熊本熊的日常

日常生活についての雑記

ふだんのちゃわん 2019

2019年03月10日 | Weblog

今年も我が陶芸作品展「ふだんのちゃわん」を開催する。時期は4月10日水曜日から14日日曜日まで。初日は13時開店で、11日木曜から13日土曜までは11時開店18時閉店、最終日14日日曜日は16時半閉店。場所はこれまでと同じ十条のFINDというギャラリー。

最初の「ふだんのちゃわん」は2011年1月だった。それから少し間が開いて2回目が2017年3月、3回目が2018年3月、そして今回4回目が4月となった。2回目まではカフェの営業があったのだが、2017年9月にカフェの営業が終わってしまい、以降会場階下のカフェが空いたままなので、通りすがりに覗いていただける人がいなくなってしまった。昨年はそれを痛感し、今回は形ばかりだが宣伝をすることにした。一応、毎回案内状は用意しているのだが、殆ど使うことなく終わっていた。今回は住所がわかる人に片っ端から送っている。尤も、たいした数にはならないのだが。


読書月記2019年2月

2019年02月28日 | Weblog

斎藤茂吉『万葉秀歌』(下)岩波新書

上巻に比べると下巻はあっさりとした印象だが、読み終えてみれば貼った付箋は下巻のほうが多かった。俳句や短歌を詠むことに漠とした憧れのようなものはあったが、実際に行動を起こしたのは一昨年に通信講座で俳句を勉強するまでは特に何もしてこなかった。昨年11月に始まったほぼ日の「万葉集講座」を受講し、今月の永田先生の講座を聴いて、いよいよ気持ちが前向きになった。歌は身構えて作るものではなく、己の思いを引き出して表現するもの。つまり、創るのではなく、在るものを発見して整える、とでも言ったらよいだろうか。実際の作業は同じでも意識のハードルが下がった気がする。

とはいえ、『秀歌』を読んでも、何がよくて何がまずいのか、やはりわからない。しかし、わからないながらもなんとなく「良い歌」の雰囲気は感じられるようになった、気がする。今、見返して付箋を貼った歌を並べると、

夕されば小倉の山に鳴く鹿は今夜は鳴かず寝宿にけらしも 舒明天皇

春霞ながるるなべに青柳の枝くひもちて鶯鳴くも 作者不詳

恋ひ死なば恋ひも死ねとや我妹子が吾家の門を過ぎて行くらむ 柿野本人麻呂歌集

潮満てば水沫に浮かぶ細砂にも吾は生けるか恋ひは死なずて 作者不詳

東歌も自分に馴染みのある地名が出てきて引っ掛かるのかもしれないが、東歌を集めた巻第十四は印象に残った。

万葉集の締めが

あたらしき年の始めの初春の今日降る雪のいや重げ吉事 大伴家持

今でも国家事業として歌集が編まれた理由が腑に落ちないのだが、この歌を読むと言葉の力への信仰が背後にあるように思われる。万葉集の場合は国民の総力を結集して安寧を祈願しているということではないか。個々の歌は人の生活の様々な面を表しているのがよいのだ。つまり、万葉集は生活というものの尊さ、愛おしさを歌い上げ、神に対して「だからよろしくね」と祈っているのである。

ところで、この『万葉秀歌』に誤植を見つけた。こういうときにはどうしたらよいのかわからず、新書編集部と校正部に宛て、誤植を指摘する手紙を書き、該当箇所のコピーを添えて送った。投函したのが2月4日月曜日。すると6日水曜日に校正部から、14日に編集部から返信が届いた。2014年の改版の際に発生した誤植とのことだった。昨日今日出た本なら仕方のないところもあるが、第1刷の発行が1938年11月20日で、手元にあるのが2017年8月17日発行の第110刷なので、些細なものでも誤植はまずいだろうと思い、他人事ではあるのだが、心をざわつかせながら連絡の手紙を書いた。幸いにも、どちらの部署に宛てたものも然るべき人に読んでもらうことができたようで、ほっとしている。

 

辻原登・永田和宏・長谷川櫂『歌仙はすごい 言葉がひらく「座」の世界』中公新書

歌仙というものを知らなかった。よく美術館などで「三十六歌仙」の絵を眺めても、所謂有名な歌人を36人集めたものと思っていた。あれは歌人の姿の絵を眺めるものではなく、そこに記されている歌のほうを順に読み解いていくものだと今頃になって知った。その歌仙の最初の歌を発句といい、それが独立したのが俳句なのだそうだ。手元に『芭蕉全発句』というものがあるのだが、どうして「俳句」ではないのだろうと、なんとなく引っ掛かってはいた。ちゃんと調べておけばこんなことにはならなかったのだが、困ったものである。

歌仙は楽しそうだ。だけれどもハードルが高い。まず、友達がいない。ましてや、捌き手となるような知り合いがいない。歌仙を遊ぶには俳句や和歌の知識と経験だけではどうにもならない。仮に友達がいたとしても、言葉に込めるもの、言葉から読み解くものについての共通感覚のようなものがないと歌を連ねることができない。

歌や句についての根本を語っていると思われた遣り取りがある。
辻原  季語が必要になるのは、「五・七・五」という短さゆえですよね。
長谷川 約束事として決めておかないと成立しない。
永田  イメージの共有ですね。歌も古典和歌はそうなのです。

歌を連ねること自体に道具立てが必要なわけではない。しかし、ひとつひとつの言葉を膨らませたり奥行を与えたりするには知性、感性、教養が不可欠だ。それらは余程意識して投資をしないと身につかない。投資とはもちろん自分への投資だ。金も時間も意識もふんだんに使わないと遊びの土俵に立つことすらできない。そうやって自分を充実させて、その自分を軽々と捨て去って、次々に別の人物を演じる。充実しているからこそ惜しげもなく捨てることができるのだ。満ち足りていれば惜しむべきものなど何もない。そんな心境になってみたい。


木村敏『時間と自己』中公新書

本書が書かれた頃から精神病についての知見が深まり、現状とは少しずれが出ているかもしれないが、大まかな考え方には変わりがないだろう。

本書では分裂病と鬱病に見られる「異常」な時間認識を通して人が時間感覚を制御して自己を安定化させるメカニズムのようなものを解明しようとしている。「病」の特徴は自「己が確実な自己性を有していない」ことにある、という。どういうことかというと、端的には自分を取り巻く現実を受け容れることができないということだ。もっと言えば、自分にとって不都合な現実を受け容れられないということ。そんなことは程度の差こそあれ誰にでもあることだろうが、「病」となると病的に断固として受け容れられないということなのである。

こう書くと、世の中が丸ごと病気のようにも見える。些細なことに不平不満を募らせて、攻撃し易い相手を巧みに選んで、執拗過剰に難癖をつけてみたり犯罪的行為に及ぶというのは、今や日常風景だ。なにかというと己の「精神的苦痛」を喧伝する人が多い印象だが、日々の暮らしに息苦しさを感じるとすれば、「病的な世の中を生きている」と思うと妙に腑に落ちる。

となると、処世術としては、精神異常というものを一般常識として咀嚼理解して、それに対応する能力を身につけるべき、ということになる。また、病には予防も重要だ。まずは落ち着くこと。都合の良し悪しにかかわらず現実を認識して受け容れること。物事に永遠ということはなく、万物は生々流転するという当然のことを思うこと。つまり、当たり前に生きること。

 

小泉武夫『発酵 ミクロの巨人たちの神秘』中公新書

落語のマクラで、天気予報が当たらないのは地球の営みの長さに比べて人間があまりに新参者だからだ、というのがある。地球が誕生して10億年後にようやく微生物が生まれる。そこから35億年ずっとあちこちで活躍しているのである。そこに霊長類という括りにしても高々7000万年程度でしかない人間が「永遠」だの「普遍」だのと語る滑稽。ましてや「伝統」だの「文化」だのと語られることは、語っている本人の自己陶酔でしかないもののあはれ。

おそらく、人が生活の営みとして農や狩猟採集に勤しんでいた頃には、自分の手の記憶や経験を通して他者の思いを想像することができただろう。その想像を超えるところの現象事象を神という超人的存在を想定することによって己の世界観のなかに収めたのではあるまいか。つまり、人の目に見えないところのものは、とりあえず「神」の業なのである。時代が下って、人の知識や経験が深まるにつれて、その「とりあえず」のなかから現実社会のなかに取り込まれるものが増え、「神」のほうの領域の仕切り直しが繰り返されてきたのだろう。どれほど意識しているかどうかは別にして、人はそうやって科学や宗教と付き合ってきたはずだ。もちろん中には大きな潮流よりも潮だまりのほうに目が向いてしまってそこから離れられない人も出てくる。

しかし、それよりも深刻なのは、時代が下って人の生活が細分化されて、各自の経験領域が近視眼的に縮小していくことの方だろう。労働分業が経済の生産性を飛躍させたのはアダム・スミスの『諸国民の富』が説く通りだ。現に我々は物質的にはこれ以上望めないほどの豊かな生活を送っている。反面、生活が細分化されて経験領域が縮少したことで、他者への想像力も萎縮してしまったようだ。どうでも良いことに不平不満を募らせて闇雲に他者に難癖をつける分裂病社会は本書からも示唆を得るところだ。味噌とか梅干しを作ってみたり、糠漬けを作ってみるなどして、目に見えない住人の勤勉を実感してみたら、ものの考え方も変わるかもしれない。

 


同窓会

2019年02月23日 | Weblog

同窓会に参加するため、京都を訪れる。同窓会といってもよく知らない人ばかりで、名簿上は230名ほどが登録されているが今回の参加は9名。参加人数の過去最低を更新とのこと。しかも、9名のうち1名は我が妻なので、実質8名。参加者が少ないのは、ひとつには会員の高齢化で外出がままならない人が増えたこと、ひとつには関西在住が少ないこと、もうひとつには大学関係者が多いので入試の時期の今時分は多忙な人が多いこと。私は同窓会のようなものに関心がないのだが、今回の会場が京都大学の楽友会館だったので、どのようなところか見てみたいと思って参加した。楽友会館といえば、現在受講中の万葉集講座の講師のひとりである永田和宏先生が奥様の河野裕子さんと出会った場所なのである。だからどうということではないのだが、これも縁かもしれない、なんて。

英国留学にまつわる同窓会は、今回のものが大学全体の日本人会のようなもの。以前は会費制の時代もあったが、そんなふうに敷居を高くできるほど魅力のある組織ではないので、いつの間にか会費云々は言われなくなった。もうひとつは留学先のビジネススクールのもの。もうひとつは非公式ながら英国の大学全体の留学経験者の集まり。他にもブリティッシュカウンシルが音頭を取って何かやっているかもしれないが、自分が関わっているのはその3つだけだ。英国の大学全体の非公式のほうはタッチラグビーのチームを作って活発に活動していた時代もあったが、今はすっかりご無沙汰である。私は運動というものを殆どやったことがないのだが、タッチラグビーは、それなりに楽しかったとみえて、このブログにも過去6回(2010年5月29日2010年6月6日2010年6月10日2010年7月9日2010年7月11日2011年12月22日)登場している。ビジネススクールのほうは同学年と前後の学年だった人たちが非公式に集まって飲み食いやゴルフをすることもあるが、ゴルフのほうは自分がやらないので参加しない。直近は一昨年8月に会食をした。

今日の回は参加者が少なかったので、各自の自己紹介をすることになった。話のなかできっかけがあれば質疑応答のようなことになり、そこから話が広がったりもして、思いの外楽しい時間になった。楽しいと感じたのは他の出席者も同じだったようで、予定の時刻を1時間ほど超過してお開きとなった。同じ大学に留学していたという以外に何の共通点もない人たちの集まりなので、話が現在形にならざるを得なかったのが良かったのだと思う。また、自身の体験に基づいた話にならざるを得ず、結果として中身の濃いものになったのも良かった。

 


読書月記2019年1月

2019年01月31日 | Weblog

永田和宏『歌に私は泣くだらう 妻・河野裕子闘病の十年』新潮文庫

読みかけの本があったのだが、それを差し置いてこちらを一気に読了。歌という言葉のエッセンスを追求する世界の人の書くものに、言葉の無駄があるはずもなく、すっと引き込まれた。内容に関しては私のほうの言葉がない。自分は老妻と二人で日々を過ごしており、当然にどちらかが先に逝くわけだが、そのことについて何の心がけもできていない。ただただ残された時間の平穏を祈るばかりである。それではいけないとは思いつつ、何から手を付けてよいのかわからない。

 

河野裕子・永田和宏『たとへば君 四十年の恋歌』文春文庫

夫婦の相聞歌集。歌は制約も多く、三十一音で何を語ることができるのだろうと、私は思ってしまうのだが、そういうものではないらしい。約束事があるからこそ、三十一音は俗人の会話の三十一音とは比較にならないほどの豊穣な表現ができる、らしいのである。歌を詠む人ならば、本書を読んで、この夫婦の感情のやり取りが手に取るようにわかるのだろう。そこに感動もあるかもしれないし、表現上の勉強といった全く違った読み方もできるのかもしれない。私の場合は字面の表面を追うので精一杯だ。とりあえず、今回は置いておき、後日再読することにする。

それにしても、身近な人の看取り、自分自身の始末というのは日に日に大きな問題になりつつある。物心ついてから今日まであっという間のことだったが、ここからあの世までの距離はその半分あるかないかだろう。「たとへば君」どころではない。「おい君」「こら君」というくらいの切迫感だ。しかし、だからといって何か行動を起こすことができないのは、己の無能の所為だ。困ったものである。

 

斎藤茂吉『万葉秀歌(上)』岩波新書

万葉集から著者が秀歌だと思うものを取り上げて解説を加えている。一生懸命読んだつもりだが、何が良い歌で何がそうでないのか、というあたりが素人には皆目わからない。或る程度の知識とか経験とか感性があれば、いちいち成程と感じながら読む本なのかもしれないが、そういう人たちが当然に共有していると思われる決まり事のようなものを共有せずに結論だけ聞かされてもなんのことやらわからないのである。哀しい。しかし、しばらくは諦めずに食らいついてみたい。



あれから1年 デビットカードの二重引き落とし

2019年01月10日 | Weblog

1年前のことである。都内某所で或る食料品を購入し、デビットカードで支払いをした。店の人が端末操作で少しまごついて、カードを機械に読み取らせる動作を2度行った。しかし、こちらがサインをしたのは一回だけだったので、その場はそのままにして店を後にした。そのカードは決済の度にメールが届く。同内容のメールが2通届いた。家に帰ってからその銀行のサイトにアクセスして入出金を確認すると二重に引き落とされていたので、銀行あてに問い合わせのメールを出した。その返信は以下のようなものだった。

お問い合わせいただきまして、ありがとうございます。
XXX銀行カスタマーセンターでございます。
このたびはSSSS Bank WWWWWWのお引き落としの件で、お客様にはご心配おかけしております。
お問い合わせの件につきまして、回答させていただきます。
SSSS Bank WWWWWWをショッピングでご利用された場合、XXX銀行には、最初に「利用データ」が到着し、その後、請求金額が確定した旨の「売上確定データ」が到着いたします。
デビットカードの特性上、原則、「利用データ」が当社に到着した時点で、即時お引き落としを行っておりますが、なんらかの理由で加盟店にてお取引が不成立となったばあい、「キャンセルデータ」が当社に到着次第、返金処理をしております。
こちらで確認いたしましたところ、お問い合わせいただきました2018年1月10日の加盟店「ZZZZ」でのご利用分(承認番号:******)につきましては、本日(2108年1月11日)現在、「キャンセルデータ」ならびに「売上確定データ」は到着しておりませんでした。
二重決済などなんらかの事由により、お取り引きのキャンセルが必要となった場合、「キャンセルデータ」が当社に到着次第、返金処理を行いますが、加盟店によっては、「売上確定データ」をカード会社へ送信しないことで、お取り引きを不成立とする場合があり、その場合は返金処理までに日数がかかることがございます。
「キャンセルデータ」を送信しない加盟店において、お取り引きが不成立となった場合、当社では「利用データ」が到着してから、45日程度経過しても「売上確定データ」が到着しないことを確認のうえ、普通預金口座への返金処理を行っております。
お客さまにはお待たせすることとなり、申し訳ございませんが今しばらくお待ちいただくか、返金をお急ぎの場合は、ご利用の加盟店へ「利用データ(オーソリゼーション)」に対する「キャンセル(返品)データ」を送信いただくようご依頼ください。
何卒、よろしくお願いいたします。

以上から判明したことが大きく2つある。

1)決済時のサインは意味がない:本件について2重に伝票が出ているが、私がサインしたのは片方だけである。

2)データに不明な点がある場合、カード利用者よりも加盟店の利害が優先する。利用者は不審を覚えても、それをクレームしない限り取り合ってはもらえない。加盟店は自動的に入金を得る。

近頃、「キャッシュレス化」ということが喧しく言われるようになったが、当然起こりうる端末操作のミスなどで発生する事案に対してはどのような対応になるのだろうか。大前提として「機械は間違えない」という発想があるように思うのだが、機械を操作するのは人間だ。

結局、カード利用者としては、相手を見て決済手段を選ぶという自衛策しかないように思う。端末操作が怪しい相手なら、カード決済は即中止してもらって現金で払う。それが最も有効な対応だと思う。今回の事案の加盟店は、そこの製品を気に入って使っているので、この事案の後も相変わらずそこの製品を愛用している。但し、購入に際しては現金決済だ。

あれから1年。結局二重引き落としのまま現在に至っている。


ありがとう 2018年 後編

2018年12月31日 | Weblog

本ブログサイトの投稿容量限界のため前編後編2日に分けて掲載

今年参詣した神社仏閣など

1        明治神宮(東京都渋谷区代々木神園町)

2        高麗神社・高麗山聖天院(埼玉県日高市新堀)

3        福徳神社(東京都中央区日本橋)

4        華厳宗大本山 東大寺(奈良県奈良市雑司町) 戒壇院、勧進所、惣持院(僧形八幡神坐像)、公慶堂、二月堂、法華堂(三月堂)、四月堂、手向山八幡宮、東大寺ミュージアム

5        法相宗大本山 興福寺(奈良県奈良市登大路町) 東金堂、国宝館

6        文武廟(Man Mo Temple/Man Mo Miu)(香港)

7        曹洞宗瑞龍山 玉泉寺(静岡県下田市柿崎)

8        日蓮宗法順山 了仙寺(静岡県下田市七軒町)

9        浄土真宗本願寺派八幡山 宝福寺(静岡県下田市一丁目)

10      真言宗大浦山 長楽寺(静岡県下田市三丁目)

11      鹿島神宮(茨城県鹿嶋市宮中)

12      香取神宮(千葉県香取市香取)

13      村雲御所 瑞龍寺(滋賀県近江八幡市宮内町)

14      日牟禮八幡宮(滋賀県近江八幡市宮内町)

15      妙見本宮 千葉神社(千葉県千葉市中央区)

16      月讀神社(鹿児島県鹿児島市桜島)

17      照國神社(鹿児島県鹿児島市照国町)

18      春日大社(奈良県奈良市春日野町)

19      春日山 不空院(奈良県奈良市高畑町)

20      華厳宗 日輪山 新薬師寺(奈良県奈良市高畑町)

21      鏡神社(奈良県奈良市高畑町)

22      薬園八幡神社(奈良県大和郡山市材木町)

23      源九郎稲荷神社(奈良県大和郡山市洞泉寺町)

24      橿原神宮・長山稲荷社(奈良県橿原市久米町)

25      大峯本宮 天河大辨財天社(奈良県吉野郡天川村坪内)

26      吉水神社(奈良県吉野郡吉野町吉野山)

27      金峯山修験本宗総本山 金峯山寺(奈良県吉野郡吉野町吉野山)

28      総本山 金峯山寺 塔頭 脳天大神 龍王院(奈良県吉野郡吉野町吉野山)

29      吉野神宮(奈良県吉野郡吉野町吉野山)

30      東光山 龍蓋寺(岡寺)(奈良県高市郡明日香村岡)

31      大安寺(奈良県奈良市大安寺)

32      光明宗 法華寺(奈良県奈良市法華寺町)

33      海龍王寺(奈良県奈良市法華寺北町)

34      漢國神社・林神社(奈良県奈良市漢國町)

35      横浜関帝廟(神奈川県横浜市中区山下町)

36      枚岡神社(大阪府東大阪市出雲井町)

37      浪速高津宮(大阪府大阪市中央区高津)

38      少彦名神社(大阪府大阪市中央区道修町)

39      御霊神社(大阪府大阪市中央区淡路町)

40      醫王山 東光院 眞性寺(東京都豊島区巣鴨)

41      牛天神北野神社・太田神社・高木神社(東京都文京区春日)

42      穴八幡宮(東京都新宿区西早稲田)

43      観世音 光松山 放生寺(東京都新宿区西早稲田)

44      曹洞宗 萬頂山 高岩寺(東京都豊島区巣鴨)

 

今年訪れた美術展、美術館、博物館など

1        「仁和寺と御室派のみほとけ 天平と真言密教の名宝 前編」東京国立博物館

2        「墨と金 狩野派の絵画」根津美術館

3        「没後40年 熊谷守一 生きるよろこび」東京国立近代美術館

4        「仁和寺と御室派のみほとけ 天平と真言密教の名宝 後編」東京国立博物館

5        東京大学総合研究博物館

6        林妙子 作陶展 瑞玉ギャラリー(東京都板橋区)

7        「薬師寺の名画 板絵神像と長澤芦雪筆旧福寿院障壁画」奈良国立博物館

8        「お水取り」奈良国立博物館

9        「珠玉の仏たち」なら仏像館 奈良国立博物館

10      一新美術館(Sun Museum(香港)

11      香港文化博物館(Hong Kong Heritage Museum)(香港)

12      香港大学美術博物館(University Museum and Art Gallery, The University of Hong Kong)(香港)

13      茶具文物館(Flagstaff House Museum of Tea Ware)(香港)

14      香港鉄路博物館(Hong Kong Railway Museum)(香港)

15      屏山鄧族文物館 暨文物徑訪客中心(Ping Shan Tang Clan Gallery cum Heritage Trail Visitor Centre)(香港)

16      香港文物探知館(Hong Kong Heritage Discovery Centre)(香港)

17      「ブリューゲル展 画家一族150年の系譜」東京都美術館

18      「プラド美術館展」国立西洋美術館

19      東京国立博物館

20      「名作誕生 つながる日本美術」東京国立博物館

21      「アラビアの道 サウジアラビア王国の至宝」東京国立博物館

22      「光琳と乾山 芸術家兄弟 響き合う美意識」根津美術館

23      岡本太郎記念館

24      「大名茶人 松平不昧 お殿さまの審美眼」三井記念美術館

25      58回 東日本伝統工芸展 三越日本橋本店

26      「リアル 最大の奇抜 未知の領域に挑む江戸絵画のリアル」府中市美術館

27      「生誕150年 横山大観展」東京国立近代美術館

28      「工芸館開館40周年記念 名工の明治」東京国立近代美術館工芸館

29      「宋磁 神秘のやきもの」出光美術館

30      「柚木沙弥郎の染色」日本民藝館

31      近江八幡市立資料館(郷土資料館、歴史民俗資料館、旧西川家住宅)

32      「人麿影供900年 歌仙と古筆」出光美術館

33      「はじめての古美術鑑賞 漆の装飾と技法」根津美術館

34      「建築の日本展 その遺伝子のもたらすもの」森美術館

35      「縄文 1万年の美の鼓動」東京国立博物館

36      「ますむらひろしの北斎展」すみだ北斎美術館

37      「没後50年 河井寛次郎展」パナソニック汐留ミュージアム

38      「ミケランジェロと理想の身体」国立西洋美術館

39      「金剛宗家の能面と能装束」三井記念美術館

40      「書物工芸 柳宗悦の蒐集と創造」日本民藝館

41      「池晶子 BORO チクチク展」同一庵藍民芸館

42      「木版画の神様 平塚運一展」千葉市美術館

43      桜島ビジターセンター

44      鹿児島市 維新ふるさと館

45      社会福祉法人太陽会 しょうぶ学園

46      鹿児島市立美術館

47      仙厳園 尚古集成館 旧鹿児島紡績所技師館

48      聖徳記念絵画館

49      「禅僧の交流」根津美術館

50      「白磁」日本民藝館

51      65回 日本伝統工芸展 日本橋三越本店

52      飯田哲夫個展 「あなた仕事やめてもいいのよ」The Artcomplex Center of Tokyo(東京都新宿区)

53      「エリザベス・ハンス コレクション パナマの先住民クナ族の衣装と意匠 MOLA」たばこと塩の博物館

54      「京都 大報恩寺 快慶・定慶のみほとけ」東京国立博物館

55      「マルセル・デュシャンと日本美術 デュシャンの向こうに日本がみえる。」東京国立博物館

56      志賀直哉旧居(奈良学園セミナーハウス)

57      「愛のすべて。ジョルジュ・ルオー 聖なる芸術とモデルニテ」パナソニック汐留ミュージアム

58      「京都・醍醐寺 真言密教の宇宙」サントリー美術館

59      「横山崋山」東京ステーションギャラリー

60      「アーミッシュ・キルトを訪ねて そこに暮らし、そして世界に生きる人びと」「工芸継承 東北発、日本インダストリアルデザインの原点と現在」国立民族学博物館

61      「民藝のバスケタリー 籠・笊・蓑」大阪日本民芸館

62      「高麗青磁 ヒスイのきらめき」大阪市立東洋陶磁美術館

63      「松平不昧没後200年 不昧の茶道具と近代数寄者 その書とデザイン」湯木美術館

64      「江戸絵画の文雅 魅惑の18世紀」出光美術館

65      鉄道博物館

66      「新・桃山の茶陶」根津美術館

67      「東西数寄者の審美眼 阪急・小林一三と東急・五島慶太のコレクション」五島美術館

68      「日本民藝館展 新作工藝公募展」日本民藝館

69      「ルーベンス展 バロックの誕生」国立西洋美術館

70      「フィリップス・コレクション展」三菱一号館美術館

71      「明治美術の一断面 研ぎ澄まされた技と美」宮内庁三の丸尚蔵館

 

今年訪れた飲食店(単身利用は除く)

1      ビストロKif-Kif (東京都港区高輪)

2      銀座 久保田 (東京都中央区銀座)

3      揚子江菜館 (東京都千代田区神田神保町)

4      旬菜 香音 (奈良県奈良市鶴福院町)

5      青のこと (東京都調布市布田)

6      つけめん 駒鉄 (東京都目黒区駒場)

7      ひさご寿し (滋賀県近江八幡市桜宮町)

8      たねや 日牟禮茶屋(滋賀県近江八幡市宮内町)

9      土と青 (東京都調布市小島町(6月に同市内布田へ移転))

10    手紙舎 つつじヶ丘本店 (東京都調布市西つつじヶ丘)

11    Café Chez Andre du Sacre-Coeur (東京都中央区日本橋人形町)

12    ORI TOKYO カフェ (東京都墨田区亀沢)

13    熊襲亭 (鹿児島県鹿児島市東千石町)

14    和総 (鹿児島県鹿児島市東千石町)

15    総本家 小松庵 渋谷東急東横店 (東京都渋谷区渋谷)

16    お茶処 ときわ (奈良県奈良市水門町)

17    竹の館 (奈良県奈良市南魚屋町)

18    葛屋 中井春風堂 (奈良県吉野郡吉野町吉野山)

19    LBK Craft (奈良県奈良市東向南町)

20    Café すず音 (奈良県奈良市法華寺町)

21    華都飯店 (神奈川県横浜市中区山下町)

22    南園 京王プラザホテル新宿 (東京都新宿区西新宿)

23    パカラ堂 (大阪府大阪市中央区高津)

24    総本家 小松庵 オアゾ丸の内店 (東京都千代田区丸の内)

25    天ぷら 一心 金子 (東京都千代田区富士見)

26    M. Santa (東京都世田谷区玉川)

 

今年利用した宿泊施設

1      奈良町家 和鹿彩 別邸 (奈良県奈良市北半田東町)

2      下田 東急ホテル (静岡県下田市)

3      MACHIYA INN 近江八幡 (滋賀県近江八幡市仲屋町中)

4      鹿児島 東急REIホテル (鹿児島県鹿児島市中央町)

5      ホテルアジール・奈良 (奈良県奈良市油阪町)

6      新大阪ステーションホテルアネックス (大阪府大阪市東淀川区東中島)

 

どれも素晴らしいものでした。関係者の皆様に感謝申し上げます。

 


ありがとう 2018年 前編

2018年12月30日 | Weblog

本ブログサイトの投稿容量限界のため前編後編2日に分けて掲載

今年読んだ本

1      須之内徹『帰りたい風景 気まぐれ美術館』新潮社

2      中尾佐助『栽培植物と農耕の起源』岩波新書

3      遠山啓『無限と連続』岩波新書

4      鈴木大拙(著)、北川桃雄(訳)『禅と日本文化』岩波新書

5      川島武宜『日本人の法意識』岩波新書

6      『人と物 6 米原万里』MUJI BOOKS

7      岩波書店辞典編集部(編)『世界の名前』岩波新書

8      関川和夫『落語風俗帳』白水Uブックス

9      六代目 三遊亭圓生『新版 寄席育ち』青蛙房

10    関山和夫『落語名人伝』白水Uブックス

11    三遊亭圓生『噺のまくら』小学館

12    関山和夫『庶民芸能と仏教』大蔵出版

13    日経コンストラクション編『すごい廃炉 福島第1原発・工事秘録<2011~17年>』日経BP社

14    L.S.ポントリャーギン(著)、坂本實(訳)『やさしい微積分』ちくま学芸文庫

15    中尾佐助『料理の起源』吉川弘文館

16    山崎努『柔らかな犀の角』文春文庫

17    山崎努『俳優のノート』文春文庫

18    田村隆一(語り)、長薗安浩(文)『言葉なんかおぼえるんじゃなかった 詩人からの伝言』ちくま文庫

19    長薗安浩『あたらしい図鑑』ゴブリン書房

20    中島義道『私の嫌いな10の人びと』新潮文庫

21    吉本隆明・糸井重里『悪人正機』新潮文庫

22    磯田道史『徳川がつくった先進国日本』文春文庫

23    高間大介(NHK取材班)『人間はどこから来たのか、どこへ行くのか』角川文庫

24    磯田道史『日本人の叡智』新潮選書

25    磯田道史『江戸の備忘録』文春文庫

26    磯田道史『武士の家計簿 「加賀藩御算用者」の幕末維新』新潮選書

27    磯田道史『殿様の通信簿』新潮文庫

28    磯田道史『日本史の内幕 戦国女性の素顔から幕末・近代の謎まで』中公新書

29    磯田道史『無私の日本人』文春文庫

30    磯田道史『歴史の愉しみ方 忍者・合戦・幕末史に学ぶ』中公新書

31    小林秀雄・岡潔『人間の建設』新潮文庫

32    岡潔『春宵十話』光文社文庫

33    中谷宇吉郎『科学の方法』岩波新書

34    岡潔『春風夏雨』角川ソフィア文庫

35    中谷宇吉郎『雪』岩波文庫

36    小宮豊隆編『寺田寅彦随筆集 全五巻』岩波文庫

37    司馬遼太郎『翔ぶが如く 全十巻』文春文庫

38    ローリー・リン・ドラモンド(著)、駒月雅子(訳)『あなたに不利な証拠として』ハヤカワ文庫

39    上野誠『万葉集の心を読む』角川ソフィア文庫

40    上野誠『はじめて楽しむ万葉集』角川ソフィア文庫

41    安楽庵策伝 鈴木棠三(訳)『醒睡笑 戦国の笑話』東洋文庫

42    岡井隆『今はじめる人のための短歌入門』角川ソフィア文庫

43    ラフカディオ・ハーン(著)、平井呈一(訳)『心 日本の内面生活の暗示と影響』岩波文庫

 

購読中の定期刊行物

1      月刊『みんぱく』 国立民族学博物館

2      月刊『現代農業』 農山漁村文化協会

3      季刊『民族学』 千里文化財団

4      年3回刊『青花』 新潮社

 

今年観た映画など

1 『幸福は日々の中に。』民藝夏期学校 しょうぶ学園

 

今年聴いた落語会・演劇・ライブなど

1      第465回 花形演芸会
笑福亭茶光「色事根問」
林家木りん「お菊の皿」
山上兄弟 奇術
桂宮治「道灌」
桂福丸「阿弥陀池」
林家たい平「猫の災難」
江戸家小猫 ものまね
古今亭文菊「心眼」
開演 18時 終演21時
国立演芸場

2      第415回 国立名人会
柳家緑助「つる」
柳亭左龍「名刀捨丸」
三遊亭竜楽「堪忍袋」
昔昔亭桃太郎「お見合い中」
桂歌春「崇徳院」
ダーク広和 奇術
柳家さん喬「二番煎じ」
開演13時 終演16時
国立演芸場

3      月例 三三独演
柳家三三「看板のピン」
柳家三三「干物箱」
三遊亭歌太郎「あくび指南」
柳家三三「万両婿」
開演19時 終演21時
イイノホール

4      志の輔らくご
「中村仲蔵」
開演18時30分 終演21時15分
赤坂ACTシアター

5      入船亭扇辰独演会「入船亭扇橋十八番」
橘家かな文「真田小僧」
入船亭小辰「ちはやふる」
入船亭扇辰「茄子娘」
入船亭扇辰「三井の大黒」
開演19時00分 終演21時20分
日本橋社会教育会館ホール

6      人形浄瑠璃文楽「南都二月堂 良弁杉由来」「増補忠臣蔵 本蔵下屋敷の段」
開演11時00分 終演15時20分
国立劇場 小劇場

7      第472回 花形演芸会
神田桜子「八百屋お七 序開」
入船亭遊京「弥次郎」
春風亭笑好「ラーメンマスター」
のだゆき 音楽パフォーマンス
柳家さん助「景清」
入船亭扇遊「厩火事」
宮田 陽・昇 漫才
鈴々舎馬るこ「大工調べ」
開演 13:00 終演 16:00
国立演芸場

8      興福寺 塔影能
狂言「萩大名」
茂山七五三 茂山宗彦 網谷正美
後見:山下守之

能「石橋」
浅見慈一 浅見真州 福王茂十郎 山本哲也 大倉源次郎 前川光範 杉信太郎
師資十二段之式
間:茂山一平
後見:武富康之 赤松禎友
地謡:小早川康輝 大槻裕一 斎藤信輔 長山耕三 浦田保親 上田拓司 浅井文義 山本博通
台後見:水田雄吾 上野雄介 山田薫 浦田親良

 

今年聴講した講演、各種見学、参加したワークショップなど(敬称略)

1      「仁和寺と御室派のみほとけ 天平と真言密教の名宝」
プレミアムナイト 三十帖冊子 鑑賞会
大石隆淳(仁和寺 執行)
対談 おかざき真里(漫画家)、恵美千鶴子(東京国立博物館)
東京国立博物館

2      「狩野派を知る見る楽しむ」山下善也(九州国立博物館 主任研究員)
根津美術館

3      「植物から博物学の世界を知る 東京大学総合研究博物館見学」国立民族学博物館友の会体験セミナー 大場秀章「本草学とその日本での歩み」、常設展見学、標本室見学、標本整理作業見

4      「長澤芦雪と薬師寺旧福寿院障壁画」安永拓世(東京文化財研究所 研究員)
奈良国立博物館

5      東大寺二月堂修二会

6      スペシャルトーク 「乾山焼と光琳」 荒川正明(学習院大学)根津美術館

7      「自作と日本民藝館」柚木沙弥郎(染色家)日本民藝館

8      「世界の製藍、日本の藍染め 気候と風土の育まれた色、藍を知る」国立民族学博物館友の会体験セミナー 井関和代(大阪芸術大学名誉教授)、森義男・森芳範(紺九)紺九(滋賀県野洲市)

9      国立民族学博物館友の会 第123回東京講演会「ヒンドゥー教祭礼の読み解き方」三尾稔(国立民族学博物館教授)モンベル渋谷店

10    「ますむらひろしトークイベント アタゴオルX北斎」ますむらひろし(漫画家)、奥田敦子(すみだ北斎美術館主任学芸員)すみだ北斎美術館

11    「総合芸術としての書物 ブレイク、モリス、柳宗悦」佐藤光(東京大学 大学院総合文化研究科 教授)日本民藝館

12    「色と香りで愉しむ、燻製ワークショップ」津川清子(妙乃燻上 主催) RELIFE STUDIO FUTAKO

13    157回 日本民藝夏期学校 鹿児島
校長・川野恭和 標語「無心に創る 鹿児島と民藝のえにし」
深澤直人「無心に創ることの意味」
李尚珍「浅川伯教・巧研究」
十五代 沈壽官「苗代川(美山)今昔」
稲村隆「白樺派と鹿児島」
映画「幸福は日々の中に。」

14    「李朝白磁の偏屈さを読む」伊藤郁太郎(大阪市立東洋陶磁美術館名誉館長)日本民藝館

15    国立民族学博物館友の会 第482回講演会「特別展「工芸継承 東北発、日本インダストリアルデザインの原点と現在」関連 震災を経ても土地に生きる 南三陸町波伝谷、12年間の映像記録を通して」我妻和樹(映画監督)、日高真吾(国立民族学博物館准教授)

16    平成30年 東京国立博物館 事業報告会・賛助会感謝会

17    美術評論家連盟主催2018年度シンポジウム「事物の権利、作品の生」
林道郎(上智大学国際教養学部教授)
沢山遼(美術批評)
池野絢子(京都造形術大学大学院芸術研究科准教授)
金井直(信州大学人文学部教員)
蔵屋美香(東京国立近代美術館企画課長)
星野太(金沢美術工芸大学講師)
東京藝術大学美術学部中央棟第一講義室

18    ほぼ日の学校「万葉集講座:万葉集とシェイクスピア」上野誠(万葉学者)、河合祥一郎(シェイクスピア研究者)

19    ほぼ日の学校「万葉集講座:万葉集に出会う」上野誠(万葉学者)

20    国立民族学博物館友の会 第124回東京講演会「野次から応援へ 応援の比較文化論の試みから」「太平洋の探検家 朝枝利男の探検と生涯」丹羽典生(国立民族学博物館准教授)モンベル御徒町店

 

エンディングロール 後編は明日

 


読書月記2018年12月

2018年12月29日 | Weblog

上野誠『万葉集の心を読む』角川ソフィア文庫

ほぼ日の学校「万葉集講座」の受講を始めたので、講師の著作を読んでみようかと思った。上野氏の書いたものは「芸術新潮」の2010年4月号「平城京遷都1300年記念特集 万葉集であるく奈良」を繰り返し読んでいる。縁あって数年前に興福寺友の会というものに入会し、年に一度は奈良を訪れるようになったので、出かける時期が近付くと「今年はどこにでかけようか」などと考えながら頁をめくるのである。旅行に行くときは宿を駅の近くに取り、そこを拠点に行動することにしている。ただ、日本の宿は一泊が基本で長くても三泊というのが運営上の定型であるらしく、それ以上になると予約をとりにくくなるような気がする。安直に予約サイトなどを使ったりせず、宿に直接電話をすればそのようなこともないのかもしれないが、旅行など年に数えるほどしかしないのに「ここ」という宿があるはずもない。手軽に宿を探そうとすれば、予約サイトに自然に手が伸びる。

妻も私も人混みが苦手である。旅行に出かけても、訪れた先に人だかりを認めると「やめとこか」と引き返してしまう。だから毎年奈良に出かけて、そのたびに東大寺に参詣しても、大仏を拝んだのは一度だけだ。東大寺で必ず参拝するのは戒壇院だけで、そこから大仏殿の裏手を通って二月堂、三月堂、四月堂、手向山八幡、と回ることはある。方向を変えて転害門をぼんやり見上げてみたりしたこともある。奈良は東大寺以外では人込みというほどのところはないので、毎年愉快に過ごしている。

奈良は昔の寺院跡がそれとわかるようにあちこちにあるのがおもしろい。多くの寺がそれぞれに広大な境内を有していたことがわかる。現在に比べて交通手段が限られていた時代に、現在の感覚では考えにくいような広い境内の寺社があるということは、その存在がナントカ寺とかカントカ神社という個別のものではなく公として認知されていたということではないか?土地の私有という概念がいつから一般的になったのか知らないが、敷地の境界を歩いてまわると何時間もかかるようなものを構えるというのは、その主体にそれだけの権力があったということだろう。権力闘争や廃仏毀釈といった愚策の影響も大きいだろうが、そうしたものよりも根本的には科学技術の発展に伴う一般社会における知識量の増大と人々の思考の変化で寺社や宗教の在り方が変容したことで、主体の権力が衰退し、現象面としては境内が縮小したということになるのだろう。

最近のネット上での情報流通も社会や権威の変容のドライバーになっているはずだ。かつてマスメディアというフィルターを通して形成されていた世相や世論のようなものが参入自由のネットの世界でフィルターらしいものを経ずに形成されるようになった。一国の元首がネットで何事かをつぶやき、それが世界情勢に影響を与えるという、少し前には考えられないようなことも現実に起こっている。言葉というものが、特定の知識層や権力に独占されていた時代と、今とではかなり違ったものになっている。当然、言葉というものの意味も変容しているはずだ。或るまとまりのある社会のなかでの言葉、あるいは言葉を発する行為が、共有するところの薄い相手を大きく包含するなかで全く違った意味合いを持つようになることだってあるだろう。

それで万葉集だが、おそらく教育制度どころか教育という概念が今とは違ったなかで、読み書きができて詩作もできるという層が社会のなかでどのような位置を占め、どのような影響力を持っていたのか知らないが、そういう層の言葉である歌を集めて編纂したものだ。そこに表現されているものが、現代の大衆の想像力に収まるものなのかどうか、素朴に疑問に思う。それこそ、自分の知性の範囲内で推測できることだけを拾い集めて「鑑賞」だの「解釈」だのと分かったつもりになってしまうというのは、なんだか落語の世界のようにも見える。もし万葉の時代の人が今までずっと生きていたとして、世にある万葉集の歌の解釈だの評論だのを目にしたり耳にしたりして、「落語の「ちりとてちん(酢豆富)」や「転失気」みたいだねぇ」と笑い転げていたりする図が描けたりするかもしれない。

そもそも歌を詠むのは、聴かせたい相手があってのことなのではないか。歌を詠むような人は、日々の生活に追われてあくせくするようなこともなかったのだろうから、当時の貴重品である紙や筆記用具を使って目的もなく書いてみる、などということができたのかもしれない。しかし、言葉を発するという行為に限らず、凡そ人の行為というものには何かしらの目的があるのではなかろうか。歌は万葉の頃は必ずしも五七五七七というような形式が確立していなかったようだが、それにしてもある一定の語調とか型がある。野放図に言葉を垂れ流しているのではない。凝縮された言葉を遣り取りするには、相手との共通認識があって然るべきだろう。そのあたりの考察にお目にかかったことがないのは、単に私が不勉強というだけのことなのだろうか。

 

安楽庵策伝 鈴木棠三(訳)『醒睡笑 戦国の笑話』東洋文庫

かなり前から少しずつ読み進めていたものを漸く読了。落語の元祖のひとつと言われているものだ。「笑い」とは何かを考える上ではおそらく必読文献のひとつになるだろう。尤も、私は研究者ではないし、「笑い」について考えなければならい義理もないので、必読もへったくれもない。個人的には本文よりも鈴木氏の解説が面白かった。本書の解説というより落語関係の著作の多い関山和夫に対する批判だ。関山氏の書いたものは私から見てもお粗末で、そのことはこの「読書月記2018年4月」にも書いた。別に『醒睡笑』の解説で取り上げるほどのことでもないとは思うのだが、この分野の研究の厚みというのがその程度のものなのだろう。

何を面白いと思うか、何が笑いを呼ぶのか、というのは理屈ではないと思うのだが、理屈を考える商売の人は放ってはおけないのだろう。理屈のほうはさておき、笑いの方向性のようなものは他人との相性において大きなウエイトを持つ、と経験的に実感している。例えば、落語は本を読んでも面白くない。古典は筋もサゲもわかっているのに、噺家によって面白く愉快に聴くことができるし、聴くに堪えない噺家のもある。よく「息と間」などという。そうとしか言いようがないからそういう表現をするのであって、同じ話が話し手によって面白くもそうでなくもあるのは、やはり理屈を超えた何事かのなせる業だと思う。そして、同じことを面白いと思うかどうかというのは、相性を大きく左右する。ひとつには、ある現象の背後をどれほど共有できているかということが影響する。それは個人的な体験もあるだろうし、もっと幅広く所謂「文化」的なものであることもあろう。そうした価値あるいは世界観の共有があって笑い合えるような相手とは上手く付き合うことができるような気がする。一方で、他人を蔑んだ笑いというのがある。そういうことでしか笑えない相手とは付き合いたくない。

『醒睡笑』に収載されている話の多くも他人を馬鹿にしたようなものだ。ただでさえ文語調で読みにくい上に、少なくとも私には面白いとも思えないような話ばかりだが、これも落語の源流のひとつと言われると、改めて落語という芸能の値打ちのようなものを感じる。

 

岡井隆『今はじめる人のための短歌入門』角川ソフィア文庫

世間にはたくさんの「入門書」というものが出回っている。そういうものを手にする機会というのは近頃まず無いのだが、遠い昔の記憶を辿れば、そういうものを読んで一層の興味をそそられるというようなことはあまり無かったように思う。どこか読者をなめているような、或いは書いている本人が実は理解できていないような、そういう粗末なものという印象がある。

本書は題名のなかに「入門」の文字があるくらいなので入門書なのだろう。しかし、読者に対してかなり厳しい内容だ。生半可な気持ちで「短歌でも始めてみようかな」などと思っていると、「やめとこか」ということになってしまいそうだ。しかし、本気で短歌というものを詠んでみたいと思っている人が、取っ掛かりに手にすると、愈々気持ちがたかぶるのではないだろうか。「短歌入門」と言いながら、広く言葉というものについて考えさせられる深い内容があると思う。

短歌に関しては主張が一貫している。「個別化への指向」という言い方をしているが、要するに「あなたにしか詠むことのできないことを詠みなさい」ということなのだ。そのためにはどうしたらよいのか、ということを考えさせる道標のような構成になっている。「道案内」ではなく道標だ。「案内」というと手取り足取りの印象だが、あくまで自分で歩くことが前提だ。こういうものを本当の入門書というのだと思う。

本書は短歌入門だが、「短歌」を言葉一般に敷衍して読むことができる。「あなたにしか言えない言葉で話しなさい」ということだ。どっかで聞きかじったような誰のものだか皆目わからないような手垢だらけの言葉を並べたてるのではなく、自分の経験に根差した内容を的確に相手に伝わるように言葉を吟味して表現しなさいということだ。容易なことではない。しかし、そういう意識で丁寧に言葉を考えて生きていれば、たぶん、愉快だろう。

 

ラフカディオ・ハーン(著)、平井呈一(訳)『心 日本の内面生活の暗示と影響』岩波文庫

よく利用する或る大型書店で別の本を探していたときにたまたま目について買い求めた。著者が体験したこととそこからの考察をまとめた短かい文章が15編収載されている。外国の人が日本で数年暮らしたなかで得た知見や考察ではあるが、「外国の人」という部分は敢えて述べなくてもよいと思う。時代は日清戦争の頃、維新から20数年、ようやく日本に新たな秩序と価値観が芽吹いてきた頃ではないだろうか。自分がその時代を生きたわけではないので、あくまで想像なのだが、科学技術の振興による新たな知見の獲得が価値観といった人の内面に影響を与えないはずはないとは思うものの、基本的な倫理観に大きな変化があるとは思えない。今も昔も人というものの感情であるとか内面といったものはそれほど違わないのではないかと思うのである。

本書の最初の文章は「停車場で」、締めが「きみ子」。それらの間の話も印象深いのだが、『心』というタイトルの短編集の最初と最後を飾るものとしてこれらの文章が選ばれるということが、著者にとって「日本」あるいは「日本人」を象徴している。と同時に、ギリシャ生まれの筆者が日本という土地で体験したことが自身のアイデンティティを強く確認することになったということかもしれない。

今年のクリスマスイブのミサでローマ法王はマテリアリズムを批判する説教を行った。原語のニュアンスはわからないが、翻訳を読む限り違和感は覚えない。もし、ハーンがこの説教を聞いたら、何と思っただろうか。本書の「日本文化の真髄」のなかにこのような一節がある。
つまり、手っ取り早くいえば、けっきょく、ヨーロッパ文明の特異性が、機械や大資本の力をかりずに生きていこうという、人間本来の力を骨抜きにしてしまったがために、そこに不自由とか束縛とかいうものが生まれてきたわけである。こんな不自然な生きかたをいつまでもつづけて行けば、遅かれ早かれ、勝手なときに勝手に身を動かすような力は、しぜんと失われてくるにきまっている。(33頁)
この後に日本人についての記述が続くのだが、それは現代の日本人が失ってしまった能力だと思う。所謂グローバル化の必然だと思うが、価値尺度をデジタル化された単純明快なものに求めると、それを実現するためのプロセスが複雑怪奇になる、あるいはなってしまったというのが現状であるような気がする。今更後戻りはできないが、これだけ多くの人間が地球上に暮らしているのだから、デジタルのことは他の人たちに任せておいて、自分なりの単純な生活というものを指向することは無茶なことではあるまい。少なくとも私自身は残りの人生をでき得る限り単純なものにしたいと思っている。

 

 


読書月記2018年11月

2018年11月30日 | Weblog

司馬遼太郎『翔ぶが如く 第八巻~第十巻』文春文庫

物語は終盤。西南戦争の描写となるが、当然、司馬はそれを経験したわけではない。繰り返しになるが、これは小説だ。ただ、読んでいて、既視感を覚えるのは自分がこれまでにどこかで読んだり聞いたりした太平洋戦争の描写と重なるものがある所為ではないかと思う。私自身は戦争を経験していない。しかし、親や親戚のなかには兵士として出征したり、市井の民として空襲のなかを逃げ惑った経験がある、といった人が何人もいる。そういう人たちの話を聞くともなしに聞いて育った。聞けば興味を覚えることもあり自分から調べ物をしたようなこともある。そうして作られた自分のなかの戦争のイメージと本書の記述が妙に重なるのである。おそらく作者の司馬が学徒出陣で軍人として戦争を経験していることと濃厚に関係があるのだろう。特に薩軍の描写には自身の経験に拠るのではないかと思われる辛辣さを感じる。

戦争とか勝負事という、勝ち負けのある行為、勝ち負けという発想、というのは要するにデジタルだ。有無、0 or 1、ということである。デジタルの発想というのは数値化、理論化という点では言語や文化の違いを超越して伝達できるという点で有利である。故に所謂グローバル化にデジタルの発想は必須となる。本来的にデジタルなものを表現するのなら結構なことばかりだろうが、そうではないものを近似化したり、便宜的に様々な前提条件を与えてみたり、というような加工を施して「化」すると、理屈として聞いている分には面白がっているだけでよいのだが、生活にかかわるとなると思いもよらない結末に遭遇して当惑することになったりする。大政奉還以降の日本の歴史において、所謂近代化の過程というのはこうした当惑と迷走の累積という側面もあるのではないかと、本書を読みながら思った。

明治維新が何を「維新」したのか、ということを考えると、結局のところは上下関係という構造の大枠はそのままに、その中身の権力者を挿げ替えただけのように見える。廃刀令や廃藩置県といった施策で、それまでの権力者であった武士を葬り去ったものの、新たな支配階級である太政官が旧来の被支配階級を搾取するという構造はそのままであるように見えるのである。「年貢」が「税」になり、そこに兵役という用役負担を加え、五人組に象徴される相互監視による治安維持に代えて警察制度を導入するというような、施策上の変化はあるものの、自分の生活を「お上」に委ねるという精神の部分は急に変えることができる性質のものでもなく、今日に至るまで自分自身の思考よりも外部の権威に縋る姿勢にたいした変化はない、と思うのである。

西南戦争をはじめとする維新後の暴発がいずれも太政官に鎮静されてしまったのは、暴発の本質が維新の陣取り合戦でしかなく、太政官に対抗しうる新たな構造の提示ができなかったという側面もあろう。勿論、暴発不発の現実的原因は体制側と暴発側との物量と技量の格差というデジタルな話に落ち着かせることができる。しかし、その「数」を獲得できなかったのは、「数」を惹きつけるものが乏しかったということだ。

 

ローリー・リン・ドラモンド(著)、駒月雅子(訳)『あなたに不利な証拠として』ハヤカワ文庫

女性警察官を主人公にした短編小説集。作者も元警官だそうだ。普段はこういう本は読まないのだが、以前に読んだ山崎努の『柔らかな犀の角』で紹介されていて、Book Offで購入。

人を殺す、というとなんだか異常なことのように感じられるが、人というものに感情があって衝動があり、動機があって行動が起こるという当たり前の神経と身体のシステムのなかで当たり前に起こることだ。だから防衛のために武器を所持するのは当然と考えるのか、物騒なものは手元に置かないようにするべきと考えるのか。そこには人というものに対するその社会の考え方や信頼感の根源があるように思う。尤も、一般市民の武装を違法とするか合法とするか、ということを考えること自体が人に対する不信の表れとも言える。しかし、己を懐疑するのは理性のなせる業なので、そこまで問い始めると際限がなくなってしまう。

人を殺すことが特別なことではない、という前提に立ってしまうと、例えば本書のような作品は小説あるいは文学作品として成り立たなくなってしまう。たまたま本書の前に読了した『翔ぶが如く』では日本に警察制度が導入される事情について触れられていた。太政官という国家権力の下で統一国家というまとまりを維持しようとすれば、そこで暮らす人々の生活の隅々までその権力による統制が機能しなければならない。手段がどうあれ、集団を安定的に維持するには強制力による統制がなければならない、というのが歴史が示す現実ではないか。強制力を持って治安を維持しないことには、収拾がつかないのが人間というものらしい。つまり、文学とか日常の表層においては、人を殺すことは特別なことなのだが、実体としては放っておくと何をしでかすかわからないから強力な罰則を以て統制しないと維持できないのが人間の社会ということになる。とすると、表層と深層の間に何があるのだろうか。その乖離のなかでふわふわとしているのがフツーの人々ということなのだろうか。

 


読書月記2018年10月

2018年10月31日 | Weblog

司馬遼太郎『翔ぶが如く 第四巻~第七巻』文春文庫

人は経験を超えて発想できない。300年近い幕藩体制のなかで生きてきた人々が、その体制を崩してみたところで、改めて作り上げるのは結局のところ崩したはずの幕藩体制と然して変わらないものものであるような気がする。人に上下貴賤を付け、そのなかで無邪気に陣取り合戦をして勝ち組だの負け組だのと驕ってみたり卑下してみたりする。その土俵から一歩退いてみれば馬鹿馬鹿しいことでしかないのだが、土俵にあるとそれが世界の全てであるかのような気分になってしまう。人というのは哀しくも馬鹿馬鹿しい生き物だ。

最初に本書を読んだのがいつのことだったか記憶にないが、『菜の花の沖』が大学の入ゼミ試験の課題図書であったと記憶しているので、少なくとも大学2年のときには読んだはずだ。しかし、本書や『坂の上の雲』といった長編は社会人になってから手にしたような気がする。初めて読んだときにはそれなりに感心して読んだ、と思う。人生の黄昏時になって改めて読んでみると、なんだかしょうもない話のようにしか思えない。人の社会というものがそういうものでしかないということなのだろう。


なぜ吉野

2018年10月07日 | Weblog

大和八木駅前でレンタカーを借りて吉野へ行く。車を借りる一連の手続きのなかで、レンタカー事務所の人が吉野に行くなら天川村にも足を延ばすといいと勧めてくれたので、まずは天河大辨財天へ向かうことにした。

道は山の中へ山の中へと続くのだが、その割に交通量がほどほどにあって、山道を往く不安のようなものは感じさせない。そうこうするうちに天河大辨財天社に到着。境内の駐車場はそれほど大きくないが、難なく駐車できた。その後で、バスで団体客が乗り付けてきて、あっという間に駐車場は一杯になった。そういう神社なので、車がないと不便な立地の割には境内は賑やかだ。参拝する人が多いということで社の整備も行き届いている。伊勢神宮のように決まった周期で建て替えが行われるところもあるくらいだが、そもそも神社というのは毎年のように境内を新しいものにしたはずだ。その名残がお札やお守りのお焚き上げだろう。しかし、現実には老朽箇所の補修すらままならないところが多く、やむを得ず古い社を大事に使っているということなのだと理解している。天河大辨財天は鳥居も比較的新しく、社殿は1989年に立て替えたそうだ。縁起によれば7世紀に役行者が活動の拠点とし、空海がここで修行の後に高野山で真言宗を築いたとある。南北朝のときには、後村上天皇が一時期身を寄せ、その宮殿跡の石碑が境内を少し外れたところにある。

このあたりは霊場なので、ほんとうは車で来るようなところではないのだが、山道を対向車が来ないことを祈りながら慎重に運転する。1時間ほどで吉野だ。とりあえず金峰山寺近くの民営駐車場に車を置いて、昼ご飯の食べられそうなところを探す。葛の専門店があり、店の人が講釈をしながら葛餅とか葛切りを出している。予約制で、1時間半ほどの待ち時間で頂くことができるとのことだったので、予約をする。ちょうど近くの吉水神社にお参りするのによい時間。

吉水神社は吉野山を統率する修験宗の僧坊だった。後醍醐天皇の皇居だったことから明治の神仏分離で吉水神社と改められたという。祭神は後醍醐天皇、その忠臣であった楠木正成と吉水院宗信法印を合祀。南朝の皇居もそうだが、こんな山の中にどうして、と思うようなものがたくさんある。後醍醐天皇の後の時代では秀吉が花見にやって来たという千本桜を一目に見渡すことのできる絶景スポットとしても有名な場所だ。

ソメイヨシノが江戸時代に造られた品種であることは、以前に染井の近所で暮らしていたのでよく知っているが、桜を愛でるようになったのはいつからなのだろうか?例えば、俳句で「花」といえば桜を指すことが多いらしい。ソメイヨシノだけでなく園芸種としての桜が数多く造られたのが江戸時代だそうだ。あの花とこの花を交配してみよう、という発想の背景として、「あの花」も「この花」も当たり前に存在しているはずなので、少なくとも江戸時代以前に数多くの品種があって、桜の花を鑑賞する文化が存在していたと考えるべきだろう。桜は平安時代の国風文化勃興の中で人気が上昇したそうだが、それほどこの国で愛されるようになったのは何故だろう?

今回は訪れなかったがが吉野には宮滝遺跡がある。飛鳥時代の離宮である吉野宮があった場所とされ、後醍醐天皇よりもずっと昔から都人が行ったり来たりしていたらしい。都人の「都」は平城京以前のちょいちょい移転していた頃の時代からだ。吉野宮にまつわる歌は万葉集にいくつも収載されているくらいなので、おそらく今の風景とは違った色彩を帯びていただろう。やっぱり、そのあたりの感覚は車で来たのでは絶対にわからない。かといって、飛鳥あたりから歩いてくる気力も体力ももうない。尤も、わからなくて一向に差し支えないし、歩いてみたところで私如きには何も発想など湧かないだろう。

葛の専門店では、御主人が葛の説明から始める。客は説明を聞きながら葛餅や葛切りが出来上がるところを見物するのだが、主人は一方的に説明をするのではなく、ときどき葛にまつわる質問を我々に投げかけてくる。私を含め、他の客も沈黙してしまうのだが、妻にとっては当たり前のことばかりのようで、ホイホイと答えて主人のほうが言葉に詰まったりする。説明が終わり作業にとりかかると程無く葛切りと葛餅ができあがる。あたたかいうちに食べる。本来はそういうものらしい。砂糖を加えたりしていないのに、適度な甘さがあって、腹に素直に収まる印象だ。葛だけで必要な栄養が摂れるとは思えないが、自然に身体に取り込まれるような食事をしていると、健康には良い気がする。

金峯山寺は南大門が改修工事中。例の青くて大きな蔵王権現は原則秘仏なので拝むことは能わず。それでも、参拝できたことに安堵のような喜びのような感情が湧いてくる。神社仏閣というのは不思議なもので、知名度と参拝したときに感じるものとの間に相関がない。有名だからありがたいとは思わないし、たまたま通りかかってお参りしたのに、良いところに出会えたと嬉しくなることがある。ここの塔頭で脳天大神というところがある。お参りすると頭が良くなりそうな名前なので、境内の矢印に従って行ってみると果てしない階段を下りていくことになる。或る程度まで下りたところで帰りの登りが気になり始める。しかし、そこで引き返すと却って中途半端なことになるので覚悟を決めて階段を下り続ける。おそらく、この「覚悟を決める」というのは大事なことなのだろう。信心を試されているかのようだ。尤も、信心に関係なく「せっかくここまで来たのだから」というセコな気持ちで参詣することだってあるだろう。齢を重ねて体力気力が衰えると、信心よりも「せっかく」のほうが行動の動機として強くなったりする。

金峰山寺のお参りを終えて、車で吉野の山を下り始める。吉野神宮にも参詣する。ここは明治に創立された新しい神社だ。新しい神社仏閣というのは、どうしても取ってつけた感が否めない。あと数百年すれば、ここも有難みが出てくるのだろうか。

車を返却する時間まで余裕があったので、昨年行きそびれてしまった岡寺に参詣して奈良へ戻る。

夕食は東向商店街にあるクラフトビールの店に行く。イギリスのパブのような雰囲気で、外人客が多い。パブとは違って注文はフロア担当の店員にお願いする。ビールのお店で食事はおつまみ程度なのだが、料理はちゃんと旨い。


本当のことは誰も知らない

2018年10月06日 | Weblog

台風25号が接近している所為なのか、宿の部屋から見える雲がなんだか凄い。幸い、雨のほうはたいしたこともないうちにJR奈良駅に着いた。関西本線に乗って郡山で下車。このときは雨は降っていなかったが、近鉄郡山駅への一本道を歩いていると薬園八幡のあたりで降り出した。けっこうな雨脚だ。薬園八幡にお参りをして、なおも雨降りしきるなかを近鉄の駅へ向かう。新紺屋町の信号を過ぎ、最初の細い路地に源九郎稲荷の参道を示す幟や看板が並んでいる。せっかくなので参道に入る。正面に門が見えたが、鉄の格子のような門は閉じられている。参道の看板や幟を掲げておいてそれはないだろうと思いつつ、門のほうに向かって歩いていくと門の左に神社が見えてきてほっとする。

芝居というものに疎いので「源九郎」だの「狐忠信」だのと言われても全くピンとこないのだが、『義経千本桜』という人形浄瑠璃とか歌舞伎の演目があって、そこに登場する「狐忠信」というのがこの源九郎稲荷の化身なのだそうだ。そんなわけで、芝居好きの人たちがここにお参りに来るのだそうだ。雨がひどくなったので、ここの宮司さんと思しき人に勧められるままに社務所兼住居の玄関の中に入れていただいて、いろいろ興味深いお話を伺った。旅行をしていて楽しいと思うのは、こうしてたまたま通りかかったり出会ったりした人から話を伺ったり、思いもよらぬことに感心したりする機会に恵まれることだ。30分ほど話し込んだあたりで陽がさしてきて、雨が上がった。源九郎稲荷を後にして近鉄郡山駅へ向かう。

近鉄で終点の橿原神宮前駅で下車。駅舎は立派だし、駅前のロータリーはよく手入れされていて、客待ちのタクシーの列もある。ところが、人影が殆どないのである。土曜の昼間、台風接近で不要不急の外出を避けている人が多いかもしれないという事情はあるだろう。ここまで乗ってきた電車にはそれなりの人の数があったが、みんなどこへ行ってしまったのだろう?

橿原神宮の『由緒略記』の「はじめに」には
橿原神宮は、九州高千穂から御東遷され、畝傍山の東南の麓、橿原宮にて即位された第一代神武天皇を、その建国の聖地でお祀り申し上げております。
とある。えらく古い話なのだが、橿原神宮の創建は明治23(1890)年と比較的新しい。「新しい」というのは私の主観だが、ウィキペディアを見たら、この年にはこんな人たちが生まれている。

古今亭志ん生は「昭和の名人」と呼ばれる噺家の一人だ。カーネル・サンダースは今でも街角で見かけるし、大野伴睦は東海道新幹線に岐阜羽島という誰が利用するのかよくわからない駅を設置せしめた功労者で、東山千恵子は名画「東京物語」で笠智衆と夫婦役をつとめていた。笠智衆は寅さんで柴又帝釈天の御前様だ。同世代の生身の人々を並べてみると、1890年創建というのは、そう古い話ではないと感じるのである。

昭和15(1940)年には拡張整備が行われ、現在の一の鳥居から続く森のような参道はこのときに造営されたものだそうだ。境内は整然としていて、確かに別世界のようである。手水舎で身を清め南神門をくぐると、社殿と背後の畝傍山との配置の妙に感心させられる。

境内に長坂稲荷があり、小さな参道に朱い鳥居が立ち並ぶ。どこぞに有象無象が群がる似たような御稲荷様があるが、こちらは人影少なく落ち着いたものだ。境内が賑わうというのは結構なことなのだろうが、参拝する立場からすれば、静かな境内のほうが有り難い気がする。

一旦宿に戻って一服して、興福寺へ向かう。通常なら東金堂前の特設舞台で奉納される塔影能だが、今日は台風25号が近畿地方に接近するという天気予報のため、既に設置の終わっていた特設舞台を片付けて文化会館で行われることになったとの掲示が出ている。台風接近ということよりも、本当のところは、この時期としてはかなり暑い30度を超える気温の所為ではないだろうか。日没後の開催とは言え、暑いなかでの野外能というのは演じる方も観る側も辛いものがある。空調のある屋内のほうが誰にとっても有り難いだろう。

塔影能の後は、今年も香音で晩御飯をいただく。興福寺からの距離とか料理の内容とか諸々が我々夫婦にはちょうどよいのである。年に一度しか訪れないのに厚かましい願いとは承知しつつも、この店はいつまでも続いて欲しい。

 


奈良 今度こそ正倉院

2018年10月05日 | Weblog

今年も興福寺の塔影能を観に来た。今年は正倉院を見ようと思い、仕事を休んで平日にやってきた。正倉院は内部を見ることはできない。外から建物を眺めるだけだ。それほど興味があったわけではなかったのだが、近くを通りかかるのが週末ばかりで見ることのできないことが過去3年4回連続するに及んで、眺めてみたいという気持ちが高まった。それで今回は奈良に着いて、宿に荷物を預けてまず正倉院を訪れた。尤も、動線の関係で途中で戒壇院に立ち寄り、続いてたまたま勧進所内の惣持院で特別公開されていた僧形八幡神坐像と公慶堂で公開されていた公慶上人像を拝観する。戒壇院は必ず参詣するのだが、勧進所の門が開いているところに遭遇するのは初めてだ。さらにたまたま僧形八幡神坐像へ向かう宮司の団体にも遭遇する。寺なので合掌するのかと思ったら、僧形ではあっても八幡神だからなのか、立場上そうせざるを得ないのか、二礼二拍手一礼だった。

正倉院は思っていたよりも大きい。校倉造の建物は規模の大きな寺社の境内にはたまにあるのだが、そんな生易しいものではなかった。現在は収蔵品が別の場所に移されて内部は空らしいのだが、一見したところは十分現役の収蔵庫として機能しそうな雰囲気を漂わせていた。倉庫といっても単に文物を収蔵するだけでなく、行事などの必要に応じてそれらの出し入れがあったはずだ。つまり、内部は整理整頓が行き届いていたはずなので、その整いかたや収蔵品の出し入れの仕組みも是非観てみたいと思う。現存するのは一棟だが、これが数棟並んでいたらしい。となると、収蔵品の管理もかなり大がかりな仕組みがあったと思われる。搬送装置類や在庫管理システムがどのようなものであったのだろうか?

盆に妻の実家に帰省した折、敷地の一画にある工場の内部を眺めていたら天井近くの隅に木製の滑車があるの気付き、下してもらって見せてもらった。久しく使われていないので、どれほどの耐荷重があるのかわからないとのことだった。正倉院が現役であった時代の物流も、物の材質こそ今とは違え、仕組みとか考え方は案外同じようなものだったのかもしれない。今なら樹脂や金属でできた機器類がどのような材質でどのような工夫で造られているのか。今なら電動モーターで動かす装置がどのような動力で稼働していたのか。今ならコンピューターで管理されているようなことが、どのような方法で管理されていたのか。

この後、二月堂、法華堂(三月堂)、三昧堂(四月堂)とお参りする。二月堂とその周辺は3月にお水取りで訪れた。お水取りの井戸のある建物に飾られた注連縄はすっかり干乾びてしまっていたが、そのことがお水取りという行事の尊さを示しているとも言える。先日、国立劇場で人形浄瑠璃文楽「南都二月堂 良弁杉由来」を観たこともあり、改めて良弁杉の前に立って見上げてみる。二月堂の回廊に上がりお参りをして、四月堂に上がってご本尊の十一面観音を拝む。この観音様は二月堂から移されたそうだが、二月堂の前は桃尾寺のご本尊だったという。同寺の廃寺で二月堂に移されたのだそうだ。四月堂の旧ご本尊は千手観音だが、こちらは東大寺ミュージアムにおられる。

今日は新薬師寺に参詣するつもりで、東大寺から南へ向かうが、間にある春日大社を素通りするというのもなんなので、参拝する。春日大社の起こりは鹿島神宮、香取神宮、枚岡神社から神様を勧請して祀ったことに拠るのだそうだ。関東で生まれ育った身としては、日本の起源のような大和の地の由緒ある神社が鹿島とか香取とか当時としては最果ての地から神を呼んでくるという話でありがたいと思われるのか不思議ではある。実は、今年の5月の連休に鹿島神宮と香取神宮に参拝してきた。香取神宮裏手には小さな古墳がいくつかあり、古い土地であることはわかるのだが、そういうところを参拝したり歩き回ったところで何かを点頭できるほどの知性も感性も残念ながら持ち合わせていない。今度は枚岡神社に行ってみることにする。

二之鳥居のすぐ外側から中の禰宜道へ入り、道標に従っていくと新薬師寺に出る。途中、不空院の前を通るが、今は一般公開はされていないようだ。

新薬師寺は薬師寺とはちがってこじんまりとしたところだ。門前で住宅の建設工事が行われている。門の真ん前に一般の住宅が建てられてしまうほどに、こじんまりとしている。創建当初は大きかったらしい。南都十大寺に数えられるほどの規模だったという。それが落雷による火災、台風による倒壊などで荒廃したのだそうだ。現在の本堂は創建時に境内の隅のほうにあった仏堂だ。あっさりとした構造で、内部には本尊の薬師如来坐像とそれを円形に取り囲む十二神将像だけ。仏像を密集させるように安置する寺も少なくないが、仏教では数がものをいうとはいえ、参拝するものを圧倒するかのような了見はいただけない。こういう静かな間、仏と対面対談するかのような空間でこそ心ある人は何事かを感じ取るのではないか。よい寺よい仏に出会えたと嬉しい気分になる。

新薬師寺南門に隣接するように鏡神社がある。夕方で、社務所を閉めているところだった。特に述べることはない。

不空院の前の道を通って市街を目指す。ほうじ茶の良い香りのする家がある。門のところに看板が出ていて販売をしているらしい。門をくぐると玄関が開いたままになっている。中に声をかけると家の人がでてきてお茶の説明をしてくれた。一包いただく。この家は今はほうじ茶の販売だけだが、もとは茶粥屋を営んでいたのだそうだ。奈良の茶粥といえば名物のようなもので、宿でも朝食は茶粥というところを見かけるしそういうところに泊まったこともある。どういう縁起があって茶粥なのか知らないが、やさしい味わいで、私は好きだ。

春日大社の緑地の縁の道を歩いていくと志賀直哉旧居の前に出た。最終入館時間ぎりぎりだったが入れていただいた。志賀直哉といえば白樺派、白樺派は民藝の柳宗悦にも通じる。9月には鹿児島での民藝夏期学校で白樺派についての講演を聴いた。こういうことも巡り合わせなので、ここは素通りできないのである。今の人気作家と呼ばれる人たちがどのような生活をされているか全く知らないが、志賀直哉旧居は大きい。台所が大きく、人の出入りが多いのを当然としていたことがわかる。創作というのは大勢の人と交わることで可能になる行為なのだろう。

奈良公園の南辺から浮見堂、青葉茶屋、江戸三、を眺めながら三条通に出る。ここから宿を目指して行こうと思ったが、一旦宿に戻るよりも、夕食を済ませてから戻ろうということになる。本当は、明日、塔影能の後に行くつもりだった竹の館を「下見」ということで今日行くことにする。三条通からやすらぎの道へ折れ、南へ南へ。市街の結構主要な通りだと思うのだが、街灯が片側にしかなく、全体に暗い。その夜道の暗いことに少し驚くが、新潟出身の妻に言わせれば東京が「異常」なのだそうだ。

竹の館はその名の通り内装に竹が多用されている。天井、壁、飾り柱、カウンター、どこも飴色になった竹だ。嬉しいことに天上が高い。適当におでんと冷酒を注文する。その土地の印象をおおきく左右するのは、そこで食べたものであると思う。毎年飽きもせずにこうして奈良を訪れるのは、食べるものにハズレが無いということも大きな理由だろう。

 


読書月記2018年9月

2018年09月30日 | Weblog

小宮豊隆編『寺田寅彦随筆集 第三巻〜第五巻』岩波文庫

ボックス買いをしてしまったので惰性で読んだが、それほど面白いとは思わなかった。ただ断片として琴線に触れる言葉がいくつか認められたという程度のものだった。書いているほうも雑誌の連載かなにかで無理矢理原稿用紙のマス目を埋めているような風があるように感じられた。尤も、第五巻は昭和9年から10年にかけて発表されたもので、発表と執筆が同時期であるとすれば、寅田の最晩年のものだ。ガンの転移も進行し身体がそうとうに辛いなかで書かれたものなので、締め切り云々以前に書くこと自体が難行苦行だったことは確かだろう。それならば、無理してそうした文章を著作集に収載しなくてもよさそうなものだが、それでも読みたいという読者の需要があるのか、それでも出したいという出版社の算盤があるのか、世の中というのは残酷なものである。これは本書に限ったことではなく、以前、須賀敦子の著作集を読んだときにも感じたことだ。

以下、備忘録的抜き書き

数の少ないのはいいとしても、花らしい花の絵の少ないのにも驚嘆させられる。多くの画家は花というものの意味がまるでわからないのではないかという失礼千万な疑いが起こるくらいである。花というものは植物の枝に偶然に気まぐれにくっついている紙片や糸くずのようなものでは決してない。われわれ人間の浅はかな知恵などでは到底いつまでたってもきわめ尽くせないほど不思議な真言秘密の小宇宙なのである。それが、どうしてこうも情けない、紙細工のようなものにしか描き現わされないであろう。それにしても、ずっと昔私はどこか僧心越の描いた墨絵の芙蓉の小軸を見た記憶がある。暁天の白露を帯びたこの花のほんとうの生きた姿が実に言葉どおり紙面に躍動していたのである。(三巻 247頁)

風雅は自我を去ることによって得らるる心の自由であり、万象の正しい認識であるということから、和歌で理想とした典雅幽玄、俳諧の魂とされたさびしおりというものがおのずから生まれて来るのである。幽玄でなく、さびしおりのないということは、露骨であり我慢であり、認識不足であり、従って浅薄であり粗雑であるということである。芭蕉のいわゆる寂びとは寂しいことではなく仏教の寂滅でもない。しおりとは悲しいことや弱々しいことでは決してない。物の哀れというのも安直な感傷や宋襄の仁を意味するものでは決してない。これらはそういう自我の主観的な感情の動きをさすのではなくて、事物の表面の外殻を破ったその奥底に存在する真の本体を正しく認める時に当然認められるべき物の本情の相貌をさしていうのである。(三巻 258頁)


司馬遼太郎『翔ぶが如く 第一巻~第三巻』文春文庫

鹿児島にでかけてきたので、この本を思い出し、押し入れの奥から引っ張り出して何年かぶりに再読。小説であることを承知していながら、ついノンフィクションであるかのような印象を持ってしまうのは登場人物が実在である所為でもあるだろうし筆者の力によるところも大だろう。司馬の作品は、学生のときの入ゼミ試験の課題図書であった『菜の花の沖』を皮切りに本書や『竜馬がゆく』『坂の上の雲』『項羽と劉邦』といった長編を一通り読んだ。不思議とどれも長いとは感じなかった。

今、四巻の途中なのだが、明治維新というものの重さが、以前よりもなんとなく軽いものに思えてきた。本書は小説であってノンフィクションではない。それはわかっているのだが、理想論を掲げて既存の社会体制を崩壊させても、新たに権力を握った者が欲得ずくで崩壊した体制と本質的に変わらないものを作って既得権を積み上げていくという話は説得力がある。徳川幕藩体制が実体としては制度疲労と内部腐敗で自滅し、維新政府が誕生しても一般国民の困窮は変わらず、権力を握った者の保身となれ合いで体制が構築され、それを維持する方策を対外膨張に求めざるを得なくなり、太平洋戦争に至った、というふうに見えるのである。

欧米列強が作り上げた既存の国際秩序のなかに新参者として入り込むということの困難は当然にあっただろう。そのために無理な殖産興業を強いられ、その無理の上に急ごしらえの近代軍制を構築し、魔法のような外交を展開するという神業のようなことを成すには、要所要所で天才的な人材が活躍しなければどうすることもできず、人を動かすにはきれいごとでは済まない策術が必要であったであろうことは想像に難くない。しかし、国家の安定は原理原則に則った仕組みが確立されることであり、飛び道具を使うことが日常化するようでは仕組みが成り立たない。欧米列強の論理に迎合することが原理原則ではないのだが、表面的な辻褄を合わせることに焦るあまり、国家としての在り方に対する哲学のようなものが醸成されないままに自己主張をする愚が、太平洋戦争に至らしめたのではないか。主張するべき自己が無いままに借り物の継接ぎを錦の御旗のように振り回す愚である。



時代のスケール

2018年09月03日 | Weblog

鹿児島最終日は仙厳園で午前中から午後3時頃まで過ごす。仙厳園へは駅前からシティビューという市内の観光スポットを巡る循環バスを利用したので、少し遠回りになったかもしれないが、車窓からそれぞれの場所を見ることができるのは初めての観光客にはありがたい。駅前を出発して最初の停留所は「維新ふるさと館」ここは8月31日に訪れた。次が「西郷どん大河ドラマ館前」。いかにも仮設建築物だが、いつまで営業するつもりだろう。少なくとも放送中はあるのだろうが、営業終了のタイミングに素朴な興味を覚える。次は「天文館」、毎晩食事に訪れた繁華街。次は「西郷銅像前」。東京上野の像とは全く別人のよう。次は「薩摩義士碑前」。ここに祀られている「義士」は徳川幕府から命じられた木曽川・揖斐川・長良川の改修工事で命を落とした犠牲者と予算超過の責任を取って自刀した家老平田靱負。この工事については照國神社の資料館にも展示物がある。酷い話だが、封建社会というのはこういうものなのかもしれない。ここからバスは城山に登る。中腹に「西郷洞窟前」。西郷隆盛が人生最後の5日間を過ごしたという洞窟がある。次が「城山」。ここから市街が一望できるらしい。バスはここから「薩摩義士碑前」まで折り返す。義士碑前を過ぎて日豊本線沿いの道を行く車窓から西郷隆盛終焉の地が見える。西郷も亡くなってから神になる。次の停留所は「西郷南洲顕彰館前」だが、その一画に西郷神社がある。かなり大きなものだ。次が「今和泉島津家本邸跡前」。篤姫が生まれた屋敷跡だ。ここからしばらく停留所が途切れる。途切れて最初の停留所が「異人館前」。仙厳園の一画といってよい場所だ。島津忠義がイギリスから紡績機械を導入して日本初の紡績工場を作った際に招いたイギリス人技師の住居に使われた洋館だ。次が「仙厳園前」ここで下車する。駅前から小一時間だが、タクシーなどでまっすぐ来れば20分程度だろう。

結局、今日は仙厳園で過ごすことになった。園内は広いので、散策するのにもよいし、反射炉跡、水力発電所跡といった「跡」を眺めて何事かを想像するのも楽しい。園内にある飲食店で両棒餅を頂いたり、土産物を眺めたりするのもよい。半日くらいあっという間に経ってしまう。それにしても、殿様の屋敷の一画で当時の最先端の科学技術を駆使した実験場のような工場の類が稼働し、その程度の生産物が歴史を変えるのに大きく寄与した、というのである。もちろん幕末から維新にかけての武器事情はこうした国産よりも列強から買い入れたもののほうが多かっただろうが、武器というのは消耗品なので大量生産ができなければどれほど高性能であったとしても意味をなさない。その「大量」がここに残されているものが示唆する程度の物量であったとすると、時代時代のスケール感というものを意識しないわけにはいかない。そういえば、横須賀に三笠があるが、日露戦争で活躍した当時の最新鋭艦だ。今見ると、こんな小さな船でよくも戦えたものだと感心するし、呉の大和ミュージアムには屋外に大和の甲板の原寸大の広場があるが、それほど大きいとは思えない。スケールというものが物事の展開には大きな意味を持つということが歴史遺産のようなものを目の当たりにすると何となくわかる気がする。それでは、今という時代に歴史を大きく動かすようなスケールはどのようなものなのか、と考えてみるとどうだろう。武器に限ったことではない。自分の毎日の生活のなかで依存の度合が大きなものが持つスケールを見ると、グローバルだの宇宙規模だのということがリアルに感じられるはずだ。そのスケールのなかで人ひとりができることは、と考えると、もはや個人がどうこうという時代ではないことが了解される。今は大物がいない、などと言われるが、人間ひとりのスケールと社会とか時代といったものが動くスケールとが歴史時代とは比較にならないほど乖離してしまったということだろう。

いまどき「歴史に名前を」だの「生きた証を残す」だのと発想することのなんと間抜けなことか。