熊本熊的日常

日常生活についての雑記

読書月記2019年7月

2019年07月31日 | Weblog

梅原猛『水底の歌 柿野本人麿論』(上下)新潮文庫

柿野本人麻呂がどのような人であろうと、特に関心もないのだが、昨年11月から今年5月にかけて受講していた万葉集講座の縁で「万葉集」をキーワードにして諸々本を読んでいる。本書もそのひとつ。内容には関心がなくても、梅原先生の書きっぷりに圧倒される。「芸術新潮」などに寄稿されていたものは何度も読んでいるが、まとまった作品を通しで読むのは本書が初めて。先生は本書のなかで「この論文では」としばしば書いておられる。え、これって論文なんですか、と驚く。文庫とは言え、上下二巻の構成だが、重複や無駄な部分をそぎ落とすと二巻にするほどのものかどうか。尤も、本書を手にする人は、おそらく、梅原節を期待しているのだろうから、これでよいのだろう。とにかく、読んでいて楽しい。そういう作品だ。

以下、備忘録

一般に幕末になると、学問が専門化すると共にスケールが小さくなり、学者はヒネクリコネクリを弄するようになったと思われる。(上巻 144頁)

日本では、神になる人は、いつも恨みをのんで死んでいった人間ばかりであることを。(上巻 231頁)

日本で火葬が行われたのは文武四年に死んだ道昭(629-700)にはじまるといわれるが、天皇にしてはじめての火葬者は大宝二年(702)に死んだ持統天皇である。(上巻 302頁)

もしも人が死して灰になり煙になるとすれば、もはや巨大な墳墓や新しい石室は必要がなくなる。そしてそれと共に、見事な挽歌によってその死を荘厳することすら必要でなくなる。詩人の役割はすでに終わろうとしていたのである。(上巻 328-329頁)

万葉集にせよ、『古今集』にせよ、それぞれひそかな政治的配慮をその背景にもっている歌集である。(上巻 459頁)

1. 天皇の誕生は、持統帝の時代、早くとも天武帝の時代をさかのぼることはできないのではないか。
2. 天皇は、政治的概念であるより、宗教的概念であり、天皇はその発生形態において、地上の国を支配するようにはできていず、歴史的偶然によって天皇の国家支配が行われた後も、天皇概念に含むそのような非政治性は、永く日本の天皇に附着していたのではないか。(下巻 69頁)

じっさい、日本の和歌が歴史上、正当な文学として認められるには、勅撰集である『古今集』の出現をまたなければならなかった。それ以前、それは現代における歌謡曲の如き扱いを受けていたのであろう。多少、人気のある歌謡曲作歌・人麿、おそらく人麿のこの歌は、多くの漢詩人たちに何の感興も起こさせなかったにちがいない。彼等は、明治の文化人以上に、だいたい日本のものは馬鹿にしていたのである。人麿の歌と『懐風藻』の詩をならべてみると、漢詩人の間における人麿の孤独さがよく分かるような気がする。(下巻 116頁)

天皇信仰、天照信仰は、まさに持統帝のときできはじめたものではないか。それは道教から多く思想を借りてはくるが、いつの間にか、ちょうど『懐風藻』の詩が万葉集の歌にかわるように、楽国産の神は、いつか日本製の神に変わったのである。聖地が吉野から伊勢へ移ることによって、宗教の日本化が行われるが、その宗教内容は、その原型とそれほども違っていないのではないか。(下巻 121頁)

私は、このごろますます進歩史観というものを信じることができなくなってきている。それは、精神の世界において、進歩というものが、はたしてあるのだろうかという疑問のゆえである。現代は、精神の世界においてはおどろくべき低俗の世界である。おどろくべき卑俗な精神が、わがもの顔にこの世界をのさばり歩いているではないか。(下巻 374頁)

折口信夫は、真淵以来ほとんど忘れられた宗教の意味、死の意味、霊の意味を発見する。そして彼は、今まで単なる叙景の歌と考えられた多くの万葉の歌を、鎮魂の歌と解釈する。(下巻 406頁)

万葉集巻一は、すべて雑歌である。この雑歌は、『古今集』以後の歌集でいうような雑歌ではない。以後の歌集の意味では、四季、恋、賀、離別などに属さない歌という意味である。しかし万葉集での意味は、雑歌という名で、いわば、雄略天皇(生没年、在位未詳)の時代から奈良時代までの、政治的な人間、およびその周辺の人々を登場せしめて、自由に歌を歌わせている。そしてこの歌は、直接、間接に重要な政治的事件に関係している。いわば、万葉集巻一は、壮大な歴史的叙事詩である。(下巻 408頁)

 

宮本常一『忘れられた日本人』岩波文庫

心洗われる思いがした。人の暮らしとは本来こういうものだと思う。私が駄文を連ねるより、引用を並べたほうがいいだろう。

ところが六十歳を過ぎた老人が、知人に「人間一人一人をとって見れば、正しいことばかりはしておらん。人間三代の間には必ずわるい事をしているものです。お互いにゆずりあうところがなくてはいけぬ」と話してくれた。(村の寄りあい 37頁)

他人の非をあばくことは容易だが、あばいた後、村の中の人間関係は非を持つ人が悔悟するだけでは解決しきれない問題が含まれている。(村の寄りあい 39頁)

稗は凶作の年にも割合よくできたし、虫もつかず、何年おいても味がかわらぬので、郷倉の貯蓄は稗でやりました。(中略)まァ百姓というもんはヒネからヒネへくいつなぐのがよい百姓とされた。それだから、一生うまい米を食うことはなかった。そうしないと飢饉年がしのげなかった。(名倉談義 70-71頁)

おやじにくらべたら半分も働きゃァしません。おやじにくらべたら道楽もんです。しかしそれでも食えるんじゃから、昔より楽に食えるんじゃから、わたしは文句をいいません。(名倉談義 82頁)

村の中というものはみんなが仲ようせねばならんものじゃとよく親から言いきかされたものであります。まじめに働いておりさえすれば、いつの間にかまたよくなるものであります。この村は昔はひどく貧乏したものだそうであります。この村の土地の半分から上は大平の沢田さんのものになておりました。いつそうなったのか、飢饉の年にでも、米をかりて土地をとられたのでありましょうが、沢田さんの家が半つぶれになったとき、土地はまたもとの持主にみなもどって来ました。大久保にはまた百石五兵衛という家がありました。高を百石も持っている大百姓でありましたが、それが何一つ悪いことをしたのでもなければ、なまけものが出たというのでもないのに、自然とまた百姓の手に戻って、その家はつぶれました。(名倉談義 91-92頁)

村の中が仲ようするというても、そりゃけんかもあればわる口のいいあいもあります。貧乏人同士がいがみあうて見ても金持ちにはなりませんで。それよりはみな工夫がだいじであります。(名倉談義 96頁)

この村に言いごとのすくないのは、昔から村が貧乏であったおかげでありましょう。とびぬけた金持はなかった。それに名主は一軒一軒が順番にやっております。小作人でも名主をしたものであります。それはいまもってつづいております。今も区長は順番にやることになっております。このあたりの村はみなそうでありました。そういう風でありますから、嫁どりもそれほど家柄をやかましく言う者はいなかったのであります。まァ親類中に年頃の娘があればそれをもらう事にしておりました。それはなるべく費用がかからんようにということからでありました。そうでないものでも、本人同士が心安うなるのが多くて、親は大ていあとから承諾したものであります。(中略)知らん娘を嫁にもらうようになったのは明治の終頃からでありましょう。その頃になると遠い村と嫁のやりとりをするようになります。おのずと、家の格式とか財産とかをやかましく言うようになりました。それから結婚式がはでになって来たので…。それはどこもおなじことではありませんかのう。(名倉談義 97-98頁)

