話題の時宜と見解の広さが半端でない。それを小松は評価した。キャリアと芸域の違いはあっても小松は己の喜劇を見つめる教唆にしたと語る。(73頁)

若い頃、教養として音楽を好きにならないといけないのではないかと思って、意識してクラッシックとジャズを聴いた時期がある。何年かコンサートやライブハウスに通ってみたりしたが、5年くらいしか続かなかった。記憶に残る演奏は一つや二つはある。しかし、それをきっかにどうこうというふうにはならなかった。

それでも昨日の番組は面白いと思って4夜分(約30分 X 8)一気に観た。4時間一気に観ることができるくらい面白かったということであり、また、ヒマであったとも言える。番組の中で言及されたアルバムの中の何枚かは持っている。そういうものを聴こうと思って聴いていた時代が、今にしてみれば、ちょっと苦い記憶に感じられる。背伸びして何者かになろうとして、結局何者にもなれなかった虚ろな感じと表裏一体の記憶、とでもいうのだろうか。今はただ笑うしかない。

 

内田百閒 『大貧帳』 中公文庫

初めて内田の本を読んだ。これはいけない。癖になってしまうかもしれない。通勤の電車の中で読んでいて、しばしば声をあげて笑ってしまった。

内田はぼんぼんだ。世に名前の残る人というのは、余程卑しいか、余程高貴であるか、いずれかだと思っている。それは自分の人生経験に基づくもので、今や確信だ。

人は生まれることを選べない。気がつけばここにいて、さぁがんばれ、などと身近な人に焚き付けられ、えーっ、と思いながらも、それが当然のように生きる。好き好んで生まれたわけでもないのに、基本的人権などとほざいて、まずは己の存在の正当性を主張し、自分以外の命を食い散らかして、命は大事です、と澄ましている。「進化」などという階層概念を拵えて人をその頂点に据え、己の傍若無人を正当化する。階層概念で自己を正当化するのは、人どうしの関係でも同じことだ。人間の脳の物事の理解の仕方がそういうふうにできているのだろう。差別はいけません、という主張と、物事を数値化してその多寡で良し悪しや善悪を判断する価値観とは矛盾しないとでも思っているのだろうか。

まず、世に名前が残るのは、その階層の底辺から頂点への変位を成し遂げた人だろう。相変位に多大なエネルギーを要するのは物理の常識。それくらいのエネルギーを持つ人なら何でもできる。それ以外で名が残るのは、無条件で自分が頂点にいると揺るぎない確信を持っている人。卑しいところのない人は成りが粗末でも、相手を圧倒する気のようなものを発している。内田はこれだ。会ったことないけど。

これは内田の貧乏譚。だから面白い。貧乏を恥だと思う人の貧乏話は身につまされるだけだが、全く違う視点で貧乏だの借金だのを捉えるから、そこにあっと言わせるものが現れる。世間では稼ぎや資産という金銭で表記されたものでしか物事を判じることができない知的不具者が多い。数字の多寡が唯一の尺度というような思考では、生きるのが窮屈だろうと思うのだが、世間はそういうものを好むようだ。私も実は窮屈だ。

無心者や押売りが悪態をついて、これだけの構えに二円や三円の金がないと云う筈はないなどとと云い出すと、蔭で聞いていても可笑しくなる。そう云う俗物にはそんな気がするかも知れないが、無いとなったら洗ったようになくなるのであって、煙草代に窮する事も珍しくない。いつもお金を絶やさない様に持っているのは、私などよりもう一段下の貧乏人である。そう云う人達は貧乏人根性が沁みついていて、お金を持たなければ心細くていられないのであろうと思われるが、私などはお金はなくても腹の底はいつも福福である。(9-10頁)
目次などが終わって最初のページでいきなりこれなのである。私も貧乏だが、内田先生(ここからは先生と呼ぶ)のような福福という心境には至らないので、「もう一段下の貧乏人」の類だ。修行が足りないのだと読み始めていきなり反省させられる。毎日朝4時時半に起床して、小一時間も電車に乗って賃労働に精を出しているのだが、いまだに築50年の団地でエアコンもなく、テレビもなく、車もなく、自転車もなく、というないない尽くしの暮らしから抜け出せずにいる。石川啄木はそこでじっと手を見るわけだが、私の場合は1年半ほど前から手が攣るようになったので、暇さえあれば手を開いて閉じてというグーパー運動をしていてじっと手を見る余裕すらない。

内田先生の貧乏の不思議なところは、人並み以上の所得があることだ。それはつまり出費が尋常ではないということを示唆している。今、我々の生活では感染症の世界的な流行で右往左往している(あくまで気持ちが不安に揺れ動く様を形容してのことだ。多くの人は移動を自粛していることになっている)。内田先生の時代にも似たような状況があったらしい。

月手当四十円の時、運悪く西班牙風がはやって、私の家でも、祖母、母、細君、子供、私みんな肺炎のようになって、寝てしまったから、止むなく看護婦を雇ったところが、その日当が一円五十銭で、一月近くいた為に、私の月給をみんな持って行っても、まだ足りなかった。(13頁 「俸給」)

学校を出て官立学校の教官になり、月給が貰える様になったと思うと、西班牙風が流行して、雇った看護婦に支払う給料が私の俸給額より高くなったから、忽ち借金が出来た。それから何年か後に出世して、年収は手当を別にした本棒だけで六千円に二十円足りないと云う身分になったので、お金が残るかと思うとその反対で、一生の大貧乏の基礎をその当時に築いた。(46頁 「金の縁」)

ちょっとしたきっかけで負の連鎖に陥ることはよくあることだ。先生は原稿も書くので、俸給は増えても、そちらがうまくいかないこともある。些細なことで生活の調子が狂うのである。

夏じゅうは団扇を使うのと、汗を拭うのとで、両手がふさがっていたから、原稿が書けなかった。それで見る見る内に身辺が不如意になり、御用聞や集金人の顔がささくれ立って来た。(52頁 「錬金術」)

そして、借金を重ねることになる。習慣とは恐ろしいもので、借金を重ねると借金が気にならなくなるらしい。

「(前略)借りた方の気持から云うと、証文を入れた借金は、むしろ返さなくてもいい様な、そんな気のする点もあるのではありませんか」と云ったので、いくらか思い当たるところもあり、かたがた、その話に就いては、それ以上にこだわらない事にした。(63頁 「揚足取り」)

やがて無恒債者無恒心と云う心境に至る、らしい。

百鬼園先生思えらく、恒債無ければ、恒心なからん。お金に窮して、他人に頭を下げ、越し難き閾を跨ぎ、いやな顔をする相手に枉げてもと頼み込んで、やっと所要の借金をする。或は所要の半分しか貸してくれなくても不足らしい顔をすれば、引込めるかも知れないから、大いに有り難く拝借し、金額に相当する感謝を致して、引下る。何と云う心的鍛錬、何と云う天の与え給いし卓越せる道徳的伏線だろう。宜なる哉、月月の出入りを細かく勘定し、余裕とてはなけれども、憚り乍ら借金は致しませぬ事を自慢にしている手合に君子はいないのである。君子たらんとするもこの手合には、修養の機縁が恵まれていないのである。お金をもつという事は、その人間を卑小にし、排他的ならしめ、また独善的にする。厭うべきはお金である。お金があっては、道を修め、徳を養う事は出来ない。就中やっと、どうにか間に合うと云う程度に、お金を所有する事が、最も恐ろしい。そう云うお金は、一番身に沁みて有り難いから、従って、お金の力が一倍強く、故に一層修養の妨げとなる。しかし、そう云うお金の力と云うものは、実は、真実の力ではないのである。人はよく、お金の有り難味と云う事を申すけれど、お金の有り難味の、その本来の妙諦は借金したお金の中にのみ存するのである。汗水垂らして儲けたお金と云うのも、ただそれだけでは、お金は粗である。自分が汗水たらして、儲からず、乃ち他人の汗水たらして儲けた金を借金する。その時、始めてお金の有り難味に味到する。だから願わくは、同じ借金するにしても、お金持からではなく、仲間の貧乏人から拝借したいものである。なお慾を申せば、その貧乏仲間から借りて来た仲間から、更にその中を貸して貰うと云う所に即ち借金の極致は存するのである。(193-194頁 「無恒債者無恒心」)

すごい、内田先生。冗談はさておき、しかし、内田はやはり物事の本質が見えている気がする。

百鬼園先生思えらく、金は物質ではなくて、現象である。物の本体ではなく、ただ吾人の主観に映る相に過ぎない。或いは、更に考えて行くと、金は単なる観念である。決して実在するものでなく、従って吾人がこれを所有するという事は、一種の空想であり、観念上の錯誤である。(218頁 「百鬼園新装」)

これはその通りだと思う。別の機会にこのことに関して考察したい。

 

 

真鍋真 『深読み!絵本『せいめいのれきし』』 岩波書店(岩波科学ライブラリー 260)

『せいめいのれきし』とは、1962年にバージニア・リー・バートン(Virginia Lee Burton)が発表した絵本 "Life Story" のことである。日本語版は石井桃子の訳で1964年に発行。バートンといえば、自分の中ではこの本よりも『ちいさいおうち』なのだが、最近、生物の進化のことが気になっているので、勉強するつもりで購入した。"Life Story"はバートンの最後の著書だ。1968年10月15日、肺癌のため逝去。享年59歳。なんだか自分の今の年齢で亡くなった人の仕事が妙に気になるのである。

本書はその解説書。絵本というと子供の読むものと思いがちだが、そんなことはない。自分の娘が小さい頃は毎週末、夜寝る前に絵本の読み聞かせをしていた。毎回違う絵本を読むとなると年間100冊ほど買うか借りるかしないといけないことになるといけない勘定だが、お気に入りで何度も読まされる本が数十冊はできてくるので、言葉を覚え始めた2歳くらいから小学校に上がる前後くらいまでの間でそれくらいの冊数かもしれない。数えたことがないのでわからないが。その中にこの手の科学系はほとんどなかった。

バートンは絵本作家であって、生物学者でもなければ考古学者でもない。"Life Story"は彼女の最後の作品だが、最後と決めて書いたわけではないだろう。それまでの作品と同じように熱心に下調べをし、毎日のようにアメリカ自然史博物館に通ってスケッチをして、読者に正しい話を伝えようと真摯に取り組んだであろうことは、出来上がった仕事が雄弁に語っている。

そうやって描かれた生命の歴史は地球が誕生した約46億年前から原生代の終わりである約5億4100万年前までをプロローグとしている。「原生代」というくらいなので、既に生命体が現れていたことはわかっている。そして、その直近5億4100万年の間に5回の大量絶滅があったことが知られている。

絶滅の原因は火山の爆発だったり巨大隕石の衝突だったりする。つまり、突然の変化だ。理屈としては、噴火や隕石衝突で地中にあった二酸化炭素やメタンガスが大量に噴出、また、噴火や衝突の衝撃で大気中に大量の粉塵が舞いそれらが核となって大気中の水蒸気が凝固して地球は雲に覆われる。雲には当然に地中からの噴出物も含んで、大量の酸性雨を降らせることになる。雲に覆われた地表では光合成ができなくなる。また、太陽光が遮断されることで寒冷化する。大気の組成急変と寒冷化でほぼ全ての生物が絶滅する。

過去5回あった大量絶滅の最大のものは古生代末、というか古生代を終わらせたものだ。これが2億5200万年前、火山の大噴火によるものだ。生命の歴史はここで一旦仕切り直しになる。この時、もう一つ重要な変化が生じた。大量絶滅を引き起こすほどの火山の噴火ということは地殻変動も派手に起こったわけで、世界の大陸が陸続きになった。超大陸バンゲアの誕生だ。

雨が降れば雲は減る。雲が減れば太陽光が地上を照らす。太陽光が降り注げば地表に多少残っていた藻とか苔とか、生命の原初的なものが息を吹き返す。そこから生命の歴史が巻き直される。そして今度は恐竜が登場する。

スピルバーグ監督作品で『ジュラシック・パーク(原題:Jurassic Park)』というのがある。私は映画館で観た。怖かった。断っておくが、私は怖がりだ。原作はマイケル・クライトン(Michael Crichton)の同名の小説。映画は1993年公開の作品なので、登場する恐竜たちの彩色は地味目だ。恐竜の姿を想像させるものは化石くらいしかない。化石からは色がわからない。わからないのなら、何でもあり、でよいと市井の者は思うかもしれないが、ガクモンの方はわからないものを勝手に決め打ちとはいかない。それで博物館などにある恐竜の姿は地味目の彩色となり、それを眺めている市井の者が恐竜に抱くイメージもそれに準じたものになる。

ガクモンの決め事は理屈が立つようになっているが、なるほどなと思わせることが起こる。2010年に新たな知見を得るのである。鳥類との関連が言われる始祖鳥のような翼を持った恐竜もいた。翼には羽毛がある。

2010年、羽毛の化石の表面に粒状の組織が残っていて、これがメラニン色素に関連した物質で、その形や大きさ、密度を、現代の鳥類と比べることによって、羽毛の色を復元できることがわかりました。(46頁)(Paterson, J.R. et al., 2011. Nature, 480(7376): 237-240)

恐竜が色彩豊かであろうとなかろうとどうでもよいのだが、ガクモンのおかげで人の知見は増え続けているということが言いたかっただけだ。

恐竜は6600万年前に絶滅する。しかし、完全に絶滅したのではなく、一部は鳥類として進化を続けているらしい。言われてみれば、ハシビロコウなんかは恐竜っぽい。

今から約6600万年前のある日、現在のメキシコのユカタン半島のあたりにあった浅い海に、直径10kmと推定される隕石が衝突し、隕石と衝突地点の岩石が粉々に壊れ、水蒸気とともに空中にまき上げられ、それが地球全体をおおうように、大気圏に層を作ったと考えられています。太陽光線の地表への到達量が激減し、地表の寒冷化や、植物の光合成の停止などが全地球的に起こり、そのような状態が長期間にわたって続いたとされています。(62頁)

過去5回あった大量絶滅のうち、この約6600万年前のものが5回目である。現在、地球は第6回目の大量絶滅期に既に入っているそうだ。実際に絶滅種の数が急速に増えているという。また、地球の天体としての運動サイクルから、時代は氷期に向かっているというのである。

現代は間氷期です。間氷期とは氷期と氷期の間の時代で、第四紀の後半の約60万年間は、氷期と間氷期を繰り返しています。なぜ氷期と間氷期を繰り返すのかは、自転軸に傾きがありコマが首振り運動をするような動きをすること、地球が太陽を周回する軌道が正円ではないことなどによって生じる、北半球の夏の日射量の周期的な変化によるというミランコビッチ仮説が知られています。しかし、この周期性はミランコビッチ仮説だけでは説明できない部分もあります。地球温暖化を実感する現代ですが、氷期と間氷期のこれまでのサイクルを見ていると、また氷期が来ることが想定されます。(88-89頁)

本書あるいは生命の歴史で注目すべきは絶滅と繁栄を繰り返しながら変化を続けるこの地球上の生命のダイナミズムだ。地球の自転軸が、などと言われれば永遠だの普遍だのという概念が無意味に見えてしまう。それならそれで、互いに多少は我を抑えて譲るところは譲り合い友好を宗に生きていこう、となっても良さそうなものだと思うのである。そのことは以前にも書いた。現実は真逆なのである。それは何故だろう。

 

 

内田百閒 『東京焼盡』 中公文庫

東京が空襲に遭うようになってから終戦までの日記。

本モノノ空襲警報ガ初メテ鳴ツタノハ昭和十九年十一月一日デアル(13頁)

内田の筆致が淡々としている所為もあるだろうが、焼夷弾が降るなかも淡々とした世界のように感じられる。時に内田は57歳。今の私と同世代だ。兵隊に取られる年齢ではなく、それどころか、おそらく当時の平均寿命間近といったところだろう。そういう人生の時間軸での位置も関係あるかもしれない。それでも儒教文化のお零れとか世間の習慣などのおかげで、年長者を敬う気風のある社会ではそこそこに存在感もあったはずだ。日記によるといろいろな人が物資の乏しい中でいろいろな差し入れをしている。差し入れとは要するに食料だ。「差し入れ」と書いたがタダではなかったようだ。日記の記述も食に関することが圧倒的に多い。生きることは食べることなのである。

当時、内田は既に教職を辞め、文筆業に専念しながら、日本郵船の嘱託となり毎日のように丸の内にある郵船本社に出社している。住まいは東京都麹町区土手三番町(現在の千代田区五番町)。通勤には省線を利用。省線とは現在の首都圏JR線だ。国鉄時代には国電と呼ばれていた。当時は鉄道省の管轄だったので省線。東京が空襲されるようになると、建物がしっかりしている郵船ビルに大事な私物を避難させている。その出し入れで奥さんが職場に来ることもあったようだ。

「東京大空襲」と呼ばれる大規模な空襲が何度かある。何の説明もなく「東京大空襲」と言う時は三月十日の空襲を指す。この日の日記で注目すべき記述がいくつかある。

表を焼け出された人人が列になつて通つた。火の手で空が明るいから、顔まではっきり見える。みんな平気な様子で話しながら歩いて行つた。声も晴れやかである。東京の人間がみんな江戸ツ子と云うわけでもあるまいけれど、土地の空気でこんな時にもさらりとした気持ちでゐられるのかと考へた。著のみ著のままだよと、可笑しさうに笑ひながら行く人もあつた。(95-96頁)

東日本大震災の日のことを思い出した。当時、私は巣鴨の国道17号の旧道に面した小さなマンションの2階で暮らしていた。「とげぬき地蔵」として知られる高岩寺がある通称「地蔵通り」。江戸六地蔵尊のひとつである眞性寺もある。東京でも震度5強を記録し、鉄道は地震以降終日運休した。私は夕方から夜間にかけてのシフトだったので、出勤は諦めて家の中にいた。携帯電話は通じなかったがメールは通じた。翌日の夜にかつての職場の同僚二人と飲み会の予定があり、夜になってメールで連絡を取り合ったところ、私と目黒区在住のもう一人は出かけるつもりでいたのだが、千葉在中の奴が家の中が大変なことになっていて飲み会どころではないと言うのでキャンセルすることになった。私は幹事役だったので、予約を入れていた店にキャンセルの電話を入れようと思った。携帯が通じないので、とげぬき地蔵境内にある電話ボックスまで行こうと外へ出たら、地蔵通りは都心から板橋方面へ向かって人が川の流れのようにぞろぞろ歩いていた。白山通りは車の大渋滞で、その歩道も人がぞろぞろ流れていた。鉄道が運休しているので徒歩で帰ろうとしている人たちだ。中には勤務先と思しき社名入りのプラスチックのヘルメットを被った人もいたが、表情はやはり平気な様子に見えた。

午後遅く三時を過ぎて省線電車にて出社す。(96頁)

2011年の震度5では終日運休となった首都圏の鉄道網だが、昭和二十年三月の大空襲の際には、空襲が終われば鉄道は動いていたのである。総じて昔に比べてライフラインは脆弱になった気がする。管理にかかる様々な仕組みや仕掛けが電子制御になり、便利にはなったもののブラックボックス化した為に、平時とは違うことが起こると対応できなくなるのである。殊に停電に対して弱くなった。電気が止まると何もできない。また、それらを動かす人の扱いも、当事者の意識も随分変わったことだろう。

毎日のように空襲があると、天気予報のように空襲予報が人々の間で習慣となる。三月二十八日の日記。

考へて見るに、この頃は毎朝の新聞が面白い。特にB29に関する記事は本気で読んで、こちらへ来るか来ないかの判断をする。眼光紙背に徹するの概がある。(114頁)

流石に毎日のように空襲があれば、戦況も凡そ把握できる。四月五日、小磯内閣辞職。既に沖縄は落ちている。翌六日の日記。これだけ読むと敗戦を意識しているようには思われない。

東条がやめた後の小磯内閣は昨日辞職したる由なり。琉球は敵が上陸して大変な時に大変な事なり。(126頁)
四月になる頃には既に省線はあちこちで寸断されている様子。電力やガスも不安定で、郵便が機能不全に陥っている。郵便が使えないと自ら手紙を相手に持っていくようになる。四月十五日の日記。

午後遅く省線電車往復にて千駄ヶ谷の立退先の小林博士へ行く。今日も亦留守の時の事を考へ要件の手紙を認めて行った。出かける時間から考へて多分留守だらうと思ひながら手紙を持つて行つたのは、この頃郵便があてにならず、速達もちつとも速くない。こなひだ美野のよこした速達は杉並方面から麹町まで四日かかつた。(140頁)

五月三日の日記にヒトラーとムッソリーニの死亡のことが書かれている。ムッソリーニは逃亡中にパルチザンに捕まり四月二十八日に処刑された。ヒトラーは四月三十日に自殺。五月七日、ドイツは連合国への降伏を決定、八日に降伏文章署名、即日発効。五月三日の日記。

独逸終に潰滅しヒトレルは戦死す。ムツソリーニは一両日前に殺されたり。(164頁)

ここで日本は名実ともに世界で孤立するわけだが、日記の方は食い物と酒の心配ばかりである。実際はそういうものなのだろう。五月十三日の日記に入浴のことが書いてある。空襲はなくとも毎日のように敵の飛行機が飛来する下で入浴という無防備な状態を自ら選好するわけにはいかない、という事情もあるだろうし、水道や燃料が思うようにならないという事情もあるだろう。

こなひだ半歳振りにお風呂に入這つて以来、三四日目か長くても一週間はおかずに入浴してゐる。(174頁)
戦時中は食べるものにも不自由しただけでなく風呂にも入れなかったんだ、と思うと、今の感染症にまつわる不自由はどうなんだろう思う。私の母は宇都宮で焼け出されているし、父も川口で戦災に遭っている。子供の頃で記憶もないのだろうが、あの戦争を生き延びた張本人であることには違いない。その割に頼りないところを見ると、人は雰囲気を生きるのだと結論付けないわけにはいかない。つまり、どのような状況でも「そういうもの」と思って生きると、その場はやり過ごすことができるものなのだろう。その雰囲気が醸成されない中にあって、自分で判断をしないといけないとなると、的確に動くことのできる人とそうでない人と大きく分かれることになる。そんな気がする。

また、そこから何がしか教訓を得るなり学ぶなりするのは、そういうことができるに足る素養のある人だけであって、そうでなければ、どれほど素材として豊かな体験であっても風景として通り過ぎてしまう。「馬鹿は死んでも治らない」というのはそういう古来からの人の暮らしぶりから導き出された観察結果なのだ。よく、子供にたくさんの習い事を強制する奴がいるが、、、ま、この話はやめておこう。

連日のように空襲で東京はだいぶ焼けてしまったようだが、それでも燕がやってくる。五月十六日の日記には四谷駅の麹町口の軒に燕が営巣していることが書かれている。そして三月十日とは別の「東京大空襲」を迎える。五月二十五日から二十六日未明にかけてのことだ。この空襲で内田は焼け出され、たまたま焼け残った隣の屋敷の庭の隅にあった小屋を借りて住む事になる。この空襲で東京駅も焼けた。この後しばらくは屋根のない状態で営業を続けることになる。

東京が焼け野原になると、爆撃する側からすればそれ以上東京に爆弾を落としても意味がない。爆弾もそれを落とすために飛ばす飛行機の燃料も兵隊の命もタダではない。アメリカはじめ連合国のほうも懐は火の車だった。戦争が続いているのだから、反撃らしい反撃がなくても攻撃の手を緩めるわけにはいかない。だから、爆撃の対象は東京など大都市を焼き尽くした後、まだ手を付けていない地方都市に移る。

そうなると、空襲を避けるために地方へ疎開することが意味を成さなくなる。実際に戦争末期には疎開先から東京へ戻る動きも見られた。疎開先から戻るのは、空襲のリスクのことだけではなかっただろう。親類縁者を頼って疎開したとしても、疎開先では所詮余所者だ。自分たちも楽ではないところに他所から大挙して土地に馴染みのない人たちがやってきたら、その人たちに対してどのような感情が起こるか、考えるまでもない。きっかけがあればそんなところから脱け出して、焼け野原であったとしても自分のホームグランドに戻りたいという人が少なくなかったということでもあろう。人間というものは嫌なものである。つまらないことで人を選り分けて、その分類の中で己を位置づけないと不安でいられないようだ。

いよいよ敗戦まで一月。焼け出されて隣家の敷地の隅の小屋に住まいするのは変わらず。栄養状況は悪化の一途で、体調が良くない。どうも慢性的に良くないようだ。栄養が足りないくらいだから医薬品も足りない。病気になったら手の施しようがない。それでも、まだ満洲は余裕がありそうだ。七月二十日の日記に、仕事で満洲から上京した人が登場する。

こなひだ新京の浜地が来た時、あちらへ帰つたら新京には未だお酒の都合がつくからお酒を送つてくれると云つた。又高梁酒の一種にて白酒と云う強い支那酒あり。アルコホル度は七十とか七十五とかなればそれを送るから薄めて飲めと云つた。(280頁)

その後、満洲から酒が届いたのかどうか、日記には書かれていない。しかし、現代を生きる我々は昭和二十年七月には本土よりは余裕のあった満洲がソ連が宣戦布告をした八月九日以降にどうなったか知っている。私は身近に満洲から引き揚げてきた人の関係者がいないので関心もなかったのだが、森繁久彌の著作集を読んでかなり衝撃を受けた。そのことは別の機会に書くかもしれない。

七月二十一日の日記に内田の郷里である岡山が六月終わり頃に空襲に遭ったことが書かれている。私は自分が生まれ育った生活圏内で60年近い歳月を過ごしているので「郷里」というものの感覚がよくわからない。

八月九日の日記に広島のことが書かれている。遠く離れた東京で広島の状況がどこまで伝わっているのか定かではないが、空襲の規模は飛来する敵機の数とは比例しないという教訓を強く残したようだ。

又午前八時十五分警戒警報。B 29一機なれども去る六日の朝七時五十分B 29二機が広島に侵入して原子爆弾を投じたる為瞬時にして広島市の大半が壊滅した惨事あり。その後だから一機の侵入にしても甚だ警戒す。(321頁)

