鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

東下り(あずまくだり)4日目 武蔵の国 氷川神社に詣でる

2017-10-22 17:28:13 | 神社
JR大宮駅に下車したのは15年ぶりかも?

駅ナカが少し増えたけど構内や連絡通路など
昔と比べ、殆ど変わってない気がしまんねん。

(JR大宮駅 新幹線駅舎)


1982年(昭和57年)6月に東北新幹線が
大宮駅~盛岡駅間に初めて開通しましたんや。

当時は「新幹線リレー号」に大宮駅で乗り換えて
上野駅へ向かうという変則のスタートでしたな。

東京駅までの延伸は事故もあって遅れましたね。

鉄ちゃん爺やが関東への出張ルートは次の通り。

新大阪から新幹線でやってきて東京駅で乗り換え
上野駅で再び乗り換えて在来線で宇都宮駅へ。

現在でも宇都宮駅までなら東北新幹線は不要で
東京駅から直通が出来て便利になったので
在来線で約1時間30分ぐらいでっしゃろか。

(JR大宮駅 中央改札口)


1985年(昭和60年)3月に上野駅まで延伸。

上野駅から物珍しさもあり、初めて宇都宮駅まで
東北新幹線に乗ったのが、その年の6月でしたかな。

新幹線の上野駅って凄い地下深かった記憶がしまぁ。

まさか10年後に新幹線から見える埼玉県戸田市に
単身赴任することに成ろうとは考えもしまへんでした。

出張の帰りに大宮駅で途中下車した事も数回おます。

駅ビルのルミネ2も出来てたような記憶がしますんや。

(JR大宮駅 西口の歩道橋から撮影)




この歩道橋も当時からのままだと記憶しますんや。

画像に見える「そごう大宮店」も昭和から平成に
移り変わる頃にオープンしたように思いまんねん。

多少は補修や改築されたのかもしれまへんけど。

(ユニークな喫茶店) (そごう大宮店 B1)


カンターの前に作られた人工の川に飲み物が
ゆらり~ ゆらり~ と流れてくる仕掛け。

画像は休憩に立ち寄った、鉄ちゃん爺や注文の
コーヒフロートがお盆に乗って流れてきましたで。

この日は猛暑日で一息ついたという状況でおます。

それじゃ喉も潤したので氷川神社へ向かいまひょ。

(JR大宮駅 東口の駅舎)


(JR大宮駅 東口 ターミナル)


西口に比べたら再開発がされてない感じでっけど
昭和の雰囲気のする飲食店などが並んでますわ。

庶民の町なら大宮駅東口という事に成りまっかな。

(旧中山道に 地元サッカーチームの幟)


江戸時代からの中山道がJR東口の一筋先を南北に
通ってまして、昔は大宮宿がこの辺りに在ったとか。

国道17号線はこの辺りは大宮駅の西側に離れてまぁ。

(大宮宿 本陣跡の掲示板)


(居酒屋さんが 昔の本陣跡)


江戸時代には本陣1軒と脇本陣9軒を含めて大きな
宿場だったのが「大宮宿」だったそうでっせ。

大火があったのと明治になり大宮市が鉄道の町となり
江戸時代の賑わいを探しても殆ど見当たりまへん。

こんな掲示板や道端の地蔵さんしか残ってまへんな。

(一の宮通りの 道路標識)




JRでは大宮駅の手前に東京駅から30km標識が。

中山道はこの辺りはJR在来線と並行してますんや。

江戸からは 板橋宿~蕨宿~浦和宿~大宮宿と続く。

江戸から来ても江戸へ向かうにも、良い距離に在り
旅人や参勤交代の人々が1泊することにしたのかも。

(氷川神社 二の鳥居前で自撮り)


ここからは氷川神社の参道が南北に通ってまっせ。

それでは左折して北の方へ歩くことにしまひょ。

江戸時代の寛永年間に氷川神社の参道を通っていた
中山道を西側に新しく付け替えたと言われてまぁ。

神様の参道に牛馬の糞や尿を垂れ流すのは恐れ多い
付け替えは、そんな理由だとの説があるんだって。

(氷川神社の 長い参道)




この参道は約2kmほどあって、神社の参道としては
日本一だとの書き込みがおますが定かではおまへん。

(氷川神社参道 ケヤキの大木)


(氷川神社参道 ケヤキの標識)


(氷川神社参道 クスノキの大木)


(氷川神社参道 クスノキの標識)




ケヤキとクスノキが巧く調和した参道でんな。

鉄ちゃん爺やが歩いた参道は半分ぐらいかも?

参道は中山道との分岐点まで南へ続くようですわ。


武蔵の国  一之宮 氷川神社

現在は「さいたま市大宮区高鼻町」

鉄ちゃん爺やが単身赴任していた頃は大宮市だった

氷川神社の「大いなる宮居」から採用したとか。

2001年(平成13年)5月に浦和市・大宮市
与野市が合併し「さいたま市」と変わりました。

その後、岩槻市が編入され、人口が約129万人を
超える政令指定都市として現在に至って居るそうですわ。

(氷川神社 三の鳥居)


(氷川神社 由緒書き)




ご祭神は 須佐之男命(すさのうのみこと)   (夫)

     奇稲田姫命(くしなだひめのみこと) (妻)

     大巳貴命 (おおなむちのみこと)(大国主の命)

武蔵の国を縦断する荒川を挟んで氷川神社が約200社

別に、簸川神社と名乗る同じ系統の神様も約60社

東京都内や埼玉県の方には馴染の有る神様のようでんな。

ここが数多い氷川神社の総本社という事になりまんねんで。

(氷川神社の境内)


(氷川神社の 楼門)


楼門を潜ると拝殿や本殿を囲んで広い境内と回廊がおます。

流石は武蔵の国の一之宮であり、立派な神社ですこと。

(氷川神社 拝殿)


(氷川神社 拝殿を背景に自撮り)




東京都内の明治神宮の拝殿と似ているとの説も。

鉄ちゃん爺やは明治神宮は訪れてまへんので不明。

(氷川神社の ご朱印)


(氷川神社の 舞殿)




2月3日の節分の際にはこの舞殿から豆まきが
行われ、多くの参拝者がそれを拾うんだそうですわ。

数多い例祭では、ここで舞楽や舞が奉納されるようでんな。

現在も勅使が派遣される例祭があるとか聞いてまっせ。

(氷川神社の 長い回廊)










今回の一之宮巡りでこの回廊が一番大きく見事でした。

それではJR大宮駅に戻ることにしまひょ。

(氷川神社の 神橋から神池を撮影)




本当は赤い神橋を前に楼門を写したかったけど。

神橋の基礎石を修復の工事中でビニールシートが。

これじゃ、デジカメで撮ってもサマになりまへん。

(奉納された 酒樽)


(地元サッカーチームの 絵馬)


ここからは「四方拝=しほうはい」という儀式を
書きこみたいと思いますんや。

興味のない方は、これ以降はスルーしてくださいね。




「四方拝=しほうはい」について。

元旦の早朝に、天皇陛下が遥拝される「四方拝」
と呼ぶ、重要な皇室祭祀が有るのをご存じかしら?

午前4時(寅の一刻)に起床された天皇陛下は

黄盧染御袍(こうろうぜんのごほう)を着用され
午前5時30分に宮中三殿の神嘉殿の南庭に出御。

天皇陛下以外は何人も見ることも許されないとか。

天地四方の神祇を遥拝される神聖な儀式だそうです。



伊勢神宮 内宮・外宮

天神地祇

神武天皇 山陵

先帝三代の御陵  明治天皇・大正天皇・昭和天皇

その次に、ここ氷川神社を拝されるんだそうです。

順次に  山城の一之宮  上賀茂神社・下鴨神社

     石清水八幡宮・熱田神宮 
 
     鹿島神宮・香取神宮 と拝されてご退室。

その次に宮中三殿を親拝されて御所に戻られるとか。



この「四方拝」は天皇陛下が自遥拝される年頭の
一番重要な宮中祭祀と言われているそうですよ。

だから、天皇陛下がご病気や喪中などの場合は
御代拝(ごだいはい)は出来ずに中止になるとか。

今回の天皇陛下の、ご退位もこの「四方拝」が
平成24年から、ご高齢の理由で御所の中で仮に
実施されている事に由来するのではとの考え方も。

本来の「四方拝」で国家の安泰と国民の安寧を願う
誠の儀式が出来ないことを心配されての事かとも。



ここ氷川神社は明治天皇が京都から東遷(とうせん)
されて真っ先にお詣りをされた神社だそうです。

武蔵の国に皇居を据えるよしを、氷川神社の三神様に
ご報告されたということに成りますかな。

武蔵の国の、国つ神である氷川神社へいうことですわ。

だから皇室の古くから重要な神社である上賀茂神社や
下鴨神社をさし置いて、一番に遥拝されるようですね。



鉄ちゃん爺やが四方拝される神社がどんな処か
興味を持って一之宮を巡る理由を考えた訳でもおます。

これで四方拝の神社は全てお詣りが終わりましたで。

長々と「四方拝」を書きこみましたが本日は
これにて、お仕舞とさせて頂きます。

(さいたま市の マンホールの蓋)


(JR京浜東北線 普通電車)


鉄ちゃん爺やの東下り(あずまくだり)4日目は終了。

同級生との飲み会の為に川口市のホテルへ向かいました。

次回は一之宮巡りの最後である下野の国を紹介しまひょ。

ほんなら、これで、さいなら~🎵











コメント (12)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東下り(あずまくだり)4日目 上総の国から武蔵の国へ

2017-10-14 20:33:41 | 神社
JR千葉駅前のホテルを今日も早朝にスタート。

千葉駅前でこんな、ゆるキャラを見つけましたで~🎵

(JR千葉支社の ゆるキャラ) (駅長犬!)


