熊本熊的日常

日常生活についての雑記

読書月記2021年12月

2021年12月30日 | Weblog

内田百閒 『第三阿房列車』 新潮文庫

『阿房列車』の連載は時系列に従って書かれているが、書き下ろしだけは旅の後半、体調を崩したところから始まる。「隧道の白百合 四国阿房列車」だ。四国から大阪に向かう船の中で発熱し倦怠感もあって妙な具合だったので同行の平山氏がテキパキと動いて大阪上陸後直ちに病院へ行く。ところがその頃には平熱に下がり特段これといった異常は認められなかったという。しかし、具合はよろしくない。大阪から乗車予定の特急「つばめ」の発車時間までは間がある。大阪駅の助役室の長椅子で発車時刻まで休む。東京に帰ってすぐ、かかりつけの医師の診断を受けた。病気の詳しいことは書かれていないが「風がこじれて疲労と縺れ合い、そうなっている上になお無理が加わった」ということのようだが、それから熱が上がった。

その後、熱はまだ二三日続き、熱が取れてからも全身の倦怠感の為に起きられなかった。結局帰って来てから九日間寝て、十日目に床上げをした。目がもとの通りに見え出すには、一ヶ月近く掛かった。(84頁)

かなり重症だ。この時、内田は65歳前後で、この後81歳まで生きるのだが、他人事とは思えない。やはり人間は還暦を過ぎると生命活動はそれなりの状態になるということだろう。それを思うと平均寿命が何年であろうと、自分としては明日をも知れぬ命との自覚の下で生活をしないといけない。と、思っていても行動がどうしても伴わない。困ったものだ、と愚鈍なる読者は己のことを心配する。内田としてはどのような意図があってこの話を書き下ろしたのだろうか。

ところで、『第一』のカバーの写真は1952年10月14日の鉄道八十周年記念行事で内田が東京駅の一日名誉駅長を務めた時のものだ。『第三』に収載されている「房総鼻眼鏡 房総阿房列車」にはその時のことが登場する。ニュース番組のインタビューを受けたというのである。その時のことが引用されている。

「よく云われる事ですが、東海道線や山陽線の様な幹線の列車は、設備もよくサアヴィスも行き届いている。然るに一たび田舎の岐線などとなると、それは丸でひどいものです。同じ国鉄でありながら、こんな不公平な事ってないでしょう。そう云うのが一般の輿論です。これに就いて駅長さんはどう思いますか」
「表通が立派で、裏通はそうはいかない。当たり前のことでしょう」
「それでは駅長さんは、今の儘でいいと云われるのですか」
「いいにも、悪いにも、そんな事を論じたって仕様がない。都会の家は立派で、田舎の百姓家はひなびている。銀座の道は晩になっても明るいが、田舎の道は暗い。普通の話であって、表筋を走る汽車が立派であり、田舎へ行くとむさくるしかったり、ひなびたり、いいも悪いもないじゃありませんか」(42頁)

私は内田の方が正論だと思う。世論というものはいつの時代も馬鹿馬鹿しいものだ。しかし、内田はこれに続けて次のように書いている。

その時のはずみで、そうは云った様なものの、余りにむさくるしい三等車は恐縮する。(43頁)

この時利用した房総半島の鉄道にはいわゆる幹線がなかった。今は「わかしお」「さざなみ」「しおさい」という特急列車がある。あと、「成田エクスプレス」というものもある。ついでに京成が「スカイライナー」という優等列車を運行している。とはいえ、それらが走るからといって総武本線だの成田線だのをやはり幹線とは呼ばない。『阿房』当時、その房総半島を走る列車は少し酷い状況だったのだろう。ちなみに、鉄道八十周年記念行事のことが当時の新聞に掲載されている。内田名誉駅長の訓示に私は賛成だ。

「サービスなど以ての外」内田”阿房駅長”東京駅員に訓示
国鉄八十周年の記念行事の一こまに著名人を「一日駅長」や特急「はと」の「一日機関士、運転士」に仕立てて素人に鉄道の仕事を理解して頂こうという寸法で、国鉄では「もしも私が駅長、機関士、車掌だったら」の夢を実現、東鉄管内各駅ににわか仕立ての駅長や機関士、車掌さんが現われ各所に珍風景をくりひろげた
X
名誉東京駅長におされた”阿房列車”の作者内田百閒氏は約束の時間午前十時半きっかりに出勤、まず時間を守る駅長として及第 ”阿房駅長”は早速、駅員を駅長室に集めて訓示
命により本職本日着任す、規律のためには千トンの貨物を雨ざらしにし百人の旅客を礫殺するも差つかえない、貨物とは厄介荷物の集積であり、旅客は一所に落着いていられないバカの群衆である、職員がこのことを忘れ枝葉末節なサービスに走りこれを勤めて足れりとすれば鉄道八十年の歴史はたちまち鉄路の露と消え去るであろう、ぐずぐず申すヤカラは汽車に乗せてやらなくてもよろしい、諸子は駅長の意図に従い、いやしくも規律にもとる如き事があってはならない、駅長の指示に背く者は八十年の功績ありとも明日カク首する、東京駅名誉駅長従五位 内田栄造
東京駅では内田百閒名誉駅長のもと名誉車掌に松井翠声氏、名誉機関士に舞踊家の西崎緑さんが午後零時半発大阪行特急”はと”に乗りこんだ
真新しい紺の制服ハサミを持った翠声氏が『毎度御乗車有難う…』と改札にハリきれば、作業服の西崎機関士、スパナを片手に車輪の点検までやって大はりきり、赤線金スジ入りの駅長は発車真際になったら俄かに駅長を辞任”熱海まで行くよ”と、翠声車掌と一緒に展望車に乗りこんで行った
(読売新聞 夕刊 1952(昭和27)年10月15日付)