日記には書かれていないが、その後に長崎にも原爆が投下されたことは伝わっているのだろう。次は東京か、という噂が流れていたらしい。八月十一日の日記。

又唐助は美野から聞いた話なりとて亜米利加は明十二日東京に原子爆弾を落とすと云つてゐる。この頃は敵の予告がその通り実現するのだから用心しなければならない。その話は美野が新聞記者から聞いた事にてその記者は十二日一日だけどこか東京を離れる切符を手に入れると云つてゐたが露西亜の参戦で戦争が終局に近づいたらしいから或いは敵はその予告を実行しないかも知れない。しかしもしさう云う事になつたら自転車に乗つてどこか家並を離れる方角へ一生懸命に走ると云う事にしてゐる由である。(323頁)

いつの時代も新聞記者というものにはロクなのがいない。そして迎える八月十五日。

昨夜より今日正午重大放送ありとの予告あり。今朝の放送は天皇陛下が詔書を放送せらると予告した。誠に破天荒の事なり。午まへしやもじ小屋に来りてラヂオを聞きに来る様案内してくれた。正午少し前、上衣を羽織り家内と初めて母家の二階に上がりてラヂオの前に坐る。天皇陛下の御声は録音であつたが戦争終結の詔書なり。熱涙滂沱として止まらず。どう云う涙かと云う事を自分で考へる事が出来ない。(331頁)

戦争が終わったからといって急に焼け跡が元に戻ったり、食べるものが出てくるわけではない。内田の日記は続くのだが、本書の締めは八月二十一日だ。空襲がない、戦争がないというのは人の気持ちには大きく作用する。尤も、この後もそう平坦な道ではなかったことは、現代を生きる我々は知っている。知らない人は知っておくべきだと思う。

空襲は毎日のことではあるが、同じところに毎日というわけではない。しかし首都が毎日空襲を受けるようになっているにもかかわらず、戦争の終わる気配がなく、空襲が日常生活のなかに組み込まれる不思議は、最近の感染症騒動とも重なるものがある気がする。

人類が撲滅を成し遂げた感染症は天然痘だけなのだそうだ。死病と言われたものが治療可能になった、というのはいくらもあるようだが、何年も発症した人が存在せず、WHOが撲滅宣言を行ったのは天然痘が唯一のものだ。天然痘を克服できたのは種痘によるところが大なのだそうだ。インドや中国では天然痘患者の膿を健康な人に接種して免疫を得る人痘法が古来より行われていた。しかし安全性に難があったらしい。1796年にイングランドの医師エドワード・ジェンナー (Edward Jenner) は、天然痘にかかった牛の膿を用いた牛痘法を考案、これが世界中に広まり、天然痘の流行の抑制に効果を発揮した。ワクチンという言葉もこの時用いられたものである。ワクチン (vaccine)、予防接種 (vaccination) の Vacca は雌牛を意味するラテン語由来だ。天然痘撲滅確定記念で日本でもなんかお祝いしようか、というので東京国立博物館の敷地にジェンナーの銅像(見出し画像)を建てた、かどうかは知らない。銅像のことはともかくとして、つまり、病気の根絶など軽々にできるものではないのである。流行病の所為で近頃影が薄くなったがインフルエンザは毎年のように型を変えて流行する。今度の流行病もそういうローテーションに組み込まれて日常化するのではないだろうか。今はなんとなくそんな気がする。

参考:1944年以降の主な空襲一覧(当時の日本領)
 Wikipediaの記事から抜粋要約編集

1944年
6月15日(木)八幡(福岡県)製鉄所 中国成都の基地からB29飛来
10月10日(火)那覇(沖縄県)沖縄全域
10月25日(水)大村(長崎県)東亜最大規模といわれた第21海軍航空廠
11月21日(火)熊本(熊本県)
11月24日(金)東京(東京都)マリアナ諸島基地のB29による初空襲
11月27日(月)東京(東京都)中島飛行機武蔵製作所
12月13日(水)名古屋(愛知県)軍需工業地帯
1945年
1月3日(水)神戸(兵庫県)
1月6日(土)京都(京都府)
2月16日(金)東京(東京都)
2月26日(月)大阪(大阪府)
3月1日(木)台南(台湾)
3月10日(土)東京(東京都)関東地区の航空基地、軍需工場
3月13日(火)大阪(大阪府)
3月17日(土)神戸(兵庫県)
3月18日(日)大分(大分県)航空隊施設
3月18日(日)鹿児島(鹿児島県)海軍航空隊
3月19日(月)名古屋(愛知県)
3月19日(月)呉(広島県)軍港
3月19日(月)京都(京都府)
3月27日(火)小倉(福岡県)
4月4日(水)立川(東京都)陸軍航空廠、飛行場
4月8日(日)玉野(岡山県)
4月12日(木)郡山(福島県)
4月13日(金)東京(東京都)
4月15日(日)東京(東京都)
4月15日(日)川崎(神奈川県)
4月16日(月)京都(京都府)
4月20日(金)倉敷(岡山県)帯江地区
4月21日(土)鹿児島(鹿児島県)時限爆弾使用
4月21日(土)大分(大分県)
4月22日(日)京都(京都府)
5月5日(土)呉(広島県)
5月5日(土)大分(大分県)
5月10日(木)徳山(山口県)海軍燃料廠
5月11日(金)神戸(兵庫県)
5月11日(金)京都(京都府)京都御所被災
5月14日(月)名古屋(愛知県)名古屋城焼失
5月24日(木)東京(東京都)
5月25日(金)東京(東京都)国会議事堂周辺や皇居の一部、東京駅が被災
5月29日(火)横浜(神奈川県)
5月31日(木)台北(台湾)
6月1日(金)尼崎(兵庫県)
6月1日(金)奈良(奈良県)
6月5日(火)神戸(兵庫県)
6月7日(木)大阪(大阪府)
6月9日(土)名古屋(愛知県)熱田空襲
6月10日(日)阿見(茨城県)海軍航空隊
6月10日(日)日立(茨城県)
6月10日(日)千葉(千葉県)
6月15日(金)大阪(大阪府)
6月17日(日)鹿児島(鹿児島県)
6月18日(月)浜松(静岡県)
6月18日(月)四日市(三重県)
6月19日(火)福岡(福岡県)
6月19日(火)静岡(静岡県)
6月19日(火)豊橋(愛知県)
6月21日(木)名古屋(愛知県)
6月22日(金)姫路(兵庫県)川西航空機姫路製作所
6月22日(金)水島(岡山県)
6月22日(金)各務原(岐阜県)
6月22日(金)呉(広島県)
6月26日(火)京都(京都府)
6月26日(火)奈良(奈良県)
6月28日(木)呉(広島県)
6月29日(金)岡山(岡山県)空襲警報なく被害増大
6月29日(金)佐世保(長崎県)
6月29日(金)下関(山口県)
7月1日(日)熊本(熊本県)
7月1日(日)呉(広島県)
7月2日(月)下関(山口県)
7月3日(火)姫路(兵庫県)
7月4日(水)高松(香川県)
7月4日(水)徳島(徳島県)
7月4日(水)高知(高知県)
7月6日(金)千葉(千葉県)
7月6日(金)甲府(山梨県)
7月7日(土)清水(静岡県)
7月7日(土)明石(兵庫県)油脂焼夷弾使用
7月9日(月)和歌山(和歌山県)
7月9日(月)堺(大阪府)
7月9日(月)岐阜(岐阜県)
7月10日(火)仙台(宮城県)
7月12日(木)宇都宮(栃木県)
7月12日(木)鹿沼(栃木県)
7月12日(木)敦賀(福井県)日本海側初の空襲
7月13日(金)一宮(愛知県)
7月13日(金)川崎(神奈川県)
7月14日(土)釜石(岩手県)
7月14日(土)北海道全土(北海道)青函航路途絶
7月15日(日)室蘭(北海道)
7月16日(月)大分(大分県)
7月16日(月)平塚(神奈川県)海軍火薬廠、海軍航空廠、海軍工廠
7月17日(火)沼津(静岡県)海軍工廠、海軍技術研究所
7月17日(火)桑名(三重県)
7月17日(火)日立(茨城県)
7月18日(水)野島崎(千葉県)
7月19日(木)福井(福井県)
7月19日(木)日立(茨城県)
7月19日(木)銚子(千葉県)
7月19日(木)岡崎(愛知県)
7月23日(月)犬山(愛知県)
7月24日(火)大阪(大阪府)
7月24日(火)半田(愛知県)中島飛行機半田製作所
7月24日(火)津(三重県)橋北地区工場地帯
7月24日(火)桑名(三重県)
7月24日(火)呉(広島県)
7月25日(水)保戸島(大分県)授業中の国民学校が直撃される
7月25日(水)串本(和歌山県)艦砲射撃
7月25日(水)川崎(神奈川県)
7月26日(木)松山(愛媛県)
7月26日(木)平(福島県)
7月26日(木)徳山(山口県)
7月27日(金)鹿児島(鹿児島県)
7月28日(土)津(三重県)
7月28日(土)呉(広島県)
7月28日(土)青森(青森県)M74六角焼夷弾使用 東北最大の被害
7月28日(土)一宮(愛知県)
7月28日(土)宇治山田(三重県)
7月29日(日)浜松(静岡県)艦砲射撃
7月31日(火)清水(静岡県)艦砲射撃
8月1日(水)水戸(茨城県)
8月1日(水)八王子(東京都)
8月1日(水)川崎(神奈川県)
8月1日(水)長岡(新潟県)
8月2日(木)富山(富山県)
8月5日(日)前橋(群馬県)
8月5日(日)佐賀(佐賀県)
8月5日(日)今治(愛媛県)
8月6日(月)広島(広島県)原子爆弾リトルボーイ
8月7日(火)豊川(愛知県)海軍工廠
8月8日(水)福山(広島県)
8月8日(水)八幡(福岡県)
8月9日(木)長崎(長崎県)原子爆弾ファットマン
8月9日(木)大湊(青森県)
8月9日(木)釜石(岩手県)艦砲射撃
8月10日(金)花巻(岩手県)
8月10日(金)熊本(岩手県)
8月10日(金)大分(大分県)
8月11日(土)久留米(福岡県)
8月11日(土)加治木(鹿児島県)
8月12日(日)阿久根(鹿児島県)
8月13日(月)川崎(神奈川県)
8月13日(月)長野(長野県)
8月13日(月)上田(長野県)
8月14日(火)大阪(大阪府)
8月14日(火)岩国(山口県)
8月14日(火)光(山口県)
8月14日(火)熊谷(埼玉県)
8月14日(火)伊勢崎(群馬県)
8月14日(火)小田原(神奈川県)
8月14日(火)土崎(秋田県)
8月22日(水)豊原(樺太)ソ連軍機による爆撃


読書月記 2021年8月

2021年08月31日 | Weblog

『水 18人の水 答えは水の中』 第三セクター四万十ドラマ

本書を知ったのは梅原真の『ニッポンの風景をつくりなおせ』を読んでのこと。本書の出版元である第三セクター四万十ドラマは現在は株式会社四万十ドラマになっている。第三セクター時代から現在に至るまで社長は畦地履正さん。畦地さんとは一度だけ電話でお話をさせていだたいたことがある。今となっては記憶が定かでないのだが、何年か前の今時分に四万十ドラマに何かを注文した。そしたら「お盆の時期で物流が滞っている」ので発送が遅れるとのメールが届いた。私は「お盆は毎年決まった時期なのだから、お盆で云々という言い訳はおかしい」というようなことを書いて返したのである。今から思えば余計な事を書いてしまったと恥ずかしい。すると、畦地社長直々に謝罪の電話がかかってきたのだ。些細なクレームに社長が電話で対応するとは、単に人手が乏しいというだけのことだったのかもしれないが、こりゃ大した組織だと感心してしまった。なぜ感心したかというと、自分たちが商うものへの愛情とか情熱のようなものが伝わってきたからだ。

その畦地さんの四万十ドラマが三セクだった頃の企画商品の一つがこの本だ。梅原の『ニッポンの風景…』によると本書誕生の経緯はこのようなものらしい。

「万物の根源は水である」。四万十川が日本最後の清流というのなら、まず「水」について語る場を作ろうじゃないか。「四万十ドラマ」というあやしげなイメージを払拭するために、モノを売る前にまず「ココロザシ」をみせようじゃないか!と。

「水」という本作りを提案した。あらゆる分野の著名人に「水」についてのメッセージをいただく。そして、原稿依頼や編集、デザイン、印刷などのイッサイガッサイを四万十川が行う。四万十川は東京から取材され、東京から発信されるいちコンテンツになっている。そうじゃなくて、四万十川住民が自らプロデュースするというまったく逆をやりたいと……

原稿を依頼する人物リストアップを存分に楽しんだ。すると、ビビってしまうようなスゴイ45人となった。しりごみして憂鬱になった。原稿料はきちっと払いたい/金はない/甘えてはいけない!/原稿料が見当もつかない!
そこで考えたのが、原稿料は「あゆ」。あなたの「考え」と「四万十川の天然あゆ」を、物々交換させてください。と考えた。わたしは住んでいた四万十川の家の下の瀬で、網を投げ、鮎を漁っていた。自分で漁れば「タダ」なのである。

受け取る側にはその価値は未知の世界なわけで、いい想いつきだった。
(梅原真『ニッポンの風景をつくりなおせ』羽鳥書店 126-131頁)

そして四万十ドラマとしての公式依頼書、梅原手書きの手紙、返信ハガキをセットにして45人に送ったのだそうだ。その結果、18人の原稿で本書が完成したのである。素晴らしいと思った。人の了見というものがよくわかる試みだと思う。ここに原稿を寄せた18人を、私は信頼できる人だと感じた。

赤瀬川原平
浅井慎平
天野祐吉
荒俣宏
糸井重里
内山節
岡林信康
黒田征太郎
櫻井よしこ
高橋治
田島征三
筑紫哲也
ナンシー・フィンレイ
橋本大二郎
浜野安宏
平野レミ
フランソワーズ・モレシャン
山本容子
(敬称略・五十音順)

それでこの本は版もでかいが字もでかい。なぜ文字が大きいかというと、以下の理由があるのだそうだ。
1. 執筆を依頼した45人全員が原稿を書くという前提で版を組んでしまった
2. しかも一人8ページを予定していた

冗談かもしれないが、いい噺、いや、いい話だと思う。そんな素敵な本なのにAmazonで検索しても出てこない。この「読んだ」マガジンに上げているのは、会報とかWebのコンテンツは別にして、書籍は当たり前にどこでも入手できるものばかりだ。困ったなと思って、四万十ドラマのサイトを見たら、ちゃんと販売していた。

 

『復刻アサヒグラフ 昭和二十年 日本の一番長い年』 朝日新聞社

昔、『アサヒグラフ』という雑誌があった。週刊の写真画報誌で、写真を主、記事を従として世情を報じるものだった。今は街を往く人の八割以上がそれぞれにカメラ機能のあるなんらかの機器を手にしている印象だが、かつは映像を記録することはそれ自体に価値があった。「活字離れ」というのは自分が子供の頃から既に言われていた気がするのだが、写真誌や画報誌もなくなってしまった。『アサヒグラフ』は2000年にシドニーオリンピックの総集編を最後に休刊となった。

本書は昭和20年に発行されたものの中から以下の十号を一冊にまとめたものだ。薄い。モノのない時代だったので、原本も薄かっただろう。戦時中であろうとなかろうとマスメディアというものは時の権力から容認された媒体だ。世間にはエスタブリッシュメントのコンテンツを無批判に受容する傾向があるようだが、世に大手を振って流布される「情報」というものはなんらかのフィルターを通過したものであることを十分に認識しておかないといけない。「大手ナントカ」だの「お上」だのの権威を無闇にありがたがって、思考を回避するのは単に安易であるからなのか、そもそも思考力が欠如しているからなのか。いずれにしてもろくなことにはならない。それでも御用メディアの表題を並べてみるだけでも興味深く時勢を俯瞰できる。世の中というはどのようなことも起こり得るというのがよくわかる。

本書に収録のアサヒグラフと表紙見出し
1944年12月27日/45年1月3日合併号:大東亜線局の焦点
3月7日号:醜翼を迎え撃つ月光隊
3月21日号:戦友よ逞しく焦土から起たう
4月25日号:敵の暴爆を弾き返す
6月25日号:女ばかりの農村工場
7月15日号:敵空軍はかく日本を狙っている
8月25日号:戦争終結の大詔渙発・原子爆弾とは
9月5日号:連合軍内地へ進駐
10月15日号:米人の見た東京・英字の氾濫
12月5日号:炭坑は人を待つ・秋場所大相撲

新年号の「大東亜線局の焦点」には時の日本の勢力圏が地図で示されている。すでに大勢は決していたはずだが、依然として東南アジア、朝鮮半島、満洲、中国の一部が日本と同じ色に塗られている。記事だけ読むと戦況は厳しい印象だが、この地図と併せると挽回の余地があるかのようにも読める。同じ号の記事には在外領土や同盟国の様子を伝えるものもあるが、そこにも似たような余裕があり、何よりそうした勢力圏が存在しているかの印象を守ることが当時の報道としては意味があったのだろう。

3月7日号には硫黄島の様子が報じられている。備え万端であるかの印象だが、現実は真逆だったことは今となっては誰でも知っている。また、何故この時期に硫黄島のことが報じられたのかということにも興味が湧く。国内の記事では「本土戦場の態勢」と題して軍需工場の様子と避難訓練の写真が掲載されている。1月には日本周辺の「勢力圏」が語られていた舌の根も乾かない内に本土が戦場になる現実を語らないわけにはいかない状況になっていた、ということだ。

3月21日号は表紙が空襲の写真。3月10日の「東京大空襲」を機に本土への無差別爆撃が本格化した。「伐り出せば勝つ」との見出しが踊るのは十勝岳での森林伐採の話。航空機の材料だそうだ。高度1万メートルを飛行するB29に木製飛行機で挑もうというのである。

4月25日号の表紙は出撃直前に水盃を頂く特攻隊員の姿。巻頭記事は沖縄戦。

6月25日号の表紙も特攻隊員だが、子供だ。巻頭記事は特攻。

7月15日号は「本土決戦と必勝の信念」という巻頭記事。この号にも戦局解説の地図が載るが、描かれているのは日本列島だけだ。しかも、敵の爆撃機がどこの基地から飛来するかという解説。同じ地図付きの記事でも1月とは様変わり。

そして迎える8月。巻頭は戦争終結の詔書。続いて原爆の解説。日本各地の食糧生産の様子。

翌9月は連合軍の進駐の様子を伝える記事が巻頭を飾る。数ヶ月前まで「戦う」とか「決戦」の文字が踊っていた同じ雑誌とは思えない変わり様だ。興味深いのは簡易住宅の紹介。厚生省型簡易住宅というものと東京都応急簡易住宅というものがあったらしい。間取りはほぼ同じで、どちらも六畳間、三畳間、土間で構成され、どちらも12m x 18mであるが、厚生省型はこのサイズの中に押し入れも含まれるのに対し、東京型は押し入れが外にはみ出す形になっている分、土間が広くなっている。便所はどちらも外付けで風呂はない。土間が台所兼玄関というのが今では考えにくい造りだ。さらに注目すべきは、この号には仏像の大きな写真が載っている。法隆寺の夢違観世音像で記事は野間清六。その記事にこうある。

今私たちは暗澹として戦ひを終つて、明るい朗らかさを求め、反動的に明るい朗らかな世の中を作り出さうとしていますが、それは決して一時的な軽佻浮薄なものであつたり、又自暴自棄的なものであつてはならぬのです。

つまり、世間がハイになっていたらしいのだ。その時代を生きていないのでわからないが、作用反作用ということなのだろう。無理に締め付ければ、箍が外れた時にどうなるか、ということは今まさに考えないといけないことのように思われる。

10月は復興の様子と米国人記者のみた東京の様子の記事などが並ぶ。この号にも仏像の写真が野間の記事とともに載っている。連載のようだ。今回は浄瑠璃寺の吉祥天像。記事の方は世情に言及した箇所はなく仏像の解説に終始している。この号には藤田嗣治のインタビューがある。藤田は上野原に疎開していて、取材は上野原の疎開先で行われた。周知の通り、藤田は数多くの戦争画を描き、それが高い評価を得る一方で激しい批判にも晒された。結局、藤田は日本を離れ、フランスに帰化して故国の地を踏むことなく生涯を終えた。このインタビューは1945年なので日本を離れる4年前だが、ここで彼の見る日本人というものを語っている。

大体、日本人は小心すぎるよ、ひどく潔癖な画一的なものの考え方は益々人間を小さくしている。その癖、妙に事大主義者で、気軽に動かうとは決してしない。すねたやうな、おさまつている人間を偉い者のやうに思ふ癖がある。だから頭の悪い人間は黙つて深々と椅子にふんぞり返つていれば、結構、立派な人間のやうに思つてくれる、妙な国だね。そして他人を貶しておればよろしい、他人のすることに難癖をつけることは非常にうまいが、他人を賞賛して、その仕事を成長させるやうなことは決してしない。人間は褒めることによつて進歩することを知らんのだらうか。

今も同じだと思う。

12月は巻頭は炭坑の記事だが、秋場所大相撲が大きく誌面を飾った。戦後初の大相撲は戦災に遭った国技館を応急処置で体裁を整え、11月16日に開幕。10日間にわたり実施された。ただ、戦後のモノのない時代なので、関取は身体の調整が十分とは言えず、皆それぞれに苦戦したらしい。確かに写真で見る限り、関取の割にはスリムだ。

出場三横綱の中、一番元気で危気のないのは矢張り羽黒山であるが、安芸の海と照国は相当目立つ体重の減量で何となく安定感が失はれ、安芸の海は早くも二日目柏戸にしてやられて土がついた。

夏までは焼け野原だったのだから、住宅難というのは容易に想像がつくが、この号では軍隊の兵舎を集合住宅に改装した事例が紹介されている。元の野戦重砲兵第八聯隊東部第一八六部隊の兵舎で、敷地面積二万八千坪、建坪六千坪、場所は世田谷区三宿。兵舎の時は約五千名の兵を収容したが、復興住宅としては千三百世帯を収容、とある。

食糧事情の厳しさを物語る記事が「木の実の食糧化」。ドングリをどうやって食べるか、というハウツーの記事だ。書き出しが衝撃的だ。

いま、わが国は、食糧飢饉に襲われ、一千万人が餓死するといはれている。

今暮らしている団地の敷地内にもぼちぼちドングリが転がり始めているが、これを食べるとなると、考え込んでしまう。木の実でも栗のように旨いものもあるが、ドングリは腹に収まるまでに並大抵の手間では済まないだろう。しかし、また食べなければならない状況にならないとも限らない。

この号には岩波茂雄のインタビュー記事がある。岩波書店が古書店から発展したものであることを初めて知った。この記事から、この時期に日本必敗論が流行っていたことが窺える。

「日本人は我儘一杯に育つた坊ちやんで島国根性が抜け切らない。理想に対する憧憬もなければ真理に対する情熱も欠けていた。物量からみても劣つていたが、精神においても遅れていた。満州事変この方やることなすこと何らかの名分がない。占領するとすぐにお宮を建て銃剣を突きつけて拝ませる。支那事変で幾万の血を流したが、忠霊塔を建てるなら支那人も一緒に祀るべきではなかつたか。どこに道義がある、敗けるのは当然じやないか」
 聴いているのは記者と同行の写真班とたつた二人だけなのに、滔々決河の弁、熱するところ遂に拳をもつてどんと卓を叩く。お説御尤もではあるが、結果からみたに日本必敗論はこのごろ方々で聞くので些か食傷気味だ。

多くの人は、年のはじめには戦況がどれほど悪くとも、必ず勝つと思っていただろう。だから「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」日々を過ごしてきたのである。それがこうも変わるのだ。世情の変化は現在の比ではなかっただろう。その時代を私の親祖父母の世代は生き抜いて今日の基礎を拵えた。人の適応力は自覚を遥かに超えているのだと思う。そうしなければならないと思えばそうするもの、と思うより仕方がない。しかも、当事者は自分の親祖父母。かなり身近な人たちの実体験だ。こうして時間を置いて振り返れば、生きることは節操のないこと、恥ずべきことにさえ見える。たぶん、それは戦中戦後を生き抜いた当事者とて同じだったのだ。だからムキになって己の存在を正当化したい。戦後の復興は、何もかも失ってしまったのだから何もかも改めて造り直さないといけないという事情が当然にあったにせよ、多くの人命が失われた後を生きることの後ろめたさも大きな原動力になっていたと思うのである。「奇跡の復興」は日本だけではない。ドイツもイタリアも他の戦災に見舞われた地域もそう呼ばれている。どこも事情は同じだろう。

もう何年も、家にテレビがなく、新聞も購読せず、そっと息を潜めるように暮らしているつもりなのだが、それでもどこからか雑音が漏れてくる。文人画の中の文人のように静かに暮らすことができないものなのだろうか。そのように暮らしたいと腹の底から思って行動すれば可能だということはわかっているのだが。

 

『後拾遺和歌集』 久保田淳・平田喜信 校注 岩波文庫

どのような芸事にも基本になる規定演技のようなものがある。落語の場合も例外ではない。柳家では「道灌」という噺がそれにあたる。入門して最初に稽古する噺がこれだという。なぜその噺なのか、ということについては全く知らない。

落語には和歌がけっこうよく登場する。「道灌」には『後拾遺和歌集』に収載されている中務卿兼明親王の

小倉の家に住み侍りける頃、雨の降りける日、蓑借る人の侍りければ、山吹の枝を折りて取らせ侍りけり、心もえでまかりすぎて又の日、山吹の心えざりしよしいひにおこせて侍りける返りにいひつかはしける

ななへやへ花は咲けども山吹のみのひとつなきぞあやしき
(582頁)

という歌が登場する。但し、最後の「あやしき」が「かなしき」になっている。どちらがどうというのではなく、写本が伝搬する中で何通りかの歌ができてしまったということなのだろう。都電の面影橋の電停の近くに「山吹の里」という碑がある。その碑の隣に立っている説明板にはこのようにある。

新宿区山吹町から西方の甘泉園、面影橋の一帯は、通称「山吹の里」といわれています。これは、太田道灌が鷹狩に出かけて雨にあい、農家の若い娘に蓑を借りようとした時、山吹を一枝差し出された故事にちなんでいます。後日、「七重八重 花は咲けども 山吹の みの(蓑)ひとつだに 無きぞ悲しき」(後拾遺集)の古歌に掛けたものだと教えられた道灌が、無学を恥じ、それ以来和歌の勉強に励んだという伝承で、『和漢三才図会』(正徳二・一七一二年)などの文献から、江戸時代中期の十八世紀前半には成立していたようです。

