今回は有名な割に訪れる人もない名所でっせ。
江戸時代には日本の銅の三分の一ぐらいを精錬した
泉屋(現在の住友家)の銅吹き所跡を紹介しまひょ。
(住友銅吹所跡) (大阪市中央区島之内)
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銅を精錬した場所でっから案内書きも銅板で作られてまんな。
1636年(寛永13年)二代目住友理兵衛・友以(とももち)が
京都からやってきて、銅吹き所を始めて造った場所なんだって。
この頃は住友吉左衛門とは、まだ名乗ってないようでんな。
住友家の初代は政友(まさとも)だと言われてますんや。
この方は涅槃宗(現在は天台宗の一派)の高僧でしたが
幕府の弾圧で涅槃宗が天台宗に吸収される際に下野し。
京都で「富士屋」という医薬品や書籍の商売を始めたとか。
住友家ではこの初代・住友政友を「家祖」と呼びますんや。
この政友の檀家に蘇我理右衛門と呼ぶ人物が居られて
住友政友の姉婿にあたり経済面でも支援したようでんな。
この蘇我理右衛門は銅師で大坂の堺にやってきた中国の
明人の白水から秘伝の「南蛮吹き」を取得したんだって。
住友グループの社長会は「白水会」これは「南蛮吹き」を
得て繁栄した住友家の、現在も受け継がれているネームは
この伝説から名前を貰い受けているのかもしれないね。
住友本家は初代政友の息子の代で絶えてしまったのかな?
蘇我理右衛門の息子を住友家の養子に迎えたようですわ。
この方が住友家を継ぎ二代目住友友以と名を変えたとか。
「銅」で住友家を繁栄に導いた、そんな訳で住友家では
二代目住友友以(とももち)を住友家の「業祖」と
呼ぶそうで、どこかの書物でみましたな。
(江戸時代の 住友銅吹き所絵図)
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絵図の向かって左側が銅吹き所で右側が住友家の本宅。
一番手前は長堀川で精錬した銅は、ここから銅座へ
送られて長崎を経由して輸出もされたんようでんな。
当時は銅の鉱石から金や銀を取りだすことを日本人は
知らなかったようで「南蛮吹き」は秘伝中の秘伝だったとか。
住友友以の孫にあたる4代目住友友芳(ともよし)の時代。
この方から今日まで住友家の当主は吉左衛門を名乗ってまぁ。
1691年(元禄4年)に別子銅山が開発され、その銅が
船で大坂に送られここ住友銅吹き所で精錬されたんですわ。
これ以降は住友家の別子銅山が全盛期を迎えますんや。
住友財閥のルーツは別子銅山にありと言われる所以でっかな。
この頃には銅は重要な輸出品で江戸幕府の銅座が大坂に置かれ
銅座の監督下に、泉屋(住友家)・大坂屋・平野屋の3軒が
大半の銅を精錬していたと記録されてまっせ。
住友家は銀を抽出して当時は莫大な利益を生み出したとか。
「南蛮吹き」の秘伝は泉屋(住友家)の他には大坂屋と
平野屋の3軒でしか使用できず独占的な銅の精錬は遠く
ヨーロッパにも輸出され銅の相場をも左右したようでっせ。
ちなみに大坂屋と平野屋は明治維新後に倒産したんだって。
(明治時代初期の ビリヤード場)
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日本最古のビリヤードの建物だと記されてまんな。
和洋折衷の不思議な建物なので写してみましたんや。
この辺りは昭和20年アメリカ軍の空襲で焼失したはず?
絵図に有った住友家の本宅も茶臼山へ引っ越した後も
別宅として存続してたが、空襲で全焼してますんや。
再建した物なのか移設した物なのか定かじゃおまへん。
1876年(明治9年)に住友銅吹き所は閉鎖されて
大阪の富島へ移転したが、住友家の本宅だけは残ったとか。
本宅と距離が離れていて奇跡的に焼け残ったのかしら?
