鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

鉄ちゃん爺や    明石市 ・ 魚の棚を  デジカメ散歩

2013-03-23 19:55:28 | 日記
「魚の棚」と書いて「うおんたな」と読むんでっせ。

関西の人でも正しく読めないのと違いまっか?

明石城は知らんけど「魚の棚 商店街」は知ってるちゅう人は多いでっしゃろな。


(JR明石駅前に 歓迎用の看板)


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「魚の棚」(うおんたな)の意味は昔に魚やさんが、大きな板の上に魚を並べて
鮮度が落ちないように水をかけていた処から出たと言いまんねけど。

それでも~ よう分かりまへんな。

鉄ちゃん爺やが学生時代の頃は「明石の東魚町」と呼んでましたで。


(明石 魚の棚 西側の看板)


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何せ江戸時代に小笠原忠真(ただざね)がお城を造った頃に宮本武蔵はんに
町の区割りをさせた時に出来たという言い伝えがおますんや。

現在は昔の「東魚町」だけが残って「魚の棚」(うおんたな)となってるそうやけど
江戸時代には生の魚を売るのが「東魚町」で乾物や練り物を売るのが
「西魚町」と別れていたそうでっせ。

昭和の初めに「西魚町」が寂れて「東魚町」に合流したような感じでっけど。

それが昭和47年に住居表示が「本町」と変わったんやけど、新鮮な魚の街を
イメージ付ける為に「魚の棚」(うおんたな)とPRしたちゅうことでっしゃろな。

ほな~ 魚の棚・商店街を歩いてみまひょ。


(魚の棚 商店街)


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こんな感じでっせ~  東西の全長が350m  商店が約110軒だとか。

そんなに大きい商店街でもおまへんけど、ほとんどが魚屋さん・蒲鉾屋さん
明石焼きの店・それに乾物や干物の店ばかりが目立ちまんな。

店頭の風景を並べてみまっせ~♪



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(明石名物 たこの干物)


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(焼き穴子 串で売ってまっせ)


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明石と言えば「たこ」が有名でっしやろな。

輸入物と違って柔らかいし味も絶品でっせ。


(生のたこも 今朝に獲れたやつでっせ)


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明石は昔から鯛が有名でしたんや、明石海峡の潮流に揉まれて味が絶品だっせ。

明石鯛は養殖物が増えた昨今では貴重な天然もんで庶民には高いお値段でっけど。

その色と味は桜鯛とも呼ばれ一度食べたら養殖物なんて食べられないとの噂でんな。


(魚の棚 商店街)


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関西では練もんを油で揚げたんも「天ぷら」と呼びまんねんで。

関東ではさつま揚げとか言うでしたかかな。


(関西風 天ぷら)(練り物でっせ)


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(今朝に 水揚げされた いかなご)


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明石や神戸の方はいかなごを生で買って帰り自宅で佃煮にされまんねんで。

関西の春を呼ぶ風物詩として「いかなごのくぎ煮」は欠かせまへんな。


(いかなごの くぎ煮)


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いかなごの小ぶりの物を「新子」といいますんや。

三杯酢でそのまま食べても美味しいでっせ。

いかなごは小さい時は「新子」大きくなるに連れて「こうなご」「おおなご」と
名前が変わるんやそうですわ。

鉄ちゃん爺やが訪れたのは3月15日でしたから、まだ「新子」でっしゃろな。


(いかなごの 袋売り) (1kg=600円)


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(玉子焼 = 明石焼き)


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地元では玉子焼と言いまんねんけど、関西では一般的には明石焼きと言いますんや。

そやから観光客向けの店では「明石焼き」と書いておますけど
地元の方しか立ち寄らない店では「玉子焼」で通用しまんねんで。

鉄ちゃん爺やもお腹が空いたことやし明石焼きの店へ入りまひょ。

目移りするほど明石焼きの店はおますんや~

あかし 多幸(たこ) ここに決めましたわ。


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一寸だけ高目の昼食になりまっけど、やはり明石焼きを食べんと帰れまへんわ。

明石焼き 15個=600円 生ビール中 450円  合計1050円でした。


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明石焼きは玉子焼と呼ぶだけあって鶏卵が主で中にも「たこ」しか入ってまへんで。

店の自慢の出汁に三つ葉を絡ませて食べるのが一般的でっしゃろな。

大阪自慢の「たこ焼き」は明石焼きから考え出したとの説がおますんや。

「たこ焼き」は「たこ」以外にも紅生姜や天かすやエビやこんにゃくを入れたり
それにソースやマヨネーズまでかけて食べるのが流行ってますかな。

関西の「たこ焼き」は明石焼きと同じ様に全体が柔らかくジュシーにできてますんや。

関東では油で固く揚げた、「たこ揚げ」みたいのが多いように思いまんねんけど。


(こんな 招き猫が 置いてましたわ)


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腹も収まったことだし1kmほど歩いて明石の天文科学館まで行くことにしまひょ。

ほな~  今日はこれで失礼させてもらいま  さいなら~







鉄ちゃん爺や    播州の明石市を デジカメ散歩

2013-03-20 14:53:10 | 日記
今回は兵庫県の明石市まで出かけましたで。

明石市は人口が29万2千人ぐらい兵庫県でも5番目に大きい町でおますんや。

東経135度が通過してますんで「子午線の街」としても知られてまっ。

日本の標準時間がこの東経135度を基準にして決まるのはご存知でっしゃろ。


(JR明石駅舎)


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JR明石駅を北側へ出たら目の前が県立・明石公園になってますんや。

鉄ちゃん爺やが不思議なことに初めて訪れる処なんですわ。

明石市には何度か来てまっけど何故か南出口方面ばかりでしたんや。


(県立・明石公園)


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ここは江戸時代には必ず譜代大名が入る重要なお城が在りましたんですわ。

大坂夏の陣が終わってからも江戸幕府は西国諸藩に対して備えが必要でしたんや。

二代将軍の徳川秀忠は譜代の小笠原忠真(ただざね)を信州松本から10万石で
転封し堅牢な城を造るように命じたと記録に残ってまんな。

姫路城主・本多忠政の指導を受けての築城だったそうで
幕府は銀一千貫(現在なら31億円)を下げ渡し
伏見城や三木城で取り壊した資材を使うことも許可したそうですわ。

実はこの小笠原家忠真が大事にされたのにはこんな裏話がおまんねんで。

彼の父親は小笠原秀政と言い信州・松本藩の初代藩主でしたが
大坂夏の陣で長男と共に徳川家康の身代わりになって戦死してますんや。

あの真田幸村が徳川家康の本陣へ突入しようとしたのを
身をていして助けたことが大きく影響してるようでんな。

それにこの小笠原忠真の生母は徳川家康の孫娘ということもあって
まだ15歳の二男坊だったけど小笠原家の家督を継げたようでっせ。

明石城という大事な地域を任されたのも父親と長兄の戦死に報いる
ご褒美の意味があったんでしょうな。

後に小笠原家は北九州の小倉城へ移り明治維新まで続く大名ですわ。


(明石城 二つの櫓) (西暦1620年)(元和六年竣工)


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向かって左側が坤櫓(ひつじさるやぐら)と呼びお城の西南側の守りでっせ。

反対の右側は巽櫓(たつみやぐら)だそうで城の東南側を受け持つ訳でんな。

この二つは阪神淡路大震災で石垣が崩れて傾いたそうでんがな。

平成の大修理で復元したそうやけど櫓の内部は築城当時のままなんだって。

そんな訳で二つとも国の重要文化財に指定されてまんな。


(二ノ丸の 石垣下で自分撮り)


