万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

何故中国は日本糾弾路線へ転換したのか?

2014年01月04日 15時08分28秒 | 国際政治
首相靖国参拝 年初から個人攻撃 中「拙劣な言動」韓「関係の障害」(産経新聞) - goo ニュース
 本年最初のブログ記事は、中国の第二次世界大戦史観の転換点について書くこととします。中国が、日本国首相による靖国神社参拝に対して批判を開始したのは、戦後40年が経過した1985年のことです。それでは、何故この時期に、中国は殊更に”侵略戦争”を強調し、靖国神社参拝を対日外交のカードにしようとしたのでしょうか。

 国民党との内戦に勝利して、1949年に中華人民共和国と建国した毛沢東の日中戦争への評価は決して批判的なものではなく、”日本との戦争がなければ、共産党政権は成立し得なかった”とする趣旨の言葉を残しています。共産主義勢力の戦略では、レーニンが示唆したように、戦争は政権掌握のために利用すべきものであり、盧溝橋事件がコミンテルンの指示によるものであった可能性もあながち否定はできません。毛沢東の先の言葉もこの戦略から理解できるのであり、1978年の日中平和条約の締結を以って一先ずは決着しているのです。冷戦を背景として、この時期までの中国側の姿勢はマルクス・レーニン主義に忠実であり、”アメリカ帝国主義”といった表現で西側資本主義国を罵っています。レーニンの認識では、戦争とは、資本主義諸国による独占をめぐる世界の再分割競争なのですから、日本国一国のみに戦争の責任があるとは見なしていないのです。ところが、小平氏の指導の下で改革開放路線が開始され、外資の誘致が国策となると、資本主義国に対する闘争姿勢は一気にトーンダウンし、代わって対日批判が突出するようになります。経済政策の転換点は、対外政策においては、日本国に戦争の全責任を押し付ける”侵略戦争”史観への転換点ともなるのです。おそらく、改革開放路線を成功に導くためには西側諸国との関係改善が必要であり、そのために、共産主義の歴史観を放棄してでも、戦争の当事者であった中華民国の立場に成り変わろうとしたのでしょう。ただし、古来ライバルであった日本を除いて…(日本国は、戦後、一貫して中国に対して多大な支援や投資を行ってきたにも拘わらず…)。

 その一方で、中国は、個人に対する裁判は刑が執行・赦免された時点で完結し、国家間の戦争は講和条約を以って完全に終結するとする、国際社会の一般的なルールは受容しなかったようです。80年代後半以降の中国の日本国に対する強圧的な”歴史認識”の押し付けは、ひとえに中国内部の事情によるものなのですから、日本国は、村山談話の如くに中国の戦略に呼応してはならないと思うのです。それは、法的に解決された問題を蒸し返し、過去の対立を再燃させることになるのですから。

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コメント (6)
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