(別子銅山で作られた 銅製の橋)
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1879年(明治12年)に別子銅山から銅吹き所跡へ
運ばれてきたレプリカの橋のように聞きましたけど。
この橋には、こんな伝説が残っているようでっせ。
「事業は石橋を 叩いて渡るがごとく 確実を旨とすべし」
住友財閥の初代・大番頭に就任した広瀬宰平(さいへい)の
格言だそうで、住友グループでは現在も家訓とされているとか。
彼は明治維新の際にドル箱の別子銅山を明治新政府に
没収されそうになったのを回避させた人物なんだつて。
明治新政府は幕府の銅山とみなして土佐藩に別子銅山を
接収させた際に、新政府の役人にこう述べたようでっせ。
「銅山の経営を 経験の無い者に任せると
利益はなく 国家の大損失となる」
住友家最大の危機を救った恩人だとも言えますかな。
結局、明治新政府は諦めて住友家に別子銅山の経営を
任せて、戦後の財閥解体に至るまで存続したようでっけど。
(旧住友本宅跡 現在は銀行の事務センター)
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やはり住友グループ発展のルーツなんでしょうな、現在も
三井住友銀行が敷地を保有し管理してるようでっせ。
ビルの向こう側半分ぐらいが旧の住友家本宅になりまぁ。
ビルの手前側は昔の住友銅吹き所跡になりまっかな。
鉄ちゃん爺やが現役時代には、住友銀行の社員寮だった
そんな記憶は有るんだけど、銅吹き所跡は記憶がなし。
(現在の住居表示)
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鉄ちゃん爺やが若い頃は、この辺りは鰻谷という地名。
島之内はもっと広いこの辺り一帯の地名だったはず。
船場は太閤秀吉の時代から栄えた街だけど島之内は
江戸時代には危険な銅を精錬する町外れだったのかな?
長堀川と東横堀川が住友銅吹き所を囲むように流れて居て
大量の水を必要とする銅の精錬には最適の場所だったのかも。
蛇足ながら鉄ちゃん爺やが初めて就職した会社の場所も
江戸時代には銅吹き所跡だったと記憶します。
お隣が住友倉庫だった、同じ住友系の銅吹き所だったか
明治時代に逼塞した大坂屋か平野屋の敷地だったのかしら?
ちなみに現在のJR難波駅に近い西道頓堀という場所でっけど。
(東横堀川の表示板)
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この場所は東横堀川と長堀川が繋がっている地点でした。
昭和の30年代に長堀川は埋め立てられて消滅ですわ
現在は地下駐車場とその先は地下街に変わってまぁ。
東横堀川にも阪神高速道路が出来て景観が悪く成りましたな。
(末吉橋 西詰めから撮影)
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鉄ちゃん爺やが現役時代には市電やバスの停留所も全て
「末吉橋」でしたんや、現在は「松屋町」ですわ。
大坂夏の陣に際し徳川側に協力した平野郷の末吉孫左衛門が
戦後に自費で架けた橋なので「末吉橋」の名前が付いたとか。
この方は江戸時代初期に朱印貿易で財をなした豪商だった。
現在も子孫の方は大阪市の平野区に現存してるんだって。
大坂には「淀屋橋」だとか「末吉橋」など町民が橋を架け
その後も維持費を負担する町人の橋が大半でしたんや。
江戸の街と違い公儀が造ったのは「高麗橋」「日本橋」
他1~2か所ぐらいで、八百八橋の殆どが町人の橋でおます。
江戸時代に大坂人は、お上を全く信用してまへんでしたんや。
大坂の街は自分らで造り、自分らで維持しまっさ~
「お奉行の 名前も知らず 大晦日」
こんな、俳句か川柳か分からないのも、大坂人らしいでっしゃろ。
(松屋町の通り)
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東京なら、さしずめ浅草橋と言う感じでっかな。
ここは大阪で現在も人形と玩具の街で有名なんでっせ。
この交差点が昔は「末吉橋」だったはずでんねん。
平成8年に地下鉄の鶴見緑地線が開通してから
駅名も交差点も「松屋町」変わってしまったんですわ。
(地下鉄 松屋町駅)