見出写真は2009年6月22日撮影。撮影場所は不明。札幌から函館の間のどこかの駅だろう。この時はふと思い立って夏至に夏至らしい場所へ出かけることにした。尤も出かける直前に思い立ったのではない。夏至の一月ほど前、JRの座席指定券発売の頃だ。そうでないと「北斗星」には乗れない。夏至に日本で最も日照時間が長いのは最北端にある稚内のはずだ、と思った。それで飛行機で羽田から稚内へ行った。稚内からは鉄道を乗り継いで東京へ戻り、その足で勤め先に出社した。せっかく長い日照時間を享受しようと稚内まで出かけたのに、雨だった。

 

内田百閒 『ノラや』 中公文庫

 
生き物を飼ったことがない。子供の頃は生き物が嫌いだった。怖かった。犬猫も虫も爬虫類も魚も嫌だった。たぶん、食べ物の好き嫌いが激しいこととか、風呂が嫌いであったこととつながっている。私の世界はとても小さくて、ちょっとしたことで脅かされてしまうと感じたのだろう。偏食が解消されたり、泳げるようになったりするのと軌を一にするように、生き物に対しても自然に向き合えるようになった、気がする。人に対する好悪もなかなかのものだったが、社会生活に支障のあるほどではなくなった、つもりではある。

陶芸を始めた頃、木工教室にも通った。陶芸で作ったものを収める箱がないといけないと思ったのである。その木工教室には猫がいた。教室にある作品や工具に悪戯をしたらマズイのではないかと思うのだが、よく躾けられていて、そういう心配はなかった。その猫がなぜか私に懐いた。私が作業しているとやって来て、作業台の隅にちょこんと座ってじっと私の作業を見ているのである。作業の合間を見計らって、首を伸ばしてくる。その首を掻いてやるように撫でるとうっとりとした表情をする。それを何度か繰り返すうちにどこかへ行ってしまう。それで、なんとなく猫が好きになった。

余談だが、陶芸と木工とは両立できなかった。生産性がまるで違うので、殊に轆轤で陶器を作るようになると、箱を作るのが全く追いつかなくなるのである。木工を始めて2年ほどしたところで、当時の勤め先を馘になったのを切っ掛けに、出費を抑制するためもあって、木工はやめてしまった。

ついでに犬にも懐かれるようになって、嫌ではなくなった。犬や猫が私に懐くのは、知能が同じくらいだとみられるからだと思う。彼らからすれば、ちょっと身体がデカくて二本足で歩くところが違うものの、同類には違いないと思われているのだろう。その後も生き物を飼うことはないのだが、何かの弾みで犬や猫と行き合うとき、稀にではあるが、明らかに何か話しかけられていると感じることがある。もちろん、犬語も猫語もわからないので、勝手にそう思うだけなのだが。

それで、ノラと内田とのことだが、加齢で心身ともに弱くなったところに、うまい具合に自己を重ねるのに適当な相性の生き物が現れたということではなかろうか。齢を重ねると色々なことが微妙な調子に不自由になる。もちろん病気や怪我で急に不自由になることもあるが、そういうはっきりしたことがなくても、加齢と共に、少しずつ且つ着実に、自覚するとしないとにかかわらず、それまでできたことができなくなっていく。ひとつひとつはどうでも良いことなのだが、いい気分はしない。そのなんとなく嫌な感じが複合重層するのである。そしてなんとも形容し難い微妙な無力感と寂寞感と不安に慢性的に襲われるのである。そこにノラとの出会いがあり、依存の形成があり、突然の別れが訪れて、収まりがつかなくなった。それで、あんなふうになったのだろう。