JR千葉支社が公認した、ゆるキャラだって。

駅長の制服を着て千葉県を紹介して歩いてまんねん。

2017年に新しく認定したキャラだそうですわ。

千葉県内だけでっけど、人気も上昇中だとの話。

JR千葉駅は改築工事中で第1期が終わっただけで
鉄ちゃん爺やが訪れた一週間後に駅ビルなどが
第2期の完成で9月7日にオープン予定だとか。

(JR千葉 駅ビル オープンの垂れ幕)


(JR千葉駅前で 懐かしい風景)


(千葉都市モノレール)


鉄ちゃん爺やが1年間だけ住んでいた平成14年と
現在も変わらない風景を探して歩いてみましたんや。

ここJR千葉駅前のバスターミナルだけでしたわ。

それに千葉都市モノレールの橋脚も健在でしたな。

(JR千葉駅構内 駅ナカの風景)






(JR内房線への 快速電車)(千葉駅にて撮影)


それでは次の訪問地である上総の一之宮へ向かいまひょ。

JR外房線で約45分ぐらい走ったらJR上総一ノ宮駅。

(JR上総一宮駅 構内)






この駅は二度ばかり通過したことがおますんやけど
下車したのは今回が初めてになりますんや。

ここに上総の国の一之宮で玉前神社というのがおます。

駅から歩いて約10分ぐらい割と近い場所でしたわ。

(途中の 住所表示)


千葉県長生郡一宮町(ちょうせいぐんいちのみやまち)

房総半島の九十九里浜の一番南に位置する町だとか。

海岸まで歩いたら約30分ぐらいと聞きましたけど
この日は猛暑日で、とても歩く気に成りまへんでした。

(玉前神社=たまさきじんじゃ) (上総の国 一之宮)






一之宮としては、こじんまりした神社でおます。

まあ~ 今まで訪れた一之宮が有名な所ばかり。

そこそこの、大きな敷地ではおますけど。

それでは拝殿で、お詣りさせて貰いまひょ。

(玉前神社の 拝殿)




ご祭神は玉依姫命(たまよりひめのみこと)で
神武天皇のお母さまで、絶世の美人だった?

女性には人気のある神様で、結婚・子授けなど
現在も関東の各地からお詣りが絶えないとか。

(玉前神社の 拝殿で自撮り)






(玉前神社の 本殿)


平成の大改修で新しくなったとこの感じ。

ご朱印をお願いして、境内を散策しまひょ

(平廣忠 顕彰碑)




源頼朝により傲慢だとの嫌疑を受け謀殺された
上総の国の豪族では最大の勢力だった武将の説。

ここ玉前神社に捧げた奉納文から、源頼朝の
武運長久の願文が記されていて、無実の罪だった。

しかしながら鎌倉時代の歴史書には無実だったとの
記述のみで、詳しいことは何も残されてないとの事。

(松尾芭蕉の句碑)






江戸時代に刻まれた句碑なので薄れて読めまへん。

槇の木の群生が境内に残っているそうですわ。

(玉前神社 槇の群生)



 


(玉前神社の ご朱印)




それではJR上総一ノ宮駅へ戻ることにしまひょ。

巫女さんが境内を掃除してはりました。

無断で撮影しましてご免なさい。



(地元の 和菓子屋さん)




まだ朝が早いのでお店は開店されてまへん。

食べてみたかっんだけど、残念でした。

(JR上総一ノ宮駅 E217系 快速電車)


2時間に1便だけJR上総一ノ宮駅を始発になる
JR東京駅行きの快速電車が走ってますんや。

(JR総武・中央線 普通電車)


JR千葉駅で小休止してから、いよいよ武蔵の国へ

ここからは乗客も多いのでデジカメ撮影は中止。

(JR東京駅 丸の内改札口)


「青春18きっぷ」だから乗り降りは自由にできまぁ。

改札を出て少しだけデジカメ撮影でもしまひょ。

(東京駅 丸の内側 駅舎の内部)






外観は新しく改修されたんだけど、内部はどうかな?

昔の印象が残ってないんだけど、新しい感じもしまんな。

(JR東京・上野ライン 快速電車)


(JR東京駅 東京・上野ライン 駅名標)


(JR東京・上野ライン グリン車)


大宮駅はここから約25分前後なのでグリン車には
乗りまへんで、デジカメで撮影のみですわ。

一気にJR東京・上野ラインで大宮駅に向かいまひょ。

昔は上野駅で乗り換えだったけど、昨年だったかな
宇都宮駅や高崎駅へ向かうのが便利になりましたんや。

京浜東北線の普通電車よりこちらの方が早いですわな。

上野駅が通過駅になってしまい、一気に大宮駅ですわ。

(JR大宮駅 東の駅舎)


(さいたま市 マンホールの蓋)


ここから徒歩で約20分ぐらいかかりまっしゃろか。

武蔵の国の一之宮である氷川神社へ向かいまっせ。

長くなりますので、氷川神社は次回にしまひょ。

ほんなら~ これで、さいなら~🎵

コメント (12)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東下り(あずまくだり)3日目 香取神宮&佐原の町を訪ねる

2017-10-08 11:25:20 | 神社
千葉県の佐原と書いて「さわら」と読みまぁ。

NHKさん「さはら」と呼んで間違いだよと
千葉県民に指摘されたことが有ったとか。

(JR佐原駅 駅名標)


「お江戸 見たけりゃ 佐原へござれ
   佐原本町 江戸まさり」

江戸時代の後半から明治まで利根川の水運を
利用して大いに栄えたのが佐原(さわら)で
北総の小江戸(こえど)と呼ばれるんだって。

鉄ちゃん爺やが関東に単身赴任中は確か
佐原市(さわらし)と呼ばれてたはず。

現在は小見川町と合併し香取市になったとか。

香取市(かとりし)は昔の香取郡から採用して
人口が約7万7千人の地方都市でおます。

(香取市 マンホールの蓋)


水郷と市の花である「あやめ」が描かれてまぁ。

市の名前は香取市ですが昔からの中心地である
佐原(さわら)に市役所も置かれてますんや。

(佐原=さわら 小野川の佇まい)


佐原(さわら)の重要伝統的建造物群保存地区は
後回しにして、香取神宮を訪ねることにしまひょ。

何せJR佐原駅(さわらえき)から香取神宮まで
約3kmぐらいの距離が有るんだと知りました。

観光協会に立ち寄ってレンターサイクルを借りて
向かうことにしまひょ。

500円ですのでタクシー利用よりも安いよね。

(佐原観光協会の レンターサイクル)


(レンターサイクルと 自撮り)


歩くのならJR香取駅が近いんでっけど、計測で
こちらでも約2km足らず有るような感じですわ。

しかも何もない無人駅だとネットで確認済み。

やはりこんな時にはレンターサイクルが便利でんな。

(香取神宮への 進入路)


左へ曲がればJR香取駅から小見川町を経て
銚子市の方へ行く県道のようですわ。

香取神宮へは真っ直ぐ進めばいいようでんな。

(香取神宮の 鳥居)


(香取神宮の森 説明書き)


(香取神宮の森)






前回紹介しました、鹿島神宮と香取神宮を
合わせて、関東では国家鎮護の重要な神様で
古くから神宮の名称を誇っているんだって。

ご祭神は経津主大神(フツヌシノオオカミ)で
鹿島神宮のご祭神とお二人で出雲の国に行き
国譲りの大役を実行されたと言われてまぁ。

だから鹿島神宮も香取神宮も「武」の神様。

蛇足ながら「神宮」を名乗る神社は皇室と縁が
深い神様で、神社では最高の格式でおます。

(香取神宮の 総門)


(香取神宮の 総門と自撮り)


総門を潜るともう一つの立派な門がおます。

ここからが本殿と拝殿の境内になるようでんな。

(香取神宮の 楼門)




(重要文化財指定の 標識)


元禄13年に本殿と共に建造された楼門で
均斉の取れた姿は社殿とよく調和しているとも。

それでは拝殿へ向かうことにしまひょ。

(香取神宮の 拝殿)(重要文化財に指定)


(拝殿の 内部)


(香取神宮 拝殿の装飾)


(香取神宮の 本殿を横から撮影)


(香取神宮の 拝殿を横から撮影)


(香取神宮の ご朱印)


(香取神宮 要石のイラスト)


鹿島神宮にも要石があったけど、ここにも有るんだ。

二つとも、見学しな訳にはいかないな。

ナマズの頭を押さえている要石が描かれてまぁ。

(香取神宮 要石への参道)








(香取神宮の 要石)




ナマズの頭を押さえているとの伝説でっけど。

東日本大震災はナマズが苦しんで暴れたのかしら。

それでは佐原(さわら)の街中へ戻りまひょ。

(参道から 大鳥居を撮影)


(香取神宮の 門前町)


(水郷佐原 観光案内図)


利根川を渡ったら茨城県だと勘違いしてまんな。

この辺りは、常陸利根川が千葉県と茨城県の
県境で、利根川の向こうが佐原の水郷なんだ!