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江戸幕府は西国諸藩を姫路城とここ明石城で見張ると共に一朝事あれば
明石海峡と西国への街道筋を押える作戦を考えてたようでんな。

だから姫路城も明石城も徳川幕府250年の期間中は譜代大名が封じられる
それぐらい重要な拠点でおましたんや。


(明石城の櫓  一般公開の掲示板)


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入場無料やったら見ない訳にはいきまへんやろ。

漆喰と瓦が新しいのは平成の大修理で取り替えたんでっしゃろな。


(明石城 坤櫓)(ひつじさるやぐら)


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(坤櫓 ひつじさるやぐら) (1階の内部)


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なるほど~  内部は江戸時代の築城当時の姿を感じますわ。

この内部の木材は伏見城を取り壊したものを再利用したとの説が濃厚だそうな。

明石城では天守台は造られたけど天守閣は最後まで造られなかったとか。

だからこの坤櫓(ひつじさるやぐら)が一番大事な建物だったようでんな。


(築城当時の瓦が 1階に陳列)


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(これは 鉄砲狭間)(てっぽうはざま)


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近づいて外を覗いてみたらこんな感じでっせ。

遠くにJR明石駅と繁華街のビルが見えてまんな。

こっから鉄砲で狙い撃ちする工夫でっしゃろな、皮肉なことに
一度も実戦では使われることがなかったようでっけど。



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(本丸敷地内の 天守台)


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天守台は造ったけど世の中が落ち着いて天守閣が必要なくなったんでしょうな。

敷地だけは五重の天守閣が造れるような構造になってるそうですわ。


(本丸の敷地)


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ここには江戸時代に本丸御殿が在ったそうでっけど
現在はその痕跡は見られません。

明治維新の城郭取り壊しでは徳川譜代のお城だったため
意識して破壊してしまったんでしょうな。

艮櫓(うしとらやぐら)などは明石の小学校の材料にするため
取り壊してしまったそうだっせ。

旧藩士らの嘆願で二つの櫓と石垣だけがどうにか残ったようですわ。


(明石城 歴代藩主の概要 説明板)


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小笠原・大久保・松平・本多 どれも徳川譜代の名門ばっかり並んでまっしゃろ。


(巽櫓 たつみやぐら)


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やっぱり、お城の櫓は外から見たほうがサマになりまっしゃろ。

この辺りから眺める巽櫓が鉄ちゃん爺やには、一番綺麗な姿やと思いまんねん。


(県立・明石公園専用  マンホールの蓋)


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(明石城内  武蔵の庭園)


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宮本武蔵さんは客分として小笠原忠真に仕えて居たそうで明石城の側に
庭園を造ったとの言い伝えがあるそうですわ。

剣術の腕前は有名でっけど庭園技術や町造りの才能があったのかしら?

確かに小笠原家はこの明石築城の後に九州の小倉へ転封となりました
あの有名な巌流島の決闘は小倉から向かったんでしたかな。

明石に住んだことが有ったことは確かなんでっけど。



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(武蔵の庭園に移設された 御茶屋)


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(明石城内に設けられた 日時計)


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明石市は子午線の街とPRするだけあって、あちこちに日時計が置かれてまっせ。

午前の11時を過ぎたぐらいの影が画像で写ってまっしゃろ。

お城の中に置かれた日時計なんで兜が正面に据えられてますな。


(明石城の お堀)


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お城はこれぐらいにして「魚の棚」(うおんたな)と呼ぶ商店街の方へ行きまひょ。

明石城へは行かない人でも「魚の棚 商店街」は
明石へ降り立った人なら、必ず立ち寄るぐらい有名な場所なんでっせ。

次回はその「魚の棚 商店街」を ご案内しまひょ。

ほな~  今日はこれでお仕舞い  さいなら~♪






鉄ちゃん爺や    天満宮の梅を訪ねて

2013-03-14 19:52:54 | 日記
新聞によれば大阪では梅がそろそろ散り始めるそうですわ。

梅は寒さが厳しくて遅れていたようでっけど
桜の方は今年は例年より早く咲くとか言ってまっしゃろ。

梅と桜を同時には見れまへんけど桜が3月末には開花するそうでんな。

一週間ほど遅れての公開でっけど隣町の道明寺天満宮へ行ってきましたんや。


(道明寺天満宮の 表門) (大阪府藤井寺市道明寺)


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(道明寺天満宮の鳥居)


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朝廷は祟りや怨念を恐れて死後に、正一位・太政大臣の位を授けたそうでんな。

この横に道明寺と呼ぶ尼寺が今でもおまんねんで、菅原道真公の叔母さんが
居られて大宰府に流される前にお別れにこられたそうですわ。

その折に菅原道真公が彫られた十一面観音像が国宝として保存されていますんや。

確か菅原道真公の貴重な遺品が他にも多く残されてることで有名なんですよ。

お正月や土日には宝物庫で拝観も出来まっけど今日は平日なんで休館ですわ。


(道明寺天満宮 本殿)


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初詣いらいの参拝になりましたんや、平日なんで参拝客も多くはおまへんな。

この本殿は鉄ちゃん爺やが25歳の時に神前結婚式を挙げた場所でおます。

本殿はその当時のままですな。

この本殿の裏手が大きな梅園になってますんや。


(天満宮の 神紋)


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(道明寺天満宮 梅園の拝観券 300円)


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普段は無料なんですが梅が咲く頃だけ300円が要りまんねん。

昔は確か無料だったような記憶がしまっけど。

梅の開花が遅れてるそうで17日の日曜日まで延長するそうですわ。


(道明寺天満宮の 梅園)


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「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ」(菅原道真公)

大宰府に流された菅原道真公が京都の我が家に咲く紅梅を懐かしんで詠んだ和歌。

梅が好きだった菅原道真公の為に何処の天神さまでも梅が植えられてまっしゃろ

関西でも京都の北野天満宮や大阪市内の天満宮でもこの時期は梅が見頃でっせ。



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歌舞伎の片岡仁左衛門はんが「菅原伝授手習い鑑」の上演の成功を祈願し
ここに献木されたようでんな。


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(境内の盆梅展)


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こちらは神楽殿を背景に境内に咲く梅だっせ。


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(結婚式披露宴用 天寿殿)


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鉄ちゃん爺やが結婚披露宴をやった頃は木造でしたんやけど現在は
鉄筋コンクリートの新しい建物になってまんな。

入口の門だけが当時のままで残っているのが懐かしいでっけど。

(境内の マンホールの蓋)


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ここは藤井寺市という町でんねん、マンホールの蓋も梅の花が描かれてまっせ。

ほな 今日はこれでお仕舞いにさせてもらいまひょ さいなら~♪



鉄ちゃん爺や    じないまち雛めぐりを訪ねて

2013-03-09 20:49:23 | 日記
我が町より電車で二駅目に富田林市の「寺内町」と呼ばれる処がおますんや。

大阪府で唯一の国の重要伝統的建造物保存地区に選定されてますな。

江戸時代から明治時代まで約100軒ぐらいの町屋やが残ってまんねん。

此処で第7回「じないまち雛めぐり」をやってるちゅうので行ってきましたで。


(第7回 じないまち雛めぐり ポスター) (大阪府富田林市)


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ここ富田林市に在る寺内町は戦国時代の永禄3年に浄土真宗の証秀上人によって
興正寺というお寺が造られ町民がお寺を中心にして宗教自治都市を造ったんですわ。

