8月15日が来れば戦後70年の節目になりまんな。
戦後70年の首相談話などで世間が騒がしく成ってまぁ。
鉄ちゃん爺が大阪で忘れ去られた史跡を今回は紹介しまひょ。
(JR大阪環状線 玉造駅)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
お隣の鶴橋駅は大阪でも韓国料理などで有名なんですが
ここ玉造駅辺りはあまり知られていない街でおます。
鉄道フアンの鉄ちゃん爺やもJR玉造駅を通過はしても
この駅で下車したと云う記憶がおまへんな。
今年は「大坂夏の陣400年」という事で大阪市内では
各地で色んなイベントが始まってまっせ。
今回は鉄ちゃん爺やも「大坂夏の陣400年」に合わせて
デジカメ散歩を始めたんですわ。
(JR玉造駅舎 西口)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
「大坂冬の陣」で真田幸村が立て籠った真田丸と呼ぶ
砦が現在の三光神社辺りだと云われてますんや。
ネットで地図を検索してたら三光神社の裏側に何故か
何も記載の無い大きな空間が存在してまんがな。
ここは何なんだろう?、気になるんで訪れて見まひょ。
(旧真田山陸軍墓地 正門)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
貼り紙にも立入り禁止とは書いてまへんな。
幸いにも潜り戸は鍵も掛かってないので侵入しまっせ。
(真田山陸軍墓地 説明書き)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
戦後70年の節目じゃ無ければ、なるほど~ と納得し
そのまま、説明書きを読んだだけで退出したかも。
別に急ぐこともないので墓地内を一周して見まひょ。
帰ってネットで検索したら凄い事が分かりましたがな。
1871年(明治4年)に大阪鎮台(ちんだい)が出来て
同時に日本で初めての陸軍埋葬地と成った場所なんだって。
当時は陸軍省では無くまだ兵部省だったようだけど。
東北鎮台(仙台)・東京鎮台・大阪鎮台・鎮西鎮台(熊本)
この4つしかなく、1年後に名古屋鎮台・廣島鎮台が追加。
当時の大阪鎮台は北陸から近畿一円及び中国四国全域と
発足時は一番大きな地域を受け持っていたんだ。
後に中国四国が廣島鎮台へ北陸三県が名古屋鎮台へ移管。
大阪城の横には東洋一の造兵工廠(ぞうへいこうしょう)も
建設中で近代日本の軍隊を訓練するには最適な場所だった?
この陸軍埋葬地は当初は28000㎡(約8500坪)も在り
昭和初期に南側部分を真田山尋常小学校を造る際に譲渡。
終戦時から現在に至るも約15000㎡(約4545坪)が
当時のまま残る陸軍墓地としては唯一の規模だとのこと。
(公益財団法人 真田山陸軍墓地維持会)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
この名称に変ったのは2003年(平成15年)10月からで
それまでは「大阪靖国霊場維持会」と呼んだんだって。
靖国神社と同じ靖国を名乗っているけど総理大臣が一度も
訪れたこともなく、中国や韓国からの批判も出まへんな。
そもそも戦後に陸軍が消滅し大蔵省の財産になったんだけど
1946年(昭和21年)8月に大阪市に無償貸与されたとか。
ていの良い~ 厄介ものを大阪市に押しつけたと云う事かな。
当時の四天王寺管長・田村徳海さん他5名の有志が自費で
「大阪靖国霊場維持会」を設立したんだそうな。
当時は墓地は荒れ果てて墓石も倒されたり浮浪者が住み付き
昼間でも一般人は近づけないような状態だったそうだっせ。
大阪市民や遺族などの寄付金も徐々に増えて大阪市の後援も有り
管理・維持だけはなんとか続けられているのが現状だとのこと。
(西南戦争迄 兵卒クラスの墓碑)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
国内で最後と云われる1877年(明治10年)の西南戦争では
