鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

デジカメ散歩 坐摩神社(いかすりじんじゃ) 

2017-05-06 19:18:13 | 神社
4月16日に造幣局・桜の通り抜けの日に
お詣りした摂津の国・一之宮でおます。

坐摩神社(いかすりじんじゃ)(正式名称)

通称は、ざまじんじゃ、又は、ざまさん。

大阪の船場に鎮座する立派な神社でつせ。

(23系 大阪市営地下鉄 四つ橋線)


(大阪市営地下鉄 本町駅名標)


(坐摩神社 一の鳥居)


左右に潜り戸が設けられた三組みの鳥居でっせ。

見たことは有りまっけど、珍しい鳥居ではおます。

それではお詣りさせてもらいまひょ。

(座摩神社=いかすりじんじゃ 本殿)






坐摩神社(いかすりじんじゃ)とは読めまへんわな。

鉄ちゃん爺やも、正式名称を知ったのはこの日が初めて。

親しみを込めて、坐摩(ざま)さんと呼んでましたんや。

坐摩神社「ざまじんじゃ」が名称と思ってましたがな。

(坐摩神社 御由緒略記)




(坐摩神=いかすりのかみ 説明書き)


坐摩(いかすり)の語源は諸説ありますが、土地又は
居住地を、守り給う意味の、居所知(いかしり)が
転じた名称だといわれてるそうでっせ。

五柱の御祭神が記されてますが、あまり知らない神様。

(座摩神社=いかすりじんじゃ ご朱印)


摂津の国 一之宮 住吉神社 坐摩神社

河内の国 一之宮 枚岡神社

和泉の国 一之宮 大鳥大社

これで大阪府の四つの神社は全てお詣りを終えましたで。

(坐摩神社の 回廊)


(坐摩神社境内 末社・五つのお社)


鉄ちゃん爺やが20代から40代まで、船場に長く
勤務していた頃は、毎年7月22日が坐摩さんの夏祭り。

繊維会社は、この日がお休みになってましたんや。

坐摩さんは、繊維の神様だと先輩に教えられてましたな。

(座摩神社境内 末社になる 繊維神社)


本当は坐摩神社の末社の一つが「繊維の神様」だったとは。

恥ずかしながら約50年間も、誤った知識を信じていた訳。

会社の名代で2~3回「夏季大祭」に代参をしてたのにね。

(坐摩神社境内 末社になる 大江神社)


繊維神社・大江神社・天満宮・大国主神社・相殿神社 と

回廊の向こう側に小さなお社が五つ並んでますんや。

(座摩神社の 御神紋)




元々の坐摩神社は淀川南岸に当たる大江の岸に鎮座されていたが
豊臣秀吉の大坂城築城に際して、現在地に移設さされたとの話。

現在も天満橋の西側になる石町に行宮が置かれているそうですわ。

ここは渡辺の地とも呼ばれ、歴史にも登場する渡辺党の本拠地。

現在の座摩神社の住所も明治時代まで大阪市東区渡辺だったとか。

全国の渡辺さんにとっては、苗字のルーツでもおまっせ。

(鷺草の苗を 育成中)






「白鷺」が坐摩神社の御神紋でっさかいに、「鷺草の花」は
7月22日の「夏季大祭」には重要なお使いなんでしょうな。

本殿を囲むようにして、「鷺草の苗」が育成されてまっせ。

(鷺草を描いた 姫路市のマンホールの蓋)


7月22日の「夏季大祭」の頃にはこんな花が咲くのかな?

明治元年に明治天皇が行幸されたという事でっから
当時は大坂でも、有名な神社でしたんでしょうな。

(明治天皇 行幸の記念碑)


実はこの日に、もう一つの新しい発見がおましたや。

これは途中で見つけた案内板でっけど。

(陶器神社への 案内板)


(せともの町 の歴史 説明板)


鉄ちゃん爺やが幼少の頃に、両親に連れられて「せともの市」に
それから「陶器神社」にもお詣りした記憶が残ってますわ。

その「陶器神社」も坐摩神社の末社の一つだったとは驚き!

(陶器神社の拝殿)




当時はもっと、こじんまりしたお社だった記憶がしますんや。

坐摩神社の本殿は大阪大空襲で焼失して当時はまだ再建されず?

だから座摩神社の本殿が再建された1959年(昭和34年)より
昔の話だから、座摩神社など知る由もなかったという訳でっかな。

(陶器神社で 陶器の燈籠)






陶器の神様だけに、燈籠もせともので作られてますんや。

座摩神社側の狛犬までが、せとものとは恐れ入りました。

(狛犬も陶器でっせ~)




散策中に、境内でこんな記念碑も発見しましたで。

ここには江戸時代には上方落語の寄席が在ったんだそうな。

(上方落語寄席 発祥の地 顕彰碑)


上方落語では桂米朝さんが、伝統を引き継いではりましたが
数年前に、惜しまれながら亡くなられてしまいました。

江戸時代に三代目の桂文治が江戸へ出て「桂」を名乗り
江戸と、大坂に「桂」を名乗る落語家が出来たんですわ。

江戸で「桂」を名乗る落語家も元祖は上方でしたか。

それでは船場を歩いて地下鉄の本町駅へ向かいまひょ。

(ツインビルの 元祖?)


(御堂筋 久太郎3丁目 道路標識)


鉄ちゃん爺やが船場に勤務中の頃のお話でっけど。

ここには船場から発展した総合商社の「伊藤忠」の本社が在り
同じく船場出身の「丸紅」さんとが、激しく争ってましたで。

現在は両方共に東京都に本社が変更されて、関西の営業本部も
一昨年には船場を離れて、大阪駅の方へ移転されましたんや。

船場から総合商社が全て撤退したと、話題になりましたかな。

(大阪センタービル 案内表示板)






(大阪センタービル テナントの銘板)


このビルに現在は「ユニチカ」さんが本社で残ってますんや。

船場地区に残る数少ない上場企業としての本社になりまっかな。

(船場センタービル 手前は御堂筋)


(船場センタービル 9号館~8号館)


ここから地下へ潜り込むと地下鉄の本町駅になりまぁ。

本日はこれにてお仕舞とさせて貰いまっさ。

次回は京都の上賀茂神社を紹介しまひょかな。

ほんなら、これで、さいなら~🎵

 






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和泉の国一之宮 大鳥大社を 再び訪れて

2017-04-08 19:39:31 | 神社
(225系 JR西日本 郊外型電車)


(JR阪和線 鳳駅名標)


大鳥大社までここから徒歩で約15分ぐらい。

昨年の4月に訪れた際は神職さん不在でしたんや。

ご朱印を頂けなかったので再度の参拝ですわ。

(大鳥大社 一の鳥居)


(大鳥大社の 由緒書き)




前回は平日でもあり、別に気にもしまへんでした。

ここはご朱印が貰えないんだ、ぐらいで済ませた感じ。

その直後に47都道府県を山形県にて完全踏破してみると
次は何を目標にして、日本各地を訪ねるか考えましたんや。

(河内の国 一之宮 枚岡神社)


昔の日本国には六十六州が在り、その各地に平安時代から
最も崇拝されていた「一之宮」「一宮」と呼ばれる
神社が、現在も存在する事に気が付きましたんや。

もうこの歳だから六十六州の全ては回り切れないが
半分ぐらいでも、訪れて観ることにしますかな。

やはり地元の大阪府からスタートするのが基本でっしゃろ。

我が町を含む「河内の国」の一之宮は枚岡神社ですわ。

恥ずかしながら、我が街の一之宮にあたる枚岡神社に
昨年11月に初めて参拝したような鉄ちゃん爺やですけど。

(河内の国 枚岡神社=ひらおかじんじゃ ご朱印)


そして摂津の国では「住吉大社」さんになりまんねん。

ここも昨年の9月に、ご朱印を貰ってますんや。

(摂津の国 住吉大社 ご朱印)


現在の大阪府は昔の国で云えば「摂津」の東半分「河内」
そして「和泉」の三か国から出来ましたんですわ。

「摂河泉=せっかせん」三つ合わせて、こう呼ぶ事も。

そんな訳で三つ目の「大鳥大社」へ出かけましたんや。

(和泉の国 一之宮 大鳥神社 ご朱印)


これで「摂津」「河内」「和泉」の全てが完了!

と思ったら、摂津には「坐摩神社=ざまじんじゃ」が
他にもう一つ、在ることが分かりましたがな。

ここは大阪の船場におます、今月中にも行けまっしゃろ?