水郷佐原と書かれている地点が茨城県潮来市。

(佐原=さわら への県道)




レンターサイクルはこんなコースには最適ですわ。

3kmぐらい有るけど、ゆつくり走っても30分。

途中に赤レンガの古い建物を発見しましたで。

(佐原町並み交流館)(旧 三菱銀行佐原支店)




大正時代に建設された三菱銀行佐原支店だそうです。

三菱銀行から当時の佐原市に寄贈されたんだって。

古い街並みに巧くマッチして素敵な風景でおます。

(佐原町 古い建物)


正文堂と呼ばれた書店の建物で明治13年建築。

現在は書店ではないようですけど。

関東には川越市・栃木市・中之条町などの
重要伝統的建造物群保存地区が存在しまっせ。

ここ佐原が1996年認可の関東では最初だとの事。

(佐原町 小野川の川岸)


(佐原町 小野川の畔で 自撮り)






この小野川は約2kmぐらい下流で利根川に合流
昔はそこから利根川を遡上して江戸川や中川から
江戸に至る、江戸時代の重要な水運だったんだって。

東北から来る産物や米などが佐原辺りで小さい船に
積み替えられて、江戸へ送られてたようですわ。

(伊能忠敬 旧居跡)




(伊能忠敬 旧居内部)




(伊能忠敬が使用した 測量機)




本物ではないでしょうが、こんな測量機を使い
日本全国を歩いて地図を作製した偉大な人ですね。

この町で造酒と名主を務めた有力者だったそうで
50歳を超えてから全国を測量して歩いたんだって。

(伊能忠敬 旧居内から 外を撮影)




(樋橋 通称=じゃぁじゃぁばし)


30分ごとに水を川に落とす仕掛けがされてまぁ。

小野川を浄化する運動の一環として造られた橋。

ちょっとだけ、船着き場に下りてみまひょかな。

(佐原町 小野川の 船着き場から撮影)




(佐原町 明治時代の商家)








(佐原の町並みで 自撮り)




(木の下旅館)




江戸時代の天保時代の建物と明治前半の建物が大半。

1892年に大火が有ったので、特別に古い建物は
残ってないようですが、巧く調和させた町ではおます。

(佐原の町並み 説明板)




現在では想像できませんが、明治の20年頃まで
佐原町は千葉市・銚子市に次ぐ千葉県内では
第三位の人口を誇る都市だったようでっせ。

「元旦に商いできるは 伊勢の山田に 下総の佐原だけ」

京都の大店がそんな噂をしたとの伝説も有るんだって。

町興しで観光化し過ぎの感じもしまっけど。

それじゃJR佐原駅の方へ戻ることとしまひょ。

(JR佐原駅舎)


(JR佐原駅に到着する 208系電車)


鉄ちゃん爺やが単身赴任を終えた千葉事業所に後輩を
訪ねて立ち寄る約束でしたので、佐原を退散しまひょ。

みつわ台の車庫の側に1年間だけ住んだことがおます。

下のバスは当時とは少しだけ塗装が変わった感じも。

(千葉内陸バス)


(みつわ台の給水塔)


この給水塔には1年間だけお世話になったんだ。

この給水塔は15年前と少しも変わってません。

千葉駅付近の高層ビルからでも見えるんですよ。

(鉄ちゃん爺やの 住居跡)


石の階段だけが当時のままで建物は建て替えられてまぁ。



東下り(あずまくだり)3日目はこれにて終了になりまぁ。

次回は上総の国一之宮から武蔵の国に入ることにしまひょ。

ほんなら~ これで、さいなら~🎵
コメント (16)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東下り(あずまくだり)3日目  鹿島神宮を訪ねる

2017-09-30 12:50:14 | 神社
3日目はJR千葉駅前のホテルを早めに出発し
利根川を越えて常陸の国の一之宮へ向かいまっせ。

(JR総武本線 快速電車 E217系)


(JR千葉駅 総武本線 駅名標)


(JR千葉駅 9~10番線時刻表)


鉄ちゃん爺やの記憶が確かならば、千葉駅7時55分発の
成田空港行きの快速電車は、現役時代に埼玉県の戸田から
1年間だけ錦糸町駅から千葉駅まで乗っていた列車のはず。

平成13年のことで電車もこれと同じE217系でしたな。

(JR千葉駅  廃止された総武本線の階段)


当時はこの階段を下りて、駅ナカのカフェで朝食を取り
再びこの階段を登って、普通電車で事業所へ向かいました。

昔の事業所はここから二つ先の駅からバスで5分ぐらい。

現在のJR千葉駅は新しい橋上駅に改修されたようで
この懐かしい階段も、使用が終了したようですわ。

それではJR総武本線の快速電車で、出発進行!

JR総武本線の快速は成田空港へ向かいますんで
鉄ちゃん爺やは、ここ成田駅で乗り換えになりまぁ。

この列車は成田駅から銚子駅までのローカル線でおます。

(JR成田線 208系 普通電車) (JR成田駅で撮影)


(JR成田線の 車窓から撮影) 


再びJR佐原駅で今度はJR鹿島神宮行きに乗り換え。

JR佐原駅発が9時16分で、この電車に乗っていたのは
鉄ちゃん爺やを含めて、たったの13人というありさま。

鉄ちゃん爺やが現役時代だった平成13年頃には東京駅から
特急「あやめ」「すいごう」というのが走ってましたんや。

現在は路線バスの方が安いとか、特急は廃止されてますわ。

この乗車客数を見れば特急電車は廃止されて当然かも。

ここからはJR鹿島線という枝線のようなコースでんな。

(利根川の本流を 渡ってます)




利根川の本流を渡ると、千葉県から茨城県に入りまぁ。

この辺りは水路が入り組んでいて、水郷地帯と呼ばれ
独特の風景を醸し出しているようでんな。

(続いて 常陸利根川を 渡ってます) 




潮来花嫁さん~🎵 潮来花嫁さんは~🎵 船で行く~🎵

こんな歌が有りましたが、当時の風景とは様変わり。

現在は観光用の船が運河を通るだけのようですわ。

残念ながら途中下車してたらスケジュール的に無理が。

デジカメで遠くを写したんですがイメージは叶わず。

(JR鹿島線 潮来駅の駅名標)


(JR潮来駅前の 風景)


(JR鹿島線 車窓から撮影)


潮来駅を出た列車は海と勘違いするような大きな
「北浦」を渡って鹿島神宮駅に向かってますんや。

(JR鹿島線 北浦を渡ってます)








向こうに見えるのは東関東自動車道路のようでんな。

現役時代に何度か車で通った記憶がおますんや。

当時はこれが利根川の本流だと勘違いしていたかも。

大阪へ戻ってネットの地図を検索したら「北浦」と
呼ばれる、湖なのか入り江なのか定かではおまへん。

(終着駅 JR鹿島神宮駅)




JR鹿島線はここで終了ですが、線路は先に延びて
次の駅は「鹿島サッカースタジアム」だそうです。

鹿島アントラーズの試合がある時だけ、JRも臨時で
次の駅まで走らせているようですが、第三セクターの
鹿島臨海鉄道で大洗や水戸などへ行けるようでんな。

画像に見える赤い電車が鹿島臨海鉄道の車両ですわ。

(駅前の 鹿島神宮への道標)


ここは茨城県鹿嶋市で「山」へんの「嶋」を採用。

これから向かう鹿島神宮は「山」へんがおまへん。

静岡県で紹介した三嶋大社と三島市と同じスタイル。

一之宮に敬意を表し一文字だけ変えているのかも?

(鹿島神宮への参道)


(塚原卜伝 生誕の地)


(塚原卜伝の銅像)


お名前は良く存じているんだけど詳しい業績は
知らないので、剣の達人だったと記しておきまひょ。

なだらかな登り坂を約10分歩くと門前町らしき
所で登り坂はお仕舞になりましたで。

(鹿島神宮の 門前町)






(鹿嶋市 マンホールの蓋)


(鹿島神宮の門前に 親子鹿の銅像)




鹿島神宮では「鹿」は神様のお使いとして昔から
大切に保護されてきたようでっせ。

関西でも奈良公園の「鹿」も春日大社に伝わる
神様のお使いとして、放し飼いがされてるのは
有名ですが、ここ鹿島神宮が本家本元なんですわ。

(鹿島神宮の大鳥居)


(鹿島神宮 境内案内図)


(鹿島神宮の 由緒書き)


春日大社は社伝によれば鹿島神宮と香取神宮の
お二人の東国の神様と、河内の国の神様である
枚岡神社のご祭神である二人の神様を合わせて
四祭神をお祀りしているとされてまんな。

春日大社は藤原氏の氏神として昔から崇拝され
皇室や五摂家にも大切な神様とされてきました。

現在も天皇陛下が元旦の早朝に「四方拝」と呼ぶ
厳粛な神事にも、鹿島神宮・香取神宮が含まれ
関東では氷川神社と合わせて遥拝されるとか。

(鹿島神宮の楼門)(国の重要文化財に指定)




(楼門の説明書き)


水戸黄門さんの父上である徳川頼房公が奉納と。

日本三大楼門の一つとして有名なんだって。

広い境内ですが拝殿と本殿は直ぐ側におますんや。

それじゃ参拝させて貰いまひょ。

(鹿島神宮の 拝殿) (国の重要文化財に指定)











元和5年(1619年)二代将軍・徳川秀忠公により
奉納された神殿で、重要文化財に指定されてまぁ。

(鹿島神宮の 本殿と拝殿)






(ご祭神 武甕槌大神の 説明書き)


ご祭神は「武甕槌大神」(たけみかずちのおおかみ)

日本書紀から読み取れば、次に訪れる予定である
下総の国の一之宮である香取神宮のご祭神。

「経津主大神」(ふつぬしのおおかみ)とお二人で
出雲に行って、大国主命から国譲りをされた神様。

だから日本国を創生した「武の神様」となりますかな。

だから現在でも重要な神様の一つとされる訳ですかな。

それでは奥宮まで歩いて行くことにしまひょ。

(鹿島神宮の森)








なんでも鹿島神宮の森は約20万坪もある広さだとか。

うっそうと茂る杉やヒノキなど神聖な雰囲気が感じますよ。

(鹿島神宮の 奥宮)






徳川家康公が本殿として奉納された物を元和5年に
新しい本殿ができた際に、奥宮として移設したとのこと。

だから昔は本殿だった重要な神殿なんですわ。

奥宮から右に折れて森を奥に進んで行きまっせ。

(鹿島神宮の森)