子供がいたとわかると、さがしにいってくれた人々がもどってきて喜びの挨拶をしていく。その人たちの言葉をきいておどろいたのである。Aは山畑の小屋へ。Bは池や川のほとりを。Cは子どもの友だちの家を、Dは隣へという風に、子どもの行きはしないかと思われるところへ、それぞれさがしにいってくれている。これは指揮者があって、手わけしてそうしてもらったのでもなければ申しあわせてそうなったのでもない。それぞれ放送をきいて、かってにさがしにいってくれたのである。警防団員以外の人々はそれぞれの心当りをさがしてくれたのであるが、あとで気がついて見ると実に計画的に捜査がなされている。ということは村の人たちが、子どもの家の事情やその暮らし方をすっかり知りつくしているということであろう。もう村落共同体的なものはすっかりこわれ去ったと思っていた。それほど近代化し、選挙の時は親子夫婦の間でも票のわれるようなところであるが、そういうところにも目に見えぬ村の意志のようなものが動いていて、だれに命令せられると言うことでなしに、ひとりひとりの行動におのずから統一ができているようである。ところがそうして村人が真剣にさがしまわっている最中、道にたむろして、子のいなくなったことを中心にうわさ話に熱中している人たちがいた。子どもの家の批評をしたり、海へでもはまって、もう死んでしまっただろうなどと言っている。村人ではあるが、近頃よそから来てこの土地に住みついた人々である。日ごろの交際は、古くからの村人と何のこだわりもなしにおこなわれており、通婚もなされている。しかし、こういうときには決して捜査に参加しようともしなければ、まったく他人ごとで、しようのないことをしでかしたものだとうわさだけしている。ある意味で村の意志以外の人々であった。いざというときには村人にとっては役にたたない人であるともいえる。(子供をさがす 102-103頁)

わるい、しようもない牛を追うていって、「この牛はええ牛じゃ」いうておいて来る。そうしてものの半年もたっていって見ると、百姓というものはそのわるい牛をちゃんとええ牛にしておる。そりゃええ百姓ちうもんは神さまのようなもんで、石ころでも自分の力で金にかえよる。そいう者から見れば、わしら人間のかすじゃ。(土佐源氏 139頁)

ところどころで人情風俗はかわっているが、土地のやせて生活のくるしいところが人情はよくない。(世間師(2) 256頁)

 

本居宣長(全訳注:白石良夫)『うひ山ぶみ』講談社学術文庫

「うひ山ぶみ」とは「うひ」=「初」=初めて+「山ぶみ」=「山踏み」=「登山」、「はじめての山登り」の意だ。学問を登山に見立てて、その手引きをする書である。具体的な方法論を述べているのではなく、心構えを語っている。

古い本を読んでいつも思うのは人の世が変わっていないということだ。確かに知識は増えただろう。しかし、人の性とか業といったものは一向変化が感じられない。もちろん、生物誕生の歴史を振り返れば生物は環境に適応しながら様々に姿を変え、分化したり消滅したりしながら今日に至っている。しかし、それは反応であって変化というほどのものではないような気がするのである。

毎度同じ話になってしまうが、生命の営みは「わたし」と「あなた」の関係が基本だと思う。人間は知能があるから自意識が強くて、というようなことはなく、バクテリアだろうが人間だろうが、それを構成する細胞の根底にある「私」が神羅万象の基本にあるのではないか。その「私」の個体差が相互の交渉と反応を生み、それが別の交渉と反応に連鎖していくことで世界が成り立っている、というイメージだ。当然、「私」の認識は生物種によって、そのなかの個体によって、ほぼ同じように括れることもあるだろうし、「個性」とされるところもあるだろう。そして、そうした括りはその時々の環境の変化に反応して微妙に揺れるものだろう。

「私」の捉え方が生き方を規定することになる。「私」とは何かを思いめぐらす、その思考実験を登山に例えるというのはわからないでもない。登山は山頂を極めることではなく、登って下りて何かを感得することを言うのだろう。とすれば、そこに際限はない。同じ山でも日によって時によって同じ山とは思えないほどの変化を見せるだろうし、どういう状況に出会うかによって同じ山に対する見方も自ずと違うはずだ。既存の山道を往くのか、新たな道を切り開くのか、同道する者がいるのか単独なのか、前を往く人がいるのか、先頭を切っているのか、対向する人がいるのか、それは無数の状況設定があり、そういうなかで軽々しく「この山は」云々とできないはずだ。つまり、正解がない。安易に成否を問うのは思考を停止することである。問い続けることが、すなわち生きるということだと思う。


仏塔と温泉

2019年07月22日 | Weblog

別所温泉の北向観音は厄除観音として有名なのだそうだ。同じ信州の善光寺が南向きで、南北でセットになっているらしい。だから、参詣するなら長野の善光寺と別所温泉の北向観音を両方お参りしないと御利益はないという。長野の善光寺にお参りしたのは2012年なのでそれが期限切れでなければ、今日でお参り完結だ。北向観音は常楽寺の一部だそうだ。

北向観音の参道商店街で店先に高麗人参をたくさん並べている土産物屋があった。店の人といろいろ話をしているうちに、昨日届いたばかりの掘りたての7年物があるというので見せていただくことにした。あまり高麗人参というものを意志的に見たことはないのだが、たいへん立派なものに見えたので1本買い求めた。

参道を後にして安楽寺へ向かう。ここは八角三重塔で有名なのだそうだ。鎌倉時代のものだが、中国の宋の様式なので、元の支配下になった中国から逃げてきた人々の手によって建てられたものではないかと言われているらしい。埼玉の高麗神社も調布の深大寺も大陸からやってきた人々は比較的奥地に足跡を残している。日本と大陸との間に外交関係があって、表立って旧政権関係者を庇い立てすることができずに奥地へ導いたというような事情があったのかもしれない。

安楽寺からさるすべり小道を通って常楽寺へお参りする。常楽寺の近くに「そば久」という蕎麦屋の看板が出ていて、そこに行ってみる。昨日の道の駅で食べた蕎麦は田舎蕎麦だったが、ここは蕎麦切だ。たいへん美味しい蕎麦で、実は人気店らしい。

昼食を済ませてから電車で上田へ向かう。駅前のみすゞ飴本店で土産を買う。立派な構えの店舗で、客よりも店員の数が多い。それくらい手厚い応対をしてくれるのである。店を出て、古本屋カフェのNABOを覗いてみる。神保町にあるような古本屋ではないのだが、それなりに主義主張の感じられる棚だ。店舗が立地しているのは所謂商店街ではないのだが、店内は外の様子とは違って結構な数の客で賑わっている。雰囲気の良い、いいお店だなと思う。

上田城のほうにも足を延ばすが、雨が降ってきたので、雨宿りを兼ねて市立博物館に入る。展示のテーマは郷土史だ。上田は農民一揆が5回あったが、これは日本で一番多いのだそうだ。昨日訪れた青木村のゆるキャラの背に「義民」と書いてあったのは、そういう事情によることがわかった。今はゆるキャラだが、一揆を起こすというのはよほどのことのはずだ。仏様がはっきりとした笑顔だったことも、農民一揆が多かったこととつながっている。笑顔というのはよほど気を付けないといけない。


義民の里

2019年07月21日 | Weblog

信州青木村にやって来た。地方に出かけて驚くのは、経済が維持できていることだ。もちろん、行政の財政は補助金頼りだろうし、日ごとに状況は悪化しているかもしれない。結局、付加価値を生む産業しか村おこしとか町おこしができない。今日訪れた場所はどこも静かだった。上田駅前、青木村の美術館、道の駅、修那羅峠、前山寺、無言館。日曜日でこれほど静かなら、平日はどうなのだろう。

大法寺では桑の実と御守を買った。ここのかつての産業は養蚕だ。米の取れない多くの地域で養蚕が経済を支えた。桑を植え、蚕を飼い、糸を取り、糸の終わった蚕は鯉の餌になった。鯉は食用にも観賞用にもなり、地域の収入となった。桑の実や蚕が食べ残した葉を人間が食べた。無駄がない。

道の駅の看板メニューが蕎麦だ。信州の蕎麦は有名だ。最近できたタチアカネという新種の蕎麦がイチオシなのだそうだ。せっかくなので、その蕎麦をいただく。普通に美味しい。

修那羅峠の石仏は一時話題になったそうだ。今はブームが去って静かになったが、ブームのときに山道が舗装されて歩きやすくなった。ブームというとあまり良い印象は受けないが、悪い事ばかりではない。石仏を筆頭に、ここの仏様ははっきりとした笑顔が多い。仏が笑顔というのは何を意味しているのだろうか。せめて仏様のお顔くらいは笑っていただこうということだろうか。はっきりした笑顔の陰には、はっきりした泣き顔があるということか。豊かな土地というのは本来、穏やかで、なにかがはっきりしているということはないものだ。