文面からすると内田はノラに依存している。無条件に内田に信頼を寄せているかのように振る舞う、また、そのように内田に感じさせる存在を通して内田は自己の存在を確認している。既に「大家」として世間に認知され、当たり前に「先生」と呼ばれる身分でありながらも、そういう己の在り方に懐疑の念を拭いきれず、言いようのない不安に苛まれていたのではないだろうか。寄って立つものは己しかなく、しかも、自己の能力のようなものを一歩引いたところから客観視できるほどの才覚があれば、当然に自己の能力に欠けているところや欠けたところが見えてしまうものだ。「作家」として日々創作活動をしていれば、その「創作」の中身は己がよくわかるはずだ。晩年はいわゆる代表作がない。『阿房列車』は立派な作品には違いないが、果たして本人がそれを「作品」とすることに満足していたかどうか。そういう中で出会ったのがノラだったのではないか。「野良猫を野良猫として飼う」などとわざわざ言うのも妙なものだ。餌を与えて「飼う」なら「野良」とは言えないくらい内田自身がよくわかっていただろう。己の何事かを守るために、「野良」という距離感を明示しておきたかったのだと思う。現実にはそんな距離感はなく内田はノラに、ノラに象徴される何事かに、溺れていた。

ノラが失踪した後、2ヶ月ほどでノラに良く似た猫がやって来る。やはり懐いたので、そのまま飼うことになる。これがクルツだ。当たり前だがノラとは別の猫なのだからノラと同じ関係性はできない。生き物には個性がある。その新たな個性と自己との交渉の中で新たな関係性ができあがる。「自己」とは自分を軸に構築された関係性の総体だ。新たな関係性が取り込まれて自己は微妙に変容する。つまり、ノラは内田の一部となっていた。それが失踪したということは自己が突然欠落したということでもある。危機だ。後釜のクルツは、そこから5年ほど内田と暮らす。そして、失踪することなく内田に見守られて寿命を全うする。クルツの晩年は体調を崩して内田をさんざん煩わせたので、内田とクルツの関係性はクルツの衰弱に伴って穏やかに終焉を迎える。内田の方には覚悟ができる余裕があったからノラの失踪の時のような動揺は、たぶん、なかった。

自分とは確たる存在ではなくて、自分を軸に形成した関係性の総体だと思う。一つ一つの関係は、ちょっとしたきっかけから少しずつ育んだものもあれば、降って湧いたようなものもあるかもしれないが、概して時間をかけて醸成されたものだ。だから、その関係性の形成に伴って自分の精神のほうも成長する。試行錯誤を重ねて形成されるので、その間に自分の中で合点のいくものがあり、内発的に何かを会得するのである。そういうのを成長という。外から押し付けられたものを理解も了解もないままに受容することはできない。「話せばわかる」などと言う人があるが、おそらく「話」というものを理解していないのだろう。物事を理解するというのは、食物を咀嚼して消化して吸収して自分の血肉骨とするのと同じことだ。「これがああで、こうで」とうだうだ戯言しか語れないうちは、きちんと理解できていない。

しかし、個々の関係性は永続しない。相手の死とか失踪とか、物理的に姿を消す形で終焉することもあれば、何がしかの対立が深刻化して別離に終わることもあるだろう。関係の相手も生きている。自分の都合の良いように付き合いが続くとは限らない。時間をかけて解消するなり変容するなりすれば、それに対する心構えもできるからどうということもないが、そういう余裕のないままに突然のように終焉するのは自分を構成しているものが欠落することであるから、動揺を免れない。その欠落した関係性の位置付けによっては、自己の存在そのものを危うくするほど動揺する。

おそらく、内田にとってノラとの関係はそういうものだったのだろう。側から見れば飼い猫にしか見えなくても、飼っている本人にしてみれば、そこに見えているのは単なる猫ではなかったのである。ノラが、猫が、内田からどう見えていたのか、内田にとってはなんだったのか、本人にしかわからないことであり、本人にも説明できないかもしれない。なぜなら、関係というのは目に見えないものだからだ。

関係性に溺れることは不幸ではない。溺れる幸せというものがあるはずだ。少なくとも溺れる対象が存在するというだけでも豊かなことだ。本書を読んで、百閒先生壊れたな、と思った。同時に自分はマズイことになるかもしれないな、とも思った。この歳になっても嫌いなものばかりで、好きなものがあまり無いからだ。あれが嫌だ、これが気に入らない、などとくだを巻いて、周囲からは疎んじられ、そのうち病院のベッドで管に巻かれて最期を迎えるのだろう。

 

内田百閒 『百鬼園随筆』 新潮文庫

 

その人間の暮らしを特徴づけるもののひとつが貧富へのこだわりだと思う。世界の人々が文化の違いを超えて交渉するには、そうした違いを超えて通用する尺度が必要で、それには数の多寡がわかりやすい、というのは確かなことだろう。しかし、それは方便であって、いわゆる価値観が全て数字で表現できる性質のものではない。ただ、数字や言葉で表現してしまうと、その表記が元の観念から乖離して独り歩きをするのは致し方の無いことでもある。

