去年、2月に広島、9月に長崎を訪れた。以前から気になっていた場所だったが敢て出かけようとまでは思わなかった。一昨年に震災と失業を経験し、再起とか復興といったイメージを心に描きたいと考えた。広島や長崎が今どうなっているのか、と外国の人たちから質問されることがあっても答えることができず、その無関心さに驚かれたこともあったので、思いもよらず時間に恵まれた昨年の冬に広島へ行くことにしたのである。広島に行けば長崎に行かないわけにはいかない。就職したばかりで限られた有給休暇しかなかったが、休みを取って長崎にでかけてきた。
あの夏から67年が過ぎ、原爆の痕跡は感じられなかった。それを記憶に留めるための施設を除いては、少なくとも見た目には、その67年間を通り越した先の時代から綿々と歴史を重ねてきた古い町だ。地政学的な事情で67年前のことを消し去ろうという大きな意志が働いてきたのかもしれない。それにしても、そこに至る数百年の重みが大きく作用していることは確かだろう。なぜなら、再起するのは残された人々であり、その思考はその人々を培ってきた土地の文化であるはずだからだ。
人の心とか気持ちの有り様も同じことなのではないだろうか。逆境に怯まず順境に驕らず、平静を保つことができるかどうかは、その逆境や順境にいたるまでに積み重ねてきたものの内実次第なのだろう。そう思い、我が身を見れば、今更どうにもならないという心持ちがして、落ち着くものだ。