無言館については何も言うことはない。笑顔の仏様と同じような悲しみが感じられた。

夜は別所温泉に宿をとった。古いけれどよく手入れの行き届いた立派な宿だ。ここの従業員の笑顔も少し怖い感じがした。


気仙沼 最終日 一ノ関

2019年07月08日 | Weblog

宿の近くの店で土産物を買い、ほかの荷物と一緒にまとめて宅配便で自宅へ送る。身軽になって宿をチェックアウトして、大船渡線で一ノ関へ行く。

宿から気仙沼駅までは宿の送迎車を利用。駅では、どのような事情なのか知らないが、地元の幼稚園児が列車の発車時間に合わせてかわいらしい踊りを披露してくれた。音楽の機材の調子が悪いところがあって踊りの時間が延びてしまい、少しハラハラしたが、一ノ関行きの列車の発車時刻までには無事に終わり、発車のときにはホームに整列して見送ってくれた。なんだか嬉しい。

一ノ関に着いたのが昼過ぎ。駅を出てまっすぐ駅前の観光案内所に行き、飲食店を教えてもらう。近頃は携帯端末で検索したり、ネットで話題になっているところに出かけてみたりすることが当たり前のような時世だが、わからないことは人に尋ねるに限ると思う。殊に「餅は餅屋」などというように、土地のことは土地の人に尋ねるのが間違いないと思うのである。案内所の人は蕎麦屋と郷土料理の店を教えてくれたので、郷土料理のほうを目指して歩きだす。

地方都市の駅前は、どこも似ている。かつて商店であった痕跡のある建物が広めの道路に並び、妙に広く感じられる空が広がる。今でも多くの人々が暮らしているはずなのに、この旧商店街で買い物をしていた人たちはどこへ消えてしまったのだろうと、不思議に思うのである。空き店舗が並んでいても、街が荒廃しているというわけではない。人の暮らしはあるので、そこそこにきれいになっている。そういう静かで清潔な街を歩いて15分ほどのところに駅前で教えてもらった郷土料理の店があった。敷地は広く、石造りの蔵のような建物が中庭を囲むように4棟ある。売店、カフェ(改装工事中)、資料館・郷土料理店、ビール工場・イベントホール。ここの郷土料理は餅料理だそうだ。

餅料理というのは、椀ごとに異なる餡をかけた餅が入っていて、それが複数供されるもので、一関・平泉には約300種類のこうした餅があるのだそうだ。たいへん贅沢なものだと思う。食べ方には作法があって、それが冊子になって店のテーブルにある。こうした餅の文化というのは知らなかった。餅はそうたくさん食べることはできないものだが、そういうものをたらふく用意するというところに何か意味があるような気がする。

入口が別になっているが、料理店と同じ建物に資料館がある。酒造についての展示と地元発の文学についての展示だ。酒造については他の土地でも同じようなものを見学したことがある。文学のほうは、人と土地の結びつきのようなものがあるような気がして面白い。井上ひさしの作品で、一関近くの架空の町を舞台にした『吉里吉里人』という作品があるが、彼が中学生のころ、ここの土蔵で暮らしていたという。

この料理屋の近くに旧沼田家武家住宅というものがある。一関藩の家老職の住宅だが、一関藩は独立した藩ではなく仙台藩の支藩であったという。家老職の屋敷というものを他で見たことがないので、比較のしようがないのだが、そうした藩の位置づけの所為もあるのか思いの外質素なものと感じた。この住宅が建てられた当時の建築技術のことは全く知らないのだが、柱や床が手斧で加工されている。鉋で平らになったものに慣れた感覚からすると、リズミカルな凹凸が心地よく、家屋という物理的空間とイエという心的空間との重なり具合が良い感じがする。家老の屋敷として使われていた頃は敷地がもっと広く、屋敷にも別棟や蔵などが付随していたのだろうが、今こうして保存されている範囲のものが自分が考える当たり前の暮らしにはちょうどよい印象だ。生まれてこのかた、ちょうどいい塩梅の家というもので暮らしたことがない。死ぬまでに、せめて5年くらいはそう思える家で暮らしてみたいものだと思うのだが、こういう家が理想だ。

旧沼田家住宅から駅へ向かう途中、図書館の脇に蒸気機関車が展示されているのを見つけた。C58103で、昭和13年に大阪の汽車製造で製造され、主に東北で使用され、最後は一関機関区で大船渡線で運用されたそうだ。昭和47年に永久保存機として国鉄から一関市に移管されたとある。なぜなのか知らないが、蒸気機関車がこのように唐突な感じ保存されているのを時々見かける。蒸気以外の機関車や車両が公共施設の片隅になんとなく置いてあるというのはあまり見かけないが、なぜ蒸気機関車は特別なのだろう?

 


気仙沼 2日目 大島・唐桑

2019年07月07日 | Weblog

レンタカーで大島と唐桑へ行く。

先月の読書月記にある網野善彦の『古文書返却の旅』の8章が「陸前への旅―気仙沼・唐桑」だ。この本を手にしたのは今回の旅行のためではなく、昨年11月以来の個人的な万葉集ブームのなかで、当然に「日本」とは、という問題意識が生じたなかで巡り合った。本書に登場するのは「大島村の村上茂夫家、鹿折村の尾形忠行家」、唐桑村の「鮪立の古館、鈴木国雄家文書」である。家の蔵に古文書が残っていることの意味はここでは触れないが、地域の歴史のなかでその家が重要な役回りを演じていたということは確かである。本書によると「唐桑が太平洋の海の道を通じて、中世以来、江戸初期までに南は紀伊の熊野や讃岐、北は松前と交流し、紀伊から新しい漁法を導入、松前からは金や昆布がもたらされるような港であったこと、また鈴木家も紀伊からこの地に移ったとされ、実際、江戸初期に紀州の太地などと密接な関係を持ち、金山の経営にも関わっていたと見られることなども知った。そして、漁撈による海産物、鰹節、塩、さらに金、銅、漆、茶、材木などが船を通じて各地に運ばれており、唐桑は都市的な色彩の濃い地であることを確認」(125頁)とある。

現在、唐桑には「唐桑御殿」と呼ばれる大きな屋敷がたくさんある。これは当地の主産業である遠洋漁業に従事する人が、誇りと心意気を表現するべく豪華な自宅を建てる習慣によるもの、という説明が案内のチラシなどに書かれている。おそらく、遠洋漁業が産業として成り立つ以前から、この地には豪華な屋敷が並んでいたのではないだろうか。だからこそ、世帯主たるものは立派な屋敷を構えてこそ一人前という価値観が醸成されていたのではないか。遠洋漁業で経済的に恵まれたからというだけではなく、歴史に培われた土地の価値観が大きな屋敷の建設を生むのではないかと思った。『古文書返却の旅』には大島も登場する。「大要害の旦那さん」こと村上茂次氏のお宅では「二箱ほどの長持には、ぎっしりと古い書籍がつまっていた」のと遭遇。この島も同じ文化圏なのだろう。

レンタカーを借り、まずは大島を目指す。この4月7日に気仙沼大島大橋が開通、橋に続く前後の道路がきれいに整備されている。橋そのものが観光の対象でもあるようで、橋の袂に駐車場があり、そこに車を停めて歩いて橋を渡っている人の姿がある。この橋は宿からも見えるが、美しいアーチ橋だ。聞くところによると東日本最長のものらしい。しかし、借りた車のカーナビの地図データにはまだ記録されていないようで、目的地を大島の中にあるものに設定するとフェリーを使うルートが表示される。橋の開通に伴い、フェリーの運行はなくなってしまったので、今となっては幻のルートだ。大島に渡るまでは道路標識やあちこちに掲げられている案内の看板を頼りに運転する。

大島も初めての土地なので、まずは島で一番高い亀山の中腹にある大嶋神社に参拝。手入れが行き届いている様子で、手水も階段も境内もきれいだ。あちこちの神社にお参りしているが、なかには由緒ある構えの立派なところでも手水が汚れていたりするところもある。それは神社を管理している人の責任であるが、氏子や地域の人々の世界観の破綻の一端を表しているということでもある。その地域を代表するような神社のありようというのは、実はとても大事なことだと私は思っている。そういうこともあって、初めての土地ではそこの神社にお参りすることにしている。