大阪の天満橋附近に臨時の陸軍病院(衛戍病院)が作られ
負傷者や病気になった軍人が大阪へ後送されたんだって。
不幸にして戦病死した兵卒や戦死した兵卒がこの埋葬地に
葬られたので日本全国の人の墓碑が読み取れますんや。
このブロックには大阪の鎮台で訓練中に死亡した兵卒や
同じく病気で亡くなった兵卒の方も含まれてますな。
だから1873年(明治6年)と云う方もおられますんや。
画像は写しませんでしたが入隊直後に亡くなってしまい
「生兵 ○○」なんて書き込まれた墓碑もあるんだって。
まだ二等卒という階級すら貰ってない方だそうでっせ。
(東京鎮台第1連隊で出征 西南戦争で戦死?)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
当時の兵隊さんは一等兵や二等兵とは呼ばずに墓石のように
一等卒とか二等卒と呼ばれたんでっせ。
この方も東京から出征して九州で戦死されたのか、それとも
大阪の衛戍病院で亡くなって埋葬されたということでんな。
(廣島鎮台第11連隊で出征 西南戦争で戦死?)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
この方は二等卒だから一番階級が下の兵隊さんですわ。
当時は陸軍墓地に個人の墓碑で全員が葬られるのが普通で
遺族の特別な引き取りが無い限りこんな感じだったんかな。
東京や広島の兵隊さんが大阪の陸軍墓地に埋葬されるのも
此処が当時では大きな敷地が在ったのと
衛戍病院が大阪に設けられたのが要因かもしれまへん。
和泉砂岩で造られた粗末な墓碑なので傷んで読めない物や
今にも崩れそうな墓碑が多く見られるので哀れを感じまぁ。
(軍夫の墓碑)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
軍夫とは兵隊さんじゃなく民間から起用されて軍需品の
輸送や軍馬などに携わって、死亡または病死した方の墓碑で
主に日清戦争や台湾征服に従事した934人の方々でっせ。
軍人以外の死者を陸軍墓地に埋葬した珍しい例だとのこと。
それも軍人より小さい粗末な墓石なのが目立ちますんや。
終戦時には全国で80箇所を超える陸軍墓地が在ったとか。
それが戦後に殆んどが壊されたり集約されて小さい墓地として
残っている程度で当時のまま残されている貴重な歴史遺産は
ここ大阪の旧真田山陸軍墓地だけだとも云われてますんや。
(将校さんの 墓碑)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
兵卒さんの墓碑は和泉砂岩の粗末な墓石でっけど
将校さんのは御影石で立派なのは当時の規則なんだって。
将校さんは遺族年金も有るんで遺族が墓石を持ち込んで
陸軍墓地内に大きな敷地も貰えたんでっしゃろな。
(陸軍監督補さんの 墓碑)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
階級が分からないけど軍医さんのお墓かもしれまへん。
画像の左側に見える建物が陸軍墓地の納骨堂なんだって。
1894年~1895年(明治27年~28年)の日清戦争までは
個人の名前で墓碑が造られたんですが次ぎの日露戦争では
予想もしなかった多くの戦死者や戦病死者が出てしまいました。
陸軍省では個人の墓碑は中止して合葬慰霊塔に決めたんだそうな。
そんな訳で日露戦争の戦死者や戦病死された方の墓碑も
存在しますが以降は纏めて納骨堂に納められたとか。
この納骨堂には約8200体の遺骨が納められていますよ。
この遺骨の確認や本人の記録を調査する仕事も平成になってから
真田山陸軍墓地維持会の皆様で始まっているそうです。
(納骨堂の前から 兵卒さんの墓碑)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
1904年~1905年(明治37年~38年)の日露戦争時に
個人名で墓碑が造られた最終の頃の戦死者や戦病死者のお墓です。
まだこうして遺骨が納められたお墓は恵まれているとも云えますよ。
