今年の初詣は妻の両親と弟と一緒に彌彦神社。越後一宮で、それ相応の威厳というか格調の高さのようなものを感じさせる。境内に競輪場があることに対してはいろいろな考え方があるとは思うが、ここでは問わない。ここの礼拝は少し変わっていて、二礼四拍一礼だ。なぜそうなのか、知らない。
帰省の際、信越線の長岡と柏崎の間に大きな神社が車窓から見える。宝徳山稲荷大社といって、こちらも由緒ある神社だ。いつか参拝したいと思っている。
ところで、妻の実家から彌彦神社へ向かう途中、進行方向左手に高圧電線をいくつも放つ小山が見える。東京電力柏崎刈羽原子力発電所だ。そもそも発電所というものをしみじみ眺めたのは昨年6月に訪れた福島県いわき市の東京電力広野火力発電所が初めてだと思うのだが、あのときはJヴィレッジから眺めただけだったので、いまひとつ規模を実感できなかった。柏崎刈羽のほうも車で傍を通過しただけなので、「実感」というほどの実感はないのだが、それでも巨大な施設だということはわかる。これが時事刻々電気を産み出し続けていると思うと頼もしい限りなのだが、福島のようなことになったらと思うと「恐ろしい」という言葉では表現できないほど恐ろしい。発電所というのは電気を作る施設であるには違いないが、「施設」という言葉で片付けるには諸々広がりがありすぎる。人間が自分たちの生活のために、政治経済社会科学技術を総動員して作るもの動かすものは、政治経済社会科学技術が全て人間のコントロール下で人間の想定通りに機能している限りにおいては誠にありがたいものだが、どこかに制御不能の問題を抱えると人間の存在を根底からひっくり返す破壊力を発揮する。人間が作ったものとはいえ、巨大すぎるシステムはどこか神仏に通じるものがあるような気がする。