亀山の山頂からは気仙沼が一望に眺望できるらしい。山頂に行くには、神社の手前の駐車場に車を置いて、そこからシャトルバスに乗らないといけない。そこまではしなくていいだろうと思い、参拝の後は車で島の南端にある龍舞崎へ行く。気仙沼市街に比べると交通量は各段に少ない。それでも龍舞崎の第一駐車場のほうは満車に近い状態だ。とは言っても静かなものである。遊歩道で岬の先端までいく。駐車場付近は紫陽花が咲いていて、ちょうど盛りのようだ。

今日はこの後、唐桑へ向かう。どこに行くにも大橋を渡らないといけない。橋に向かう途中でみちびき地蔵を拝む。このお地蔵様は古いものだったらしいが、震災で被災し、今拝むことができるのは再建されたお地蔵様だ。道路から外れたところにある、かつての日本の田舎ならどこにでも見られたようなお地蔵様だ。その所為か、なぜか懐かしい気分になる。

カーナビに従って山道を通って唐桑へ。地図ではこの道の北側に国道45号線があり、そちらのほうが走りやすいだろうと思うのだが、敢えてナビに逆らうだけの土地勘があろうはずもなく、「え~この道なのぉ?」と思いながら対向車が来ないことを祈りたくなるような県道を往く。

唐桑に向かう道中、カーラジオで木村拓哉がMCの番組が流れていて、ゲストが糸井重里だった。こじつけといえばこじつけだが、今、自分が気仙沼にいるそもそものきっかけは「ほぼ日」である。東日本の震災からしばらくして「ほぼ日」で気仙沼の斉吉のことが紹介されていて、『おかみのさんま』を読み、「金のさんま」などを買うようになったのである。そしていつか気仙沼というところを訪れてみたいと思っていて、今回の旅行がある。このラジオも私にとっては珍しいことだ。レンタカーを利用するときは、たいていラジオはかかっていない。今回はレンタカーの事務所の人が気を利かせたのか、整備をしながらかけていて切り忘れたのか、車のエンジンを入れたときからラジオがかかっていた。なしにろ、年に数えるほどしか車を運転しないので、ラジオの切り方がわからない。それで、そのままにして運転していたら糸井重里がゲストに出ている番組になったのである。おもしろいものである。

山道を抜けて唐桑半島に入って、交通量がやや増えるが、それも一時のことで、静かな道で半島先端のビジターセンターを目指す。

ビジターセンターは静かだ。ちょうど子猫が迷い込んできたところで、その静けさがほんの少し揺らいでいた。津波と震災についての展示が多く、ここでも8年前の震災の様々な意味での大きさを感じる。ビジターセンターの裏から遊歩道が海岸や御崎神社へ通じている。最寄りの御崎神社に参拝する。

昼時だったので、ビジターセンターで食事処をいくつか教えてもらう。唐桑は気仙沼市街とは違って商店なども少なく、この地域の幹線である気仙沼唐桑線沿いの寿司屋はなんとなく通過。漁協や郵便局のあるエリアに立地する店を比べてみて、民家風の店のほうにお邪魔する。とにかく人の気配のあまりないところなので、午後2時近いとはいえ、他に客はない。家族で経営しているらしく、小さな男の子が水などを出してくれる。そんな風なので、自然に気持ちも和んで店の人といろいろ会話も弾む。ここに店を構えるようになった経緯、震災前のこと、震災後の復興事業について思うこと、などなど興味深いことをたくさん伺った。「気仙沼」とひとくくりにはできない、それぞれの地域の事情もあるようだ。それは当然だろう。

食事の後、せっかくなので巨釜へ行ってジオパークっぽい風景を眺めてから気仙沼市街方面へ戻る。復路でもカーナビが選んだ道は、あの峠道だった。気仙沼港を通り過ぎ、リアス・アーク美術館を訪れる。

立派な建物だが、我々以外に客がいないことに驚く。意図せず貸し切り状態だ。しかも、展示が興味深いものばかり。尤も、民俗資料は地元の人たちにとっては当たり前のものだろうから、敢えてこういう施設で見学しようとは思わないだろう、とも思う。圧巻は津波の被害の痕跡物だ。車とか家屋の構造物とかプロパンガスボンベといった頑強なものがこんな姿になるのかと、ただ唖然とした。


気仙沼 初日

2019年07月06日 | Weblog

初めて気仙沼を訪れる。東京から新幹線で一ノ関へ、そこから大船渡線で気仙沼まで約4時間。気仙沼を訪れたのは、特に理由はないのだが、ここの会社が扱っている海産物加工品をときどき食べているので、どのような土地なのか素朴な好奇心から訪れた。

震災から8年4か月。気仙沼駅に着いたとき、線路を覆うように整備されたBRT用の道路に目が行く。形の上では鉄道だが、実体は廃線してバス路線に転換したということだ。気仙沼は大船渡線と気仙沼線の分岐点でもあるが、どちらも気仙沼以東はBRTになった。駅までは宿泊する宿に送迎をお願いしておいた。駅前の風景はもはや震災を思わせるものはない。しかし、宿のある港のほうへ進むと港周辺はいまだに工事中の道路と更地が広がっている。ネットの動画で見た津波の映像も衝撃的だったが、8年を経て更地のままの港周辺の風景も別の意味で衝撃的だ。

まだチェックインのできる時間ではなかったので、とりあえず荷物を宿に預かってもらい、お昼ご飯を食べにいく。今日の昼は、その海産物加工品を扱っている会社が経営しているレストランで食べることに決めていた。満席であったが、ちょうど会計を済ませて店を出た人と入れ違いになったので、5分ほど待っただけで席につくことができた。煮魚と御造りの定食をいただく。煮魚はメカジキ。ここの港の代表的な魚だ。食後に甘味をいただく。店の人が、「ここの80歳のおばあちゃんが作ったアズキです」と説明してくれて、「おぉぉ」と思う、が、次の瞬間、自分たちは1週間おきに実家に顔を出して82歳の母が作る料理を食べていることを思い出す。

80代といえば、このレストランの隣に手編みのセーターをオーダーで作る店がある。毛糸を取る羊の飼育状況からこだわって、もちろんその毛糸にもこだわって、店に登録している80数名の編み手さんたちが一着一着手編みで作るセーターを販売している。物によっては2年待ちだそうだ。品質もさることながら、毛糸からこだわったとか編み手の想いとかこの店の設立のいきさつといった、セーターにまつわるストーリーに値打ちがあるのだろう。レストランもセーターの店も林に埋もれているような上品な建物だ。どちらも京都の三角屋という建築事務所が手掛けたものである。

腹ごしらえを終えて、街を歩いてみる。まずは五十鈴神社にご挨拶。初めての土地を訪れたときはなるべくその土地の大きな神社に参拝する。気仙沼はここでいいのかどうなのか知らないが、すぐに目についたのも何かの縁だと思う。その前に、明日はレンタカーを予約してあり、その店舗の場所を確認するべく海に沿った道路を南下。魚市場や海の市がある区画を通りかかったので海の市を覗いてみる。お昼ご飯をいただいたばかりで腹が膨れている所為か、特に目を引かれるようなものもなく、そのままレンタカーの店舗を目指す。公民館を過ぎたあたりでレンタカーの看板が目に入ったので、そこから方向を変えて神社を目指す。

ここまでは海沿いだったが、宿やお昼をいただいたレストランのある高台の内陸側の道を行く。すぐに一階部分がゴミで埋まったままの建物の前に出る。建物とか土地の所有者がどうにかなってしまい、手が付けられないのだろう。復興作業のなかで土木とか建築といった物理的な作業自体はそれほどのことでもないだろうが、権利義務の確定というのは、殊に当事者が亡くなって権利の主体がわからなくなってしまうとどうにもならなくなってしまう。何年か前に東電に勤務していた大学時代の友人に誘われて福島原発周辺を訪れたとき、彼が語っていたのは復興作業のそういう難しさであったことを思い出した。

