鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

鉄ちゃん爺や  立石寺を訪ねる  

2016-08-17 20:14:58 | 旅行
確か立石寺を知ったのは中学校時代だったかな?

「奥の細道」を教材にした国語の学習だったはず。、

松尾芭蕉の有名な俳句を覚えてから、何時かはその
立石寺を訪れてみようと、思いついてから約60年。

(立石寺 案内絵図)


(立石寺 山門)


ここで添乗員さんに入山券を貰ってスタートでっせ。

山門の手前でツアーの人々に入山券を渡してはりまぁ。

「奥の細道」の文章を想い出してみました。


「山形領に立石寺といふ山寺あり。 

 慈覚大師の開祖にして、こと清閑の地なり。

 一見すべきよし、人々の勧むるに依て、尾花沢より取って返し、

 その間七里ばかりなり、日いまだ暮れず。

 ふもとの坊に宿借りおきて、山上の堂に登る。」

松尾芭蕉は、本来なら立石寺に立ち寄る予定は無かったとか。

でも、鈴木清風などが勧めるので行ってみようかと
こんな感じの文章で、「奥の細道」は書かれてるようでんな。。

(芭蕉翁の ブロンズ像)


(同行した 曾良のブロンズ像)


ここは観光用に設けられた芭蕉翁の撮影スポット。

松尾芭蕉の座っている、ブロンズ像は珍しいはず?

ここまでは、石段も険しくなく誰でも来れる地点でんな。

もう少し石段を登った地点が、芭蕉の句の短冊を埋めた
本来の場所だとされてまんねんで。


 「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」 松尾芭蕉

(芭蕉翁 せみ塚)




文字が風雪に耐えたのか、かすかにしか読めまへんな。

芭蕉翁が立石寺を訪れたのは1689年(元禄2年)
旧暦の5月27日で、新暦では7月13日になりまんねんで。

山形では7月13日には油蝉やニイニイ蝉はまだ鳴かないとか。

確かに、今年の我が家でクマ蝉が初めて鳴いたのも7月20日頃。

芭蕉翁が詠んだ有名な俳句の蝉は、春蝉だったのかしら?

鉄ちゃん爺やとしては、疑問を感じながらも石段に挑戦!

そんな訳か、この日、蝉の声は一つも聞こえまへんでした。

(立石寺境内の 石段)




そろそろ石段が急になってきましたで。

なにせ奥之院までは、急な石段が1015段だとか。

飲み友達のN君がリタイヤしたと、聞き及ぶ仁王門ですわ。

(立石寺 仁王門)




ネットではこの仁王門で約650段とかの書き込み。

この仁王門に到達しても、前を眺めたら険しい石段が。

胸突き八丁で奥之院もまだ見えず、苦しい処ですわ。

この辺りで、早くも息切れを起こす年配者が続出。

鉄ちゃん爺やは無事に通過して、奥之院を目指しまっせ。

(立石寺 仁王門を通過)


登りは出来るだけ写真を撮るのは控え、石段に専念。

足を痛める前なら、そんなに苦はならない石段の感じ。

でも現在の鉄ちゃん爺やには、限界に近い急な登りですわ。

(立石寺 開山堂 & 納経堂)


(立石寺 納経堂)



立石寺に残る一番古い建物がこの納経堂なんだって。

開山堂の横から、巻くように右手の岩を登ると、五大堂だっせ。

(立石寺 五大堂)




立石寺のパンフレットにも、必ず出てくる観光スポット。

舞台造りが山腹から、はみ出したような建築物でんな。

五大明王をお祀りしたお堂だから、五大堂と呼ぶんだとか。

「松島」にもこれと似た、五大堂とか呼ぶ建物が在ったはず?

ここから下界を見下ろすと、登ってきた疲れなどは
一気に収まり、立石寺に辿り着いたという雰囲気でっかな。

ここで休憩を兼ねて、見晴らしを堪能させてもらいまひょ。

(立石寺 五大堂にて撮影)




自撮りしてたら、大学生とも思える方が代わって
写しましょうか! と親切に呼びかけてくれました。

お言葉に甘えて、写して貰った画像がこれでおます。

(立石寺 五大堂から JR山寺駅を眺める)


画像を右手に山越えして進むと仙台市の方角になりますんや。

JR仙山線と呼ばれる仙台と山形を結ぶ鉄道でっせ。

手前の石谷川を挟んで立石寺の門前町も見えてまぁ。

(立石寺 五大堂から山形市内方向を撮影)


石谷川を下っていくと、最上川の本流にに注ぐようですわ。

山形市内は山を挟んで10kmぐらい離れてまっしゃろか。

前方の山並みの左手に、山形市の中心街がおますんや。

(立石寺 開山堂から 奥の院方向を撮影)


画像に写っているお堂は中性院と呼ぶ立石寺の塔頭のはず。

ここから奥之院までは、もう少し石段を登りますんや。

(最上義光公の御霊屋=おたまや)


現在まで残る立石寺のお堂の大半は、この最上義光公が
慶長年間に再建された物と伝わってますんや。

関ヶ原の戦いの後は現在の山形県を一括して
統治をした大名だったようですわ。

ここまで辿り着いたら、奥之院は目の前でっせ。

(立石寺 奥之院の標識)




何とか~ 奥之院まで頑張れたようですわ。

此処から15段登れば、立石寺の奥之院でおます。

(奥之院の 妙法堂 & 大佛殿)
 



向かって左側が大佛殿で、右側が立石寺・奥之院で妙法堂と云いまぁ。

五大堂のイメージが強烈なので、奥之院はやや影が薄い感じも。

ここまで登ってこないと、ご利益は得られないのかしら?

(奥之院 妙法堂 & 大佛殿 ご朱印)




(奥之院 大佛殿)


(奥之院 妙法堂の前で 記念撮影)


(奥之院 大佛殿)


これで立石寺の参拝が無事に終了となりましたんや。

下山する前に奥之院を背景に、自分撮りで写して置きまひょ。

(立石寺 奥之院と自分撮り)


(下山途中で 開山堂と納経堂を望む)


やはり、下りは早くなりますな、登る人の苦労を
励ましながら、こちらは自然と足が進みまんねん。

(立石寺 下山中の石段)


これから登る皆さん方、まだ半分も来てまへんで。

気を付けて、参拝してくださいよ~🎵

登るときにはパスした弥陀洞を写してみましたんや。

(弥陀洞=みだほら)








凝灰岩の岩肌を削って造られてる感じでんな。

修行者などの遺骨が洞窟に埋葬されているんだって。

(立石寺 下山道の標識)


登りにパスした根本中堂と日枝神社でご朱印をもらいまひょ。

日枝神社は神仏習合時代には立石寺の、護り神さまでしたんや。

(山王日枝神社の 拝殿)


(山王日枝神社の ご朱印)


(立石寺の本堂  根本中堂)




(立石寺 根本中堂の ご朱印)


このお堂は1356年(延文元年)に再建されたそうで
その際に、比叡山・延暦寺から法灯が送られて、現在まで
輝きを守り続けているんだそうですわ。

織田信長により、比叡山・延暦寺が焼き討ちで全焼した際には
再建された本堂に、ここから法灯を延暦寺に送り届けたとか。

ご本尊は薬師如来さんで、立石寺の本堂とされてますんや。

登山口の近くに在るので、奥之院にお詣りせず、ここ本堂で
立石寺に参詣したと考える方も、居られるでしょうな。

(立石寺 登山口)


ご朱印を、四か所も頂いたので集合時間の5分前でした。

観光バスの駐車場の前で、マンホールの蓋を発見!

記念にと発車を1分だけ待って貰って急いでの撮影。

(山形市の マンホールの蓋)


あまりセンスが良いようには思わないし、地味な感じ。

この日の宿「かみのやま温泉」に向かいましたんや。

(バスの車中より 立石寺の山頂を撮影)


今日は、これでお仕舞にしまっさ。

次回は、かみのやま温泉から出羽三山を紹介しまひょ。

ほんなら、これで、さいなら~🎵








鉄ちゃん爺や  上杉神社から立石寺へ  

2016-08-11 19:43:55 | 旅行
昼食を終えて集合時間まで約30分ぐらいかな。

近くの米沢城址にある上杉神社を訪ねてみまひょ。

(米沢城址の外濠)




元は上杉15万石のお城でしたが、明治の初めに
取り壊されて、現在は本丸跡に上杉神社が在るだけ。

(上杉神社の鳥居)


昔は上杉謙信公や上杉景勝、そして上杉鷹山公など
上杉家の藩主や重役がお祀りされていたようでっけど。

明治時代に上杉謙信公が別格官幣社に列する事になり
現在は上杉謙信公のみを、お祀りしているんだって。

他のお方は、城外の松岬神社に移されたとのこと。

これからは、上杉家を巡る歴史のお話になりまんねん。

興味のない方は画像だけ見て、文章はスルーして頂戴ね。

(上杉神社の ご朱印)


(上杉謙信公の銅像)


(上杉謙信公の詠んだ 漢詩)


上杉家と言えば、やはりこの方が語られるのも当然かな。

「義」を重んじて戦国を駆け抜けた偉大な武将でっから。

正式には上杉家の初代藩主は上杉景勝さんになりまぁ。

時は太閤秀吉さんの晩年で徳川家康を牽制するお役目。

越後の国から会津への、お国替えがおましたんや。

これは後に、米沢に移されてからのお話のようでっけど。

上杉謙信公の亡骸に甲冑をかぶせ、大がめに入れて
春日山城から、ここ米沢城の本丸へ移し替えたとの記録。

(上杉謙信公の 廟跡)