(鹿島神宮の 要石)








水戸黄門で有名な徳川光圀公が要石(かなめいし)の
周りを家来に「七日七夜」にわたって掘らせたが
巨大すぎて、堀り起こすことが出来なかったとの伝。

地震を起こすナマズの頭を押さえている「鎮め石」
とも呼ばれる、鹿島神宮でも有名な場所でっせ。

(松尾芭蕉の句碑)




(鹿島神宮の森で 自撮り)


(武甕槌大神の 石像)


武神そのもののお姿を彫ってあるようですな。

それでは社務所に戻ってご朱印を頂戴しまひょ。

(鹿島神宮の ご朱印)




(社務所に飾られた作品)






(横綱 稀勢の里の土俵入り)


稀勢の里さんは昔で言う、常陸の国のお生まれだから
ここ鹿島神宮の拝殿前で横綱土俵入りを披露されたとか。

実は鉄ちゃん爺やが訪れた4日後の9月1日に例大祭が
行われるんでその準備が境内で行われてましたで。

(例大祭の準備をされる 氏子さん)




9月1日の例大祭は知っていたんですが、人出が多く
ゆっくりと参拝出来ないと考えパスしたんですけど。

それではJRの駅へ戻ることにしまひょ。

(鹿島神宮の参道 埋め込みパネル)






(鹿島神宮 大鳥居前で 自撮り)


戻る途中でこんなオブジェを見つけましたで。

此処は鹿島アントラーズさんの地元でしたわな。

(鹿島アントラーズ 優勝のオブジェ)




(JR鹿島神宮駅にて 撮影)




JRの女性乗務員さんにお願いして写して貰いました。

208系の電車を綺麗に入れてくれはりましたで。

(JR鹿島線での 車内風景)




帰りは鉄ちゃん爺やを含めて、たった6人の乗客。

これでは大赤字なるでしょうな。

でも~ 廃止にはできない路線かも?

(利根川を渡る JR電車の先頭から撮影)


JR佐原駅で女性乗務員さんにお礼を述べて下車。

気を付けて、ご旅行をされますよに~ とのお言葉。

(JR佐原駅舎)




こんな暖簾が掲げてある駅舎なんて初めてで驚き。

観光案内所でレンターサイクル借りて次の一之宮
香取神宮へ向かいます、此処から約3kmぐらいかも。

長くなりまんので、香取神宮は次回にさせて貰いまひょ。

ほんなら~ これで、さいなら~🎵

コメント (16)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東下り(あずまくだり)2日目 寒川神社を訪ねる~🎵

2017-09-23 15:51:56 | 神社
東下り(あずまくだり)も2日目の午後
相模の国に入りましたんや。

神奈川県高座郡寒川町(さむかわまち)

人口が約4万8千人で面積が約13平方キロ
神奈川県内でも小さな町になりまんねん。

因みに鉄ちゃん爺やが住んでいる街は
人口が約11万人で面積が約26平方キロ。

それなのに町会議員さんの定員が18名
我が町の市会議員さんの定員が18名なんで
ここは財政に裕福な町なんでしようかな?

(神奈川県寒川町 マンホールの蓋)


寒川町の花である「水仙」が描かれてまぁ。

湘南市の名称でお隣の平塚市や茅ヶ崎市
藤沢市などと協議したこともあったとか。

なんでも旗振り役だった平塚市長さんが
落選してしまい、破談に成ったようでんな。

でも湘南市という名称はJR東海道本線より
海側なら納得しまっけど、内陸の寒川町では?

そんな声もあったようですが、合併もせず
寒川町(さむかわまち)で頑張ってるのは
立派と言うべきか、それともプライドが高く
孤立しているのか、定かではおまへんけど。

(JR相模線 寒川駅舎)


茅ヶ崎駅と橋本駅を結ぶローカル線でおます。

寒川駅前は、よくある地方都市という風景で
スーパーやパチンコ店なども見当たりまへん。

これから訪ねる寒川神社の門前町らしき
雰囲気も感じられないのが正直な気持ち。

(寒川神社 三の鳥居)


一の鳥居はJR相模線の踏切の辺りだとか。

でも参道とは名ばかりで普通の道路ですわ。

タクシーで通過したので画像は省略でっけど。

この三の鳥居を潜った処からが参道らしく
神社にやってきたという気分になりましたで。

(相模の国一之宮 寒川神社の石碑)


(寒川神社の 神苑)


この神社は平安時代の相模の国における式内社
十三社の中で、唯一の大社を名乗る古い神社で
当然ながら相模の国一之宮と伝えられてまぁ。

相模の国にはもう一つ、一之宮が在ってそれは
鎌倉市の鶴岡八幡宮なんですが、中世になって
関東の武士団が勝手に名乗ったと考えますんや。

だから寒川神社が平安時代から続く相模の国の
一之宮としては本家なんだと記して置きまひょ。

(寒川神社の 参道)




(寒川神社の 由緒書き)


寒川町(さむかわまち)がこの一之宮の名前を
町名にして合併もせず、相模の国では由緒ある
周りの市とは違うんだのプライドかもしれまへん。

大企業はおまへんけど企業や工場は新幹線の走る
寒川町の北部には、多く存在してまんねん。

(寒川神社の 神門)


(寒川神社の 神門を背景に自撮り)


(寒川神社の 拝殿)




ご祭神は、寒川比古命(さむかわひこのみこと)と
もうお一方寒川比女命(さむかわひめのみこと)

合わせて「寒川大明神」と申しあげるんだとか。

(寒川神社の ご朱印)


ここは「八方除」と言われるお詣りが有名で
関東では広く知られた風習なんだそうですわ。

日本人には「八」は好まれる数字なんだって。

「八方美人」や「四方八方」に「八方塞がり」など
良い事にも、悪い事にも多く使われてますかな。

悪い方角を避けるのじゃなく、良い方に変えたり
何事も起こらないよう願う信仰なんでしょうな。

(寒川神社 拝殿の内部)


「八方除」は関西では「方違い神社」と呼ぶ
同じような風習が、堺市内にもおまっせ。

悪い方角へ向ったり、悪い方向へ建物を新築する
そんな際には、同じように「方違い神社」へ
お詣りすると、災いが福に転じるとされてまぁ。

こうすれば災いが防げると、昔の人が考えた
生活の知恵でっしゃろな。

(寒川神社の 拝殿を背景に自撮り)


(寒川神社の ご神木)


(寒川神社の ご神紋)




「左三つ巴」と言う、ご神紋のようでんな。

八幡宮さんでよく使われる、ご神紋と同じ。

(寒川神社の 提灯)


「16弁八重菊紋」ですが、各地の一之宮で
良く見かける、意識的に掲げているのかしら?

戦前までは天皇家や皇室の紋とされていたはず。

現在は神社やお寺でも良く見かける紋ですよね。

それではJR寒川駅に戻ることにしまひょ。

(JR東海道本線 快速電車)(茅ヶ崎駅にて撮影)


この日は相模の国から、武蔵の国を素通りして
下総の国(現在の千葉県)へ向かいましたんや。

JR千葉駅へは、どこかでJR横須賀・総武線に
乗り換える必要があるんですわ。

鉄道フアンの常識としてJR戸塚駅が最適でんな。

ここは1番線と2番線で交互に東海道本線と
横須賀・総武線が到着する仕組みになってまぁ。

待ち時間も殆ど無く、隣同士なので楽に乗れまぁ。

東京駅や新橋駅で乗り換えるには地下ホームだし
品川駅では階段でホームを上下する事にもなりまぁ。

(JR横須賀・総武線 快速 E217系)






鉄ちゃん爺やが関東へ単身赴任してた平成の13年から
14年の頃から、同じ車両で懐かしい気分でしたがな。

首都圏では、どんどん新車が投入されるので15年前の
同じ電車が走ってるのは、珍しい風景かもしれまへん。

夕方の早めにJR千葉駅に到着しましたんや。

(JR千葉駅 新しい橋上駅の構内)




鉄ちゃん爺やは、千葉を最後に平成14年の暮れに
62歳で大阪へ戻ることに成りましたんや。

当時のJR千葉駅のホームは高架に成ってましたが
駅舎は階段を下りて、ごく普通のダサイ駅でした。

それが駅ナカも出来て、素晴らしい駅に変わっているので
これには鉄ちゃん爺やも、びっくりでしたわ。

(千葉市の マンホールの蓋)


これで東下り(あずまくだり)2日目は終了でおます。

JR千葉駅前で2泊し、3日目は鹿島神宮と
香取神宮を、紹介することにしまひょ。

ほんなら~ 今日はこれで、さいなら~🎵










コメント (14)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東下り(あずまくだり)2日目 三嶋大社を訪ねて~🎵

2017-09-16 19:28:59 | 神社
駿河の国と伊豆の国の境界は黄瀬川だとのこと。

その昔、源義経が奥羽からやってきて、兄である
源頼朝と初めて対面したとされる処でっせ。

現在の都市名で言えば沼津市が駿河の国で
三島市は伊豆の国となりまんねんで。

でも沼津市・三島市・裾野市あたりは一体となり
そんな区分が通用しないような気がしますんや。

静岡県東部の工業都市と呼ぶ方が正しいのかも。

(静岡県三島市 マンホールの蓋)


ミシマザクラと呼ばれる花が一面に描かれてますんや。

ソメイヨシノのルーツを研究中に三島市で発見された
品種で、ソメイヨシノが変化したものとの説が。

三島市役所が出来た頃の話で「市の花に指定」され
現在ではマンホールの図柄として使われているとか。

三島市は古くから伊豆の国一之宮である三嶋大社の
門前町として栄え、東海道の宿場町でもおました。

(JR三島駅舎と自撮り)