海に面したところは津波の被害の大きなところでもある。かつてフェリーの発着所のあったあたりは更地が広がり、そのなかに点々と真新しい建物がある。このあたりは「風待ち地区」と呼ばれる地域で、個性ある建物が並んでいたらしい。そのなかで登録文化財の指定を受けていたものが真っ先に再建されているようだ。それで点々なのである。店舗についてはもちろん内部を拝見できないことはないが、冷やかしで入るのも憚られるので、外から拝見するだけだ。ただ三事堂ささ木は店舗に併設されている蔵がギャラリーになっているようなのでお邪魔させていただいた。ギャラリーのほうは備前が並んでいた。店舗のほうは日用使いの陶器が中心だ。店の方と話をするなかで、当然に震災や津波の被害が話題になり、その流れで「裏のほうもご覧になりますか?」と尋ねられる。「え、よろしいんですか?」と言いながらも嬉しさが隠せない。他所の人のお宅などそう簡単に拝見できる機会などない。拝見したのは店に通じる出入口を抜けてすぐ裏手の居間のような部屋だ。印象的なのは高い天井と大きな神棚。商店や作業場に神棚があるのは当然だが、「地元の方からもよく言われる」というくらいに立派なものだ。一般的な家屋の天井くらいの高さのところに細長い光取りの窓が並ぶ。その光取りの窓の少し下の壁が上下で色が分かれていて、上より下が白っぽい。その白っぽいところが津波に洗われた跡だ。「洗濯機の中のように水が渦巻いた」そうだ。それにしても古い木造家屋の柱や梁は頬ずりをしたくなるくらい美しい。このお宅は水に浸かったところも、使えるところはそのまま残して修復したという。気の肌や質感も美しいが、たとえば戸に嵌っているガラスの周囲の装飾であるとか桟の模様であるとか、大正昭和の大工や施主のほうが今よりも余程モダンな感覚だったと思う。

五十鈴神社は海に飛び出した突起のような地形の上にある。あるいは島だったのかもしれない。そこだけが森のようになっていて、いかにもの場所だ。この後、紫神社にも参拝したが、こちらも高いところにある。この紫神社の足元に南町紫神社前商店という複数の商店が入居する建物がある。中庭があり、ちょうどそこでアカペラのコンサートが行われていた。ここから更地の区画を挟んで、かつてのフェリー乗り場に面したところにまち・ひと・しごと交流プラザがあり、そのなかにカフェや遊覧船の切符売り場などもある。まだまだ更地が多いところだ。たいした距離ではないのだが、宿の周りをぐるっと歩いてきて、一服したいところでもあったので、カフェでひとやすみ。店内は子連れの比較的若い女性客が多い。子供がたくさんいる風景というのは今どき本当にほっとする。まして、ここにいる子供たちは一見したところ震災後に生まれた年頃なので、なおさらほっとする。

宿に戻ってチェックインを済ませ、午後6時に夕食。地元の酒も料理もたいへん美味しくいただいた。

本日歩いた地域:柏崎、港町、河原田、南町、魚町

本日訪れた店、場所など:鼎・斉吉、メモリーズ、海の市、風待ち地区建物群(千田家住宅、角星店舗、武山米店店舗、三事堂ささ木店舗及び住宅、他)、五十鈴神社・猪狩神社、紫神社、K-Port

 


読書月記2019年6月

2019年06月30日 | Weblog

網野善彦『「日本」とは何か』講談社学術文庫

「日本」とは。かなり当然のこととして我々は自分を「日本人」と認識し、自分の生活の場を「日本」という国だと認識しているのではないか。さすがに「建国記念の日」はどうなのかとは思うものの、「国」の存在を疑う人は少ないだろう。しかし、誰一人として、その確たる源を知らない。旧家で家系図だとか過去帳があり先祖を遡ることができる、という人もいるだろう。疑い出せばきりがないのだが、データというものは創ることができる。人口の増加を見れば一目瞭然だ。10年、100年、1000年、と辿っていけば現在の1億2千万という人口はどんどん減っていく。つまり、日本列島の外から渡ってきた人々も当然にいるにせよ、人口の単位は億から万、千、百、と小さくなっていくのである。今でこそ大名の末裔というと由緒正しい家柄のように聞こえるかもしれないが、戦国大名は悉く成り上がりだ。それをつまらぬ幻想をネタに人を見下してみたり、差別してみたりするのは、己の愚を公表しているようなものだろう。

我々は、自分がなぜ今ここにいるのか、誰も知らない。自分が何者であるかを知らないから他者から承認されたいのである。自我なるものを発散してみたいのである。不安なのだ。互いの不安を舐め合う関係性の総体が「国」なのだろう。そして、「国」というものが確たる存在であると意識するとしないとに係わらず思い込むのである。「共同幻想」などという言葉もある。幻想でもいいから、自己の根っ子として確たる存在を希求するのである。

我々は、「自然」のなかで「命」を得て、日々諸々のことを思い悩んだり、喜んだり、悲しんだり、怒ったりしながら「生きている」と思って「自分」を生きている。本当はすべてが夢のようなものの中のことであって、誰もいないのかもしれない、何もないのかもしれない。「自己」とか「国」とか「日本」とか、全ては幻のようなものなのかもしれない。

 

網野善彦『古文書返却の旅 戦後史学史の一齣』中公新書

網野つながりでの一冊。終戦からそれほど経ていな時期に当時の水産庁が漁村文書を収集・整理して資料館をつくる計画があったという。そのために日本各地の漁村から古文書が集められたが、資料館計画は立ち消えとなり、借り受けた資料は返却されずに放置されることになる。それを返却する作業が筆者らに託された。その顛末の一部が本書の根幹である。当初、数か月で返却することを約束して借りたものが何年何十年と経ってしまうが、その返却作業を通じてそれぞれの土地の変貌を著者が目の当たりにする。その変化に日本の社会全体の変化の何事かが現れている、というところが非常に興味深い。


読書月記2019年5月

2019年05月31日 | Weblog

毎月、読書月記のページにはその月に撮影した写真を付けるのだが、今月は連休があったにもかかわらず、撮った写真がなかった。以前はそういうときには別の年の同じ月に撮った写真を上げていたが、そういうことはしないことにした。

 

南伸坊 糸井重里『黄昏』東京糸井重里事務所

連休に部屋の整理を試みたが上手くいかなかった。本が本棚に入りきらない状態が常態化しているので、二度と読みそうにない本を選びだしてブックオフに持っていこうと思い手にした本のひとつがこれだった。結構厚い本なのだが、読みだしたら面白くて、結局手放さないことにした。

ネットのニュースで団地での孤独死の話を読んだ。69歳の男性で、死後3年ほど経て白骨化した状態で発見されたのだそうだ。「69歳」というのが死亡時の推定年齢なのか、発見時の年齢なのか、忘れてしまったが、そんなことはどうでもいい。なぜ3年間も死んだことがわからなかったかというと、家賃や水道光熱費が滞りなく支払われていたからだそうだ。孤独死というのは、死臭で周囲が気付くことも少なくないが、そういうものの未納が続いて集金の人が発見することも多いらしい。自分も古い団地で暮らしているのでよくわかるが、昭和40年代に建てられた団地は玄関前は吹き晒し、室内は驚愕の安普請で隙間だらけだ。多少の臭いが出ても気づかれないかもしれない。その点、金銭の問題ははっきりしている。それで死後3年して発見された白骨死体だが、そうしたものが銀行の自動引き落としになっていて滞りがなかったので死んだことが認識されず、預金が底をついて未納になったので発見されたのである。自動引き落としというのは一人暮らしになったら考えものだ、と思うと同時に、自分はどんなふうに死ぬのだろうかと結構真剣にあれこれ想像した。

本書の発行は2009年だが、コンテンツはそれ以前に『ほぼ日刊イトイ新聞』に掲載されたもので、著者たちが還暦頃のものらしい。本書のなかで故人となった知人友人の話をする箇所もあるが、死というものがリアルに捉えられているとは感じられない。しかし、ここに書かれているような会話ができるような年代というのは、死がそう遠い先のことではないということでもある。読みながら、自分もこういう会話のできる相手が欲しいとは思うのだが、残念ながら私は白骨のクチだろう。

 

アーサー・ビナード『日本語ぽこりぽこり』小学館

この著者の書いたものを読むのは楽しい。先月同じ作者の作品を3冊買い求め、2冊は先月のうちに読み終わり、最後の1冊がこれである。

how silent! the cicada's voice soaks into the rocks

これは或る俳句の英訳だ。一見して俳句に「!」はマズいだろうと思うのだが、英語ネイティブである著者によるともっと根本的なところに問題があるらしい。オリジナルはこの俳句だ。