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(地下鉄の トイレ)
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この2~3年で地下鉄のトイレが綺麗になりましたで。
臭い、汚いの代名詞だったけど、橋下さんの号令で一掃
これは、彼の残した実績の内では評価が高いかな。
この後は大阪の堺市の方へ足を延ばしましたんや。
次回は堺事件で有名な妙国寺やザビエル公園などを
紹介することにしまひょかな。
ほんなら、今日はこれで、さいなら~♪
江戸時代には日本の銅の三分の一ぐらいを精錬した
泉屋(現在の住友家)の銅吹き所跡を紹介しまひょ。
(住友銅吹所跡) (大阪市中央区島之内)
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銅を精錬した場所でっから案内書きも銅板で作られてまんな。
1636年(寛永13年)二代目住友理兵衛・友以(とももち)が
京都からやってきて、銅吹き所を始めて造った場所なんだって。
この頃は住友吉左衛門とは、まだ名乗ってないようでんな。
住友家の初代は政友(まさとも)だと言われてますんや。
この方は涅槃宗(現在は天台宗の一派)の高僧でしたが
幕府の弾圧で涅槃宗が天台宗に吸収される際に下野し。
京都で「富士屋」という医薬品や書籍の商売を始めたとか。
住友家ではこの初代・住友政友を「家祖」と呼びますんや。
この政友の檀家に蘇我理右衛門と呼ぶ人物が居られて
住友政友の姉婿にあたり経済面でも支援したようでんな。
この蘇我理右衛門は銅師で大坂の堺にやってきた中国の
明人の白水から秘伝の「南蛮吹き」を取得したんだって。
住友グループの社長会は「白水会」これは「南蛮吹き」を
得て繁栄した住友家の、現在も受け継がれているネームは
この伝説から名前を貰い受けているのかもしれないね。
住友本家は初代政友の息子の代で絶えてしまったのかな?
蘇我理右衛門の息子を住友家の養子に迎えたようですわ。
この方が住友家を継ぎ二代目住友友以と名を変えたとか。
「銅」で住友家を繁栄に導いた、そんな訳で住友家では
二代目住友友以(とももち)を住友家の「業祖」と
呼ぶそうで、どこかの書物でみましたな。
(江戸時代の 住友銅吹き所絵図)
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絵図の向かって左側が銅吹き所で右側が住友家の本宅。
一番手前は長堀川で精錬した銅は、ここから銅座へ
送られて長崎を経由して輸出もされたんようでんな。
当時は銅の鉱石から金や銀を取りだすことを日本人は
知らなかったようで「南蛮吹き」は秘伝中の秘伝だったとか。
住友友以の孫にあたる4代目住友友芳(ともよし)の時代。
この方から今日まで住友家の当主は吉左衛門を名乗ってまぁ。
1691年(元禄4年)に別子銅山が開発され、その銅が
船で大坂に送られここ住友銅吹き所で精錬されたんですわ。
これ以降は住友家の別子銅山が全盛期を迎えますんや。
住友財閥のルーツは別子銅山にありと言われる所以でっかな。
この頃には銅は重要な輸出品で江戸幕府の銅座が大坂に置かれ
銅座の監督下に、泉屋(住友家)・大坂屋・平野屋の3軒が
大半の銅を精錬していたと記録されてまっせ。
住友家は銀を抽出して当時は莫大な利益を生み出したとか。
「南蛮吹き」の秘伝は泉屋(住友家)の他には大坂屋と
平野屋の3軒でしか使用できず独占的な銅の精錬は遠く
ヨーロッパにも輸出され銅の相場をも左右したようでっせ。
ちなみに大坂屋と平野屋は明治維新後に倒産したんだって。
(明治時代初期の ビリヤード場)
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日本最古のビリヤードの建物だと記されてまんな。
和洋折衷の不思議な建物なので写してみましたんや。
この辺りは昭和20年アメリカ軍の空襲で焼失したはず?
絵図に有った住友家の本宅も茶臼山へ引っ越した後も
別宅として存続してたが、空襲で全焼してますんや。
再建した物なのか移設した物なのか定かじゃおまへん。
1876年(明治9年)に住友銅吹き所は閉鎖されて
大阪の富島へ移転したが、住友家の本宅だけは残ったとか。
本宅と距離が離れていて奇跡的に焼け残ったのかしら?