東西400m 南北300m 周りを土塀と竹林で囲っていたそうでっせ。


(興正寺 別院)  (現在は浄土真宗 興正寺派のお寺)


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歴史上で有名な大坂石山本願寺を織田信長が攻めたことはご存知でっしゃろ。

ここ興正寺は同じ一向宗ながら石山御坊側につかず織田信長と和睦したんやそうな。

「寺内之儀 不可有別状」との書状を織田信長から得ていたようですわ。

「じないのぎ べつじょうあるべからず」と読める安堵状でっしゃろな。

一向宗でも全てが織田信長と争った訳じゃおまへんのや。

興正寺には武力の背景もあって織田信長も妥協したほうが得だと考えたんでっしゃろな。

(重要文化財 旧 杉山家 住宅)


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富田林寺内町は江戸時代には50軒もの商家や酒屋が在ってこの杉山家は4軒ある
寺内町の町年寄りを司る名家だったそうな。

江戸時代後期には河内木綿を京都市や滋賀県へ売り捌く権利をもっていたようでんな。

なにせ河内木綿は当時、日本の2割ぐらいを河内の国で生産していたそうでっせ。

幕末には吉田松蔭も24日間滞在したとか、池田屋事件で死亡した熊本の松田重助も
ここで昼間は寺子屋をしながら尊王攘夷の運動をしたそうでっせ。

他にも幕末に登場する有名な人物も滞在していたようでんな。

天誅組の吉村寅之助が富田林寺内町で同士と合流して大和の五条へ向けて出発し
この近郷からも十数名が天誅組の決起に加わったそうですわ。

我が町には幕府の代官所があったんで取締が厳しく、お隣の富田林・寺内町なら
尊王攘夷の志士が隠れて活動するには適していたんでっしゃろかな。

それだけ寺内町で自治が出来ていて幕府も下手に手が出せなかったようでっせ。

(木口家 住宅)  (富田林 寺内町)


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(本奥谷家 住宅)  (富田林 寺内町)


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ここ富田林寺内町はアメリカ軍の空襲も受けなかったので大阪府下でも
珍しい江戸時代の建造物が残ってまんねんで。

平成9年の重要伝統的建造物保存地区に選定されるまでは、ひっそりとした街で
こんなに観光客が押しかけることは無かったと内の奥さんの話でっけど。

内の奥さんには準地元ちゅう感じで中学校はこの近くに在って通っていたとか。


(内の奥さんです~  じないまち交流センター前にて)


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内の奥さんもこんなに観光客が押しかけてるんでビックリしてまんがな。

昔は夜など物騒で一人で歩けないほど寂しい所だったと言ってまっせ。

前置きが長くなりましたが、本命の「雛飾り」を連続で並べさせてもらいまひょ。


(第7回 じないまち雛めぐり) (大阪府富田林市)


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(京雛飾り)  (二つ貼り付けまひょ)


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京都のお雛さまは「お内裏さん」が向かって右側に座ってはりまんねんで。

普通の関東雛と呼ばれるのはお内裏さまが向かって左側でっしゃろ。

関西でも昔に作られたお雛さまは「京雛」が多かったそうでっけど
大正天皇が外国流に向かって左側に立たれたので、お雛さまもそうなったとか。

昔の日本は左が上位だからお内裏さんは向かって右側が伝統的な飾りでっしゃろな。



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こんな処にもお雛さまが飾られておまっせ。

街路灯の中にお雛さまと、お内裏さまが収まってはりますわ。


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(生花店で 花に囲まれた雛飾り)


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(刺繍で出来上がった お雛さま)


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(今年は巳年だから こんなお雛さんまでおますがな)


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それにしても、ヘビにお雛さんとは違和感がおまへんか。


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(地元幼稚園の 園児が作ったお雛飾り)


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(富田林 寺内町にて)


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寺内町の通りは「曲がり」と呼ぶ少しだけ道をずらして遠くから見えないように
こんな工夫も戦国時代の防御のための知恵だったようでんな。

遠くに見える白い塔はPL教団の平和慰霊塔で高さが約100mでしたかな。

(富田林 寺内町の曲がり)


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次回は前後しましたが道明寺天満宮の梅が満開だそうで
それを貼り付けさせて貰いまひょ。

ほな~ これで失礼させてもいらいまっせ  さいなら~


鉄ちゃん爺やの    散歩道が通行禁止だって !

2013-03-02 14:14:44 | 日記
我が家から東へ約300mほど歩くと大きな川へ出まんねん。

大和川の支流では一番大きな「石川」と呼ぶ一級河川だそうですわ。

まだ寒いでっけど暖かくなったら鉄ちゃん爺やの散歩コースでんな。

こんな川でっせ~  川幅は160mぐらいでっしゃろか。


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これは下流に向けて写した画像でっせ。

遠くの山並みは生駒山系で山の向こう側は奈良県になりまんねん。

わては~ 反対に上流の方に向かいまひょ。

(石川の河川敷公園)


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寒い時期なんで歩いてる人はほとんど居てはりまへんわ。

河川敷の花もこれのみ、菜の花だと思いまっけど手入れも不足でんな。

石川の左岸は隣町の富田林市から我が町を通り抜け下流の藤井寺市まで
約8kmぐらいが遊歩道になり車やバイクは立ち入り禁止になってまんねん。

そんな訳で、自転車でサイクリングをしたり散歩するには良い感じでんな。

(石川河川敷 通行禁止)


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ありゃまあ~ これから先は通行止めになってまっせ。

遠くに見えるのは南阪奈道路とその側道でここから500mぐらい先でっしゃろな。

(通行禁止の 説明板)


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イノシシが河川敷に出没し昨年末から二人ほどが突っかけられて怪我をしたとか。

先週の日曜日に捕獲作戦を猟友会と土木事務所がやったけど失敗だったらしいね。

そういえば我が町の広報にもそんな記事が載ってましたわ。

仕方がないから堤防の方から抜けてみまひょ。

(新大黒橋から 石川河川敷を撮影)


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正面に草むらが見えてまっしゃろ、あんな処にイノシシが隠れてそうな感じ。

イノシシって猪突猛進だから体をかわしたら避けられると信じたらあきまへんで。

それは漫画やアニメの世界で本当は小回りも効くし立ち止まることもできるそうな。

急に方向転換して突っかかることもおますんやて。

まあ~ 近づかないことが一番でっしゃろな。

(同じ場所から 金剛・葛城の山並みを撮影)


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奥の山が金剛山(1112m)で大阪府では一番高い山でっせ。

大阪ではこの金剛山に何度も登るマニアがぎょうさん居はりまんねん。

五百回とか千回も登ったとかの珍記録保持者? も居はるそうですわ。

今頃は樹氷が見られる大阪では良く知られた山でんな。

頂上は奈良県になってまっけど、登るのは大阪側にロープウエーがおますんや。

手前が大和葛城山(960m)でこっちは逆に奈良県の御所市側にロープウエーが
おまして、春のツツジが咲く頃は二時間待ちになるぐらい人気の山だっせ。

葛城山と呼ぶ山はこの辺りに三つおますんや、和泉葛城・南葛城・大和葛城
でも単に葛城山といえばこの大和葛城山になりますかな。

奈良盆地や大和三山を眺めるのには適した山で見晴らしが最高でんな。

逆に金剛山は木が繁っていてあまり視界が良い山じゃおまへんのや。

この辺りで一番高い山ちゅうだけなのに、何故に登る人が多いのか
ようわかりまへんのや。

(もう少し左へ カメラを振ると)


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我が町では一番南になる通法寺(つうほうじ)という集落でっせ。