内田の書いたものには金銭の貸借に関わるものが多い。それだけを集めて『大貧帳』という立派なアンソロジーができてしまう。同書に収載されている「大人片伝」「無恒債者無恒心」「百鬼園新装」は本書に所収されている。その「百鬼園新装」にある記述については前にも少し触れたが、改めて考えたい。

 百鬼園先生思えらく、金は物質ではなくて、現象である。物の本体ではなく、ただ吾人の主観に映る相に過ぎない。或いは、更に考えて行くと、金は単なる観念である。決して実在するものでなく、従って吾人がこれを所有するという事は、一種の空想であり、観念上の錯誤である。
 実際に就いて考えるに、吾人は決して金を持っていない。少なくとも自分は、金を持たない。金とは、常に、受取る前か、又はつかった後かの観念である。受取る前には、まだ受取っていないから持っていない。しかし、金に対する憧憬がある。費った後には、つかってしまったから、もう持っていない。後に残っているものは悔恨である。そうして、この悔恨は、直接に憧憬から続いているのが普通である。それは丁度、時の認識と相似する。過去は直接に未来につながり、現在というものは存在しない。一瞬の間に、その前は過去となりその次ぎは未来である。その一瞬にも、時の長さはなくて、過去と未来はすぐに続いている。幾何学の線のような、幅のない一筋を想像して、それが現在だと思っている。Time is money. 金は時の現在の如きものである。そんなものは世の中に存在しない。吾人は所有しない。所有する事は不可能である。(170-171頁)

戯言だ。しかし、私にとっては説得力がある。人は生まれようと思って生まれるのではない。気がついたらここにいるのである。しかし、当然の如く「人権」などと称して己の権利を主張する。意志なく存在するものに主体性はなく、主体のないものが権利を主張することはできない、はずだ。しかし、現実には権利義務は当然に認められ、それにまつわる紛争があれば文明社会においては裁判所なるところにて衆目の下に紛争当事者の権利義務が規定され、その遵守が要求される。つまり、我々の社会なるものは丸ごとフィクションだ。実体はないが、「そういうことにしておこうな」という合意の上に成り立っている。当然、その合意に違和感を覚える人はいるし、力づくで反抗する者もある。

いわゆる価値なるものも合意だ。高いの安いの多いの少ないのと不平不服を述べたところで、少数意見は通らない。「働けど働けど」暮らしが立たないのは自己責任だ。うまく立ち回らないと負の連鎖を断ち切ることはできない。世間の合意に迎合するように生き方や考え方を改めないといけない、ことになっている。「幸せ」とは合意に対する納得である、とも言える。合意を受け容れる度量とも言えるだろうし、合意する覚悟とも言える。それで、幸せ?

本書の「梟林きょうりん漫筆」という章にこんな一節がある。

「金は萬能でないと、僕は沁み沁み考えた」
「どうしたんだ」
「僕が今度引越しをするだろう。それについて考えたんだが、若し僕に金があったら、隣りの家を買ってしまう」
「金がないから駄目さ」
「ないから駄目だが、あったら買ってそこへ移ろうと思ったんだけれど、考えてみるとそうはいかない」
「何故」
「隣には隣りの人が住んでるじゃないか」
「家を買ったら、出て貰えばいいさ」
「そうは行かない、僕は今自分の借りてる家を人に買われて立ち退かされるんだろう、どんなに迷惑なものかをこれ程承知した上で、人にそんな事が云われるものか」
「じゃ、どうするんだ」
「それに見ず知らずの人ではなしに、今迄隣り同志で心易くしていたものが、その家を買い取ったからって、隣の人に店だてを食わすなんて、そんな不人情な事が出来るものか、馬鹿馬鹿しい」
「じゃ、止すがいい」
「無論よすよ」
「それでいいじゃないか」
「だからさ、金は萬能じゃないと云うんだよ。持っていたって、隣りの家は買えやしない」
「下らない事を考えたものだね、金のない奴に限ってそんな事を考えたがるものだよ」
「有ったって使えないものなら、無くたって結局同じ事だ。君はただ漫然と金さえあれば何でも出来る様に思っているからいけない」
「だれもそんな事を思ってやしないよ。君が勝手な考えで、一人で金に愛憎をつかして見た丈じゃないか。つまらない事を考えていないで金儲けになる仕事でもしたがいい」
「つまらない事を考えなくたって、君がそうして僕の顔を眺めては、茶を飲んで煙草を吹かしている以上同じ事だよ」
「じゃ何か又もう一つ考えて見るさ」
(91-93頁)