JRの駅舎も三嶋大社の玄関口だと言うことで
神社をイメージするような建物ですわ。

10年ぐらい前にこの駅前から路線バスに乗り
有名な「柿田川湧水群」を訪れたことがあり
三島市を巡るのは二度目になりますかな。

今回は三嶋大社を拝観することにしまひょ。

(三嶋大社の 大鳥居)




(旧の東海道 三嶋大社の門前)


江戸時代の東海道は箱根を越えて平地に出ると
この三嶋大社・大鳥居の前を通過しますんや。

逆に江戸へ上る際には三嶋大社に参拝してから
三島の宿に1泊し、明日の箱根越えに備えたとも。

三島女郎衆がノーエ~ なんて歌もおましたかな。

(三島大社の 総門)


(総門の説明板)


(三嶋大社の 神門)


この門を潜ると舞殿と拝殿が正面に見えてきまっせ。

中世から戦前までは三島神社と呼ばれていたそうですが
現在は三嶋大社と呼ばれるようになったとか。

(三嶋大社の 拝殿)




(三嶋大社の 神紋)


ご祭神は大山祇命(おおやまつみのみこと)と
事代主神(ことしろぬしのかみ)とされてます。

事代主神は大国主命(おおくにぬしのみこと)の
息子さんで、一般的には「えびす様」と呼びますかな。

合わせて三嶋大明神と呼び、源頼朝の流人生活時代から
信仰が篤く、旗揚げに際し、ここに祈願をしたとのこと。

そんな事から武人の信仰が江戸時代まで続いたようでんな。

(三嶋大社の 拝殿前にて自撮り)


(三嶋大社の 本殿と拝殿)




画像の向って右側が拝殿で左側が本殿になりまぁ。

戦前の官幣大社なので立派な建物に成ってまっしゃろ。

(三嶋大社の ご朱印)


(三嶋大社の 舞殿)


境内に立派なご神木らしい樹木がおましたで。

樹齢1200年と言われるキンモクセイのようですわ。

(天然記念物 三嶋大社のキンモクセイ)






9月と10月の二度も黄緑色の花を咲かせるんだとか。

その香りは二里四方に及ぶと記されてますんや。

8月27日だったので少し早すぎたようでんな。

(三嶋大社の 神池)




(蘭渓燈籠の 石碑)




(三嶋大社の神池 蘭渓燈籠)
 

何処かで、もう少し小振りだけど同じのを見た記憶が。

どこだったか思いだせないのでご免なさい。

(厳島神社の 説明書き)


(厳島神社)


北条政子が奉納した神社のようでんな。

ご承知だと思いますが源頼朝公の奥さんですよ。

それでは歩いてJR三島駅の方へ戻りまひょ。

(三島水辺の文学碑)




表通りから斜めに入り近道と考えた小道です。

ここも富士山麓から湧き出た小川のようでっせ。

(若山牧水の 文学碑)




(司馬遼太郎の 文学碑)




誰でも知っている文学者の碑が並んでますんや。

こんな風景も水辺の街である三島市にはお似合いかも。

(井上靖の 文学碑)




(正岡子規の 句碑)


(松尾芭蕉の 句碑)




喉が渇いたのでコップを持ったらセンサーが働き
からくり人形が湧水を出してくれる仕掛けに。

巧く考えて作ったもんだと感心しましたね。

冷たくて美味しい富士山の湧水でしたよ。

(からくり人形が 水飲み場に)






(楽寿園 入園券 300円)


日本庭園のようなんで立ち寄ってみましたんや。

明治維新に活躍された小松宮彰仁親王さんの別邸だったとか。

富士山の噴火した溶岩流の上に樹木が育っているそうで
独特の景観を見ることが出来る日本庭園なんだって。

(楽寿園 遊歩道から撮影)






明治44年に小松宮彰仁親王が亡くなられた後に朝鮮の
国王世子・李根氏に譲渡されたという経緯があったとか。

(朝鮮灯篭)




李根さんが朝鮮から持ち込んだと言われている燈籠だとの説。

李根さんが住んでいたと言われる建物も残ってますんや。

(楽寿館 京風の数寄屋造り建物)






(楽寿園 遊歩道にて自撮り)






富士山から湧き出た水が池を作っているそうですが
近年は水量が減少しているが、原因が定かでないとも。

こんなお化け灯篭を園内で見つけましたで。

(楽寿灯篭)






園内には動物園も有って地元では家族連れで
ここ楽寿園を訪れる方も多いとのこと。

(楽寿園 建物)




(かき氷で 一休み)






楽寿園の北門を出たら、そこはJR三島駅前ラッキー!

JR三島駅から普通電車で熱海駅の方へ向かいまひょ。

鉄ちゃん爺やの背後に写ってる電車は伊豆箱根鉄道で
有名な修善寺や伊豆長岡温泉へ行く鉄道でっせ。

この電車に鉄ちゃん爺やは乗ったことは無いんですわ。

(JR三島駅ホーム で自撮り)


(JR東海さんの 普通電車)


(JR三島駅 駅名標)


(JR熱海駅 駅名標)


JR三島駅から二つ目が熱海駅でここがJR東海では終点。

駅名標もオレンジ色のJR東海さんから、今度はJR東日本の
緑色の表示に変わりまんねんでで。

JR熱海駅まで来たら東京駅や高崎駅や宇都宮駅など
関東の駅名が現れて、東京の香りがしますんや。

でも~ ここはまだ静岡県で昔の伊豆の国なんですよ。

JR熱海駅を発車した電車は次のJR湯河原駅で神奈川県に入り
昔の国で言えば、相模の国になるんでっせ。

(神奈川県寒川町 マンホールの蓋)


JR熱海駅から普通電車でJR茅ヶ崎駅で相模線に乗り換え。

神奈川県高座郡寒川町に辿りつきましたんや。

長くなりますので寒川神社は次回にさせて貰いまひょ。

ほんなら~ これで今日はさいなら~🎵


コメント (18)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東下り(あずまくだり)初日  浅間神社を訪ねて~🎵

2017-09-08 21:49:45 | 神社
夜明け前に我が家をスタートし、在来線を乗り継ぎ
約7時間で予定通り静岡県に辿りつきましたで。

なにせ鈍行列車の旅なので、お笑いくださいね。

物好きな人は鉄ちゃん爺やの他にも多いんでっせ。

大阪駅から豊橋駅まで相席した60歳代のご夫婦も。

青春18きつぷの、お仲間でしたんや。

JR由比駅は静岡市の清水区になるそうですわ。

(JR東海さんの電車です)


(JR由比駅の駅名標)


前回に紹介しましたが、ここで昼食をと考えました。

「生のシラス丼」を食べるのが目的でしたんや。

(由比の 桜えび通りの看板)


桜えびは6月初旬までがシーズンで、既にお仕舞でんな。

これはネツトで検索して織り込み済みでしたんや。

「生のシラス」なら食べれるとの情報がおました。

駅近くの食堂で尋ねたら、本日は生シラスが獲れなかった。

何故か、今年は不漁が続いているんだよねとのこと。

釜揚げのシラスじゃ、食べる気がしまへんがな。

わざわざ途中下車したのに、残念でした~

諦めて、デジカメ撮影で次の電車を待つ事にしまひょ。

(ここは昔の東海道 由比の宿)


(国道と昔の東海道が合流地点)


右側が昔の東海道でJR由比駅前を通過してますんや。

「由比正雪の乱」が江戸時代におました、その張本人は
ここ「由比の宿」の生まれだったようでんな。

三代将軍・徳川家光公の亡くなられた直後の話でおます。

(難所だった 薩捶峠の標識)




(旧の街道から 薩捶峠を望む)




江戸時代には箱根峠・鈴鹿峠と並び三大難所だったとか。

現在も山並みが海岸線まで張り出している関係で
東名高速道路も国道1号線も海岸に追いやられてまぁ。

台風などの高波で通行止めになることも有るとか
現在でも静岡県内では難所の一つなんだって。

ここをJR東海道本線もトンネルで通過してますな。

反対側をデジカメで撮影したらこんな感じでっせ。

(由比の陸橋から 富士山の方角を撮影)


山並みの上に富士山が薄っすら見えてますんやけど
鉄ちゃん爺やのデジカメではダメのようでんな。

肉眼なら、何とか富士山らしく見えてますんやけど。

それでは次の列車が来ますんでJR由比駅へ戻りまひょ。

(JR由比駅を通過する 特急電車)


東海道本線と言われながら、走っている特急はこの
「ワイドビュー富士川」と夜行寝台の「瀬戸・出雲」だけ。

東海道新幹線が開通してからは東海道本線とは名前ばかり
ローカル線に転落して、久しいように感じますんや。

(JR由比駅構内の 観光用パネル)


由比の宿の本陣などが描かれているようでっけど
ズームで撮影するのを怠ったので見えまへんわ。

昼食は次の富士宮市に変更して先へ進むことにしまひょ。

4つ目のJR富士駅でJR身延線に乗り換えますんや。

(JR富士宮駅 駅名標)


ここから駿河の国・一之宮である浅間神社まで徒歩約15分。

確か8年ぐらい前に訪ねてますんで今回が二度目ですかな。

(浅間神社 二の鳥居)


(浅間神社の 楼門)




(重要文化財の標識板)


この神社を正式には「富士山本宮・浅間神社」と呼びまぁ。

「あさまじんじゃ」じゃなく「せんげんじんじゃ」と読みまぁ。

ここが本宮で、奥宮は富士山の頂上にあることはご存じかも。

富士山の噴火口は禁足地で、内院は8合目の深さに当たるとか。

そんな訳で、現在でも8合目から頂上までの富士山頂は
浅間神社(せんげんじんじゃ)の所有地になりまんねんで。

(富士山本宮・浅間神社の拝殿)






(富士山本宮・浅間神社の 拝殿内部)