この小高い山にイノシシが昔から住んでたのは知ってましたんや。

二年前の画像でっけどこんな立て看板もおましたし。


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そやけど川を渡って我が家から1kmぐらい南の住宅街までやってくるとは
早いこと捕獲するか射殺してもらわんと怖いでんな。

この通法寺地区は暖かくなったらハイキングや郷土史の好きな方が
最近は増えてきたんで怪我でもしないかと心配してまんねん。

(源氏三代の墓 説明板) (大阪府羽曳野市 通法寺地区)


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OCN Cafe時代に紹介したかも知れまへんがもう一度載せてみまひょ。

ここは平安時代の11世紀に源頼信が河内守(かわちのかみ)に就任して
館を建て河内源氏を名乗って根拠地にしたそうですわ。

(源頼義の墓) (河内二代目)


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歴史上では前九年の役や平広常の乱などに登場する源氏の武将でんな。

八幡太郎義家の父親で河内源氏はこの方が出てから表舞台に躍り出たという感じ。

彼は菩提寺の通法寺を創建しその境内にお祀りされてますんや。

(源義家公の墓)  (河内源氏三代目)


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何せ八幡太郎義家公は源氏の地盤を東国にまで広げた武将でっしゃろ。

鎌倉市ちゅうのは妻の実家(桓武平氏)から引き出物に貰った土地だそうでんな。

だから源頼朝が鎌倉に幕府を置けたのも源義家の直系の子孫だったからでっせ。

蛇足ながら源頼朝公の大祖父に当たる方がこの源義家公ですよ。

(源義家公のお墓)


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昔の武将ちゅうのはお寺や神社には立派な建物を寄進されまっけど
自分自身のお墓は質素な物がほとんどでっしゃろ。

源義家公もここ通法寺村で生まれたのかどうかは定かじゃおまへんけど
河内源氏の本拠地に葬られるのが自然だったんでしょうな。

亡くなったのは確か京都市内だったと思いまんねんけど。

江戸時代には徳川家が河内源氏を本宗と考えていたので通法寺や
壺井八幡宮は大きな所領を持っていたそうでっせ。

明治維新では逆に朝敵と考えられたのか荒廃してしまったようですわ。

廃仏毀釈の影響も有り荒れ果てた、お寺と神社になってしまったとか。

最近になって我が町でも歴史を見直す動きから通法寺や壺井八幡宮を
修復して郷土史の愛好家などにPRを始めたようでんな。

ほな~ 今日はこれでお仕舞い  さいなら~


鉄ちゃん爺やの (鉄道小話) 183系特急電車とお別れ

2013-02-22 19:37:43 | 日記
今回はJR西日本の特急電車のお話でっせ。

鉄道に興味のない方はスルーしておくれやす~

(183系 特急電車 北近畿)(JR西日本所属)


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(183系 特急電車 しおさい) (JR東日本所属)


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183系ちゅうのは直流で走る国鉄時代からの特急電車でおますんや。

JR東日本で主に活躍し今でも臨時やイベントには良く使われる電車だっせ。

関西の183系は少しだけ曰く因縁があって本当の183系じゃないかもしれまへん。

JR西日本のは運転台の上に丸い前照灯が付いてまっしゃろ。

細かく言えばJR西日本のは車体の窓の下に赤いラインが1本余分に入ってまっせ。

横からみてJR東日本の183系と区別ができるようにしてまんな。

実は485系という交流・直流の両方を走れる特急電車がおますんや。

(485系 特急電車 雷鳥) (JR西日本所属)


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これが北陸本線を走っていた頃の485系の画像だっせ。

平成に入ってJR西日本は新型電車を北陸本線に投入するにあたり
485系なら、まだ20年間ぐらいは走らせることが可能だと考えたんですわ。

北陸本線で大阪駅~金沢駅・富山駅間を走っていた「雷鳥号」から交流の機器を
取り外して金沢駅~和倉温泉駅間の電化に合わせて普通電車に取り付けたんですわ。

交流機器を取り外された485系は直流区間だけしか走れなくなったので
改造型183系と呼ぶような電車なので鉄道フアンにはあまり人気はおまへんけど。

(485系 特急電車 ひたち) (JR東日本所属)


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国鉄は昭和の30年代後半に鉄道の電化を進めるのに設備投資が安く済むとかで
北陸地区や東北地区には交流電化をしたようでんな。

それに常磐線の取手駅以北は石岡市に在る地磁気観測所に影響が出るんで
直流は使用できず特急「ひたち」は交流・直流両用の電車が必要でしたんですわ。

覚えておられまっしゃろか~ 昔は50Hzの東日本と60Hzの西日本で
電化製品は同じものが使えない時代がおましたな。

だから最初は北陸地方の481系と東日本の483系という電車が出来たんですわ。

それが昭和の45年ぐらいから50Hz・60Hzが切り替えで
使えるような技術が進歩し国鉄も新しく485系という車両を
全国で製造し日本の高度成長時代を代表する特急電車になりましたんや。

(国鉄時代の 銘板) (昭和47年製造)


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昭和47年ちゅうことは今年で41歳になる、ご老体の電車でんがな。

今はやりのアルミ合金製じゃなく昔の鋼鉄製の車体で出来てますんや。

JR西日本では3月16日のダイヤ改正でこの改造型183系を
全て引退させスクラップにすることを決めたそうでんがな。

ダイヤ改正以降はJR西日本管内から485系及び改造型183系が
見れなくなるちゅうことですわ。

改造型183系やさかいに鉄道博物館用に残す必要もおまへんし。

おそらく今回が183系特急電車の見納めになりまっしゃろな。

鉄ちゃん爺やとして485系時代の「雷鳥号」には富山への出張や北陸地方の
温泉旅行などで数十回はお世話になった懐かしい電車なんですわ。

お疲れ様の思いも込めて京都駅と大阪駅でデジカメに収めてきましたんや。

(183系 特急 はしだて) (京都駅にて撮影)


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交流機器を取り外しただけやから、外観は昔の485系そのままでっせ。

最後に昔の国鉄色(クリーム色に赤色)の塗装に戻してくれはったんで
鉄ちゃん爺やとしては懐かしさを一層に感じまんねん。


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グリーン車なのに塗装の下塗りが浮き上がって見えてますがな。

最後のご奉公やさかい綺麗にして走らせてやりたい気分になりまんねんけど。

もうスクラップにするんだからだって そりゃ~ JR西日本さん手抜きでんがな。

これで新型の287系電車と特急料金が同じでは、お客はん怒りはりまっせ。

(287系 最新型特急電車) (京都駅にて撮影)


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こちら183系と交代して城崎温泉駅や天橋立駅へ向かう287系ちゅう電車ですわ。

数年前から順次入れ替えが進んでまんねんけど、まだ183系を全て引退させたら
車両が少し足らなくなるそうで381系を当分の間は使用するとかの噂ですわ。

(381系 振り子式特急電車)  


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東日本大震災の後で半年間だけピンチヒッターで特急「こうのとり」として
走しっていた時のをJR尼崎駅で写した画像です。

この381系はアルミ合金製の車体なのでもう暫く使えそうでっせ。

そんな訳で287系の製造が追いつくまで再度のご奉公のようでんな。

改造版183系とよく似てまっけど運転台の上に前照灯がないので
違いがわかりまっしゃろ。

この381系は名古屋駅~長野駅間を走る特急「しなの」としてデビュー
でも現在は和歌山の紀勢線を走ってますんや。

紀勢線に新型が揃ったので今度は183系の代わりを勤めるわけですわ。

確か福知山線や山陰本線では架線が振り子型に対応できない為に
もったいないが振り子式での走行はできないはず。

まあ~ 後は新型電車待ちで数年間のご奉公ちゅうことになりまんねんやろな。

(大阪駅へ向かう 快速電車の車中にて)


