目下、フランスの首都パリでは、スポーツの祭典であるオリンピックが開催され、参加各国の出場選手達がメダルを競っています。その一方で、同大会の開会式の演出が物議を醸しており、賛否両論の議論が続いています。とは申しましても、同演出をめぐる対立構図は、およそ主催者側となる世界権力対人類一般として描けるかも知れません。前者がパネー・パワーにおいて超絶している一方で、後者が人数において圧倒しており、この二つの極端な‘アンバランス’による‘バランス’において両者の支持が拮抗しているのです。
人類全体からすれば極少数でありながら、他の全ての人類を抑圧できるほど、マネー・パワーの支配力は絶大です。そして、これら少数の陰の権力者達の思想や世界観は、パリオリンピックの開会式にあって見事なくらいに表現されています。批判を浴びることとなったグロテスクで倒錯した世界を全人類に見せつけようとするのですから、同演出は、世界権力の傲慢さの裏返しでもあるとも言えましょう。他の一般の人々が嫌悪感や不快感を懐こうとも、自分たちさえ楽しめればそれで満足であり、むしろ他者の不快な反応を見て楽しんでいるのかも知れないのです(嗜虐性の高いサディズム・・・)。
オリンピックの開会式とは、今や世界権力が製作した自らの未来ヴィジョンを宣伝するプロモーションビデオと化しているのですが、この側面は、今日の政治を見れば一目瞭然です。何故ならば、日本国を含め、世界権力のネットワークに組み込まれた世界各国の政府の大半が、同権力が志向する未来ヴィジョンの実現に向けて一斉に動いているからです。とりわけ世界権力がマネー・パワーの鞭で叩いても各国政府に実行させようとしているのが、LGBTQ政策の推進です。パリオリンピック開会式の最大のテーマは、スポーツではなく、まさにこのLGBTQです。例えば、昨年の2023年6月に、日本国内にあってLGBT理解推進法が制定されたのも、背後から世界権力からの相当の圧力があったのでしょう。アメリカやヨーロッパ諸国の政治の現状を見ましても、同問題は、重要な政治課題の一つとされています。
その一方で、防衛、安全保障、社会保障、税率、教育、治安の改善など、重大な政治問題が山積されています。LGBTQ問題は、直接に関係する当事者は少数ですが、一般の政治問題は全国民に直接的に関わるからです。それにも拘わらず。政府はマスメディアと結託し、同問題に国民の関心を集中させようとするかのようです。LGBTQに加えて、政府が熱心に取り組んでいるものがあるとすれば、デジタルや環境といった世界権力が利権を有すると共に、同勢力の人類支配体制の整備に役立つものばかりなのです(戦争推進政策もその一つ・・・)。言い換えますと、政治は、今や世界権力が決定した狭い範囲のアジェンダに閉じ込められ、民主主義は風前の灯火となっているのです。
それでは、何故、かくも世界権力は、LBGTQに拘るのでしょうか。おそらく、この問題こそ、人類を野蛮な時代に回帰させ、自らの世界観を他者に強制するためには必要不可欠な要素と見なしているからなのでしょう。否、性別を否定するのですから、人類どころか、無性生物の時代にまで逆戻りさせたいのでしょうか。この問題については、より深い考察が必要なようなのです(つづく)。