大平洋戦争では遺骨は戻らず戦死した場所も不明の英霊が大半で
各地に遺骨の無い墓石だけのお墓が全国に見られますよね。
戦後70年に成ろうとしているのに100万人以上もの日本兵の
ご遺骨が中部太平洋やビルマやフイリピンに残されています。
(破損墓碑塚 約260基)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
この破損塚は終戦後に荒れ果てて破損した墓碑を集めて
破損墓碑塚として墓地の中央に設置した物のようですわ。
現在も和泉砂岩で出来た墓碑は破損が進み崩壊寸前の墓石も
多く見られ、心無い人による倒壊の事件まで有るそうでっせ。
国や家族を守る為に一兵卒とし従軍して亡くなった方が
この墓地だけで5000基を超えています。
現在は国家や地方自治体が国の為に戦死または戦病死した方と
いえども祭祀を取り行う行為は禁止されてますね。
大阪市も破損した墓碑を修復する費用は人災による事件のみ
負担しているようですが先行きは暗い状態ですよ。
今の状態であれば50年ぐらい先には明治時代に造られた
和泉砂岩の墓碑なんて崩壊することが確実でっせ。
(旧真田山陸軍墓地 参道のマンホール蓋)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
終戦まで正門前には大阪第4師団の衛兵が配置され関係者や
遺族以外の出入りが厳しく検査されていたとの話でおます。
将校の墓碑 155基
下士官の墓碑 401基
兵卒の墓碑 3380基
軍夫の墓碑 934基
破損墓碑塚 260基
合計 5130基
それ以外に合葬慰霊塔など多数
特に西南戦争の官軍として従軍した方の墓碑などは全国に渡り
現在は5~6世代を経てますので忘れ去られた英霊と考えます。
最後にこんな俗謡が知られていますよね。
「また負けたか 8連隊=大阪」
「それじゃ勲章 9連隊=大津→京都 くれんたい」
「敵の陣地も 10連隊=大阪→姫路→岡山 とれんたい」
「大阪鎮台 ヘボ鎮台 などと歌われたそうです」
大阪鎮台に所属した第8~第10連隊の名誉の為に
決して大阪の兵隊は弱かったとの説を否定しておきまひょ。
西南の役(最近は西南戦争と呼ぶ)では当時の賊徒だった
西郷隆盛軍に対して大阪の連隊は大いに善戦し
「勇戦劇闘ご嘉賞」と明治天皇から詔勅を得ました。
これは記録では大阪鎮台にのみ与えられたそうでっせ。
日露戦争では南山の戦いで多くの犠牲を出したが
ロシア軍を撃退したと記録されてまぁ。
太平洋戦争ではバターン半島からコレヒドール島へ上陸
アメリカ軍を降伏させる一翼を担ったそうでっせ。
歴戦の大阪部隊にこんな俗謡が日本全国に流行ったのは
当時は士族出身の兵隊が多かった他の鎮台と比較して
大阪鎮台は町人や百姓が多かったからとの俗説。
西南戦争の結果、徴兵された平民の軍隊が当時最強の
薩摩(鹿児島)の士族に打ち勝ったことから
終戦まで徴兵された兵隊で賄ったのが現実ですわな。
最後に明治時代の戦争では銃弾にあたって戦死する兵士より
脚気を中心に戦病死する兵士の方が多かった事や
凱旋したにもかかわらずコレラで死亡の方も多かったとか。
あの文豪森鴎外(軍医総監)が脚気は細菌によるとの
説を死ぬまで変えずに誤った治療が行なわれたそうです。
ここ真田山陸軍墓地には脚気は細菌じゃないとの考えを
繰り返した堀内利国(軍医監=副総監)の墓碑がおます。
大阪の連隊には麦飯を食べさせて脚気を防止したのが
後には細菌説が否定されるきっかけともなったんだって。
長々と、真田山陸軍墓地のお話を書き込みましたが
戦後70年を前にして、私たちは国の為に家族の為に
尊い命を捧げた人々に今一度考える必要が有りますな。
戦争を起こした上層部の軍人や組織は批判されるとも
大多数の一般兵士は国の為に尊い命を捧げたことを
忘れないようにすべきだと考える次第。
世界中の人々にも当然の考えだと受け入れられるし
中国や韓国の批判にも当たらないと考えますけど。
次回は大坂冬の陣の真田幸村ゆかりの地を紹介しまひょ。