「悲しき」だ。「悲しき」と「あやしき」とでは意味がだいぶ違うが、古歌=教養として知っているべき歌を太田道灌が知らなかったことを恥じて和歌の勉強に励んだというところが肝だ。それが落語、しかも前座噺で語られるということは、演芸を楽しむ一般大衆がこの故事を当然に知っていたということでもある。今は和歌・短歌が何だか特別なものになってしまった感があるが、それこそ悲しきことだ。

ところで、『後拾遺和歌集』は勅撰和歌集だ。天皇や上皇の命によって編纂されたということは、国家事業とも言える。国家事業として歌集を編纂するとはどういうことなのか。私にはわからない。恋人との別れが悲しくて涙で袖を濡らしました、というような歌がたくさん収載されている。この岩波文庫版には1218首と異本歌11首の都合1229首が納められている。このうち228首が恋歌とされているが、雑歌の中にも色恋を歌うものはあり、そう考えるとかなりの割合になる。色恋や花鳥風月がいけないというのではないが、それを字義通りに受け取ってよいものなのだろうかと不安を覚えるのである。国家事業で編纂する歌が単に色恋だの花鳥風月のわけがないと思うのは下卑た感覚なのだろうか。字面の裏に語られている和歌の本当の意味、というようなものがある気がしてならない。

補足:太田道灌の「山吹の里」とされる伝承地は、この東京都豊島区高田一丁目の他に、荒川区町屋、横浜市金沢区六浦、埼玉県越生町などいくつもある。

 

関口良雄 『昔日の客』 夏葉社

その昔、東京大森に山王書房という古本屋があったそうだ。その主は関口良雄氏。1977年8月22日に結腸癌のため自宅で死去。享年59。今の自分と同い年。三十代半ばに古本屋をはじめ、それが天職になったのだという。還暦記念に以前から書いたものに新たな随筆を加えて一冊の本として出版することを楽しみに準備を進めていたが、還暦を待たずに旅立たれてしまった。その本がこの『昔日の客』だ。三茶書房のオリジナルではなく夏葉社の復刻版である。

本を読む習慣は無く、ましてや文芸は自分から一番遠いものとの思いもあって、殆ど手にすることがない。そんなふうに本というものに対して初心な所為か、この本そのものの佇まいにも文章にも魅せられてしまった。こんなに心惹かれる本は今まで手にしたことがない。読了した本を改めて手に取ることはあまりないのだが、本書は何度も読み返している。

装幀が良い。布張りの鶯色の表紙とか、その表紙に刻印された書名と作者名の文字、それに対する背表紙の活字のバランスと佇まいがいい。裏表紙と口絵に山高登の版画(夏葉社版では版画を印刷したもの、三茶書房版は版画そのもの)があり、これが印刷でもまたいい。そのいかにも本らしい本の中に、ちょうど読みやすい長さで、しかも深い味わいのある美しい文章が程よく収められている。古書店の店主を志すくらいだから、文芸への興味関心も人一倍強くて読書量が半端ではないのだろうし、書物の値踏みができるくらいの眼を持っている人だ。そういう審美眼を持つ人が書いた文章ならではの魅力を感じる。

「昔日の客」というのは野呂邦暢から関口に贈られた『海辺の広い庭』の見返しに記された墨書きに由来している。

「昔日の客より感謝をもって」野呂邦暢

そして「昔日の客」というタイトルで一編の文章が本書に収められている。

 そんなことがあって間もなく、野呂さんは家の事情で勤めをやめて郷里へ帰ることになった。
 その時、私の店にほしい本が一冊あった。
 それは、そのころ筑摩書房から出て間もない、「ブルデルの彫刻集」という本だった。
 野呂さんは部屋代を払ったり、旅費のことを考えると、本を買う金は千円位しか都合がつかなかった。「ブルデルの彫刻集」は千五百円についていた。
 事情を聞いた私は即座に、それなら千円で結構ですと言ったと言う。
 そんなことは私には少しも記憶のないことで、ただ一方的に聞いているだけだった。
(『昔日の客』205頁)

一方、野呂の方も関口のことを随筆に書いている。タイトルは「S書房主人」で初出は西日本新聞夕刊、1976年5月13日。手元にあるのは野呂の随筆集『兵士の報酬 随筆コレクション1』(みすず書房)だ。

 何ヶ月か後に私はつとめをやめて九州へ帰ることになった。いくばくかの退職金を懐中に私はS書房へ出かけた。買いたい本は決めていた。あるフランス人彫刻家の写真集である。ちょうど給料の四分の一にあたる値段であったと覚えている。当時は豪華本である。
 私は郷里に帰ることを主人に告げた。彼は黙って値段を三分の二にまけてくれた。餞別だというのである。私は固辞したけれどもいい出したらきかない相手だった。
(「S書房主人」『兵士の報酬 随筆コレクション1』332頁)

示し合わせて書き合ったわけではないだろう。互いに知らぬままに互いのことを文章に起こし、それらが響き合っている。こういう偶然のような必然というか、必然のような偶然を目の当たりにするのは愉しい。

野呂邦暢という作家のことは『昔日の客』で知った。すぐにAmazonで検索して在庫のあるものを何冊か注文し、届いたもののうちから何冊かを読んだ。いつまでも読んでいたいような美しい文章だと思った。野呂は関口の店で念願の『ブルデルの彫刻集』を手に入れて郷里へ戻り、陸上自衛隊に入隊する。翌年除隊の後、家庭教師をしながら執筆活動を始める。その作品が様々な文学賞の候補になった後、1974年に『草のつるぎ』で第70回芥川賞を受賞。野呂が芥川賞授賞式に出席するため上京した折に、関口の店を訪れ、その手土産が『海辺の広い庭』だった。

類は友を呼ぶ、という。出会い、あるいは縁というものは、たぶん必然なのだ。巡り合うべき人と人、人とモノ、人と出来事があるのだと思う。『昔日の客』を読んで、そんなことを思った。翻って自分はどうか。現実がすべてだ。今更後悔も反省も何もない。

 

『長谷川潾二郎画文集 静かな奇譚』 求龍堂

一時期、絵を観ようと思って、ジャンルを問わずさまざまな絵を観た。余計なことは気にせずにただたくさん観た。何年か続けて、それでわかったのは、自分は絵描きにはなれないということと、絵についてどうこう言えないということだ。そういう断りを入れた上で、妙に記憶に残ってしまっている絵というものがある。

いつのことだか時期は記憶にないのだが、東京駅の丸ノ内駅舎が復元される前の東京ステーションギャラリーでベトナム戦争の時のベトナム兵が戦闘の合間に描いた絵を観た。新聞紙だか事務連絡に使う帳面だかの切れ端に描かれた花や女性の姿が、断片的ながらも脳の片隅に引っかかって取れないのである。絵心のある、戦時でなければ絵描きになっていたかもしれない人の絵なのか、特に絵に縁があるわけではないけれども戦時の緊張を和らげるために手慰みで描いただけのものなのか、キャプションに説明があったかもしれないが何も覚えていない。でも花や女性の顔の線とか、ありあわせの色の付くもので最小限の彩色を施した、下地の新聞や書類の文字がはっきりと見える絵が、なんだかとても美しく見えた。それで刺激を受けて、スケッチブックを買って絵を描いてみたりもした。美しい絵は描けなかったが、笑いを誘う自信はある。

ところで昨日、長谷川潾二郎のことに少しだけ触れた。長谷川は作品を描くのが遅かったらしい。長谷川の作品「猫」は長谷川が自宅で飼っていたタローを描いたものだ。

ある日、アトリエで眠っているタローを見ていると、急に画に描きたくなった。小机の上に座布団を乗せ、臙脂色の布を敷いて、その上に眠っているタローを抱いて来て乗せた。熟睡しているタローはされるままになっていた。
(『長谷川潾二郎画文集 静かな奇譚』求龍堂 160頁)

それから数日、同じことを続けて画は形になっていく。ところが、一旦中断して一ヶ月後に作業を再開しようとすると、タローは同じポーズをとらなくなってしまう。画は先に進めない。長谷川は何故タローが同じポーズをとらなくなってしまったのか、あれこれ考える。そして猫の姿勢と気温が関係していることに気づくのである。タローの絵を描き始めたのは9月なので、同じ気候になる次の年の9月を待って作業を再開すると、考えた通り、タローは前年と同じ姿勢になった。

その翌年の九月中旬、考えた通り私はタローの画の続きを描く事が出来て九分通り仕上げた。画の猫には髭がなかった。
(『長谷川潾二郎画文集 静かな奇譚』求龍堂 160頁)

この髭がないことが、後になって問題になる。そのことはひとまず置いて、その九分通り仕上がったタローの画を見た「画商のS氏」が欲しいと言い、長谷川は売る約束をする。但し、「髭が出来てから」という条件で。その間にも時間は進行し、季節は変化するので、その年はとうとう髭を描くことはできなかった。「髭くらい」と思う人もたくさんいるだろう。見ていないことは描けない、というのが長谷川で、それは「完全主義」とか「正直」というような表層のことではなく、長谷川の世界観がそうなっているのだから仕方がないことなのだと思う。そうこうしている間にも時間は経過する。タローは老い、病をえて亡くなってしまう。画は完成しない。S氏との約束はある。仕方なく、デッサンをもとに想像で髭を描いた。ところが左の髭だけだ。右はデッサンが無いから描けないのである。左の髭だけが描かれた猫の画を画商のS氏はようやく手にすることができた。タローの画を描き始めて7年が経っていた。「画商のS氏」とは洲之内徹である。洲之内はこの作品のことをエッセイに書いている。

長谷川さんの差し出すキャンバスを受けとって見ると、どういうわけか左半分の髭しか描いてない。しかし私は、どうして右側の髭がないのかは訊かなかった。下手なことを言って、また何年も待つことになっては大変だ。
(洲之内徹『絵のなかの散歩』(気まぐれ美術館シリーズ)新潮社 249頁)

絵の商売については何も知らないのだが、ほぼ完成した猫の画を「髭がまだ」という理由だけで何年も待たせる画家も、また、それを待つ画商も珍しいのではないか。私はこういう話の世界に素朴に憧れるのである。


読書月記 2021年7月

2021年07月31日 | Weblog

『工芸青花 16』 新潮社 / 坂田和實 『ひとりよがりのものさし』 新潮社

今となっては何で知ったのか記憶に無いのだが、1,000部限定で発行されている『工芸青花』という定期刊行物を購読している。記事のほうは何を言っているのか理解できないものが多くてあまり読まない(読めない)が、写真が良く、写真集のようなつもりで目を通している。本号は先月半ばに届いたが、この連休にようやく開いてみた。

著名な古道具屋が次々と店を閉じたそうだ。2019年に麻布十番「さる山」、2020年に西荻「魯山」と目白「坂田」。古道具というのは私には敷居が高くて近寄り難く手の届かない存在だ。「坂田」の店主である坂田和實の「ひとりよがりのものさし」(新潮社)は愛読書のようなもので、折に触れてはパラパラとめくって読んでいる。本書は月刊誌『芸術新潮』の連載をまとめたものだ。『青花』の記事と違って読みやすく、しかも深い。千葉県長南町にある「坂田」の私設美術館「as it is」にはレンタカーで何度か出かけた。自分でも道具屋をやってみようかとも考えて、あれこれ思いついたことを書き殴ったノートの切れ端を捨てられずに手帳のカバーのポケットに挟んでいたりもする。そうした上で、自分にとっては敷居が高いと感じるのである。

茨木のり子の詩に「自分の感受性くらい」というのがある。

自分の感受性くらい

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮しのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

(『茨木のり子全詩集』花神社 167-168頁)

古道具屋を前にすると、この詩が思い浮かんでしまって、中に入ることができないのである。怠け者で、心身ともにしなやかではなく、なにもかも下手くそで、ひよわな志しかなく、尊厳を簡単に放棄している、ばかものとは私のことだ。骨董だの古道具だのを見る眼など持ち合わせていない、と思ってしまう。

その点、本や雑誌は気楽に手に取ることができる。能書や蘊蓄はちゃんと理解して書いているのか、どこかで聞き齧った受け売りなのか、読めばだいたい伝わってくる。坂田の『ひとりよがりのものさし』は優しそうなタッチだけれど、人としての値打ちを問われているようで、やはり読んでいると「ばかものよ」と怒られているような気分になってしまう。

普段の生活の中で、ちゃんと怒られる機会は滅多にない。怒られたりクレームを受けたりするのは、こちらの不行き届きももちろんあるのだが、相手のエゴに因るところも少なくない、と思っている。茨木の詩や坂田の文章には真摯なものを感じて、怒られているけれど嬉しいのである。

僕とあなたは違う人間。同じものを同じくらい好きということはあり得ない。今の時代、何が好きかを明確にしても切腹させられることはないのだから、一人一人が自分の責任で何が好きなのか、つまりはどんな道を歩きたいのかを声高く言い続けなくてはいけないと僕は思う。
(『ひとりよがりのものさし』15頁)

その通りだとは思うのだけれど、ちょっと「声高く」は言えない。ボソッとなら言えるかもしれないが。おそらく、好きなことを好きと言ったり好きな道を歩いたり、つまり、しあわせに生きることは、それほどむずかしいことではない。ほんのちょっと吹っ切れば良いだけのことだ、とは思う。

 小谷さんは、骨董や道具の美しさは、遊び心を持っていないと感じることが難しく、一旦、その美しい線を自分のものとして会得してしまうと、あとは、たとえ西洋の物であろうと東洋の物であろうと、古代の物でも現代の物でも、又、高価なものでも道端に落ちているものでも、その選択は単に応用問題にすぎないということを、僕達、若い仲間に教えてくれた人。房総の網元の生まれで、仕事の関係上お持ちだった船を、遊びのために次ぎ次ぎと売り払い、最後に残ったものは、一枚の板切、使いこまれたボロ布、サビた鉄金物、シミの入った侘びた陶片。服装も古いアメリカ製ジーンズや、イギリスのヨレヨレのコートなどがお好みで、道具屋をやめた後は、その風貌と着こなしを見込まれて、ファッションのモデルもしていた。
 僕達から見れば、好き嫌いというだけの選択で骨董道楽に生きた、稀な、又羨ましい人だったけれど、ある時「何ともない人生だったな」と、ポツリひとこともらしたことがある。亡くなる一ヶ月前に戴いた手紙は、いつもの太めの朴訥な鉛筆文字で、「永い間、つき合ってくれて有難う。楽しかった。さようなら。」だった。享年七十八歳。
(『ひとりよがりのものさし』27頁)

この小谷伊太郎という人がどのような人なのか全く知らないが、自分も最後にはこんな手紙を出す相手がいたらいいなと思う。

 

犬養孝 『改訂新版 万葉の旅 上・中・下』 平凡社

万葉集の歌に詠まれている土地を訪ねてみよう、と思う人はたいていこの本を手にするらしい。私も以前に受講した「万葉集講座」の参考文献に挙げられていたものの一つとして手にした。ところが、講座期間中は紐解くことを怠り、今頃になって読んだ。もともとは1964年に社会思想社の現代教養文庫として発行されたが、同社の廃業によりしばらく絶版状態となっていたのを、平凡社が2003年に改訂新版として発行した。改訂に際して元の記述や写真を残しながら「国鉄」を「JR」に書き換えるというような中途半端な手の入れ方をしているのは、万葉集所縁の地を歩く人が本書をガイドブックとして使うことを想定してのことだろう。別に「国鉄」のままでよいのではないか、と思うのは私だけだろうか。写真はいかにも素人写真で、それが味わいを深めていてよい、というのは本音であって皮肉ではない。

万葉集の最初の歌は雄略天皇の御製、とされる歌。万葉集の時代には現在の「ナントカ天皇」という漢風諡号ではなかった。そのあたりのことは別の記事に書いた。

それで筆頭の雄略天皇御製とされる歌だが、実は伝承歌らしい。そんなことはともかく、雄略天皇は万葉集の中では「泊瀬朝倉宮に宇御めたまひし天皇(はつせのあさくらのみやにあめのしたをおさめたまいしすめらのみこと)」(岩波文庫での表記による)となっている。「泊瀬」は現在は「初瀬」と表記されている地域とピタリと重なるわけではないだろうが、だいたいそのあたりだろう。近鉄の駅に「大和朝倉」、「長谷寺」といういかにもそれらしいのがある。現在、この一帯は奈良県桜井市である。かつて、天皇が新たに即位する度に新たに都が造営された。人の命は限りがあるので、それに合わせて大きな都市を建設したら完成が天皇の在位に追いつくはずはないのだが、現在の「都市」のイメージではなく、単に集落のようなものと考えれば、都の造営も儀式の一部と見られたのだろう。

万葉集の成立は詳しくはわかっていないらしい。そもそも原本はなく写本だけが頼りだ。大伴家持が編纂を担当したとの説はかなり有力らしく、8世紀の終わりごろに一応の完成を見たとのこと。ところが、家持は亡くなった後に藤原種継暗殺事件への関与が疑われ、追罰を受け、官籍からも除名された。このため彼の仕事もなかったことにされて万葉集の発表が遅れ、9世紀初頭にようやく公になった、らしい。とはいえ「万葉集」の表記が文献に登場するのは平安中期以降で、つまり、詳細不明なのである。

万葉集に収められている歌は約4,500首(岩波文庫版に収載されているのは4,516首)、うち473首が家持の作とされている。しかも、万葉集のトリを飾るのが、因幡国守として山陰に暮らしていた家持が詠んだ歌だ。

新しき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事
(あたらしき としのはじめの はつはるの けふふるゆきの いやしけよごと)

一見すると新春を寿ぐ歌のように見える。しかし、本当にそうだろうか。確かにこの歌の詞書には正月の宴会で詠んだ歌と書かれている。正月の宴会で詠むのだから、それなりものであろうと思うのは当然だ。しかし、だ。ま、この話はやめよう。

それにしても、当時の日本中から歌を集めた歌集が存在しているのは確かなようで、それがなんのためなのか、現代の者には実感としてわからない。おそらく、国家としての統一体、共同体の存在を公に確認する作業として、そこに属する人間があまねく理解できるようなものが必要であったのだろう。現代であれば、共同体の連帯を象徴するのに、できるだけ多くの構成員が参加をする行事を行うことに相当するのかもしれない。例えば、オリンピックや万国博覧会といった世界中の人々に対して「自国」を意識させるような行事がそうしたものに当たるだろう。奈良時代にあっては、それが歌であり言葉(表記ではなく音として)であったというところに言葉というものの存在の大きさが表れている。

「海ゆかば」は万葉集にある家持の歌が元になっている。「海ゆかば」が軍歌なのか鎮魂歌なのかという議論があるらしいが、1880年に宮内省伶人だった東儀季芳が作曲したものは将官礼式曲として用いられ、1937年に信時潔が作曲したものは、作曲者の意図はどうあれ、実態としては軍歌とされても仕方ないだろう。しかし、元の万葉集の歌は、造営中の東大寺大仏の塗金に不足していた時、陸奥で金鉱が発見されて陸奥国守から金900両が献納された祝いの歌だ。1937年作曲のほうの「海ゆかば」が、当時の政府が国民精神総動員強調週間を制定した際のテーマ曲として作られたということは、万葉集と「総動員」に通じるものがあると考えられていた証左と言えるだろう。言葉の力は大きいのである。

ちなみに、その家持の歌は長歌と三首の反歌から成っている。

陸奥国に金を出だしし詔書を賀びし歌一首 短歌を併せたり

葦原の 瑞穂の国を 天降り 知らしめしける 皇祖の 神の命の 御代重ね 天の日継と 知らし来る 君の御代御代 敷きませる 四方の国には 山川を 広み厚みと 奉る 御調宝は 数へ得ず 尽くしもかねつ 然れども 我が大君の 諸人を 誘ひたまひ 良き事を 始めたまひて 金かも 確けくあらむと 思ほして 下悩ますに 鶏が鳴く 東の国の 陸奥の 小田なる山に 金ありと 申したまへれ 御心を 明らめたまひ 天地の 神相うづなひ 皇祖の 御霊助けて 遠き代に かかりしことを 朕が御代に 顕はしてあれば 食す国は 栄えむものと 神ながら 思ほしめして もののふの 八十伴の男を まつろへの 向けのまにまに 老人も 女童も しが願ふ 心足らひに 撫でたまひ 治めたまへば ここをしも あやに貴み 嬉しけく いよよ思ひて 大伴の 遠つ神祖の その名をば 大久米主と 負ひ持ちて 仕へし官 海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ 顧みは せじと言立て ますらをの 清きその名を 古よ 今の現に 流さへる 祖の子どもそ 大伴と 佐伯の氏は 人の祖の 立つる言立て 人の子は 祖の名絶たず 大君に まつろふものと 言い継げる 言の官そ 梓弓 手に取り持ちて 剣大刀 腰に取り佩き 朝守り 夕の守りに 大君の 御門の守り 我をおきて 人はあらじと いや立てて 思ひし増さる 大君の 命の幸の 聞けば貴み

反歌三首

ますらをの心思ほゆ大君の命の幸を聞けば貴み
大伴の遠つ神祖の奥つ城は著く標立て人の知るべく
天皇の御代栄えむと東なる陸奥山に金花咲く

天平感宝元年5月十二日、越中国守の館に於て、大伴宿弥家持の作りしものなり。(岩波文庫版『万葉集(五)』62-68頁)

万葉の時代から下って、10世紀から15世紀にかけて勅撰和歌集の編纂が行われている。16世紀は戦乱の時代。17世紀以降は天下統一の時代。19世紀は門戸開放で世界との付き合いが本格化する時代。そして20世紀、21世紀がどのような時代か、我々一人一人がそれぞれに答えを持っているだろう。いずれにせよ、言葉は連帯の証というよりも分断の武器のようになってしまった、と感じているのは私だけだろうか。改めて、本書を手に万葉所縁の土地を巡ってみたい。


読書月記 2021年6月

2021年06月30日 | Weblog

古賀史健 『取材・執筆・推敲 書く人の教科書』 ダイヤモンド社

「人生最後の晩餐には何を食べたいか」などと話題になることがある。今なら、あつあつのご飯と納豆、と即答する。納豆に限らず大豆を使った食材が大好きで、納豆を筆頭に、豆腐、がんもどき、油揚げ、ただ大豆を茹でただけのもの、といったものがすぐに思い浮かぶ。我が家には大豆が数キロ常備してある。大好きな納豆は自家製だ。自家製といっても、発酵のスターターには既製品の納豆を使うので、純粋の自家製ではない。茹でた大豆を紙コップに適量ずつ盛り、各コップ毎に数粒の既製品納豆を置いてラップをかける。それをダンボール箱に並べて蓋を閉め、電気アンカを箱の上に置いて、プチプチシートで包んで、ひとまわり大きな段ボール箱に収めて3日ほど放置するだけのこと。納豆菌というのは大変に強力な菌でそこら辺至るところに浮遊しているのでスターターなしでもできる、という話は聞いたことがある。試してみようかなとは思わないではないのだが、失敗してせっかくの大豆を腐らせるのは忍びないので、いまだに試してはいない。

納豆のほか、我が家では味噌、梅干し、甘酒、などを作っている。味噌は寒の内に仕込む。毎年、使う材料や量を少しずつ変えてみるのだが、都内で作られている麹を使うといい味になる気がする。その土地の麹菌で作るのが風土にあって良いのかもしれない。尤も、大豆も塩も東京から遠く離れた産地のものだし、梅干しの梅は毎年紀州から調達する。甘酒は健康の為、実家に老親を訪ねる時に手土産にする。どれも最後の晩餐にいただきたいものばかりだ。

なぜ最後の晩餐などと考えたかというと、この本を読んだからだ。こういう本が大手を振って書店に並ぶようになるとは世も末だと思ったのである。当たり前のことをうだうだと書き連ね、しかもスカスカのレイアウト。今は総じて印刷物の文字が大きくなっているが、本書も例外ではなく無駄にボリュームを大きく見せている。「この一冊だけでいい。」などと帯がついているが、この一冊ではどうしようもない。「ほぼ日」の記事を読んで、興味を覚えたのだが、今度ばかりはがっかりした。

ふと落語の「寝床」を思い出した。そういえば、落語をはじめ芸事の多くには学校も教科書もない。何故だろうか。

 

ルソー著 今野一雄訳 『エミール(上)(中)(下)』 岩波文庫

先日、高校の同窓会誌が届いた。今年は学校の創立100周年でもあり、自分の代の卒業40周年でもあるらしい。高校時代から続いている人間関係は無い。当然、それ以前からの関係も無い。大学時代から続いている関係がわずかにあるだけだ。それで何の不満もない。さっぱりしたものだ。

一通り学校教育を受けた感想として、あれは何だったのだろう、という疑問しかない。いわゆる偏差値的なレベルが低い地域の公立学校で義務教育を受け、高校受験のときに世間との格差に愕然とした。その衝撃が大きくて、高校時代はいわゆる勉強しかしなかった。

大学に進学したものの、これといって問題意識があるわけもない。何も無いことへの焦りを感じつつも何も無いままの学生時代だった。社会人になって3年目に勤務先の留学制度に応募してイギリスの大学でMBAを取った。2年間の課程だったが、ベッドで寝たことがあまりなかった。英語がわからないこともあって、勉強が追いつかないのである。机でうとうとしてそのまま朝を迎えることが多かった。やはり何も無い学生時代が伸びただけだった。

新卒の就職活動で、学生時代のことがネタになるわけだが、あれは尋ねているほうもろくなものではないので、ネタと割り切らないといけない。そもそも人が人を正当に評価することなどできるものではない。人は経験を超えて発想できない。賃労働で細分化されたことしかしていないのに、他人のことをどうこう言えるはずがない。最近、どこぞの企業で採用担当が就活中の学生に採用をちらつかせてホテルに連れ込んだという事例が報じられたが、氷山の一角だ。同じアホなら踊らにゃソンソン、という歌と踊りがあるが、その通りだ。長く受け継がれている習俗には真実が隠されている。

賃労働というのはアダム・スミス『諸国民の富』に登場する'division of labour'に端を発する考え方かと思っていたが、本書で社会と個人との関係について語られるなかに、人間の分断化と言える見方が窺える。