閑さや 岩にしみ入る 蝉の声

冒頭の英語訳は、元の句の解釈がなっていない、とはっきりは書いてないが、ほぼそういう内容のことが書かれている。アメリカの人に日本語の解釈のことを指摘されるというのは日本人として面目ないことだが、本書に書かれている著者の主張は尤もなことだと私も思う。翻訳に限らず、表面を取り繕っただけの仕事が世間では妙に目立つような気がするのは私だけだろうか。取り繕って事足れりとしているというのは、要するに考えていないということだ。尤も、いちいち考えていては仕事にならないという事情もあるのかもしれない。今は世の中全体が思考を拒否しているかのような造りになっている。そういうなかで、例えば本書のようなものを読むと、はっとさせられるのである。はっとして、気持ちがいい。

 

上田閑照編『西田幾多郎随筆集』岩波文庫

以前、須賀敦子の文庫全集を読んだ時にも感じたのだが、本人が公開することを前提にせずに書いたものを、その死後に公開するというのは如何なる動機に拠るのだろうか。西田の学問のほうの業績については何も知らないが、本書に収められているものを読む限り、フツーの人との印象しか持たない。

日記のほうは、その時代の世相を知る手がかりとしては大変興味深い。特に西田は近衛文麿、木戸幸一といった政府要人と個人的な関係があり、一般の人々よりも政府内部の動きについて多くを知っていたと思われる。特に昭和20年の日記はそういう人々にも触れたものなのである。結果を知った上で読んでいるから余計に思うことかもしれないが、この期に及んで大言壮語を繰り返し戦争継続に拘泥していた軍部とはいかなるものだったのか。

確かに、戦争というのは勝たなければ意味がない。歴史が後講釈で成り立っていて、「意味」は後講釈によって創られる。『日本語ぽこりぽこり』のなかで紹介されていたビナードの母方の祖父の言葉がその本質を端的に表現していると思う。曰く「戦争っていうのは、金儲けのためにやるに決まっている。思想なんかあとからくっつくんだ」。明治維新でも、日清・日露でも、そこで成り上がった人々が必ずいて、その後の政治経済に大きな影響を及ぼしている。日中戦争から続く太平洋戦争を直に知る人々はいなくなっているが、その後始末は終わっていない。火種はなおも燻っていて、なにかの拍子に燃え上がろうとしているように見える。尤も、それは国家という枠組みとは違った括りでの闘争だ。人間は面白いものだと思う。

 

岡野弘彦編『日本の心と源氏物語』思文閣出版

万葉集講座をきっかけにこういう本を読むようになった。「恋」というものについても考えるようになった。本書の岡野先生の書いたところから「恋」についての直接的な記述を拾ってみる。

日本語の恋というのは、「相手の魂をこちらへ乞い寄せようとして双方が恋いこがれあう状態だ」という。(略)その一番核になっているのが歌である。つまり、言葉による心の牽引であり、「言葉による魂の格闘」なのだ。そして相手の魂をねじ伏せ、あるいは魅了することによって魂を引き寄せようとする。だから歌のかけ合いは、本来激しいものなのだ。(10頁)

古代人の大事な言葉というのは、言葉が空に働くことは絶対にない。(24頁)

霊魂信仰の様相は一々記録されるはずはなく、我々が記録を通して緻密に知ることはできない。つまり、一番奥深い神秘な部分というものは、昔の人はそう軽々しくは語らないものである。まして文字になどしない。だから歴史的な記録にそういうものが残ってくるということはまずありえない。(58頁)

恋の歌、相聞の歌は、平安朝の人々にとって最も大切な和歌の題材であるが、その表現は100%真剣な恋の告白に必ずしもなっていない。恋の儀礼というか、恋のエチケットをできるだけ華やかに、美しく表現しようとする。それがまた当時の人々の誇りでもあり、大変高く評価せられた。それが近代に入ると、リアリズムや自然主義などの影響を受けて、深い恋歌、あるいは伸びやかな恋歌、美しい恋歌がほとんどなくなった。それとともに情熱的な本当の恋もなくなったと言ってもよい。(63頁)

大事な恋歌の心を持ち続けてきた天皇の御歌から恋歌が失われたのは明治天皇からであろう。明治10年ころまでは、天皇は衣冠束帯で化粧をしていられたのだが、それが一変して軍服に変わる。そのころから、宮中の月次の歌会に「恋」という題が出なくなった。天皇はたとえ題詠でも恋歌など詠むべきものではないという雰囲気になった。恋の歌に情熱がなくなって、それと共に日本の軍国化が深まっていったと言えよう。(66頁)

このように「あそび」は、葬送のためというよりも魂の復活のために歌をうたい、楽を奏し舞いをまうことである。魂をよみがえられせ、生々とした活力を与えることは死を前提とした場合に限らない。むしろ、より積極的に生活の中でしばしば、恒例や臨時の「あそび」を催して、生活の活力を豊かにする術としている様子は『源氏物語』の随所に示されている。光源氏が人間としてあらゆる面で卓越した才能を示すのは、物語の主人公として当然のことだが、とりわけ歌舞音曲の名手として、華麗な印象を折目節目に際立たせるのは、魂のあそびの伝統の具現者としてあるべき姿なのである。(82頁)

こうした引用からわかるように、「恋」は男女のことではない。所謂色恋に表れる人の心の動きの奥底を広く人の営み全体に通じるものとして、時々の政治にまで示唆を与えるものだと思う。要するに、歌を詠むことを通じて人心という言葉にはならないけれどもそれを生む得体のしれないもののを想像しているのである。「恋」とは人と人との魂の遣り取りだ。それこそが社会の核である。それを思い考えずして社会に安寧はない。政治を司り、国を司る立場にあればこそ、なおさら「恋」を考えなければならないのである。

岡野先生は宮内庁御用掛として昭和天皇の作歌指南役を務め、今上天皇皇后両陛下の皇太子皇太子妃時代にも和歌の進講をしている。戦後の昭和天皇がどのような御歌をお詠みになられたのか、それが戦前のものとどう違うのか、興味のあるところではあるが、私のような下々にとっては永遠の謎だ。

それにしても、ただの思い付きで「万葉集講座」なるものを受講して、それまでなら考えもしなかったようなことを思い考えるようになった。歌を詠むというのは、やってみるとほんとうに面白くて、これがきっかけでこれから先の人生が変わるかもしれないとさえ思う。人生というのは何があるかわからないし、「何」のきっかけは他者との出会いや交流だ。生きるということは、つくづく面白いものだと思う。

 

中西進『ひらがなでよめばわかる日本語』新潮文庫

この学問の方法論のことを知らないので、ここに書かれていることがどこまでその世界での常識なのかわからない。面白くはあるのだが、けっこうツッコミたくなるところも少なくない。以前にもこのブログのどこかに書いた気がするのだが、人類の歴史というのはそう長いものではない。何を以て「普遍的」などというのか知らないが、言葉に普遍もクソもあるものなのだろうか。本書は学術書ではなくエッセイなので、気楽に読み流すべきなのだろうが、内容が内容だけに、行きつ戻りつしながら読んでページ数の割には読了まで時間がかかってしまった。

 

 


読書月記2019年4月

2019年04月30日 | Weblog

大岡玲 編『開高健短篇選』岩波文庫

付箋というのは自分にとってはけっこう大事な道具だ。以前、無印良品のフィルム素材のものを愛用していたのだが、何年か前に「レジで30%引き」というシールが貼られているのに遭遇した。これは廃番宣言だ。とりあえずそこにあったものを全て買い込んだのだが、昨年それを使い果たし、代わりの付箋を探していた。ようやくCan Doで似たようなものを見つけたのだが、ほどなくこれも廃番に。百均ショップはマークしていなかったので、少し反省して今度は近所にあるDAISOの大型店を覗いてみたら、付箋そのものは似たようなのものなのだが、体裁がいまひとつのものがあった。今とりあえずは手元に付箋の在庫がないので、これを3つ買い求めて使っている。

本を読むときは付箋が欠かせない。気になる箇所に半透明のフィルム素材の付箋を貼りながら読むのである。読み終わると付箋のところだけ読み直し、余計な付箋を外す。そもそも面白そうだと思った本しか読まないので、大抵は付箋がベタベタと貼られた本が書棚に並ぶことになる。しかし、読後に付箋が全く付いていない本もある。それは、そのうちにBook Offへ持ち込まれるものか、永久保存確定のものかどちからである。本書は後者だ。