(富士山本宮・浅間神社の本殿)


(富士山本宮・浅間神社の 本殿を自撮り)


拝殿の後方に位置する本殿は二階建てのような特殊な構造。

三間社流と呼ばれる全国でも珍しい、お社になってまっせ。

(富士山本宮・浅間神社の ご朱印)


(浅間神社の 神紋)




(浅間神社 境内の枝垂れ桜)


前回に訪れた際は4月だったので枝垂れ桜が五分咲きでした。

今回は夏場なので、葉桜では趣として、やや劣りますかな。

(天皇陛下の和歌が記された絵馬)


(皇后陛下の和歌が記された絵馬)


楼門の左右に今回も掲げられてましたんや。

前回も気が付いてましたが同じ、お歌なのか
別の和歌なのかは、分かりませんでしたけど。

(湧玉池の標識)




富士山に降る大量の雪と雨は、やがて麓に至り
ここ浅間神社の境内に湧水として現れますんや。

水温は年間を通して13℃を維持しているんだって。

国の天然記念物に指定されている「湧玉池」でっせ。

(浅間神社の 湧玉池)








浅間神社の境内にはこんな石が置かれてましたで。

火山弾では、こんな大きいのは珍しいと書かれてますな。

(名勝 富士山の火山弾)


(南極から持ち帰った石)


(浅間神社の 鉾立て石)


鉾立て石は浅間神社の祭礼に際して、鉾を立てる石だとか。

(湧玉池から流れて 御手洗川=みたらいがわ)






(浅間神社の 境内の流鏑馬の像)


(浅間神社の 参道)


参拝も終わりましたので、遅めのお昼ご飯としまひょ。

二の鳥居の前にこんな横丁を見つけましたんや。

(浅間神社の門前 お宮横丁)






富士宮と言えばB級グルメで有名になりました「焼きそば」

画像は省略しますが大阪の「焼きそば」と味については
どっこい~ どっこい~ そんな感じがしましたけど。

(浅間神社 二の鳥居と自撮り)


(二の鳥居を ズームアップ)




ご当地で一世を風靡し大昭和製紙さんが寄贈されたんだ。

都市対抗野球でも優勝した、有名な企業でもおました。

現在は日本製紙という企業に統合されたようでっけど。

それでは今夜の宿へ向かうことにしまひょ。

(富士山五合目行の バスが発車)


(JR富士宮駅 長いプラットホーム)


その昔に、某宗教団体の貸し切り列車が発着したとか
現在は無用になつた、長いホームが残ってますんや。

参考のために大石寺というお寺で破門にしたとか。

(JR富士宮駅で自撮り)


振り返ったら富士山が姿を見せてきましたんや。

この時期は夕方しか富士山の姿を見ることが出来まへんな。

(富士宮市内から 富士山を撮影)




(スーパーホテル 天然温泉・富士本館)


今宵の宿は静岡県の富士市内のビジネスホテルでおます。

ひと風呂浴びてから駅前に繰り出すことにしまひょ。

(JR富士駅前の 居酒屋)


(さかなや道場 まぐろ居酒屋)


(静岡県内 漁港の標識)


本マグロと書かれているのに釣られて入店しましたんや。

少し高めでしたが初日なので、奮発しての夕食でおます。

(生ビールで お疲れさま~🎵)


(本マグロ 中とろ刺身)


(本マグロの 三貫盛り)


画像の左から、赤身・中とろ・大トロの 三貫でした。

やはり本マグロだけあって味の方は抜群でしたよ。

(富士市の マンホールの蓋)


(富士市内から 夕やみ迫る富士山)


初日はこんな感じで夜が更けてきましたんや。

次回は伊豆の国・一之宮である三嶋大社から
続いて相模の国・一之宮である寒川神社へ。

いよいよ~ 関東へ向かう、お話になりまんな。

ほな~ これで、さいなら~🎵



コメント (18)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大和の国の一之宮 大神神社を訪ねて

2017-08-14 20:12:05 | 神社
奈良盆地から眺めると円錐形の秀麗な山。

それが三輪山で大神神社(おおみわじんじゃ)の
ご神体で、「神が宿る山」と言われてきましたんや。

上代の信仰を今に伝える我が国最古の神社だとの説も。

(三輪山 標高467m)


昭和の時代までは一般の人が三輪山に入ることが出来ず
一木一草すら採取ができない神秘なお山でしたんや。

永年の願いが認められて現在は摂社の一つである
狭井神社(さいじんや)に届を出し登拝(とうはい)が
認められてますが、写真撮影の一切が許可されまへん。

不心得な行為をした為に、下山後に病気になったり
事故にあったりと、不思議な現象がネットで語られ
三輪山中の写真も、一切が掲載されてないですな。

神聖な霊山として現在も神秘に満ちた山なんですよ。

(JR桜井線 桜井駅名標)


(JR桜井線 先頭車から撮影)


鉄ちゃん爺やは近鉄で桜井駅まで出て、JRに乗り換え
一駅だけでっけど乗ったら2分で三輪駅に到着ですわ。

桜井駅からバスもおますけど、今回はJRで行きまひょ。

神仏習合時代の名残りか、関西では「三輪の明神さん」と
呼ぶ方も多いようでっかな。

(JR三輪駅構内 大神神社の下車駅標)


(JR桜井線 三輪駅名標)


ここからは徒歩で参道まで向かいますんや。

正月の三が日は約50万人が初詣に訪れる有名な神社も
普段は閑散としているので、デジカメ散歩なら最適かも。

(大神神社とJR三輪駅の道路標示板)


(JR桜井線の 踏切を渡る)


画像の向こうに見えているのが先程に下車した三輪駅。

当然ながらローカル線で単線に成ってますんや。

奈良県はJRも私鉄も全てが電化されているんだって。

ローカル線なのに、これは自慢が出来るお話かも?

(大神神社への 参拝道路)


こんな処から自動車は渋滞してるとは大変なことでんな。

鉄ちゃん爺やは徒歩で大神神社へ向かいまひょ。

大神神社(おおみわじんや)と呼んでくださいね。

(大神神社 二の鳥居)






この鳥居を潜ると景色が一変して神社らしくなりまっせ。

それじゃ拝殿までゆっくりと歩いて行くことにしまひょ。

(大神神社の 参道)








(大神神社の 手水舎)


この石段を登ると大神神社の拝殿になりますんや。

三輪山の麓になりますので、おみ足の悪い方でも
お詣りは、さほど苦労するような事はおまへんかな。

(大神神社の 石段)


(大神神社の パンフレツト)


(大神神社の 拝殿) (国の重要文化財に指定)






(大神神社の 拝殿前にて自撮り)


大神神社(おおみわじんじゃ)のお話は日本書紀などに
「国譲り」の神話として記されているようですわ。

大己貴神(おおなむちのかみ)世間では大国主命
(おおくにぬしのみこと)とお呼びしますかな。

それよりも大国様としての方が庶民には人気かも?

大己貴神と少彦名神(すくなひこなのかみ)お二人が
日本の国を造られたんですが、途中で少彦名神が
常世の国に行ってしまった後の出雲の国でのお話。

大己貴神(おおなむちのかみ)が

「国を平定したのは私一人だ、でも私と一緒に
  天下を治める者は居るのだろうか?」

すると~

神々しい光が海を照らして、忽然と浮かびあがってくる神!

「私が居たから、貴方は国を平定するという
  偉大なことを成し遂げたのだ」 と言ったとか。

「私は貴方の 幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)だ!」

大己貴神(おおなむちのかみ)は納得されて、こう問いかけた。

「何処に? 住みたいんでしょうか?」

三諸山(みもろのやま)=(三輪山)に住みたいと述べられた。

そこで宮を造営してお祀りしたので、大神神社のご祭神は

「オオモノヌシノカミ=大物主大神」だとされるんだとか。

大物主大神の側には大己貴神(おおなむちのかみ)と
少彦名神(すくなひこなのかみ)が、お祀りされている。

古代のヤマト王朝の本拠地の近くに何故か出雲系の神様が。

しかも天皇家の皇祖である笠縫邑(かさぬいむら)に在った
元伊勢の神様が、伊勢の方へ移ってしまわれたのも謎?

天照大神を天皇家のお側から、恐れ多いとかで伊勢の方へ
なのに、大神神社の大物主大神はなぜ移されなかったのか?

日本書紀はその件を何も語ってないのも不思議な話ですかな。

(大神神社の ご朱印)


(大神神社 勅使殿)(拝殿の向って右手)


天皇家からの勅使はこの建物に入ってから拝殿へなのかも。

反対側の拝殿の向かって左手にはこんな建物も。

(大神神社 勤番殿)(拝殿の向かって左手)


(大神神社の ご神燈)




次の画像は実物は見ることが叶わない貴重なものです。

大神神社では「古来、一社の神秘なり」と記録され
特に神聖視されて来たものだそうでっせ。

(大神神社の 三つ鳥居)(転載 禁止)


この三つ鳥居は拝殿の奥に、ご神体である三輪山との
境目に置かれている、重要文化財に指定されてまっせ。

この三つ鳥居を通して、禁足地である三輪山を拝む
そんな理由のようですが、この三つ鳥居が何時に
出来たのか、もしくは何のためかも不明なんだって。

現在の拝殿は江戸時代の創建で、大昔には拝殿も無く
この三つ鳥居から三輪山のご神体を拝んだのかも?

