本日のダイアモンド・オンラインにおいて評論家の佐藤優氏が、「ナショナリズムは危険な宗教である」理由を解説しておられました。ウクライナ危機をきっかけとして各国で高まっているナショナリズムに対する警戒論なのですが、ナショナリズムとは、否定されるべき’危険な宗教’なのでしょうか?
佐藤氏は、ナショナリズムが危険である理由を説明するに当たり、ユダヤ系哲学者であったアーネスト・ゲルナーの説を紹介しております。ゲルトナーによれば、ナショナリズムとは、「産業社会の勃興のなかで、必然的に生まれてくる現象」であり、自国の産業振興のために国家が教育によって国民に刷り込んだ、否、布教した一種の‘宗教’ということになります。同氏の説に従えば、国民のほとんどが行ったことも見たこともない尖閣諸島をめぐって、‘縄張り’を荒らされたとして中国に対して日本国民が憤りを覚えるのは、宗教的な意識に基づく幻想に過ぎないということになりましょう。
こうしたナショナリズム宗教説、幻想説、あるいは、人工説は、アンソニー・D.・スミス等によって反論を受けており、学問の世界にあっても、ナショナリズムに対する評価や定義が定まっているわけではありません。スミスによれば、ナショナリズムとは、歴史的な連続性を有する共同体意識であり、国家の教育に先立って自然に培われ、受け継がれてきたものとなります。民族の枠組みを形成する共通要素として、共通の祖先、歴史、伝統、言語、習慣などが存在することは否定のしようもありませんので、ナショナリズム宗教説は、放浪の民族としてのユダヤ人の歴史を背景としたユダヤ系知識人、あるいは、コスモポリタン的なネットワークに身を置いていた人々において共有されている独特の考え方なのかもしれません(因みに、幻想説で知られるベネディクト・アンダーソンは中国雲南省崑崙生まれのアイルランド系米国人であり、エリック・ジョン・アーネスト、ボブズボームもユダヤ系…)。「あなたが自分が日本人である、とするそのナショナルな意識は、単なる教育が生み出した幻想に過ぎない。否、危険な宗教ですらある!」と真顔で説かれても、多くの日本人は困惑するのみでしょう(こちらの説教の方が、よほど怪しい布教活動のように思えてしまう…)。
特定の国家への帰属意識、すなわち、アイデンティティーというものは、人為的に作り出すものができるとする考え方は、帝国主義、共産主義、そして、グローバリズムにとりまして好都合であったのかもしれません。民族といった如何なる属性にも拘わらず、後天的に支配下にある人々の帰属意識を変え、自らに忠誠を誓わせることができるからです。
幻想説に潜む問題点はさておくとしても、人類の分散定住の歴史に照らしますと、スミスの反論には説得力があります。そして、もう一つ、ナショナリズム宗教説に対する反論としては、今日の国民国家体系、並びに、国際法秩序からしますと、ナショナリズムは、法的な権利意識なのではないか、というものです。国際社会にあって、国家承認の要件とされるのは、国民、領域、主権の凡そ三つです(主権に関しては、政府の存在と対外的な関係を結ぶ権能に分けることも…)。そして、国家こそ、国際法の適用対象となる法人格を有する団体であり、国際法秩序とは、国家の権利と自由を擁護するために存在していると言っても過言ではありません。例えば、他国の領域を武力を以って侵害すれば、合法的な根拠がない限り、即、国際法違反の侵略行為となりますし、他国の統治権を奪おうとすれば、主権侵害という違法行為となります。そして領域とは、国民にとりましては公的な共有物であり、所有者意識が及ぶ対象なのです(同意識は、主権者としての国民意識に根差している…)。
それが共有であれ、自らの所有物に対する所有意識を‘宗教’と呼ぶ人はいないことでしょう。たとえ自らが行ったことも見たこともない場所でも、国民は、自国の領域に対しては所有権意識を有しているのです。佐藤氏も、尖閣諸島に関して国際法上の先占の法理について言及しておりましたが、中国が批判されるのは、先占が成立する国際法上の要件を満たしていないにもかかわらず、中国が同諸島の領有権を主張しているからに他なりません(尖閣諸島の場合は、先占の法理が問題となりますが、領域の大半に関する領有権は、特定の民族による継続的な定住の歴史に基づく既得権として理解される…)。
ナショナリズムとは、スミスが述べたように文化共同体としての国民意識に加え、領域や主権に関する法的な権利に根差した所有意識としての側面を持つとすれば、ナショナリズムを宗教として危険視することは、強欲で横暴な国家や勢力による権利侵害を是認するリスクがあります。ナショナリズムのリアルな多面的を理解しませんと、国際社会の平和はむしろ遠のくのではないかと危惧するのです。