(大鳥大社の ご神域)




大鳥大社は周囲が約4kmぐらいの深い森になってまぁ。

ここは日本武尊(ヤマトタケルノミコト)をご祭神に
大鳥連祖神(オオトリノムラジオヤガミ)さまなども
合わせてお祀りされてますんや。

大鳥連(おおとりのむらじ)が本来の氏神さんで
ヤマトタケルノミコトを後からお祀りしたんだろうな。

日本武尊(ヤマトタケルノミコト)のお墓は我が家から
北西に約500mぐらいの処に大きな古墳が在るんですわ。

そんな訳で我が街とも深い、ご縁が有るお方なんでっせ。

(日本武尊=ヤマトタケルノミコトの銅像)


日本書紀を紐解けば、景行天皇の皇子で東国へ征伐に向かい
現在の静岡県や千葉県で豪族を服従させ、ヤマトへの帰路
伊吹山での戦いで大きな傷を負い現在の三重県亀山市で死亡。

日本武尊(ヤマトタケルノミコト)のご遺体は白鳥となり
ヤマトの御所市を経由して河内の国は古市に降りた後に
最後はここ大鳥の森に留まわれたと記されてますんや。

我が街にも「白鳥神社」が在り、お祀りをされてまっけど。

(大鳥大社の ご神紋)


ヤマトタケルノミコさまの象徴は「白鳥」ですわ。

その「白鳥」をご神紋にされているようでんな。

(大鳥大社 二の鳥居)


前回に訪れた際には、この鳥居は丸い柱で出来ている
普通に考えて写真も撮らなかったような記憶ですわ。

だけどネットで検索したら柱は八角で造られていると判明。

(大鳥大社 八角の柱で造られた 二の鳥居)


八角の柱で出来た珍しい鳥居だと、今回は確認しましたで。

鉄ちゃん爺やも、こんな鳥居を見た記憶がおまへんわ。

(大鳥大社 拝殿)






(立派な 桧皮葺の屋根)


大鳥大社は出雲大社に次ぐ古い建築の様式だと云われ
この建て方を「大鳥造り」と呼ぶんだって。

拝殿の裏手に本殿が見えてますが中には入れまへんで。

(大鳥大社の 本殿)




ネットで調べると一之宮は一つだけじゃ無いんだとか。

神社同士の争いもあって複数の一之宮が存在するそうで
五畿内を外れると三つも四つも有っても不思議じゃない。

でも伊勢神宮の様に別格で一之宮に含めない神社も
全国には多くあるようにも聞いてますんや。

出雲大社だとか熊野那智大社に熱田神宮などの皇室に
関連するような神社は、確かに選ばれてまへんな。

だから当時の朝廷の支配下に無かった東北北部や
北海道には一之宮など本来は存在しまへんのや。

基本的には西暦927年(延喜5年)に完成した
延喜式の第9巻~10巻に記載されている神社から
式内社(しきないしゃ)と呼ぶんだけどね。

選ばれたそうで当時の国司が赴任すると真っ先に
参拝したのが一之宮と呼ばれる神社なんだって。

一之宮から三之宮までが普通は選ばれたようだけど
上野の国では一之宮から九之宮まで有るのには驚き!

これから全国の一之宮を訪れながら、色んなお話を
順番に紹介しようと考えてますんや。

明治以降になってから「一之宮」を名乗るようになった
北海道神宮などは「新一之宮」と呼ぶことも有るとか。

それじゃ今日はこれでお仕舞にしまひょ。

ほんなら~ これで、さいなら~🎵



























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錦織神社をデジカメ散歩

2017-01-21 18:49:06 | 神社
南河内の山々から水を合わせ大きな川となる。

大和川水系の一番大きな支流を「石川」と
呼びますんや、我が町の東側を流れてお隣の
藤井寺市と柏原市で大和川に合流しますんや。

(羽曳野大橋から 石川の上流を撮影)


遠くに見える山並みは向かって右側が「金剛山」
左側が「葛城山」山の向こうは奈良県になりまぁ。

手前に見える丘陵が「源頼朝」のご先祖になる
「河内源氏」発祥の地で、当時は石川郡壷井郷。

現在も「河内源氏三代」の墓が残されてまっせ。

反対の下流側を撮影したらこんな感じですわ。

(羽曳野大橋から 石川の下流を撮影)


ここから約3kmぐらいで大和川に合流しますんや。

現在の大和川は西へ流れて大阪湾へ注いでまっけど
江戸時代の元禄時代までは、北西に流れ下り三つに
別れて大きな湿地帯と沼か池を造っていたそうですわ。

最後は淀川と合流しながら大坂城を巻くようにして
中之島から大阪湾へと流れてたそうですわ。

(石川を背景にして 自分撮り)


中世には「石川」も水量が豊富だったので当時は
京都から船で淀川と大和川を遡り1~2日ぐらいで
ここ、石川郡の壷井郷まで来れる感じになるんだとか。

騎馬で走れば一日で京都の地に辿りつくことも可能。

だから「河内源氏」の源頼義や源義家はこの地で
京都の情勢を把握できる、安全地帯でもあったとか。

それじゃ、ここから4kmほど石川を遡上しまひょ。

(南阪奈の 高速道路を通過)


ここを通過したら我が町から、次は富田林市でっせ。

この街も中世の末から栄えた寺内町が残ってますんや。

底の浅い船なら昔は富田林まで遡上できたとのこと。

(富田林市の マンホールの蓋)


最初の画像で紹介した金剛山と葛城山を背景にして
富田林の寺内町が描かれているようでんな。

ツツジが描かれているのは町の花を意味するのかな。

それでは「石川」を離れて「錦織神社」へ行きまひょ。

(郷社 錦織神社の石碑)


(錦織神社 石の鳥居)


毎年ながら2月に確定申告の為に、この前を通過して
近くに有るスバルホールの会場へ行くんですわ。

往復の電車賃が460円、昔は税務署だったから
自転車で行けたのに、ここまでは片道約6kmかな。

郷社と記されているから、村の鎮守さんかな?

たいした神社でもないだろうと、勝手な判断を。

そんな訳で拝殿まで行ったことが無かったんですわ。

(錦織神社の 由来書き)


テニスの錦織圭選手が有名になり、名前が同じ神社。

話の種になるかなと、初めて参詣することにしました。

錦織神社のHPでも錦織圭選手を応援してます~🎵

こんなのも最近でっけど、見つけましたんや。

(錦織神社の参道)


約150mぐらい続く立派な参道でっしゃろ。

処で「錦織神社」にフリガナを付けまへんでした。

実は「錦織」の読み方が4~5種類もおますんや。

富田林市の地名では「錦織=にしきおり」ですわ。

内の奥さんに聞けば昔から地元では「にしこおり」と
呼んででいたよと、話を聞いたこともある。

HPで調べたら「にしこり」「にしごり」とか
地元でも、呼び方がバラバラなのには驚き!

テニスの錦織圭(にしこりけい)さんだったよね。

オペラ歌手は錦織健(にしきおりけん)さんのはず。

(錦織神社の 境内図)




高級な綾織りや錦織りを得意とした「錦織氏」が
滋賀県と共にここ南河内にも住み着いたとの説。

「錦織氏」の氏神さんだったのかもしれまへんな。

我が町も「西文氏=かわちのふみし」が渡来して
文字を日本に伝えたとの説があるんでっせ。

西暦の5世紀~7世紀に掛けて朝鮮や中国から
多くの渡来人がここ南河内に移り住んだそうですわ。

(錦織神社の神門 & 狛犬)


Wikipediaでは「錦織神社=にしきおりじんじゃ」

大阪神社庁のHP「錦織神社=にしこおりじんじゃ」

文化庁のデーター「錦織神社=にしごおりじんじゃ」

富田林市のHPではご丁寧にもカナがふってまへんわ。

どれが本当なのか、誰も断定が出来ないという事か?

(国の重要文化財 表示板)


(錦織神社 本殿)




郷社の神社とは思えない、これは立派なお社でっせ。

再建が南北朝時代の西暦1363年(正平18年)
約650年も昔に造られた本殿だったとは驚き!

河内の国は南北朝から戦国時代まで戦乱に明け暮れ
南北朝時代の建物が残っていたとは半信半疑でした。

HPで確認しても、南北朝時代の建築でしたわ。

平安時代中期の瓦が出土もしているんだって。

正面から見たら唐破風(からはふう)の上に
三角形の千鳥破風(ちどりはふう)の屋根を
重ねた入母屋造り(いりもやつくり)の構造に
なっているのが分かりまっしゃろか。

江戸時代には良く見られるが南北朝時代には
珍しい「錦織造り」と呼ばれているんだって。

日光の東照宮に影響を与えたとの説がおます。

そんな立派な神社だったのかと反省した次第。

(参道に 天誅組河内勢 顕彰碑)


明治天皇の叔父に当たる中山忠光を盟主に仰ぎ。

明治維新の直前に決起したれども、紀州藩や
津藩との戦闘に敗れて悲運の死を遂げた60名。

河内勢で60名の名前が刻まれていますんや。

決起するのが数年早かったという結果でしたな。

戻ってからHPを見たら毎月の1日と15日に
拝殿の扉が開かれて、本殿の側まで入場できると。

次回は、見事な彫刻や朱塗りの本殿をデジカメで
撮影に来ようかなと考えたんですわ。

今回は垣根の外からの撮影でお仕舞でしたわ。

ちなみに関東では小田原市の錦織神社が、最近は
錦織圭選手を応援する神社として人気だとの話。

他には長野県の松本市や岡山県の久米郡などにも
同じ名前の「錦織神社」が存在するようでっせ。

でも、富田林市の「錦織神社」が全国では一番
立派な神社だと考えて良いんじゃないのかしら。

錦織圭選手がここを訪れたとは聞いてまへんけど。

ほんなら、今日はこれで、さいなら~🎵

































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京都 北野天満宮を訪ねて~🎵

2016-12-04 13:34:40 | 神社
下鴨神社を出て次は何処へいこうかな?

やってきたバスに乗ってから考えましたんや。

北大路通を西へ走り、西大路通を南下するらしい。

それじゃ、北野天満宮へ行くことにしまひょ。

北野白梅町のバス停で下車となりますんや。

反対側には京福電鉄の駅舎が見えてまっせ。

(京福電鉄 北野白梅町駅)


最近は「嵐電」の愛称で呼ばれる方が多いかも?