ほんなら、さいなら~♪
戦後70年の首相談話などで世間が騒がしく成ってまぁ。
鉄ちゃん爺が大阪で忘れ去られた史跡を今回は紹介しまひょ。
(JR大阪環状線 玉造駅)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
お隣の鶴橋駅は大阪でも韓国料理などで有名なんですが
ここ玉造駅辺りはあまり知られていない街でおます。
鉄道フアンの鉄ちゃん爺やもJR玉造駅を通過はしても
この駅で下車したと云う記憶がおまへんな。
今年は「大坂夏の陣400年」という事で大阪市内では
各地で色んなイベントが始まってまっせ。
今回は鉄ちゃん爺やも「大坂夏の陣400年」に合わせて
デジカメ散歩を始めたんですわ。
(JR玉造駅舎 西口)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
「大坂冬の陣」で真田幸村が立て籠った真田丸と呼ぶ
砦が現在の三光神社辺りだと云われてますんや。
ネットで地図を検索してたら三光神社の裏側に何故か
何も記載の無い大きな空間が存在してまんがな。
ここは何なんだろう?、気になるんで訪れて見まひょ。
(旧真田山陸軍墓地 正門)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
貼り紙にも立入り禁止とは書いてまへんな。
幸いにも潜り戸は鍵も掛かってないので侵入しまっせ。
(真田山陸軍墓地 説明書き)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
戦後70年の節目じゃ無ければ、なるほど~ と納得し
そのまま、説明書きを読んだだけで退出したかも。
別に急ぐこともないので墓地内を一周して見まひょ。
帰ってネットで検索したら凄い事が分かりましたがな。
1871年(明治4年)に大阪鎮台(ちんだい)が出来て
同時に日本で初めての陸軍埋葬地と成った場所なんだって。
当時は陸軍省では無くまだ兵部省だったようだけど。
東北鎮台(仙台)・東京鎮台・大阪鎮台・鎮西鎮台(熊本)
この4つしかなく、1年後に名古屋鎮台・廣島鎮台が追加。
当時の大阪鎮台は北陸から近畿一円及び中国四国全域と
発足時は一番大きな地域を受け持っていたんだ。
後に中国四国が廣島鎮台へ北陸三県が名古屋鎮台へ移管。
大阪城の横には東洋一の造兵工廠(ぞうへいこうしょう)も
建設中で近代日本の軍隊を訓練するには最適な場所だった?
この陸軍埋葬地は当初は28000㎡(約8500坪)も在り
昭和初期に南側部分を真田山尋常小学校を造る際に譲渡。
終戦時から現在に至るも約15000㎡(約4545坪)が
当時のまま残る陸軍墓地としては唯一の規模だとのこと。
(公益財団法人 真田山陸軍墓地維持会)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
この名称に変ったのは2003年(平成15年)10月からで
それまでは「大阪靖国霊場維持会」と呼んだんだって。
靖国神社と同じ靖国を名乗っているけど総理大臣が一度も
訪れたこともなく、中国や韓国からの批判も出まへんな。
そもそも戦後に陸軍が消滅し大蔵省の財産になったんだけど
1946年(昭和21年)8月に大阪市に無償貸与されたとか。
ていの良い~ 厄介ものを大阪市に押しつけたと云う事かな。
当時の四天王寺管長・田村徳海さん他5名の有志が自費で
「大阪靖国霊場維持会」を設立したんだそうな。
当時は墓地は荒れ果てて墓石も倒されたり浮浪者が住み付き
昼間でも一般人は近づけないような状態だったそうだっせ。
大阪市民や遺族などの寄付金も徐々に増えて大阪市の後援も有り
管理・維持だけはなんとか続けられているのが現状だとのこと。
(西南戦争迄 兵卒クラスの墓碑)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
国内で最後と云われる1877年(明治10年)の西南戦争では
大阪の天満橋附近に臨時の陸軍病院(衛戍病院)が作られ