江戸時代には、ここに安置されていたそうですが、明治維新後
近くの上杉家歴代藩主をお祀りする廟所に移し替えたそうですわ。

立派な廟所だと聞いてまっけど、時間が足りまへんのでスルー。

(上杉神社 拝殿)




ご存じの通り上杉謙信公には、お子さんが居ませんので
お姉さんの子供である、景勝さんを養子にされますんや。

家督争いの「御館の乱=みたてのらん」で同じく養子の
上杉景虎と正室であった景勝の姉とその子供までを、殺し
上杉家の当主になったのが上杉景勝と称されるお方でっせ。

本当は北条家から養子に入った上杉景虎に謙信公が家督を
継がせたかったと書かれた書物も見られますが
今と成っては、どちらなのかは定かではおまへん。

豊臣秀吉の晩年には会津120万石を誇り、五大老の一人
徳川家康や前田利家や毛利輝元に並ぶ、大大名でしたんや。

(天地人 景勝&兼続の銅像)


NHKの大河ドラマでは、やや綺麗ごとに描かれてますが
戦国の時代を、力強く生き延びた上杉家のお話でしたかな。

反徳川家康の先鋒として旗を揚げたのが上杉景勝さんですわ。

ここ米沢は直江兼続が城代として、関ヶ原の戦いの際には
山形県内で最上氏や伊逹氏と激しく戦った古戦場がおます。

本戦の関ヶ原で西軍が破れ、直江兼続も兵を引くことになりまぁ。

反徳川家康の戦いを起こしたにもかかわらず、戦後は30万石に
減らされたが、米沢城主として存続したのが不可解なお話。

謙信公以来の武勇の家として、武士の情けを考慮したのかも?

(上杉家と伊達家 よく似た家紋)


上杉謙信公が関東管領の上杉憲政から名称を譲られたから
これは、鉄ちゃん爺やも知ってたが、伊達家がその昔
越後の上杉家と縁を結ぶ予定で、家紋を引き継いだとは。

この越後の上杉家は謙信公の先祖が主君筋にあたる名門
元は公家さんである、観修寺家の紋と書かれてまんな。

「竹に飛び雀」と呼ぶ、よく似た家紋に成ってますんや。

(上杉神社境内の 灯篭)


上杉家は景勝ー定勝ー綱勝と 三代が続いた処で災難が。

3代藩主・上杉綱勝が子供もなくて急死してしまうんですわ。

これが3代将軍家光の時代迄なら、お家断絶が当然なんでっせ。

時代が4代将軍家綱の時代で、しかも上杉綱勝の正室が
会津の名君である保科正之の娘さんときますんや。

保科正之さん娘婿の家を守るべく、驚くべき策略でっせ。

公家筆頭の吉良上野介に上杉綱勝の妹が正室として嫁入り。

そのお二方との間に、生まれたばかりの息子を養子にして、
上杉家を継がす事に、しはりますんや。

この方が4代藩主・上杉綱憲(つなのり)さんでおます。

赤穂浪士の吉良邸のお話で少しだけ登場するお殿様でんな。

保科正之は兄の将軍家光から4代将軍・家綱の後見を依頼され
米沢藩の隣で、会津若松城を治めていた徳川将軍家のご親戚。

だから上杉家には会津藩は命の恩人とも言える存在ですわ。

現在も米沢市では吉良上野介も悪くは言わないんだって。

だから謙信公や景勝さんの直系はここで絶えてしまった感じ。

(上杉家の 家紋) (竹に飛び雀)


上杉家はこの時に30万石から15万石に減らされますんや。

減らされたのが信夫郡と伊達郡だそうで、現在の福島市辺り。

だけど、家臣は昔の120万石の時代から、殆ど減らさずに
米沢藩になっても約6000人の家臣を引き連れていたんだって。

これは人を重んじる上杉景勝さんの考え方だとか、もしくは
まだ戦いが有るかもしれないとの心構えからだとも。

どこの藩も、江戸時代の半ばからは財政が苦しくなるんだけど
米沢藩は家臣の多さも影響して、大変に苦しんだとのこと。

8代藩主・上杉重定の時代には財政が破たんして15万石を
幕府に返上を考えたあげく、思い留まったと書かれてまんな。

この危機を救ったのが、上杉家・中興の祖とも称される
9代藩主・上杉治憲(はるのり)さん上杉鷹山公と呼ばれます。

(上杉鷹山公の 銅像)




この方は九州は高鍋藩の江戸藩邸でお生まれになった若君。

実母が早く亡くなられ、祖母に育てられたそうで、この方は
4代藩主・上杉綱憲さんの娘さんになられる、お方でおます。

伯母から英明な子供だと聞き及んだ、8代藩主・上杉重定は
この若君を婿養子に迎え、自分の娘と結婚させたんだって。

そして後に生まれた自分の息子を外し、婿養子に家督を譲り
9代藩主・上杉治憲(はるのり)とされたようでっせ。

上杉重定から上杉治憲に藩主が変わった頃の米沢藩では
約20万両もの負債(現在では約200億円?)があり
これを立て直すには、至難の業だと言われたんだって。

(上杉鷹山の 名言)


これは、後に10代藩主となる上杉治広に与えた家訓で
この方は、上杉鷹山公が養子に入ってから生まれた義弟で
上杉鷹山公は隠居した後も、藩主上杉治広を助けて藩政を
死ぬまでリードされたと言われてますんや。

なお「鷹山」とは剃髪後の名前で米沢近くの山の名前だとか。

アメリカ元大統領であったケネディさんが、日本で一番尊敬する
人物が上杉鷹山公だとおっしゃり、日本でも知られるように
オイルショックやバブル破たんの時代には、質素倹約の精神から
上杉鷹山公の政策や精神が、大いにもてはやされましたかな。

(上杉鷹山 伝説の植物)




この日の昼食に「お浸し」で食べたように記憶しまんねん。

今まで味わったことのない、不思議なお味でしたよ。

米沢では上杉鷹山公の奨励した植物の一つなんだって。

(うこぎの生垣)


米沢市の街では所々でこのような生垣が見られまっせ。

他には鉄ちゃん爺やがお土産で買った「鯉の甘露煮」など。

(鯉の甘煮  甘露煮?)


上杉鷹山公は自ら質素倹約に務め、あらゆる草木や魚類に
動物まで食べられるものを探し出し、飢饉に備えたとの事。

下級武士の次男・三男には田畑の開墾命じ、村ごと一人当たり
年一升の籾米を飢饉に備えて蔵に貯蔵することも命じたそうです。

天明の大飢饉に、米沢藩では1人の餓死者も出さなかったとも。

同時に40名も居た奥女中は、9名に絞り込み、自らも
一汁一菜の食事を常とする生活をしたと言われてまんな。

今に伝わる米沢の特産品は殆どが上杉鷹山公に繋がるとか。

自足時給を図り、米沢藩を甦らした名君と呼ばれてまぁ。

上杉鷹山公が亡くなった時には約20万両も残っていた負債が
逆に5千両ばかり、金子がプラスに転換してたそうでっせ。

(松岬神社)




元は米沢城内にお祀りされていた、上杉鷹山公や藩祖である
上杉景勝それに直江兼続や上杉鷹山公を支えた方などが
明治に成ってから、城外のこの神社に移されたとのこと。

米沢市では現在でも上杉鷹山公を尊敬して必ず「公」を
付けてお呼びするとの事で、私もそれに従いましたので。

(松岬神社 拝殿)


これで約30分の時間が過ぎましたので観光バスの
駐車場へ急ぐことにしまひょ。

ここから約1時間30分ぐらい走って東北の名刹で
天台宗の立石寺へ向かいますんや。

松尾芭蕉が奥の細道で有名な句を残したお寺

「静けさや 岩にしみいる 蝉の声」

立石寺と言うよりは「山寺」と呼ぶ方が有名かしら?

(山形県 南陽市を走行中)




気が付いたら米沢・南陽道路を走ってるようでんな。

この辺りは、シーズンが終わったけどサクランボの畑や
桃やブドウ畑の風景が随分と、多く見かけまっせ。

(蔵王スカイラインの入口を通過)


(蔵王の山並み?)




雲が垂れこめているので本体なのか前山なのか不明でんな。

蔵王連山の主峰ならもっと高く見えるような気もするけど。

残念ながら、今回は蔵王には行かないツアーでしたんや。

(山形市を通過中)




此処からはもう少しで山寺に到着という感じですわ。

今回のツアーでは一番の難所だとされる山寺でっせ。

約1000段を超える急な石段が待ち受けてますんや。

(山寺の 入口)


(山寺の拝観券)


今日はこれぐらいでお仕舞にさせてもらいまっさ。

次回は、名刹の立石寺(山寺)の参拝を紹介しまひょ。

ほんなら~ これで、さいなら~🎵















鉄ちゃん爺や  五色沼から米沢へ  

2016-08-06 19:18:00 | 旅行
(ホテル リステル猪苗代 玄関前にて)


添乗員さんにお願いして写して貰ったんです。

ホテルに焦点が合って鉄ちゃん爺やはピンボケでっけど。

(バスの車中より  安達太良山方向を撮影)
 

この日は雨は降らないが雲の多いお天気でおました。

国道115号線を走行中から写した画像でっけど
山の中腹まで雲に覆われているようでんな。

(五色沼の 案内板)


ここは鉄ちゃん爺やが、埼玉に単身赴任中の平成13年秋
内の奥さんを大阪から呼んで、旅行をした想い出の地。

ローヒールで歩かせたので、大いに顰蹙を買いましたんや。

こんな山道だとは、予備知識が無かったのが原因でっけど。

今回は皆さん方、スニーカー姿で準備OKのようでっせ。

(五色沼の 毘沙門沼にて)






五色沼は1888年(明治21年)磐梯山が水蒸気爆発し
山体を崩壊した岩屑なだれが、北側を流れる川をせき止め
数多くの沼地や湿地帯を作ったんだって。

3.6kmの遊歩道が完備されてますんで、約1時間ぐらいの
子供連れでもハイキングができる、コースになってまんねん。

画像の毘沙門沼が入口になり、駐車場や売店も完備され
五色沼観光のスタート地点と言うことになりまっかな。

なんとなく、見覚えがある15年前と変わってないかも?