始めのうちは付箋を貼りながら読んでいたのだが、そのうち付箋を止めた。そして、途中で貼られていた付箋を外して読み続けた。どの作品も読み終えるのが待ち遠しいと感じながら読んだ。普段は小説は殆ど手にしないのだが、これは短篇ということもあって愉快に読めた。

本書は開高の没後30周年ということで刊行された新刊だ。開高は心身とも病が尽きなかったそうだ。妻も一人娘も妙な死に方をしている。自分が開高の没年に近い年齢になって日々凡々と無為に生きているから思うことなのかもしれないが、世間に名を長く残す人というのは、なんとなく気の毒な生を歩んだ人が多いような気がする。やはり、人並みの生活や経験しかしていないと人を驚かせたり感動させたりするようなことはできないのだろう。人は経験を超えて発想できないわけだし、短篇だろうが長編だろうが、まとまった文章を書くには相当の知識と教養と文才が必要だ。自分と他人を比較することに何の意味もないのだが、感心するような文章を読んだ後で、それを書いた人のことを調べてみると腑に落ちてサッパリするものだ。

 
永田和宏『タンパク質の一生 生命活動の舞台裏』岩波新書

「二足の草鞋」というが、本当に複数の異なる生業をどちらも成果をあげながら営む人はそうたくさんはいないのではないだろうか。私は生活を支えているたったひとつの職業すら中途半端なまま定年を目前にしている。本書は歌人としての著者を全く感じさせない内容だ。

 

小倉孝保『100年かけてやる仕事 中世ラテン語の辞書を編む』プレジデント社

人間が損得で動くのが当たり前という浅薄な世界観に違和感を覚える。価値とは何か、というような本源的な部分への問いかけをしたことがないのだろう。尤も、小難しいことをうだうだと考えているようでは大企業で出世などできるものではない。一方で、ある程度の社会的地位があればこそ、人脈もできる。このあたりは微妙なバランスである。本書に登場する取材相手の言葉には琴線に触れるものがあり、そうした人の書いたものをさっそく検索していくつか発注した。そういう広がりのある本という点は評価に値する。

 

アーサー・ビナード『日々の非常口』新潮文庫

新聞に連載されたエッセイをまとめたものらしい。ひとつひとつが核心を突いていて、しかも押しつけがましいところが無いのは、言葉が選び抜かれているのと、それが可能を可能にする著者の感性と知性に拠るのだろう。読んでいて、この人となら友達になれそうな気がした。

本書に紹介されていた栗原貞子の「生ましめんかな」は、このところ続いた人間離れした事件の記憶が醒めやらぬ時期でもあったので印象的だった。

こわれたビルディングの地下室の夜であった
原子爆弾の負傷者達は
ローソク一本ない暗い地下室を
うずめていっぱいだった
生ぐさい血の臭い、死臭、汗くさい人いきれ、うめき声
その中から不思議な声がきこえて来た
「赤ん坊が生まれる」と云うのだ
この地獄の底のような地下室で今、若い女が
産気づいているのだ
マッチ一本ないくらがりでどうしたらいいのだろう
自分の痛みを忘れて気づかった
と、「私が産婆です。私が生ませましょう」と云ったのは
さっきまでうめいていた重傷者だ
かくてくらがりの地獄の底で新しい生命は生まれた
かくてあかつきをまたず産婆は血まみれのまま死んだ 
生ましめんかな
生ましめんかな
己が命捨つとも 

 

アーサー・ビナード編著『知らなかった、ぼくらの戦争』小学館

『日々の非常口』と一貫した世界観が感じられて編著者への好感度が高くなった。本書はインタビューをまとめたものだが、相手に何事かを語らせるのは、結局のところ、インタビューをする側の人格だと思う。信頼できない人間を相手に自分の想いを語る人間などいるはずがないだろうし、通じないとわかっている話を続ける人もいない。人から信頼されるには、「この人には自分の言うことが通じている」と直感させるに足る知性と感性が不可欠だ。語学の能力だとか表面的な知識といったものは二の次だと思う。

本書にしばしば「愚民化」という言葉が登場する。そこには前提として、支配=被支配という関係構造があるのだと思う。物事を語るには全体の座標軸のようなものを想定しないといけないので、その前提を設けること自体に何の違和感も覚えないのだが、そのままで完結するかのような余韻には警戒が必要だと思う。本書全体のトーンとして、無責任で身勝手な支配層とそれに翻弄される民衆という図式が透けて見える。社会にはそういう側面があるだろうが、それは一断面でしかない。現実は連続していて流動している。単純に支配・被支配という二項に分類はできないと思うのである。

生まれようと思って生まれてきた人はいない。おそらくそのことが自己肯定感を求める本能のようなものの出発点になっているのではないだろうか。好評価を受けるようなことは自分の実績として積み上げたいだろうし、逆に不名誉なことは避けたい、というのも自然なことだろう。自分が属する組織や社会で不祥事が起こったとき、それが己の行為や判断の結果であっても知らんぷりを決め込んだり不可抗力を主張するというのはよくある風景だ。その人が特別卑しいというわけではなく、人とは平均的にそういうものなのだと思う。

たまに家柄を云々する物言いを耳にするが、日本の大名は悉く成り上がり者だ。皇族にしても「神の子」といわれてしまうと、その先の会話が成り立たない。「我が家は代々」と言ったところで「代々」は知れているのである。その薄みっともなさに気付かないとしたら単なる馬鹿であり、わかっていて敢えて強弁しているとしたら詐欺師同様だ。いずれにしてもろくなものではない。他所の国のことは知らないが、似たようなものだろう。どのようなモノサシを当てるかということもあるが、人類の歴史は地球の歴史のなかではまだゴミみたいなものだ。

ゴミどうしで支配だの被支配だのと言ったところで始まらない。支配側に都合のよい民衆を作り上げるのが教育だというのは、教育を買い被っているような気がする。教育で愚民になるのではなく、そもそも愚民なのではないか。自分が愚民だから他人様も愚民呼ばわりする、との指摘を受けそうだが、その通りなので反論のしようがない。

ところで、『日々の非常口』を読んだ後だったので、付箋の用意をせずに本書を読んだ。現時点では、本書はいつまでも手元に残すつもりでいる。


ふだんのちゃわん 最終日

2019年04月14日 | Weblog
最終日は片付けがあるので16時30分で閉店。天気予報では夕方から雨の可能性が高くなっていたが、天気はなんとかもちこたえた。
 
本日の来客は9組11名。かつての職場で私のアシスタントを務めていただいた方、留学時代の友人夫妻、留学先の同窓会会長、母、といった方々以外にギャラリーのご近所と思しき方々数名の来店。ギャラリーのオーナーにもお買い上げいただいた。
 
会期を通じ、多くの方々と旧交を温めたりお話ができ、たいへん嬉しかった。こういうことが年に一度でもあると、とりあえず生きていてよかったと思う。

ふだんのちゃわん 4日目

2019年04月13日 | Weblog

天気晴朗。前回と異なり、熱心に案内状を書き送った甲斐があって友人知人が訪ねてくれた。

以前の職場の同僚、妻の友人夫妻、仕事でお世話になった方、留学時代の友人、妻の職場の同僚、自分の娘、大学時代のゼミの友人。自分や妻の友人知人ではなく、本展に興味を持たれて訪れていただいた方。また、そうした方々のなかで昨日に続いて訪れていただいた方もおられた。

来客数は初日2組3名、2日目2組3名、3日目3組4名、本日8組13名。購入客数は初日2組3名、2日目2組2名、3日目2組2名、本日7組11名。残す会期は明日だけだが、総じて前回と然して変わらない状況だ。値段に関係なく、大きなものは動きが悪い。しかし、こうした展示販売ではなく、注文を頂いて制作するものは大きなものばかりなのである。また、今回も自分の陶芸作品に加えて妻の実家から提供を受けた木工品を展示販売しているのだが、額が1つ売れた。

残すところ明日一日。どんな日になるのだろうか。


ふだんのちゃわん 3日目

2019年04月12日 | Weblog

前回に設けたひとつ500円のコーナーを今回は少し拡大している。原則として、大きさや形にかかわらず1,000円としており、サイズの大きなものを2,000円にして、小さなものは特別扱いをしていなかった。今回も猪口やぐい呑のようなものを集めて「ひとつ500円」ということにした。その500円コーナーのものはこの3日間で5個売れた。こういうところで買う人は値段で買うわけではないので、安くしたからといって売れるものでもないだろうと思っていたが、その通りだ。

今日は、以前仕事で頻繁にご一緒させていただいた方がお見えになる。「ふだんのちゃわん」の初回にもご来場いただき、織部の小鉢をお買い上げいただいた。今でもご愛用いただいているとの嬉しいお言葉を頂戴した。

昨日、遠方より来訪されて大型の壺と皿などをご購入された方の商品を宅配便で発送。
 
 
 
 

ふだんのちゃわん 2日目

2019年04月11日 | Weblog

今日からは搬入がないので、職場に出勤するように会場へ向かう。11時開店で、10時半には会場に着くつもりで家を出たが、「混雑の影響」で京王線が遅延し、「強風の影響」で埼京線も遅延しており、到着が11時数分前という際どい時間になった。しかし、開店を待ってギャラリー前で並んでいる人などいるはずもないので、開店に間に合うだけで十分だ。

風が強いものの、昨日とは打って変わって晴天となった。来店客は、かねてより本日来店予定との連絡を受けていた妻の友人がひとり。その人を見送った後は来客の予定はなく、誰かがやってくる気配もなかったので、妻は早めに帰宅。なおも一人で店番。午後5時を過ぎてぼちぼち帰り支度でもしようかと思い始めたところに、見ず知らずの人が来店。カップをひとつお買い上げ。以前にも書いたと思うが、見ず知らずの人に買っていただくことほど嬉しいことはない。気をよくしていると、ほどなくもう一人見ず知らずの人が来店。陶器のことを説明しているうちに話があちこちに飛び、また、そのひとも面白がって聴いている様子なので、調子に乗って収拾がつかなくなり、独演会状態になる。外が暗くなってきたので時計を見ると閉店時間を30分近く過ぎていて、話を打ち切って閉店する。帰り際にギャラリーのオーナーとしばし雑談。いい気持ちで家路に就く。

午後、学生時代のゼミの友人から土曜の夜に一献傾けようかとのメール。当時の仲間で、ミャンマーに赴任している奴が一時帰国とのこと。こちらの陶芸展は午後6時までなので、7時くらいの開始なら都内どこでも可との返事を送る。


ふだんのちゃわん 初日

2019年04月10日 | Weblog

昨日、荷造りをしたら、りんごの段ボール箱で8個になった。ギャラリーのオーナーのご厚意で前回の作品のうち2箱分をそのまま預かっていただいていたので、作品の数としては前回並みということになる。今日は朝から雨。前回のように自宅階下に一旦箱を集積することができず、直接車に運び入れる。

まず、それらの段ボール箱を積み込み順に自宅玄関に集めておく。予約しておいたレンタカーを借りに出かける。会場周辺が狭い路地だらけなので、車は軽自動車だ。午前7時20分、車を自宅階下につける。エレベーターがないので、4階の自宅から下の車の間をひたすら往復する。寒の戻りで寒いというのに、汗びっしょりだ。

午前7時50分に自宅前を出発。甲州街道を都心方面に進むが、若干の渋滞はあったものの総じて順調に進み、会場のギャラリーには9時10分に到着。

会場に陳列台をしつらえ、荷ほどきをした商品をざっと並べる。だいたいの配置が決まったところで、とりあえずその後の作業を妻に託して、レンタカーを返却に行く。会場から車で10分ほどの営業所に車を返却して、赤羽駅から埼京線で十条駅へ、会場へ、と往復約30分。この間に商品の陳列は進み、開梱した段ボールなどを片付け、案内状に告知した開場時間の13時前に1時間以上の余裕で準備が整う。開場前に義弟から花が届く。ありがたいことである。

これまでの経験から平日昼間には来客が数えるほどしかないと予想していた。階下にあったカフェは一昨年秋から休業中なので、カフェの客が回遊してくることもなく、確かに来客はなかった。ところが、午後3時過ぎに妻の知人夫婦が柏崎から駆け付けて下さった。その後、お世話になっている整体師の先生が来店。2組の来客だが、真冬並みの寒の戻りと朝から降り続く雨という天候を考慮すれば充分に盛況と言える。

ギャラリー前にはモッコウバラが蕾をつけていた。たまに寒い日があっても、季節はしっかり巡っている。


読書月記2019年3月

2019年03月31日 | Weblog

小泉武夫『醤油・味噌・酢はすごい 三大発酵調味料と日本人』中公新書

発酵調味料賛歌。自分でも味噌は毎年仕込むようになったので、読んでいて素朴に楽しくはあるが、やや誇大広告的な雰囲気が無きにしも非ず。それでも本書に盛り込まれているデータ類は、出典が明らかにされていないところが難だが、興味深いものばかりだ。調味料から食を想像して古い時代の生活を再現してみるというのは、食の変化や人の「自然」を考える上で真っ当なアプローチだと思う。「日本食ブーム」などという言葉があるが「日本食」の意味するところが不明瞭であることが何故問題にされないのか不思議でしょうがない。もっと言えば、「日本」とは何なのか、「日本人」とはどのような人のことを言うのか、あまり考えられていないように思う。何を旨いと感じるのか、毎日食べて飽きないものにはどのような特徴があるのか、そのことと「日本」の「文化」にどような関係があるのか、などなど疑問は尽きないのだが、そういうことを説得力を持って語ったものにあまり出会わない。こちらが熱心に調べないということは当然あるのだが、それだけでもないような気がする。突き詰めれば「自分」とは何者か、というところにまで行ってしまうのだろうし、そうなると答えなどないということになってしまうのだろうが、その突き詰めるところに至るものがどれほどあるのだろうか。

 

ロバート キャンベル・十重田裕一・宗像和重 編『東京百年物語』全3巻 岩波文庫

ある特定の時期に書かれた小説を並べることで、その時代の社会を読み解く試み。編者のほうは歴史を意識しているのかもしれないが、読者である私のほうは、人間というものの在り様は100年ほど遡ったところで変わらないとの思いが強くなる。それはこのブログのほかのところでも書いているが、『徒然草』でも『エセー』でも同じ感想だ。もちろん、現象面の大きな変化はある。維新、震災、戦争、復興を経て、わずか100年ほどの間に物理的な風景は江戸から現代へと激変する。物理的な風景の変化はテクノロジーの変化の端的な表現でもあり、人々の生活様式も同様の変化を見せる。しかし、人の心情のほうは風景の変化ほどに変わってはいないように見える。改めて人とは何だろうと思う。

ところで、2巻に収載されている谷崎潤一郎の「人面疽」のなかの記述が妙に引っ掛かった。

中でも一番不気味なのは、大映しの人間の顔が、にやにや笑ったりする光景で、― そういう場面が現れると、思わずぞうっとして、歯車を廻して居る手を、急に休めてしまうと云います。そんな場合には、怒る顔よりも笑う顔のほうが余計に恐いと、M技師はよく云って居ました。(第二巻 50頁)

いつのことだったか、アカデミーヒルズでの講演かなにかで講師のひとりだった津川雅彦が聴講客の求めに応じてその人と一緒に写真を撮る場面に遭遇した。その時が初対面のようだったが、カメラを向けらた時の津川氏の笑顔があまりに自然で素敵だった。前後の脈絡と関係なく、求められた表情を作ることができるのが俳優というものであるということと、笑いと笑顔は別物なのだということを、その時思った。

「人面疽」での笑顔の記述を読んだとき、ふと津川氏の笑顔が思い出された。同時に、仏像の表情も思い浮かんだ。弥勒菩薩だとか大日如来のように柔和な表情の仏様がおられる一方で、蔵王権現であるとか不動明王のような忿怒形の仏様もおられる。忿怒の表情というのは、どこか不自然な気がするのである。そもそも恐怖心を起こさせることで人心を掌握しようという了見がいかがなものかと思う。確かに恫喝することで動かすことのできるものはあるだろう。しかし、外部の力で動いたものは、その外部の力がなくなれば元に戻ることを思わなければならない。見せかけの合意ではなく、双方納得ずくの合意でなければ関係性など維持できるものではない。そういう意味で、極端な感情の表現というのは、笑顔であれ忿怒であれ、見た目ほどに強いものではないと思うのである。