負傷者や病気になった軍人が大阪へ後送されたんだって。
不幸にして戦病死した兵卒や戦死した兵卒がこの埋葬地に
葬られたので日本全国の人の墓碑が読み取れますんや。
このブロックには大阪の鎮台で訓練中に死亡した兵卒や
同じく病気で亡くなった兵卒の方も含まれてますな。
だから1873年(明治6年)と云う方もおられますんや。
画像は写しませんでしたが入隊直後に亡くなってしまい
「生兵 ○○」なんて書き込まれた墓碑もあるんだって。
まだ二等卒という階級すら貰ってない方だそうでっせ。
(東京鎮台第1連隊で出征 西南戦争で戦死?)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
当時の兵隊さんは一等兵や二等兵とは呼ばずに墓石のように
一等卒とか二等卒と呼ばれたんでっせ。
この方も東京から出征して九州で戦死されたのか、それとも
大阪の衛戍病院で亡くなって埋葬されたということでんな。
(廣島鎮台第11連隊で出征 西南戦争で戦死?)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
この方は二等卒だから一番階級が下の兵隊さんですわ。
当時は陸軍墓地に個人の墓碑で全員が葬られるのが普通で
遺族の特別な引き取りが無い限りこんな感じだったんかな。
東京や広島の兵隊さんが大阪の陸軍墓地に埋葬されるのも
此処が当時では大きな敷地が在ったのと
衛戍病院が大阪に設けられたのが要因かもしれまへん。
和泉砂岩で造られた粗末な墓碑なので傷んで読めない物や
今にも崩れそうな墓碑が多く見られるので哀れを感じまぁ。
(軍夫の墓碑)

photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
軍夫とは兵隊さんじゃなく民間から起用されて軍需品の
輸送や軍馬などに携わって、死亡または病死した方の墓碑で
主に日清戦争や台湾征服に従事した934人の方々でっせ。
軍人以外の死者を陸軍墓地に埋葬した珍しい例だとのこと。
それも軍人より小さい粗末な墓石なのが目立ちますんや。
終戦時には全国で80箇所を超える陸軍墓地が在ったとか。
それが戦後に殆んどが壊されたり集約されて小さい墓地として
残っている程度で当時のまま残されている貴重な歴史遺産は
ここ大阪の旧真田山陸軍墓地だけだとも云われてますんや。
(将校さんの 墓碑)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
兵卒さんの墓碑は和泉砂岩の粗末な墓石でっけど
将校さんのは御影石で立派なのは当時の規則なんだって。
将校さんは遺族年金も有るんで遺族が墓石を持ち込んで
陸軍墓地内に大きな敷地も貰えたんでっしゃろな。
(陸軍監督補さんの 墓碑)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
階級が分からないけど軍医さんのお墓かもしれまへん。
画像の左側に見える建物が陸軍墓地の納骨堂なんだって。
1894年~1895年(明治27年~28年)の日清戦争までは
個人の名前で墓碑が造られたんですが次ぎの日露戦争では
予想もしなかった多くの戦死者や戦病死者が出てしまいました。
陸軍省では個人の墓碑は中止して合葬慰霊塔に決めたんだそうな。
そんな訳で日露戦争の戦死者や戦病死された方の墓碑も
存在しますが以降は纏めて納骨堂に納められたとか。
この納骨堂には約8200体の遺骨が納められていますよ。
この遺骨の確認や本人の記録を調査する仕事も平成になってから
真田山陸軍墓地維持会の皆様で始まっているそうです。
(納骨堂の前から 兵卒さんの墓碑)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
1904年~1905年(明治37年~38年)の日露戦争時に
個人名で墓碑が造られた最終の頃の戦死者や戦病死者のお墓です。
まだこうして遺骨が納められたお墓は恵まれているとも云えますよ。