戯言だ。しかし、私にとっては説得力がある。人情とは何かということは置いておいて、他人へのとりあえずの敬意とか情を抜きに自分の生活の安寧というものは成り立たないと思う。所有権を得たからというだけで、それまで心易く付き合っていた隣人に店立てを食わせることが当たり前にできてしまうようなところで生活ができるものではない。他人への敬意は他人に対してあれこれ想像力を働かせる手間と労苦なしには生まれない。それは生きる上で当然の負荷だ。お互い、生まれようと思って生まれたわけではなく、たまたまここに居合わせているのだから、とりあえず仲良くしたらいい。それが互いのためだ。そのためには相手を思いやる程度の想像力がないといけない。他者と折り合いをつけるには自分に想像力を働かせるに足る知的能力が必要なのである。実際の能力というよりは、心がけだ。そういうものへの肯定が内田の文章の底に流れていると感じるのである。

冗長になるのを承知で書き写しておきたい箇所がある。同じく「梟林漫筆」の一節で高校時代の先生が亡くなった時のことである。

大阪から帰って、黒枠の葉書を見て以来、段段私の心は苦しく、真面目になって来た。是非一度遺宅を訪ねて、仏になった人の前に御辞儀をして来たいと思いつめた。そうして、とうとうその日に行った。そうして行くまでの私の胸には、ただ私の追懐の心だけがあった。仏壇の前に位牌を拝んで来たいと計り思って行った。そうして私は門を開けた。玄関に金網張の燈籠が釣るしてあった。何だか岡山の門田の家で見た事のある様な気がした。私の卒業した時、竹井と二人でミュンヘンビールと鮨か何かを買って、故人の許へ飲みに行った事をちらりと思い出しかけた。私の声を聞いて出て来たのは、髪を真中から分けた女の人であった。私は今、何と云って私の来意を通じていいかわからなかった。第一その女の人が何人なのだか、まるで見当がつかなかった。表の標札には、天沼という字が三つ書き並べてあってその真中に貴彦という故人の名前がその儘に残っている位だから、その女の人は奥さんであるにしても、だれの奥さんだかわからなかった。「甚だ突然ですが、私は内田と申す者です。此間は御宅に御不幸が御座いましたそうで、私は岡山で御厄介になった者ですから、御悔やみ上がりました」と云うような事を無器用に述べた。するとその女の人は、左手の方から奥へ入ってしまった。それから大分長い間、玄関に起ったまま待っていた。その間、私は何を考えていたのか忘れてしまった。暫くして、今度は向うの襖の陰から、違った女の人が、三つ位になる男の子を横だきにして出て来た。その女の人は、私が妻だとも云わなかった。私も奥様ですかと聞きもしなかった。ただ、お辞儀をして目をあげた。その可愛らしい男の子の顔が、どこか故人の俤に似ていると思った瞬間から、私は全く自分を取り失ってしまった。「始めて御目にかかります。私は岡山でいろいろお世話になりました。御不幸の時は旅行していまして」と云った時に、私の目には、心の奥底から絞り出された様な泪が、今にもまぶちを溢れそうになった。この若い寡婦と可愛らしい子供とを私は見ていられなくなった。未亡人はそれに何か応えた。私は自分の醜態をかくすため、手に持っていた花束の新聞包をべりべりと引き裂いた。すると中から濡れた花が出て来た。私はそれを渡さなければならなかった。「どうぞ仏様におそなえ下さい」と云って出したら、未亡人は何とも云えない悲しい様なうれしい様な声をした。「何よりのものを有り難う御座います」と云って、花束の上に子供を抱えたまま俯伏せになった。私は早く帰ろうと思った。けれども、私の狼狽した言葉は、私を裏切ってへらへらと咽喉から辷り出した。いやにかすれて顫えていた醜い声が、今でも耳についている。「こちらへ御出になったのは去年でしたか知ら」と馬鹿な事を云った。「いいえ今年の四月で御ざいまして」と未亡人が云いかけた。私はそれをよく承知していた筈である。「その時御葉書をいただいて、一度御邪魔に伺いたいと思っているうちに今度の御不幸で」と云ってまた行き詰まってしまった。そうして又あとから云った。「岡山ではいろいろ御世話になりました。よく御邪魔に伺いました」私は同じ事を繰り返しているのに気がついて居ながら、止められなかった。しまい頃には何を云ったか、どうして始末を付けたか、はっきりしない。門を出て、小路を歩いていたら、泪が両方の頬を伝って落ちた。私は、何をしに行ったのだろうと思った。そうして非常にすまない事をしたと云う自責が強く起こって来た。私は、ただ自分の心に隠しておいてすむ事を、何の必要もないのに、勝手に自分に一種の情を満足させようとして、気の毒な未亡人に新しい悲しみをそそったではないか。私は始めから道徳を行う為に行ったのではなかった。礼儀を尽くしに行ったのでは猶更なかった。ただ私の故人を思う責心の為に行ったと自分で思っている。私はその心持を自分に向かって弁解する必要も、証明しなければならない不安もない。けれども、その心を外に表わすのは、ただ私の我儘と勝手である事に気がつかなかった。私は自分の道徳を利己主義で行った徳義上の野蛮人であった。(96-98頁)