(毘沙門沼の 錦鯉)


お天気が悪いと、鯉は水面に集まってくるんだって。

ここには、ハートのマークが付いた鯉が居るんだそうな。

発見したら幸せになるとか、恋愛運に恵まれるんだって。

鉄ちゃん爺やには、関係がおまへんので先へ進みまひょ。

見物に行った、ご婦人方の話で一匹だけ見つけたそうです。

(遊歩道に 噴火した際の岩)




(磐梯山の噴火口が 毘沙門沼に写っています)


小磐梯と呼ばれる北側の山体が無残に崩れてますんや。

一瞬だけ雲が切れて、磐梯山が見れたのはこの時だけですわ。

(毘沙門沼は これでお仕舞い)




それでは~ 次の赤沼へ向かって歩きまっせ。

この辺りが、一番足場が悪いような感じでんな。

(五色沼の 遊歩道)




(熊に注意! こんな看板)


くわばら~ くわばら~ 急ぎ足で皆さんと通過。

ハイキングの人は確かに、熊除けの鈴を持ってはりまぁ。

(川か? 沼か? 不明)





五色沼の周辺は、現在も幾つの沼が有るのか不明だとか。

大小を合わせて、数百個は確認されているんだって。

(五色沼巡り 案内図)


(赤沼の 標識)


(赤沼 岸辺が赤い?)




前回訪れた際は、もっと赤い色が岸辺に見えたはず。

鉄分が少なくなって赤い色が落ちてきたようですわ。

戦前は、沼一面に赤い色が広がっていたとの記録。

(深泥沼=みどろぬま)


名前の通り、泥のように濁った色の沼に見えるんだね。

標識を探したけど、この沼だけは発見できず。

(山ユリを発見)




北陸地方では見れないけど、近畿地方より北で咲く
日本固有のユリとしては、一番大きいんだとか。

(弁天沼の 標識)




(展望台から 弁天沼を望む)




五色沼巡りでは、毘沙門沼に次いで2番目の大きさ。

周囲を見渡せる、小さな展望台が置かれてるんですわ。

(五色沼の 遊歩道)


(倒木も 絵になる遊歩道)




(るり沼の 標識)


(るり沼の 全景)


水草が生い茂っているので全景が写りまへん。

弁天沼が後だったかな、順番が逆だったかも?

(遊歩道に咲く 山アジサイ)


(遊歩道で 小休止)


(青沼の 標識)


(青沼)




この沼は名前の通りに感じまっしゃろ。

ここを通過したら五色沼巡りも後半戦でっせ。

(特別保護地区の看板)


草花や昆虫も採取はできませんよ、勿論ながら
樹木や岩石を移動させると、罰せられますから。

(柳沼の 標識)


(柳沼)




(柳沼にて 自分撮り)


これで五色沼の3.6kmを走破しましたよ。

終着地点はこんな売店と、路線バスの停留所でんな。

車で訪れた方は、こちらか毘沙門沼の駐車場に停め置き
路線バスを片道を利用するのがベターですかな。

(裏磐梯 物産館)


15年前にはこんな物産館などは無くて、反対側の
道路から17時30分発の最終バスで猪苗代駅へ。

お隣には星野リゾートのホテル迄出来ていて
この辺りは随分と様変わりしたように思いますんや。

(裏磐梯の写真を 拝借)


晴れてたらこんな素晴らしい景色が見れまんねんで。

ここの駐車場に観光バスは先回りして待機中ですわ。

皆さん、ソフトクリームを食べて再びバスに乗車。

「岩塩=いわしお」というこの辺りで採れる岩塩を加えた
バニラソフトクリームが口当たりも良くて人気だとか?

集合時間が迫っていて2分で食べて走り込みましたがな。

だから~ 塩っぱい感じの記憶しか残ってまへんわ。

(桧原湖の 標識)


ここから桧原湖の西岸を眺めながら、ラーメンで有名な
喜多方の街を抜けて、バスは走って行きますんや。

ここからは、鉄ちゃん爺やも知らないコースになりまぁ。

(バスの車中より 桧原湖を眺める)




この湖も同じように磐梯山の噴火で明治時代に出来た
湖で、湖底には昔の集落が沈んでいるんだって。

水量が減ると昔の神社の鳥居が見えるとガイドさんが
説明されてまっけど、疲れたのか寝てる方が半数ですわ。

(磐梯山とも この辺でお別れ)


磐梯山の裏側を国道459号線は下って行きますんや。

のどかな会津地方の集落を見ながらの旅でしたよ。

喜多方の街から国道121号線を北上するようでっせ。

数年前に大峠トンネルなど、バイパスが完成し冬場でも
通行が出来る快適な国道になったんだって。

それまでは九十九折と呼ぶヘヤピンカーブが連続し
事故も多発する危険な、米沢街道とも呼んでいたとか。

昔は冬場には通行が出来ない雪深い難所だったんだね。

(国道121号線 大峠へ向かう車窓)




この大峠トンネル(3940m)は東北でも2番目に
長い道路トンネルだとのガイドさんのお話。

このトンネルが福島県の会津地方と、山形県の県境になり
峠を抜けると、山形県の米沢市に成るようですわ。

山形県では、この辺りを置賜地区(おきたまちく)と
呼ぶそうで、山形県の一番南の地区になるようでんな。

(国道121号線 山形県に入りました)


(米沢市の 観光用標識)


(米沢市の マンホールの蓋)


ここで、本日の昼食になる予定ですわ。

上杉15万石の城下町として有名な町でっせ。

鉄ちゃん爺やは、この瞬間に47都道府県の全てを
走破したことになりましたんでっせ。

祝! 47都道府県 完全走破完了。

(元上杉伯爵邸 入口)


(元上杉伯爵邸の 車寄せ)




最後の藩主・上杉茂憲さんが造った本邸なんだって。

庭園は浜離宮を参考にして造られた館で、皇族方も
お泊りになる宿舎に利用された由緒ある建物だとか。

戦後に上杉家から米沢市に譲渡されたようでんな。

(米沢の郷土料理)


上杉鷹山公が質素倹約に徹し、好まれた料理だとか
現在は米沢の郷土料理としてPRされているんだって。

(山形名物の芋煮)


山形県の各地で「芋煮」は味わえますが、ここ米沢は
牛肉を使った「芋煮」が一般的なんだって。

庄内地方などは豚肉を使った「芋煮」だそうですわ。

念のために、里芋が使われるのは各地共通でっけど。

米沢牛で有名な町だから、さもあらん~ と納得でおます。

(米沢牛の幟)


本日は、ここまでとしまひょ。

次回は上杉神社や上杉鷹山公などのお話をしまっさ。

ほんなら~ これで、さいなら~🎵








鉄ちゃん爺や 会津&出羽三山の旅へ  

2016-08-03 11:19:18 | 旅行
7月27日は我が家を朝の6時30分にスタート。

JR大阪駅にて AM8時の集合なんですわ。

1時間は掛かりまへんけど、ツアー旅行でっから
皆さんに迷惑が掛からないように、早めのスタート。

(JR大阪駅 中央コンコース)


(特急サンダーバード9号 発車案内)


大阪駅から北陸方面へ向かう特急列車は
全て11番ホームからになりますんや。

(11番ホームで乗車待ち)




(サンダーバード9号 大阪駅に到着)


JR大阪駅をサンダーバード9号はAM8時40分発車。

新大阪駅・京都駅・福井駅の三つしか停車しない最速の
サンダーバード9号で終着駅の金沢駅まで乗車。

新大阪駅と京都駅から乗車する方を含めて総勢が36名。

鉄ちゃん爺やを含め、単独で参加した方が4名だけ
残りは、夫婦連れの16組32名のご一行さまでしたんや。

旅の企画から40歳以下の方は、ご夫婦1組だけでした。

金沢駅にはAM11時13分 遅れもなく無事到着。

(JR金沢駅 北陸新幹線乗り換え口)




(昼食は 利家御膳)


金沢を代表する駅弁の一つで、約1時間だけ乗車する
北陸新幹線の車内で頂くことにしまひょ。

「はくたか562号」東京行きでっけど、下車は上越妙高駅
各駅停車で金沢駅から5つ目、ここまでがJR西日本管内。

上越妙高駅から先はJR東日本の管轄になりまんねんで。

蛇足ながら、乗務員さんの交代は2駅先の長野駅なんだって。

(北陸新幹線 上越妙高駅) (新潟県上越市)




上越妙高駅到着は定刻通り 12時58分着でした。

添乗員さんが発車案内の下で合図をされてまっせ。

右側が乗ってきた「はくたか562号」でんな。

関西では北陸新幹線の上越妙高駅で観光バスに乗り換え
東北や関東へ向かうツアーが最近は増えてますんや。

旅行社とJR西日本が団体向けに超割安料金を設定し
特急サンダーバード号と北陸新幹線を利用させる。

JR西日本管内の乗客を増やす企みでっしゃろか?