大平洋戦争では遺骨は戻らず戦死した場所も不明の英霊が大半で
各地に遺骨の無い墓石だけのお墓が全国に見られますよね。
戦後70年に成ろうとしているのに100万人以上もの日本兵の
ご遺骨が中部太平洋やビルマやフイリピンに残されています。
(破損墓碑塚 約260基)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
この破損塚は終戦後に荒れ果てて破損した墓碑を集めて
破損墓碑塚として墓地の中央に設置した物のようですわ。
現在も和泉砂岩で出来た墓碑は破損が進み崩壊寸前の墓石も
多く見られ、心無い人による倒壊の事件まで有るそうでっせ。
国や家族を守る為に一兵卒とし従軍して亡くなった方が
この墓地だけで5000基を超えています。
現在は国家や地方自治体が国の為に戦死または戦病死した方と
いえども祭祀を取り行う行為は禁止されてますね。
大阪市も破損した墓碑を修復する費用は人災による事件のみ
負担しているようですが先行きは暗い状態ですよ。
今の状態であれば50年ぐらい先には明治時代に造られた
和泉砂岩の墓碑なんて崩壊することが確実でっせ。
(旧真田山陸軍墓地 参道のマンホール蓋)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
終戦まで正門前には大阪第4師団の衛兵が配置され関係者や
遺族以外の出入りが厳しく検査されていたとの話でおます。
将校の墓碑 155基
下士官の墓碑 401基
兵卒の墓碑 3380基
軍夫の墓碑 934基
破損墓碑塚 260基
合計 5130基
それ以外に合葬慰霊塔など多数
特に西南戦争の官軍として従軍した方の墓碑などは全国に渡り
現在は5~6世代を経てますので忘れ去られた英霊と考えます。
最後にこんな俗謡が知られていますよね。
「また負けたか 8連隊=大阪」
「それじゃ勲章 9連隊=大津→京都 くれんたい」
「敵の陣地も 10連隊=大阪→姫路→岡山 とれんたい」
「大阪鎮台 ヘボ鎮台 などと歌われたそうです」
大阪鎮台に所属した第8~第10連隊の名誉の為に
決して大阪の兵隊は弱かったとの説を否定しておきまひょ。
西南の役(最近は西南戦争と呼ぶ)では当時の賊徒だった
西郷隆盛軍に対して大阪の連隊は大いに善戦し
「勇戦劇闘ご嘉賞」と明治天皇から詔勅を得ました。
これは記録では大阪鎮台にのみ与えられたそうでっせ。
日露戦争では南山の戦いで多くの犠牲を出したが
ロシア軍を撃退したと記録されてまぁ。
太平洋戦争ではバターン半島からコレヒドール島へ上陸
アメリカ軍を降伏させる一翼を担ったそうでっせ。
歴戦の大阪部隊にこんな俗謡が日本全国に流行ったのは
当時は士族出身の兵隊が多かった他の鎮台と比較して
大阪鎮台は町人や百姓が多かったからとの俗説。
西南戦争の結果、徴兵された平民の軍隊が当時最強の
薩摩(鹿児島)の士族に打ち勝ったことから
終戦まで徴兵された兵隊で賄ったのが現実ですわな。
最後に明治時代の戦争では銃弾にあたって戦死する兵士より
脚気を中心に戦病死する兵士の方が多かった事や
凱旋したにもかかわらずコレラで死亡の方も多かったとか。
あの文豪森鴎外(軍医総監)が脚気は細菌によるとの
説を死ぬまで変えずに誤った治療が行なわれたそうです。
ここ真田山陸軍墓地には脚気は細菌じゃないとの考えを
繰り返した堀内利国(軍医監=副総監)の墓碑がおます。
大阪の連隊には麦飯を食べさせて脚気を防止したのが
後には細菌説が否定されるきっかけともなったんだって。
長々と、真田山陸軍墓地のお話を書き込みましたが
戦後70年を前にして、私たちは国の為に家族の為に
尊い命を捧げた人々に今一度考える必要が有りますな。
戦争を起こした上層部の軍人や組織は批判されるとも
大多数の一般兵士は国の為に尊い命を捧げたことを
忘れないようにすべきだと考える次第。
世界中の人々にも当然の考えだと受け入れられるし
中国や韓国の批判にも当たらないと考えますけど。
次回は大坂冬の陣の真田幸村ゆかりの地を紹介しまひょ。
ほんなら、さいなら~♪