現在は京福電鉄の北野線はここが終点だっせ。

鉄ちゃん爺やが高校生だった昭和33年頃までは
北野天満宮の前に、終点の北野駅がおましたんや。

だから現在は何で? ここが終点になってるの?

(京福電鉄 モボ2001形)(旧塗装の車両)


元は北野天満宮へお詣りする方の為の路線でした。

それが今出川通りの道路拡張と京都市電延長の為に
現在の西大路通りで終点となったんですわ。

その市電も廃止になり、今はバス利用が中心かな?

それじゃ~ 10分ほど歩くことにしまひょ。

今出川通りを東へ向かい、小さな川を渡ると左手に
大きな鳥居が見えてきましたで。

(北野天満宮 一の鳥居)




戦前までは「宮」を名乗れるのは、ご祭神が天皇か
皇祖にあたる神社しか許可されない時代がおました。

現在でも「神宮」と呼ばれる神社の大半がその主旨を
守ってますが、天神さまは戦後になってから「宮」に
復帰でんな、普通なら「大社」と名乗るべきかも。

民間人をお祀りする神社として、天満宮は例外で
その理由などは、後で書き込ませてもらいまひょ。

(北野天満宮の 参道)




(神の使い なで牛)




ご祭神の「菅原道真公」は「丑歳」のお生まれだった。

亡くなられたのも「丑年」の「丑の日」だったとか。

亡くなられた、ご遺体を牛に乗せて運ぼうとしたら
牛が座り込んで、動かなくなったとの伝説も。

そんな訳で各地の天神さまには牛が神の使いとして
境内に「なで牛」として置かれてまっしゃろ。

鉄ちゃん爺やも腰痛だから「なで牛」の腰の辺りを
なでてお願いして行きまひょ。

(北野天満宮の 楼門)




(菅原道真公の 御歌)


これは、小倉百人一首に登場する和歌でんな。

手向山とは、奈良公園の手向山八幡宮にお詣りした
その際のことを詠んだものだとされてますかな。

(北野天満宮の 神紋が描かれた提灯)




「星梅鉢の神紋」は良く知られているようで、各地の
天神さまでも、共通の神紋として見かけまっしゃろ。

でも~ 「三階松の神紋」は此処だけの物かしら?

(北野天満宮 世継ぎの梅)




この梅の木は明治天皇の皇后であった正憲皇太后が
ご成婚される際に、京都御所から持ち出されて
お手植えされたけど、近年になり枯れてしまったとか。

それで京都御所から譲り受けた、二代目の梅の木だとの事。

(北野天満宮 本殿への回廊)


北野天満宮は一の鳥居から楼門を潜り抜けて、拝殿へ
真っ直ぐに向かえば本殿があるのが普通でっしゃろ。

北野天満宮は画像で見て頂けば分かると思いまっけど
一旦は左へ曲がって、中門を潜る様式になってますんや。

これは奥に地主神社が昔からあって、それを避ける為に
本殿は中心線から左側に、配置されているんだとか。

(北野天満宮 中門=三光門)


この立派な三光門を潜ると前方に本殿が見えてきまっせ。

この中門と東門は国の重要文化財に指定されてるんだって。

見上げると立派な彫刻が施されてまっせ。

(三光門の 彫刻)






それでは、本殿へお詣りさせてもらいまひょ。

若い頃に来たきりで、50数年ぶりかもしれまへん。

(北野天満宮 本殿)(国宝)






本殿は昭和34年に国宝に指定されたそうですわ。

豊臣秀頼が造営した約400年前の建物なんだって。

天満宮は日本全国に在って、学問の神様として受験生や
親御さんには、篤い信仰が今でも続いてまっしゃろ。

だけど元々は恐ろしい怨念を持つ神として朝廷から
「怨霊=おんりょう」鎮めるためにお祀りされたのが
始まりで、非業な死を遂げた方をお祀りする神社でした。

「御霊信仰=ごりようしんこう」と言いまして平安時代
怨みを持って死んだり非業な死を遂げた人間は
人々を脅かすような天災や疫病を招くと信じられてました。

「菅原道真」は平安時代には最も恐れられた怨霊でしたんや。

(北野天満宮 ご朱印)


醍醐天皇と藤原時平の策謀により大宰府に左遷されて
ご当地で亡くなられたのが903年(延喜3年)2月25日

だから天神さまの縁日は毎月25日となってまっしゃろ。

醍醐天皇の皇太子や藤原時平の自身も急死してしまい
左遷の謀議に参加した右大臣源光も狩りの最中に溺死。

おまけに次の皇太子も幼くして亡くなりますんや。

世の人は菅原道真公の祟りが原因だと考えたんだって。

醍醐天皇は左遷の詔を覆し右大臣と正二位を贈位するも
疫病や水害がその後も続いたようでっせ。

今度は醍醐天皇の住まわれていた御所の清涼殿に落雷。

菅原道真公の左遷に関係した大納言・藤原清貫が即死し
近くにいた宮廷官僚の3人もほどなく死亡。

醍醐天皇も落雷からまもなく病気になり3か月後に崩御。

(国宝 北野天満宮 本殿)


醍醐天皇の皇子である村上天皇が947年(天暦元年)
北野の地に、「菅原道真公」をお祀りしたのが最初で
藤原時平の弟である藤原忠平が協力したとのことですわ。

その後、忠平の長男・藤原師輔が土地を提供して大きく
なったのが現在の北野天満宮の敷地なんだって。

時平の一族が断絶し、忠平の一族はその後に繁栄し
藤原道長で全盛期を迎える事はご存じだと思いまっけど。

(北野天満宮の中門を 本殿の境内から撮影)


「北野天満宮天神」の神号は987年(永延元年)に
一条天皇から与えられたそうですわ。

天皇陛下から命名されたので、現在でも天満宮の
名称を名乗ることが許されているんでしょうな。

日本三大天神と呼ぶことがおますんや。

ここ北野天満宮と亡くなられた大宰府天満宮は当然で
他に大阪天満宮か防府天満宮のどちらかを加えるとか。

四大天神にすれば良いのに、日本人は三大に拘って
人を迷わすような呼び方をするもんですな。

天満宮が学問の神様に変わったのは江戸時代の頃で
寺子屋の教材や、歌舞伎などが影響したんでしょうな。

(北野天満宮 参拝の栞)


(北野天満宮 境内の梅)


  「東風(こち)吹かば 匂いおこせよ 梅の花

    あるじなしとて 春なわすれそ  菅原道真公」

ここも梅の名所ですが、この時期は冬枯れでこんな感じ。

紅葉の時期は「もみじ苑」が在るんでっけど大人700円
しかも入場待ちの長い行列なので、諦めましたんや。

又の機会に、訪れることにして退散しまっさ。

(渡辺綱 寄進の石燈籠)




平安時代の源頼光の四天王の一人だった渡辺綱が京都の
一条戻り橋で、夜中に若い女性が家に連れて帰って欲しいと
頼んだので馬に乗せた処、これが女性に化けた鬼だった。

渡辺綱が刀で腕を切り落として、難を逃れた伝説がおます。

北野天満宮のご利益で、命が助かったとのことで渡辺綱が
石燈籠を寄進したと書かれてますな。

(境内に 織部燈籠 )




何でこんな場所に、キリシタン灯篭とも呼ばれ
古田織部が好んだと言われる「織部燈籠」が
置かれているのかは、分かりまへんでしたけど。

マリア様の姿が彫られているんでしたよね。

長くなりますので、本日はこれにてお仕舞い。

ほんなら~ これで さいなら~🎵











コメント (8)
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京都 下鴨神社の紅葉を訪ねて~🎵

2016-11-26 19:02:53 | 神社
久しぶりに京都へ出かけまひょ。

紅葉もそろそろ見頃かもしれまへん。

往きは近鉄特急に乗ってみましたんや。

(近鉄特急 22600系 京都行)




乗車した時はほとんどが空席、だけど次の大和八木駅で
お客が乗ってきて、ほとんどの席が埋まりましたわ。

普段は空席も目立つ、京都行き特急なんでっせ。

JR新快速や京阪特急や阪急なら普通料金のみで京都迄。

こちら近鉄は特急料金で900円も取られますんや。

(JR京都駅 改札口前)


この時期の京都は観光客で大賑わいでっせ。

やはり観光客は、溢れんばかりの人出でんな。

本来は東山の清水寺か永観堂もしくは高台寺辺り
でも~ この時期は紅葉見物のお客で大混雑でおます。

写真も撮れない状態なのでパスしまひょかな。

下鴨神社が良いかもと、京都駅前バスターミナルへ。

(市バス・京都バス 一日乗車カード)(500円)


(河原町通りを通過中の 京都市バス)(平成24年撮影)


京都市内のバスは1回乗ると230円なんですわ。

3回乗れば元が取れまっしゃろ。

(賀茂大橋から 平成24年撮影)


画像の左側が賀茂川で右側が高野川と言いまんねんで。

ここで合流してからは鴨川と呼び方が変りますんや。

中央に森が見えるのが「糺の森=ただすのもり」で
下鴨神社の参道にもなる、有名な処でっせ。

それじゃ下鴨神社を画像で紹介しまひょ。

(賀茂御祖神社=かもみおやじんじゃ)


普通は下鴨神社と呼んでまっけど、正式にはこのように
賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)と呼びますんや。

2kmほど先に上賀茂神社がおまして、両方を合わせて
賀茂の大神と呼び、伊勢神宮と並び皇室にとっては
平安京を鎮護する大切な神様とされてきたそうですわ。

今日では5月の「葵祭=あおいまつり」で有名でっかな。

(御手洗・三本杉の説明板)




御手洗と書いて「みたらし」と読んでくださいね。

誰でっか~ 「おてあらい」と読む人は!