確かに飛行機を使うより割安でっけど、バスを含めて
ツアー旅行として時間的にはハードな感じがしまっけど。

(北陸新幹線 上越妙高駅 西口)


ここからは、観光バスで4日間お世話になりましたんや。

駅前は開業1年なんで、まだ田圃の真ん中ちゅう感じ。

接続する在来線は局地的豪雨で夕方まで運休だとか。

前途、多難なお天気を横目に観光バスに乗り込みまひょ。

(越後交通の 観光バス)


長岡市の本社からここまで回送してきたんだって。

越後交通と言えば、元首相の田中角栄さんが社長だったはず。

新潟では田中角栄さんを支えた中核的な存在の企業でしたかな。

現在でも田中家は、越後交通の大株主だとも聞いてまんねん。

ガイドさんによれば年配の方から、良くその話を聞かれるとか。

ガイドさんは小千谷(おじや)の出身だそうで、昔は
田中角栄さんの強力な地盤だった町だとか言われてましたな。

(北陸自動車道を 走行中の車内から)


高くはないけど、三角錐の遠くから目立つ山でっせ。

おそらく、米山という約992mの山だと思いまぁ。

この山を境に、向こう側が中越でこちら側を上越と呼ぶんだって。

昔の越後の国は、京都に近い地域から上越・中越・下越と分かれ
現在の新潟市は下越で、長岡市は中越になりまんねん。

当然ながら、上越市はこの名前にあやかって付けられたんでっせ。

(北陸自動車道 新潟・黒崎SAにて)




トイレ休憩は1時間ほど走って新潟市を遠くに臨む黒崎SAで。

この日は、ひたすら北陸自動車道から磐越自動車道を経由して
会津の猪苗代ICまで、ひたすら走り続ける旅行でおます。

山間部に入ると雨が降り、美しい風景は写せまへんでした。

(常磐自動車道を 走行中の車内から)




この辺りが新潟県と福島県の県境を走っている感じ。

さほど高い山は見えないけれど、山深い趣には感じられるかも。

(会津若松市を遠くに臨む)



会津若松の鶴ヶ城は遠くに見えてますが、デジカメでは無理。

磐越自動車道は、会津若松市の少し離れた処を通過してますんや。

(会津の名峰 磐梯山=ばんだいさん)


有名な磐梯山(ばんだいさん)は、この日も次の日もこんな感じ。

絵になる、お山なんだけど雨模様では仕方がおまへな。

雲に隠れて、美しい姿を見せてくれまへんでしたわ。

(ホテル リステル猪苗代)




今宵はこのホテルの10階が、我らの泊る宿でおます。

このホテルの裏側はスキー場になってるようでんな。

(ホテル10階の 廊下より山側のスキー場を)


(ホテル10階の 部屋より猪苗代湖方向を)




肉眼では猪苗代湖(いなわしろこ)が微かに見えてまっけど
鉄ちゃん爺やのポケデジでは、ダメのようでんな。

1枚目の画像の右側に微かに湖が見えてるんだけど~🎵

この日も、翌日の朝も同じような感じで、期待していた
猪苗代湖や会津・磐梯山の素敵な風景はお預けとなりましたな。

今回はこれぐらいで、お仕舞にしまっさ。

次回は裏磐梯の五色沼から米沢市への巻を紹介しまひょ。

ほんなら、これで、さいなら~🎵
























鉄ちゃん爺や   有馬温泉で同窓会

2016-04-02 15:52:13 | 旅行
久しぶりの有馬温泉へ行ってきましたで~♪

関西の奥座敷とも呼ばれ、大阪市内から約1時間
神戸市内からだったら約30分でこれますんや。

鉄ちゃん爺やも昔は会社の慰安旅行などで
良く利用しましたんやけど、25年ぶりかも?

(有馬温泉 兵衛 向陽閣)








      (兵衛 向陽閣さんのHPより 拝借)

      
      (兵衛 向陽閣さんのHPより 拝借)

有馬温泉は古くから知られた温泉で、日本書紀や
枕草紙にも記載されているそうでっせ。

豊臣秀吉が千利休などを引き連れて、たびたび
訪れ茶会がもたれたと記録にも残ってますんや。

私の宿泊した「兵衛」は豊臣秀吉公から名前を
授けられたと称する、由緒正しい旅館なんだって。

(有馬温泉の 兵衛 向陽閣 一の湯)


      (兵衛 向陽閣さんのHPより 拝借)

有馬温泉の湯は、湧きだした時は無色透明でっけど
空気に触れると酸化して、赤茶色に変わりますんや。

それで昔から「金泉=きんせん」と呼びまんねん。

酸化しない「銀泉=ぎんせん」もあるようですわ。

この金泉・銀泉は有馬温泉が商標登録してるんだって。

最近の研究では有馬温泉の湯は瀬戸内海ではなく
南海トラフの太平洋から潜り込んだ海水が
有馬附近の断層の割れ目から湧き出しているとの説。

ここは標高で300m~350mぐらいの山麓。

(有馬温泉の 温泉街)



有馬温泉には「坊」の付いた旅館やホテルがおますんや。

鎌倉時代の1191年(建仁2年)吉野の僧・仁西上人が
薬師如来の十二神将をかたどって、十二軒の湯治宿を建てた。

中の坊・北の坊・奥の坊・角の坊などの名前を付けたそうで
現在もその名前を引き継いでいるので「坊」が付けられた
旅館やホテルが有馬温泉に現在も存在しているんだって。

因みに兵衛・向陽閣は昔は北の坊と呼んでいたそうですわ。 

それでは、鉄ちゃん爺やの小学校の同窓会をお見せしまひょ。

(有馬温泉 兵衛・向陽閣にて 同窓会)









鉄ちゃん爺やは男性軍の奥から3人目に座ってまっせ。

紅顔の美少年や美少女も、まもなく後期高齢者でおます。

60年ぶりに再会した方や、鉄ちゃん爺やは暫く関東に
単身赴任していたので、20年ぶりの同窓会だったのかな。

ここ数年で、恩師や同級生が4~5人亡くなられたとか。

次回は2年先の喜寿に再会を願って、一夜の宴でした。

最初は名前と顔が一致しない戸惑いを覚えながらも
お酒が進むと、昔の幼馴染に戻った同窓会でした。

2年先も14名が全員そろって再会を願いたいでんな。



それでは、翌日に撮影した温泉街を紹介しまひょ。

(ねね橋 & ねねの銅像)



ご存じ太閤秀吉さんの正室「ねねさん」でおます
川向の湯けむり公園にある「秀吉さん」を眺めてはりまぁ。

有馬温泉では良く知られた撮影スポットでっかな。

(湯けむり公園 & 太閤秀吉の銅像)







(有馬川の 親水公園)





この日は朝から雪混じりの雨が降ってましたんや。

だから親水公園は立ち入り禁止で上からの画像のみ。

奥が六甲川で右手から湯川が合流して、ここからは
有馬川と名前が変わり、しばらく北上して
三田市の手前で武庫川の本流に注ぐようでんな。

(有馬温泉の 温泉街)







(有馬温泉の入口 太閤橋)



橋の向こう側にバス停がみえてまぁ、JRなど路線バスは
ここが終点で、阪急バスのみは温泉街に乗り場がおまっせ。

阪急バスさんは昔から宝塚や大阪からバス路線を持っていたので
現在も温泉街に乗り入れる、権利をもっているようでんな。

(神戸電鉄 有馬温泉駅舎)







(有馬温泉の マンホールの蓋)



有馬温泉の街外れにロープウエーが有って六甲山へは
簡単に登れるようになってますんや。

雨が降らなければ、六甲山へと考えたようでっけど
雪混じりの雨では、視界も悪く諦めたとの話。

それでは~ 兵衛・向陽閣さんの旅館へ戻りまひょ。

(横山大観さんの 絵画)



横山大観さんが宿泊された際にお願いして描かれた物で
おそらく、本物でお値段も凄く高価なものでしょうな。

(兵衛 向陽閣 温泉への通路)





(有馬温泉 中の坊 瑞苑)



中央の湯煙が見えるのが有馬温泉で老舗の高級旅館。

中の坊・瑞苑さんで、12歳以下の子供連れでは
入館できないという、珍しい旅館として有名なんでっせ。

なんでも大人の方が、ゆっくりと、おくつろぎ頂く宿で
お子様連れのお客様には、姉妹館の有馬グランドホテルを
ご利用くださいませだって。

因みに1泊が1名 3万円~5万円ぐらいしますかな。

(鉄ちゃん爺やが 宿泊した13階から撮影)



丹波方面の山並みが一望できるようなお部屋になってまぁ。

手前に見えるのが阪神高速の北神戸線で左へ約15kmほど
進むと、明石大橋を渡り淡路島や四国の鳴門方面へ行けまっせ。

(有馬温泉の名物 炭酸せんべい)





(有馬温泉 名産品 人形筆)



筆の穂先を下に向けると、上の方から人形が出てきます
穂先を元に戻せば、人形は内部に格納される仕組みでんな。

(南蛮 鎧兜)



九鬼家に伝わる家宝で豊臣秀吉公から拝領したとの説。

江戸時代は、近くの三田市のお殿様だったそうです。

(阪急バス 有馬温泉乗り場)



このバスで大阪の梅田へ戻ることになりましたんや。

今日はこれでお仕舞にしまっさ。

次回は鉄ちゃん爺やの、地元の桜を紹介させてもらいまひょ。

ほんなら~ これで、さいなら~♪








鉄ちゃん爺やの  広島紀行 パート5

2016-03-26 14:17:10 | 旅行
広島市内にはアストラムラインと呼ぶ
新都市交通の乗り物がありまんねんで。

早う~、言ったらモノレールのような感じ。

1994年(平成6年)8月20日に開業

大通り駅 ~ 広域公園前駅間 18.4km

(1000系 アストラムライン)