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伏見の月桂冠で入場記念に貰ったお酒を窓際に置いて大阪駅へ向かってまんねん。


(223系 快速電車の車内風景)


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関西地区では新快速電車は混んでまっけど快速電車は平日の昼間はこんな感じ。

京都駅から大阪駅までなら5分~6分ぐらいしか変わりまへんので
座って行くんだったら快速電車で十分でんな。

(183系 特急 こうのとり)  (大阪駅にて撮影)


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大阪駅で183系の出発を見送って飲み会へ出かけましたんや。

ほな~  今日はこれで失礼させてもらいまひょ  さいなら~



鉄ちゃん爺やの (鉄道小話)  日本最古のランプ小屋 

2013-02-16 14:03:32 | 日記
日本で一番古いランプ小屋を発見しましたで。

伏見稲荷大社の側にあるJR稲荷駅におましたがな。

準鉄道記念物ということになってまっせ。

昔はランプ小屋もあちらこちらで見かけましたけど駅が改良されて
ほとんどが撤去され全国で10個ぐらいしか残ってまへんのや。

(日本一古い ランプ小屋) (JR奈良線 稲荷駅構内)


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明治13年(1880年)に東海道本線の駅として稲荷駅はできたようでんな。

おそらくその直後に出来たレンガ造りの危険物倉庫ちゅうことですわ。

元はこの2倍ぐらいの大きさだったそうやけど、駅舎の改築の際に
今の大きさに縮小して補修したんでしょうな。

当時は列車の照明もランプで灯油が使われていていたんでっせ。

電灯が列車内に付けられたのは大正時代になってからやと聞きましたな。

カンテラってご存知でっか? 鉄道の場合は合図灯とも言いまんねんけど。

夜間に列車を停車位置に止めたり発車させる時に昔は駅長さんか助役さんが
このカンテラで運転手さんと相互に確認したそうでんな。

戦前まではこのカンテラにも灯油かカーバイトが使われたんだって。

わても実物を見たことおますけど、戦後にはもう電池式になってましたな。

最近のはLEDで白・赤・緑の三色切り替え式になってまっせ。

福井県の敦賀港駅の廃止された構内にランプ小屋がおましたんやけど
その他は関西地区では見れなくなりましたな。

(旧東海道本線の説明板)


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現在の東海道本線は京都駅を出たら直ぐに東山トンネルに入り山科へ抜けますんや。

明治の頃は長いトンネルを掘削する技術が我が国には無かったようですな。

だから京都駅からここ伏見稲荷まで南下して稲荷山の南側から左へ遠廻りして
勧修寺を経て山科の追分へ出ていたそうですわ。

現在の名神高速道路の京都東ICを挟んだ両側のルートが
ほぼこの線路跡をたどっているように思いまんねん。

その追分けから急斜面を登って大谷で旧逢坂山トンネルを抜けて今度は
急坂を下って現在の膳所駅に達していたようでんな。

だから明治時代には急行列車などが走れない路線だったという
今から考えたら笑い話のようでっしゃろ。

大正10年(1921年)に現在の逢坂山トンネルと東山トンネルが完成して
現在のほぼ直線のルートに改良されたそうですわ。

(JR奈良線 稲荷駅舎)


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伏見稲荷大社の最寄駅やさかいに駅舎も柱は赤く塗装してまっしゃろ。

帰ってからHPで調べたら1週間前に予約したらランプ小屋は見学OKでしたわ。

鉄ちゃん爺やとしては恥ずかしながらミステイクでしたな。

内部にはカンテラや昔の行き先標示版や古い時刻表などが保管されているんだって。

ほな~ 大阪駅までの切符を買いまひょ。


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(琵琶湖疏水と桜並木)  (JR稲荷駅のホーム西側)


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この辺はJR奈良線の側を琵琶湖疏水が流れてますんや。

京都疎水とも言いまんねんで、明治時代に琵琶湖の水を京都市内へ引っ張って
運河を造ったそうで京都市民の水道に現在でも利用されているとか。

昔は京阪電車の三条駅で降りたら横を、とうとうと疎水が流ていた記憶がおますけど。

現在は水量も減って琵琶湖疏水だとは知らない人も多いんと、ち違いまっしゃろか。

明治時代には水力発電や船の航行にも使われた、これも歴史遺産の一つでっしゃろな。

(JR稲荷駅の駅名標)


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ここから京都駅は東福寺の次ぎ二つ目でっけど3kmチョイおますから
夕方の飲み会には時間が足りまへん。

まあ~ 大阪駅まで通しで買えば歩くこともおまへんしな。

(103系 通勤型電車) (JR稲荷駅に到着)


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首都圏や名古屋地区ではとっくの昔に引退したロートルの電車でっせ。

JR西日本ではリニューアルしてまだ10年ぐらい走らせるつもりだそうな。

JR東日本さんと、この辺が違いまっしゃろ、JR東日本さんなら
どんどん新しい車両を投入しはりまっけど。

JR西日本はメイン路線にしか新型は走らせないようでんな。

画像では複線のように見えまっけどJR奈良線はローカル線なんで
ほとんどが単線になってますんや。

これじゃ奈良市内へ行くんやったら近鉄電車の京都線には勝てまへんわ。

ここですれ違いのようですな、わては逆に京都駅の方へ向いまんねんで。

(JR稲荷駅の垂れ幕)


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JR京都駅は鉄道フアンには人気のある場所なんですよ、首都圏や東海地区で
既に引退した電車がリニューアルされてまだ色々と見れるんですから。

鉄道写真フアンは関東からわざわざ京都駅まで写真を撮りに来はりまんがな。

毎年3月中旬のダイヤ改正には鉄道フアンに惜しまれながら引退する電車が
出てくるんですよ。

次回はその引退する183系特急電車の姿を京都駅と大阪駅で写してみまひょ。

ほな~ 今日はこれで失礼させてもらいまっせ  さいなら~


鉄ちゃん爺や    伏見稲荷大社を訪ねて

2013-02-10 09:28:47 | 日記
この日は夕方に飲み会がおましたんや。

まだ時間があるので久しぶりに伏見稲荷の方へお参りしまひょ。

伏見の繁華街から京都駅に出るんは近畿日本鉄道になりまんねんけど
お稲荷さんへ行くんやったらJR奈良線か京阪電車になりまんねんで。

(京阪電鉄 伏見桃山駅)


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(大阪の中之島へ向かう京阪電車)


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(京阪電車 成田山 交通安全のお守り札)


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京阪電車の車輌には一台ごとに成田山大阪別院のお札が貼られてまんねんで。

千葉県に在る成田山新勝寺のお不動さんの分霊を1934年(昭和9年)に
京阪電鉄が寄贈した寝屋川市は香里の土地にお祀りすることになりましたんや。

それから大阪では交通安全のお守り札はほとんどが成田山と決まったようだっせ。

そんな訳で本家本元の京阪電鉄さんは各車両に成田山のお札が掲げられてますんや。

電車賃の関係でひとつ手前の深草ちゅう処で降りてみまひょ。

(京阪電鉄 深草駅の標識)


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ここは各駅停車の電車しか停まりまへんので滅多に降りることはおまへんのや。