「徳義上の野蛮人」という言葉に私は動揺した。

 

内田百閒 『立腹帖』 ちくま文庫

 
あるとき百閒は、辰野隆との対談で、こんなことを言っていた。
- 辰野さん、僕のリアリズムはこうです。つまり紀行文みたいなものを書くとしても、行って来た記憶がある内に書いてはいけない。一たん忘れてその後で今度自分で思い出す。それを綴り合わしたものが本当の経験であって、覚えた儘を書いたのは真実でない。(「当世漫話」)
(294-295頁)

「真実」とは何か、という話になるのだが、自分自身の脳の中で創り上げられたものを、あたかも誰にとっても同じであるかのように無造作に信じ込んでいる人が多い気がする。「私」の世界は私だけのもので、そこで認知されている事象について誰かと語り合えば、何となく話が通じるので、相手も同じものを見ていると思いがちだが、それを確かめることはできないのである。明らかな相違を指して「誤解」と称したりするのだが、そこに何事かの解釈が行われた結果であるので、「誤解」は「理解」の一形態だ。自他の別がある限り、世界観の相違は当然にあるわけで、それを超えて恒久的かつ友好的にわかり合おうなんていうのは儚い夢想だと思う。

たまたま先週の土曜日に所用で高田馬場にある日本点字図書館を訪れた。通りに面した外壁にたくさんの金属製の鎖がぶら下がっていて、一見したところ「ちょっと危ねぇなぁ」という雰囲気だ。しかし、晴天だが時折風が強く吹く日で、鎖が風に吹かれてぶつかり合い、サラサラと音がした。そうか、視覚に障害がある人にでも鎖の音で存在がわかるのか、とその時は思った。しかし、風が吹くとか地震で揺れるとかしなければ音はしない。ただ、音はなくとも鎖の質感というか、何か異質なものがあるという気配は感じられるかもしれない。設計は鈴木エドワードだが、鈴木エドワード設計事務所のウエッブサイトには同図書館は紹介されていない。適度な音で存在を示すための鎖なのか、別の意図があってのものなのか、私は知らない。

これも偶然だが、最近、「ほぼ日」で操上和美、養老孟司、糸井重里の鼎談が掲載されていた。その中で、養老孟司が視覚について話をしている。

養老 だいたい人間ってのは、目で物を見てないんですよ。
糸井 目で見てない?
養老 目っていうのは、網膜に映った像が一次視覚野という、脳みそのうしろあたりに来るんです。位置関係もそのままで来る。ところが、一次視覚野に入ってくる網膜からの入力は1割程度なんです。あとの9割は脳の他の部分から来る。
操上 ほほう。
養老 だから目で見てる部分は、ほんとうは全体の1割しかない。つまり、われわれは目というより、脳で物を見てる。
操上 そうか。目はただの窓。
養老 そうですね。
糸井 じゃあ、小さい窓ですね。
操上 小さいけど広がってるからね。視野というのは。
糸井 脳が埋めてるわけですね。それ以外の情報を。
養老 寝ているときの夢は、目からの入力がないのに、ものすごくシャープに見えるときがありますよね。
(03 「目はただの窓。人間は脳で見ている。」2021年12月17日公開)

この会話を受けて操上和美は写真家が何を見て写真を撮影しているのかということについてサラッと触れている。

操上 カメラマンも同じですよ。やっぱり、目で物は見てないよ。
養老 そうでしょうね。9割は頭のなかで見てる。
操上 ときどき撮影中に「カメラで見てどうですか?」って聞かれることがあるんだけど、「いや、カメラで見てないし」と思うよね。いきなり反発しないけど、内心は。
糸井 あぁ、あぁ。
操上 カメラで見られるなら楽ですよ。いいカメラで撮ればいいんだから。
でも、そうじゃないでしょう。カメラはただの最終的な道具だから。
糸井 いまのカメラってモニターがあって、「こう撮れますよ」っていうのが見えてる状態で撮ることができますよね。
操上 うん。
糸井 それは、そのモニターに写るものが情報のすべてになるってことだから、ファインダーをのぞくのとは、全然ちがう変化になりますね。
操上 だから、ファインダーのぞきますよね。やっぱり。
糸井 のぞきますか。
操上 ファインダーをのぞいたほうが、じぶんの視野として、こう、コントロールしやすくなりますね。モニター見ても撮れますけど、セッションっていう感じにはならない。

素人が撮影する写真と職業としての写真家が仕事とか作品として撮影する写真の違いが何となく了解できる。

文筆家も写真家も職業表現者なのだが、表現するものをどう創るか、つまり世界をどう見るかという環境認識のそもそものところが常人とは全く違うのだと思う。内に温めたものが違うのだから、それを文章に起こしたり映像として切り取ったりすれば自ずと「作品」と呼ばれるものになるのである。