社会は人間をいっそう無力なものにした。社会は自分の力にたいする人間の権利を奪いさるばかりではなく、なによりも、人間にとってその力を不十分なものにするからだ。だからこそ、人間の欲望はその弱さとともに増大するのであって、大人にくらべたばあいの子どもの弱さもそれにもとづいている。大人が強い存在であり、子どもが弱い存在であるのは、前者が後者よりも絶対的な力をいっそう多くもっているからではなく、前者はもともと自分で自分の用をたすことができるのに、後者にはそれができないからだ。(上巻 145頁)

大人と子どもという言い方をしているが、全人的なものと断片化された人間の在り方と読み替えることもできるだろう。産業革命を待つまでもなく、社会が肥大化するなかで個人はその構成要素としての機能的側面を担うことを期待される存在となったのである。

社会にあっては、人間は必然的に他人の犠牲によって生活しているのだから、かれはその生活費を労働によって返さなければならない。これには例外はない。だから、働くことは社会的人間の欠くことのできない義務だ。金持ちでも貧乏人でも、強い者でも弱い者でも、遊んで暮らしている市民はみんな悪者だ。(上巻 452頁)

そうなると、教育とは人間をどのように教え育てることを意味するか、ということが自ずと規定される。

子どもに教える学問は一つしかない。それは人間の義務を教えることだ。(上巻 64頁)

また、社会を構成する人々は己の分を弁えるようにしないと、社会は収まりがつかない。

現実の世界には限界がある。想像の世界は無限だ。前者を大きくすることはできないのだから、後者を小さくすることにしよう。わたしたちをほんとうに不幸にする苦しみはすべて、この二つの世界の大きさのちがいから生まれるからだ。(上巻 136頁)

過度に自己を主張することは害悪なのである。自己主張は当然の権利ではなく、それが許されるのは限られた人だけだ。

いつでも人にわかってもらおうとするのは、これもまた一種の権力である。(上巻 120頁)

教育というのは、社会秩序の安寧のためにある、ということなのだろう。為政者の側からすれば、民衆は権力に従って権力の意図に沿うように動いてもらわないと都合が悪い。法令であろうが非公式な誘導であろうが、公権力の意図に合わせて社会が動かずに、権力とは何かということなのだ。例えばお上から「要請」があれば、その字義を云々するのではなく、民衆ひとりひとりが「要請」の背後にある意図までをも忖度して粛々と「要請」に従ってこそ社会が成り立つのである。

個人は社会の為にあれ、ということなのか。まず、個人は自分自身がどうありたいのかという意思がないと話にならない。

人はみな幸福でありたいと思っている。しかし、幸福になれるには、幸福とはどういうことであるかをまず知らなければなるまい。(上巻 402-403頁)

おそらく圧倒的大多数に強い意思はない。あればこんな世の中にはなっていない。生まれようと思って生まれたわけではないのだから、それは当然だろう。気がつけばここにいて、さぁ頑張れと言われたところで何をどうしろというのか。「幸福」といったところで、何不自由無い生活、というくらいしか思いつかない。「自由」「不自由」はその社会の中での相対的なことでしかなく、本当はどうありたいのか、なんてことを深く突き詰めて考えたところで、考えたつもりになっているだけというのが関の山だろう。人は経験を超えて発想はできないのだから。

幸福になるのは、幸福らしく見せかけるよりはるかにやさしいことなのだ。(中巻 400頁)

わたしたちは表面的なことで幸福を判断していることがあまりにも多い。どこよりも幸福のみあたらないところにそれがあると考えている。幸福がありえないところにそれをもとめている。陽気な気分は幸福のごくあいまいなしるしにすぎない。陽気な人は他人をだまし、自分でも気をまぎらそうとしている不幸な人にすぎないことが多い。人の集まったところでは微笑をたたえ、快活で、朗らかな様子をしている人は、ほとんどみんな、自分の家では陰気な顔でどなりちらしていて、召使いたちは主人が世間でふりまいている愛嬌のために苦しむことになるのだ。(中略)ほんとうに幸福な人間というものは、あまりしゃべらないし、ほとんど笑わない。かれは幸福をいわば自分の心のまわりに集中させる。騒々しい楽しみごと、はねっかえるような喜びは、嫌悪と倦怠を覆いかくしている。(中巻 57頁)

本書の中でたびたび登場するのだが、「人生を楽しむ」とはどういうことなのだろうか。ルソーが理想とする人間像は二十歳のエミールだ。

わたしのエミールを見ていただきたい。二十歳をすぎたエミールは、申し分なくできあがっている。精神も肉体も申し分なくつくられている。強壮で、健康で、活発で、器用で、頑丈で、豊かな感性、理性、善良さ、人間愛にあふれ、正しい品行、よい趣味をもち、美しいものを好み、よいことを行ない、残酷な情念の支配からまぬがれ、世論の束縛にとらえられないで、知恵の掟を守り、友情の声に従い、あらゆる有益な才能と、いくつかの人を喜ばせる才能をもち、富にはほとんど関心をもたず、自分の腕の末端に生活の手段をもち、どんなことがあっても、パンにことかく心配はない。(下巻 180頁)

本書は近代教育学の古典、などと呼ばれている。人間を育てることは「人間」とは何か、と言う前提がないといけない。つまり、教育を語ることは人間を語ること、世界観を語ること、哲学や宗教を語ることでもある。そう考えると「エミール」はルソーが考える「人間」そのものだ。結局のところ、ルソーの教育論も、世俗的な理想、良き市民、といった既成の人間観を超越するものではないように思われる。人は経験を超えて発想はできないのだし、何事においても完璧などということはあり得ないのだから、既成の人間観を超えるはずなどない。

たまに「教育の荒廃」というようなことを耳にする。発言している側がどういうつもりでそのような言葉を使っているのか知らないが、「荒廃」ということは、かつてそうではなかったということを示唆している。いわゆるイジメの問題に関連したところで語られるのだろうが、当事者意識のかけらも感じられない言葉だ。自分が経験した以上のことは知らないが、そこから推測するに、人間そのものが変化しないのに学校教育の現場に根本的な変化などあるわけがない。現状の社会を与件として、教育がいわゆるイジメを無くすことなどできるはずがない。学校という閉鎖空間の中で逃げ場がないから、かなりはっきりした現象として現れるだけのことで、根を同じくする現象は社会の至る所にあるだろう。教師は教育という産業に従事する賃労働者であって、そこに問題の責任を押し付けるのは公正とは言えまい。学習管理者は教育者と同義ではない。

ところで、人生は短いのだろうか。まぁ、今更どうでも良いのだが。

わたしたちはこの地上をなんという速さで過ぎていくことだろう。人生の最初の四分の一は人生の効用を知らないうちに過ぎてしまう。最後の四分の一はまた人生の楽しみが感じられなくなってから過ぎていく。はじめわたしたちはいかに生くべきかを知らない。やがてわたしたちは生きることができなくなる。さらに、この最初と最後の、なんの役にもたたない時期にはさまれた期間にも、わたしたちに残されている時の四分の三は、睡眠、労働、苦痛、拘束、あらゆる種類の苦しみのためについやされる。人生は短い。わずかな時しか生きられないからというよりも、そのわずかな時のあいだにも、わたしたちは人生を楽しむ時をほとんどもたないからだ。(中巻 5頁)

人生は短い、と人々は言っているが、わたしの見るところでは、人々は人生を短くしようと努力しているのだ。人生を利用することを知らないで、かれらは時がたちまちに過ぎ去ることを嘆いているが、わたしの見るところでは、時はかれらの意に反してあまりにもゆっくりと過ぎていくのだ。めざす目的のことばかり考えているかれらは、自分たちとその目的とをへだてている間隔を恨めしく思っている。ある者は明日になればと思い、ある者はひと月たてばと思い、またある者は、いまから十年たてば、と思っている。だれひとり今日を生きようとはしない。だれひとり現在に満足しないで、みんな現在の過ぎ去るのがひどく遅いと感じている。時はあまりにも速く流れていくと嘆くとき、かれらはうそをついているのだ。(下巻 155-156頁)

 

梯久美子 『狂うひと 「死の棘」の妻・島尾ミホ』 新潮文庫

梯久美子先生は「ほぼ日の学校」の万葉集講座の講師のお一人だ。この講座は10回の講義で構成されていたが、2回の補講が追加された。一回が岡野弘彦先生の回を控えての予習会。もう一回が、10回プラス予習会の講座を終えた後の標題の本についての梯先生の講義(2019年8月21日)だった。万葉集講座としての講義ということで、講座のなかで先生がテーマにされた『昭和万葉集』に関連するものとしての軍人の歌、さらにその関連としての本書という位置付けでの補講であったと記憶している。十分に興味深い内容だったのだが、肝心の本のほうは買ったまま積読状態だった。文庫にしては分厚くて、読むのを後回しにしてしまっていたが、『エミール』という文庫3巻本を読了した勢いで本書を読み始めた。これがスゴイ本なのである。さすがに一気にとはいかないが、それでもかなりの勢いで読み通してしまった。

梯先生といえば『散るぞ悲しき』だ。こちらは新聞に出ていた書評をきっかけに単行本で読んだ。クリント・イーストウッドが監督をした"Letters from Iwo Jima"(邦題『硫黄島からの手紙』)と"Flags of Our Fathers"(同『父親たちの星条旗』)も劇場で観た。映画が本と関係あるのかないのか知らないが、世の中にはどのようなことも起こりうるのだ、と思わせる映画であり、本だ。ノンフィクション作家というのは並大抵の仕事ではないと圧倒された。

『散るぞ悲しき』は硫黄島の戦いを指揮した栗林忠道陸軍中将(戦死と認定され、特旨をもって陸軍大将に親任される)が最期を前に大本営へ打電した決別電報のなかで詠んだ歌の一節だ。

國の爲重き努を果たし得で矢彈盡き尽き果散るぞ悲しき
仇討たで野邊には朽ちじ吾は又七度生れて矛を執らむぞ
醜草の島に蔓る其の時の皇國の行手一途に思ふ

これらの歌が大本営発表により新聞に掲載された時には、第一首の最後の部分が修正されていた。

國の爲重き努を果たし得で矢彈盡き尽き果散るぞ口惜

梯先生はこの修正から栗林を、硫黄島を、戦争を、国家を説き起こすのである。その筆力もさることながら、『散るぞ悲しき』を執筆するために集めたであろう材料の収集力と取材力、構想力にはただただ感心して頭が下がる。

本書と関連する万葉集講座の補講で、梯先生は軍人の歌をマクラに説いた。山本五十六が亡くなる年、日本を離れる前に愛人である河合千代子に送った手紙の末尾に歌を付けたという。

凡ほろかに吾し思わばかくばかり妹が夢のみ夜毎に見むや

これは『万葉集』巻十一にある

凡ろかに我し思はばかくばかり難き御門を罷り出めやも

の本歌取りだそうだ。栗林だけでなく、軍人は最期を前に決別電報に歌を詠んだ。そういう公的なものだけではなく、愛人への手紙というようなものにも歌を添えるのが、おそらくある階層以上の人々の間の常識のようなものだったのだろう。そこに平文では表現できないこと、平文の行間のようなことを語ったはずだ。ということは、そうした人々について調べたり語ったりする現代の人間も当然に和歌や短歌についての嗜みがなければならない。ところが現実には短歌も俳句も今は一般常識とは言い難い状況だ。こんなことで「歴史」だの「文化」だのを語ることができるのだろうか。『散るぞ悲しき』を読んだ時、そういうことに全く縁のないままに長い年月を生きてしまった自分に対して危機感を覚えた。歴史は自分自身なのである。

ところで、海軍甲事件の後、当時の首相である東條英機の使いと称する者が河合千代子のもとを訪れて自決を迫った、という証言があるそうだ。それもまた日本という国家、歴史の何事かを語るものである。

『死の棘』の作者である島尾敏雄は海軍少尉で第十八震洋特攻隊指揮官として終戦を迎えた。梯先生は今度は『死の棘』を取り上げ、そこに描かれた作家の妻であるミホに焦点を当てて本書をまとめた。本書も『散るぞ悲しき』も何がスゴイかというと、行間から怒涛のごとくに溢れ出す取材の量と質だ。このような作品に巡り会えたことを幸せと呼ばずにどうする、と思う。

『死の棘』は夫(島尾)の不倫を知り心を病んでしまった妻(ミホ)を題材にした私小説で、1960年から1976年にかけて文芸誌に短篇小説として発表されたものが1977年に長編小説としてまとめられて発表された。1961年に芸術選奨、1977年に読売文学賞、1978年に日本文学大賞を受賞。1990年には映画化され、1990年のカンヌ国際映画祭で審査員グランプリを受賞、日本アカデミー賞主演男優賞(岸部一徳)・主演女優賞(松坂慶子)、日刊スポーツ映画大賞主演女優賞を受賞した。長編小説版は現在でも新潮文庫で刊行されている。

『死の棘』を読んだのは2009年のことだ。小説どころか本を読むということ自体が生活の中で習慣になっていない。それなのにこの作品を手にしたのは、仲間内で話題になったからだ。そことは別のブログに書いた。

「Bの会」というのは大学を出て最初の勤め先である某証券会社の同期で、血液型がBの奴の集まりだ。こんな会を結成しなくても、証券会社というところはBだらけでBを強調する意味は無い。尤も「会」といっても中核になるのは4人で、私以外の3人が西船橋にあった独身寮の住人、私を含む3人が債券本部の所属、というつながりだ。会の幹事役を自発的にやっている三ツ石君が、私のこのnoteの何かの記事に「サポート」をしてくれた。中途半端な金額だったのでそれほど嬉しくもなかった。

みついしくん、そういうことをするときには、ドーンとやらないとダメなんだぜ。オレの笑顔が見たいだろ。マスクで見えないけど。ドーンとこないと笑えないなぁ。

おそらく、島尾の家庭には笑顔がなかっただろう。『死の棘』はほぼ全編実話なのだそうだ。島尾は子供の頃から最期に近い日まで几帳面に日記をつけていた。彼の小説はその日記に基づくものが多いらしい。つまり、自身の生活を活字にして商品にしていたとも言える。あるいは、売れる商品にするべく生活を営んでいたのかもしれない。他人の不幸は面白い。不幸な生活は良質な商材になる。小説家や詩人といった人々のなかに「無頼派」とか「破天荒」などと呼ばれるような生活を送った人がいたりするが、生活自体が創作という人もあるのだろう。

時代背景も無視できない。島尾とミホが出会ったのは1944年12月、奄美群島のなかにある加計呂麻島である。島尾は1944年11月に第十八震洋隊の隊長として島にやってきた。このときミホは押角国民学校の教師だった。震洋は爆弾を抱えたモーターボートで、敵艦船に体当たりする特攻兵器だ。震洋の搭乗員であるということは死が任務であるようなものだ。見出し写真は八丈島にあった第十六震洋隊基地跡を見下ろす崖の上にある碑だ。特攻のために開発された兵器は震洋に限らずお粗末で、そういうものが出撃しなければならない状況が現出するということは日本が滅亡するということを意味する。今、自分がここでこうして生活しているということは、そうした兵器が実戦には殆ど使われなかったということでもある。しかし、当時の当事者はどのような心境で出撃命令を待っていただろうか。そのあたりのことは経験が無いので何も言えないが、兵隊であることも、空襲があることも、諸々不自由であることも、「そういうもの」だと思ってしまえば案外淡々と受け入れてしまうのが人間というものなのかもしれない。身の危険が目前に迫っていても「自分だけは大丈夫」と感じるのは不都合な現実を無視することで自己保存を図る防衛本能であるような気がする。

死ぬつもりで生きていたのに、突然その「死」が遠ざかってしまった。そこでどうするかというのもその人の了見を示すものだろう。敗戦と荒廃と混乱の中を人々は生きた。闇物資を拒絶して餓死した裁判官がいた。闇物資で財を成した人もいた。外地からの引き揚げも凄惨を極めたらしい。森繁久彌は満洲からの引き揚げのことを繰り返し書いている(『全著作 森繁久彌コレクション1 自伝』藤原書店 2019年11月10日 初版第1刷発行)。もちろん、それは彼の眼を通した話であって、書かれていること全てが事実というわけではないかもしれない。しかし、平和な時代で60年近く特段の不自由もなく過ごした自分にとってすら、彼の話に説得力を覚える。良い悪いの話ではない。人は結局のところ生き物なのである。生き物は生きるためにどうするかということを最優先に考えるからこそ、生き物なのである。

小説家がどう生きるか、というのは難問だ。心ある人の注目を集め、しかも語り継がれる作品を創造できるのは天才だけだと思う。ものを書いて生計を立てるだけなら天才でなくともできるかもしれない。それでも、島尾敏雄もミホもフツーの人が驚愕するくらいのことをして、「小説家」とか「作家」と呼ばれるようになった。この先、語り継がれるかどうかはわからないが、少なくとも現時点では本書のような世間の耳目を集めるドキュメンタリー作品を生み出す存在ではある。

『死の棘』で、妻(ミホ)は夫(島尾)の日記を読んで、そこに書かれていた愛人のことを知って発狂したことになっている。ミホが島尾の日記を読む経緯はそこからはわからない。この話だけを聞くと、自分の信じていた世界が崩壊した衝撃で精神に障害を起こしたかのように見える。しかし、事はそんな単純では無いのである。

まず、日記の問題。「日記」というと極めて私的なもののような響きがある。私的は隠匿することではない。世に溢れているブログやSNSの類の中には日記のようなものも無数にある。思いを文字に起こすという行為には、そこに読者を想定している。島尾は日記を自分だけのものとは考えていなかった。日記は開いた状態で机の上に置かれていることが多く、ミホは当然のようにそれを読んでいた。そればかりではなく、時にミホは島尾の日記に書き込みをしている。あるとき日記を読んで愛人の存在を知った、のではなく、それ以前から夫に愛人がいることを認識していたはずだ。また、島尾もミホが読む前提で日記に情事のことを書いて、それを開いて置いていたのである。

『死の棘』は短編として発表され、17年の時を費やして長編小説にまとめられた。その原稿を清書したのはミホだった。島尾がミホの狂気を観察しているかのような文章だが、そこにはミホによる推敲が入り、ミホの意見で修正が施された箇所が幾らもあるそうだ。本書『狂うひと』の文庫版の帯に「狂っていたのは妻か夫か」という文字が踊っている。ミホが発狂して精神病院に入院したのは事実だし、夫の日記に書かれていた女性が島尾宅に訪ねてきて居合わせたミホと取っ組み合いになったのも事実。当事者であれば世間に公表するのを躊躇うようなことを島尾もミホも「作品」として当たり前に発表し、いくつかの文学賞を受賞して、いくつものインタビューに応対し、それが事実に基づいていることを隠そうともしていない。小説家であるということ、作家として個人名で社会に居場所を持つということは、これほど覚悟のいることなのかと唖然としてしまった。

覚悟のある主人公夫婦はそれでいいとして、作品の中で重要な役割を持たされてしまった島尾の情事の相手の人はどうだったのだろう。繰り返しになるが、『死の棘』は短編として不定期にいくつかの文芸誌に発表されている。事実に基づいた話なので、ミホの発狂のきっかけになった人も実在する(ミホと取っ組み合いになっている)。その人も文芸とか自分でものを書くことに関心を持っていた。当然に自分と関係のある人たちの作品には目を通す。短編の『死の棘』も当然読んだ。そして『死の棘』の中での自分と思しき「あいつ」の取り上げられ方に衝撃を受け、長編の発表前に自殺したそうだ。

この夫婦は一体何なんだ、と思わないでもない。しかし、程度の差こそあれ、我々は誰もが狂気を抱えているのではないだろうか。誰しも「わたし」という意識や認識がある。その「わたし」の境界ははっきりとしたものではなくて、その時々の「わたし」以外のものとの関係性の中でなんとなく感じられるようなものだろう。よく「自分らしく」なんて言葉を見聞きするが、あれは一体何なのだろうと思う。そんなはっきりとした「自分」があるとしたら、おそらくそれは病気だ。時々刻々変化する環境の中で自他の関係性をうまいこと調整しながら生きてこそ健康な存在として世間に受け容れられるのである。優柔不断で世渡りができるなら、そのほうが平穏だ。ミホは確たる「わたし」に拘ったがために「狂った」のではないか。本書で梯先生はこう書いている。

ミホの発作は、文学仲間の女性との情事を知るという形でミホに訪れた「戦後」に対する拒否反応でもあった。戦時下での命がけの恋の続きのつもりで結婚生活を始めたミホだったが、戦後の島尾はそんな妻を置き去りにして文学にのめり込んだ。ミホだけがひとり戦時下の時間にとどまっていたのだ。(611頁)

ミホは加計呂麻島の長の娘として、つまり「カナ(加那)」=姫として我儘いっぱいに何不自由なく育てられた。一時期、東京にいる実父の下で暮らしたものの、そのことは封印し、養父母を両親として自我を形成した。本書には奄美の近世史にも言及があり、そのことで思うこともあるのだが、それは別の機会に譲る。ミホの自我に関わる奄美や加計呂麻島の風土風俗は、本書に登場する評者が異口同音に語るように、原初的なクニを思わせるものだったのだろう。東京での数年間を無いことにしてしまえば、自己世界と現実世界は矛盾なく重なっていた。そこに現れた「隊長さま」は、その世界観に調和している限りにおいて、存在が許容されるのである。

それが、奄美世界と相容れない、敗戦直後で余裕の無い日本と、自分に対して否定的な島尾の家族や親族、そこで自分を積極的に守護しようとしない島尾、という動かしようのない現実に直面するのである。そうした中で、自分をモデルにしたことが明らかで、なおかつその人物が蔑まれているような短編小説や、夫の情事を描いた小説の清書をする。島の姫のような立場から、生活のためとは言いながらも、何が本当なのかわからないような日々を送ることになったのである。どんな思いで毎日を過ごしたのだろう。

ミホの狂気は「病」なのか、その人の個性のうちなのか。物事を自分のイメージのなかの「あるべき」姿に収めようとしゃかりきになると、おそらく精神と身体の少なくとも片方に異変を生じる気がする。しかし、収めないことには自分なりの理解ができない。つまり、生きていられない。自分にとっての「あるべき」にどこまで拘るかは、程度の話であって、そこに正常と異常を分ける明確な境界などない。本書を読む限り、島尾もミホも娘のマヤも、あまり自分がそうなりたいとは思えないような最期を迎えている。この家族は極端な事例であるとしても、文学作品は「病」がないと成り立たないかのような印象を個人的な偏見として私は抱いている。そういう所為もあって、あまり私小説には手が伸びない。

ふと、10年前の今時分に映画館で観たイタリア映画を思い出した。『人生、ここにあり!(原題:SI PUO FARE!)』2008年制作の作品でイタリアでの公開が2009年、日本での劇場公開は2011年7月だ。原題の意味は「やればできるさ!」だそうだ。『死の棘』同様、実話に基づく作品である。イタリアでは1978年に精神病院の閉鎖病棟が廃止され、それまで入院していた患者を一般社会に戻した。戻れる人もいるだろうが、そうでない人もいる。戻れない人は協同組合という形で設立された組織に所属して、それぞれの能力に応じた形で労働に従事するのだという。その協同組合の一つがこの作品の舞台だ。

精神病院廃止という考え方の基本は、どの人間にも正気と狂気はあるのだから、社会は狂気も受け容れなければならない、ということだ。治療技術としては、患者が社会参加を通して心を解放していくというもの。たいへんな論争の末に精神病院廃止の法律が成立し、今日に至っている。イタリアにも、精神病は治ることはないのだから投薬で症状を安定させるのが最善という考えはある。現実は暗中模索だが、今のところ協同組合方式は定着しているそうだ。

今、手元にこの映画のプログラムがある。その中にイタリア語通訳の田丸公美子の文章がある。本作の本質を手短にまとめている。(本作プログラム 6-7頁)

イタリア人は当たり前のように言う。「イタリアで天才が生まれるのは、みんなどこかいかれているからさ。まあ、言ってみれば、国が巨大が精神病院みたいなものなんだ。隔離する必要はない」。他の人と違う個性を尊重する国民らしい感想だ。新体制推進のスローガンは、「よく見れば、みんなどこかアブノーマル」(Da vicino nessuno e normale)。「普通」という概念そのものに疑問を投げかける深い言葉だ。

映画は、次のような言葉がスクリーンに出て終わった。
"Oggi in Italia esistono oltre 2.500 cooperative sociali che danno lavoro a quasi 30.000 soci diversamente abili. (今、イタリアには2500以上の協同組合があり、ほぼ3万人に及ぶ異なる能力を持つ組合員に働く場を提供しています)"

"Malati mentali disabili (能力がない精神障害者)"の代わりに"soci diversamente abili (異なる能力を持つ組合員)"を見たとき、私は感動でしばし席を立てなかった。

こちらも「病」の話なのだが、観た後に自分の精神が強くなったような気がするのである。


読書月記 2021年5月

2021年05月31日 | Weblog

『東京の編集者 山高登さんに話を聞く』 夏葉社

今となってはどのような経緯で知ったのかわからないのだが、去年『古くてあたらしい仕事』という本を読んだ。島田潤一郎という一人で出版社を経営している人が書いたものだが、これが大変面白かった。それで彼の経営する夏葉社が出版した本を何冊か買って読んだ。本の内容もさることながら、紙や装丁も含めた全体としての本の佇まいが良いものばかりだ。

一番気に入ったのは関口良雄の『昔日の客』だった。古書店を営む関口が仕事のことや作家のことを随筆にした作品だ。どれも自分との接点のない話だが、どれも面白かった。関口は1977年8月に結腸癌で亡くなった。享年59歳。今の自分と同年代だ。本書の「復刊に際して」に御子息の関口直人がこんなことを書いている。

亡くなる十日ぐらい前でした。真夜中に仕事から帰ると、父は眠れずに目を開けていました。足の裏を揉んであげると、気持ちよさそうな表情を浮かべながら静かに話してくれたのです。「どんなものでもいいから、お前は詩を書け。詩を書くことによって、お前の人生は豊かになる」、窓のカーテンが時折り緩やかに揺れ、月の光が差し込んでいました。(223頁)