貴重な画像ですのでコピーなどは、ご遠慮くださいね。

(大神神社の 茅の輪)








(大神神社 茅の輪を背景に 自撮り)


「茅の輪」は夏越しの神事として各地で見られますが
「輪が一つ」でそれを潜るのが普通だと思いまんねん。

ここ大神神社の「茅の輪」は「輪が三つ」なんですわ。

真ん中の輪から入り、右の輪を潜つて真ん中に戻り
次いで左の輪を潜って、真ん中の輪に戻って終了。

鉄ちゃん爺やも、「三つの輪で出来た茅の輪」なんて
初めての体験でしたが、無事に潜ってきましたで。

(大神神社の ご神木)


(巳の神杉 説明書)


このご神木の根元に白蛇が住んでいるとの説で、その
白蛇を見た方は、願いが叶うとの説がおますんや。

鉄ちゃん爺やは、今回で3度目の参拝に成りまっけど
白蛇さまには、一度もお目にかかってまへんですわ。

「三輪の神杉」と呼ばれて、杉の木は三輪山には
大木が数多く存在しているんだって。

(大神神社 平成第二期造営 奉納者の掲示板)




凄い寄付金ですね、一千万円も奉納された方が多数
全体では数百億円になるんと違いまっしゃろか?



(三輪山)


余談ながら8月14日に大阪の八尾飛行場を飛び立った
小型機がこの三輪山から15kmぐらい先の山中に墜落。

大阪の会社役員の夫婦が2名とも死亡したとのこと。

この三輪山の上空を飛行通過した為に事故ったのかも?

冗談ではなくて、考えられない事故が過去にもおます。

(近畿日本鉄道 電車)




(近畿日本鉄道 特急電車)




鉄道マニアから「スズメバチ」の愛称を貰っている電車。

まもなく新型車と交代して引退が決まってますんや。

鉄ちゃん爺やの一之宮巡りはこれで五畿内が完了でっせ。

五畿内とは昔の、山城の国・大和の国・摂津の国
河内の国・和泉の国 のことを称しますんや。

それでは、今回のお話はこれでお仕舞にしまひょ。

ほな~ 今日はこれで、さいなら~🎵



コメント (16)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

備後の国 新市町と一之宮を訪ねて

2017-08-05 20:33:20 | 神社
今回は備後の国 新市町を訪ねましたんや。

JR福山駅からローカル線に乗り換えて約1時間。

現在は福山市に編入されて「新市町=しんいちちょう」
皆さんには、初めて聞く地名でっしゃろか。

実は鉄ちゃん爺やの住む町が昔は「古市町」でおます。

正反対の町名なので、昭和の時代から知ってましたんや。

訪れたのは今回が初めてでしたが、現役時代には
取引先や出荷先としては、良く知ってましたけど。

(7月31日 世界文化遺産に推薦!)(古市古墳群)


先月末に国内で世界文化遺産の推薦に決まりましたで。

正式な世界文化遺産に決まるのかは疑問でっけど?

古墳は横から見ても観光客には理解が出来まへんやろな。

この件は機会を改めていずれ紹介する事にしまひょ。

(JR福塩線 新市駅 駅名標)




この町は鉄ちゃん爺やが現役時代から馴染の町で
当時は「広島県芦品郡新市町」と呼ばれてました。

現役時代にはジーンズの縫製企業が多かった記憶。

戦前は軍服を縫製していた時代があったんだとか。

お隣の岡山県・倉敷や児島地区の学生服と並び、現在も
ワーキングウエアやカジュアルウエアの縫製が盛んで
岡山県西部と備後地区で大半が生産されてるんだって。

(新市町の 観光案内地図)


備後絣(びんごかすり)ってご存じかしら?

戦前から戦後の1950年代まで婦人用の
作業服として愛用された綿の織物なんでっせ。

黒っぽい紺色に白い柄と言えばお分かりかしら?

そうそう! 女性の「もんぺ」に使われた生地でんな。

戦争中は女性の和服が自粛されたので、絣(かすり)を
使った「もんぺ姿」が一般的な姿だったような記憶。

あまり、良いイメージは無いかもしれまへんけど。

(備後絣=びんごかすり)






鉄ちゃん爺やが就職した頃から「備後絣」は斜陽化し
200件ぐらいあった企業も、数件を残すのみだとか。

久留米絣・伊予絣・備後絣が日本の三大産地でしたな。

最近はネクタイとか浴衣などで僅かに復活も見られとか。

(備後絣=びんごかすりの パンフレット)


先染めと呼ばれる紺色に染色した経て糸に、片や白く
染色した横糸で織り上げる日本独特の織物だったそうな。

その技術を生かして、デニムの生地が備後地区では
日本最大の生産地になっているようでっせ。

デニムと言えばジーンズに使用する生地だとご存じかも。

縫製は中国や東南アジアに安い人件費を求めて進出し
ここ備後地区も、苦しい時代が続いているんだとか。

それでもジーンズの縫製では日本有数の生産を現在も
維持し、岡山県とここ新市地区で作られるようでっせ。

ブランド名でしか流通しないので生地や縫製の地区が
一般の人には、知られてないのが現状でっしゃろな。

それでは鉄ちゃん爺やが最近始めた「一之宮巡り」

備後の国の一之宮は、ここ新市町にありますんや。

JR新市駅から北へ約2kmぐらいの所にありまんねん。

「吉備津神社=きびつじんじゃ」と呼ばれてまぁ。

(吉備津神社 ご参拝のしおり)




(吉備津神社の 鳥居 & 下随神門)


(石の鳥居には 慶安元年の銘が)


慶安元年と言えば西暦1648年で徳川三代将軍の
徳川家光公の晩年になりますかな。

ここ吉備津神社の本殿を再建されたのは前回に紹介した
福山藩初代藩主の水野勝成さんだそうですわ。

水野勝成さんが亡くなられたのは慶安4年だそうで
この石の鳥居も存命中に奉納された物なんでしょうな。

(上随神門への石段)


備後の吉備津神社には随神門が上と下の二つが有りまんねん。

全国の神社で随神門が二つもあるのはここだけだとの話。

10月を昔は神無月と呼び、全国の神さまが出雲に集まられ
神さまが居られないので、神無月と呼ばれたそうでんな。

出雲では逆に「神有月」と呼びますが、神代の時代に
出雲に来ない吉備津彦命(きびつひこのみこと)心配し
大国主命(おおくにぬしのみこと)が心配されて部下を
派遣された処、備後の国は大祭の真っ最中だとのこと。

それ以降は派遣された部下二人がそのまま門守に命じられ
備後の国も10月を「神有月」と呼ぶようになったんだとか。

(吉備津神社 本殿)(国の重要文化財に指定)




(吉備津神社 本殿を背景に自撮り)






(吉備津神社 ご朱印)


社伝では大国主命や吉備津彦命などの逸話が記されてますが
平安時代初期の「式内社」には備後の国の「吉備津神社」は
記載されてないんですわ、だから中世以降に出来たのかも?

昔は「吉備の国=きびのくに」と呼ばれた現在の岡山県と
広島県の備後地方は、奈良時代に三つに別けられたとの説。

京都から近い方から備前は「前つ国」真ん中の備中は「中つ国」
一番遠い備後は「後つ国」と呼ばれたのが始まりだとのこと。

おそらくは平安時代か鎌倉時代に備中に鎮座する「吉備津神社」
から分祀して造営された「一之宮」だと考えられますんや。

(吉備津神社の 神楽殿)




吉備津神社のご祭神は大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと)と
呼ばれ、大和朝廷に匹敵するような豪族だったような感じ。

岡山県の備前の国には「吉備津彦神社」が同じく備中の国には
「吉備津神社」が鎮座されてるのは当然なことですわな。

ご神木なんでしょうな、大きな銀杏の木が植わってまぁ。

(吉備津神社の ご神木 大公孫樹)




(吉備津神社の拝殿)


(吉備津神社 拝殿の内部)


本殿は慶安元年(1648年)に福山藩主・水野勝成が再建して
「備後の国一之宮」として今日に至ると記されてるようでんな。

備後の国のお殿様として、吉備津神社は大事な神様でしたんや。

(吉備津神社 本殿の彫刻)






流石に備後の国・一之宮です立派な彫刻が施されてまぁ。

吉備津神社の入口には「御池」という池がおますんや。

パンフレットの画像に成りますが貼り付けて置きまひょ。

(吉備津神社 御池)


昔はこの池で参拝者は心身を清めてからお参りしたそうですわ。

社務所からタクシーを呼んで貰ったので立ち寄れませんでいた。

タクシーは2kmもの駅前からメーターを倒さずに神社まで
JR新市駅まで790円で乗せてもらい有り難かったですわ。

タクシー待ちの時間に上の随神門から下の随神門をデジカメで
写してみたらこんな感じに成りましたんや。

(上随神門から 遠くに下の随神門を望む)


広島県は安芸の国の厳島神社、それに今回の吉備津神社
これで広島県の一之宮は完了したことになりますんや。

それではJR新市駅まで戻ることにしまひょ。

(JR新市駅 駅舎)


この跨線橋から先は広島県の府中市になりますんや。

東京の府中市と広島県の府中市が同じ紛らわしいでんな。

現在はこんな同じ都市名は付けられないようでんな。

両方共に政令が出来る前に市制が成立したんだって。

(JR福塩線 新市駅 時刻表)


(吉備津神社 参拝下車駅のご神燈)


マクロで誤って撮影したのでボケてますがご容赦のほど。

のんびりしたローカル線の田舎の風景ですね。

福山市とは思えないような長閑なホームでっせ。

(JR新市駅 ホーム)


(JR新市駅に 到着の105系電車)


(JR福山駅にて 福塩線のホームを撮影)


(JR福山駅前にて 自撮り)


(JR福山駅前から 福山城の月見櫓を撮影)


新幹線で福山駅を通過する際に見える福山城の
再建された新しい「月見櫓」ですよ。

これで広島を巡る最後にしますので、糸崎駅で
出会いましたラッピング電車を貼り付けて置きまぁ。

(JR山陽本線 糸崎駅 駅名標)