戦前からの師団街道が残っているちゅうので遠回りしてみたんですわ。

昔は伏見に第16師団が置かれていて師団司令部もおましたんや。

現在も師団司令部は聖母女学院という学校の校舎として使われているんでっけど
撮影禁止だそうで、女学校の前をうろついたら不審者だと思われますわな。

昔の陸軍の師団司令部庁舎が現在はカトリック系の女学校になっているとは
不思議な気もしまんねんけど。

(聖母女学院のURL)

http://www.seibo.ed.jp/access/kyoto.html

聖母女学院のHPに昔の師団司令部の建物が載ってまんので
興味のある方は検索しておくれやす。

(京都 師団街道)


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この師団街道は明治の末に国鉄の京都駅北側の塩小路を起点にして
軍需品や兵員を輸送するために京都第16師団が造った軍用道路でしたんや。

画像の背景に見える建物は龍谷大学深草キャンパスですが昔は第16師団の
兵站基地として広大な敷地と倉庫が並んでいたそうな。


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師団司令部へ向かう第一軍道なんて名称も残ってますんや。

(現在の師団街道)  (龍谷大交差点)


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戦後に一時は国道24号線に成ったこともおますんやけど、
何せ片側1車線の道路なので今は元の師団街道に戻ってしまったようでんな。

第16師団は日中戦争では北支・中支で活躍し南京城では一番乗りをしたそうです。

太平洋戦争でもフイリピンのバターン半島で大きな損害を出しながらも占領し
最後はレイテ島で1万3千人の兵で生還出来たのはたったの620名だったとか。

連隊長三名が全て戦死し師団長の牧野中将もフイリピンで自刃となってますんや。

ほな~ ぼちぼち伏見稲荷の方へ行きまひょ。

ここから歩いて伏見稲荷大社まで約15分ぐらいでっしゃろな。

(伏見稲荷大社 一の鳥居)


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奥に見えているのが伏見稲荷大社で背景のお山がご神体で稲荷山と言いまんねん。

京都の東山三十六峰に含まれる一番南の山ちゅうことになってまっせ。

(伏見稲荷大社 楼門)


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全国に3万とも4万とも称される稲荷神社の本詞がここ伏見稲荷大社だっせ。

関西では会社や大店の敷地内にお稲荷さんをお祀りしてある処が多いようで
現在は商売繁盛の神様ちゅうことになってまんねんな。

(伏見稲荷大社 本殿)


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ここ伏見稲荷大社へお参りしたらやはり千本鳥居というのを見なきゃいけまへんで。

テレビなんかで観たこともあるんと違いまっしゃろか。

(千本鳥居の道標)


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実は信者や会社から奉納された鳥居が奥社まで並んでいて、
そこを歩いていくのが伏見稲荷大社の風物詩となってまんねん。

おそらく千本の鳥居ではなくもっと多い数が有ると思いまんねんで。

(千本鳥居)


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(鳥居を奉納する際の 初穂料です)


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(奥社に飾られている ご神鏡)


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わての知っている方は有るかしらと探してみましたんや。

おましたで~  そんなに古くない奉納ですな。

(有名人の名前を発見~ プロ野球の梨○さんですな)


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ご神体の裏山に繁っている杉の枝が使われているようでんな。

わては商売人じゃないんで写真だけ撮らせて貰いまっさ。

ご免なっしゃ~

(伏見稲荷大社のお札)


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お参りが済んだんでご朱印を貰って帰りまひょ。

わての朱印帳はお寺も神社もごっちゃでっけど、よろしおまっしゃろかな。

(伏見稲荷大社の ご朱印)


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(社務所の横に 江戸時代の手水鉢)


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(伏見稲荷大社の石碑)


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(現代的なデザイン 伏見稲荷大社 門前の狐ちゃん)


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一の鳥居と道路を挟んで反対がわにJR奈良線の稲荷駅がおますんや。

ここからJR京都駅を経由しても大阪駅までは約1時間でっかな。

そろそろ夕方になりそうなんで飲み会に向かいまひょ。

ほな~ 今日はこれで失礼しまっさ  さいなら~

鉄ちゃん爺や    伏見のデジカメ散歩

2013-02-06 19:55:22 | 日記
今回も伏見のお話の続きでっせ~


(御香宮神社 ごこうぐうじんじゃ)


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(本殿を裏側から撮影)


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徳川家康公が1605年(慶長10年)京都所司代・板倉勝重を普請奉行に命じて
建立したと墨書きで銘が入っているそうですわ。

この神社の主神は神功皇后さんで他に夫である仲哀天皇や息子の応神天皇他6神が
お祀りされてるんやそうな。

地元では安産のご利益が篤いとかで有名な神社なんだって。


(本殿正面 神紋)


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左三つ巴は応神天皇の八幡さんと同じだけど一番上に橘の紋が入ってまんな。

神功皇后が応神天皇を出産されて大和へ帰還される時に「橘」を奉ったとの
伝説がおますから神功皇后さんを表しているんでっしゃろかしら。

この神社の社務所に小堀遠州ゆかりの庭があるそうなんで
拝観させてもらいましたんや。


(小堀遠州ゆかりの庭園)  (御香宮神社 社務所内)


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1623年(元和9年)に小堀遠州は伏見奉行に命じられると、
直ぐに伏見奉行所内に石庭を造ったと言われてまんねん。

この庭園を見た三代将軍・徳川家光が五千石を加増したという由来から
小堀遠州さん出世の庭と呼ぶそうでっせ。


(庭園を アップで撮影)


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パンフレットや屋内放送では五千石加増され大名になったと説明されてましたんやけど
小堀遠州は親の代から備中で1万2千石の大名だったはず?

だから伏見奉行にもなれたはずなんだけど、まあ~ 野暮な話しは止めておきまひょ。


(室町時代の銘が入った 手水鉢)


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1477年(文明9年)と入ってるそうで応仁の乱の頃に出来た手水鉢でんな。

当時は太閤秀吉さんが造った伏見城を取り壊しましたんで
その石などを小堀遠州はうまく利用したんでっしゃろか?

前回に書き込みましたけど伏見奉行所は鳥羽伏見の戦いに薩摩軍の砲撃で焼失
明治になってからは陸軍の工兵大隊の駐屯地に使われたんやそうな。

戦後はアメリカ軍によって占拠されこの庭も凄く荒廃していたそうでっせ。


(御香宮神社 社務所座敷か庭園を臨む)


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戦後に伏見奉行所跡は京都市に払い下げられたそうで市営住宅を造るとの
計画が決まったんやそうですわ。

小堀遠州ゆかりの庭が取り潰されることに御香宮神社の宮司さんが大層に心配されて
中根造園研究所と相談の上で社務所の座敷裏にに復元することに成ったとか。

小堀遠州さんは京都を中心に有名な庭を幾つも造られたようでんな。

小堀遠江守政一(こぼり とおとうみのかみ)が正式なお名前ですが
世の中は小堀遠州さんと呼んでますかな。

小堀遠州は自分の造った庭を見ながら晩年を過ごされたようですわ。

蛇足ながら小堀遠州さんは伏見奉行在職中にお亡くなりになってまっせ。


(御香宮神社 参道)


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もう一つだけ伏見で登録有形文化財になってる鉄橋を見に行きまひょか~

伏見奉行所跡を南へ200mぐらいで宇治川の堤防にでまんねんわ。


(宇治川の流れと 近畿日本鉄道の橋梁)


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淀川は琵琶湖から流れ出す瀬田川が京都に入ると宇治川と名を変え
大阪府に入った処で桂川と木津川の三つが合流し淀川となりまんねんで。