自分が短歌とか俳句を詠みたいと漠然と思い、万葉集講座だの通信教育だのを受けていたのが2018年から2019年にかけてのこと。2019年からは「角川短歌」に投稿を始めてはみたものの、熱量としては一旦はそういうものから遠ざかりかけていた昨年にこの一節を目にして、残り少ない人生を多少なりともマシにしようという悪あがきのようなつもりで細々と短歌や俳句を詠み続け今に至っている。尤も、「詠む」というほど詠んではいないのだが。

マクラが長くなったが、山高登は『昔日の客』の復刊版に口絵と裏表紙の版画を提供している。木版画家になる前は新潮社に編集者として勤務していた。本書は夏葉社の島田が山高の話を聞き、まとめたものである。関口のことは本書にも出てくるが、山高は仕事で室生犀星の自宅に通っていた時に、室生宅の近所にあった関口の店に客として訪れたのが出会いの始まりだったそうだ。上林暁が脳溢血で倒れて阿佐ヶ谷の河北病院に運ばれた時、山高も関口も知らせを受けて病院に駆けつけ、そこで改めて互いの自己紹介をして、上林への想いについて4時間ほど語り合ったことで一気に距離が近づいたらしい。『昔日の客』の初版のほうの出版に際しては山高が編集を担当した。

自分に友達がいないから思うのかもしれないが、山高も関口も彼らの書いたものに登場する人たちも随分熱心に語り合うものなのだなぁと感心する。語ることもそうだが、時間が経つのを忘れて何かをしたという経験も私には無い。この先、そんな相手ができたり、そんなことに巡り合ったりするものだろうかと今は思うのだが、何事も終わってみるまではわからない。

 

三品輝起 『すべての雑貨』 夏葉社

これまでに読んだ夏葉社の本とは少しテイストが違う気がする。本書の著書は10年くらいして読み返したらかなり恥ずかしいと思うのではないだろうか。それでも、父親の話とレゴの話は面白かった。夏葉社の出版物でこれまでに読んだのは先日ここに書いた『東京の編集者』を含めて以下の6冊で本書が7冊目になる。出版する側と読む側は別の人間なので、出版するすべての本が双方にとって「何度も、読み返される本」というわけにはいかないだろうが、夏葉社の本を手にすると、本という存在の佇まいが大事にされているとの印象は強く感じられる。空疎なデータばかりが跋扈する時代だからこそ、同社の出版物を通じて、本を読むという行為が活字情報を拾うだけの浅薄なものではなく、書かれている内容と本というモノの存在感との全体像を味わうという贅沢なことなのだということが認識できる貴重な体験ができる。

『東京の編集者 山高登さんに話を聞く』
関口良雄『昔日の客』
吉田篤弘『神様のいる街』
永井宏『サンライト』
『庄野潤三の本 山の上の家』
山本善行・清水裕也『漱石全集を買った日』

しかし、本に書かれていることに装丁同様の質感が期待できるか、というのは別の問題だ。本書を通読してふたつのことに感心した。うだうだと文章を連ねることができるものだという著者に対する感心と、それを読み通した自分に対するものである。雑貨ということについては、以下の一節が全てを語っているように思う。

こういうインターネットに元来そなわっていた、人々が趣味趣向でつながり、擬似的に自己承認しあうシステムは、時代が変わってSNSなどにひきつがれたいまも、その本質をほとんど変えていない。大学時代をつうじて、仮想の世界で生まれたしくみは徐々に現実にもちこまれ、若者たちの生き方のルールをほんのすこしずつ書きかえていった。つまり、インターネットの支援をうけた現実世界は、せまい需要のサークルのなかで物をつくりだして、たがいに評価しあうゲームを、あらゆる分野で可能にしたのだ。私をふくめ、みなが表現者として立ちあがっていった。いわんや、それは自己表現としての雑貨のつくり手を大量に生み、その後の雑貨の爆発的な広がりを準備することになった。(91頁)

書き換えられたのは「若者たち」の生き方のルールだけではなく、現実世界丸ごとではないか。20年ほど前にベストセラーとなった赤瀬川原平の『老人力』にも似たような記述がある。

最近のパソコンとかインターネットとか、ああいう社会的な道具は非常にコセコセしていますね。作業の順番ばかり気にして、間違いのないようにとか、そういう神経ばかり使っている。あれは社会の道具だから仕方ないけど、人間の方は、ああはなりたくないですね。でも道具というのは人間に伝染るんです。(ちくま文庫 47頁)

論理的思考の落し穴ということを書いていたのだ。いまの世の中は脳社会とかいわれて、どんどん論理に覆われてきている。人々のそれぞれの感覚的思考が萎縮してしまって、安いから、得だから、便利だからというような論理だけでものごとが進み、好きとか嫌いは取るに足らぬものとして、どんどんゴミ箱に放り込まれている。たとえば法律というのは論理の最たるもので、それがまず人のおこないの第一に優先される。もちろん生活の上で法律とか論理的思考は必要で、論理あっての人間ということで人類はここまでやってきたのだけれど、好き嫌いがそれに押し潰されてしまったら、何のための人生なのかということになる。(文庫 86頁)

自分の脳が十分に発達していないから思うのかもしれないが、日々の仕事や世相を通じた印象として細かい間違いを気にする人が多くなったと感じる。しかも、存在そのものが間違いではないかという奴ほど、細かいことを論う。赤瀬川の方の「法律」はまさに昨今の「コンプライアンス」についてのものと読める。

ついでに近頃不思議に思うのは「コスパ」という概念。投入した労力やコストに対する見返りが多ければ多いほど良い、というしみったれた了見。分母を投入量、分子をその見返りとするなら、分母を限りなく少なくしてゼロにしたらコスパとやらは無限大になるのではないか。つまり、死んじまえ、ということ。

一旦は死んだものに改めて価値を与えたものが雑貨というものか。とすると、『すべての雑貨』の帯にある「雑貨化する社会」という言葉が妙にいきいきと見えてくる。他人様の書いた本を無駄に長いのなんのと、自分がうだうだと書いているのは矛盾の最たるものだ。そうか、私自身も雑貨なのだ。

 

高浜虚子 『俳句はかく解しかく味う』 岩波文庫

俳句とは何か、というところがはっきりしている。本書は次の文で締められている。

「芭蕉の文学」である俳句の解釈はこれを以て終りとする。—了—(185頁)

俳句は「芭蕉の文学」らしい。では、「芭蕉の文学」とは何なのだろう、ということになる。しかし、そういうことは本職の人に任せて、自分の好きに詠んだらいいんじゃないの、と思う。

本書で取り上げられているのは197句(「正」を書きがら数えたが、正確かどうかわからない)。句の解釈は、「はぁ、そうですか」と思いながら読むよりほかにどうしようもないのだが、句の大きさというか、奥行きというか、そういう広がりが大事らしい、ということはわかる。数年前に受講した万葉集講座でも講師の岡野弘彦先生は「歌の大きさ」ということを重要なこととして語られていた。岡野先生は昭和、平成、令和の各天皇の歌の御指南役を務められ、講義の中では雅子皇后陛下のお歌を取り上げて、「大きい」と賞賛されていたことが印象に残っている。その時、先生はスラスラと皇后陛下の歌を紹介されたのだが、書き写すことができなかった。確か、琵琶湖の風景を詠まれたものだったと記憶している。

俳句も短歌同様に「大きい」ことが大事だそうだ。まず初っ端の句。

な折りそと折りてくれけり園の梅

太祇の句である。知らない人の庭に梅の花が咲いているのを見て、その枝を一本折ろうとしたら、家の人に見つかって怒られたけれど、結局、その家の人が折ってくれた、というのである。勝手に梅の花を盗ろうとした人と、その梅の木の持ち主が、梅花を愛でたいという互いの気持ちを了解しあって大円団となった、という。これを「大きい」と思うかどうかは、思う側の問題なのだが、梅の枝一本という物理的にはさほど大きくはないものを通じて、梅を愛でる心という不定形のものが通い合うことを描くというのは、なるほど「大きい」のかもしれない。

地理的な広がりも「大きさ」だ。蕪村の句。

みよし野やもろこしかけて冬木立

吉野山は唐土に通じている、と言われていたのだそうだ。文物の流れで言えば、奈良はシルクロードの終点とも言われる。その吉野から中国まで冬木立が続いている、という句。

また、人口に膾炙した漢詩を俳句に詠むことで、時空を超える大きさが表現されることもある。同じ蕪村の句で『唐詩選』にある「易水送別」を詠み込んだものが紹介されている。

易水にねぶか流るる寒さかな

この句についての虚子の解説に、なるほど、と思う。

川上には根深を洗う百姓などが沢山いて、その洗った根深の葉片が薄濁りのした水の中に青い色を見せて流れているのであろうというのである。蕪村の想像からいえば「あろう」であるのだが、それを実際その景色を見たように「ある」としておるところがこの句に力を与えておるのである。想像も断定もその人の心の内の現象として見れば畢竟同じ事である。(14頁)

よく「客観的」だの「事実」だのと言うのだが、人の体験や経験を通過したものに客観もクソもない。要はどのような文脈の中で取り上げるか、ということだろう。よく市場調査などと称してアンケートなどを取ったりするのだが、そういうものの結果で何かをすると大抵トンデモないことになる。データだの統計だのと闇雲に奉る風潮も感じるが、そのデータがどのように採集されたのかというところまで気にする人はあまりいないようだ。とりあえず「総務省の」、とか、「日銀の」、などといった出所のものは、少なくとも「隣のジジィの」集めたデータよりも信用される。実態よりも権威が物を言うのが世間というものだと思う。事実と意見を区別しないといけない、などと言うが、都合の良い「事実」を並べることで「意見」を表明することなど簡単なことだろう。

また、他に句で大事なことは調子だと言う。

この調子というものは大事なもので、言葉つきで人間の品格が隠されぬのと同じことで、句の調子で自然にその品位は極まるのである。(69頁)

たまたま今読んでいるルソーの『エミール』にも似たようなことが書いてある。

抑揚は話の生命である。それは話に感情と真実味をあたえる。抑揚はことばよりもいつわることが少ない。だからこそ上品に育てられた人々は抑揚をひじょうに恐れているのだろう。(岩波文庫 上巻 118頁)

調子も抑揚も発話にまつわるものである。言葉というのは話してこそ通じる、ということだろう。歌も句も、普段の会話も、声に出して初めてその内容が相手に伝わるというのである。それはそうだろうと思うのだが、今、誰かと直接会話をすることに制限がかかっている。通信を介してのテキストや動画、音声などで直接会うことの代替ができる、ということになっている。本当に代替できているのだろうか。

 

『道の手帖 佐野眞一責任編集 宮本常一 旅する民俗学者』 河出書房新社

2005年初版発行だ。宮本が亡くなって24年が経過している。今はそこからさらに16年。いよいよ世の中は崩壊に向かっているとの思いを強くした。特に何か考えとか事情があって自分のプロフィール欄に「寿命あと10年」と書いたわけではないのだが、本当にそれくらいで終わるかもしれない。

宮本は伝承の収集をその世界観構築の原動力とした。書いたものというのは、当然のことながら、整理されたものだ。殊に時代を遡るほど、記録媒体である紙も筆記具も貴重なものとなる。そういう物を費やして記録に残すとすれば、そうした費用を負担できる者にとって都合の悪いことは残らない。歴史が創作とされるのは史料のそういう財としての側面を反映している。勿論、そうした記録は今を識る上で重要ではあるが、それだけでは人間のナマの世界は窺い知れない。だから、書かれたものの行間を読む学問として文学が成り立つのであり、民族学や民俗学が必要なのである。ナマの人間がわからずに政治も経済もクソもない。

歴史や文学から抜け落ちているのは人口として圧倒的多数を占める常民の暮らしだ。フツーの人々が何を考え、何を思い、どのように行動したのか。そういうものは史料には残らないが民話や伝承、そうしたものに基づいた習俗を通じて連綿と今につながる。「遠野物語」も「今昔物語」も「平家物語」も、今は書物となって流通しているが、元は口承だ。語られたものと文字に起こされたものが同じはずはない。語りにあって活字にないものは何なのか。あるいは、活字にあって語りにはなかったものもあるだろう。その隙間を埋めるのが人の生活そのものではないか。

ところが、その常民の暮らしを見出さなければならないはずの学問の方が伝承に迫ることができずにいる。本書に収められている宮本と谷川健一の対談「現代民俗学の課題」の中で宮本は次のように述べている。

また聞きの話というのは、うすっぺらな話になりますね。最近、われわれの回りのフォークロアの資料の中には、今はなくなっているものを聞き出した本当の体験というものは少ないでしょう。かつてあったというのを、親やじいさんから聞いてとかね。また聞きのまた聞きなわけです。(中略)伝承といっても、耳から聞くだけが伝承ではないでしょう。行為や技術も伝承でしょう。むしろその方が本物の伝承と言えますね。(155頁)

フィールドワークとはどんなものかということはたしかに分かるけれど、それではフィールドワークによって何が分かるかというのは別問題なのですね。独自の発見がなくて、人のやったあとをなぞっている感じですね。現在フィールドワークというのは、発見の学問にはなっていないのではないかと思いますね。(156頁)
現在の民俗学は、宙に浮いて、いくらいろんなものを集めてみても復元にはならない。復元できなきゃ学問にはならない。(160頁)

また、伝承を収集することの困難について、宮本は水上勉との対談「日本の原点」の中でこんなふうに語っている。

非常に問題になると思うことは、やっぱりいろりのなくなったことね。これは日本人の性格を変えてしまうんじゃないかと思う。(中略)戦前いなかを歩いていると、ほとんどランプだったのですが、いろりのある家じゃランプも使わない、いろりの火だけなんです。話を聞いていましょう。ノートを持っていって鉛筆で書く。三日もやっているうちに目やにがひどく出ちゃって、どうしようもないようになる。そういうときに、話をしてくれる年寄りも、聞いているこっちも、何の境もなくなるんですわ。(中略)ところがこのごろ話を聞きに行くと、がっかりする。「テレビを見にゃならん。テレビがすんでからにしてくれ」それは同じように、自分らの命を燃え続けさせるものが消え始めているんじゃないかという感じがするのです。(171-172頁)

すべてが荒れてき始めていますわね。人間は手をかけるから愛情を持つので、手をかけなきゃ愛情を持ちませんわね。(173頁)

グローバル化だとかなんだとか言って、物事をデジタルで測るようになる。数字というのはわかりやすいから、それがもともと何を意味していたかということとは関係なく、独り歩きをする。また、わかりやすいからそれを安易に追い求める。結果として、数字の多寡だけにこだわるようになる。どれだけ稼いだか、どれほど儲けたか、ということがその人や組織そのものの価値であるかのようになる。そうなると猫も杓子も数字を追う。どんな手段を使ってでも追う。勢い、効率が追求される。いかに手をかけずに大きな数字を得るか、ということが大事になる。そんな世の中で面倒なことは忌避されるのが当然だ。愛情、何それ? そのうち家族も死語になるか。人は個として存在するのが当たり前になりつつある。個人ではなく、ただの個。もはや人ではないのである。

 

新潟県立歴史博物館監修 『見るだけで楽しめる! まじないの文化史 日本の呪術を読み解く』 河出書房新社

先日読んだ『季刊民族学』176号に金沢大学客員研究員である鳥谷武史氏の「日本の生活に息づく宗教 モノとまじないのかたち」という記事が掲載されていた。最近、たまたま立ち寄った書店で標記の本が目についた。これは2016年4月23日から同年6月5日にかけて新潟県立歴史博物館で開催された「おふだにねがいを 呪符」という展覧会の図録を書籍化したものだ。図録が好評で完売したので、書籍化して販売したということらしい。本書の発行は昨年5月30日、例の感染症の世界的流行で世の中全体にあたふたしていた真っ只中だ。

「まじない」と「のろい」が同じ漢字「呪」であることを知らなかった。しかし、すぐに了解できた。昔、確か20数年前、仕事で3ヶ月に一回くらいの頻度で目黒にある会社にお邪魔していた。その会社はアルコタワーに入居していたので、目黒駅から行人坂を通っていく。坂の途中に寺があり、坂に面したところに小さなお堂があって、絵馬や護摩木を奉納できるようになっていた。無地の絵馬と護摩木があって、自分で料金箱に所定の金額を納めて奉納する仕組みだ。ある日、約束の時間まで余裕があったので、時間つぶしに、奉納された絵馬や護摩木を眺めていた。参拝客の多い大きな神社仏閣と違って、そこはあまり願い事の為に参詣するような寺ではない。それほど多くはない絵馬や護摩木があったのだが、その中に「◯◯◯◯と結婚できますように」とマジックで書かれた絵馬と護摩木が大量にあった。「◯◯◯◯」は男性の名前で、願い事の主は女性の名前だ。その絵馬と護摩木を数えはしなかったのだが、かなりの数だった。これなどは「まじない」のようでもあり「のろい」のようでもある。ふたりがどのような関係だったのか知る由もないのだが、願う側からすれば「まじない」であることが、願われる側にとっては「のろい」であったりすることもある。同じことの両面なのだから、同じ漢字を当てることに何の不思議もない。ところで、◯◯◯◯氏は無事でおられるだろうか。

そんな話はさておき、妙な感染症で世間があたふたしていることもあってか厄病退治のまじないのことが目につく気がする。『民族学』の記事もそういうもののひとつだ。鳥谷氏は記事の中でこのように書いている。

世界はいままさにウイルスの猛威にさらされているが、まじないは昔から防疫手段としてもちいられてきた。たとえば、民家の軒先に「蘇民将来子孫」と書かれた呪符が下げられていることがある。これは、かつて疫病神である牛頭天王を家に迎え入れ、もてなした蘇民将来という人物の子孫と自称することで疫病の災禍から逃れるためのまじないとされる。このような、軒先に配置して災厄を避ける護符にはさまざまなものがあり、門守と総称される。(『季刊民族学 No.176』84頁)

このnoteの見出し画像の写真は2017年8月に広島県福山市鞆の浦で撮影したものだ。立派な蘇民将来の護符、柊の小枝を刺した鰯の頭、茅の輪、文字が判読できないが梵字の記されたお札が玄関の軒先に掲げてある。彼の地にはこういう家がかなりあった。鞆の浦にある沼名前神社は明治時代に渡守神社と鞆祇園宮を合祀して改称したものである。祇園宮のほうは創建不詳で、つまりそれくらい古い。地元では祇園宮の呼び名である「祇園さん」が合祀後の沼名前神社にも引き継がれている。「祇園」といえば京都の祇園祭が有名だが、京都の八坂神社はここから分祀されたものだという話もある。但し、その京都の八坂神社の創祀には鞆の浦の祇園宮のことは書かれていない。

祇園祭もそうだが、夏は疫病祓の行事が各地で行われる。祇園祭の前身とされる御霊会は平安時代初期、貞観年間に疫病が流行したことに際して疫病神や死者の霊を鎮める為に行われたものである。祇園祭のとき、家々の軒先には厄除粽が吊るされる。そこにも「蘇民将来之子孫也」と書かれたお札が付いている。蘇民将来の子孫、と名乗ると病気にならないらしいのである。蘇民将来については標記の本から引用する。

蘇民将来に関する最も古い記述は、卜部兼方著の『釈日本紀』に引用された備後国風土記逸文である。その内容というのは、ある時、蘇民将来という名の兄弟のもとに旅の途中で一夜の宿を求めた神(武塔の神)に対し、裕福であるにもかかわらず泊めなかった弟の将来は家族もろとも滅ぼされ、貧しいながらも宿を提供した兄の蘇民将来は助けられ、弟のもとに嫁いでいた娘も、神の言う通り茅の輪を腰につけていたことによって難を逃れた。そしてこの神は自らを速須佐雄の神と名乗り、後の世に疫病があれば、蘇民将来の子孫といって茅の輪を腰に付ければこれを免れると言ったという伝説である。(60-61頁)

蘇民将来はフツーの人だが、そこに関わる神様がいるらしい。「速須佐雄」はスサノヲ、あるいは素戔嗚に通じることは直感的にわかる。スサノヲとなると日本の神話の基本に関わることで、多種多様な分野の多種多様な人々が多種多様な論説を展開している。全く自分の興味の外のことだったのだが、たまたま2015年にDIC川村美術館で開催された「スサノヲの到来」という展覧会を見て、カオスのようなスサノヲ話を目の当たりにして驚いてしまった。この展覧会の図録も図録というより論説集で、そこに寄せられた文章の量と熱さに圧倒された。スサノヲのことはまた別の機会に書くかもしれない。

昨年来の感染症騒動で既に緊急事態宣言が3回も発出されているが、「緊急」というのは滅多にないことを指す言葉であって、年に何度もあることを「緊急」とは言わない。勿論、発出する側はその都度「これっきり」と思って発出するのだろうが、その「緊急」に際し市井の人々が行わなければならないことが結局のところ「外に出ない」ということしか伝わってこない。感染症で、病原のウイルスが特定され、それに対するワクチンが製造され、その接種をする、ということは明瞭だ。しかし現実の生活の場面では、発生から一年以上経過して、「家にいなさい」と言われるだけで他に何の手立ても打たれていない。これで科学だの医学だのと、それがあたかも世の中の問題解決の切り札であるような物言いをされると、なんだか苦笑が漏れてしまう。感染症対策で各地の祇園祭や各種夏祓が中止されているが、肝心の人間はそうしたまじないに望みを託していた頃とあまり変わっていないようだ。


読書月記 2021年4月

2021年04月30日 | Weblog

C.N.パーキンソン著 森永晴彦訳 『パーキンソンの法則』 至誠堂選書

「パーキンソンの法則」は結構有名だと思っていたら、そうでもないらしい。何年か前に職場の同僚と雑談している時にパーキンソンの法則にあることを会話の中に混ぜて話したら「あ、それ鋭いですね」と感心されてしまった。誤解されるといけないので、引用であることを説明したのだが、全く聞いたことがないという様子だった。

ごちゃごちゃ説明するよりも、いくつか抜書きを並べた方が面白いのではないかと思う。

仕事(とくに事務のそれ)の時間に対する需要が、弾力的であることからして、事実上為されなければならない仕事の量とそれに割り合てらるべき人員数とのあいだにはほとんど関係がないといえるようである。(11頁)

パーキンソンの法則は英国の役所を対象にした考察なのだが、組織一般に敷衍できる内容だ。改めて組織における「仕事」とは何かということを考えてしまう。近頃ではすっかりリモートワークというものが定着した感があるが、リモートでできる仕事というのは結局のところその人でなくてもよいものなのではないか。もっと言えば、そもそもなくてもよいことなのではないか。

(1) 役人は部下を増やすことを望む。しかしながら、ライヴァルは望まない。(2) 役人は互いのために仕事をつくり合う。(12頁)

これは今風ではない気がする。なんだか知らないが、世の中は総じてしみったれた方向に流れているので、組織においてもいかに少ない人数で仕事を回すかというようになっている気がする。尤も、役所のことは知らないが。

このパーキンソンの法則は今日の政治学においては、たんに純粋に理論的なものでしかないことを特に強調しておきたい。雑草を取り除くのは植物学者の仕事ではない。ただいかに早く繁るかを指摘すれば、それでよいのだ。(25頁)

この意味では、世間には「学者」が多すぎる気がする。手足を動かす人が蔑ろにされていないだろうか。自分が手足なので、なおさらそう思うのかもしれないが。

投票行為が事態の本質に影響するところはごく僅かで、最終決定は、われわれにはほとんど関係のないさまざまな要因によってきまってしまうものであるが、ただ、注意しなければならないのは、最終的に議論に結着をつけるのが、中間派の投票によるものだということである。もちろん、英国下院では、このような派がのさばる余地はないが、他の会議では中間派は非常に重要なものとなるのである。それは以下のごとき人々によって構成される。
 a あらかじめ作成され、出席を予定した人々に前もって配布されていた覚え書きをどれひとつ理解できない人々。
 b あまりに頭がわるくて議事の進行について行けない人々。こういう連中は互いに、いったい何のことをしゃべってるんだろうと囁きかわすから、すぐわかる。
 c 耳の遠い人々。耳のうしろへ手をやって、「もっと大きな声で話してくれないかねえ」と文句をいっている。
 d 二日酔で痛む頭をかかえながら起きてきて、「どっちみち大したことじゃないさ」と思っている人々。
 e 健康を自慢にし、事実若い連中よりも丈夫な年長者たち。「ここへは歩いてきたんですよ。八十二歳にしちゃ、ちょっとしたものでしょう」などという。
 f 両派を支持する約束をし、どうしていいか判らなくなっている意志薄弱者たち。棄権したものか、仮病を使ったものか迷っている。
(31-32頁)

かくして、中間派の票を確保すれば、動議はらくらくと可決され、また確保できなければ、よいとわかっていても否決される。民衆の意志によって可決さるべきほとんどすべての問題も、じつは中間派の人々によって決定されるのであり、したがって演説などはまさに時間の空費にすぎない。(40頁)

これは英国でのことを言っているのだが、組織での意思決定一般に敷衍できる。何を何に例えるか、それぞれの立場でどうにでも読み換えることができる。そして納得できる、と思う。

新しく創設される機関が、はじめから理事、部長、顧問、室長、ならびにおあつらえの新建造物をもってスタートする例は枚挙にいとまない。だが、経験によれば、そのような機関はやがて死んでしまう。それらは、自分自身の完全さのために窒息してしまうか、土のないために根がつかないか、すでに育てられてしまっているので、もはや自分では生きられないかである。花も咲かず、むろん実はならない。こうした例にぶつかったとき、たとえばいま国連のために設計された壮大なビルディングのような例をみるとき、われわれ民間の専門家たちは、悲しげに、首をかしげ、死骸に一枚の布をかけ、しのびあしでおもてに立ち去るのである。(107頁)

たぶん、物事は流動しているという現実に目を背け、ある瞬間の状況が未来永劫変わらないということにして意思決定が行われている。「アキレスは亀を追い抜けない」はずはないのに、なぜかそういう前提で作られたとした思えない組織、規則、関係などがある。