「みたらし団子」の語源になったんだとか。

「みたらし団子」は下鴨神社の境内で売られていた物が
全国に広がったようで、京都では5個で1串でんな。

砂糖醤油で包んで3串で1セットになってますんや。

一番上だけが少し大きくて、下4個が小さいんでっせ。

大きいのが頭で、下4個とで人間の姿を現すんだとか?

関東では4本が1串だったような記憶がしまっけど。

(下鴨神社の 鳥居と紅葉)






京都はイロハモミジが有名なんですが、下鴨神社の
紅葉は京都市内でも、少しだけ遅いとか言われてまんな。

1週間ぐらい早かった色付きだったかもしれまへん。

(賀茂斎院=かもさいいん 御所の復元)


弘仁元年(810年)嵯峨天皇の皇女だった有智子内親王を
初代に未婚の内親王か女王(親王の娘)が3年間の禊を経て
斎院(さいいん)と呼ばれる役目に就かれたそうですわ。

約400年間続き、鎌倉時代初期の1212年(建暦2年)の
後鳥羽天皇の皇女だった礼子内親王の退下まで35代に渡り
置かれましたが、皇室の衰微により廃止となったんだって。

この建物は斎院が下鴨神社に参拝に来られる際に使用した
斎院御所を絵図面から復元したものでしょうかな。

日常は紫野と呼ばれる処に斎院御所が置かれて居たそうですわ。

現在の北野天満宮の少し北側になるようでんな。

(賀茂斎院 御所旧跡 説明板)


伊勢神宮にも斎宮(さいくう)と呼ばれる同じような方が
飛鳥時代から鎌倉時代まで居られたそうで、こちらは
内親王の母親か父親の天皇が亡くなられたら京都へ戻り
一般人として、その後の生活を送られたそうです。

賀茂斎院は5代の天皇に渡り勤められた選子内親王の様に
必ずしも天皇や母親が亡くなられても、退下することなく
長く勤められた方が多いと記されてますかな。

特に平安時代には京都に近い事も有り、伊勢神宮の斎宮よりも
京都御所に近い、賀茂斎院の方が上位に在ったとのことで
宮廷サロンと共に平安時代を謳歌する舞台となったようでっせ。

(下鴨神社の境内)










(下鴨神社 拝殿への入口)


下鴨神社の本殿は残念ながら写真では写せないようで
あちこちから眺めましたが、こんな感じしか撮れまへんわ。

(下鴨神社の本殿の一部)




(下鴨神社の本殿)(説明板から転写)


光線が入って写りが悪いのでご免なさいね。

興味の有る方は特別拝観で4万円~5万円を納めれば
予約して毎日80名限定で本殿を拝観できるとか。

HPでも本殿の画像は掲示されていないようですね。

(下鴨神社の ご祭神)


神武天皇のお母さまが東本殿のご祭神のようですね。

西の本殿には上賀茂神社のご祭神である
賀茂別雷命(かもわけいかずちのみこと)のお父様ですな。

元はこの地に住んでいた賀茂氏の氏神さんだったはず。

神武天皇のお母さまを加えて皇室の神様になったのかしら?

(下鴨神社の ご朱印)


なるほど~ 山城の国では、ここが一之宮なんだ!

右上の「二つの葵」が下鴨神社の神紋のようでっせ。

徳川家「三つ葉葵」の家紋はこれをアレンジしたとか?

本殿の手前に、こんなお詣りの説明板が

(鴨の社へ えと詣り)


(巳歳と 未歳の方の 守護社)


鉄ちゃん爺やの干支は「巳」だから、お詣りせねば~

小銭が無くて100円玉をお賽銭に、ご利益が貰えるかな?

(重要文化財 橋殿)




(下鴨神社の 境内図)


(下鴨神社 剣の間)






(重要文化財 下鴨神社の楼門)






「葵祭」で斎王代が手を水に浸して禊(みそぎ)をされる
そんな映像をテレビご覧になったことがおまっしゃろ。

現在は斎院の代わりに斎王代とよばれる方が選ばれて
「葵祭」の主役を務めておられますんや。

(下鴨神社内 御手洗社=みたらししゃ)


(御手洗社前 人工の川)


この日は水が流れてませんが、「葵祭」の日には斎王代が
手で浸せるぐらいに水を流すんでっせ。

大昔は賀茂川で禊(みそぎ)をやったんでしょうな。

(御手洗社の前から 本殿方向を撮影)


上賀茂神社と隔年の交代で、御手洗社(みたらいしゃ)の
川に見立てた処で、禊(みそぎ)をされる場所がここでっせ。

余談になりますが、斎王代は一般公募やオーデションなどでは
選びません、京都の名家から未婚の娘さんが選ばれますんや。

なんでも数千万円の費用を負担することが条件で、よほどの
名家や資産家でないと応募できないとの噂でおますけど。

だから親子三代や姉妹が選ばれるケースが多いのかも?

それでは帰りは「糺の森」を散策して行きまひょかな。

(下鴨神社 一の鳥居)






(糺の森 駐車場)




「糺の森」は大昔の原生林の名残を残す京都では珍しい森で
下鴨神社の参道として、昔から保存されてきたようでんな。

現在の樹木は約200年ぐらいと、さほど古くは無いですが
京都市民には憩いの森として親しまれているそうですわ。

(糺の森の 画像)








この参道を利用して、「葵祭」の際には、流鏑馬の神事が
現在も行われているそうでっせ。













(下鴨神社の 摂社 河合神社)




玉依媛命をお祀りしているので、日本一の美女だとか
そんな訳で、女性の参拝客が押し掛ける神社なんだって?

ここが「糺の森」の入口にもなるんですわ。

(河合神社の拝殿)




ここは「方丈記」を書いた鴨長明が禰宜としてお勤めした
神社で、彼の考案した「方丈の庵」が再現されてまっせ。

(鴨長明 方丈の庵 復元)








それでは「糺の森」に戻ってみまひょ。

ここで黄葉の写真を写してみましたで。

(糺の森 黄葉を撮影)




(史跡 糺の森 石碑)




長くなりましたので、今回はこれでお仕舞にしまひょ。

次回は足を延ばして北野天満宮を紹介しまっさ。

ほんなら~ これで、さいなら~🎵
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河内の国 一之宮  枚岡神社を訪ねて

2016-11-19 17:07:46 | 神社
司馬遼太郎記念館から近鉄の八戸ノ里駅へ。

夕方まで時間も有るので枚岡神社へ向かいまひょ。

「枚岡神社」は昔の河内の国では一之宮なんでっせ。

河内の国に50年間も住みながら鉄ちゃん爺や
恥ずかしながら、初めての参拝になりますんや。

(枚岡駅を通過中の 近鉄特急)


(近鉄・枚岡駅の 駅名標)


鉄ちゃん爺やは、生まれと育ちが摂津の国になりまぁ。

それで「住吉大社」の方に、足が向いたんでしょうな。

昔の摂津の国では一之宮が「住吉大社」なんですわ。

東大阪市で一番有名な神社といえば、お隣りに在る
石切剣箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)でっしゃろな。

「でんぼ」の神さんで「石切りさん」と呼びまぁ。

だから近鉄の急行は枚岡駅には停まらず二つ目の
石切駅に止まりますんや。

枚岡駅の山側に神社が在るのは知ってましたけど。

(枚岡駅 構内の矢印)


「下り藤」の神紋を後で説明しますからね。

ここ枚岡駅も1000分の33と云う急勾配の途中で
生駒山系の麓から標高・約45mほど登った処でっせ。

(枚岡神社 二の鳥居)
 

駅の地下道を潜り抜けたら、目の前が急な石段でっせ。

これが一の鳥居だな、そのつもりで撮影したんですわ。

帰ってネットで調べたら一の鳥居は近鉄・枚岡駅よりも
坂を下った処にあると記されてまんがな。

(二の鳥居前  荘厳な文字の石柱)




枚岡神社の参道から下を走る近鉄・枚岡駅を撮影しまっさ。

私がダウンロードした国土地理院・標高のGPSで検索したら
この付近で標高が約55mぐらいと表示されますかな。

(近鉄・枚岡駅を撮影)


ここから振り返ったら遠くに大阪市内が遠くに見えてまぁ。

ズームインして写したらこんな感じに成りまんな。

(大阪市内を ズームイン)


お天気が良ければ、大阪市内は勿論のことながら
遠くに大阪湾や神戸・六甲山の山並みも見えまぁ。

それでは続けて石段を登って、拝殿へ向かいまっせ。

(枚岡神社 三の鳥居かしら?)




