娘が寄席というものを聴いてみたいと言っていたので、鈴本にでかけてきた。定席の番組を比べてみたらここが一番良さそうだったからここにした。ただ、世に「落語ブーム」と呼ばれる状況なので、開場1時間くらい前に行ってみてあまり並んでいるようならバベルの塔でも観に行くつもりでいた。いざ小屋の前に行ってみると思っていたほどに列は長くはなかったので、小屋の隣のビルの1階にある寿司屋で腹ごしらえをしてから並ぶことにした。中に入ってみると難なく席は取れたが、ほぼ満席だ。途中多少の人の出入りがあり、中入り後は立ち見が出ていた。「ブーム」といってもそんな程度なのかと思った。
最近、このブログに書いたように落語会にでかけるのはひとまず止めておこうと思っている。出かけるとすれば、事前に切符を取ったりせずに済むところ、定席の寄席に限っておこうと思っている。もっと言えば、番組などを見ずに気分に応じてふらりと出かけてぼんやり聴いてみたい。しかし、根が貧乏性なので、つい番組を比べてしまったりするのである。こういうところが我ながら情けないと思う。
ところで今日のことだが、すごいものを見ちゃったなぁ、とただ素朴に感心した。ただ席に座っているだけでも疲労するのに、高座で繰り広げられていることに神経を向け、12時15分から16時35分の終演まで客席がだれることがないのである。もちろん、個々には飲食や居眠りといったこともあるのだが、客席全体が終盤に向かってひとつの生き物のようになっていくのである。今回は後ろから2列目の真ん中あたりの席だったこともあり、高座より全体が否応なく目に入り、その有機的な雰囲気に感心してしまった。中入り後の「長短」では客席全体がひとつのようになって長さんに焦れ、短七さんに肩入れするかのような波動を感じた。その余韻を崩すことなく動物の声のものまねで一服し、「短命」に入るのである。たぶん、この「短命」だけを聴けば冗長に感じられたかもしれないのだが、ここに至る噺や漫才があるからこそ「事件ですね」とか「事故ですね」というセリフがそうした前段を受けて活きるのである。「短命」を演っている噺家はこの日の最初から聴いているわけではないだろうが、客席のほうは数分前、数十分前に見たり聴いたりしたことから喚起される空想と眼前の噺とを無意識に反応させているのである。だからトリがサゲを言ってお辞儀をしたときに、その噺だけでなく、今日ここまでに聴いたこと感じたことのすべてに対する心地よい疲労がどっと押し寄せてくる。幸福な瞬間だ。
落語を聴こうと思って聴くようになってなって何年にもなるのに、今頃になってようやく寄席とホール落語は別物だということを認識した。これからは、たまに寄席に出かけてみようと思う。
本日の演目
春風亭朝太郎「真田小僧」
春風亭一左「子ほめ」
ストレート松浦 ジャングリング
古今亭菊生「権助魚」
柳家小袁治「紀州」
ロケット団 漫才
春風亭正朝「蔵前駕籠」
柳家権太楼「代書」
三遊亭小円歌 三味線漫談
春風亭一朝「七段目」
世津子 曲独楽
春風亭三朝「壺算」
柳家さん喬「長短」
江戸家小猫 ものまね
春風亭一之輔「短命」
開演 12:15 終演 16:35
上野 鈴本演芸場 昼の部