ここから大阪湾まではまだ44kmもあると書かれてまんな。

宇治川は本流でっさかいに「よどがわ」と言っても間違いではおまへんで。

実はこの近鉄電車の鉄橋が国の登録有形文化財なんでっせ。


(澱川橋梁  よどがわきょうりょう)


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名前も淀川なのに「澱川 よどがわ」と難しい字を宛てがってますんや。

実はこの橋梁は全長が164m有るんでっけど川の中に橋脚がおまへんやろ。

ワンスパンのトラスト橋としては日本で一番長い鉄橋なんでっせ。

普通は川の中に3つ~4つの橋脚を用意するのが標準的な鉄橋ですわな。


(澱川橋梁)  (近畿日本鉄道 京都線)


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この橋梁は昭和天皇の即位式(御大典)に合わせて奈良電鉄が京都市から
伏見を経由して神武天皇の御陵のある橿原神宮まで鉄道を造ることになったんですわ。

ところがこの宇治川の付近は明治時代から京都第16師団工兵大隊の
架橋や渡河の為の演習地として使われていたんですな。

演習地を他に移すにも近くには見当たらなかったそうでんな。

陸軍の演習に支障が出るとの理由から川の中に橋脚を造ることが
許可されなかったんで、長大なトラスト橋でひと跨ぎすることになったんですわ。

1928年(昭和3年)のことで当時としては技術的にも難しい工法だったとか。


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この鋼材はアメリカから輸入したものが大半で当時の日本では八幡製鉄しか
製造できなかった鋼鉄なんですが八幡製鉄は軍艦用で手いっぱいだったそうな。

急遽アメリカから輸入し神戸の川崎造船で加工し船で淀川を遡上して約半年間で
大林組が組み立てて完成させたものだそうですわ。

昭和の初めまで淀川は水運として利用できていたんでんな。

6両編成の電車が橋梁の中間ですれ違っても耐えられる重量(約3000トン)を
両端で支えているので平成になってからこの部分だけが修理されたけど
本体は85年を経過した現在も十分に使用できる強度を維持しているそうだっせ。

昭和初期の日本での橋梁架橋技術を誇る文化遺産だとの理由で
国の登録有形文化財に指定されたそうですわ。

最後に陸軍が別に意地悪したわけじゃなく、奈良電鉄の伏見御陵前駅から
この宇治川堤防までの高架鉄道用地を無料で払い下げるという粋な
計らいもし協力したんだということを付け加えておきまっさ。


(京都第16師団 第16工兵大隊 駐屯地跡の石碑)


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次回は師団街道から伏見稲荷大社の方へ向かいまっせ。

ほんなら~  今日はこれで失礼させてもらいまひょ  さいなら~


















鉄ちゃん爺や    伏見で明治維新の歴史前夜を訪ねて

2013-02-02 16:09:45 | 日記
ほな~ 今回は京都の伏見のお話をしまひょかな。

現在では京都市伏見区と言い京都市の11ある行政区では人口が一番多い街でっせ。

京都市にはおよそ147万人が住んではりまっけど、その内26万8千人もの方が
伏見区に住民登録をしてはりますんや。

そやけど~ 江戸時代まで伏見は京都とは呼ばなかったんでっせ。

京都と大坂を結ぶ宿場町であると共に、淀川の水運を司る重要な港でもおましたんや。

ここ伏見からは大坂の八軒家浜(現在の天満橋付近)に向けて三十石船が約半日で
淀川を下り、逆に商都大坂から物資やお客を積んで戻ってきたそうでんな。


(元船宿 寺田屋の提灯)


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現在はこの寺田屋しか残ってまへんけど、明治時代前半までは多くの船宿が
軒を並べて居たそうで、ここで1泊してから翌朝の三十石船に乗ったそうですわ。

ここ伏見の寺田屋を訪れるのは鉄ちゃん爺やは30年ぶりでしたんや。


(伏見 寺田屋) (入場料400円)


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前回はこの屋敷の中にも入り寺田屋事件の刀傷などを見学して歴史に浸ったのは
まだ昭和の時代で、てっきりここは江戸時代の建物やと思ってましたんや。

ところが古文書などにより寺田屋は鳥羽伏見の戦いで焼失したとの説が出てきて
江戸時代の建物が残っているとの学説との歴史論争が続きましたんでっせ。

最終的には平成になってから京都市が寺田屋は明治時代に建て替えられたとの
結論を出して一件落着となったそうですわ。

歴史のロマンが萎みましたけど観光客はそんなことには気にもかけず
この日も観光バスで酒蔵巡りと合わせて見学してはりましたで。


(寺田屋 薩摩藩士9名殉難の石碑)  (文久2年4月)(西暦1862年)


photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット


ここ寺田屋は明治維新前夜に、二度ばかり歴史に登場することでご存知でっしゃろ。

最初が1862年(文久2年)の寺田屋事件と呼ばれる薩摩藩士の殺害事件でんな。

島津久光(藩主の実父)が藩士1000名を引き連れて上洛してきはりましたんや。

この島津久光さんは公武合体で幕政を改革するという考え方だったそうです。

一方で過激な尊王攘夷を唱える薩摩藩士がここ寺田屋に他藩の人物も含めて
約40人が集結し京都所司代と関白九条尚忠を襲撃することを計画してました。

島津久光は中心人物の西郷隆盛を逮捕して国元へ送還すると共に
寺田屋に集結した藩士の有馬新七ほかの薩摩藩邸への帰還を命じます。

もし君命に背いた場合は臨機の措置をとるようにと命じたので
寺田屋で帰還を命じる話し合いが決裂し薩摩藩士同士の刃傷沙汰となりましたんや。

結局は有馬新七以下7名が死亡し2名が重症の後に自刃したそうでんな。

その悲劇を演じた寺田屋でっけど鳥羽伏見の戦いで焼失したちゅうことでっから
あの刀傷は明治になってからわざと切りつけた物でっしゃろかしら?

歴史のロマンに水を差すような意見でっけど答えは何処にも書いてまへんな。


(伏見の船宿 寺田屋を側面から撮影)


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(寺田屋敷地内の お登勢明神さんの立札)


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もう一つは坂本龍馬はんが伏見奉行所の襲撃を受けたちゅう事件でっしゃろ。

ここ寺田屋は薩摩藩士の定宿だったので裏から援助を受けていた坂本龍馬はんも
勤王の志士たちと良く会合を重ねてはったようでんな。

寺田屋はんもこんな大明神を造って変な観光地化にしてはりまっせ。


(お登勢大明神 絵馬)


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お登勢さんとは当時の寺田屋の女将さんで、坂本龍馬の妻となったお龍さんとは
当時はここ寺田屋の女中さんだったようですわ。

1866年(慶応2年)1月に仕事を終えて風呂に入っていたお龍さんが
奉行所の捕手が囲んでいるのに気がついて裸のままで2階へ上がり
坂本龍馬に危険を知らせたという有名なエピソードがおますやろ。

捕手たちは、なにせ北辰一刀流の使い手だと言うのでへっぴり腰で応戦
坂本龍馬はピストルを撃ちながら脱出に成功したそうでんな。


(寺田屋の前  宇治川の派流)


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この川は改修されながらも豊臣秀吉が伏見城を造った当時の外堀の一部だそうですわ。

この画像の右手の方へ坂本龍馬は逃れて約500m先の材木小屋に隠れたようですな。

近くの薩摩藩邸の伏見・留守居役が船を出し助け上げて藩邸へ迎え入れたようですわ。

薩摩の留守居役は奉行所の引渡しにも応じず、後に寺田屋のお龍さんと一緒に
薩摩へ逃がしたのが、最近は日本初の新婚旅行だと言われてまっしゃろ。


(寺田屋敷地内の 坂本龍馬銅像)