この鳥居の前を道路が横切ってますんで、現在は
これから先が「枚岡神社」の境内のようでんな。

(明治の元勲 三条実篤の)


帰ってネットで検索したら、明治の元勲の一人
三条実篤(さんじょうさねとみ)の書体から
枚岡神社の四文字を選んで作成したんだって。

この鳥居を潜り抜けると、一旦はゆるやかな
参道が200m~300mほど続きますんや。

(枚岡神社の参道 振り返って撮影)




この日は「七五三」のお詣りが有ったようで
着飾った子供さんに、祖父母や両親が本殿へ
向かう姿が印象的に感じられましたよ。

(枚岡神社や 拝殿への石段)




「枚岡神社」の拝殿へは急な石段がおよそ80段
老人には、きついようで子供さんは元気に先へ先へ
年寄りは遅れながら、息を切らして登ってはりまぁ。

石段から拝殿の全景を写そうと構えましたが
やはり大きな建物で、諦めましたわ。

(石段の下から 拝殿の一部を撮影)


(枚岡神社 拝殿前を撮影)


(枚岡神社 拝殿の側面)


(枚岡神社の ご朱印)




(枚岡神社の 本殿)




右から第二殿・第一殿・第三殿と三つの本殿しか
写りませんが、その左側に第四殿が在るそうです。

拝殿の前に枚岡神社が提供する画像がおましたんで。

光線が入りましたが、貼り付けて置きまひょ。

(枚岡神社の提供 本殿説明画像)


第一殿 天児屋根命(あめのこやねのみこと)

天照大神が天の岩戸にお隠れになった際に
岩戸の前で、どんちゃん騒ぎを行ったようで。

岩戸から覗かれた天照大神に鏡を差し出し
天の岩戸から、導き出された神様ですかな。

その後に瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に従って
天孫降臨をされたと神話には記されてますかな。

第二殿 比売御神(ひめみかみ)

この方は、天児屋根命の妻になる神さまだとか。

この天児屋根命(あめのこやねのみこと)と
比売御神(ひめみかみ)の二つのご祭神は
中臣氏(後の藤原氏)の祖先になる神様だとか。

奈良時代にこの二つのご祭神を分祀したのが
現在の奈良・春日大社の始まりだとのこと。

それで「枚岡神社」を元春日神社と呼び
同時に第三殿と第四殿の二つの神様を
逆に春日大社から枚岡神社に分祀したんだとか。

(枚岡神社の ご祭神)


第三殿 経津主命(ふつぬしのみこと)

藤原氏の氏神さまに当たる千葉県に鎮座する
香取神宮のご祭神のようですな。

第四殿 武甕槌命(たけみかづちのみこと)

これも藤原氏の氏神さんにあたる関東の
鹿島神宮のご祭神になりますんや。

だから現在では奈良の春日大社と同じ
四つの神様が、お祀りされてますんで
神紋も同じ「下り藤」なんですよ。

「下り藤」は藤原氏の家紋でもありますね。

(拝殿前の 十八弁菊の提灯)


(拝殿前から 急な石段を見下ろすと)




国土地理院のソフトで見ると拝殿の標高は約90m。

それでは参道へ戻ってデジカメで撮影してみまひょ。

(参道の奥から 撮影)




石燈籠や鳥居は珍しくもないでしょうが、これは
「剣」かしらそれとも「鉾」でしょうか?

ネットで検索したけど、定かじゃおまへんでした。

(枚岡神社の参道  献納された菊の花)




どこの神社でも「神獣」が見られますが、ここは
春日大社と同じで「鹿」が置かれてますな。

天神さんなら「なで牛」でしたかな。

(枚岡神社の なで鹿 左側)


(なで鹿の 説明書き)


(枚岡神社の なで鹿 右側)


(枚岡神社境内 献納された方の石碑)




鉄ちゃん爺やの通院する病院の院長さんを発見。

確か50万円以上を献納した方が石柱に刻まれるはず。

他はほとんどが東大阪市の方が多いように思いまぁ。

最後に東大阪市は人口が約50万人で大阪府では
大阪市と堺市に次ぐ第三位の都会になりますんや。

全国で50万人以上の都会で昔の一級国道になる
二けたの国道が通ってないのは、東大阪市と
埼玉県の川口市だけというのをご存じかしら?

(東大阪市の マンホールの蓋)


鉄ちゃん爺やの記憶では1967年(昭和42年)2月に
旧の布施市・河内市・枚岡市の三つが合併して
出来た街で、世界に通用する先端技術の中小企業が
多く存在するのが大阪では東大阪市だと思いますんや。

国産のロケットや人工衛星は東大阪市の会社が無ければ
打ち上げができないとも言われますかな。

それでは今回は、これにて終了でおます。

ほんなら~ さいなら~🎵










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鉄ちゃん爺や 住吉大社をデジカメ散歩

2016-10-08 18:56:21 | 神社
住吉大社は初詣の三が日で約200万人が
参拝する、摂津の国・一之宮でおます。

大阪人は「すみよっさん」と親しみを込めて
住吉大社をこのように呼びまんねん。

昨年にも紹介しましたけど、もう一度やりまひょ。

(住吉大社 一の鳥居前)




西の大鳥居と呼ばれ、住吉大社への正門に当たり
ここの鳥居は後で説明しますが、柱が円柱なんです。

(住吉大社の 反橋=そりはし)


(反橋が 水面に写ってますよ)






大阪人は太鼓橋(たいこばし)とも呼んでまっけど。

朱塗りの橋の本体は老朽化で何度も架け替えられて
現在の物は2009年(平成21年)なんですわ。

基礎石の部分は慶長年間に淀君が奉納したとのこと。

豊臣秀頼との説もあり、400年前のままだとか。

現在は池に成ってまっけど、中世には大阪湾の入り江で
海岸に沿って建立された神社だった名残りでっしゃろな。

平安時代には熊野古道は住吉大社の東側になる
上町台地を通って南に延びていたんだそうですわ。

住吉大社の鳥居前は海の中、江戸時代に出来た
紀州街道はまだ浅い海辺だったようでんな。

(禁裏御祈祷場所の石碑)


本来は国の安寧を祈祷する皇室の神社でしたんや。

住吉の大神と神功皇后をお祀りする神社で、戦前には
官幣大社として国家鎮護の役目をしてたそうですわ。

昔は庶民の神さまじゃ無かったんでっせ。

だから庶民は初辰さんのような摂社にお参りしたんだね。

戦前までは津守家(つもりけ)が代々の宮司を司り
全国約2300社ある住吉神社の総元締めだったとの事。

鉄ちゃん爺やが学生の頃には、地元だった関係もあり
氏神さまじゃ無いんだけど、馴染の神さまでしたんや。

(住吉大社 反橋の上で自撮り)


住吉大社の公式HPによれば、反橋(そりはし)の由来。

地上にある人の国と、天上にある神の国とを繋ぐ
掛け橋として、虹を模して造られたと記されてますな。

この橋を渡ることで、罪や穢れが祓われるんだって。

(反橋の上から 境内の池を撮影)


この反橋(そりはし)は長さが約40m 幅が5.8m
中央の高さが4.4mで 勾配が最大で48度もおまっせ。

文豪・川端康成が小説「反橋」でこのように書いてまぁ。

「上がるよりも、おりる方が、こはいものです」

「こはいもの ⇒ 怖い物の 文語体」

そう言えば鉄ちゃん爺やの子供の頃は、もっと足元が急で
今のように、滑り止めの部品が無かったような記憶。

反橋を渡るというよりは、反橋を登る感じでおますけど。

一の鳥居から反橋を渡るのが正式な参拝なんだって。

反橋を渡り終えると、珍しい手水舎(ちょうずしゃ)でっせ。

(住吉大社の 手水舎=てみずしゃ)




写りが悪いかもしれまへんがウサギの口から水が。

ご祭神の一つ神功皇后(じんぐうこうごう)の遺言で
卯の歳 卯の月 卯の日に 神功皇后をお祀りしたので
住吉大社ではウサギが神の使いとされてますんや。

(住吉大社 本殿入口の 角鳥居)


鳥居の柱が丸じゃなくて、四角なのに気がつかれましたか?

明神鳥居なんですが、柱が四角なのは古い形で珍しいそうで
角鳥居とか住吉鳥居とも呼ばれるそうですわ。

有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)が
住吉神社と揮毫(きごう)された額が掲げられてまぁ。

住吉大社と呼ばれるように成ったのは戦後のことで
明治時代には住吉神社と呼んでいたんでしょうな。

(住吉大社 第一本殿 内部)


角鳥居は拝殿と本殿の中間にある鳥居から出来たとの説。

画像の奥に写っている赤い鳥居のような物がルーツなんだね。

(国宝 本殿四棟)


(第一本殿)


(第三本殿 & 第四本殿 裏側から撮影)


第一本殿から~第三本殿までの住吉の大神は海の神さまで
東西方向の縦に並び、第四本殿の神功皇后さまの本殿だけは
第三本殿の横に並ぶ住吉造りとよばれる珍しい配置でっせ。

全ての本殿が大阪湾である西を向いて建てられているのも
神社としては珍しいでっしゃろ、普通は南向きか東向き。

(第三本殿 & 第四本殿)


画像の向かって左側が第三本殿で、右側が第四本殿だっせ。

四つの本殿は共に江戸時代の文化年間の建物を式年遷宮で
20年に一度、修復しながら今日に至っているんだって。

(第二本殿 裏側から撮影)


(重要文化財 住吉大社の石舞台)




大阪の四天王寺と広島の厳島神社と並べて日本三大舞台
でも、住吉神社のが一番小さくて目立ちまへんけど。

毎年の卯の花神事には、ここで舞楽が演じられますんや。

これも慶長年間に豊臣秀頼により奉納された石舞台なんだって。

(ろうそく石)


住吉大社の東門を出た外側に不思議な石が残ってますんや。

記録には残ってまへんが、江戸時代の絵地図には、この辺りに
鳥居が描かれているんでっけど、その基礎石との説が。

でも四角の鳥居だったとしたら、この基礎石は誤りのはず。

木製の柱だったとしたら、可能性はあるのかな?