組織の秩序内に、高濃度の無能力(Incompetence)と嫉妬心(Jealousy)とを合わせもった人物があらわれるのがこの疾病の最初の赤信号である。無能力にしろ嫉妬心にしろ、それ自体がとくに問題だというわけではない。ふたつとも誰しもが多かれ少なかれもち合わせているものである。ところがこの二つの要素がある濃度をこすと、すなわち数式I3J5で表される量をこすと、一定の反応が起こる。その結果ふたつの要素は融合してわれわれがインジェリタンス(劣嫉素)と呼ぶ新たな物質を生じる。この物質ができたことは、自分の部署で成功しなかったものが、他人の仕事に干渉し、さらに中央の行政にタッチしようとする行為によって容易に判明する。挫折感と野心とのかかる混合があらわれるとき、専門家は「初期的あるいは特発的な劣嫉性」の疑いを持つにいたる。この症状による判断は、後に示すごとく、ほとんど間違うことがない。
 疾患の第二期は病変した人物が、中央組織を部分的ないし完全に把握したときに到来するが、また第一期症状を経ずしてこの状態があらわれる場合もかなり多い。というのはすでに病変した人物が最初からその高い地位に任ぜられて、組織の中に入りこむことがあるからである。インジェリタントな人物は、すべて自分より有能なものを追放したり、あるいはやがて彼よりも有能なものを追放したり、あるいはやがて彼よりも有能になりそうな者の昇進や任命に対してあらゆる抵抗を試みたりするため、容易に見わけられる。(中略)その結果、中央機関が、長官、支配人、あるいは議長よりも頭のわるい人間で満たされてしまう。トップが第二級の人ならば、彼は第三級の人物を直接の配下とするよう努め、また、配下どもはその部下に第四級の人物をもってこようとつとめる。最後にはほんとの馬鹿になるための競争がおこって、人々は実際よりもさらに馬鹿にみえる振舞いをするようになる。(121-123頁)

もうすぐ還暦だというのに勤めが忙しい。先月は規定の残業時間を超過して人事から注意喚起のメールが飛んできた。「忙しい」というのは「商売繁盛」というのとは違う。確かに、昨年は世界的な感染症騒動のなかで、勤務先は予想外に業績が好調で期中に臨時の配当を実施するほどだった。しかし、個人的には裏方仕事であるのと所属部署の直接的な業績貢献が皆無と看做されていることから、給与や賞与にそういう状況が反映されることはない。そもそも固定年俸なので賞与は無い。また、忙しいのは、単に仕事の形式面に由来するものと、コスト削減に伴う貧弱な社内インフラに伴う不具合の多発によるものであって、商売の業況とは直接関係していない。業績が不振の時は、我々裏方は真っ先に整理の対象になる。不条理なようだが、企業は利益獲得を目的とする社会集団なので当然のことである。それでこれまで渡職人のように、組織に対しては何の感情もなく仕事だけを淡々とするだけの暮らしで今に至っている。

所謂「定年退職」というものはなく、そういう年齢になると「おわかりでしょうけれど…」という感じでポジションが消える。今年か来年にそういう事になると思っているので、流れに任せておこうとは思っている。しかし、できることならそれを待たずにボチボチ辞めたい。馬鹿馬鹿しいことが多過ぎてしんどい。だが、辞めると収入がなくなる。切羽詰まれば何とかなるものかもしれないが、進んで切羽詰まりたいとも思わない。結果として切羽詰まるなら仕方がないのだが。

 

辻山良雄 『本屋、はじめました 増補版』 ちくま文庫

この本はこのnoteで見つけた。書店を経営しようという人が書いている記事の中にこの本と、この本の著者が営んでいる書店のことが書かれている。著者の辻山氏はリブロ池袋本店で働いていたそうだ。以前書いたように毎週土曜は陶芸教室に通っている。その教室が池袋にあるので、陶芸の前後にリブロ池袋店には必ず立ち寄っていた。今も同じ場所にある三省堂を同じように利用している。だから、リブロで働いていた人が書いたというだけで親近感が湧いた。

書店Titleのサイトを見たら、辻山氏がnoteに寄稿していることも告知されていた。また、Titleの建物は元は肉屋だったそうだが、私の実家も私が生まれた時は肉屋を営んでいた。そんなわけで、この本は読まないわけにはいかないし、Titleという書店にも出かけてみないわけにはいかない、と思った。

それで今日、仕事帰りに立ち寄った。駅を出て青梅街道を西へ進むと、環状八号線との交差点のあたりまでは特にどうということはない。そこを過ぎると、特に進行方向右側に古くからあると思しき商店や、かつてそういう商店だったのを改装した商店が並ぶようになる。その流れのなかにこの書店がある。いい場所だ。

建物は古いらしいが、通りを歩く目線では小綺麗な店先しか視界に入らない。この店は勿論のこと、荻窪というところにも滅多に足を運ばないのに、既視感を覚える。店の感じが、昔どこの街にもあった本屋のそれに近い所為もあるだろうし、棚の並びの要所要所に自分の書棚にある本が置かれている所為もあるかもしれない。例えば、『利己的な遺伝子』、『伊丹十三選集』、『アースダイバー』、『子どもたちのいない世界』、『謎のアジア納豆』、古川日出男訳の『平家物語』、平凡社 STANDARD BOOKSの『宮本常一』、などなど。金曜の午後4時半頃から5時にかけての30分ほどの滞在だったが、その間に奥のカフェから数名の客が出て行き、書店の方には数名の客が入ってきた。2016年1月に開業とのことなので、勝手な想像だがようやく土地に馴染んだ頃なのではないだろうか。そこに暮らす人が行き交う場所にちゃんとした書店があるというのはその土地の格のようなものを物語っていると思う。たぶん、荻窪はそういう街なのだろう。

荻窪は自分の普段の動線からは外れているが、これからは、たまに足を運んで辻山コレクションの中から読む本を選んでみようかと思う。今日はレイ・オルデンバーグ著、忠平美幸訳『サードプレイス』みすず書房と雑誌『ユリイカ』の2021年4月号を購入した。今週月曜日に上野の国立博物館で鳥獣戯画展の内覧会を見てきたばかりで、ユリイカの特集「鳥獣戯画の世界」に惹かれた。

 

揖斐高 編訳 『江戸漢詩選(上)(下)』 岩波文庫

本書に収載されているのは上下合わせて150人320首。詩、それも漢詩を詠むということがどういうことなのか、考えずにはいられない。読み書きができる層は人口全体の多数派ではなかっただろうが、本書に取り上げられている詩人の出身を見ると、身分を超えて漢詩人口が広がっていたこと、社会構造がかなり流動性を持っていたことを窺わせる。一方で、漢詩は同じく中国発祥の儒教と関連していて、儒教は政治倫理と関係している。つまり、漢詩は政治と繋がっている。

その昔、為政者は歌を詠むことが仕事の一つだった。天皇も公家も武家も詩や歌を詠んだ。今も読み継がれている勅撰集は国家事業として編纂されたものだ。勅撰集には数えないが『万葉集』は勅撰集以上の国家事業だったろう。おそらく歌を詠むことで共同体としての在り様を明らかにしたのだと思う。万葉仮名は漢字だが『万葉集』を和歌に含めれば、和歌に詠まれる歌には相聞歌が多い。昔の和歌に詠まれた愛や恋は、おそらく特定の男女の間だけで完結するものではなく、そこに何かしら人としての在り方とか政治的な意味とかを含んだ広がりや奥行きがあったのだろう。だからこそ権力の側にある者が熱心に愛を詠んだのだと、思わないわけにはいかない。御製歌も然り。ところが明治になると御製から相聞歌が消える。これは何を意味しているのだろうか。

和歌集に比べると漢詩の勅撰集は少ない。しかし、本書でもわかるように文芸のジャンルが広がった江戸時代においても漢詩は広く詠まれていた。ただ疑問に思うのは、日本の漢詩はどのように詠まれていたのかということだ。本家本元の漢詩は中国の言葉で読まれ、その音としての美しさも追求されていたはずだ。勅撰漢詩集が編まれた8世紀や9世紀はどうだったのか。何をして「名歌」「名詩」と評されたのか。漢詩と和歌の役割分担のようなものがあったのかどうか。漢字は表意文字ではあるが、音を抜きに詩は成り立たない。中国や朝鮮半島の人々とは筆談を行なっていたという話もあるが、根底の言語が異なれば、通じないことが多いはずだ。つまり漢詩は日本語だ。明治のあたりまでは口語と文語が別だったということは知識としては知っているが、なぜ別だったのか。漢詩でもなければ和歌でもない和製漢詩の存在意義は何なのか。

150人のうち、上巻には77人の詩が取り上げられている。本書での詩人の紹介を追うと77人のうち46人が師弟あるいは親子の関係だ。師弟や親子ではなくても交友関係があったものを含めれば、実質的にはほぼ全員同門と言えなくもない。しかも、この中の林羅山は徳川家康から家光にかけて将軍三代に仕えた徳川幕府草創期のブレーンである。羅山は家光から上野忍岡に土地を与えられ、そこに私塾として学問所と孔子廟を建てた。これが後に昌平坂に移されて、幕府直轄の教育機関である昌平坂学問所に繋がっていく。やはり上巻に紹介されている尾藤二洲、柴野栗山、頼春水と下巻に紹介されている古賀精里は寛政の改革の中で朱子学の幕府正学化を図り寛政異学の禁を主導、この林家の私塾を官学化して昌平坂学問所とし、柴野が最高責任者を務めた。一方で、下巻に登場する亀田鵬斎はこの寛政異学の禁によって儒者としての地位を失う。時の政治とその倫理観の根幹となる儒学と漢詩が密接に関連していることが容易に想像できる。

下巻になると、さすがに世の中が騒がしくなり、朱子学一色というわけにはいかなくなる。それでも、志ある者が己の考えを世に問おうとする時に主流となっている門閥に接触を図るのは自然な発想であり、また世間に定着している思想や倫理をいきなり超えてしまっては世に受け容れられるはずもなく、江戸時代を通じて儒学あるいはその何事かを象徴する漢詩は日本の人倫を語り続けるのである。

現代において漢詩を詠む人がどれほどいるのだろう。私が高校生の頃は漢文の授業があったが、今でもあるのだろうか。今の時代に漢詩や漢文を学ぶ意味はどこにあるのだろう。漢詩が時代の倫理観と結びついていたとすれば、漢詩や漢文を学ぶことは己の歴史を学ぶことでもある。

本書の上下巻を通読して、私は全く白文で読むことができなかった。注釈は白文を読むためのものというよりは、それ自体独立した読み物であり、読み下し文を読んでかろうじて大意を把握する程度のことしかできなかった。そういう意味では、私の日本人としてのアイデンティティは然程強固なものではなく、かといってそれに代わる自己もなく、実に頼りのない存在だということになる。しかし、頼りがない存在であることを確かめることは決して悪いことではないと思う。何者であるかもわからないままに「自己」を激しく主張する薄みっともない輩を目の当たりにして、それを他山の石として己を律することができる。但し、そうしようと思えば、の話だが。

本書の記述に基づき、Wikipediaなどを参考に、本書に収載されている150人の詩人の生没年と師弟・親子を表にまとめた。個人的に気になったのは没年齢で平均すると65.9歳だ。幕末に安政の大獄と安政の大地震があり、その関係で若くして亡くなっている人もあるが、世間で言われるような「医療の進歩」というのはあまり寿命に関係がない気がした。いずれにしても、「寿命あと10年のつもり」などと呑気なことも言っていられない、というのが正直な感想だ。だからと言って何をするでもないのだが。

 

鈴木大拙 『禅の思想』 岩波文庫

いわゆる「晩年」の域に入り、頭の整理というか心の準備というか、そんなことに気持ちが向くようになった。そうしたなかで、目下最大の関心事は自他の意識だ。

十数年前に『亀も空を飛ぶ(クルド語:Kûsiyan jî dikarin bifirin、フランス語: Les tortues volent aussi、英語: Turtles Can Fly)』という映画を観た。映画のことは観た直後にこのブログに書いた。

「Turtles can fly/邦題:亀も空を飛ぶ」

この映画に描かれている生活も人間の暮らしに違いない。感染症がどうの、景気がどうの、と言ったところで自分の身の回りの暮らしは、この作品に描かれているものに比べれば随分安穏としている。幸い、これまで自分が生きてきた60年弱の生は、難民キャンプでの暮らしも、戦争も、大きな自然災害も縁がなかった。貧乏とはいいながらも食うに困るほどではなく、当たり前に明日を信じていられる程度の安心感はある。しかし、映画とはいいながら、この作品に登場する子供たちは総じて明るく逞しい。現実とはいいながら、自分の身の回りはしょうもない不平不満に溢れている。なぜだ。

人の生を支える意識は、身の危険に対する認識よりも、生活の中での自分の立ち位置の把握にあるのではないだろうか。その位置の把握・認識を自我の確立と呼ぶのだろう。自我というものがしっかりしていないと不安に慄きながら生きることになるものだが、自我は他者との対比のなかで成り立つ。しかし自他の別に拘泥すると永遠に自我は確立されない。矛盾している。この矛盾にこそ自分がある、そう思わないことにはしょうがない。世にある宗教というものは、いずれもこの矛盾を克服する方便なのではないか。

本書の冒頭は宗教の意義を簡潔明瞭に語っている。これだけで、本書は読むに値するものだと思った。また、これ以外に何を語ることがあるのだろうかと訝しく感じた。読み通してみたら、同じことを繰り返しさまざまに表現してるのである。

人間そのものの革命は宗教より外にない、即ち霊性的自覚の外にない。これがない限り、人間と生まれて来た甲斐がないのである。(10頁)

要するに、「自分」とは自覚なのである。それを、どういう家庭に生まれたとか、どういう学校に通ったとか、どういう経歴だとか、肩書きだとか、言語化された看板を無闇にぶら下げて、その看板に意味があるかのように思い込んでいるだけで、「だから何なんだ」という自覚が無いから救われないのである。自覚がなければどれほど自分の周りに事を重ねたところで不安は消えず、挙句の果てに大言壮語をしてみたり、大風呂敷を広げてみたり、というようなみっともないことを習慣にして周囲から蔑まれるのである。もちろん、大人の世界では社会的地位のある人に面と向かって罵詈雑言を浴びせるようなことはしないものだが、巧言令色鮮矣仁ということは思わないといけない。

「先生」と呼ばれるほどの馬鹿でなし

なんていう昔からの川柳もあるが、人はたいして賢くはなっていないのだろう。生活周りの道具類は大層高性能になったようだが、使う側が馬鹿だとそれで世の中が良くなったりはしないものである。

衆生の本質は元来無我であるから、因果を超越して居るが、而もみな縁業に転ぜらるのである。そうして苦を受けたり、楽を受けたりする。それは、その場での業縁から出るのである。それ故、何か世間的に好いと思うことがあっても、それは自分の過去の宿因で今それを感得するのである。縁尽きてしまえば、何もなくなるのであるから、特に喜ぶべきものではない。得失は何れも心から出るのだから、心に増減(即ち喜憂)を抱くことなく、泰然として動かずに居ればよいのである。(25頁)

結局のところ、矛盾は矛盾として抱えながらも、身の程をわきまえて、その時々の機縁に順っていればそこそこ安穏に暮らしていられる気がする。それは例えばこんなことなのだろう。

雲巖曇晟が茶を煎じて居たときに同侶の道吾が、
問、「煎与阿誰。」(誰に煎てやるつもりなのだい。)
答、「有一人要。」(一人欲しいと云うものがあるのだよ。)
問、「何不教伊自煎。」(自分で煎さしたらよいではないか。)
答、「幸有某甲在。」(わしがここに居るのでな。)
一寸見ると、何でもない日常の談話のようである。そしてその言葉遣いもまた何等幽玄なものを示唆するのでもないようである。(中略)一問一答これだけであるが、その中に含まれて居るものを、もっと分別知の上で評判するとこうである。「有一人要」と云うこの一人は、自分では茶を沸かすわけには行かぬのだ、また一人だけでは茶を要することもないのだ。「幸有某甲在」と云う某甲があるので、その手を通して茶が煮られる、而してさきに茶を要すると云った一人もまたこの某甲を通して要意識がはたらくのである。一人と某甲とは分別性の個多の世界に居るのでない。が、要と云うはたらき、煮ると云うはたらきは、某甲のいる分別または個多の世界でなくては現実化せぬ。(中略)一人と某甲とは両両相対して居て、而も回互性・自己同一性を失わぬのである。(239-241頁)


読書月記 2021年3月

2021年03月31日 | Weblog

南伸坊・糸井重里  『黄昏』  東京糸井重里事務所

馬鹿話ができる相手というのは思いの外少ない。本書のふたりの会話は私には憧れだ。世間では「話し相手」というのは容易に誰もがなれるかのように思われているようだが、それは幻想だろう。「話」が成り立つには相互に共有した何事かがなくてはならない。普通に社会人として生活していると職場とか仕事関係でいくらでも会話の機会はあるのだが、同じ相手と全く別の状況で会話が成り立つかというと、そうではないことのほうが多いのではないだろうか。それは、所謂「給与生活者」とか「賃労働」というものが細分化・専門化された「部分」を担うのみで、全体的・全人的な存在ではないからだ、と思う。破片どうしで会話もクソもないのである。だから「雑談」のハウツーが語られたりするという世紀末的なことになる。ハウツーなしに成り立つ会話こそが「雑談」なのに。多くの人は人格ある個人としては存在しておらず、その時々で個別特定の役割を演じている機能としての存在にすぎないのである。自我という意識の総体を押し殺し、部分部分で生活しているから、心身に不調をきたし、極端な場合は社会に適応できなくなって「病気」という扱いになるのではないか。

馬鹿話ができる相手というのは、互いに「ふつう」にしていられる関係性だ。価値観を共有する、なんていう大それたことではなしに、個人の生活や生活史の何事かを共有できれば容易に成り立つ関係性ではないだろうか。尤も、それが容易ならざることなのだが。

南:あの、赤塚さんのお葬式で、タモリの弔辞が白紙だったっていうのは、あれはほんとうなの?
糸井:ああ、持ってた紙が白紙だったっていう話ね。
南:そうそう。白紙を見ながら朗々と語ったっていう。
糸井:ほんとうでしょ。タモリさんにしてみれば。原稿を書いてそれを読むなんて、やりたくないでしょ、やっぱり。
南:まぁ、そうだね。で、勧進帳みたいな弔辞に。
糸井:うん。タモリさんらしい話だよね。ちょっとした美談みたいに語られてたけど。
南:そうだったね。
糸井:でも、美談じゃないよな。ふつうだよ。
(中略)
糸井:そういえば、前にも言ったけど、ナベゾのお葬式で伸坊の弔辞はよかった。弔辞っていうかね、ちゃんと真面目に話しかけてね。赤瀬川さんと伸坊の弔辞は、すごくよかったなぁ。ふつうに、ちゃんと、よかった。
南:ふつうにね。
糸井:なんていうか、うまくやってやろうなんてまったく思ってないわけだから。
南:うん。
糸井:だから、自然に。やっぱり、親しかったってことなんだね。
(153-154頁)

自分はもう晩年なので、このさき「ふつう」に付き合いのできる相手ができる可能性はいよいよ小さくなる一方だ。馬鹿話ができる相手は尊い。

 

小沢昭一 『俳句で綴る 変哲半生記』 岩波書店

中学生のとき、技術科の授業でラジオのキットを組み立てた。電池を付けてスイッチを入れて、チューニングをして真っ先に聞こえてくるのはTBSラジオだった。3歳から最初の結婚で家を出た30歳まで、勤務先の留学制度で2年間留守にした以外は埼玉県戸田市で過ごした。実家は今も戸田にある。ラジオを組み立てた当時、戸田にはTBSラジオの発信アンテナがあった。その所為でAMラジオはTBSが抜群にはっきりと受信できた。

あの頃、中学生はラジオを聴くものだった。テレビは卒業、という感じだった。ラジオで、歌詞の意味もわからないのに洋楽を聴いてみたり、深夜放送を聴いたりして、少し一人前に近づいたつもりになった。私が中学生だった1976年はThe Beatles来日10周年で、ビートルズ関係の放送が多かった印象がある。また、Bay City Rollers、Kiss、Queenが日本で人気化したのもこの頃だし、Eaglesの『Hotel California』が大ヒットしたのもこの前後だった。が、そういうのは夜の比較的遅い時間の放送で流れていた。夕方は『子供電話相談室』があって、続いて若山弦蔵の『お疲れ様5時です』があり、その中の一部として『小沢昭一の小沢昭一的こころ』という15分のコーナーがあった。小沢が一人で語る番組で、語りの最後は「また明日のこころだァ」という言葉で締めるのだった。今から思えば、中学生ごときにわかるような内容ではなかったはずなのだが、中学生は中学生なりに面白いと思ったのだろう。ただ、流石に当時は「やなぎ句会」のことはもちろん、俳句というものすらわかっていなかった。それは当然そうなのだ。今だってわかっていないのだから。

それで俳句だが、このnoteを始めた頃に書いたように、素朴な憧憬だ。おそらく五七調というのが日本語に馴染み易い調子なのだろう。その最小限の構成で何事か大きな世界を表現できたらカッコいいなぁ、と思うのである。しかし、五七五で何事かを伝えるには、自分と相手との間に共有できているものが余程ないと、とてもじゃないが文字数が足りない。尤も、五七五程度で意思疎通ができない相手に何千何万文字を尽くしても所詮何も伝わらないのも現実ではある。別の言い方をすると、五七五である程度分かり合える相手が「友達」で、そうでないのはなんでもない相手とも言える。童謡で『一年生になったら』というのがあるが、「友達」は100人もいたら身が保たない。子供に希望を与えるのが童謡であるということと、人にはそれぞれの容量というものがあることを差し引いても、100人は多すぎる。持続可能な人間関係を維持するのは、そんな生易しいものではない。

自分が俳句も短歌も詠めない所為だと思うのだが、本書では著者の俳句暦が浅い前半の方が心に引っ掛かる句が多い。勿論、しばらく経って読み直したら違った受け止め方になるだろう。あくまでも今現在の話だ。しかし、まずは、何も詠めない自分の方をなんとかしないといけない。俳句や短歌を詠むことができるような生活をする、というのがまずは基本。詠むのは明日のこころだァ。

ちなみに、本書で引っ掛かった句の中から。

スナックに煮凝りのあるママの過去(昭和44年1月)
母の日の常のままなる夕餉かな(昭和44年5月)
古寺の朽ちし敷居や寒雀(昭和44年12月)
三味線の裂けて乾きし寒夜かな(昭和45年1月)
老猫の微動だにせずおぼろかな(昭和45年2月)
電線を五線譜にして燕哉(昭和46年3月)
田楽の竹串の青みつめおり(昭和47年2月)
体温計振る二の腕や春の夜の(昭和47年3月)
塩漬けの茄子のきりりと紫に(昭和47年5月)
人けなき昼や床屋の金魚鉢(昭和47年6月)
釣堀の背中あわせの話かな(昭和48年5月)
枝豆や庭から裏へ抜ける風(昭和49年9月)
獅子舞ひややかな街におどけけり(昭和53年1月)
ぼた山を花札にする月夜かな(昭和61年9月)
寄せる波あれば引く波去年今年(平成9年12月)
掘炬燵死んではいない老婆かな(平成15年11月)
撃たれたる熊の両眼閉じてやり(平成18年10月)
大火あり人の情けのおもてうら(平成18年12月)
人の世の短きを問ひ長き夜(平成21年9月)


読書月記 2021年2月

2021年02月28日 | Weblog

近藤義郎 『前方後円墳の時代』 岩波文庫

権力や権勢を表現するのに、それが脆弱であるほど大掛かりな装置を必要する、ということが言える気がする。もっと卑近なところに引き寄せて考えると、中身の薄い奴ほど大言壮語をする、落ち目になると自慢話が多くなる、弱い犬ほどよく吠える、というようなことだろうか。ちょっと違うか。それにしても、巨大墳墓は何のために営造されたのだろう?

「古墳」というと仁徳天皇陵をはじめとする近畿地方の巨大古墳が真っ先に思い浮かぶのだが、都内やその周辺でも結構ある。例えば上野毛の五島美術館の敷地内に稲荷丸古墳がある。上野毛にはこのほかにいくつかあるようだ。大概、古墳というものは複数がまとまっている。埼玉県行田市にある埼玉古墳群はかなりの規模の古墳群で、その中にある稲荷山古墳ははっきりとした前方後円墳だ。稲荷山古墳からは金象嵌による文字が刻まれた鉄剣が出土しており、数少ない埼玉産国宝の一つである。また、同古墳群のなかの丸墓山古墳は秀吉の小田原征伐において石田三成が北条方である忍城を攻める際に陣を張った場所として有名だ。忍城攻めについては「のぼうの城」という小説や映画にもなっているが、小田原が落ちた後も降伏せずに耐え抜いたことで知られている。

それで、前方後円墳だが、その前に古墳の成立ということを考えないといけない。弥生時代前期後葉に畿内において始まったと見られる方形周溝墓は、平坦な丘頂や沖積微高地などにおいて集落に近接して営まれることが多く、弥生後期の墳丘墓・台状墓は、集落からはなれ、低い山や丘陵の頂上や尾根といった個所に営造されることが多いという。そして時代が下る中で規模が巨大化し、それとともに形式の統一性と画一性が見られるようになる。そうした流れが、一気に前方後円墳に飛躍するのだという。

前方後円墳の見た目の形と巨大さ以外の特徴の主要なものは埋葬品である鏡の多量副葬指向だそうだ。この鏡が畿内の政治勢力、大和連合から配布されたものであることが明らかなのだという。日本という国家がはっきりとした姿になるかならないかの頃、大和連合が急速に勢力範囲を拡大した証左が前方後円墳の分布に見て取れるというわけだ。その巨大化のピークが通称「仁徳天皇陵」、正式には「大仙陵古墳」であるが、学術的には埋葬者は特定されていない。宮内庁により仁徳天皇の陵墓に治定されているが、何か根拠があるのか、既に「仁徳天皇陵」との呼称が定着していたのでそういうことになったのか、私は知らない。

宮内庁の天皇系図の中で前方後円墳が陵墓として治定されている天皇は8代孝元天皇から30代敏達天皇までであり、同系図での年代では紀元前2世紀から紀元後6世紀までの約800年ほどの期間ということになる。ここで問題がある。そもそも紀元前2世紀に日本は国の体を成していない。紀元前2世紀といえば中国が前漢(B.C.202-A.D.8年)の時代で、朝鮮半島ではその前漢から逃れてきた衛満が国らしきものを建てたとされる頃、日本は弥生時代の真っ只中だ。仮に遺体遺品を収めるために没後何十年何百年後に天皇陵を造営するにしても、国の体がない時代のナントカ天皇陵ができるはずがないのである。では、宮内庁が嘘をついているのか。そういうことではなく、そういうことにしておいた方がもろもろ収まりが良いというだけのことだろう。大昔に終わってしまったことをあれこれ言ったところで何も始まらない。歴史というのは、その時代その時代に都合の良いように作るものだ。

前方後円墳は副葬品などの分析から、3世紀後半から6世紀にかけての約200年ほどの間に営造されたものということになっている。当時の国力がどれほどのものであったのかは知らないが、古墳はそれ自体何も生み出さない。再生産サイクルに組み込むことのできないものを作るのに多大なコストを投じるのは外部不経済であり、消費蕩尽である。そんなことに国を挙げていたら国を維持することはできない。国家の権威と威信の表現として巨大墳墓を建設したのだろうが、それがために国が滅んだら笑い話にもならない。どれほど国力があろうと、どれほど国家の威信が強かろうと、国のあちこちに規格化された巨大墳墓をボコボコ造るお祭り騒ぎのようなことができるのはせいぜい200年かそこらのことだったということだろう。

また、前方後円墳は広範囲に大きな時間差なしに出現している。形状が規格化されているかのようであるだけでなく、古墳表層に円筒埴輪が並べられていたと見られている。この円筒埴輪の原型は吉備の特殊器台という土器が原型とされている。副葬品で重要な鏡に「三角縁神獣鏡」と呼ばれるものがあるが、これは中国産なのに中国では出土していない。当時はまだ「日本」ではなく「倭」であったところへ向けて特注品として大量に作られた同笵鏡(同じ鋳型で作られた鏡)で大和政権で入手・保管されて各地首長に配布されたものらしい。倭の権力者が中国王朝との政治的結びつきにより入手した物だろうが、その輸送ルートの日本側の起点は九州北部。既に瀬戸内海の海路は確立されていたと見られ、九州と大和とは安定的に交流がなされていたはずだ。つまり、前方後円墳は大和発の一方的なものではなく、当時のオールジャパン的な総合造営物と見ることができ、大和政権が連合政権的なものであったことを示唆するものと言える。

先ほど「消費蕩尽」と書いたが、そうすることで下々に権威を感じさせることができる。身近に見たこともないような立派な鏡だとか剣だとか諸々をこれでもかという量まとめて副葬してしまうことを目の当たりにすれば、おそらく大衆は平伏する。「えぇぇ、きっついなぁ、、、」と思いながらも、古墳造営に労働力を差し出せとお上からお達しが来れば、「逆らうとタメにならんだろうしなぁ」と従うことになるだろう。それと外部不経済を可能にするには余剰生産物がないといけない。つまり経済に余裕がないといけない。民衆の側に労働力を提供する余裕があったということでもある。人を動かすのに何が必要か、ということはよく考えないといけない。

『季刊大林』の1985年 No.20に「現代技術と古代技術の比較による仁徳天皇陵の建設」という記事がある。これによると、仮に人間だけで(牛馬を使わず)、1日8時間、月25日間労働で建設すると約16−17年、1985年基準で約800億円を要するという。1985年の名目GDPは約330兆円、中央財政の歳出は一般会計が53兆円、特別会計が111.8兆円。単純に比較はできないが、ざっくり言えば、消費蕩尽ではなしに社会の安定化費用と考えれば、決して無茶ではなかったと思う。歴史を見れば明らかなように、それでも国家安寧というわけにはいかなかった。ただ、そもそも今が「安寧」と言えるのか?

ちなみに天皇の名は、奈良時代後半に淡海三船が天皇の命により、神武天皇から元正天皇まで一括して撰進したものである(当時既に諡号を贈られていた文武天皇を除く)とされる。淡海三船は天智天皇(在位:668-671年)の玄孫、大友皇子の曾孫。記紀に記されていたのは和風諱号だ。例えば神武天皇は「神日本磐余彦」。諡号には漢風諡号と和風諡号の二種類があり、現在広く通用しているのは漢風諡号である。漢風諡号は中国の例に習い生前の特徴や功績を漢字二文字で表現したものだ。『万葉集』巻一・巻二にある天皇の名は諡号によるものではなく、それぞれの天皇の宮殿の名に準ずる。例えば、巻一の巻頭を飾るのは雄略天皇(在位:456-479年)の御製歌(という立て付け)だが、『万葉集』に「雄略天皇」とは書いてない。「泊瀬朝倉宮に宇御めたまひし天皇(はつせのあさくらのみやにあめのしたをさめたまひしすめらのみこと)」であり、藤原京に遷都した持統天皇(在位:690-697年)は「藤原宮に天の下治めたまひし天皇」。かつて、天皇が代わる毎に遷都していたので、それで良かったのである。国の成長とともに首都も大規模になり簡単に遷都できなくなった奈良時代以降は、漢風諡号の時代でもある。明治天皇(在位:1867-1912年)から昭和天皇(在位:1926-1989年)までは諡号は元号とほぼ一致させてあるが、それはむしろ例外的とも言える。

話は前方後円墳に戻るが、あちこちに多数造営されるようになった前方後円墳が、造営されなくなるのは6世紀以降のこと。天皇の陵墓に限って見てゆくと、『万葉集』に登場する雄略天皇の陵墓は、その候補として名が挙げられる河内大塚山古墳は前方後円墳だが、宮内庁によって治定されているのは島泉丸山古墳という円墳と島泉平塚古墳という方墳の二基。写真で見ると前方後円墳をつくるつもりが、うっかり二つになってしまった、と見えなくもない。続く清寧天皇(在位:480-484年)、顕宗天皇(在位:485-487年)、仁賢天皇(在位:488-498年)の陵墓は前方後円墳だが、武烈天皇(在位:498-506年)は山形墳。継体天皇(在位:507-531年)は宮内庁治定の太田茶臼山古墳も、歴史学界で定説とされている今城塚古墳も前方後円墳だが、太田茶臼山古墳は築造が5世紀中頃とされ、天皇在位前から存在することになってしまう。そういうこともあって6世紀前半築造とされる今城塚古墳がそれらしいということになるのだろう。安閑天皇(在位:531-535年)、宣化天皇(在位:535-539年)、欽明天皇(在位:539-571年)、敏達天皇(在位:572-585年)は前方後円墳。次の用明天皇(在位:585-587年)以降は前方後円墳ではなくなる。

注目すべきは、欽明天皇の時代に仏教公伝があることだ。ただし、何を以って「仏教公伝」とするかについては諸説あるようだ。大昔のことなので仕方がない。政権内部抗争は当然にあっただろうが、大和政権そのものは権力としてほぼ定着して、もはや「どうだ、すげーぞ」というような物理的な装置としての古墳が必要なくなったということもあるだろうし、宗教というよりも哲学・思想科学としての仏教の伝来で、「これからは頭の時代ですよ」というような風潮も醸成されたのかもしれない。人々の社会が社会として成熟して秩序が堅固になり、自然に身の丈にあった暮らしを営むような習慣が定着したのかもしれない。いずれにしても前方後円墳が営造されなくなった時期と仏教の伝来が重なっているというのは説得力があり、偶然ではあるまい。

たぶん、人は一つの大きな軸を基準にして自分の置かれた世界を理解する。特定の宗教の教義のような浅薄なことではなく、世の中を見る時の漠然とした座標軸を誰もが持っている。しかし、そこに全幅の信頼を寄せているわけではない。己の未知なることが底知れぬ闇のように眼前に横たわっていることは意識するとしないとにかかわらずわかっていて、そのことへの不安は常に感じている。不安は不快で本能的にその不安を解消しようとする。例えば、未知なるものはないと思い込む、浅薄な教義とかブランド(所謂既成宗教や「科学」)に縋る、といったような風に。おそらく、巨大古墳の世界観と大陸伝来の仏教のそれとは相容れなかったのだろう。そして、古墳的世界観の勢力と伝来仏教的世界観の勢力との政治的抗争で後者が前者を駆逐したということもあっただろう。最後に前方後円墳に祀られた敏達天皇から15代後の聖武天皇(在位:724-749年)の治世には巨大な大仏の鋳造が始まり、次代の孝謙天皇(在位:749-758年)の治世である天平勝宝4年(752年)に完成して開眼会が挙行される。やっぱり人は大きいもの、わかりやすいものを選好するらしい。

いつの時代でも、一見尤もらしいが本当のところはわからないものが政治に利用されて権力が増強されたり滅亡したりする。「宗教」というと今の時代の人はちょっとspeculativeなことのように捉えがちだが、世界観とか倫理観のような社会に通底する核となるものの考え方と見るならば、古墳時代が仏教の時代に取って代わられるというのは興味深いことである。わずか100年かそこらで「正しい」ことは変わってしまうのだ。今の時代だって、資本主義と社会主義・共産主義とのイデオロギーの対立がかなり最近まであったのが、コロッと変わってしまったりする。少し前に遡れば、「鬼畜米英」なんて言っていたのが、敗戦後は上から下まで国民が先を争うように進駐軍に媚びを売る国もある。そういうネタとして環境問題を捉えることもできるだろう。感染症問題も広義の環境問題であり、それがもとになって思いがけない大変化が起こるのかも知れない。

 

関敬吾 『民話』 岩波新書

「むかしむかし、あるところに、おじいさんとおばあさんがおりました。おじいさんは…」というような話は「昔話」と言われる。本書で言う「民話」は「神話」に対するもののようで、「昔話」は「民話」の範疇に入る。思いきり単純化してしまうと、神話は秩序のためにあり、民話は生存戦略を語るものであるように思う。

民話が現代での娯楽と捉えられている感があるが、それは多分一面的に過ぎる。おそらく民話が生成された時代は人々の暮らしは今より忙しかった。家事を担う家電製品はなく、通信や交通も基本は直接対話なので、肉体労働は現在の比ではなく、照明が限られていたので夜間にできることが限られ、生産活動のための稼働時間は現在とは比較にならないほど短かったはずだ。娯楽で昔話を語る余裕がどこにあると言えるだろうか?

もちろん健康な精神生活に娯楽は不可欠だ。しかし、民話はもっと切羽詰まったものであっただろう。人から人へ口承で伝えられる物語には、どうしても伝えておきたいことが盛り込まれていたはずなのである。それは生存戦略、生存ノウハウではなかったか。

民話、そもそも「話」は話す相手がなければ成立しない。なんのために話すかと言えば、共同・共生のためだ。同じ倫理観を共有していなければ生活を共にすることはできない。

われわれの生活は、かつては晴と褻の二つが、今よりも判然と分かれていた。晴の日は祭の日である。この日は食物も衣服も褻の日とは截然と区別されていた。晴の日は神との共食が行われる日であった。日常の食事とは根本的に区別されるべきである。日常の食事は食うために集り、祭の食事は集るために食う食事である。昔話を語るのにも、恐らくこうした区別があったのではないかと考えられる。昔話をかたるという<かたる>は、柳田国男氏も指摘される通り、仲間に<かたる>(加わる)ことを意味する言葉である。(中略)祭日にも、特にそのために用意された話ではなく、誰もが知っている話が、ある特定の人によって語られる。これが語部である。人はこの語部を中心に、昔話を媒介として集るのである。(94-95頁)

昔話を語ることは、そこで語られている世界観を共有していることを確認する作業だったと思う。そして、共に生きるということは、生産活動での協働だっただろう。生産こそが善なのである。その基本は汗水垂らして働くこと。忍耐・節度・協力・勤勉・謹み・遠慮・気配りができないと協働・共同生活を営むことはできないのである。

昔話のなかでは、道徳そのものは極めて素朴な形でとり上げられる。しばしばいうように、善と悪とが鋭くわかれ、相互に対立した二つの群としてとり扱われる。しかし、善と悪とは、それぞれ独立した概念ではない。両者を比較することによって成立する。善に対して悪であり、悪と対比することによって善である。(中略)善とはなんらかの報酬を与えられることである。悪はその反対である。勝ったものはつねに官軍であり、善人である。負けた者は、理由のいかんに拘らず、悪人である。悪の代表者が処罰されるということは、われわれの概念による不法行為に対して課せられるのではなく、人間的な弱さ・強欲・嫉妬・怠惰・高慢・無遠慮・愚鈍に対して課せられる処罰である。(173頁)

共同体を維持することは人口を維持することでもある。婚姻は生存と同義でもある。

昔話の多くは婚姻譚である。しかし、恋愛はほとんど語らない。生活の安定を目標にした婚姻であり、恋の冒険も愛の奉仕も語らない。婚姻は同時に物質の充足を意味する。(187頁)

慈悲と同情は、この世界における人間性の外面的な特徴である。勇敢と誠実とが一切の悪を克服し、自らを保護し、一切を包容する。同情と親切とは、つねに幸福と報酬とが約束され、幸福な婚姻に到達する。(196頁)

今はネット空間上のゴミのような文章や画像が時々刻々無数に生成されている。昔話とは違って時間と社会による選抜や淘汰を経ることなく最初から記録されているが、スクリーニングを経ていないことによる脆弱性は否めず、昔話とは違って後世に語り継がれるほどの強い内容はない。それにしても誰もが文章や画像を公開できるというのは贅沢なことである。こんな状況を豊かと呼ばずに何とする。と、思うのだが、あまり幸せそうな文章や画像にはお目にかからない。生産活動とは縁の薄いものが多い所為もあるのだろう。

 

C.アウエハント著 小松和彦・中沢新一・飯島吉晴・古家信平 訳『鯰絵 民俗的想像力の世界』岩波文庫

東日本大震災から10年目に想うことをnoteに書いて、この『鯰絵』を読んでいたら、大きな地震が13日の夜遅くにあった。なんて書くと、地震を予感していたかのように見えないこともない。しかし、あの日は全く予感していなかった。

当時、巣鴨で暮らしていた。地蔵通りと呼ばれる国道17号の旧道に面した6階建の小さなビルだった。1階は店舗。入居した時は漬物屋だったが途中から近所にあったマルジの店舗の一つになった。1フロアに2戸しかない小さなビルで、2階から4階までが貸家で5階と6階が大家さんの家だった。私は2階で暮らしていた。

仕事は夕方から夜間にかけてのシフトで午後4時頃に出社していた。その分、起床は遅いが、ゴミの収集が朝8時頃だったので、それに間に合うように起きるようにしていた。午前中は掃除機をかけたりした後、近所の区立体育館にあるプールに出かけることが多かった。その日も泳いで、家に戻り少し遅めの昼食の支度をしていた。離婚して一人暮らしで、飯は食事の都度、小さな土鍋で炊いていた。蓋の空気穴から立ち上る湯気に少し焦げた香ばしい香りが混じって一呼吸置いたあたりが火から上げる頃合いだ。ちょうど火を止めたところで、それまで経験したことのない縦揺れがあり、台所のコンロ周りのタイルの目地から白い砂状のものがサラサラとこぼれ落ちた。そこにユッサユッサと大きな揺れが来た。先日もそうだったが、揺れが長く感じられた。

揺れは収まり、外の物音ももとに戻ったように感じられた。停電はなかったが、飯が炊けていたので、惣菜を作ろうとコンロに点火したがガスがつかなった。ガスの安全装置が起動して、元栓が閉じていた。入居してガスの開通をした時にもらった小冊子を開いて安全装置の解除の方法を確認し、コンロを点火して何か炒め物を作ったと思う。腹拵えをして落ち着いたところで、身支度をして出勤しようと外に出た。地蔵通りから巣鴨駅までは特に変わったところはなかった。しかし、駅の様子が変だった。入場規制をしているらしく駅前で人がごった返していた。地震から2時間近く経っていたが、JR山手線も都営地下鉄三田線も止まったままだった。とりあえず家に引き返し、職場の上司と同僚に交通が止まって出勤できない旨のメールを打った。中学生だった娘から「大きな地震だったね」とメールが来た。学校に泊めてもらうように先生に話せと返した。

その後、福島だけでなく日本中の原発が停止したこともあり、電力不足でしばらく計画停電が実施されたが、住まいのあった豊島区も勤務先があった千代田区も一度も停電には当たらなかった。当時の勤務先は米系の証券会社で、3月14日に福島の原発が水素爆発を起こした後、大使館から福島第一原子力発電所を起点に半径80kmから速やかに退避するようにとの勧告が出され、会社としても社員に対し同様の指示を出した。勿論、「トモダチ作戦」をはじめたくさんの支援や応援を世界中からいただいたが、私の身の回りではあたふたと日本を離れる人たちも少なくなかった。当然だと思う。世界には地震を経験したことが無い人も大勢いる。そういう人が地面がゆっさゆっさと揺れるのを経験したら腰を抜かさんばかりに驚くかもしれない。その上、原発が爆発したのである。生きた心地がしないという人だってたくさんいたはずだ。日本人でも福島の風下で放射線量が増加した茨城県や千葉県では環境への関心が高い人たちの中に西日本へ転居する人たちた結構いたと聞いている。

その茨城、かつての常陸、の一宮が鹿島神宮であり、隣接する下総の一宮が香取神宮だ。どちらにも「要石」というものがある。二つの神社にまたがるように巨大な鯰が地下に居て、それぞれの神社の要石でこの鯰(鹿島が頭、香取が尾)を押さえている、ことになっている。見出の写真は鹿島神宮境内にある要石だ。こんな小さな石で大丈夫なのか、と思うようなものだが、露出している部分はこの程度で実は巨大な岩だったりするのかもしれない。いずれにしろ、その下に生きた鯰はいないと思う。ミミズじゃあるまいし。流石に地震=地下の鯰の暴れ、と信じている人は今はいないだろうが、昔はいたかもしれない。少なくとも鯰絵が登場する江戸時代にプレートテクニクスは知られていなかっただろう。日本列島はプレートの縁に位置しているので、地震からは逃れようがない。鯰絵というものが登場する江戸時代以前からあちこちで地震は起こっていたはずだ。その地震封じの神様が何故鹿島と香取なのか。天皇家の大番頭のような藤原氏の氏神である春日大社は、社伝によると、鹿島の武甕槌命、香取の経津主命と、枚岡神社に祀られていた天児屋根命・比売神を併せ、御蓋山の麓の四殿の社殿を造営したのをもって創祀としている。地震国なのだから、その制御能力が権力の裏付けに直結するのは自然だろう。ということは、大化の改新以前から鹿島・香取と地震が関連づけられて認識されていたということだろう。

本書は鯰絵がテーマなので、そういう古いことにはあまり言及がない。そういうそもそもの部分がモヤモヤとしたままなので、鯰と地震の関係もモヤモヤしたままになってしまう。地震という自然現象の方はだいぶ解明が進んでいるようで、こちらとしても諦めがつくのだが、「何故、鯰?」の部分がもう少しスッキリしないと地震の度にモヤモヤが深くなる気がする。

余計なことだが、あの地震で鹿島神宮の大鳥居が倒れた。だからどうと言うわけではないが。


読書月記 2021年1月

2021年01月31日 | Weblog

『文選 詩篇(一)』岩波文庫

何かに対する漠然としたイメージというものがある。それは自分の経験から形成されるものもあれば、その時々の社会の空気のようなものとして自分の中に取り込まれるものもある。その「空気」が結構怖い気がしている。

コロナのこととか尖閣のことなどもあって、近頃は中国に対する「空気」の方はあまり芳しくない気がする。しかし、個人的には何一つ中国とか中国の人たちに対して否定的な要素は抱えていない。そもそも「中国」と一括りにできるほど一つの国が単純であるはずがない。それを特定の一事をしてその国や国民に対して断定的な見解を表出するなど暴挙以外のなにものでもないだろう。

文化文明の伝播経路として、西の方から様々なものがやって来たのは事実だろう。日本の古代国家は中国大陸の文明を手本としてきたのであろうし、習俗の中にもこちらの風土から生まれたとは思えないようなことが多々ある。その土地の起源を何に求めるか、という問題があって、それを言い出すと「国家」だの「民族」だのといった概念は矮小で些か頼りないものになってしまう。

人類の祖先はその昔アフリカ大陸に誕生し、そこから世界に広がったとされている。いわゆる"Great Journy"という移動だ。ホモ・サピエンスは20-15万年前に東アフリカのどこかで生まれ、主にそこから北上、紅海の南で海を渡ってアラビア半島へ到達したのが7-6万年前、紅海の北から陸伝いにアラブへ到達したのが6万年前、そこで東西に別れて東のアジアへ到達したのが6万年前、西の欧州に到達したのが4万年前、またアジア組の中には4万年前には豪州大陸に到達していた者もある。別のアジア組は4-3万年前に中国やシベリア、中には日本にまで到達した者も。そこから太平洋の島伝い、あるいはアラスカを経由して米州大陸へと渡るのである。

日本人として興味深いのは日本だ。日本は海に囲まれいるので、どこからでも渡ることができる。日本人のDNAを調べると、大きく三つのルートが想定されるのだそうだ。(1) 中国大陸沿岸から南の島伝いに北上、(2) 朝鮮半島経由、(3) サハリンから南下。以下、高間大介『人間はどこから来たのか、どこへ行くのか』(角川文庫)からの引用。引用文中の「篠田さん」とは国立科学博物館人類研究部に所属する研究者の篠田謙一氏だ。

「日本にホモ・サピエンスが到達したのは、三万年から四万年前と考えられます。主だった三つのルートのうち、北のサハリンルートから人が入って来たのはもっとも遅く、二万年前以降だと考えられます」と篠田さんはいう。そのころ気候が寒くなった、そのため、北のシベリアから南下してきたのではないかというのだ。(16頁)

そこまで遡ってしまうと、今の人種すら意味をなさなくなってしまう。結局、自他の認識は今生きている我々がなにを以って「私」とか「我々」とイメージするのか、という漠としたものなのだと思わざるを得ない。『文選』は紀元前二世紀から約八百年に及ぶ詩文から編纂したもので、当然に日本の文学にも強い影響を与えている。おそらく明治のはじめまで政治に関わる人々が当然の教養として嗜んだ漢詩は字面だけでなく漢詩が詠むべきとされている世界観までも詠んだであろう。

儒家の詩観では詩は本来、諷刺、批判をその重要な役割とすると考えられたので、「補亡」「述徳」に続いて「諷諫」「励志」が置かれる。「諷諫」が他者に対する批判であるのに対して、「励志」はいわば自分に対する批判、戒め。(89頁)

詩は歌なので音が大きな意味を持つと思われるが、漢詩の音はわからないので、字面と解釈だけを詠んでも本当の意味で理解はできない。それでもこの詩などは字面だけでも良いと思う。

弱冠弄柔幹
卓犖観群書
著論準過秦
作賦擬子虚
邊城苦鳴鏑
羽檄飛京都
雖非甲冑士
疇昔覧穣苴
長嘯激清風
志若無東呉
鉛刀貴一割
夢想馳良図
左眄澄江湘
右盼定羌胡
功成不受爵
長揖歸田盧

 

宇沢弘文『自動車の社会的費用』岩波新書

学生の頃の必読書のひとつだったが、今初めて読んだ。経済学部に籍を置いていた。特に何か考えがあってのことではなく、なんとなくそういうことになっただけである。何の予備知識もないままに所定の課程が進行するにつれ、経済学というのは結局のところモデル学だと思った。前提条件をあれこれ設けてモデルを構築し、どこの世界のことだかわからないようなことを議論しないと「学問」にはならないということなのだろう。しかし、モデルの世界に留まる限り「学問」にはなっても「科学」にはならない。検証ができないからだ。モデルを構築し検証しょうとする頃には、前提条件が意味をなさないくらいに現実が変化してしまう。

本書の初版は1974年の発行だ。社会的費用という考え方が、当時としてはホットだったのだろう。高度経済成長が石油危機で壁に当たり、いわゆる公害問題や環境問題が大きな関心を呼んだ時期だったのではないか。しかし、間違いなく生活の物質的側面は豊かになっていた。

この当時、私は小学生だったが、小学校に上がる頃から年を追う毎に家の中に家電製品が増えていった。筆頭はテレビ。記憶にある我が家の最初のテレビは白黒だった。小学校1年後半から2年にかけて学友たちの家のテレビがカラーになり始めた。なぜそんなことを覚えているかというと、カラーテレビになった奴の家にテレビを観にみんなで出かけていって「へぇー、カラーはちがうねぇ」なんて感心していたからだ。はじめの方でカラーになった家は、まだガチャガチャとチャンネルのダイヤルを回す式だったが、小学校2年後半でカラーになった家のテレビはリモコンで、初めてそれを見た時は腰が抜けるほど驚いたものだ。今はほぼ一人一台の割で電話機を所有しているが、当時は電話がない世帯もあった。そういう家の人は近所で電話の設置されている家に電話を借りに行ったのである。また、何かの書類に住所と電話番号など書く時には、「(呼)鈴木方」などとして、自分宛の電話をその鈴木さんに受けてもらう、なんてことが当たり前だった。だから古い家屋では電話は玄関に置かれていた。洗濯機、冷蔵庫、掃除機、エアコン、その他諸々それぞれにめざましい進化を遂げた。

それで、そういう利便性向上の背後に社会的費用というものが発生している、という視点がおそらく当時としては新鮮だったのかもしれない。テレビの社会的費用というと、テレビの消費電力を賄うための社会資本の費用であるとか、テレビが家庭に入り込むことで失われた家庭内での会話であるとか、計測と効果測定が困難なことが多いので、わかりやすさと費用計測の難易度の点から自動車と道路を取り上げたのだろう。

結局は費用対効果の話だと思うのだが、何を費用と捉え、何を効果とするかという主体の設定に引っ掛かるものを感じる。序章のなかで、「市民的権利の侵害」という節が設けられている。「市民」とは何者なのだろう?

近代市民社会のもっとも特徴的な点は、各市民がさまざまなかたちでの市民的自由を享受する権利をもっているということである。このような基本的な権利は、たんに職業・住居選択の自由、思想・信条の自由という、いわゆる市民的自由だけでなく、健康にして快適な最低限の生活を営むことができるという、いわゆる生活権の思想をも含むものである。このような基本的権利のうち、安全かつ自由に歩くことができるという歩行権は市民社会に不可欠の要因であると考えられている。(12-13頁)

憲法もそうなのだが、はじめに権利ありき、という論の展開はどこか嘘くさい気がする。もちろん、こうして自分は生きているので、生きているというだけで付与される権利があるのはありがたいことである。誰に向けたら良いのかわからない感謝の気持ちでいっぱいになる。しかし、現実の社会はその各自の「権利」を守るようにできていると言えるだろうか?結局は弱肉強食で強者の側の都合の良いように社会は回るようになっているのではないか。だからいつまでたっても基本的権利だの市民的自由などという綺麗事を声高に叫ぶことになるのだろう。本当に「基本的」な権利や自由なら、わざわざ主張する必要がないはずだ。

アメリカの経済学者は、市場機構について一種の信念に近いような考え方をもっているともいえる。利潤追求は各人の行動を規定するもっとも重要な、ときとして唯一の動機であると考え、価格機構を通じてお互いのコンフリクトを解決するのが最良の方法であるという信念である。新古典派理論はこのような信念を正当化するものにすぎないともいえるのであって、理論的な帰結からこのような信念が生まれるのではない。(114-115頁)

個々人のレベルでは行動の動機は様々であろうが、市場とか社会という枠組みの中では主体を動かすものを利潤追求と想定して何の不都合があるというのだろう。権利の有無だとか人格の有無といったことについては人それぞれに考えがあるだろうが、人間が労働を提供する生産要素であるということについては動かすことのできない事実であろう。人間というものが特別尊重されるべき存在だというような思い上がりが、書いている側と読む側の両方にあるから、こうして長きに亘って売れ続けるのだと思う。


土井善晴・中島岳志『料理と利他』ミシマ社

料理は人の生活の中の自然だと思う。料理は台所や調理場での行為だが、植物であれ動物であれ食材を通じて地球全体と繋がっている。料理をしようと、食材を探し求めて選ぶ。植物であれ動物であれ、目の前のものを見て旨そうだと直感する。「食」はすでに始まっている。それは食べるものに対する姿勢だけでなく、付き合う相手を見る時の感覚にも通じているはずだ。

料理をするのにレシピを必要不可欠とし、食材はそのものを見るよりも包装に表示された文字情報に依存し、旨いか不味いかまで自分では判断できずにレシピの評を自分の判断とする。何事にも「正解」があると思い込んでいるのか、自分で物事を判じる能力が欠如しているのかわからないが、そういう人もいるらしい。

家電製品の普及で家事労働はかつてとは比べものにならないくらい軽減され、情報処理機器や通信能力の向上で賃労働の作業効率も格段に上昇した。さぞかし生活にゆとりができて人々が生き生きと幸せそうに暮らしているのだろうと思いきや、オメデタそうな人ばかり増えたような気がする。私の周囲だけのことなら良いのだが。

とくに子供たちにとっては、手料理というようなものを食べるという経験が未来への想像力、イマジネーションをはたらかせるというかね、あるいは、「この人こんなこと言うてはるけど、さあ、ええ人かどうか」っていうようなね、いわゆる直観力みたいなものを育むものだということ。目に見えないものをはたらかせる力、いわゆる健康のため栄養のために食べるという以上のものが、料理をして食べることのなかには生まれてくる、ということですね。(45頁

 

小堀鷗一郎『死を生きた人びと』みすず書房

世間は幻想に満ちている。1日三度飯を食う、規則正しい生活、若々しくあるべし、前向きな考え、などなど。しかし、どれも近代以降に生まれたものだ。産業革命を機に巨大な工場設備を効率よく稼働させるべく、工場労働者の暮らしに機械設備稼働に都合の良い周期性を与えただけのことだ。生まれたら必ず死ぬというサイクルの中で、そもそも健康であることにどれほどの意味があるのだろう。腹が減れば飯を食い、眠たくなったら眠る。身体の欲求に即す方が自然で健康的ではなかろうか。社会集団を律するためには、個々の構成員の行動が予見可能であったほうが、支配管理する側からしたら都合が良い。できることなら軍隊のように上意下達で物事が動いて欲しいだろう。そのためには個人も一定の運動能力と知能を持っていないといけない。駒の動きの統率を取るには、スイスイ動く駒と梃子でも動かないような駒が混在しているとマズいのである。各人は集団の規則を進んで守るようでなくてはいけない。創造だの創作だのを個人が好き勝手にやるようではいけない。そういうことは比較的適性の強い人を煽てて「才能」があるように見せて別枠に置いて衆目を納得させることで、圧倒的大多数の大衆を諦めさせて上意下達のサイクルに押し込んでおくのが優れた統治というものだ。そのためには、大衆には世の中に「正解」というものがあると信じ込ませないといけない。そして「正解」に到達しないこと、間違えることを恐れるように仕向けないといけない。近頃、「自粛警察」という言葉を聞くようになったが、これぞ大衆の鏡だ。

さて、本書の著者は訪問診療医だ。たくさんの人を見送った。そうした中から42の事例が紹介されている。たった42でも、実にさまざまな死があるものだと思う。人にそれぞれの生き方があるように、それぞれに相応しい死に方というものもあって然るべきでる。しかし、生の方が規格化されているのだから死の方だって似たようなことになる。どっちか片方だけ満足のいくように、なんてことになるはずがない。「死ぬときくらい、好きにさせてよ」なんていうコピーがあったが、好きに生きられないのに好きに死ねるわけがない。個人も世間も都合の悪いことを外部化して、本来あるべきではないこと、のように見せかけるのものだが、「認知症」もどこまでが本当の「病気」なのだか知れたものではない。都合の悪い老化を「病気」ということにして、本当はそんな人じゃなかったと本人とかその周囲が思い込みたいだけ、というのも案外多いのではないだろうか。

世間の手を煩わせないのが死に方の「正解」であるとするなら、いわゆる「ピンコロ」などその理想だろう。よく生命保険のセールスが「ご家族に迷惑がかからないように」などとぬかす。大きなお世話だとは思うものの、気が小さいので、セールスの気合いに圧倒されて高い保険料を何年も搾取されるハメになる。昔、仕事で保険会社を顧客として抱えていたので、「営業協力」で随分無駄な保険料を払ってきた。そういう仕事を離れて義理がなくなったので、片っ端から解約したがどうしても解約できない保険が一つ残った。その保険会社の担当者がスゴイのだ。更新などで会う約束が入る。会うまでは絶対に解約しようと思っているのだが、なぜか更新してその人に礼などを言って別れることになる。しかし、次こそは、と今も思っている。


関敬吾『民話』岩波新書

「むかしむかし、あるところに、おじいさんとおばあさんがおりました。おじいさんは…」というような話は「昔話」と言われる。本書で言う「民話」は「神話」に対するもののようで、「昔話」は「民話」の範疇に入る。思いきり単純化してしまうと、神話は秩序のためにあり、民話は生存戦略を語るものであるように思う。

民話が現代での娯楽と捉えられている感があるが、それは多分一面的に過ぎる。おそらく民話が生成された時代は人々の暮らしは今より忙しかった。家事を担う家電製品はなく、通信や交通も基本は直接対話なので、肉体労働は現在の比ではなく、照明が限られていたので夜間にできることが限られ、生産活動のための稼働時間は現在とは比較にならないほど短かったはずだ。娯楽で昔話を語る余裕がどこにあると言えるだろうか?

もちろん健康な精神生活に娯楽は不可欠だ。しかし、民話はもっと切羽詰まったものであっただろう。人から人へ口承で伝えられる物語には、どうしても伝えておきたいことが盛り込まれていたはずなのである。それは生存戦略、生存ノウハウではなかったか。

民話、そもそも「話」は話す相手がなければ成立しない。なんのために話すかと言えば、共同・共生のためだ。同じ倫理観を共有していなければ生活を共にすることはできない。

われわれの生活は、かつては晴と褻の二つが、今よりも判然と分かれていた。晴の日は祭の日である。この日は食物も衣服も褻の日とは截然と区別されていた。晴の日は神との共食が行われる日であった。日常の食事とは根本的に区別されるべきである。日常の食事は食うために集り、祭の食事は集るために食う食事である。昔話を語るのにも、恐らくこうした区別があったのではないかと考えられる。昔話をかたるという<かたる>は、柳田国男氏も指摘される通り、仲間に<かたる>(加わる)ことを意味する言葉である。(中略)祭日にも、特にそのために用意された話ではなく、誰もが知っている話が、ある特定の人によって語られる。これが語部である。人はこの語部を中心に、昔話を媒介として集るのである。(94-95頁)

昔話を語ることは、そこで語られている世界観を共有していることを確認する作業だったと思う。そして、共に生きるということは、生産活動での協働だっただろう。生産こそが善なのである。その基本は汗水垂らして働くこと。忍耐・節度・協力・勤勉・謹み・遠慮・気配りができないと協働・共同生活を営むことはできないのである。

昔話のなかでは、道徳そのものは極めて素朴な形でとり上げられる。しばしばいうように、善と悪とが鋭くわかれ、相互に対立した二つの群としてとり扱われる。しかし、善と悪とは、それぞれ独立した概念ではない。両者を比較することによって成立する。善に対して悪であり、悪と対比することによって善である。(中略)善とはなんらかの報酬を与えられることである。悪はその反対である。勝ったものはつねに官軍であり、善人である。負けた者は、理由のいかんに拘らず、悪人である。悪の代表者が処罰されるということは、われわれの概念による不法行為に対して課せられるのではなく、人間的な弱さ・強欲・嫉妬・怠惰・高慢・無遠慮・愚鈍に対して課せられる処罰である。(173頁)

共同体を維持することは人口を維持することでもある。婚姻は生存と同義でもある。

昔話の多くは婚姻譚である。しかし、恋愛はほとんど語らない。生活の安定を目標にした婚姻であり、恋の冒険も愛の奉仕も語らない。婚姻は同時に物質の充足を意味する。(187頁)

慈悲と同情は、この世界における人間性の外面的な特徴である。勇敢と誠実とが一切の悪を克服し、自らを保護し、一切を包容する。同情と親切とは、つねに幸福と報酬とが約束され、幸福な婚姻に到達する。(196頁)

今はネット空間上のゴミのような文章や画像が時々刻々無数に生成されている。昔話とは違って時間と社会による選抜や淘汰を経ることなく最初から記録されているが、スクリーニングを経ていないことによる脆弱性は否めず、昔話とは違って後世に語り継がれるほどの強い内容はない。それにしても誰もが文章や画像を公開できるというのは贅沢なことである。こんな状況を豊かと呼ばずに何とする。と、思うのだが、あまり幸せそうな文章や画像にはお目にかからない。生産活動とは縁の薄いものが多い所為もあるのだろう。


ひとまず、さようなら

2020年12月31日 | Weblog

長らくこのブログを続けてきたが、このgooのブログは一旦終了させて頂くことにした。ついては11月22日のページに記した通り、noteに同じ熊本熊名義でサイトを開設したので、こういうブログ系のことはそちらで継続する。ここのアカウントは当面維持するが、これまで当サイトを気にかけて頂いた皆様にお礼を申し上げる。


ありがとう 2020年後編

2020年12月31日 | Weblog

今年参詣した神社仏閣など

  • 鷲宮神社(埼玉県久喜市鷲宮)
  • 江戸総鎮守 神田明神(東京都千代田区外神田)
  • 前玉神社(埼玉県行田市大字埼玉字宮前)
  • 忍東照宮・諏訪神社鎮座地(埼玉県行田市本丸)
  • 岩室観音(埼玉県比企郡吉見町大字北吉見)
  • 調布不動尊 常性寺(東京都調布市国領町)
  • 國領神社(東京都調布市国領町)
  • 布多天神社(東京都調布市調布ケ丘)
  • 丹波篠山 住吉神社(兵庫県丹波篠山市今田町上立杭)
  • 丹波篠山 春日神社(兵庫県丹波篠山市黒岡)
  • 王地山まけきらい稲荷 本院 本経寺(兵庫県丹波篠山市河原町)
  • 金剛山正福寺(東京都東村山市野口町)
  • 東村山 諏訪神社(東京都東村山市諏訪町)
  • 東村山 八坂神社(東京都東村山市栄町・野口町)
  • 南都 十輪院(奈良県奈良市十輪院町)
  • 興福寺(奈良県奈良市登大路町)
  • 信貴山朝護孫子寺(奈良県生駒郡平群町信貴山)
  • 大本山松尾寺(奈良県大和郡山市山田町)
  • 臨済宗大徳寺派慈光院(奈良県大和郡山市小泉町)
  • 真言律宗不退寺(奈良県奈良市法蓮町)
  • 狭岡神社(奈良県奈良市法蓮佐保田町)
  • 東大寺 勧進所(奈良県奈良市雑司町)
  • 大神神社摂社率川神社(奈良県奈良市本子守町)
  • 南都 傳香寺(奈良県奈良市小川町)
  • 大阪天満宮(大阪府大阪市北区天神橋)
  • 高津宮(大阪府大阪市中央区高津)
  • 難波大社 生國魂神社(大阪府大阪市天王寺区生玉町)
  • 坂松山一心寺(大阪府大阪市天王寺区逢阪)
  • 和宗総本山四天王寺(大阪府大阪市天王寺区四天王寺)
  • 堀越神社(大阪市天王寺区茶臼山町)
  • 東叡山寛永寺 清水観音堂(東京都台東区上野公園)
  • 穴八幡宮(東京都新宿区西早稲田)
  • 光松山放生寺(東京都新宿区西早稲田)
  • 医王山真性寺(東京都豊島区巣鴨)
  • 萬頂山高岩寺(東京都豊島区巣鴨)
  • 薬王山善養寺(東京都豊島区西巣鴨)
  • 長徳山妙行寺(東京都豊島区西巣鴨)

 

今年訪れた美術展、美術館、博物館など

  • 「江戸東京あかり展」神田明神文化交流館
  • 「開館記念展 見えてくる光景 コレクションの現在地」アーティゾン美術館
  • 「坂田一男 捲土重来」東京ステーションギャラリー
  • 「日本書紀成立1300年 出雲と大和」東京国立博物館
  • 「初づくし 初にまつわる江戸時代の行事・風習」国立公文書館
  • 「<対>で見る絵画」根津美術館
  • 「永遠のソール・ライター」Bunkamura ザ・ミュージアム
  • 「彫刻家・村田勝四郎と日本野鳥の会/公募展2020」渋谷区立松濤美術館
  • 「祈りの造形 沖縄の厨子甕を中心に」日本民藝館
  • 「生誕550年記念 文徴明とその時代」東京国立博物館
  • さきたま古墳公園
  • 忍城址
  • 吉見百穴
  • 「伝統工芸展陶芸部会展・東日本伝統工芸展受賞作品展」日本橋三越本店
  • 「奇才 江戸絵画の冒険者たち」江戸東京博物館
  • 「発掘された日本列島 新発見考古速報 2020」江戸東京博物館
  • 「特別展 きもの」東京国立博物館
  • 篠山城大書院
  • 「THE備前 土と炎から生まれる造形美 桃山時代から現代へ」兵庫陶芸美術館
  • 丹波伝統工芸公園 立杭 陶の郷
  • 「丹波 いきる力が美をつくる 丹波古陶館開館50周年記念展」丹波古陶館
  • 篠山能楽資料館
  • 丹波杜氏酒造記念館
  • 丹波篠山市立歴史美術館
  • 「洋風画と泥絵 異国文化から生まれた「工芸的絵画」」日本民藝館
  • 「ART in LIFE, LIFE and BEAUTY」サントリー美術館
  • 「The UKIYO-E 2020 日本三大浮世絵コレクション」東京都美術館
  • 「開校100年 きたれ、バウハウス 造形教育の基礎」東京ステーションギャラリー
  • 「ピーター・ドイグ展」ほか 東京国立近代美術館
  • 「ひらいてみよう 美術の扉」ほか 府中市美術館
  • 「第67回 日本伝統工芸展」日本橋三越
  • 「モノクロームの冒険」根津美術館
  • 東村山ふるさと歴史館
  • 「もうひとつの江戸絵画 大津絵」東京ステーションギャラリー
  • 「敦煌写経と永樂陶磁」三井記念美術館
  • 「永青文庫名品展 没後50年“美術の殿様”細川護立コレクション 前期」永青文庫
  • 「鏡中之美 鏡が映し出すもの」大和文華館
  • 中野美術館
  • 興福寺国宝館
  • 信貴山朝護孫子寺霊宝館
  • 東大寺ミュージアム
  • 「日本美術の裏の裏」サントリー美術館
  • 「分離派建築会100年展」パナソニック汐留美術館
  • 「木工藝 須田賢司と五人の作家展」日本橋三越本店 本館6階 美術工芸サロン
  • 「特別展 工藝2020 自然と美のかたち」東京国立博物館
  • 「アイヌの美しき手仕事」日本民藝館
  • 「式場隆三郎 脳室反射鏡」練馬区立美術館
  • 「桃山 天下の100年」東京国立博物館
  • 「民藝の軌跡 ポストEXPO’70の作家達」大阪日本民藝館
  • 「先住民の宝」国立民族学博物館
  • 「天平礼賛」大阪市立美術館
  • 「没後10年 井上ひさし展 希望へ橋渡しする人」世田谷文学館
  • 「林妙子・柴田克哉 二人展」ギャラリー山咲木
  • 「平安の書画 古筆・絵巻・歌仙画」五島美術館
  • 「ベルナール・ビュフェ回顧展 私が生きた時代」Bunkamura ザ・ミュージアム
  • 「根津美術館の国宝・重要文化財」根津美術館
  • 「河鍋暁斎の底力」東京ステーションギャラリー
  • 「佐藤和彦 陶展 酒器を中心に」西武池袋本店 アートギャラリー

 

 

今年聴講した講座、講演、各種見学、参加したワークショップなど(敬称略、陶芸関係は除く)

  • 国立民族学博物館友の会 第128回東京講演会 「消滅の危機に瀕した言語」 吉岡乾(国立民族学博物館准教授)モンベル御徒町店
  • 第21回 NHK全国俳句大会 NHKホール
  • 大手町アカデミア・人間文化研究機構 無料特別講座 「食べるフィールド言語学 「Food x 風土」の視点から」 吉岡乾(国立民族学博物館准教授) 読売新聞ビル3階 新聞教室
  • ほぼ日の学校 亀山郁夫さんとドストエフスキー速攻まるかじり 全3回 渋谷PARCO「ほぼ日曜日」
  • アーティストトーク「脈動―溶けるリズム」児玉幸子(メディアアーティスト、公開制作作家)「脈動―溶けるリズム」、加藤有希子(埼玉大学准教授、近現代美術史)「穢れのない闇、穢れのない光―それは綺麗という意味ではない」府中市美術館
  • みんぱくバックヤードツアー 国立民族学博物館

 

 

今年訪れた飲食店(単身利用は除く、また、記載に値しないと思われたところも除外)

  • 満留賀(埼玉県久喜市鷲宮)
  • ビストロ キフキフ(東京都港区高輪)
  • すし屋 銀蔵 戸田公園店(埼玉県戸田市本町)
  • 天野屋(東京都千代田区外神田)
  • 味噌煮込みうどん 玉丁本店 八重洲店(東京都中央区八重洲)
  • 古奈屋 丸の内オアゾ店(東京都千代田区丸の内)
  • 青のこと(東京都調布市布田)
  • 讃岐饂飩 おごっと 新宿南口店(東京都新宿区西新宿)
  • 京王プラザホテル 南園(東京都新宿区西新宿)
  • 西安料理 シーアン(東京都新宿区西新宿)
  • ラ・ブラッスリー シェ松尾 渋谷東急本店(東京都渋谷区道玄坂)
  • さんぽ道(埼玉県行田市大字埼玉)
  • 榮太樓 雪月花 日本橋三越本店(東京都中央区日本橋室町)
  • 銀座洋食 三笠會館 江戸東京博物館店(東京都墨田区横綱)
  • ホテルオークラ レストラン ゆりの木 東京国立博物館(東京都台東区上野公園)
  • 兵庫陶芸美術館 レストラン 虚空蔵(兵庫県丹波篠山市今田町)
  • 篠山観光ホテル ぼたん鍋専門店 ぼたん亭(兵庫県丹波篠山市北新町)
  • 人形町今半 上野広小路店(東京都台東区上野)
  • つけめんTETSU 調布店(東京都調布市布田)
  • 特別食堂 日本橋 東京會館(東京都中央区日本橋室町)
  • ふくい望洋楼(東京都港区南青山)
  • ますも庵(東京都東村山市本町)
  • リストランテ リンコントロ(奈良県奈良市薬師堂町)
  • 依水園 食事処 三秀(奈良県奈良市水門町)
  • 松江の味 日本橋 皆美(東京都中央区日本橋)
  • 韻松亭(東京都台東区上野公園)
  • パカラ堂(大阪府大阪市中央区高津)
  • 日本料理 つる家(大阪府豊中市新千里東町)
  • 揚子江菜館(東京都千代田区神田神保町)

 

 

今年贈答品に利用した店

  • パティスリー ルミュー(東京都調布市西つつじヶ丘)
  • 成城アルプス(東京都世田谷区成城)
  • ワインショップ・エノテカ 丸の内店(東京都千代田区丸の内)
  • パティシエ ショコラティエ イナムラ ショウゾウ(東京都台東区谷中)
  • 日本橋三越本店(東京都中央区日本橋室町)
  • JAマインズ マインズショップ調布サウスゲート店(東京都調布市小島町)
  • 株式会社ユナイテッドオーシャン(東京都中央区新富)
  • TORAYA TOKYO(東京都千代田区丸の内)

 

 

今年利用した宿泊施設

  • 篠山城下町ホテルNIPPONIA(兵庫県丹波篠山市西町)
  • NIPPONIA HOTEL 奈良 ならまち(奈良県奈良市西城戸町)
  • 千里阪急ホテル(大阪府豊中市新千里東町)

 

 

いずれも素晴らしいものでした。関係者の皆様に感謝申し上げます。今年は或る感染症の世界的流行に伴う様々な混乱等もあり、ここに挙げた施設のなかには本日時点で営業を終了しているところもあります。しかし、縁というものは思わぬところでつながっているものです。またどこかでなにかの形でお世話になるでしょう。どうぞいつまでもよろしくお願いいたします。


ありがとう 2020年前編

2020年12月31日 | Weblog

今年読んだ本

  • 柳田国男『木綿以前の事』岩波文庫
  • 谷賢一『戯曲 福島三部作』而立書房
  • 柳田国男『海の道』岩波文庫
  • 大岡信『折々のうた』岩波新書
  • 北山茂夫『万葉群像』岩波新書
  • 吉田篤弘『神様のいる街』夏葉社
  • 関口良雄『昔日の客』夏葉社
  • 島田潤一郎『古くてあたらしい仕事』新潮社
  • 丸山真男『日本の思想』岩波新書
  • 山本善行/清水裕也『漱石全集を買った日』夏葉社
  • 永井宏『永井宏散文集 サンライト』夏葉社
  • 安丸良夫『神々の明治維新 神仏分離と廃仏毀釈』岩波新書
  • シュレーディンガー 著 岡小天・鎮目恭夫 訳『生命とは何か 物理的にみた生細胞』岩波文庫
  • 永田和宏『象徴のうた』文藝春秋
  • 『庄野潤三の本 山の上の家』夏葉社
  • 小泉武夫『漬け物大全』講談社学術文庫
  • 野呂邦暢『愛についてのデッサン 佐古啓介の旅』みすず書房
  • 世阿弥『風姿花伝』岩波文庫
  • 豊田健次編『白桃 野呂邦暢短篇選』みすず書房
  • 野呂邦暢『草のつるぎ 一滴の夏』講談社文芸文庫
  • 岡崎武志編『夕暮の緑の光 野呂邦暢随筆選』みすず書房
  • 佐伯梅友校注『古今和歌集』岩波文庫
  • 佐々木信綱校訂『新訂 新古今和歌集』岩波文庫
  • 速水融『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ 人類とウイルスの第一次世界戦争』藤原書店
  • 桂米朝『上方落語ノート』(全四巻)岩波現代文庫
  • 中野三敏『江戸名物評判記案内』岩波新書
  • 古川日出男訳『平家物語』河出書房新社
  • 斎藤茂吉校訂『金槐和歌集』岩波文庫
  • 直木考次郎『奈良 古代史への旅』岩波新書
  • 林屋辰三郎『京都』岩波新書
  • 『全著作 森繁久彌コレクション』(全5巻)藤原書店
  • 亀山郁夫『ドストエフスキー父殺しの文学』(上下)NHKブックス
  • バーバラ・W・タックマン著 山室まりや訳『八月の砲声』(上下)ちくま学芸文庫
  • 魯迅 著 竹内好 訳『阿Q正伝・狂人日記 他十二編(吶喊)』岩波文庫
  • 加藤九祚『シベリアに憑かれた人々』岩波新書
  • 加藤九祚『シルクロードの古代都市 アムダリヤ遺跡の旅』岩波新書
  • 赤松明彦『インド哲学10講』岩波新書
  • 大友浩 編著『落語家のことば 芸の生まれる現場から』芸術新聞社
  • 樺山聡『京都・六曜社三代記 喫茶の一族』京阪神エルマガジン
  • 柳宗悦『南無阿弥陀仏』岩波文庫
  • 柳田国男『遠野物語・山の人生』岩波文庫
  • 川喜田愛郎『生物と無生物の間』岩波新書
  • 宮本常一『山に生きる人びと』河出文庫
  • 『一遍上人語録』岩波文庫
  • 『一遍聖絵』岩波文庫
  • 本間順治『日本刀』岩波新書

 

購読中の定期刊行物

  • 月刊『みんぱく』 国立民族学博物館
  • 季刊『民族学』 千里文化財団
  • 年3回刊『青花』 新潮社
  • 月刊『角川 短歌』 角川文化振興財団

 

今年観た映画など

なし 

 

今年聴いた落語会・演劇・ライブなど

  • 国立能楽堂 企画公演 釈迦と閻魔
    大岡政談 しばられ地蔵 宝井琴調
    地獄八景亡者戯 桂米團治
    朝比奈 野村萬斎
  • ちょうばxりょうば ふたり会
    看板のピン 桂ちょうば
    ガマの油売り 桂りょうば
    藪入り 桂ちょうば
    蜆売り 桂りょうば
    らくごカフェ
  • 文楽 桂川連理柵
    六角堂の段
     豊竹咲寿太夫 竹本小住太夫 豊竹亘太夫 鶴澤清馗
    帯屋の段
     竹本織太夫 鶴澤燕三
     豊竹藤太夫 鶴澤清友
    国立劇場 小劇場