広島市の繁華街や県庁のある大通り駅から
時計とは逆回りで円を描いて4分の3周して
広域公園前駅が終点になってますんや。

何で~ こんな処で終点やと考えたんでっけど、
平成30年頃までにJR西広島駅まで延伸するとか。

JRを交えて360度で広島市内を一周しまんな。

なるほど~ これで鉄ちゃん爺やも納得ですわ。

平成30年じゃ鉄ちゃん爺やは生きてないかも。

(JR新白島 駅名標)



(アストラムライン 新白島駅舎)



新幹線も停まるJR広島駅は政令指定都市なのに
繁華街や原爆ドームのある地区とは離れてますんや。

JR広島駅前から広電と呼ばれる路面電車か、もしくは
バスで移動しなければならない、不便な町でしたんや。

広電の路面電車が黒字だと言うのも納得ですわ。

だから娘の自宅へはアストラムラインの大通り駅まで
高い電車賃を2回払って、遠回りする感覚でしたで。

JR在来線とアストラムラインが2015年3月から
互いに新駅を開業して、少し便利になったのかな。

鉄ちゃん爺やも娘の自宅へは、この新白島駅で乗り換え
時間短縮も出来たし、行動が随分と楽になりましたで。

一寸、アストラムラインの不動院駅で途中下車しまひょ。



広島市は原爆が投下されたもんで、市内に残る
国宝はこの不動院の金堂が唯一なんでっせ。

お隣の宮島・厳島神社には沢山おますんやけど。

あそこは廿日市市で広島市とは違いまんねん。

(国宝 不動院 金堂)(大修復後 2016年)




1540年(天文9年)の墨書が建物に残っていて
建立されたのが、室町時代だと判るんだって。

このお寺の南側が牛田山の裾野に成っている関係で
原爆が投下された日も、屋根が破損したのと柱が
1本だけ壊れたのみで、倒壊を免れたと書いてまんな。

爆心地から北へ約4kmぐらい離れてますんや。

(不動院 楼門) (国の重要文化財)





原爆が投下された日の惨状が書かれてますんで
読んで貰った方が、良いかなと思いまんねん。

国宝の金堂は被爆建物として認定されてるだって。

(不動院 鐘楼) (国の重要文化財)



新しく塗り替えられてまっけど、金堂より古く
1433年(永享5年)の建築だそうですわ。。

この不動院は足利尊氏が全国に建てた「安国寺」の
一つで、当時は臨済宗のお寺でしたんや。

戦国時代の戦乱で衰えていたのを、安国寺恵瓊が
山口市に在った大内氏の菩提寺から移設したのが
現在の金堂の建物だと伝えられてるようでっせ。

安国寺恵瓊は関ヶ原の戦い後に処刑されてしまい、
毛利氏も長門の国に移され、福島正則が変わって
入国し臨済宗から、真言宗に改宗させたんだって。

本尊が不動明王なので現在は不動院と呼ぶそうで、
本堂を見れば禅宗の建物で違和感がおますかな。

真言宗と言ったら密教系のお寺でっさかいに。

江戸時代には安芸42万石浅野家の篤い保護を受け
由緒あるお寺なんでっけど、現在は訪れる人もなし。

広島市内では唯一の国宝なのに残念な事ですわ。

一寸だけ脱線して西条の街へ出かけてみまひょ。

(JR山陽本線 西条駅舎)



西条は古くから栄えた宿場町で、西国街道が通り
現在は灘・伏見と並び日本三大酒造の街と言われ
呑んべぇ~ には必見のところでっしゃろな。

現在は東広島市という味気ない名前が付いてまっけど。

(東広島観光協会の 観光マップ)



(西条の酒造メーカー 七社)



現在は酒造メーカー七社が町興しの一環として
工場内の一部を一般公開し、試飲が出来ますんや。

七社を全て回って試飲したら、結構と酔いまっせ。

赤レンガの煙突と白壁の街を2~3紹介しまひょ。

(西條鶴酒造)



(福美人酒造)











名前が素敵で若い女性の見学者が一番多いとか。

ここには珍しい色紙が飾られてますんや。

歴代の総理大臣が「國酒」と書いた直筆でっせ。

(歴代総理大臣 直筆の色紙)



大平元首相が中国で「白酒=パイチュ」の乾杯を受け
我が日本には日本酒がある「國酒」と呼んだのが最初。

でも公式の場では日本は今もワインを使ってますかな。

だから~ 太平さんより以降の総理が全員「國酒」と
色紙に書いて酒造メーカーに飾ってあるんだそうな。

本物は日本酒造協会に保存されているのかしら。

それとも献金をして直筆を頂戴したのかしら?





達筆も有り、それほどでもないのもあり~

西条では福美人酒造さんだけにしか飾ってない?

本物かレプリカなのか聞き忘れましたんやけど。

最近は「焼酎」も「國酒」と呼ぶんだって?

(町のマンホールもこんな感じ)





お酒の街をPRしたマンホールの蓋でっしゃろ。

最近になって町興しで新しく作ったようでんな。

9年前に訪れた時には下に張り付けました
こんなデザインでしたんや。

今も駅前から離れるとそのまま残ってまっけど。

(東広島市 西条 マンホールの蓋)



(賀茂鶴酒造)





西条で一番大きなメーカーで、娘が独身時代に
会社で取り扱っていた「賀茂鶴」なんで大阪でも
なじみの深いお酒で、私も良く飲みましたんや。

実は鉄ちゃん爺やがデジカメを動画にセットし
知らないで撮影してしまい失敗の巻きでおます。

色んなお酒を賀茂鶴さんで6杯も飲んだから
酔っぱらっていたのかしら?

残念ながら、この2枚だけしか写ってまへん。

(賀茂鶴酒造 酒粕 かりんとう)



「かりんとう」だから甘いんでっけど、なんとなく
賀茂鶴のお酒の香りが口の中で広がりまっせ。

酒の粕を利用して作られたお土産のよですわ。

娘のリクエストで買って帰り2人で食べましたで。

内の奥さんはお酒が飲めないのでパスでしたけど。

娘の話では七社とも味が違うと言ってましたわ。

(亀齢酒造=キレイしゅぞう)







広島のお酒は甘口が多いんでっけど、亀齢さんのは
辛口でキリットした味に感じましたで。

先祖は毛利家の家臣だったとか、酒蔵には毛利の家紋が。





(旧の西国街道)





(御茶屋 本陣跡)



安芸の国主である浅野家のお殿様は広島城を出て
最初の休憩は、ここ西条の御茶屋でされたんだって。

浅野家は大藩なので、ここも含めて9か所も
西国街道筋に御茶屋を持っていたそうですわ。

備後の尾道市まで浅野家の領地でしたからね。

参勤交代の大名も利用した御茶屋と書かれてまぁ。

(酒蔵通りの 標識)



それでは最後は広島港の方へ向かいまひょ。

ここは最初に書いたアストラムラインの
起点で大通り駅は地下になってますんや。

地上にでるとこんな感じの繁華街でんな。

(大通り駅前の 繁華街)



このアーケドを奥の方へ300mぐらい進むと
原爆ドームの側にある元安橋のたもとに出まっせ。

それでは広電の路面電車に乗ることにしまひょ。

(広電の最新型 路面電車)



(広島港のターミナルビル)





(広島港から 安芸小富士を撮影)



直ぐ目と先にある「似島=にのしま」という島の
北側に聳える富士山を小さくしたような美しい山で
標高は278mで、「あきのこふじ」と読みまっせ。

この島が広島市内では一番南の端になるとのこと。

広島市内からも少し高台になれば良く見える山で
終戦までは陸軍の検疫所が置かれていたんだって。

原爆の投下の後は1万人もの被災者が収容されて
多くの方が亡くなったので慰霊塔もあるそうでっせ。

カメラを左へ振ると、江田島の北側が遠くに見えまぁ。

(広島港から 江田島を望む)



ここからは江田島が大きくかぶさっているので
呉市の街並みは見えまへんけど。

(旧 宇品港の基礎石)



現在は広島港と呼んでますが、戦前は宇品港と言いました。

九州を除く西日本の兵隊さんの多くが、この宇品港から
中国本土や南方に送られ、その半数の方々は生きて再び
祖国の地を踏むことなく、旅立った悲しい歴史がおます。

そんな「宇品港」だったと、忘れてはならない所ですかな。

何せ広島市は軍都と呼ばれ当時はこの港まで、国鉄の線路が
有って、輸送船で兵隊や軍需品を送り出す重要な港でした。

そんな訳で、原爆の投下される大きな原因にもなったとか。

現在は観光船が行き交う静かな港ですが、原爆の被害と共に
ここ宇品港の悲しい歴史も、若い人々に語り継がれるのかしら。

長くなりましたので、鉄ちゃん爺やの広島紀行は
これにてお仕舞とさせて頂きまっさ。

OCNフォトフレンドから貼り付けました画像が4月以降
どうなるのか、実験を兼ねて今回もピックアップしました。

画像が消滅するかもしれまへんので、その節はご容赦のほど。

次回は同窓会で有馬温泉へ行ってきましたんで
その際の画像などでも紹介しまひょかな。

ほんなら、これでさいなら~♪




鉄ちゃん爺やの  広島紀行 パート4

2016-03-19 20:49:00 | 旅行
広島県で訪れたいベスト.3

鉄ちゃん爺やの独断と偏見でご免なさい。

(厳島神社)







(原爆ドーム)







(大和ミュージアム)





厳島神社と原爆ドームは皆さんも納得されまっしゃろ。

三番目の「大和ミュージアム」はご存じがないかも?