ネット仲間が勝手に、ろうそく石なんて名付けたようでっけど。

(住吉大社の 御文庫)






(大阪最古 御文庫の石碑)


江戸時代の享保年間に造られた、大阪では一番古い御文庫で
江戸時代から明治までの貴重な文書が保管されているんだって。

漆喰は新しく塗り替えられているけど、建物はそのままかな。

(住吉大社の 神楽女さん)


冠が独特で、中央に鏡を置いて、左右に神木の松を
さらに神の使いである白鷺が飾りに付けられてまっせ。

住吉大社では神楽女(かぐらめ)さんと呼びますよ
巫女さんと呼ばないのが、古い伝統の呼び方なんだって。

(2015年 神嘗祭にて)


(2015年 神嘗祭にて)


(2015年 神嘗祭にて)




(こんな大きな 大筒おみくじ)




第一本殿の裏側に二棟の校倉造りの倉庫が建ってますんや。

これも慶長年間に建てられた古い建物で、住吉大社の
ご神宝が保存されている、重要文化財に指定されてまっせ。

(重要文化財 住吉大社の 高倉)


住吉大社の辺りは、アメリカ軍の空襲から免れて
こんな古い建物が多く残っている訳でんな。

因みに現在の住吉区と住之江区は先の大戦で
アメリカ軍の空襲を殆ど受けてませんので
昭和初期の建物が、住宅街にも多く残っますんや。

(なでウサギ)




これは最近に置かれた物で、新潟県の糸魚川産の
翡翠(ひすい)で作られたんだって。

削って持ち出されないのか一寸だけ心配しまっけど。

そんなバチ当たりな人間など、お参りには来てないかな?

(本殿入口から 反橋を撮影)


(江戸時代 正徳三年の石燈籠)


住吉大社の境内には約600基の石燈籠がありまして
江戸時代から明治までの物が大半のようでんな。

この正徳三年の石燈籠は古い部類に入りまっしゃろか?

(江戸時代 天保時代の石燈籠)




(脇参道の 角鳥居)


一の鳥居の両脇にも参道が在ってこれは
一の鳥居の南に位置する入口の角鳥居。

これを進むと反橋を渡らずに南側から
住吉大社の本殿や神館に入ることができまぁ。

ネットで調べても不明なんですが、神官などが
住吉大社へ入場する通用門なのかしら?

住吉大社には丸い柱の鳥居も多く見かけますんや。

(住吉大社 楠珺社の 鳥居)


摂社や末社にも四角柱の鳥居もおますし
丸い鳥居の柱もおまして、由来が不明なんですわ。

特に正門である一の鳥居の柱が、何故に丸いのか
鉄ちゃん爺やには、大いなる疑問でおますんや。

最後に今年1月で廃線になった上町線の住吉公園駅の
構内と線路を再び、訪れてきました。

(昨年の 住吉公園駅構内)




日本一の終電車が早い駅で変な話題になってましたな。

現在は、線路も駅構内も解体されて、駐車場になってまぁ。

(現在の 旧住吉公園駅付近)


右側の建物の屋根だけが昔の面影が残っていて
ここに、線路があったとは思えない風景でっせ。

(昔はこんな 線路が在りました)


(上町線と 阪堺線のダイヤモンドクロス)


この珍しい線路も撤去されて大阪では何処にも
見られない、懐かしい画像になりましたな。

(住吉公園駅舎)


この駅舎の外壁だけを残して他は解体のようですわ。

こんな、記念写真用のパネルだけが置かれてまんがな。

(懐かしい 住吉公園駅の路面電車)


次回は住吉大社の門前町だった粉浜商店街など
昭和の香りが残る街を紹介しまひょ。

長くなりましたので、本日はお仕舞にしまひょ。

ほんなら、これで、さいなら~🎵

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住吉大社の 初辰まいり ご存じかしら?

2016-10-01 19:46:21 | 神社
住吉大社の境内「楠珺社=なんくんしゃ」と呼ぶ
小さな祠(ほこら)がおますんや。

楠珺社の名前は知らなくても、「初辰さん」と
言えば、年配の大阪人なら知ってはりまっせ。

「初辰さん」とは毎月・最初の「辰の日」に
お参りする、商売繁盛と家内安全の神さまで
本家の住吉大社より、この日は賑わいますんや。

(初辰まいりの ポスター)


10月は珍しく、1日が「初辰の日」になってまっせ。

同じく13日が二の辰、25日が三の辰となりまんねん。

「初辰まいり」を詳しく紹介させてもらいまひょ。

初辰の日には、AM6時半からお参りができるんでっせ。

先ずは最初にお参りするのが「種貸社=たねかししゃ」

(種貸社=たねかししゃ 小さな祠=ほこら)


倉稲魂命(うがのみたまのみこと)がお祀りされてまぁ。

早く言えば、お稲荷(いなり)さんと同じ神さまですわ。

ここで稲の籾を頂戴して、1番最初に参拝するのが
初辰まいりでは正式のルールなんだって。

お願いの種を頂くことから、資金調達や子宝の種でっしゃろな。

次は2番目の「楠珺社=なんくんしゃ」へお参りでっせ。

ここも字が異なりますが「宇迦魂命=うがのみたまのみこと)

同じく本来は、お稲荷(いなり)さんになりまんな

(楠珺社=なんくんしゃ お社=やしろ)


(楠珺社=なんくんしゃ 神殿の内部)


ここで参拝を終えたら、500円で小さい招福猫の土人形を
授かりますんや、奇数月には左手を挙げた招福猫で、人招き。

偶数月には右手を挙げた招福猫でこちらは、お金招きだとか。

(初辰さんの 招福猫の置物 小)




4年間で48体の招福猫を揃えて持参したら、中の招福猫と交換。

四十八辰=始終発達のゴロ合わせは大阪人らしいでっしゃろ。

さらに12年後には中の招福猫2体と小の招福猫48体を持参し
一番大きな招福猫と交換してもらうんだって。

大の招福猫を2体揃えるには実に20年以上もかかるんだね。

昔の人は偉かったんですわ、信仰で真面目に毎月のお参りをし
大きな招福猫を自宅の神棚に飾って、商売繁盛と家内安全。

鉄ちゃん爺やも船場の大店(おおだな)の神棚に飾られている
大きな招福猫が、店内を見下ろしているのを見た記憶がおます。

(大きな 招福猫)




3番目は「住吉さんの弁天様」とも称される「浅澤社=あさざわしゃ」

(浅澤社=あさざわしゃ 小さい祠=ほこら)


女性が住吉大社にお参りする際には必ずお参りをする
女性守護と美容や、芸事の上達をお願いする神さま。

昔は色街の芸妓さんには、特に人気だったそうでっせ。

ご祭神は「市杵島姫命=いちきしまひめのみこと」

最後の4番目にお参りするのが「大歳社=おおとししゃ」

(大歳社=おおとししゃ 小さい祠=ほこら)


ここのご祭神は大歳神(おおとしのかみ)

「種貸社」で種を植えて、「楠珺社」で稲穂を育て
「大歳社」で心願成就(しんがんじょうじゅ)の収穫。

収穫と共に商人は、集金も全てが叶うとのゴロ合わせかな。

こんな感じで「初辰まいり」が考え出されたんだそうですわ。

4つの神さまは周囲約0.5kmの処に鎮座されてますんや。

(初辰まいりの 幟)


楠珺社(しょうくんしゃ)が4つの祠(ほこら)の内で
神官が常駐されているようで、初辰まいりの日だけは
4か所に神官が居られ、ご祈祷もできるようでんな。

(楠珺社=なんくんしゃ ご神木)




天然記念物に指定されている巨木で、この地中に
白蛇が生息しているとも言われてますんや。

なんでも年1~2度しかお目にかかれないとか。

(初辰さんの 招福猫)


初辰さんの神事が始まったのは明治の初めごろとか。

大阪市内の新町とか南地とも言われる、色街の店主が
初辰の日にお参りをして、境内で土人形を買って帰り
自宅の神棚に飾ったら、商売が大繁盛したとのこと。

それを聞いた船場や島之内の商人が、ご利益を求めて
初辰の日に毎月お参りする慣わしが始まったんだって。

色街の芸妓さんも隆盛には、大いに貢献したんだとのこと。

(住吉大社駅構内 トイレの銘板)




明治一桁に生まれた鉄ちゃん爺やの祖母からの話で
戦前には住吉大社の修復のお金を出資したのは
初辰まいりを信仰した人達なんだよと。

住吉大社の本宮にお参りしなくても、初辰まいりには
欠かさずに訪れるのが、当時の大阪商人だったようでっせ。

毎月の初辰さんや、二の辰の日や三の辰を含めると
小さい招福猫の置物が1か月で3千体は売れるんだって。

最近は毎月にお参りするのが困難な他府県の方や
猫マニアの参拝客さんに向けて、中の猫が5千円
大の猫が1万円で提供されると、ネットで見かけます。

やはり4年~8年~12年と、毎月にお参りするのが
本来の姿なんですが、時代の流れでは致し方なしでっかな。

即金で買われた招福猫の、ご利益はどうなんでしょうな?

