熊本熊的日常

日常生活についての雑記

部分と全体

2015年08月02日 | Weblog

毎日暑い。我が家にはエアコンがないので毎日辛い。せめて昼間は避暑に出かけようと、ボルドー展を観てきた。正直なところあまり期待はしていなかったのだが、なかなか充実した展覧会だ。

やはりポスターやチラシに取り上げられているドラクロワの「ライオン狩り」が強烈な存在感を放っていた。猛獣と人間との格闘をモチーフにした絵画や彫刻は先史時代の洞窟壁画から今日に至るまで数多い。以前にこのブログでもロンドンのVAにあるインドの虎オルゴールのことを紹介したが、モチーフに取り上げられる猛獣は何事かを象徴していることが多いのではないだろうか。おそらく「ライオン狩り」のライオンや狩りをしている人は無意味にそこに描かれているのではない。

「ライオン狩り」の面白いところは元の画面の半分が失われることで元の画面とは正反対の内容に見えることである。この作品は、今在るものを見ると人間がライオンを狩っているというより、人間がライオンに狩られているような画だ。それは現存するものが当初存在したものの下半分だからだろう。上半分は20世紀初頭の火災で焼けてしまったそうだ。参考作品としてルドンによるオリジナルの模写が展示してある。その元の姿を見れば、なるほど「ライオン狩り」の画に見える。この作品は展示されている現存する部分だけでも175×360cmという大きなものだが、それほどの大作で人がライオンを狩るという姿がどのように見えるか、ということは考えてみる価値があるだろう。つまり、そこに「象徴」の問題があって、それはそれとしてあれこれ考えるのに楽しいネタになる。

象徴の件はともかくとして、全体として見れば「ライオン狩り」が、部分だけを取り出すと「ライオンに狩られる」に見えるということは注目すべきことだと思う。この絵に限らず、物事というのは部分と全体が相似形にはなっていないということを改めて識るべきだと思うのである。相似形どころか正反対の要素を組み合わせることで全体の意味が転換するということはよくあることだ。昨今、誰もが自分の見解を簡単に世の中に表明できるようになり、ともすればそれが世論を形成する可能性も見え隠れしている。しかし、そうした見解の多くは情緒的でそれこそ部分だけしか見えていないかのようなものに思われる。もちろん、部分を精査する眼も大事だろうし、全体を俯瞰する眼も社会の健康には不可欠だ。相互の関連を考える能力が知性であり教養なのだろうと思う。しかし、何の予備知識もなしに例えば現存する「ライオン狩り」を観たときに、元の姿やその描かれた場面の背景を想像できるほどの知性や教養が自分にあるかと問われると、なんとも情けない気分になる。