正式には呉市海事歴史科学館と呼びまんねん。

愛称の「大和ミュージアム」として人気上昇でっせ。

2009年(平成21年)に入場した当時の画像を
OCNフォトフレンドに残してますんや。

フォトフレンドが3月末で廃止と決まりましたんや。

今回に訪れた画像と7年前の画像を合わせて紹介しまひょ。


(大和ミュージアム 館内)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

戦艦大和を10分の1サイズで忠実に再現した模型なんだって。

新しい事実が判明したら現在も修正が実施されるとの事。

既に一度だけ、偵察機用の装置があったので変更したとも。

大和ミュージアムは2005年(平成17年)4月に開館

2015年(平成27年)5月に入場者が1000万人に
到達し、1年間で約100万人が訪れたことになりまんな。

地方都市で年間100万人の入場者を集める博物館や美術館
など、あまり聞いたことがないと思いまんねん。

因みに東京国立博物館の入場者が年間で約200万人だとか
東京の超有名な博物館と比較するのもどうかと思いまっけど
参考に書き込んでおきまひょ。

(戦艦大和から 引き揚げられた遺品)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


呉市は戦前は海軍の軍港と大規模な海軍呉工廠として
戦後は造船の町として、世界最大のタンカーなどを
現在も建造をつづけているそうですわ。

戦前は海軍の街として、戦後は海上自衛隊とアメリカ軍の
陸軍の施設など、今も昔も「海軍さん」の街でっかな?

そんな訳で、大和ミュージアムは平和と防衛を考える
教育の場として、修学旅行生が原爆ドームと合わせて
全国から訪れる施設と、なっているようでっせ。

戦艦大和と共に戦死した乗組員の多くの方の写真が
大和の遺品コーナーの壁に掲げられていますんや。

まだ、20歳前後と思われる若者が大半のようでした。

もはや必要のない沖縄への特攻作戦で若い命が多く失われた
戦争の悲劇を、改めて訴えているように感じた次第。

(零式戦闘機 六十二型)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

日本海軍が誇るエース機で終戦まで約1万機が製造されたとか
現在まで完全な姿で残る、数少ない本物なんだって。

零式戦闘機の中でも終戦間際に特攻機として製造された型で
琵琶湖に不時着した物を、戦後に引き揚げて再現させたとか。

搭乗者の方が生存していて、忠実に復元されたとの説明が。

他にも色んな日本海軍の兵器などが展示されてますが
館内の紹介はこれぐらいにしておきまひょ。

大和ミュージアムの外にもこんな物が飾られてまぁ。

(戦艦陸奥の 主砲の砲身)(41cm砲)







太平洋戦争中の1943年(昭和18年)6月に
山口県岩国市の桂島沖で謎の爆発で沈没した軍艦。

鉄ちゃん爺やが生まれた頃には戦艦長門と共に
日本海軍と言うよりも、世界一の軍艦でしたんや。

戦艦陸奥は横須賀の海軍工廠で造られた軍艦なので
呉の海軍工廠で造られた戦艦長門のが欲しいでっけど。

実のところ戦艦長門は戦後にアメリカ軍の原爆実験で
ビキニ環礁で実験に提供されて沈没してますんや。

放射能に汚染もされているので引き揚げは不可能か?

そんな訳で戦艦陸奥の遺品が置かれてるようですわ。

(戦艦陸奥の スクリュウ&舵)





昭和の大改装で排水量約39000トンで最大速力が
約26ノット(時速約47km)で航行ができたとか。

この戦艦陸奥は現在も桂島沖に半分ぐらい沈んでいて
過去に引き揚げられた部品や鉄は貴重品扱いだって。

戦前に造られた鉄なのでストロンチウム60を含まず
「陸奥鉄」と呼ばれ原子力発電所や放射能遮断材として
福島の原発事故での魚類検査にも使用されてますんや。

現在も放射能に汚染されているかどうかを検査してまっせ。

戦後に作られた鉄はストロンチュウム60を若干ながら
含むとかで、戦前の軍艦の鉄が意外な再利用でっしゃろ。

(大和ミュージアム 10周年の幟)



「なんでも鑑定団」の石坂浩二さんが手に入れた貴重な
戦艦長門の軍艦旗を大和ミュージアムに寄贈されたそうな。

そんな訳で、大和ミュージアム開業10周年にあたり
現在は石坂浩二さんは名誉館長さんに就任されてますんや。

(海上自衛隊 呉地方総監部)







旧海軍のレンガ造りの建物が現在も使用されてまっせ。

戦前までは日本海軍の呉鎮守府と言われてましたんや。

アメリカ軍の空襲で破損したが修復されたとのこと。

ここも日曜日に事前予約で一般公開されてまっせ。

小高い丘の上から呉港を見下ろすように建ってまんな。

(呉港に入港するフェリー)





(戦艦大和を 建造した浮きドック)



最近まで使用されていたそうですが、現在は保存処理中?

壁には「大和のふるさと」なんて大きく書かれてまっせ。

この造船所を呉港側から撮影するとこんな感じ。

(呉港から 現在の造船所を望む)





進水式を終えて艤装の工事をしているんでしょうな。

戦前は海軍の呉工廠の跡で現在はIHIという会社。

現在も大型船を建造できる日本有数の造船工場でっせ。

(呉市 海軍カレー)





現在も海上自衛隊の金曜日にはカレーが出てくるんだって。

これは海上勤務で曜日が判らなくなるので、昔の海軍では
土曜日にカレーを水兵さんや士官さんも食べたんだそうな。

現在は土日がお休みになるのか、金曜日がカレーの日。

呉市では海上自衛隊のカレーの味を出来るだけ忠実に再現し
十数か所の食堂やレストランで提供しているんだって。

護衛艦や潜水艦の厨房の方の指導を受けて、○○のカレー
なんて、本物に近い味を食べられるとの評判でっせ。

呉市観光協会などが主催の、町興し常設イベントだそうな。

カレーの画像は2年前の物で、当時はまだ有名ではなかった。

(JR呉線の 車中より江田島を撮影)





それではJRの電車で広島市内へ戻ることにしまひょ。

JR呉駅からJR広島駅まで快速なら約30分でっかな。

(115系 JR西日本 広島支社)





瀬戸内海の特産品ミカンを象徴するラッピング塗装でっせ。

新型227系が順次に投入されてますので、製造後40年
そろそろ引退が近いはずで、次回には見れない電車かも。

何せ国鉄時代からのロートルでっさかいに、お疲れさま~

(227系 JR西日本 広島支社)







広島カープの赤ヘルを真似たのかは、定かじゃおまへん。

広島市を中心にJR広島支社専用の新型電車でっせ。

レッドウイングとの名前で昨年から投入されましたんや。

(JR広島駅前で 自分撮り)





政令指定都市だと言うのにJR広島駅前は、少し貧弱でした
現在は急ピッチで駅前再開発が進められてますんや。

(工事中の JR広島駅前の高層ビル)





このビルは完成したら広島市で一番高いビルになるのかしら?

左側にも一つビル建設が始まっているので、JR広島駅前が
やっと政令指定都市らしくなるんでしょうな。

(広島市の太田川左岸より撮影)



奥の山は武田山と言います、昔の銀山(かなやま)城址で
安芸の守護だった武田氏の拠点だったそうですわ。

毛利元就と何度も安芸の国の覇権を争った舞台でんな。

現在は山陽自動車道がトンネルで岩国市の方へ抜けてまぁ。

娘の自宅はこの山の手前約1kmぐらいのところですわ。

(山陽自動車道 広島北IC附近)



高速道路の向こう側が二年前の大雨で土石流により
大災害を起こした山で、麓が八木地区になりますんや。

JR芸備線の安芸矢口駅の跨線橋から写しましたで。

(山陽自動車道路 八本松トンネル附近)





又もや悲惨なトンネル事故が発生しましたね。

亡くなられた方のご冥福をお祈りしておきます。

鉄ちゃん爺やが広島へ行く際は何度も通るルートでっせ。

これにて、今回はお仕舞にしまひょ。

次回は広島紀行の最終編としまっさ。

ほんなら、さいなら~♪


















鉄ちゃん爺やの  広島紀行 パート3

2016-03-12 16:30:02 | 旅行
今回は「音戸の瀬戸」と呼ばれる処でっせ。

広島県の呉市におますんや。

取りあえず音戸大橋からお見せしまひょ。

(音戸大橋=おんどおおはし)



この音戸大橋は本土側と対岸の倉橋島をつなぐために
1961年(昭和36年)に完成したそうでんな。

全長が172mあり、ここが音戸の瀬戸の一番狭い
海峡で倉橋島と呉市の本土側をつないだようですわ。

日本初のループ橋として当時も話題になりましたんや。

呉市の警固屋(けごや)と倉橋島の音戸町との一番
狭い海峡は約90mしかなく、しかも渦を巻く急流で
最大の流れは時速約10kmにもなる海の難所だとか。

しかも岩礁があり船が航行できるのは幅約60mだけ。

ここは平清盛の「日招きの伝説」でも知られてまぁ。

「日招き(ひまねき)の伝説」と読んでくださいね。

(平清盛 日招きの銅像)(レプリカ)