「えべっさん」のお祭りも関西では有名でっけど
本来の信仰を伴うのは「初辰まいり」の方でっしゃろか。

大阪人には馴染の神事でっけど、如何でしょうか?

次回は本家の住吉大社の隠れたスポットも紹介しまひょ。

ほんなら、これで、さいなら~🎵


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鉄ちゃん爺や  出羽三山神社 & 羽黒山  

2016-09-03 17:06:13 | 神社
湯殿山神社を後にしてバスは国道112号線を
庄内平野に向けて順調に走りましたんや。

この道は昔から山形県の村山地区と庄内地区を
結ぶ、物流の重要な道だったそうでっせ。

村山地区とは現在の山形盆地で山形市や東根市など。

庄内地区とは山形県の日本海沿いで庄内平野になりまぁ。

(国道112号線を走る 車窓から)




この辺りを出羽山地と呼び、月山や湯殿山など出羽三山を
含む山脈が、村山地区と庄内地区を隔てているようでんな。

冬場は豪雪地帯で月山では、7月でも夏スキーが出来るんだって。

月山の東側斜面に残雪が見えてまっけど、撮影は出来まへんでした。

45分ぐらい走ったら視界が開けてきましたで。

広々とした庄内平野に出てきたようでんな。

(山形県 庄内平野の田圃)


(羽黒山の 大鳥居)




赤い大きな鳥居をくぐり抜けると、鶴岡市の羽黒町でっせ。

出羽神社(いではじんじゃ)と読むのが正しいんだって。

鉄ちゃん爺やも、でわじんじゃ! と読んでましたけど。

平安時代の延喜式神名帳に、そう書かれているんだって。

(羽黒山の 宿坊)



鳥居のような門が見えてまっしゃろ、昔は山伏さんの
それも格式の高い家系だよと、今に伝えているんだって。

冠木門(かぶきもん)とか言うんでしたかな?

バスガイドさんの、話の受け売りで、おますけど。

ここで下車して、国宝の五重塔を見学するんだって。

(出羽三山神社の 石碑)




(随神門=ずいしんもん)




この門をくぐると羽黒山の、ご神域になるようですわ。

出羽三山を正式にお詣りする際の、入口とされてますんや。

(羽黒山の表参道 継子坂=ままこざか)


(羽黒山の表参道 神橋=しんきょう)


随神門(ずいしんもん)を過ぎると羽黒山では唯一の
下りの石段で、ここを「ままこざか」と呼ぶんだって。

何せ羽黒山は2446段もの石段が続いてますんや。

昔は日本一の数だったけど、熊本県の釈迦院とかいう
お寺が3333段の石段を完成させたそうで
現在は羽黒山の石段は日本で第2位なんだって。

石段を下り終ると、神橋と呼ぶ赤い橋に出ましたで。

(羽黒山 須賀の滝 & 祓い川)


月山の山腹から流れてきた川で、昔は修行をする山伏や
参拝者はここで、体を清めてから参道を登ったんだって。

この滝も江戸時代に月山から8kmもの水路を曳いて
作られたそうで、江戸時代には不動の滝と呼んだとか。

(国宝 羽黒山 五重塔) (高さ29.9m)




(国宝 五重塔 由来書き)


ご祭神は大国主命(おおくにぬしのみこと)でおます。

お寺から神社に変わったので、仏様から神様へでんな。





明治初めの「神仏分離令」で取り壊される運命に有ったが
地元民の熱意で、奇跡的に残ったんだそうでっせ。

「神仏習合時代」の五重塔が神社である境内に残っている
貴重な国宝で、南北朝時代の14世紀に再建された物だって。

何でも、東北地方では一番古い塔だそうですわ。

(羽黒山 表参道 杉の木とツーショット)


これなら、少しはスマートに見えまっしゃろ?

羽黒山の表参道には500本を超える杉の大木がおますんや。

樹齢が350年~500年という古い杉の木なんだって。

(天然記念物 爺スギ)




(爺スギ & 国宝 五重塔)


昔は側に、婆スギも植わってたそうですが倒れてしまい
現在は「爺スギ」だけが残っているとのこと。

(羽黒山 表参道 一の坂)


この参道を進むと、一の坂の次には急な二の坂が、それから
三の坂を登りつめると2446段で山頂に成るんだって。

普通に石段を登ると30分~45分ぐらいかかるとの話。

(出羽三山名前が 刻まれた石碑)


一人旅なら2446段の石段を登ることになるんでっけど
ツアー旅行なので、継子坂(ままこざか)を今度は登り
随神門(ずいしんもん)へ戻ることになりましたんや。

(羽黒山 継子坂=ままこざか 登り道)






杉の大木の横に小さく写っているのが、添乗員のSさんでんな。

ツアー客の確認を兼ねて一番最後を歩いて居られるようですわ。

(随神門=ずいしんもん ご神域から撮影)


(随神門=ずいしんもん 表側から撮影)


(出羽三山 絵地図)


(出羽三山 由緒書)


(山形県鶴岡市 マンホールお蓋)


ここから再び観光バスに乗車して羽黒山有料道路を通り
標高414mの羽黒山頂上まで、楽ちん~ でおました。

2446段を登らないと、ご利益がおまへんかも?

バスガイドさんの説明で、標高差は約270mですだって。

昨日の山寺を登った筋肉痛で皆さん、やれやれ~助かった!

(出羽三山神社 境内)


昔は寂光寺というお寺だったようでっけど、明治以降は
出羽三山神社として、神様に変わったそうでんな。

なにしろ、冬場は雪深い月山神社や湯殿山神社には行けまへん。

それで、ここ出羽神社(いではじんじゃ)に月山神社と
湯殿山神社の神様をまとめて、お祀りしてあるんだって。

世にも珍しい「三神合祭殿=さんじんごうさいでん」と呼ぶ
三つの神様をお祀りする拝殿がおますんや。

(出羽三山神社 三神合祭殿)(重要文化財)








「神仏習合時代」の名残を伝えると言われる
東北地方では最大の、茅葺建造物なんだって。

茅葺の厚さは日本一ではないかと思いますんや。

冬の積雪の為にに登拝できない、月山神社と湯殿山神社の
ご祭神を、まとめて拝むことができる訳でんな。

(鏡池 三神合祭殿の前にある 御手洗池)




三神合祭殿は大きくて拝殿の前からは全景が入りまへんがな。

鏡池(かがみいけ)の前へ回り込んで撮影でしたで。

(三神合祭殿の 扁額)


中央に月山神社のご祭神で
「月読命」(つくよみのみこと)

向かって右側に出羽神社(いではじんじゃ)のご祭神で
「伊氏波神」(いではのかみ)と、もうお一方
「倉稲魂命」(うかのみたまのみこと)

向かって左側に湯殿山神社のご祭神で
「大山祇命」(おおやまつみのみこと)
「大己貴命」(おおなむちのみこと)
「少彦名命」(すくなひこなのみこと)

参拝は右側から羽黒山(出羽神社)⇒ 月山神社
最後に 湯殿山神社 となるようですな。

観光用にはこの「三神合祭殿」を参拝すれば
出羽三山をお詣りしたことになるようでんな。

(三神合祭殿の 内陣)


撮影が禁止なので、慌ててシャッターを押した感じでんな。

画像がボケてまっけど、内部はこんな感じのようでしたわ。

み簾の内側には、ご祈祷などの方しか入れないようでんな。

(出羽三山 三神合祭殿の ご朱印)


(重要文化材 種楼 & 大鐘)




この大鐘は羽黒山中では五重塔に次いで古く
鎌倉時代の1275年(建治元年)の銘が。

鎌倉時代は元寇の役の時代に作られた大鐘でんな。

(蜂子皇子=はちこのみこ お墓)




(出羽三山の開祖 蜂子皇子)


(三本足ノカラス 羽黒の霊鳥)


伝説だと考えますが第32代崇峻天皇の第三皇子だとか。

宮内庁が管理する東北地方では唯一の、お墓だそうですよ。

崇峻天皇が弑逆された際に危うく逃れたとの伝説。

奈良の飛鳥から逃げ延びて出羽の国の由良海岸から、
三本足のカラスに導かれて羽黒の里に到着。

神武天皇の伝説に出てくる「やたのからす」と同じ?