(サンフレッチェ広島 ラッピング電車)






(115系 瀬戸内配色の 郊外電車)




JR山陽本線は糸崎駅までが岡山支社管轄になりまんねん。

普通電車はここで広島方面も岡山方面へも全てが乗り換え。

次の三原駅からはJR西日本の広島支社管轄になりまぁ。

ここで広島方面行きの新型電車と乗り換えましたで。

(227系 JR西日本 広島管轄の新型電車)


それじゃ鉄ちゃん爺やの広島県巡りはこれにてお仕舞い。

次回は奈良県の大神神社を紹介させてもらいまひょ。

それじゃ、これで、さいなら~🎵

 

コメント (12)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山城の国・一之宮  上賀茂神社に詣でる

2017-05-13 20:06:30 | 神社
京都し北区にある上賀茂神社を紹介しまひょ。

11月に掲載しました下鴨神社と二つ並んで
山城の国(現在の京都府)一之宮と呼ばれてまっせ。

鉄ちゃん爺や京阪電鉄の出町柳駅の終点で下車でおます。

(7200系 京阪電鉄の急行)(出町柳駅にて)


(賀茂川と高野川の合流地点)(賀茂大橋で撮影)


右側が高野川で遡れば八瀬から大原方面になりまんねん。

左側が本流の賀茂川で今回はこちらに沿って遡上しまっせ。

中央に見える森は11月に紹介しました下鴨神社のある
糺の森(ただすのもり)になるようでんな。

合流してここから下流は鴨川と名前が変わりますんや。

(バスから賀茂川の流れを撮影)


左に見える出町大橋を渡ってバスは右折しますんや
上賀茂神社へ向かって北西の方へ走ってるようでんな。

京都駅前からやってきたバスでっけど巧く座れましたわ。

(京都市バス 堀川通を走行中)


京都市内をイメージよりも北西に走ってきた感じでんな。

堀川通りが北部で賀茂川に沿ってるとは知りまへんでした。

(賀茂川に沿って北上中)


路線バスなので上賀茂地区をぐるぐる回りながら約30分
やっと終点の上賀茂神社前に到着しましたで。

京都駅前から乗っても、途中からでも230円均一でした。

JR京都駅前からだったら1時間はかかりまっしゃろか?

(上賀茂神社 一の鳥居)




(世界文化遺産の石碑)


それじゃ本殿に向かいまひょ、参道には白砂が撒かれてまっせ。

下鴨神社は糺の森(ただすのもり)の中なので薄暗い感じ
こちら上賀茂神社の参道は明るくて開放的なイメージでした。

(上賀茂神社の参道 & 二の鳥居)


参道だけは白砂が撒かれてまっけど両側は芝生になってまぁ。

右手には見事な枝垂れ桜が植わってまして、市内では散った
桜の花がここ上賀茂神社では、まだ見頃のまま残ってますわ。

京都市内でも北の外れで、標高も100mを超えてるはず
気温も京都駅前より2~3度ぐらい低いんでしょうな。

(上賀茂神社 参道の枝垂れ桜)


(上賀茂神社の回廊にて 自撮り)




(上賀茂神社の由緒とご祭神 説明書き)


正式には賀茂別雷神(かもわけいかづちのかみ)と
称され、神代の時代1400年前に北北西にある
神山(こうやま)に、ご降臨されたそうですわ。

平安京を造営する際に北東の鬼門に当たる事から
皇室の崇敬が篤く、毎年5月15日に行われる
例祭は「葵祭」として京都三大祭りで知られてまぁ。

現在も勅使が派遣される勅祭社で伊勢神宮の
例祭に次ぐ、格式の高い神社だそうですわ。

平安時代には未婚の皇女が御杖代として「斎王」の
名前で天皇の代わりに、神にお使えしたんだとか。

だから伊勢神宮と並んで上賀茂神社と下鴨神社は
皇室には非常に大事な神様だという訳でおます。

有名な楼門があるんですが式年遷宮で工事中でした。

これは鉄ちゃん爺や、予備知識の欠如でしたな。

(上賀茂神社の楼門 パネルを撮影)




この楼門をデジカメで写したかったが残念でおます。

第42回式年遷宮の工事中だとは知りまへんでした。

それでは拝殿から、お詣りをさせて頂きまひょ。

(上賀茂神社の 拝殿)




神紋は「二葉葵」で徳川家はこの葵を頂戴してアレンジ
「三つ葉葵」の家紋を考え出したとの説がおますんや。

失礼ながら拝殿から本殿を写させて貰いましたで。

本当は写真撮影などは、禁止だと思いますんやけど。

本殿の内部には特別な神職しか入れないんだって。

(上賀茂神社の 本殿) (国宝に指定)


(上賀茂神社の ご朱印)


(下鴨神社の ご朱印)(昨年11月)


これで山城の国・一之宮は二つ共に参拝完了でんな。

それでは上賀茂神社の境内を散策さてもらいまひょ。

(上賀茂神社 細殿=ほそどの)(国の重要文化財)






結婚式がこの中で行われてましたので、常設の神殿として
重要な場所なんだろうな、と想像した次第。

ネットで見れば普段は吹き抜けに成っているらしいが
結婚式なので神殿が囲われているんだと思いますんや。

細殿(ほそどの)の前には有名な「立砂=たてすな」が

詳しいことは、立て札をお読みくださいね。

(上賀茂神社の 立砂=たてすな)




(立砂=たてすな 説明書き)


細殿(ほそどの)の横には小川を、またいで神殿がおます。

この小川は神山(こうやま)から湧き出て、上賀茂神社の
境内を通り抜けて、明神川に流れ込んでいるとのこと。

(上賀茂神社 舞殿  橋殿とも呼ばれる)(国の重要文化財)




(中央が舞殿 左側が細殿 右側に土舎)




画像の中央が舞殿で、左側の細殿とは方向が逆になってまぁ。

右側には高床式でもう一つの土舎と呼ぶ神殿が並んでまっせ。

(上賀茂神社の 土舎)


(上賀茂神社 境内の絵図)


一番奥が上賀茂神社の本殿で、中央辺りに細殿(ほそどの)
舞殿や土舎などが並んでいるのが、お分かり頂けるかしら?

ネットでは三つとも奥の方へ吹き抜けで見通せる構造になり
上賀茂神社の特徴を示しているような感じもしますんや。

それでは、ご神体の神山(こうやま)から湧き出て
上賀茂神社の境内を流れる御手洗川(みたらいがわ)へ
戻ることにしまひょ。

(御手洗川=みたらいがわ)




御手洗川(みたらいがわ)を拝殿から橋で渡りますんや。

この小川も、神聖なる神事によく利用されるんだって。

(岩上=がんじょう  説明板)




「葵祭」に際し宮司が岩上(がんじょう)に蹲踞(そんきょ)

勅使と対面し、賀茂別雷神(かみわけいかづちのかみ)に
天皇のお言葉を言上した後、神のお告げを返し祝詞(のりと)
する上賀茂神社に於いて、最も神聖なる場所なんだって。

最近の言葉では、パワースポットと言いますんでっしゃろか。

(御手洗川の流れ)






(曲水の宴が 行われる場所)


「葵祭」の女性代表である「斎王代」は下鴨神社の小川と
ここ上賀茂神社の御手洗川(みたらいがわ)で隔年ごとに
禊(みそぎ)の神事が行われるのがテレビで紹介されまっせ。

今年は下鴨神社の御手洗川(みたらいがわ)で厳粛に
5月2日に実施されたと、テレビで放映してましたな。

(上賀茂神社の境内 願い石)






(上賀茂神社境内にある 睦の木)






結婚式を終えた新郎新婦が神職に連れられてこの場所に。

夫婦円満の堅い誓いを告げるんでしょうかな?

(上賀茂神社 神馬舎)


土日だけ白馬に会えるんだけど、神様の馬なので
馬には語りかけないようにとの貼り紙が。

(京都では 和服の女性がお似合い)




(二の鳥居前で 自撮り)




(上賀茂神社の 馬場)


ここはゴール地点になりますんや、約200mおますな。

一の鳥居の横がスタート地点で、二の鳥居の横がゴール。

(賀茂競馬会神事=かもくらべうまえしんじ)






毎年5月5日「葵祭」の直前に、20頭の神馬が左右に別れて
競う神事で、平安時代から続く伝統の行事なんでっせ。

この日は、足汰(あしそろえ)と呼ぶ調教が行わてれましたで。

(馬だしの桜)


ここから二頭の馬がゴールに向けて走り出す場所なんだって。

騎手は左右に分かれて、10組が勝ち負けを争う神事のようでんな。

(むち打ちの桜)


ここで両馬に、むちが入りクライマックスになるんだとか。

左が勝てば太鼓が打たれ、右が勝てば鉦が鳴らされるんだって。

(勝負の楓=かえで ゴール地点です) 


平安時代から続く神事で、6曲屏風にも描かれ当時の
貴族や庶民が、埒外(らちがい)で大勢が見物したとか。

現在の競馬でも埒(らち)という言葉が使われてまっせ。

(足汰=あしぞろえ 調教中の神馬)










長くなりましたので今日はこれぐらいで置きますかな。

(蛇足ながら)

現在の京都御所は、上賀茂神社の南に当たりますが
平安時代の京都御所は二条城の北辺りに存在しました。

だから平安京の北東の鬼門に上賀茂神社がおますんや。

月曜日の5月15日は「葵祭」の本番になりますな。

夏の祇園祭・秋の時代祭と並び、京都の三大祭でっせ。

京都市の観光協会のURLを貼り付けて置きますので
優美な平安絵巻を、是非とも一度ご覧ください。


(京都市観光協会 葵祭URL)
https://www.kyokanko.or.jp/aoi/

それじゃ、これで、さいなら~🎵

コメント (12)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする