熊本熊的日常

日常生活についての雑記

読書月記2020年5月

2020年05月31日 | Weblog

佐伯梅友校注『古今和歌集』岩波文庫

『万葉集』に続く勅撰和歌集が『古今和歌集』。この間、約130年。平安期はもっぱら漢詩が詠まれたのだそうだ。『古今集』には仮名序と真名序がある。内容はほぼ同じだが全く同じというわけではない。なぜほぼ同内容のものが仮名と漢文で記載されているのか。ほぼ同内容だが全く同内容でないのは何故か。研究者の間では当然なのかもしれないが、私は全く知らない。

その序にこうある。

和歌は、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける。世の中にある人、事・業しげきものなれば、心に思ふ事を、見るもの聞くものにつけて、言ひだせるなり。花に鳴く鶯、水に住むかはづの声を聞けば、行きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛き武士の心をもなぐさむるは、歌なり。

夫和歌者、託其根於心地、発其華於詞林者也。
人之在世、不能無為、思慮易遷、哀楽相変。感生於志、詠形於言。
是以逸者其声楽、怨者其吟悲。可以述懐、可以発憤。
動天地、感鬼神、化人倫、和夫婦、莫宜於和歌。

そうかな、と思うのである。歌を詠む人は、たぶんこれを読んで同意する。私は歌人のような感性は持ち合わせていないので、歌を詠んで日々送っている人のことを聞くと、その人の暮らしを支えている人々のほうに関心が向いてしまう。歌を詠んで毎日を送っている人も当然に腹は減るだろうし、所謂生活必需品を所有したり消費したりしていたはずだ。そういうものを供給していた人々の暮らしはどうだったのだろう、と、そっちのほうが気になってしまう。生活の心配や不安などなしにラブレターのような歌を詠みかわしてキャッキャしたり思い悩んだり、馬鹿じゃないかと思うのである。そんな奴等が何百年も生きながらえて「我が家は先祖代々歌詠みで」などと目の前で言われたら、即刻射殺する。

『万葉集』には山上憶良の貧窮問答歌が収載されている。本人の暮らしを詠んだものではないだろうが、役人として庶民の暮らし向きに関心を払うのが健康な国家だと思うのである。それが『古今』にはない。奈良時代と平安時代との大きな違いがそこにあるような気がする。

時代の流れとして、「社会」の名の下に人が階層分けをされ、その差異が大きくなる。しかし、身分が固定化されるのではなく、上下の動きは担保されるようにして、成り上がったり没落したりする余地は残す。そうすることで社会が有機体のように動くようなメカニズムを持つ。そういうガス抜き機構のようなものを設けることで、社会が生命を得る、というようなことだろうか。おそらく、歌は特権階級のアイコンだったのではなかろうか。

 

佐々木信綱校訂『新訂 新古今和歌集』岩波文庫

 

早見融『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ 人類とウイルスの第一次世界戦争』藤原書店

本書の「あとがき」の日付は2005年12月。初版の発行が2006年2月28日。速水先生は昨年亡くなられたので、当然、今回のコロナ騒動は本書には反映されていない。しかし、まるで昨日今日発売されたとしてもおかしくない内容だ。今、この時期に読む所為もあるだろうが、終章の最後の段落が印象的だ。

「結論的にいえば、日本はスペイン・インフルエンザの災禍からはほとんど何も学ばず、あたら四十五万人の生命を無駄にした。「天災」のように将来やって来る新型インフルエンザや疫病の大流行に際しては、医学上はもちろん、嵐のもとでの市民生活の維持に、何が最も不可欠かを見定めることが何より必要である。つまり、まずスペイン・インフルエンザから何も学んでこなかったこと自体を教訓とし、過去の被害の実際を知り、人々がその時の「新型インフルエンザ・ウイルス」にどう対したかを知ることから始めなければならない。なぜなら、人類とウイルス、特にインフルエンザ・ウイルスとの戦いは両者が存在する限り永久に繰り返されるからである。」(436頁)

それにしても100年前の「新型」インフルエンザ騒動と今のそれとが、少なくとも本書を読む限りは、たいして変わらない。医学もそのほかのこともこの100年でずいぶん変化したと思うのだが、そう見えるだけで、実は基本のところは変わっていないのかもしれない。人間というものが100年程度の時間では変わらないのだから、知識であるとか技術であるとか、上辺のことが多少変化したしたいのところで、どうというほどのことではないのかもしれない。

結局のところ、人は上辺のことで大騒ぎをしたり右往左往することに生き甲斐を見出しているのだろう。ウイルスを敵に見立てて「戦う」ことに興奮したいのだろう。人はそういう生き物なのである。

ところで、ウイルスというのは人間にとって本当に排除しなければならない存在なのだろうか。

 


ありがたい

2020年05月27日 | Weblog

相変わらず我が家にはテレビが無いので、世間の騒ぎというものがよくわからない。それでも、ネットで知ることのできるニュースや生活のなかで体験したり見聞することで少し気になることがある。コロナ騒動で一律にひとり10万円いただけるらしい。それで役所には人が大勢やってきてたいへんなことになっているらしい。一律に支給するなら「申請」というのは不要なのではないか、と思うのだが、一律にいただけるものを何故「申請」する必要があるのかという事情については説得力のある話を聞いたことがない。

何はともあれ、外出自粛中の連休の最終日に所定のサイトからその「申請」を行った。自分がもはや暮らしていない家のローンの返済とか、今暮らしている団地の家賃とか、クレジットカードなどの引き落としが集中する月末に近い頃、市役所から20万円(夫婦2人分)が振り込まれていた。申請したのは日曜日だったので、平日で数えると申請から13日目ということになる。突然決まった事務作業でありながら、おそらく通勤自粛で普段よりも事務能力が低下している中、わずか2週間ほどで申請から給付まで行うというのは、大したものだと思う。よく「お役所仕事」という言葉を悪い意味で使うが、役所の力というのはありがたいものだ。

それにしても、今回の騒動での国からの「支援策」というものは、後先考えたとは思えない大盤振る舞いだ。目の前の喫緊の危機に対応しなければならないのだから、少し余計目にばら撒いておくというのは、多分、為政者として正しい姿勢だ。財源は全て国債の発行らしい。その国債を消化するのは主に国内金融機関だろうから、要するに国民自身が負担することになる。この国の財政はかなり国債に依存しており、尺度によっては第二次世界大戦当時を超えている。この先、台風や大地震で復興費用が発生すれば、また国債を発行して賄わないといけない。一方で、少子高齢化で国力という漠然としたものは衰退フェーズにある。おそらく人心の方も衰退フェーズだ。だから急に困ると自分の知恵を働かせようともせずにどこからかのお恵みに縋ろうという姿勢を恥ずかしげもなく晒す。そして、緊急事態を収めようと必死で働いている人を邪険に扱ったり、「ウイルスをばら撒いている」などと凡そ人間とは思えないようなことを吐かす輩すらいる。世間にはいろいろな人がいるものなので、そういう不愉快な現象もあって当たり前ではある。自分はもう先が無いので、特に何の心配もしていないが、若い人たちは大変だ。その割に、端で見ていると呑気に見えるのは、彼等がそういう世間の間抜けな様子を目の当たりにして何事かを悟り鷹揚に構えている所為なのか、単にメデタイ所為なのか。


読書月記2020年4月

2020年04月30日 | Weblog

野呂邦暢『愛についてのデッサン 佐古啓介の旅』みすず書房

今まで全く知らなかった作家。夏葉社の本を次から次へと読んだとき、『昔日の客』に登場していた作家のひとりが野呂邦暢で、『昔日の客』という書名の基になるエピソードが記されている。『昔日の客』の著者である関口良夫と彼が営んでいた古本屋「関口書房」のことが野呂が西日本新聞の夕刊に書いていた随筆のほうにも登場する。示し合わせたわけではないだろうが、互いに忘れえぬ人であったというのが面白い。『昔日の客』のほうでは野呂が『草のつるぎ』で芥川賞を受賞した1974年2月に授賞式に出席するために上京する前後のことが書かれている。授賞式の2、3日後、野呂は夫人とともに関口書房を訪れた。関口が描写する野呂夫妻は仲睦まじい印象だが、野呂は1979年に離婚し、1980年5月7日に自宅で自殺した、という。

ところで本書だが、家業の古本屋を営む20代の男性が主人公の連作短篇。本書のオリジナルの刊行は1979年7月。古本を取り巻く環境は今とはだいぶ違っていると思うが、自分はその時代を生きているので、描写は素直に受け容れることができる。それで感じたのだが、人と人との交渉がネットで気軽にできる今のほうが、相手のことがわかりにくくなっている。用件が済めば相手の人としての総体など知る必要がないし、物事の「効率」という表層を撫でることだけに価値が置かれるようになったので、用件以外のことに関心を払う動機もなければ余裕もない。用件は表層のことで終始することが多く、そういうものを多少積み上げたところで何が生まれるわけでもない。用件の背景、それこそ相手の人となりなどは、下手に踏み込むと厄介なだけだ。

しかし、本書の舞台装置である古本、それにまつわる五感総動員の調べもの、そこから自ずと生まれる人と人との関係性、そうしたところから対象だけでなく自分自身の思わぬ「真実」に気付くことにまでなるという、そうした奥行にこそ生きることの愉しさがあると思う。そういう気付きを与えてくれる作品だ。

 

世阿弥『風姿花伝』岩波文庫

高校生の頃、放課後に通っていた駿台の古文の先生が自らの仕事に対する姿勢の指針として『花伝書』がある、とおっしゃっていた。そのことがずっと気になっていて、いつか『花伝書』というものを読んでみようと思ってはいたのだが、古文ということもあって取っ付きにくく、今まで手に取ることがなかった。人生の終わりに臨んで、ようやく読むことになった。『花伝書』自体は至る所で様々に引用されているので、つい見知っているように感じがちなのだが、読んでみて「花」の意味するところがようやく腑に落ちたような気がする。

本書自体は能の稽古に対する心構えを説いたものだ。能という芸能についての考え方を言葉を選び抜いて語っている。言葉だけで通じることというのは大したことではない。言葉は理解の切っ掛けを与えるものにすぎない。おそらく本書を読む、あるいは本書の内容を聞く、能や芸能について常々深い思考を巡らせている人だけが、本書のエッセンスを理解できるのだろう。例えばこんな箇所がある。7歳から稽古を始めると12・3歳のあたりではそれなりに上達する、その段階について語っているところだ。

さりながら、この花は、誠の花には非ず。ただ、時分の花なり。(14頁)

だから、猶更しっかりと基礎を訓練しないといけないというのである。それが50歳頃になると

この比よりは、大方、せぬならでは、手立あるまじ。「麒麟も老いて駑馬に劣る」と申すことあり。さりながら誠に得たらん能者ならば、物数はみなみな失せて、善悪見所は少なしとも、花は残るべし。(21頁)

というのである。こんなところを読むと人生の終わりに読むような本ではないと思うのだが、不思議と「良いことが書いてあるなぁ」と自然に感心してしまう。こういう感覚は、やはり老いてこその面白さだ。直面はまさに面構えの話。

顔気色をば、いかにもいかにも、己れなりに繕わで直に持つべし。(28頁)

あるがままにせよ、という。つまり、あるがままで様になる顔になるような生き方をしろということだろう。そういうと漠然としているが、例えば、

人のわろき所を見るだにも、我が手本なり。いわんや、よき所をや。「稽古は強かれ、諍識はなかれ」とは、これなるべし。(50頁)

ということだ。そして、日々研鑽を重ねると

ただ識の花は、咲く道理も、散る道理も、心のままになるべし。されば、久しかるべし。(58頁)

という段階に至る。

そもそも、芸能とは、諸人の心を和らげて、上下の感をなさん事、寿福増長の基、超齢・延年の法なるべし。(75頁)

芸能は人を人ならしめる基と言ってもよいだろう。そこに、

秘する花を知る事。秘すれば花なり、秘せざるは花なるべからず、となり。この分け目を知る事、肝要の花なり。(103頁)

という有名な言葉が活きるのである。なるほど、と思う。

 

豊田健次編『白桃 野呂邦暢短篇選』みすず書房

不安な時勢のなかで読む所為もあるかもしれないが、小説というものは良いものだとつくづく思った。小説を読んでこれほど感心したのは初めてかもしれない。米朝や志ん朝の噺も良いが、野呂の短編も心にしみる。

短篇選でどの作品も同じように面白いというわけではないのだが、表題作「白桃」、原爆が落ちた日のことを描いた「藁と火」、労働組合と公害が話題になっていた頃のことと思しき「鳥たちの河口」、時代に取り残されたかのような人が最期を前に一花咲かせる「花火」は印象深い。

「白桃」の弟の目線が痛い。弟から見た兄は、おそらく世間の体制派の象徴だ。兄にも苦悩はあるはずなのだが、主流から外れているとの認識に囚われている弟からすれば、眩しいばかりに上手く立ち振る舞っているように見えてしまう。第三者から見れば、それでも仲の良い兄弟に見えるだろう。自分にとっての世界と世界から見えるらしい自分とのギャップに違和感を覚えるというのは程度の差こそあれ誰しもが抱えていることではないか。たぶん、そのギャップが所謂「生命力」に通じている。それを埋めるべく人は思考し行動する。

原爆のことはもちろん体験していない。しかし、原爆のことも含め戦争でコテンパンに負けた国で生まれ育って今日に至っている。意識するとしないとにかかわらず原爆のことも戦争のこともいろいろなことを聞いたり読んだりしてきた。「藁と火」を読んでも初めての話のようには感じられない。自分が知っていると思っている一連の流れから或る家族のエピソードを抜き出したもので、自分がこの家族のその後のことまで知っているかのような錯覚を抱えながらドキドキして読むのである。自分がどこかの国の国民として生きるというのはそういうことなのだと思う。

同じことは「鳥たちの河口」でも言える。戦後の復興のなかで、新しい国を創るべく民主主義という借り物の錦の旗の下で、復興一辺倒で復興の主体であるはずの人間のことをそっちのけにして表層だけをシャカリキに取り繕ってきて今がある。そういう認識があるので、労働運動に翻弄されているらしい主人公を、醒めた目でしか見ることができない。物語の主人公は失業保険の給付金と退職金を手にして、それを使い尽すまで鳥の観察をして過ごす。それでも、縁あって新しい土地に引っ越して新しい生活をはじめる算段はついている。鳥の観察は、おそらく主人公と世界をつなぐ術だ。膨大な観察記録をものにし、たぶんある瞬間においては主人公の命の証なのかもしれない。それまでの生活の終わりに臨み、主人公はその観察記録を焼却する。そのことが自然なことのように思われる。私は日記をつけている。もうだいぶたまったが、いつか全部一遍に燃やしてしまおうと思っている。

「花火」は良い話だと思う。人は生まれようと思って生まれるのではない。意図せず生をあてがわれるのである。生きていることの根源にある不安の正体は、それが意図してないことにある。意図していないのに今在ることへの違和感を誰にとっても穏やかに収めるには互いを尊重すること以外にない。世の中を平穏に収めるためには、明日があると当たり前に思う共同幻想を確立させることだ。それはたぶん、銭金や競争のことではないし、宗教でも政治でもない。

 

野呂邦暢『草のつるぎ 一滴の夏』講談社文芸文庫

野呂の文章の美しさ、読んだ時の心地よさは、言葉が選び抜かれているところにある気がする。歌や俳句と同じなのだ。歌や俳句は短すぎて詠み手と読み手との間で共有されるべきものが大きいのだが、小説となるとそうしたハードルがかなり低くなる。しかし、それに甘えることなくストイックに言葉を選び紡いでいくところに生まれる美なのだと思う。

 

岡崎武志編『夕暮の緑の光 野呂邦暢随筆選』みすず書房

「小説は題名が決まれば三分の二は出来上がったのもどうぜんだ」(147頁、「小説の題」)と言われて、なんとなく腑に落ちた。物語の核を一言で表現したのが題なのだろう。核が決まれば、雪だるまをつくるようにそれを転がして形にしていく。たぶん、それは小説に限ったことではなく人の暮らしとか人生の多くのことに当てはまる。一言にならないことは内容が無いとか、理解が欠けているとか、ろくなものではないのである。自分が生活のなかで体験すること、考えること、それを一言で表してみる。うまくできれば自分の身の中に収まっているということであり、そうでなければいくらこねくりましたところで芽は出ないということなのだ。具体的になにがどうということではなしに、なんだかとても良いことを聞いた気がする。

ところで野呂の随筆だが、これがまたいい。読んでいて自分が良い時間を過ごしていると思える。彼は生活の実感をとても大切に生きていたことが伝わってくる。やっぱりそうだよな、と思うところがたくさんあった。

 


幻ふだんのちゃわん 最終日

2020年04月12日 | Weblog

ふだんのちゃわんは中止となったが、会場で配布を予定していた日替わりのチラシがある。以下は本日分。

ちゃわんの値打ち
 
昨日触れた「はてなの茶碗」のほかに、落語には「井戸の茶碗」、「猫の茶碗(猫の皿)」といった茶碗の噺があります。これらに共通するのは価値を語っていることです。

「はてなの茶碗」は、茶店で使う清水焼の安手の数茶碗が茶道具として時の富豪の手に収まるという話です。鍵を握る人物は京都の高名な道具屋。この人が指さしただけでそのものに何十両もの値が付くという有名人です。彼が或る茶店で一服したときに出されたのが、一見すると何の障りもないのに漏る茶碗でした。不思議だと思い、覗き込んだり透かして見たりした末に、「はてな」とつぶやいて茶代を置いて店を出ます。その様子を近くで見ていた別の客が、茶店のオヤジから奪うようにしてその茶碗を手に入れ、その道具屋に持ち込みます。茶碗自体は安手の数茶碗ですから店では門前払い同様の扱いですが、道具屋が数日前に手にした漏れ茶碗であることがわかって話は急展開。道具屋は自分が市井の人々の間で知られていることに感激して、その茶碗を客が茶店のオヤジに払ったという2両に足代として1両加えた3両で買い取ります。後日、道具屋が出入り先の鷹司公との雑談のなかでこの話をすると、その茶碗が見たいといわれます。茶碗を見せると鷹司公は面白がって、その茶碗に歌を付けました。公家の間で茶碗の噂が広がり、時の帝も見たいと宣います。茶碗は綺麗に誂えられて帝の前へ。帝も面白がって、茶碗に帝の箱書きが乗ります。それを時の富豪が欲しがって千両の値を付けました。70-80文の数茶碗が道具屋の手を経て様々に価値が付き、千両(注) の名物へ大出世するわけです。

作り話であるには違いないでしょうが、価値とは何かということを雄弁に語っているから人々に受け容れられて、こうして今日に残るのでしょう。現実に茶道具の世界では本来は雑器であった井戸茶碗が名物として珍重されることがあります。最初から茶道具として作られる茶碗にしても、作り手のブランドがモノを言います。茶碗そのものの技巧や製造費用といったものとは没交渉に、茶碗を巡る物語、茶碗を媒介とした関係性の総体が茶碗の価値となるのです。

一般に、価格は需給で決まり、価格が需給に影響を与えます。しかし、人が何を欲するのか、ということはそう単純な話ではないでしょう。今ここで手にした1,000円の茶碗の価値は、これから如何様にもなるのです。

注:江戸時代初期から中期にかけての公定相場は1両=4,000文程度であったが、後期は6,500文、幕末の実勢相場は8,000文ほどになったらしい。(日本銀行金融研究所貨幣博物館『お金の豆知識 江戸時代の1両は今いくら?』)


幻ふだんのちゃわん 4日目

2020年04月11日 | Weblog

ふだんのちゃわんは中止となったが、会場で配布を予定していた日替わりのチラシがある。以下は本日分。

ちゃわんが変わる
 
陶器の器は使っているうちに嵌入に汚れが蓄積されてきます。それを「景色」と呼んで尊ぶ人もいれば、「汚れ」と感じて漂白剤などで洗浄したり、器を処分してしまう人もいます。どちらが良いとか悪いとかいうことではなく、同じ物理現象が人によって正反対に認識されるということです。

嵌入というのは陶磁器の表面のひび割れです。陶磁器は土の地に釉薬を掛けて焼成します。釉薬は様々な種類がありますが、ざっくり言ってしまえばガラス質です。地の土と、それを覆うガラスとは収縮率の違いがあるので焼成をしたときに表面に負荷がかかり大小無数のひびが入ります。しかし、よほど酷くない限り、嵌入が使用の障りになることはありません。

使用しなければそのままですが、食器や花器などとして使用すれば、たとえ湯水しか入れないとしても湯垢水垢が付着します。仮に全く同じ茶碗がいくつかあったとして、それらが別々の人の手に渡り、同時に使い始められ、同頻度の使用がなされたものとします。何年か後、それらの茶碗を比べると別物のようになるでしょう。それぞれの使われ方に応じて、使用跡の蓄積も違ったものになります。茶碗は無機質ですが、使う人の色に染まるのです。

無機質が有機的に変化するのは陶磁器に限ったことではないでしょう。私が今暮らしているのは昭和40年代前半に竣工した旧公団住宅(現UR住宅)です。私が暮らし始めたのは7年ほど前のことですが、入居に先立って部屋をいくつか内覧しました。同じ間取り、同じ築年数なのに部屋によって表情が違うことに驚きました。今暮らしている住戸を選んだのは、駅までの距離とか階数といった係数も判断材料ではありますが、部屋の雰囲気というような何とも説明のしようのないことも関係しています。

茶道具となると、茶碗の物理的な変化もさることながら、誰の手から誰の手へ移ったかという来歴、その時々の持主が誂えた仕服、箱書き、といったその茶碗を巡る物語がモノを言います。同じ窯から出た同じような茶碗が持主の違いで雑器にも名物にもなるのです。落語に「はてなの茶碗」というのがありますが、モノの価値というものを語るよくできた噺だと思います。

無機物ですら長年の使用を経てそれぞれの変化を示すのですから、生き物であれば長年の関係性の積み重ねで如何様に変化しても不思議はないでしょう。最期の瞬間まで人はどのようにでもなることができるような気がします。


幻ふだんのちゃわん 3日目

2020年04月10日 | Weblog

ふだんのちゃわんは中止となったが、会場で配布を予定していた日替わりのチラシがある。以下は本日分。

ちゃわんが割れても
 
陶磁器は所謂「こわれもの」です。たぶん、多くの人は茶碗を割ってしまうと、そのまま廃棄するのではないでしょうか。しかし、陶磁器は補修を施すことができます。

例えば、東京国立博物館に「馬蝗絆」という銘の青磁茶碗があります。美しい形ですが、割れていて、それを鉄の鎹で継いであります。その鎹を蝗に見立ててこの銘が付けられたそうです。一度割れて継いでありますが、重要文化財です。継いだから重文なのか、継ぎがなければ国宝になったのか、私は知りませんが、割れた茶碗に鎹を打って補修する、それを後生大事に扱うということがこの国の美意識について何事かを語っているように思われます。

大阪の東洋陶磁美術館には志賀直哉から東大寺元管長・上司海雲師に贈られ、長らく東大寺塔頭の観音院に飾られていた白磁の壺があります。この壺は盗難に遭い、犯人が落として割ってしまいました。相談を受けた同館が破片一切を回収、修復したものです。修復は同館から専門の職人に依頼しました。修復の際に補修痕をわからないようにするか、敢えて補修痕を残すか選択できたそうです。同館は後者を選びました(注) 。それでも、この盗難の一件を知っていて、補修痕を探らないとそれとはわからないくらい見事に修復されています。補修痕をわからないようにすることもできるのに敢えて痕を残したのは何故でしょうか。

名古屋の名物に味噌煮込みうどんがあります。一人用の小さな土鍋で調理されてそのまま配膳されますが、この土鍋が針金でぐるぐる巻きにされているものに遭遇することがあります。食器として使われる陶磁器と違って、調理器具として使われる陶磁器は直火に晒されるので熱変化が大きく、しかも商売道具となると使用頻度も高くなります。家庭用の陶磁器とは比べ物にならない大きな負荷がかかりますから、針金の応援を仰ぐわけです。それを客に出し、客もそれを当然のことと受け容れます。

故意に割って継いだ茶碗というのもあります。三井記念美術館にある「須弥」という銘の井戸茶碗には「十文字」という別名があります。十字に断ち切って漆で継いだので継ぎ目が十文字になっている茶碗です。

割れても使う、割って使う、割れないようにして使う。使い方、使う姿勢も意識するしないにかかわらず使い手の自己表現です。

注:伊藤郁太郎(東洋陶磁美術館 初代館長)講演「李朝白磁の偏屈さを読む」2018年11月2日 日本民藝館


幻ふだんのちゃわん 2日目

2020年04月09日 | Weblog

ふだんのちゃわんは中止となったが、会場で配布を予定していた日替わりのチラシがある。以下は本日分。

ちゃわんをつくる
 
陶芸作品を素材で大別すると陶器と磁器があります。陶器は陶土、つまり粘土で作るものです。磁器は磁土、すなわち陶石と呼ばれる長石を主成分とする石を破砕精製したもので作ります。他に、陶器と磁器の中間的な性質を持つ炻器と呼ばれるものがあります。

素材の違いは制作方法にも反映されます。土を練って成形して焼成する、という流れは同じですが、成形に際し、陶器は土を挽くところが要となりますが、磁器は挽いた後の削りが相対的に肝要となります。私が通う教室では陶器も磁器も制作できるようになっていますが、私はまだ磁器を作ったことがありません。

作品の制作は土を練るところから始まります。陶磁器の産地では、土を作るところから始まると言うでしょう。私は土を作ったことはないので、土作りのことはわかりません。土を練る工程は、荒練りと菊練りのふたつの工程で構成されます。おおまかには、荒練りは土を均質にするための作業で、菊練りは土のなかの気泡を抜くための作業です。

陶芸教室などで使われる陶芸用の土は既にかなり均質の状態で流通しているので、荒練りは均質にするというよりも自分の欲しい柔らかさにするための練りと言えます。菊練りは土を菊の花のような模様にしながら練るのでその名があるのですが、土の動きとともに内部の気泡とか異物のようなものが外側に押し出されてきます。菊練りによって轆轤で土が暴れたり異物が引っ掛かたりせずに成形できるようにします。

成形には手捻り、手捏ね、板作り、型押し、轆轤、鋳込みなどがあります。作りたいものの形状に応じて手法を使い分けます。こうした手法で成形したものを、手に持って歪まない程度に乾燥させて箆や鉋で最終的に求める形に削ります。厚さを適切に整えることが重要です。

成形したものはゆっくりと乾燥させた上で焼成します。土質にもよりますが、一般的には、800度程度で素焼きをした後、下絵付けをしたり釉薬をかけたりして、1,200度から1,300度くらいで本焼きをします。素焼きをせずに本焼きだけというものもありますし、本焼きも800度程度の低温ということもあります。

工程の所要時間としては成型後の乾燥が最も大きな割合を占めますが、どの工程もそれぞれに大事です。イメージに沿う作品に仕上げるには、各工程での面倒や不都合を次の工程に持ち越すことなく各工程でやるべきことを可能な限りやりきることが肝要だと思います。


幻ふだんのちゃわん 1日目

2020年04月08日 | Weblog

ふだんのちゃわんは中止となったが、会場で配布を予定していた日替わりのチラシがある。以下は本日分。

縁起
 
陶芸を始めたのは2006年10月です。都内のカルチャース年半クールの陶芸講座を受講しました。途中1ほど転居のために中断がありますが、以来今日に至るまで同じ陶芸教室に通っています。一度だけ美大の通信教育を受講して、スクーリング授業として陶芸を選択したことはあります。陶芸の経験はそれが全てです。自分の工房と窯を持ち生業のようにして制作をしてみたいと思うこともありますが、給与生活のぬるま湯から踏み出せないままに過ごしています。

陶芸を始めようと思ったきっかけは、今となっては記憶にありません。ただ、絵を習おうか陶芸にしようかという漠然としたものがあったのは確かで、友人との何気ない会話のなかで陶芸を勧められたことは覚えています。たまたまその友人の母親が勤めを定年でやめて陶芸と絵画を習い始めたという話を聞きました。絵は描いた後の始末に困るが陶芸は作ったものを使うことができる、というのです。妙に納得して、陶芸教室を探しました。ネットで検索して、なんとなく今の教室を受講することにしました。

始めてみると楽しかった、というだけでここまで続いています。最初に師事した先生から、陶芸作品だけでなく絵でもなんでもいろいろなものを見るといいと助言を受けました。同じ頃、たまたまロンドン勤務から帰国したかつての勤め先の同僚と話す機会があり、彼は絵が好きになったというのです。毎日定時退社で暇を持て余していたので、毎日のように帰宅途中に美術館や博物館に立ち寄っていたら好きになったというのです。そんなこんなで、いろいろ見ることを心掛けるようにしました。尤も、それでなにかが顕著にどうこうなったということはないと思います。

その後、一応、轆轤も使えるようになり、作品が溜まってきたので、2011年1月に第一回目の「ふだんのちゃわん」を開催しました。その時は、もちろん、作品展を開こうと思うような自分の作品に対する認識がありました。しかし、今から振り返ると、あのとき作品を買っていただいた方々に申し訳ない気持ちが湧いてきます。尤も、返金に応じるつもりはありません。

その年の3月に大きな震災があり、11月に当時の勤務先を解雇され、など諸々あり2回目の「ふだんのちゃわん」は2017年3月になりました。やはり、その時も作品展を再開しようと思うような自分の作品に対する認識でした。しかし、今は、その認識は少し甘かったかなと思っています。たぶん、作品を作り続けている限り、同じことの繰り返しになるのでしょう。主体的に何かをするというのはそういうことだと思います。


読書月記 2020年3月

2020年03月31日 | Weblog

永井宏『永井宏散文集 サンライト』夏葉社

永井宏がどういう人なのか全く知らなかった。夏葉社の本ということで手にした一冊。永井は自分と近い世代の人のようで、書かれていることはよくわかった。それでどうこうということではなく、読んでいて素朴に気持ちの良い文章だ。書いた人の徳のようなものの所為もあるのかもしれない。

 

安丸良夫『神々の明治維新 神仏分離と廃仏毀釈』岩波新書

「廃仏毀釈」などと馬鹿なことをどうして思いついたのだろうと疑問を抱いていた。あれはああするよりほかにあのときはどうしようもなかったのかもしれない、と今は思えるようになった。その時代を生きていたわけではないので、空想するよりほかにどうすることもできないのだが、新しい国家を創るというのはよっぽどのことではある。

いつの時代にも「難民」と呼ばれる人々がいる。『広辞苑』によれば「戦争・天災などのため困難に陥った人民。特に、戦禍、政治的混乱や迫害を避けて故国や居住地域外に出た人」とある。今「難民」といえばシリアとかイラクのあたりからトルコを経て欧州へ流れ込んでいる人々が話題の筆頭のようだが、その欧州の現在の国境が確定したのはそう昔のことではない。そこでの国境、物理的・制度的な「国」としての区分がどのようにして決められたのかは知らないが、その区分のなかで生活している人たちは果たしてどれほど「ナントカ国民」としての自覚を持っているものなのだろうか?

「日本は神国」であると声高に喧伝された時代があった、らしい。近くは「神風特攻隊」の頃だろうが、遡れば明治維新の頃もそうだったようだ。開国で「日本」として自他を認識することを迫られた時、「神」が必要とされたのである。しかし、「神」というようなものは信じようと思って信じることができる類のことではあるまい。人々の心的風景の根底にある何かと呼応するものがあればこそ「神」たりえるのだろう。今の時代の「神」とは何だろう?

 

シュレーディンガー 著 岡小天・鎮目恭夫 訳『生命とは何か 物理的にみた生細胞』岩波文庫

世に不思議なことはいくらもあるが、その最たるものは自分がここにこうしていて「世に不思議なことはいくらもあるが」などと考えていることだ。一応、我々の世界ではあらゆるものが原子によって構成されていることになっている。所謂生命のあるものも、そうでないものも分解に分解を重ねると原子になる。命はどこで生まれるのだろう?

「原子はすべて、絶えずまったく無秩序な熱運動をしており、この運動が、いわば原子自身が秩序正しく整然と行動することを妨げ、少数個の原子間に起こる事象が何らかの判然と認められうる法則に従って行われることを許さないからなのです。莫大な数の原子が互いに一緒になって行動する場合にはじめて、統計的な法則が生まれて、これらの原子「集団」の行動を支配するようになり、その法則の精度は関係する原子の数が増せば増すほど増大します。事象が真に秩序正しい姿を示すようになるのは、実はこのようなふうにして起こるのです。生物の生活において重要な役割を演ずることの知られている物理的・化学的法則は、すべてこのような統計的な性質なのです」(25頁)

「莫大な数」というのがどの程度のものなのかというのがミソのような気がする。例えば自分は一つの受精卵が分裂を繰り返した成れの果てであるが、どの時点で「ものごころ」がついたのか、明確にいつとは言えない。「ものごころ」のイメージとして、自分の記憶を遡ることのできる最初の部分という漠然とした思いがあるのだが、生命体としてはそれ以前に成立している。「私」は記憶のなかの最初の「私」なのか、生物としての「私」なのか。「私」の誕生があやふやなのに、死のほうはそれよりはっきりしている。事故や病気で意識のないままに生命体として存在している状態は「死」なのか、行方不明や生命体としての生のない状態なのに生きているものとして扱われている状態は「死」とは呼ばないのか。

「生命とは何か」という問いは結局のところ生きている本人には答えることのできないものなのではないかと思うのである。

 

永田和宏『象徴のうた』文藝春秋

職場の近くの丸善で平台にあったものだ。永田先生の書いたものでもあり、天皇というものへの興味もあり、買ってきた。

読んでいて途中何度か目頭が熱くなった。自分ひとりの暮らしさえままならないと思うことが多いのに、全国民の存在を背負って在り続けることへの偉大さにはただ頭が下がる思いがする。それぞれの人々の立場を超えてそれぞれの想いを窺うきっかけを得る歌というものの在り方にも感じ入るところがある。

本書の129頁に
 昭和天皇の言葉として「雑草という名の草はない」との意味の言葉は有名だ
とある。ちっとも知らなかった。恥ずかしいことである。この背景は、昭和天皇が那須で夏を過ごして帰るというとき、吹上御所の前の庭草を宮内庁の判断で刈ってしまった。帰ってこられた天皇から侍従にお召しがあり、「どうして庭を刈ったのかね」とのお言葉があった。侍従は「雑草が生い茂っておりましたので」と答えた。天皇は「雑草ということはない」「どんな植物でも、みな名前があって、それぞれ自分の好きな場所で生を営んでいる。人間の一方的な考え方でこれを雑草としてきめつけてしまうのはいけない。注意するように」と御叱りを受けたのだそうだ。昭和天皇が最初からそういう考えの持主であったのかどうかは知らない。しかし、国民を雑草のように兵にとり、あるいは扱い、国土を焦土にしたことと無縁のエピソードとは思えない。

一億に満たない人口の国が、あちらの戦場で何万人、こちらの戦場で何万にという調子で犠牲を重ね、空襲であの街では何十万、この街で何十万という罹災者を出した。単なる運なのか、何か特別なことがあったのか、そういう戦争を生き抜いた人々が今日のこの国を成している。自分も含めその末裔だ。あの人が生きていれば、この人が元気なら、という無数の想いがあちらこちらに満ちているなかで富栄えたのが我々なのである。責任ある立場であった人ほど、何かしら後ろ暗いものを抱えていて当然だろう。その後ろめたさが高度経済成長と呼ばれるものの原動力の一翼を担ったのではないか。そういうことも含めての国家の象徴が皇室だ。これほど重い責任というものが世の中にあるのだろうかとさえ思う。昭和、平成とほんとうに大変な象徴であられたと思う。その国民として素朴に有難いことだと思うのである。

 

『庄野潤三の本 山の上の家』夏葉社

夏葉社の本ということで手にした一冊。庄野潤三という作家を全くしらなかった。この作家の作品が大好きであったという人たちがまとめた本ということもあるのだろうが、読んでいてただ楽しい、そういう小品が散りばめられている。作家の子供たちや作家評の人たちの文章も穏やかでよかった。庄野の師とされる伊藤静雄の「小説は何かの思想や理念を表すものではなくて、わが手でなでさすった人生を書いてゆくものでしょうね」という言葉が、ここに収められている作品に表れているように思われる。たぶん、実感のある暮らしと、そういう生活に基づいた文章が読む人をも安らかにするのだろう。

 

小泉武夫『漬け物大全』講談社学術文庫

読み物というよりも辞書的あるいはガイドブック的な本だと思う。しかし、そうした類の本とは違って、語り口は熱い。小泉先生の漬け物愛に溢れた作品だ。

私は漬け物は好きではなかった。齢を重ねてようやく口にするようになった。昔、営業系の仕事をしていたとき。顧客に寿司が好きな人がいて、その人との夜のお付き合いは必ず寿司屋だった。締めにいただくのがヤマゴボウ、紫蘇、胡麻、鰹節を巻いたものだった。生ものを頂いた後に口の中を落ち着かせるには誠によいもので、以来、寿司屋に行くと締めはこの巻物をいただくことにしている。尤も、私は積極的に生ものを食べるほうではないので、寿司屋へは滅多に足を運ばない。私が漬け物を頂くようになったのは、このヤマゴボウが最初かもしれない。いまでも漬け物は積極的には頂くほうではないが、糠漬けであろうが沢庵であろうが、出されたものは美味しくいただく。それでも何年か前に滋賀のほうへ出かけたとき、彼の地の名物である鮒鮓には手を出しかねた。やはり、漬け物総体としては今でも好物にはなっておらず、おそらくこれからもなりそうにはない。


ふだんのちゃわん 中止

2020年03月29日 | Weblog

先日、作陶展「ふだんのちゃわん5」の告知をしましたが、新型コロナウイルス蔓延に伴うこのところの世情の動向に鑑み、4月8日から12日にかけての予定を中止させていただくことにしました。ご了承のほどお願い申し上げます。

作陶展自体は、会場が住宅街にあること、多くの入場者が見込まれないこと、現状では主催側に感染者がいないこと、などから「密閉・密集・密接」の感染リスクは小さいと判断しております。しかし、会場に至る経路については何があってもおかしくないので、中止の判断に至りました。開催準備を練り直し、穏やかな心持でご来場いただけるような折に、改めてご案内を差し上げる所存です。

それにしても、新型コロナウイルス騒動はたいへんなことだと思います。肺炎自体よりも、それで人の往来が止まってしまうことに初めて見る恐怖にも似た不安を覚えています。暮らしというものは、様々な人々の様々な生産活動の循環のような相互連関で支えられるものだと思っていましたが、その動きが止まることで暮らしが崩壊していくことへの不安です。それは破壊行為のない戦争のようなもので、おそらく戦争の真の恐ろしさは、破壊や殺戮よりも、暮らしを支えるということの本質が見えなくなってしまうことにあるのだろうと、今初めて思うようになりました。

健康面だけでなく、諸々皆様のご無事をお祈り申し上げます。また、近いうちに互いに愉快な状況で再会できることを念じております。


ふだんのちゃわん 告知

2020年03月08日 | Weblog

今年も作陶展「ふだんのちゃわん」を開催する。今回で5回目になるが、単に友人知人との旧交を温める場としてしか機能していない。通りすがりに立ち寄るという場所ではなく、行こうと思って行っても地理感覚の頼りない人だとたどり着けないかもしれないような場所という所為もあるかもしれない。しかし、たいへん雰囲気の良いところなので毎回同じギャラリーのお世話になっている。

ただ作品を並べるだけというのもどうなのか、とは思っている。あと一ヶ月なので、何か工夫を試みたいと考えているが、結局は例年通りになってしまうかもしれない。

会場:Gallery FIND
           114-0034 東京都北区上十条2-9-1

会期:2020年4月8日水曜日から4月12日日曜日まで
   11:00-18:00 但し初日4月8日は13:00開店、最終日4月12日は16:00閉店

 


読書月記 2020年2月

2020年02月29日 | Weblog

大岡信『折々のうた』岩波新書

短歌を詠もうと思って作るようになって1年になる。作り始めた頃はホイホイ作っていたのだが、こうして歌の本を読んだり歌について話を聴いたりすればするほど気軽に作れなくなる。何を詠むかというそもそものところで前に進めなくなってしまうのである。もちろんこういう本を読めば気付きや発見もあるので、こうして手に取るのだが、知らないということはある面で強いことでもあると思う。

歌はそもそも特定の相手に対して詠まれるものだ。その人に対して語りかける、その人からの語りかけに応える、これは基本だと思う。誰にともなくつぶやくというのは歌ではない。つぶやきというのは多くの場合「独善性や甘ったれた自己満足」で終わってしまい、世界が広がらない。言葉の力というものがあって、一言でどれだけ多くのことを語るのか、という工夫がなければ歌を詠む意味がない。

俳句の「俳」の字は、人と違ったことをして人を興がらせる芸人の意味だったそうだ。歌にもそういうものがあって然るべきだろう。人を愉しませるには自分に余裕がないといけない。余裕というのは心の大きさのようなものだろう。心は放っておいて大きくなるものではない。大きく豊かにしようと心がけがなければそうならない。それにはどうしたらよいか、と考える。ぼんやり生きていてはいけない。江戸時代の歌人、小沢蘆庵は、心は深くあれ、されど詞は平淡なれという「ただこと歌」の理想を説いたという。そうありたいと自分も思う。

ところで、中学や高校の授業に登場した歌や句で今でも記憶に残っているものがある。それは内容よりも調べが自分の波長に合うからではないかと、ふと思った。

 

北山茂夫『万葉群像』岩波新書

岩波新書の復刊シリーズの一冊。復刊するほどのものかとも思うのだが、物事は人により、時と場合により、如何様にも解釈できる。

今まであまり歴史に関心がなく、ましてや歌など意識の外だった。それがどういうわけかここ2年ほどはこうしたジャンルの本を読むようになった。同じ歌がこうも違った解釈になるのか、というようなことに遭遇することもある。限られた文字数で語られていることなので、そもそも詠んだ本人にしかわからないこともあるだろうし、その本人と何事かを共有していないと理解できないこともあるだろう。既存のものからその前後左右を類推するには、方法論や科学がないといけない。その方法論や科学を学問と呼ぶのだろう。自分で学問を究めるのではなく、他人が書いたものを切貼りしているだけの「学者」が生活していられるようでは、その国の文化の底は知れている。自分で見ない、自分で考えない、それを疑問に思わない、という輩が「学問」の世界で大手を振っているということがありはしないか?

 


吉田篤弘『神様のいる街』夏葉社

きれいな文章だと思う。そんなに生活がきれいにまとまるものだろうかと思うくらいに出来た内容だ。ちゃんと考えて生きれば人は人らしくカタチの良い生活を営むことができるのかもしれないが、人との出会いに関して、そうピタリピタリと上手くいくとは信じられない。単に自分にそういう実感がない所為かもしれないが、どれほど身近な人であっても、その人と同じように成長したり老化したりするわけではないという当然のことが語られているのを聞くことがあまりないような気がする。

 


関口良雄『昔日の客』夏葉社

本を読む愉しみとはこういうものかと思わせてくれる本。古書店を営む著者が日々の営みを通じて人との出会いや交流を語っている。何がどうしたというのではない。この人とこんなことがあった、ただそれだけのことである。それがじんわりと面白い。たぶん、人ひとりの営みと言うのはそうしたどうということのないことで出来ていて、だけどそういうところに言葉にならないような体温があって、その自分でさえ気づかないような意識下の動きが人を人たらしめている気がする。

生計を立てる、とか、生活を営む、などと言うと、どうやって稼ぐのか、とか、どうやって儲けるのか、という方面にしか頭が回らない人が多い。数字を追うことで人並みの事をしている安心感に浸れるのかもしれないが、数字を追っている限りは満たされることがない。数字というものに限りがない所為もあるが、生活というものすべてを数字に落とし込む発想に無理があるからだ。本来的に数値化できないものを数字で語ると思う浅はかさが不幸の元なのだ。

ところが世間はあらゆることを数値化しようという流れにある。しかし世間に付き合う義理はない。ただ世間と付き合わないことには生活がまわらない。要は距離のとりかただろう、と思う。

古本を買い取るのに客先へ風呂敷を持って出向く。電車やバスを乗り継いで時間をかけて移動する。当然、その売り主が利用しているであろう動線の一部を辿ることになる。その売り主の住まいを訪ねれば、その人の生活空間を垣間見ることになる。そういう体験をいろいろな人を相手に積み重ねる。どのような本を読んだ人がどのような生活をしているのか、その雰囲気を体感するという経験の蓄積だ。そういう表現の難しい経験は自分の記憶のなかで相互に作用して時に化学変化のようなことが起こる。そういう諸々から得られる知見は、たぶん何物にも代えがたい巨大な財産だ。そういうものを下地にして生活を営めば、世につまらないものなど何一つないのではなかろうか。

本書のあとがきで、著者の御子息は著者が亡くなる10日ほど前にこんなことを言われたそうだ。「どんなものでもいいから、お前は詩を書け。詩を書くことによって、お前の人生は豊かになる」詩を書くには言葉にならないことをたくさん積み重ねないといけない。言葉にならないことを言葉にすると、その言葉は言葉以上のものになる。上手く言えないが、そういうことだと思うのである。

 


島田潤一郎『古くてあたらしい仕事』新潮社

生きるのは能書きを語ることではなくて、個別具体的なことの積み重ねだということが伝わってくる。著者は自分の親しい人のために或る詩集を作りたくて、結果として出版社を立ち上げることになったのだそうだ。具体的な誰かのために具体的なことをしたい、そういう相手がいるというだけで、たぶん人は生きるに値する生活を営むことができる気がする。

 


丸山真男『日本の思想』岩波新書

地球以外に「知的」生物が存在する可能性について問われたホーキンス博士は、地球に知的生物が存在するのかと問い返したという。なにをもって「知的」とか「知性」というのか知らないが、自分が存在する価値のあるものだということを物事の暗黙の前提に置かないと、人は安心できないだろう。このブログに何度も書いているが、人は生まれることを選べない。気が付けばここに居るのである。自分の意志で生まれてきたわけでもないのに、生まれてみればやれ「権利」だ「義務」だとやかましいことを言われ、ろくに考えもないままに他人に対しても「権利」だ「義務」だと言うようになる。わずかばかりのサンプルを取り出して、「科学的」に考察して「普遍性」があるのないのと決め打ちする。そもそも何故ここに在るのかがわからないから、己の存在の座標軸について合意を成すことが必要になる。それをとりあえず「科学」と呼ぶのである。所謂「実験」で「再現」ができることについてすらずいぶん怪しいのに、「思想」となると言ったもん勝ちの世界だろう。だからこそ指標となる見解が必要であり、「信ずるものは救われる」ということにしないと収拾がつかないのである。現に、見解の相違に収拾はついておらず、世界のあちこちで大小様々な諍いが止むことがない。

「日本の思想」などというものがあるはずがないし、あるはずがないものを堂々と論じるところに値打ちがある。道具屋みたいなものだ。本書に「國體」について語るところがある。
***以下引用***ここで驚くべきことは、あのようなドタン場に臨んでも國體護持が支配層の最大の関心事だったという点よりもむしろ、彼等にとってそのように決定的な意味をもち、また事実あれほど効果的に国民統合の「原理」として作用してきた実体が究極的に何を意味するかについて、日本帝国の最高首脳部においてもついに一致した見解がえられず、「聖断」によって収拾されたということである。(38頁)***以上引用***
もっと続くのだが、どこまで引用してもなにが「驚くべきこと」なのかよくわからない。そんなもの一致するわけがないだろう。しかし、「知識人」としては、ここで驚いておかないとまずいということかもしれない。

何年か前に平凡社から出ている『丸山眞男セレクション』というのを読んだ。今開いてみると、たくさん付箋がついていて、鉛筆でたくさん線が引いてあるのだが、なにをそんなに感心したのだろうと我ながら不思議に思う。

 

山本善行/清水裕也『漱石全集を買った日』夏葉社

あとがきが面白かった。ナポレオン・ヒルの『思考は現実化する』からはじまって、『ノルウェイの森』、『動的平衡』、『利己的な遺伝子』、『<ひと>の現象学』、『斜陽』、漱石全集と続く読書歴の展開が面白い。自分も本を読んでいて、そこに書かれていることとは関係のないことが思い出されて突然腑に落ちることがある。そこに、自分の内側がパチッと変わったり、モヤモヤしていたものがスッと晴れたりする快感のようなものがある。外からの情報を知覚するという点では、ものを読むことも、話を聴くことも、映像を観ることも一緒なのかもしれないが、紙媒体のものを読むのは、知覚の速度やリズムを自分で調整できるので、思考の揺れを自由にできる余裕があるのが良いのだろう。

今はなんだか妙に焦って結論ばかりを追い求めている世情に感じられるのだが、「結論」などというのは方便だろう。その時限りの止まり木のようなもので、そこに留まっているようでは生きていても仕方がないのである。つまり、世間というのは亡者の群れだ。世間を無視して生きるわけにはいかないのだが、どっぷり浸かるとろくなことにはならない。自分でちゃんと納得することをあきらめてはいけないと思う。


読書月記 2020年1月

2020年01月31日 | Weblog

柳田国男『木綿以前の事』岩波文庫

柳田と宮本の本をだいぶ買って、ずいぶん読んでいるうちに熱が冷めて、積んである未読本を消化するためだけに読むような気分になりかけたところで本書を手にすることになった。1911年から1939年にかけての著作や講演をまとめたものである。全く古びたところはない。何を尺度にするかにもよるが、人とはそう変わるものではないということだろう。ホーキンス博士が「地球以外」の天体に「知的生物」が存在する可能性を問われて「地球に知的生物が存在するのか?」と驚いて見せたという話をどこかで読んだが、人は、たぶん、自分で思っているほど賢いものではない。当たり前の思考や工夫があって生活の習俗は変化するが、自他の関係性の構築といった生存の根本にかかわるところは変わりようがないのかもしれない。

表題の「木綿以前の事」は日本人が何を着ていたかという話だ。木綿は日本在来ではない。棉の栽培が国内各地で始まるのは南蛮との交易が活発化あたりからで、当時の日本の人口が2,000万人程度らしい。絹は古くからあったようだが、江戸時代の長崎貿易では主に中国から輸入されるものだった。般に衣類とされていたのは麻だったという。今はそこそこに高級品で総じて木綿製品よりは高価だ。物の値打ちというは時々の関係性のなかで決まることの典型だろう。

「木綿以前の事」の他に18編の小論が収載されている。一言で言えば、日本人の民俗が一定したものではなく、時勢を反映して大きく変化しているということだ。よく「伝統」だの「文化」だのと世に普遍的なものがあるかのような物言いを聞くことがあるが、それは恐らくそのようなものがあって欲しいという願望的幻想だろう。人々の本音のところは「一寸先は闇」で、だからこそ自己が拠って立つところの安定的な基盤とか座標軸を希求するのである。柳田は民俗研究を通じて自ずと変化の当然を了解しているのだが、それでも「本来の日本」などと語ってみせるのは自己の幻想を拭いきれないところがあるからなのか、本書が書かれた時代の社会への配慮なのか。

 

谷賢一『戯曲 福島三部作』而立書房

原発の話。大学時代の同期の友人がその電力会社に勤務していて、たまたまあの地震ときに福2で働いていた。私と同い年だから、本当ならとっくに子会社かどこかに片道出向で実質隠居のはずだったのが、あの事故のためにそのまま福島で勤務を続けることになり、おかげで2016年に発電所周辺を彼に案内してもらう機会に恵まれた。ちなみに彼は例のOL殺人事件のときも本社広報に勤務していて、あの会社が世間の注目を浴びたときにどちらの事件・事故の時も広報担当を務めている特異な巡り合わせの人だ。

その大学時代、私はエコロジー研究会というところに少しかかわった。ゼミの仲間の何人かがその研究会で活動していて畑作業の人手が足りないとのことで手伝いに誘われたのである。畑というのはキャンパスのなかの雑木林や草藪のようなところを開墾して畑にし、有機農法で野菜を作るというものだ。いざ開墾となって改めてわかったのは、日当たりのよい場所は既に畑になっていたということだ。校内の管理作業に従事している人たちが畑を作って趣味的に野菜や草花を育てていたのである。後発の我々は地形的に厳しかったり、日当たりがよくなかったりする場所を開墾せざるをえず、結果的にアメフト部の練習場の脇の笹薮を開墾した。笹とか竹というのは大変に根が複雑に繁茂しており、その除去作業だけで1年近くかかってしまった。藪には藪蚊がつきもので、ま、そんな話はともかく、畑作業の手伝いで関わることになった研究会だが、畑以外の活動としては反原発運動があった。

個人的には反原発のほうにはあまり関心はなく、できちゃったものはいまさらしょうがないじゃないか派だったし、今もその考えは大きく変わっていない。以前、投資のアナリストという仕事をしていたことがあり、現役のアナリストとして最後の国内出張が六ケ所村の再処理施設の建設現場見学だった。その時、少し驚いたのは「再処理」というのは、なんだかんだ言っても、結局は核廃棄物を埋めるだけということだ。本当に「再処理」して使用可能な核燃料になるのは元になる使用済燃料の数パーセントに過ぎず、残りは線量に応じて分類されて、それぞれに応じた容器に収めてそれぞれに応じた深さのところに埋められるだけなのである。おそらくそれは今も同じなのだろう。事故というようなことがなくても、原発は老朽化してやがて廃炉になる。そのとき、廃炉になって発生する大量の廃棄物はどのように処理されるのだろうか。

それで本書だが、納得感満載だ。そりゃそういうもんだろう、と原発誘致当時の現地を知らなくても思う。読み終わって、家にある『写真集 生きる 東日本大震災から一年』という本を開いた。被災後の福島の写真は
2011年4月8日 南相馬市小高区
2011年10月  大熊町
2011年7月18日 浪江町
2011年6月26日 福島市
2011年5月  飯館村
2011年4月10日 南相馬市原町区江井
2011年5月9日 飯館村
2011年7月24日 大熊町
2011年4月16日 飯館村前田
2011年4月21日 浪江町
2011年9月22日 須賀川市浜尾
2011年3月30日 飯館村
2011年4月18日 相馬市
2011年8月14日 飯館村
2011年8月27日 いわき市久之浜
2011年10月9日 二本松市太田
2011年6月7日 須賀川市
2011年11月6日 相馬市
2011年8月11日 福島市
原発に直接関連する地域もそうでない地域もあるが、県外の人から見ればどれも「フクシマ」の写真だ。この震災で被災したのは福島だけではなく、原発の有無に関係なくどこも今なお復興へむけて歩みを進めている最中だ。しかし、原発でどうしても内外の関心は福島に向かいがちであるように感じている人も少なくないのだろう。昨年7月に気仙沼を訪れたとき、或る地元の人が復興の進め方については同じ市内でも地域によって考え方に違いがあるというような言い方をしていて、そういう話の流れの中で福島に対しても微妙な心情を語っていたのが印象的だった。確かに原発があると、その自治体には直接間接の経済効果がある。それは自治体の境界線で断絶するものではなく、経済というのは水の流れのように隣接したところ、場合によっては一見関係のなさそうなところにまで波及するものなのだが、一般の心情としてはそういう有形無形の恩恵にかかわりなく、境界線で物事を見てしまうのも仕方がないことではある。「喉元過ぎれば」で、今は震災も原発も遠い事のようになってしまった感があるが、これからも折に触れて思わぬところで思わぬ影響が現われるような気がする。

ちなみに六ケ所村出張がなぜ「現役最後」の出張になったかというと、その数か月後に勤務先をクビになったからだ。幸い、その後も失業保険の世話にならずに今日に至っているが、アナリストなどというのはいい加減なものだと思う。今は低金利で金融商品らしい金融商品がないので銀行でも投資信託を客に勧めているようだが、あんなものは買わない方がいい。

 

柳田国男『海の道』岩波文庫

「海の道」とは、要するに日本人がどこから来たのか、というときに考え及ぶ経路のことである。島国なのだから海よりほかに「道」はない。しかし、今は「民族」の概念に疑義が呈せられて学問の世界では「日本人」とか「民族」という言葉自体が使われていないのだそうだ。確かに漠とした「日本人」の来歴を問われたところで答えようがない。柳田の時代は「日本人」の幻想が濃厚であったのだろう。さすがの柳田も「日本人」を疑うことはなかったようだ。

一応「日本人」とされる1億数千万人の一人として暮らしていると、なんとなく昔から「日本人」という固有の人々がいるような気になるのだが、生物の系統進化というものがはっきりしているので、それはあくまで「気」の所為であることははっきりしている。つまり「ここ」「この人」というような明確な起源はないのだ。川の上流から流されてきた土砂が少しずつ堆積して洲になり、大地になっていくように、「ナントカ人」が生成されるのだと思う。

しかし、生物として「少しずつ」自分の元が出来てきた、というのは世間一般的には素直に納得できることではないのだろう。生まれようと思って生まれてきたわけではないし、いつか必ず死ぬということも知識としては了解していても、いや了解しているからこそ、人は性急に自己の拠って立つところをはっきりさせたいのである。「そんな無茶な」と思うのだが、無茶を承知で無茶を求めるのが「知的」生物たる人間なのである。

自己があるから自他の認識があり、自他の区別があるからこそ諍いが起こる。そもそも自己は幻想であり方便なのだが、自己を確たるものとする前提の上に人間の社会は築かれていて「科学」もそういう幻想の枠内にある。

結局、民俗というものを詳らかにしていくと、日々の生活に追われる「常民」の姿が浮かび上がる。日常の現象面で己の存在を明らかにするためのとりあえずの納得がいくらもあり、そうしたとりあえずの納得の間の矛盾を解消させる幻想や神話が考え出される。その中に民族とその神話やアイデンティティという幻想もある、ということだろう。


年賀状

2020年01月01日 | Weblog

あけましておめでとうございます

昨年は勤務先でそこそこの規模の人員整理があり、今年はオフィスの移転が予定されています。少しずつ事業規模を縮小するのでしょう。もう年齢が年齢なので自分にとってはどうでもよいのですが、貴重な金蔓であることには違いないので少しでも長く利用できるよう念じております。時にあたふたすることもありますが、生きるというのはそういうものでしょう。

今年も4月に作品展を予定しています。作風は簡単には変わりませんが、少しでも新しい要素を盛り込みたいとは思っています。近いうちに案内状を差し上げます。お目にかかるのを楽しみにしています。

昨年は短歌の勉強をはじめました。講演のようなものを聴いたり、通信教育を受講したり、短歌の雑誌に投稿したり、というようなことをしています。死ぬまでに歌を通じて友だちができたらいいなと思っています。

新しい年が愉快な年となるようお祈り申し上げます。

令和2年元旦

今年はこんな感じの文面の年賀状を書いた。積極的に書いたのではなく、いただいたものへの返信に書いたのである。年賀状に限らず、通信というものは何事かを誰かに伝える行為である。紙切れに意味不明のものを書いて「よろしくお願いします」と言われても、何が言いたいのかわからない。「あなたとの付き合いはこの程度のものなんですよ」と雄弁に語りたいのならまだしも、儀礼の意味で書いているとしたら失礼極まりない、と思うのである。それで数年前から年賀状というものを書くのを止めてしまった。それでも頂いたものには返信をしないといけないと思い、本文から宛名まで手で書いている。印刷をしたりスタンプのようなものを押したりというのことは一切しない。そうすると自然にいただく年賀状の枚数は減る。或る程度まで減って、あとは一定数が維持される。ざっと10-15枚程度だ。手書きにはちょうどよい枚数に落ち着く。うまくできているものだ。こんなふうにして自然に心地よい環境が出来上がるのだろう。


ありがとう 2019年 後編

2019年12月31日 | Weblog

本ブログサイトの投稿容量限界のため前編後編2日に分けて掲載

今年参詣した神社仏閣など

1        秩父神社(埼玉県秩父市番場町)

2        秩父 長瀞鎮座 寳登山神社(埼玉県秩父郡長瀞町長瀞)

3        布多天神社(東京都調布市調布ヶ丘)

4        穴稲荷・五條天神社(東京都台東区上野公園)

5        東叡山 寛永寺 不忍池辯天堂(東京都台東区上野公園)

6        鷲峰山 高台寺(京都府京都市東山区高台寺下河原町)

7        高台寺塔頭 圓徳院(京都府京都市東山区高台寺下河原町)

8        臨済宗大本山 建仁寺(京都府京都市東山区大和大路四条下る小松町)

9        建仁寺塔頭 両足院(京都府京都市東山区大和大路四条下る小松町)

10      建仁寺塔頭 霊源院(京都府京都市東山区大和大路四条下る小松町)

11      建仁寺塔頭 六道珍皇寺(京都府京都市東山区大和大路四条下る4丁目小松町)

12      南叡山 妙法院(京都府京都市東山区妙法院前側町)

13      新日吉神宮(京都府京都市東山区東山七条東入る)

14      真言宗智山派総本山 智積院(京都府京都市東山区東大路七条下る東瓦町)

15      本坊 妙法院門跡 蓮華王院三十三間堂(京都府京都市東山区三十三間堂廻町)

16      豊国神社(京都府京都市東山区大和大路正面茶屋町)

17      方広寺(京都府京都市東山区大和大路通七条上ル茶屋町)

18      妙石山懸腰寺(山梨県南巨摩郡富士川町小室)

19      小室山(徳栄山)妙法寺(山梨県南巨摩郡富士川町小室)

20      三嶋大社(静岡県三島市大宮町)

21      五十鈴神社・猪狩神社(宮城県気仙沼市魚町)

22      紫神社(宮城県気仙沼市浜見山)

23      計仙麻大嶋神社(宮城県気仙沼市亀山)

24      御崎神社(宮城県気仙沼市唐桑町字崎浜)

25      みちびき地蔵(宮城県気仙沼市外畑)

26      一乗山大法寺(長野県小県郡青木村当郷)

27      修那羅山安宮神社(長野県東筑摩郡筑北区坂井)

28      獨股山(又は独鈷山)前山寺(長野県上田市前山)

29      金剛山照明院常楽寺・北向観音(長野県上田市別所温泉)

30      崇福山護国院安楽寺(長野県上田市別所温泉)

31      別所神社(長野県上田市別所温泉)

32      百舌鳥古墳群の一部(大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)、上石津ミサンザイ古墳、など)

33      生國魂神社(大阪府大阪市天王寺区生玉町)

34      如意山藤次寺(大阪府大阪市天王寺区生玉町)

35      高津宮(大阪府大阪市中央区高津)

36      攝津國一之宮 住吉大社(大阪府大阪市住吉区住吉)

37      広普山妙國寺(大阪府堺市堺区材木町東)

38      開口神社(大阪府堺市堺区甲斐町東)

39      龍興山南宗寺(大阪府堺市堺区南旅篭町東)

40      荒陵山四天王寺(大阪府大阪市天王寺区四天王寺)

41      生駒山宝山寺(奈良県生駒市門前町)

42      平群神社(奈良県生駒郡平群町西宮)

43      宮内庁治定 長屋王墓、宮内庁治定 吉備内親王墓(奈良県生駒郡平群町梨本字前)

44      転害会:手向山八幡宮(奈良県奈良市雑司町)

45      聖武天皇佐保山南陵、佐保山東陵(奈良県奈良市法蓮町)

46      霊禅山久米寺(奈良県橿原市久米町)

47      二上山當麻寺(奈良県葛城市當麻)

48      葛木倭文座天羽雷命神社(奈良県葛城市加守)

49      鴨都波神社(奈良県御所市宮前町)

50      法性山般若寺(奈良県奈良市般若寺町)

51      華厳宗大本山東大寺 戒壇院戒壇堂(奈良県奈良市雑司町)

52      穴八幡宮(東京都新宿区西早稲田)

53      観世音 光松山 放生寺(東京都新宿区西早稲田)

54      江戸総鎮守 神田明神(東京都千代田区外神田)

 

今年訪れた美術展、美術館、博物館など

1        長瀞町郷土資料館(旧新井家住宅)

2        「演芸資料展 百の顔を持つ男、波多野栄一」国立演芸場 演芸資料展示室

3        「棗にまつわるエトセトラ」東京国立近代美術館工芸館

4        「顔真卿」東京国立博物館

5        「染付 世界に花咲く青のうつわ」出光美術館

6        「酒呑童子絵巻 鬼退治のものがたり」根津美術館

7        「21st DOMANI・明日展 平成の終わりに」国立新美術館

8        河井寛次郎記念館

9        「発掘 乾山窯」「カメラが写した80年前の中国」京都大学総合博物館

10      「調度を彩る 蒔絵の美」清水三年坂美術館

11      高台寺 掌美術館

12      「アルヴァ・アアルト もうひとつの自然」東京ステーションギャラリー

13      「奇想の系譜展 江戸絵画のミラクルワールド」東京都美術館

14      「特別展 国宝 東寺―空海と仏像曼荼羅」東京国立博物館

15      「河鍋暁斎その手に描けぬものなし」サントリー美術館

16      「両陛下と文化交流 日本美を伝える」東京国立博物館

17      「六古窯」出光美術館

18      「鎌倉禅林の美 円覚寺の至宝」三井記念美術館

19      「The備前 土と炎から生まれる造形美 桃山時代から現代へ」東京国立近代美術館工芸館

20      「尾形光琳の燕子花図」根津美術館

21      「ルート・ブリュック 蝶の軌跡」東京ステーションギャラリー

22      第17回 伝統工芸木竹展 日本橋三越本店 本館6階 美術特選画廊

23      「美を紡ぐ 日本美術の名品 雪舟、永徳から光琳、北斎まで」東京国立博物館

24      「近代日本芸術の100年 日本芸術院創設百周年記念展」日本橋三越本店 本館7階催物会場

25      「藍染の絞り 片野元彦の仕事」日本民藝館

26      「福沢一郎展 このどうしようもない世界を笑いとばせ」「イメージコレクター・杉浦非水展」東京国立近代美術館

27      「前田正博展」西武池袋本店 西武アート・フォーラム

28      「近代の日本画展、石印材:宇野雪村コレクション、大東急記念文庫創立七十周年記念特別展示 第二部 海外との交流」五島美術館

29      「はじめての古美術鑑賞 絵画のテーマ」根津美術館

30      旧前田家本邸洋館・和館

31      三嶋大社宝物館

32      三嶋暦師の館

33      「吉澤章 創作折り紙の世界」佐野美術館

34      リアス・アーク美術館

35      世嬉の一 酒の民俗文化博物館・いちのせき文学の蔵

36      旧沼田家武家住宅

37      「エッシャーが命懸けで守った男。メスキータ」東京ステーションギャラリー

38      「特別展 三国志 日中文化交流協定締結40周年記念」東京国立博物館

39      青木村郷土美術館

40      戦没画学生慰霊美術館無言館

41      上田市立博物館

42      「マリアノ・フォルチュニ 織りなすデザイン展」三菱一号館美術館

43      「唐三彩 シルクロードの至宝」出光美術館

44      「日本の素朴絵」三井記念美術館

45      「優しいほとけ・怖いほとけ」根津美術館

46      「没後50年 坂本繁二郎展」練馬区美術館

47      飯田哲夫個展 Separation, Space and Anxiety The Artcomplex Center of Tokyo

48      「奥の細道330年 芭蕉」出光美術館

49      「没後90年記念 岸田劉生展」東京ステーションギャラリー

50      堺市博物館

51      堺市立町家歴史館 清学院

52      堺市立町家歴史館 山口家住宅

53      さかい利晶の杜

54      遠山記念館

55      平城宮跡

56      依水園・寧楽美術館

57      「御即位記念特別展 正倉院の世界 皇室がまもり伝えた美」東京国立博物館

58      「茶の湯の名椀 高麗茶碗」三井記念美術館

59      「黄瀬戸 瀬戸黒 志野 織部 美濃の茶陶」サントリー美術館

60      「柳宗悦と古丹波」日本民藝館

61      「特別展 人、神、自然 ザ・アール・サーニ・コレクションの名品が語る古代世界」東京国立博物館

62      「文化財よ、永遠に」東京国立博物館

63      「名勝八景 憧れの山水」出光美術館

64      「辰野金吾と美術のはなし」東京ステーションギャラリー

65      「江戸の茶の湯 川上不白 生誕三百年」根津美術館

 

今年訪れた飲食店(単身利用は除く)

1      元祖「打込そば」 とらや(埼玉県秩父郡長瀞町長瀞)

2      青のこと(東京都調布市布田)

3      銀座 久保田(東京都中央区銀座)

4      ビストロ キフキフ(東京都港区高輪)

5      Amalfi MODERNA(東京都千代田区丸の内)

6      VIRON MARUNOUCHI(東京都千代田区丸の内)

7      韻松亭(東京都台東区上野公園)

8      黒毛WAGYU RESTAURANT HACHI(東京都港区南青山)

9      電氣食堂(京都府京都市下京区高倉通四条下ル高材木町)

10    和菜 藤堂(京都府京都市東山区月見町)

11    高台寺 とよ川(京都府京都市東山区上弁天町)

12    市川屋珈琲(京都府京都市東山区渋谷通東大路西入鐘鋳町)

13    京菓匠 七條甘春堂 京・三十三間堂前(京都市東山区七条通本町東入西の門町)

14    五穀亭 京王プラザホテル(東京都新宿区西新宿)

15    土と青(東京都調布市布田)

16    大衆酒場 丸昌屋(東京都北区十条仲原)

17    ぱんぷきん(東京都調布市仙川町)

18    つばめKITCHEN 丸の内店(東京都千代田区丸の内)

19    京橋モルチェ(東京都中央区京橋)

20    銀座アスター川口賓館(埼玉県川口市川口)

21    小松庵総本家 渋谷東急東横店(東京都渋谷区渋谷)

22    小料理 てつ(山梨県甲府市中央)

23    すみの坊 大社前店(静岡県三島市大社町)

24    鼎・斉吉(宮城県気仙沼市柏崎)

25    茶処プランタン(宮城県気仙沼市唐桑町宿浦)

26    蔵元レストラン せきのいち(宮城県一関市田村町)

27    古奈屋 丸の内オアゾ店(東京都千代田区丸の内)

28    石臼挽き手打蕎麦店 そば久(長野県上田市別所温泉)

29    南園 京王プラザホテル(東京都新宿区西新宿)

30    FARM TO PARK RACINES 南池袋公園(東京都豊島区南池袋)

31    BANDARA LANKA(東京都新宿区大京町)

32    Café Iroha(大阪府堺市堺区百舌鳥夕雲町)

33    彗月(大阪府大阪市中央区瓦屋町)

34    かん袋(大阪府堺市堺区新在家町東)

35    梅の花 堺利昌の里(大阪府堺市堺区宿院町西)

36    阪口楼(大阪府大阪市天王寺区茶臼山町)

37    奈良うどん ふく徳(奈良県奈良市高畑町)

38    日本料理 おばな(奈良県奈良市高畑町)

39    旬菜 香音(奈良県奈良市鶴福院町)

40    自家製粉手打蕎麦 薬庵(奈良県葛城市當麻)

41    旬菜 こまち(奈良県奈良市西寺林町)

42    お茶処 ときわ(奈良県奈良市水門町)

43    三井記念美術館 ミュージアムカフェ(東京都中央区日本橋室町)

44    Lucy(東京都目黒区駒場)

45    Restaurant Forestier フォレスティーユ 精養軒(東京都台東区上野公園)

46    野らぼー カンファレンスセンター店(東京都千代田区大手町)

47    アンコールワット(東京都渋谷区代々木)

48    土佐料理 祢保希 新宿店(東京都新宿区西新宿)

49    南国酒家 原宿店(東京都渋谷区神宮前)

 

 

今年贈答品購入に利用した店

1      茶 岡野園(埼玉県さいたま市見沼区)

2      空也(東京都中央区銀座)

3      ワインショップ・エノテカ 丸の内店(東京都千代田区丸の内)

4      虎屋 新宿伊勢丹(東京都新宿区新宿)

5      虎屋 日本橋三越(東京都中央区日本橋)

6      パティスリー ルミュー(東京都調布市西つつじヶ丘)

7      西出水産(和歌山県和歌山市雑賀崎)

8      竹林堂(山梨県南巨摩郡富士川町鰍沢)

9      信州・上田 みすゞ飴本舗(長野県上田市中央)

10    和菓子 紀の国屋 京王調布店(東京都調布市布田)

11    長岡銘品の館 ぽんしゅ館(新潟県長岡市城内町)

12    彩果の宝石 伊勢丹立川店(東京都立川市曙町)

13    総本店柿須賀(奈良県奈良市高畑町)

14    銘茶のり 山崎園 ルミネ大宮1店(埼玉県さいたま市大宮区錦町)

15    錦松梅 京王百貨店新宿店(東京都新宿区西新宿)

16    塩瀬総本家 京王百貨店新宿店(東京都新宿区西新宿)

 

 

今年利用した宿泊施設

1      THE MACHIYA KAMIUMEYA(京都府京都市東山区上梅屋町)

2      ホテル談露館(山梨県甲府市丸の内)

3      気仙沼プラザホテル(宮城県気仙沼市柏崎)

4      旅館 花屋(長野県上田市別所温泉)

5      ホテル&リゾート バリタワー 天王寺(大阪府大阪市天王寺区悲田院町)

6      ホテルサンルート奈良(奈良県奈良市高畑町)

 

いずれも素晴らしいものでした。関係者の皆様に感謝申し上げます。