コロナ禍を機に公衆衛生危機への対応も加わって、昨今、日本国政府は、緊急事態条項の新設を含む憲法改正を視野に入れながら、有事に際しての首相への権限集中を目指しています。しかしながら、‘有事の集権化’については、第二次世界大戦を教訓とするならば、よりクールなアプローチが必要なように思えます。
有事ともなりますと、戦争当事国は、たとえ民主主義国家であったとしても戦時体制への転換を余儀なくされるものです。特に近代以降、戦争の形態が総力戦へと変化しますと、国家は全国民並びに自国の持てる資源を全て戦争での勝利に向けて投入する必要に迫られるからです。戦中戦後を通して連合国諸国は、枢軸国諸国の国家体制を独裁として批判してきましたが、議会制民主主義の母国であるイギリスにあっても、戦時には首相を首班とする挙国一致内閣を成立させ、戦時向けの政府主導体制へと転換しています。ドイツやイタリア等が殊更に批判されるのは、有事ではなく平時にあって独裁体制が成立したからなのでしょう。もっとも、ドイツであれ、イタリアであれ、未曾有の社会・経済的な混乱に見舞われた戦間期は‘有事’に等しく、ナチスのアドルフ・ヒトラーにせよ、ファシスタ等のベニート・ムッソリーニにせよ、‘救世主’としての国民からの熱狂的な支持なくして出現し得ませんでした。何れにしましても、危機的な状況は集権的な独裁体制を正当化する根拠となるのです。
それでは、戦時における独裁体制は、戦争に勝利をもたらす決定的な要因となるのでしょうか。第二次世界大戦を見ますと、強固な独裁体制を敷いた国の側が敗北しています。ヒトラーは、『我が闘争』において超人の如き最優秀者による支配を主張し、自らこそこの‘指導者’に相応しいと自認していましたが、それがヒトラー自身の自己陶酔、もしくは、国民にかけた催眠術であったことは歴史が証明しています。結局は、ドイツ国民を救うどころか、奈落の底に突き落としてしまったのですから。第二次世界大戦の事例を引くまでもなく、平時にあっても一党独裁体制のイデオロギーの元で独裁体制が継続されている中国や北朝鮮をみても、トップに君臨する独裁者が必ずしも‘最優秀者’であるわけではないことは明白です。否、権力闘争に勝ち残った権謀術数に長けた人物や世襲によって独裁権力を引き継いだに過ぎないような人物が、得てして独裁者として国民に対して強権を振るうこととなるのです。
ここに、特定の人物あるいはポストへの権力の集中は、最適者の選任という人事上の極めて困難な壁にぶつかるということに気付かされます。現実には、こうした完璧な人物は存在しないか、たとえ存在したとしても、トップの地位に就くことは殆ど不可能であるからです。このことは、単なる独裁者への権力集中の危険性を示しています。‘指導者’の政治的能力が低く、道徳心や常識にも欠け、国家や国民に対して不誠実であれば、集権化のリスクは戦争にも優るとも言えましょう。しかも、‘指導者’は、自らを最優秀者として振る舞おうとしますので、国民からの批判は一切許されず、誰もその暴走を止めることはできなくなります。超人的な最優秀者は、神の如くに無誤謬なはずですので、判断を誤るはずはないとされているからです。かくして、この建前に矛盾したり、反するような情報は隠蔽され、国民は、閉鎖的な空間に閉じ込められ、国民は地獄への道連れとなりかねないのです。
この状況が、如何に救いがたいものであるかは、岸田首相に権力が集中した状態を想像してみれば容易に理解されます。日本国は、議院内閣制ですので国民の支持がなくとも、党内の多数派を制すれば首相に就任することができます。言い換えますと、現行の制度では、日本国の首相は、必ずしも決断力や知力に秀でた‘最優秀者’ではないことを意味します。しかも、軍事テクノロジーが急速に発展した時代にあって、首相に中国が仕掛ける超限戦に即応できるほどの豊富な知識や情報を期待することはできず、戦略立案の経験もほとんどないことでしょう。第二次世界大戦におけるドイツの敗北は、ヒトラーが軍事に関しては素人であった点が挙げられていますが、この点、岸田首相も同様の道を歩むかもしれません。
また、岸田首相は、ウクライナをはじめとした諸外国に対しては大盤振る舞いをしながら自国民に対しては増税で臨んでいます。こうしたグローバリストに迎合した海外重視の首相の姿勢の背景には、世界経済フォーラムに象徴される世界権力の意向が強く働いているともされます。仮に首相が世界権力の傀儡や代理人である場合には、来る戦争そのものが同権力による戦争当事国のトップを介してコントロールされることとなりましょう。過去の二度の大戦についても、世界権力が暗躍した疑いは濃厚です。
合理的に考えれば、首相もまた人である以上、国家の命運を左右する決定を首相一人に任せるのは危険極まりなく、統治制度としてもあまりにも杜撰です。現行の憲法下でさえ首相の暴走を抑えることは難しいのですから、法改正や憲法改正により集権化が進めば、首相は、国民の声に対してなお一層聞く耳を持たなくなることでしょう。‘有事には集権化’という図式は、本当のところは固定概念に過ぎず、有事に際して国民の連帯性や協力関係を強める必要はあっても、必ずしも権力を一人の人物、あるいは、ポストに集中させる必要はないのかもしれません。陰謀や謀略が渦巻く現代という時代にあっては、むしろ、国民の意向を反映した賢明な決定がなされ、かつ、軌道修正も容易となるような手続きこそ求められているのではないでしょうか。集権体制の構築に向けて猪突猛進する日本国政府の姿こそ、国民に忍び寄る危険を知らせる兆候なのではないかと危惧するのです。