本物は山の頂上におますんで、レプリカでご免なさい。

平清盛が厳島神社の姫君の要望を受けて音戸の瀬戸を
一日で掘削して、水路を完成させたとの伝承でおます。

その際に沈みゆく太陽に向かい「帰せ 戻せ」と呼べば
太陽が舞い戻ってきて、無事に工事が完了したんだって。

平家が全盛時代の逸話で歴史的な記録はおまへん。

(日招きのパネル)





それじゃ~ 音戸の瀬戸の海峡を南東側から北側へ向けて
3枚の連続画像でお見せしまひょ。

1枚目の左手が瀬戸内海で天気が良ければ四国の最高峰
石鎚山が遠くに見えると書かれてましたで。

松山から呉・広島へ向かう観光船が、ここを通過する際には
速度を落として周囲に注意しながら航行するんだって。

その観光船が呉港の方へ向かっているのが写ってまんな。

画像で見える奥の大きな島を倉橋島と言いますんや。

(音戸の瀬戸への航路)







ここからは「音戸の瀬戸」と呼ばれる個所が見えないので
デジカメ撮影しながら海岸まで降りて行きまっせ。

途中でこんな文学碑を発見しましたんや。

(吉川英治さんの 文学碑)





吉川英治は「新平家物語」の取材の為に訪れて
「君よ今昔の感 如何」と呼びかけたそうな。

吉川英治の自筆を富士山形の石に刻んであるとか。

当時はまだ音戸大橋はおまへんでしたけど。

反対側には一昨年に新しく開通した第二音戸大橋が。

(音戸の瀬戸公園から 第二音戸大橋を撮影)



(音戸の瀬戸公園の絵地図)



設置されたのが古いんでしょうな、第二音戸大橋が
点線で描かれているので完成予定ちゅうことでんな。

ここまで降りてきたら音戸大橋が見えてきましたで。

(音戸大橋とツーショット)





(音戸大橋の 警固屋=けごや側)





歩いて音戸大橋を渡ることも出来まっけど、なにせ
歩道の幅は50cmぐらいしかないので危険ですわ。

ループ式の取り付け道路も同じで、車に注意しながら
歩いたり、停まったりして山を下りてますんや。

国道487号線は呉市の本土側では山を削ってループ式の
取り付け道路になってまんねん。

道路の左右には「ツツジ」が植えられてるようですわ。

4月下旬ツツジが満開の頃は絵になる風景でっしゃろな。

(ループ式の 取り付け道路から撮影)



反対の方は第二音戸大橋の全体が見えるようになりましたな。

こちらは音戸大橋が無料開放されてから、通行量が増えて
渋滞も生じるので、広島県が2013年(平成25年)に
新しく架橋した物で全長が492mのアーチ橋でっせ。

通称を「日招き橋」と地元では呼ぶんだとか。

(第二音戸大橋 下山中に撮影)





(音戸大橋へ 取り付け道路の分岐点)



車に追っかけられ、やっと海岸まで降りましたがな。

ここには日本で一番短い渡し船が健在なんだって。

なんでも300年もの歴史がある渡し船のようでっせ。

(音戸の渡し船)





鉄ちゃん爺やが取り付け道路を降りてきたように
危険であり、登って橋を渡り、それから再び下る。

住民の為にも、橋が出来てからも渡し船は廃止が
出来なかったとか、現在も片道が70円で運航中。

この音戸の瀬戸が実際にどれぐらい狭いのかを
次の画像でお見せしまひょかな。

(音戸の瀬戸 & 音戸大橋)





娘は旦那の実家が松山の関係で、この音戸の瀬戸を
瀬戸内汽船で何度も通過したことがあるんだって。

海と言うより川の中を進んでい行くような感じだとか。

1000トンクラス以下の船しか航行できないそうで
中央部で、水深も約4m~10mぐらいしかないとか。

当然ながら船同士が並走したり追い越したりは禁止。

すれ違う船は、お互い右に舵を切り衝突を避けるんだって。

反対側の第二音戸大橋の方も撮影してみまひょ。

第二音戸大橋の向こう側は呉市の市街地になりまっせ。

(第二音戸大橋)





こちらは呉方面から音戸・警固屋バイパスで山の中腹から
第二音戸大橋を渡って倉橋島へ入る構造になってますんや。

この第二音戸大橋はアーチ橋では国内第4位なんだって。

戻ってから第二音戸大橋は歩いて渡れると知りました。

次回は歩いて倉橋島に渡ってみるのも良いでんな。



それでは呉市の海上自衛隊の潜水艦基地へ向かいまっせ。

(広電バス 音戸渡し船前 停留所)





まだ時間が有るので「アレイからすこじま」で途中下車。

目の前で潜水艦が見れる、日本ではここだけかな?



(海上自衛隊の 潜水艦)







この日は日曜日でしたんや、毎週ながら日曜日には
海上自衛隊の艦船の内部を一般に公開してますんや。

10日前までに予約が必要なんで、鉄ちゃん爺やは
護衛艦の近くへは行けまへんでした。

広島県内では人気のあるイベントやそうでっせ。

(海上自衛隊の護衛艦)







(旧海軍 呉軍港のクレーン)



艦船に魚雷を積み下ろしするのに使用した物だとか。

旧呉軍港に残る数少ない海軍の遺物なんだそうですわ。

(旧海軍 呉工廠のレンガ倉庫)





戦後に民間に払い下げられたようで、現在も
営業倉庫として使用されているようでんな。

レンガ造りの倉庫は鉄ちゃん爺やが勤めた会社にも
おましたが、現在は全国的に少なくなりました。

(周辺施設の説明図)



(アレイからすこじま)



潜水艦の向こう側に遠く写っているのは江田島です。

海軍兵学校の校舎や講堂が今も残っているそうですわ。

今回は時間がないので江田島はパスしまっさ。

(海上自衛隊 敷設艦 むろと)(4900トン)





艦船のナンバーから、この船だけ船名が判りましたよ。

日本に1隻しかない機雷敷設や通信ケーブルを敷設する
艦船で、呉の対潜支援群に所属するそうです。

秘密の多い艦船で詳細の多くが発表されていませんよ。

2013年(平成25年)に竣工した新鋭艦なんだって。

(JR呉駅舎)





(JR呉駅前 バス停)



本日はこれでお仕舞にしまひょ。

実はOCNのフォトフレンドが今月末で
廃止になりますんや。

そこに、2009年に呉市を訪れた際の
大和ミュージアムの画像が残ってますんや。

いずれ、使用できなくなるので、次回は
今回の画像と合わせて呉市の人気NO.1
大和ミュージアム他を紹介しまっさ。

ほんなら、これでさいなら~♪









鉄ちゃん爺やの  広島紀行 パート2

2016-03-03 21:36:31 | 旅行
安芸高田市(あきたかたし)を紹介しまひょ。

広島市や呉市それに尾道市や福山市などは
ご存じでも、安芸高田市は広島県民でなければ
地図で確認しないと、分からないでしょうな。

広島県の北部で中国山地の中央辺り高田郡と
呼ばれてましたが、平成16年3月1日に
6町が合併し安芸高田市と成りましたんや。

(安芸高田市 観光ガイド)



中心になるのが吉田町で、戦国時代に有名な
毛利元就(もうりもとなり)が生涯を過ごした
郡山城址が、ここ吉田町におますんや。

毛利元就は西国最大の戦国大名に成るんですが
織田信長や武田信玄や上杉謙信らと比較すると
歴史上では地味な感じがしまっしゃろ。

(毛利氏の 略系図)



鎌倉時代の創業期に事務方としてトップを担った
大江広元が毛利の荘(もりのそう)を拝領し
彼の四男である季光(すえみつ)が武士として
初めて毛利氏を名乗ったようでんな。

相模川の上流で現在の神奈川県厚木市になるんだって。

毛利季光は北条得宗家や相模の豪族三浦氏とも
婚姻関係にある、有力な鎌倉武士でしたんや。

宝治合戦と呼ばる北条家と三浦家との戦いで
妻の実家である三浦氏側に付いて一族が滅亡。

たまたま毛利季光の四男・毛利経光(すけみつ)が
越後の国に在住していた関係で、宝治合戦に参加せず
毛利家ではただ一人、生き残ったそうですわ。

毛利の荘は没収されたけど、毛利経光は鎌倉武士として
毛利と称する本貫の地名を名乗り続けたようでんな。

(郡山城・城下町 案内図)



毛利時親(もうりときちか)と呼ぶ方が越後の所領を
一族に譲り安芸の国は吉田の荘に移ったのは
丁度、南北朝の始まる1336年(建武3年)でした。

越後の国(現在の新潟県)は現在では米どころですが
当時は安芸の国の方が将来性が考えられたようでんな。

中国との交易など、時代は東国の鎌倉から都の京都や
瀬戸内海を経由した山陽道や九州へ変化していく時代。

(安芸 毛利一族  河合正治著)



そんな訳で、毛利時親(ときちか)が江戸時代に続く
長州の毛利家では初代とされているそうですわ。

親子が南朝・北朝に別れたり、応仁の乱で東軍から西軍に
鞍替えしたり、外敵との戦いに明け暮れる多難な時代を経て
一代の英雄である毛利元就(もうりもとなり)の登場でっせ。

前置きが長くなりましたが歴史民俗博物館へご案内しまひょ。

(安芸高田市 歴史民俗博物館)





鉄ちゃん爺やは8年ほど前に一度訪れたんでっけど
月曜日が休館で見学できなかったことがおました。

考えたら、普通は博物館などは月曜日が休館日でんな。

機会を見つけての、今回が二度目の訪問でおます。

当然ながら撮影は禁止でっけど、内緒で3枚だけ。

(安芸高田 歴史民俗博物館 展示場)







毛利元就(もうりもとなり)が兄と甥っ子の急死で
家督を継いだのが1523年(大永3年)のことでした。

吉田郷の村長さんから、スタートしたちゅうことでんな。

西の大内氏や北の尼子氏に挟まれて、二股膏薬のように
服従をしなければならないのは、小国の常でしたんや。

その大内氏や尼子氏を滅ぼして山陽山陰の7か国に合わせ
九州の一部を支配下に置く大国に導いたのが毛利元就で
戦乱に明け暮れながら、毛利家隆盛の48年間でおました。

1571年(元亀3年)に郡山城で生涯を終えられました。

(展示されている 鎧兜)









希望者は鎧兜の武者姿に変身して写真を写せるんだって。

鉄ちゃん爺やの老武者じゃ、さまにならないのでパス。

毛利家の家紋は「一文字 三つ星」と呼ぶそうでんな。

それじゃ郡山城の麓を散策しまひょかな。

(三矢の訓跡 石碑)





「一本の矢はたやすく折れるが、三本を束にすれば折りがたい」

死の直前に三人の息子を前にして一族の結束を説いた有名なお話。

江戸時代の書物に出てくる話で、真偽のほどは不明でおます。

長男の隆元は早く亡くなるも、孫の毛利輝元を叔父である
吉川元春と小早川隆景が協力し120万石を支えたんだって。

世間は吉川の「川」と小早川の「川」を両川と称え毛利本家を
末永く支え続けたので、明治維新まで毛利本家は安泰だったとか。 

(郡山城址の石碑)







毛利家の祈願所であった清神社(すえじんじゃ)へ行きまひょ。

この神社には1325年(正中2年)の棟札が残ってるそうで
毛利家が越後から移ってくる前からある古い神社のようでっせ。

(清神社=すえじんじゃ)







この神社はサッカーJ1・サンフレッチェ広島が毎年この社殿で
メンバー全員で勝利の祈願をするのが年中行事に成っているんだって。

因みに、ここ安芸高田市にはトップメンバーの練習グランドが有る関係で
マザータウンと称して、交流を続けているようでっせ。

ご存じでしょうが、サンフレッチェの名前も日本語の「三」と
イタリヤ語の「フレッチェ=矢」から合成して作られてますよ。

(サンフレッチェ広島 ユニフォーム)







この神社の境内には樹齢約千年と言われる杉の大木がおます。

(清神社 境内の杉の大木)









(安芸高田市の マンホールの蓋)



この「百万一心」も毛利元就の伝説から出てますんや。

百万の字を書き崩して「一日一力」とすることで

皆で力を合わせれば何事も成し得るとの格言でっせ。

毛利元就が城の石垣を築く際に、従来は人柱を埋めたのを
「百万一心」と彫った石を人柱に変えて埋めたんだって。

(安芸高田市 市民ホール前)



国道54号線の交差点から郡山城址を眺めてみまひょ。

頂上まで登れば市街地が一望できるんだけど 
広島市内へのバスが1時間に1便しかない。

残念ながら毛利元就のお墓や本丸跡はパスでんな。

(安芸高田市 郡山城址を望む)







山の中腹に毛利家の家紋が見えている辺りが、室町時代の
本丸跡で毛利元就の晩年には全山が砦になったようでっせ。

それじゃ~ バスで広島市内へ戻ることにしまひょ。

娘の自宅までは約30kmぐらい片道990円でした。

(広電バス 吉田線)



(広電バス 車中より撮影)





道路標識には「桂」という地名が見えてまっしゃろ。

明治維新に活躍した桂小五郎や明治の総理大臣桂太郎
彼らの先祖はこの吉田郷の桂という地区の小豪族。

模型で桂の右側には「福原城」も見えてまんな。

毛利家の重臣である「福原家」の出身地でんな。

蛇足ながら毛利元就の生母は福原広俊の娘なので
この福原城で誕生したと言われてるようでっせ。

(江の川 支流の可愛川)



中国地方の一番大きい川で、ここから三次市を経由して
島根県の江津市で日本海へ注ぐ大きな河川でっせ。

ここから10kmぐらい広島寄りに分水嶺がおます。

広島湾までは約40kmぐらいしかおまへんので
本州で太平洋側(瀬戸内海)に一番接近している分水嶺。

逆に日本海の島根県まで、およそ150kmぐらいかな?

標高も150mぐらいの見落とすような村落でっせ。

途中下車したら1時間待ちやから通過しまっせ。

(安芸高田市 上根の分水嶺)





二枚目の画像で前方から峠を登ってくる車が見えまっしゃろ。

あそこの登り切った処が分水嶺になってまんねんで。

片峠で登り切ったら何のへんてつもない集落の平坦地。

向こう側は広島湾に注ぐ太田川支流の根谷川でんな。

上根集落は日本海に流れる江の川の支流になりまっせ。

(分水嶺を越えて 広島市安佐北区へ)







最後に安芸高田市に残るお神楽と子供歌舞伎を3枚
貼り付けてお仕舞にしまっさ。

(安芸高田市の お神楽)





(安芸高田市の 子供歌舞伎)



次回は広島県の呉市の音戸の瀬戸を紹介しまっせ。

長くなりましたので、今日はこれで、さいなら~♪





































鉄ちゃん爺やの  広島紀行 パート1

2016-02-25 20:56:15 | 旅行
2月18日~2月22日まで広島へ行ってましたんや。

5回ぐらいに分けて隠れた名所を紹介しまっさ。

先ずは、鉄ちゃん爺やの失敗話から始めまひょ。

(新幹線 さくら259号)







実は「さくら259号」に乗ろうと指定券を求めたら
家内と横並びの席が取れない、「のぞみ29号」に変更。

ホームに登ってから隣を見たら「さくら259号」の
自由席は、ありゃ~ 半分ぐらい空席がおますがな。

しまった! 新幹線さくら号は新大阪駅が始発だった。

鹿児島中央駅へ直行の列車だから、座れないと勘違い。

鉄ちゃん爺やも、ボケが始まりましたかな。

(新幹線 のぞみ29号)







マスクをして座ってるのは、鉄ちゃん爺やの奥さんでっせ。

アップしたら皺だらけの婆さんなんで、これぐらでご勘弁を~

(JR広島駅 構内)









広島駅のベンチも転落防止で線路と垂直に改良されましたで。

在来線でJR可部駅行きに乗り換えますんや。

ここから、翌日の画像に切り替えて話を進めまひょ。

(JR横川駅=よこがわ)





群馬県の信越線に「横川駅=よこかわ」と読む同じ漢字の
駅がおますけど、広島では横川駅(よこがわ)と読みまぁ。

原爆で壊滅したそうでっけど、モダンな駅になってまっせ。

ここで、珍しい物を発見しましたんや。

(日本初の乗合自動車 銘板)



1905年(明治38年)2月5日に吉田真一という方が
アメリカから12人乗りの自動車を1台だけ購入したんだって。

ここ横川駅(よこがわ)から可部町(かべちょう)までの
約15kmに初めて運行したのが日本初の乗合自動車だっせ。

路線バスの草分けなんでっけど、異論もおますんや。

1903年(明治36年)9月20日に京都市内で
二井商会が6人乗りの乗合自動車を始めたとの説も。

確かに9月20日が「バスの日」と呼ばれてますんで
バス協会では、こちらを採用してるようでんな。

(復元された 広島の乗合自動車)





現在の法律によれば、バスとは11人以上の乗り物
だから12人を乗せて走った広島の方が正しいのかも?

マンホールの蓋に「KAYOKO」と描かれてるのは
可部の「か」と横川の「よこ」を合成したんだって。

因みに、京都のは翌年に経営破たんしてしまったとか。

こちら、広島の方も部品が調達できず8か月で運休ですわ。

(JR横川駅 乗合自動車の展示パネル)













当時は馬車が交通の中心で、馬車組合の妨害も有ったとか。

当時は道路が舗装されてまへんので、故障も多かったようでっせ。

(現在の JR可部駅前)











現在は広島市安佐北区可部町という街になってますんや。

2014年8月の広島大水害で74名もの死者を出した
八木地区と可部地区の名前はご記憶がおますかな?

モニュメントの「釜」は現在も操業している鋳物や鉄釜
それに風呂の浴槽などを製造している大和重工さんでっせ。

(JR可部駅構内)







JRで廃線になった鉄道が一部でっけど復活するという
珍しい路線がJR可部線で2017年春に開業だとか。

2003年(平成15年)に可部駅から三段峡間が廃線に
広島市の郊外で都市化により約1.6kmだけでっけど
JR西日本と広島市が負担して工事中だそうですわ。

全国でも、一度廃線になった路線が復活するなんて
おそらく初めてのケースかもしれまへんで。

(JR可部線 車中より撮影)







少し距離が離れてますんで水害の痕跡が見ずらいでっけど
ブルーシートや工事クレーンなどが写っているようでんな。

低い山なのに74名もの死者を出すような危険な場所には
見えないように感じながら、黙祷して通過しましたんや。

この日は2月20日なので水害の丁度1年6か月目でした。

(JR可部線 車中より撮影)




 
再び話を横川駅(よこがわ)に戻しまひょ。

横川駅には広島電鉄の路面電車も乗り入れてますんや。

ここで、レトロな電車を発見しましたで。

(広島電鉄 モハ1900形 路面電車)







昭和32年製造の京都の市電が広島に移籍し
現在も頑張って、横川線で走っているんだって。

今日はこのぐらで、お仕舞にさせてもらいまぁ。

次回は安芸高田市に毛利家の郡山城址を訪ねまひょ。

ほんなら、これで、さいなら~♪