内田の作品の中で『ノラや』が他と違うのは、内田による執拗な校正を経ていないことだそうだ。内容が内容なので、読み返すとノラのことを思い出して取り乱してしまい、他の作品で当たり前にするように読み返して朱を入れることができなかったのだという。あの作品を読んで私は、百閒先生壊れたな、と思ったと書いた。それは内容のこともあるけれど、本人の校正を経ていない完成度という所為もあったのだと思う。つまり、「真実」になりきっていないのである。

ところで、鉄道80周年記念行事の一環で内田が東京駅の一日名誉駅長を務めた時のことを『第三阿房列車』のところで長々と書いたが、駅長に選出された経緯や、当日に突然駅長を辞任して特急「はと」に乗って熱海まで行ってしまう企てのことが本書に書かれている。本書の解説(穂苅瑞穂)の後に中村武志氏が「阿房列車の留守番と見送り(抄)」という文章がある。中村氏は『阿房列車』の中で「見送亭夢袋」として登場する元国鉄職員で、平山三郎氏(『阿房列車』で「ヒマラヤ山系」として登場)の上司でもある。その中村氏の文章の中に内田が東京駅の一日駅長を務めることになったことを国鉄の側から書いた箇所がある。これらを読むとあの訓示の解釈も違ったものになるし、内田が鉄道の記念行事で東京駅の一日駅長になったということが読者である私の中で以前よりも立体的に認識される気がする。月並みではあるが、やはり人の話は聞いてみるものだと思うし、自分の第一印象と理解とを区別しないといけないという反省も生まれてくる。簡単にわかったような気になっていると、自分の世界は広がらないという当然の現実を突きつけられたような気分だ。

 

内田百閒 『御馳走帖』 中公文庫

 
「御馳走」といって何を思い浮かべるか、というところにその人の人となりとか生き方のようなものが表れる気がする。字義としては、奔走してあれこれ集めてこしらえた料理ということだろう。私は貧乏性なので、そんなことをしてもらったら恐縮して喉を通らない。尤も、出されれば有り難く頂くとは思うが、経験がないので本当のところはわからない。

食べ物の好物としては大豆と大豆加工品、特に納豆だ。豆腐は冷奴も湯豆腐もどちらも好きで、醤油はいらない。醤油をつけるとしたら、美味い醤油でないといけない。せっかくの豆腐の味を邪魔して欲しくないのである。もちろん、納豆にも醤油やタレはいらない。いらない、のではなく入れてはいけない。邪魔だ。油揚を焼いて、美味い醤油をつけるのは良いが、そうでない醤油ならいらない。実は、それ用の醤油はちゃんと用意してあって、切らさないようにしている。

たまに妻が豆腐を作る。自分で作ると好みの固さにできる。本当に好みの固さにすると、大量の大豆を消費して僅かな量の豆腐しかできないことに愕然とする。美味いけれど精神衛生には良くない。気楽に買ったほうがいい。なんでも自分で作れば良いというものではない。油揚には味噌をつけるのも良い。

味噌は自分で作る。今消費しているのは2018年か2019年に仕込んだもの。毎年寒の内に作業をする。茹でた大豆をすり潰したものと塩と糀の混合物を「味噌」にするのは私ではなく主に糀菌の働きだ。ここ数年は神田明神前で育った糀を使っている。大豆は北海道産のことが多いが、東京農工大の演習畑産のものを使ったこともあったかも知れない。10年ほど前に初めて味噌を作ったときは富山の豆だった。味噌の味は豆よりも糀に左右される気がする。来月は味噌を仕込む月だ。

余談だが、こうじは「麹」ではなく「糀」と書きたい。麦ではなく米で培養したものを使うからだ。「麹」と「糀」のことは、以前に発酵学の権威である小泉武夫先生の講演を聴いて大変感銘を受けて以来、気をつけている。

世間には「手料理」だとか「手作り」だとかを無闇に有難がる風潮があるように感じているのだが、不味いのはダメに決まっている。「気持ち」の問題はこの際二の次だ。なかには手をかければかけるほど不味くする不可思議な特技の持ち主もいるが、そういう不合理に時間と労力をかけるのは即刻止めるべきだ。人類のために。限りある資源を無駄にするのは許されない。

また、そいう反逆者を煽てるのも同罪だ。不味いときに正直に「不味い」と言えない人間関係は既に破綻した関係だ。食は生命に直接関わることであるということを忘れてはいけない。そういう生きることの根幹で無理を重ねると互いにとってとんでもないことになる。

確かに、諦めずに「頑張る」という姿を「美しい」とする見方はある。しかし、それは他人事だから「美しい」のであって、自分のこととなるとそんなことは言ってられない。料理に自信がないなら、料理をすることに特段の喜びを感じないなら、無理をせずに納豆とか豆腐といったものをどこかで調達すれば良い。そこにアツアツのご飯があれば、これに勝る御馳走はない。