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ほな~ ここから歩きながら伏見奉行所跡の方へむかいまひょ。


(伏見 龍馬通り)


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坂本龍馬が潜伏していた辺りだったそうでこんな名前を付けたようでっせ。

近くには土佐藩邸も在ったようで脱藩した坂本龍馬も万一の場合は同志の居る
土佐藩邸へ逃げ込むことも考えていたんでっしゃろか。

江戸時代後半には京都の洛中に諸藩の藩邸が多くできて来ましたが
元々は、ここ伏見にしか諸国の京都藩邸は置けなかったそうですわ。

伏見は京都には近いけど京都(洛中)ではないちゅうことでっせ。


(伏見 土佐藩邸跡の石碑)


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江戸幕府は伏見から山科追分を通って草津宿から東海道か中山道を通って
江戸と西国を参勤交代することと厳しく定めていたそうだっせ。

天皇の居られる京都洛中には近寄らせないというのが、大方針で江戸時代初期から
ここ伏見に奉行所を置いて西国大名の監視と大坂~京都間の物流を把握したそうな。

普通の遠国奉行は旗本の3千石~5千石クラスが任命されるそうでっけど
ここ伏見奉行所だけは譜代の1万石~2万石の大名が役職に付いたそうですわ。

江戸幕府がいかに京都と朝廷に接近する西国大名を警戒したかがわかりまっしゃろ。


(伏見奉行所跡 石碑のみ)


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現在は京都の市営住宅の敷地になり石碑しか残っていませんな。

古い絵地図などを見れば石垣が積まれて小さい城郭のような建物だったようでっせ。


(御香宮 一の鳥居)  (正式には御香宮神社)(ごこうぐうじんじゃ)


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画像からでも登り坂になっているのがわかりまっしゃろ。

この道は豊臣秀吉が伏見城を造ったときに出来た大手筋通りと言いまんねんで。

今でも伏見では一番の繁華街がこの画像の反対側に商店街でおますんや。

この大手筋通りを登りきったら明治天皇と皇后の御陵が在る昔の伏見城本丸ですわ。


(御香宮神社 ごこうぐうじんじゃ)(表門) (国の重要文化財です)


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1622年(元和8年)水戸の徳川頼房公(水戸黄門様のお父上)が
伏見城の大手門を拝領したのをここへ寄進したという立派な建造物だっせ。

徳川さんの天下が定まり豊臣秀吉の影が残る伏見城を徹底的に取り壊したそうな。

この表門を通して見える大手筋通り側には伏見奉行所の北門があったそうですわ。


(御香宮神社境内の 石碑)


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1868年(慶応4年)旧暦1月3日にこの神社の境内に薩摩藩の軍勢が約800人
集結し南側の伏見奉行所とにらみ合いの形となったそうな。

伏見奉行所には大政奉還で京都の治安警備を解かれた会津藩と新選組が大坂から
ここ伏見奉行所まで戻ってきていたそうですわ。

こちらも兵力が約1000人と言われ、もし戦いが始まればここ伏見が主戦場になると
双方が考えていたようでっせ。


(御香宮神社境内の 御香水)  (伏見の七名水の一つ)


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薩摩軍は800人の軍勢の水を確保する為この神社に陣地を構えたんでっしゃろな。

この名水は平安時代に良い香りがすると清和天皇さんが「御香水」と名前を付け
神功皇后と応神天皇をお祀りするこの神社の名前の由来にもなったようだっせ。

伏見でお生まれになった徳川御三家初代の義直・頼宣・頼房公はおさん方ともに
この「御香水」を使って産湯をされたと伝わっているそうな。

だからこの神社の本殿を修復すると時には尾張・紀州・水戸の御三家から寄進を受け
氏子たちの寄付金と合わせて伏見奉行所が執り行うのが規則だったようでっせ。

ところで~  ここが主戦場になるとの予想が外れて鳥羽街道を大坂から北上した
幕府軍約1万5千人が「討薩の表」という文書を持って将軍が上洛する先陣を勤め
鳥羽街道の鴨川に架かる小枝橋で薩摩軍に止められてしまうんですわな。

通せ~  許可がないので通せない~  こんな押問答があったようでっせ。

幕府軍は約1万5千人だから5千人足らずの薩摩・長州勢は道を開けると考えたようでんな。

普通は軍勢を左右に展開するのが基本でっけど、それもしなかったので夕方になり
薩摩軍の砲兵隊が幕府軍に大砲を打ち込んで戦闘開始となったようだっせ。

この鳥羽街道での大砲の音を聞いた伏見・薩摩軍の大山弥助(後の元帥大山巌)が
御香宮神社の東側高台から同じく大砲を伏見奉行所に向けて発射したそうな。

これが命中して伏見奉行所は炎上焼失してしまったそうですわ。


(伏見 亀三楼の柱に銃弾の跡)


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この弾痕は鳥羽伏見の戦いに際し焼けずに済んだ料亭の玄関横の柱に
今でも残っていて店主の説明書きが添えられていますな。

亀三楼は薩摩軍に食料を差し入れしていたので焼き討ちに合わなかったとか
そんなことを書かれてる本もおますけど。

この辺は新選組の土方歳三を隊長に永倉新八をはじめとする約150人が刀と槍で
薩摩軍の小銃隊に応戦し一時は1kmぐらい先の墨染辺りまで押し返したそうな。

でも刀と槍では勝ち目がなく翌日の1月4日になって土佐藩や長州藩が参戦し
錦の御旗が翻ったとの噂もあって会津藩と新選組は宇治川を下って
淀城方面へ撤退したそうな。


(伏見の 京町通り)


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この道は北へ上ると京都の南座の辺りを通り大原方面へ抜ける道なんですよ。

この辺りも鳥羽伏見の戦いでは街並みが全て焼け落ちた処だそうな。

特に3日の夜から4日にかけての激しい市街戦で伏見の南半分の街がほとんど
焼けてしまい伏見の薩摩藩邸も土佐藩邸も多くの酒蔵も焼失したそうですわ。

伏見が復活するのは明治時代になってからになるそうですわ。


(幕府軍が伏見から撤退した宇治川の右岸) (左にかすかに男山が見えます)


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最終的には淀城に立て篭る予定の幕府軍は家老の田辺権太夫に城門を閉められ
男山から橋本あたりまで撤退したようでんな。

時の老中で江戸にいた稲葉正邦は譜代の名門なのにどうしたんでしょうね。

翌5日には淀川の対岸に居る津の藤堂藩が男山に大砲を打ち込んで寝返るは
広島の浅野家や鳥取の池田家までが朝廷方に加わり勝敗が決してしまいましたんや。

考えたら幕府軍は鳥羽街道だけじゃなく竹田街道や西国街道方面にも軍勢を分け
兵力の少ない薩摩・長州勢に対応する知恵がなかったちゅうことでっしゃろな。

主戦場の鳥羽街道で行軍の縦隊のままで応戦してほとんど壊滅的な被害を出した
大目付・旗本滝川某では1万5千人の兵力を指揮する能力がなかったんでしょうな。

そのあげくに翌6日には総大将の徳川慶喜以下の幹部が船で大坂から江戸へ
敵前逃亡するようじゃ徳川家康公も草場の陰で泣かれたことでしょうね。

長くなりましたので、次回は小堀遠州ゆかりの石庭などを紹介しまひょ。

ほな~  今日はこれで さいなら~