羽黒山に登拝して「羽黒権現」を感得したんだって。

後に月山権現や湯殿山権現をも感得されたので、現在は
出羽三山の修験道を開祖した方とされてますんや。

(羽黒山 歴史博物館)


ここには鏡池から取り出された平安時代から江戸時代までの
銅鏡180面や羽黒三山の資料が展示されているそうですわ。

(東の奥参り いけのみたま心願参り)


でも~ 出羽三山と呼ばれるようになったのは昭和の初めだとか。

昔は「出羽三所権現」と呼ばれたそうで、江戸時代には
西の「伊勢詣り」に対して、東の「奥参り」と呼ばれて
東北や関東では一生の内に一度はお参りしたいと言われたとも。

伊勢神宮が「陽」に対し「出羽三山」が「陰」と考えたようでっせ。

(出羽三山神社・境内 杉の並木)


(奥の細道 芭蕉の句)


(羽黒山 山頂レストラン)


ここで、この日の昼食になりましたんや。

長くなりますので、本日はこれまで。

次回は羽黒山伏と月山8合目巡りを紹介しまっさ。

ほんなら、これで、さいなら~🎵














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鉄ちゃん爺や かみのやま温泉から 湯殿山へ  

2016-08-24 17:18:06 | 神社
(かみのやま温泉 月岡ホテルにて)


47都道府県の全県走破を達成でしたねと
添乗員さんが写して、くれはりましたんや。

周り4~5人の方からは、拍手も頂けましたで。

(かみのやま PRポスター)


(月岡ホテル 正面)


(かみのやま 温泉マップ)


上山市(かみのやまし)が正式な名称なんだけど
山形新幹線の駅名が「かみのやま駅」となり
観光用などは、平仮名を使うようになったんだって。

上山市(かみのやまし)とは蔵王の麓で昔はこの辺りを
「上の山方」と呼んでいたそうですわ。

そんな訳で、市制の名称に取り入れたようでんな。

因みに、「下の山方」を現在は「山形市」と呼ぶんだとか。

この日は早朝にホテルの周りを散策してみましたんや。

温泉町を歩くんなら、やはり下駄がお似合いでっしゃろ。

(ホテルの下駄)


(上山城址=かみのやまじょうし)


この画像の向こう側には3層の天守閣が有るんだけど
昭和58年に造られた、内部は郷土博物館だとのこと。

歴史的な価値は無いお城なので、鉄ちゃん爺やはスルー。

(かみのやま温泉の 三号源泉)


(上山市 マンホールの蓋)


(上山藩・武家屋敷 案内図)


江戸時代に紫衣事件で、沢庵和尚が上山藩に配流され
しばらく住まれたと言う、お寺が有るそうですが
朝が早くて拝観は出来ないとのよし、諦めましたんや。

画像で左上の矢印の処が、そのお寺だそうですわ。

(上山藩 武家屋敷)












武家屋敷とPRされてるけど、改修されて現在は
個人が住んで居られるので、内部は見れまへんのや。

上山藩(かみのやまはん)で100石~200石
奉行職や側用人を務めた中級藩士のお宅のようですわ。

江戸時代後半は松平(藤井)3万石の城下町だったはず。

(かみのやま温泉 観光用標識)


(朝食 バイキング会場)


朝食を済まし、いよいよ出羽三山に向かいまんねん~🎵

女性軍の方へ、本日はストッキングは着用しないでください!

湯殿山神社では素足になって、お詣りしなければなりませんので~

添乗員の方から、こんな注意を聞きながらの朝食でした。

昨日も同じ話をされたけど、念のための注意でっしゃろな。

今回のツアーで皆さんが楽しみにしていた出羽三山へ
向かうことになり、午前9時30分にホテル前をスタート。

(観光バスから 上山市を遠くに眺めて)


国道13号線に出て暫くは北上するようでんな。

山形市内の辺りから、バスは山形自動車道に入り
スピードを上げて、快調に走って行くようでっせ。

ここから、約1時間弱ぐらい乗車とのこと。

(山形自動車道から 撮影)






(月山湖=がっさんこ だったかな)


バスは山間部に入り、月山ICで現在は高速道路がお仕舞い。

ここからは国道112号線で湯殿山(ゆどのさん)へ
近づくしか道はないようですわ。

現在も先の湯殿山ICと 月山ICの区間は険しい山で
高速道路が完成してないんだって。



(湯殿山らしき山が 見えてきました)




ここからは湯殿山有料道路を使って、標高・約1000mの
仙人沢(せんにんさわ)の駐車場まで登りつめまんねん。

(湯殿山神社の 大鳥居)








一般車両は、この大鳥居前までしか入れないんだって。

ここで参宮用の専用バスに乗り換えですわ。

横に見える建物は、山伏修行などで宿泊に使用する
湯殿山参篭所と呼ばれる施設のようでんな。

(本宮 参拝バス) (庄内交通)






専用バスで約5分、 歩いて登れば約30分ぐらいかな?

ツアー旅行なので全員がバスに乗せられましたけど。

(湯殿山神社の 案内絵図)


到着したのは湯殿山(ゆどのさん)神社・本宮前事務所でした。

湯殿山(ゆどのさん)神社について、少しだけ書き込んで置きまひょ

出羽三山の奥宮と呼ばれ、正式には羽黒(いでは)神社から
月山(がっさん)神社を経て、最後にお詣りする神社なんだって。

庄内地域からスタートする場合は、その通りに廻りますが
私たちは、かみのやま温泉からスタートしたので、一番が
湯殿山(ゆどのさん)神社から廻ることになりましたんや。

「語るなかれ 聞くなかれ」と呼ばれ、湯殿山で見たことや
聞いたことは、他人に知らせてはならないと言われてますんや。

「奥の細道」で松尾芭蕉も訪れているようですが、ごく簡単に

「語られぬ 湯殿にぬらす 袂かな」とだけ詠まれたのみ。

もっとも神秘的な神社として、公式サイトにも詳しいことは
書かれてまへんので、謎の多い神社として有名なんでっせ。

それでは~ 湯殿山神社の本宮へお詣りに行きまひょ。

(本宮の参道にて 女性の白装束姿)




私たちは観光での参拝でっけど、本式の白装束で
出羽三山を詣でる方も、最近は増えているんだとか。

(湯殿山神社の 御神牛)


(撮影禁止の ご神域になります)


ここからは、しめ縄が張られて湯殿山神社の、ご神域ですわ。

少しだけ登ってから、登山道を沢の方へ下っていきますんや。

江戸時代までは神仏習合の修行場で、羽黒山が(現在)の世界
月山が(死後)の、そして湯殿山が(再生)の世界なんだって。

湯殿山で修行すれば来世の願いで、この世に生まれ変われる
そのように、昔の人は考えたようでんな。

この辺りは冬には4~5mの雪に埋もれるんだって。

だから5月~11月までしか参拝は出来ない厳しい世界でんな。



鉄ちゃん爺やの画像がおまへんので・・・

ここからは、裏ネットで紹介されている、画像でどうぞ~

(湯殿山神社 本殿前) (裏ネットから 拝借)


ここで参拝者は全てが、素足になつてから、お祓いを受けます。

紙の人形(ひとがた)で痛い箇所や、病気の部分を撫でまっせ。

人形(ひとがた)は横の小川に流してから、門をくぐりますんや。

素足で坂を下って「ご神体」に向かうようになってまんねん。

(湯殿山神社の ご神体) (裏ネットから 拝借)


望遠レンズで、「ご神体」を撮影した人が居るようでんな。

茶褐色の「ご神体」からは、温泉が湧きだしてますんや。

参拝者は「ご神体」の前で拝礼してから、素足で~

向かって左から登って、「ご神体」の裏側に入ります。

ネットによれば「ご神体」は女性の出産を表しているとか?

これ以上は、語るなかれ 聞くなかれ ですから省略としまひょ。



(湯殿山神社 本宮 ご朱印)




出羽三山のご朱印は大きくて、二面を使用しますんですわ。

(湯殿山神社 お祓いのお札)


参拝には1名500円が徴収されますんで、バスの中で
添乗員さんから全員に、このお守りが渡されました。

旅行費用に含まれてますんで、現金で納めた訳じゃおまへんけど。

(湯殿山 本宮の参道にて撮影)


(湯殿山・仙人澤 即身成仏・修行之地)


湯殿山と言えば江戸時代に、「即身成仏」をされた修行の場。

現在の処、日本には18体の「即身成仏」された方が残っているが
その内の8体が湯殿山で修行された、即身仏だと言われてますんや。

これは映画の撮影用に作成したレプリカなんだって。

(レプリカの 即身仏)




この先は、本物の即身仏を画像で紹介しますが
観るに堪えない方は、画像をスルーしてくださいね。


「ミイラ」と「即身仏」との違いを紹介して置きまひょ。

「ミイラ」とは死後に内臓などを取り除き、人工的に
骨と皮だけを残して、長期に保存するようにした遺体。

それに対して「即身仏」とは五穀を絶ち 十穀を絶ち
千日間の修行を、湯殿山で行い、脂肪を減らし切り
木の実や植物だけで生命を維持した後。

最後は穴倉に入り、少しづつ漆を飲んで食物を絶ち
生命を絶つまで念仏を唱え、鈴を鳴らされたとの事。

鈴が鳴りやんで、3月と3日の後に穴倉から掘り起こし
お寺に即身仏として、お祀りされているんだって。

湯殿山の北側には現在も「即身仏」がお祀りされてますんや。

(注連寺の 鉄門海上人の 即身仏)


(大日坊の 真如海上人の 即身仏)




大日坊では6年ごとに、真如海上人さまの衣服を新しく交換し
古い装束は細かく刻んで、お守りとして配布されるんだとか。

(真如海上人さまの 衣服交換の行事)




江戸時代の後半に、東北地方では大きな飢饉が続き、餓死者が続出
湯殿山で民衆の救済を願って、僧侶が即身成仏を図られたんだって。

何百人もの僧侶が実行されたが、殆んどの方は成功しなかったとか。

数年前にテレビで紹介されて、一躍話題になった記憶がおますけど。

(湯殿山神社・本宮 バス停留所にて)


遠くに見えているのは朝日連峰で、あの山並みの向こう側は
新潟県の村上市に成るんだそうですわ。

この辺りは湯殿山の中腹で約1100mだったかな?

湯殿山神社のお話はこれでお仕舞になりまっせ。

次回は羽黒山を紹介することにしまひょ。

ほんなら、これで、さいなら~🎵




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