ご飯といえば、今、ふるさと納税でいただいた南魚沼のコシヒカリを食べている。美味い。あちこちの米を取り寄せて食べているが、他とはレベルが違う。私は職場に弁当を持参しているので、冷たくなったご飯も食べる。南魚沼のコシヒカリは冷や飯でも美味い。今は賃労働に従事して給与所得があるので、確定申告をすることによって実質無料であちこちの産物を頂くことができているが、近くそういう結構な身分とは決別することになるので、その後のことも考えないといけない。魚沼のコシヒカリは買うと高い。勤めを辞めた後は、たぶん、食べられなくなる。調子に乗って贅沢をしていると後になって辛くなるかもしれない。しかし、明日のことなどわからないのだから、食べられるときにうんと食べておく。

ところで、自分で作る納豆や豆腐に使う大豆やふるさと納税でいただく米は国内産だが、市販の加工食品の原材料となる漁業農産畜産物は殆ど輸入品だ。農林水産省の統計によれば、2020年のカロリーベースの食料自給率は37%だ。さすがに米だけ見れば98%だが大豆は21%でしかない。小麦が15%、畜産物は47%だが餌を考慮すれば17%、魚介類は51%だが海のものを日本の資本が水揚げに従事したというだけのことだし、今や漁船員の多くが他所の国の人であることも勘定に入れたら意味がある数字とはいえまい。

しかし、そもそも食料を自給することは可能だろうか。第二次世界大戦後、世界は自由貿易と市場原理を宗として歩んできた。関税や諸政策による多少の制限はあるものの、原則として必要なものは世界中どこからでも調達できる建て付けになっている。直近の事例では、例の感染症のワクチンは全量輸入だが、今やほぼ全国民に行き渡り、製造国よりも低い感染率を維持している。その感染症で人の往来は途絶えても物流は概ね維持されて、生活に特段の問題は起きていない。それどころか、在宅勤務で運動不足になり肥満した人が増えたという話は聞くが、食料が不足して大変だという話は聞かない。自給率が37%でしかないのに、だ。

食料自給率の定義からすると自給と生産は実質的に同義だが、入手に関わる政治、外交、行政、経営、その他国家としての総体の枠組みのなかでは、食料自給と食料生産は同義ではないのである。思い切りざっくり言ってしまえば、稼ぐことができるうちはゼニを出せば大抵のものは手に入るのである。もし、「食糧安保」というような化石古典的概念に拘泥するなら、「100%」以外の数字は意味を成さない。つまり、自給率の数字に意味はないのである。そもそも今の日本にとっては達成不可能だ。

農業は、どれほど手間暇かけ、全身全霊を尽くしても、例えば収穫前に台風が来たら、その年は収入が無い。AIだかITだかを駆使してどうこうと吐かす輩がいるが、現実は自分の頭で考え自分の手足を動かさないと何も産まれてこない。どこかに雇ってもらって何をしてもしなくても決まった日に給与が支給される廃人製造業とはわけが違う。

「この道一筋50年」といえば大抵の仕事なら「熟練者」とか「達人」とか、ひょっとしたら「神」と呼ばれる領域に入る。しかし、農業の場合はたった50サイクルしか経験できていない。しかも、今年と同じ四季は二度と巡ってはこない。或る特定のパターンを各一回50回経験しただけ、つまり、常に初心者だ。人に当然に自己実現欲求があるとすれば、仕事で満足を得るというのはなかなか難しいのが農業だ。しかも、自然相手なので、自分の都合で勝手に休んだりできない。そういう暮らしに一生を賭ける覚悟が要求される。放っておけば農業に従事する人が減少するのは自然なことだ。

それでも食料自給率を本気でどうこうしようと語ることのできる人はこの国にどれほどいるだろうか。現実は、政治や行政の立場上は食料自給であるとか食糧安保といったことを標榜する姿勢を見せつつも、ゼニでどうこうできるうちはゼニでとりあえずの型をつける、ということだろう。人は他人事には雄弁だが、自分のことには寡黙になるものだ。

で、本書のことだが、内田はいわゆる美食家ではない。だから、読んでいて我が事のように愉しい。殊に食は生命に関わる一大事だ。そこに向き合う姿勢は生き方そのものとも言える。当然に食を巡って人間関係も露わになるし、綺麗事ではない人の本性も露わになる。本書だけでなく、『東京焼盡』を読んだ時も感じたのだが、誰彼となく内田の好物を気にしている様子が描かれていることに憧憬を覚える。好物と言っても、酒やビールなのだが、それにしても物資の乏しい時代ですら、周囲が気遣いをしてくれるのは、やはり内田の人徳だと思うのである。「御馳走」とは食べ物のことではなく、その背後にある人間関係のことを言うのだとつくづく思った次第だ。