(別子銅山で作られた 銅製の橋)
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1879年(明治12年)に別子銅山から銅吹き所跡へ
運ばれてきたレプリカの橋のように聞きましたけど。
この橋には、こんな伝説が残っているようでっせ。
「事業は石橋を 叩いて渡るがごとく 確実を旨とすべし」
住友財閥の初代・大番頭に就任した広瀬宰平(さいへい)の
格言だそうで、住友グループでは現在も家訓とされているとか。
彼は明治維新の際にドル箱の別子銅山を明治新政府に
没収されそうになったのを回避させた人物なんだつて。
明治新政府は幕府の銅山とみなして土佐藩に別子銅山を
接収させた際に、新政府の役人にこう述べたようでっせ。
「銅山の経営を 経験の無い者に任せると
利益はなく 国家の大損失となる」
住友家最大の危機を救った恩人だとも言えますかな。
結局、明治新政府は諦めて住友家に別子銅山の経営を
任せて、戦後の財閥解体に至るまで存続したようでっけど。
(旧住友本宅跡 現在は銀行の事務センター)
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やはり住友グループ発展のルーツなんでしょうな、現在も
三井住友銀行が敷地を保有し管理してるようでっせ。
ビルの向こう側半分ぐらいが旧の住友家本宅になりまぁ。
ビルの手前側は昔の住友銅吹き所跡になりまっかな。
鉄ちゃん爺やが現役時代には、住友銀行の社員寮だった
そんな記憶は有るんだけど、銅吹き所跡は記憶がなし。
(現在の住居表示)
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鉄ちゃん爺やが若い頃は、この辺りは鰻谷という地名。
島之内はもっと広いこの辺り一帯の地名だったはず。
船場は太閤秀吉の時代から栄えた街だけど島之内は
江戸時代には危険な銅を精錬する町外れだったのかな?
長堀川と東横堀川が住友銅吹き所を囲むように流れて居て
大量の水を必要とする銅の精錬には最適の場所だったのかも。
蛇足ながら鉄ちゃん爺やが初めて就職した会社の場所も
江戸時代には銅吹き所跡だったと記憶します。
お隣が住友倉庫だった、同じ住友系の銅吹き所だったか
明治時代に逼塞した大坂屋か平野屋の敷地だったのかしら?
ちなみに現在のJR難波駅に近い西道頓堀という場所でっけど。
(東横堀川の表示板)
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昭和の30年代に長堀川は埋め立てられて消滅ですわ
現在は地下駐車場とその先は地下街に変わってまぁ。
東横堀川にも阪神高速道路が出来て景観が悪く成りましたな。
(末吉橋 西詰めから撮影)
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鉄ちゃん爺やが現役時代には市電やバスの停留所も全て
「末吉橋」でしたんや、現在は「松屋町」ですわ。
大坂夏の陣に際し徳川側に協力した平野郷の末吉孫左衛門が
戦後に自費で架けた橋なので「末吉橋」の名前が付いたとか。
この方は江戸時代初期に朱印貿易で財をなした豪商だった。
現在も子孫の方は大阪市の平野区に現存してるんだって。
大坂には「淀屋橋」だとか「末吉橋」など町民が橋を架け
その後も維持費を負担する町人の橋が大半でしたんや。
江戸の街と違い公儀が造ったのは「高麗橋」「日本橋」
他1~2か所ぐらいで、八百八橋の殆どが町人の橋でおます。
江戸時代に大坂人は、お上を全く信用してまへんでしたんや。
大坂の街は自分らで造り、自分らで維持しまっさ~
「お奉行の 名前も知らず 大晦日」
こんな、俳句か川柳か分からないのも、大坂人らしいでっしゃろ。
(松屋町の通り)
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東京なら、さしずめ浅草橋と言う感じでっかな。
ここは大阪で現在も人形と玩具の街で有名なんでっせ。
この交差点が昔は「末吉橋」だったはずでんねん。
平成8年に地下鉄の鶴見緑地線が開通してから
駅名も交差点も「松屋町」変わってしまったんですわ。
(地下鉄 松屋町駅)
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(地下鉄の トイレ)
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この2~3年で地下鉄のトイレが綺麗になりましたで。
臭い、汚いの代名詞だったけど、橋下さんの号令で一掃
これは、彼の残した実績の内では評価が高いかな。
この後は大阪の堺市の方へ足を延ばしましたんや。
次回は堺事件で有名な妙国寺やザビエル公園などを
紹介することにしまひょかな。
ほんなら、今日はこれで、さいなら~♪