今日、陶芸では、前週に挽いた2つの徳利と1つの碗の削り作業をした後、2回に分けて全部で7個の徳利を挽いた。1回目の土塊からは5個挽いて、2個目を挽いているときに先生からの指導を受けて、3個目からはまずまずかなという感じだった。5個目の徳利を挽いたところで土を使い果たしたので、時間の関係もあって1回目より量を減らした土を練って、それで挽き始めた。ところが、2個連続で失敗してお釈迦にし、そのあと2個挽いたが、全体として上手くいかなかった。 練りは大丈夫だったと思うのだが、轆轤の上での土殺しがいい加減だったかな、と反省。
作業のなかでは挽きは見た目には陶芸っぽくて華があるが、練りや土殺しはそれ自体何をしているのか本人にしかわからなくて、しかも気にし始めたら際限のないことでもある。しかし、そこをしっかりやっておかないと、その先がない。 そういうところをしっかりできるかできないかというのは、たぶん能力の問題ではなくて精神の問題だろう。外からわかないけれど肝心要のことというのは どんなことにもあって、たまたま陶芸という作業なかでそういうことに対する自分の姿勢が露見したような気がした。
そういうことがきちんとできるようにならなければ今の自分にとっては陶芸をやる意味は無い。 まだ小学校にあがる前に書道教室に通い始めた。先生が「しょどうはせいしんしゅうようです」とおっしゃったのを今でも覚えている。ただ、「せいしんしゅうよう」が何なのか5歳の自分にはさっぱりわからなかった。それが50歳の今ごろになって、ようやくおぼろげながら見えてきた気がする。