鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

鉄ちゃん爺や  住友銅吹き所跡を散策

2016-01-31 14:50:51 | 大阪
今回は有名な割に訪れる人もない名所でっせ。

江戸時代には日本の銅の三分の一ぐらいを精錬した
泉屋(現在の住友家)の銅吹き所跡を紹介しまひょ。

(住友銅吹所跡) (大阪市中央区島之内)





銅を精錬した場所でっから案内書きも銅板で作られてまんな。

1636年(寛永13年)二代目住友理兵衛・友以(とももち)が
京都からやってきて、銅吹き所を始めて造った場所なんだって。

この頃は住友吉左衛門とは、まだ名乗ってないようでんな。

住友家の初代は政友(まさとも)だと言われてますんや。

この方は涅槃宗(現在は天台宗の一派)の高僧でしたが
幕府の弾圧で涅槃宗が天台宗に吸収される際に下野し。

京都で「富士屋」という医薬品や書籍の商売を始めたとか。

住友家ではこの初代・住友政友を「家祖」と呼びますんや。

この政友の檀家に蘇我理右衛門と呼ぶ人物が居られて
住友政友の姉婿にあたり経済面でも支援したようでんな。

この蘇我理右衛門は銅師で大坂の堺にやってきた中国の
明人の白水から秘伝の「南蛮吹き」を取得したんだって。

住友グループの社長会は「白水会」これは「南蛮吹き」を
得て繁栄した住友家の、現在も受け継がれているネームは
この伝説から名前を貰い受けているのかもしれないね。

住友本家は初代政友の息子の代で絶えてしまったのかな?

蘇我理右衛門の息子を住友家の養子に迎えたようですわ。

この方が住友家を継ぎ二代目住友友以と名を変えたとか。

「銅」で住友家を繁栄に導いた、そんな訳で住友家では
二代目住友友以(とももち)を住友家の「業祖」と
呼ぶそうで、どこかの書物でみましたな。

(江戸時代の 住友銅吹き所絵図)



絵図の向かって左側が銅吹き所で右側が住友家の本宅。

一番手前は長堀川で精錬した銅は、ここから銅座へ
送られて長崎を経由して輸出もされたんようでんな。

当時は銅の鉱石から金や銀を取りだすことを日本人は
知らなかったようで「南蛮吹き」は秘伝中の秘伝だったとか。

住友友以の孫にあたる4代目住友友芳(ともよし)の時代。

この方から今日まで住友家の当主は吉左衛門を名乗ってまぁ。

1691年(元禄4年)に別子銅山が開発され、その銅が
船で大坂に送られここ住友銅吹き所で精錬されたんですわ。

これ以降は住友家の別子銅山が全盛期を迎えますんや。

住友財閥のルーツは別子銅山にありと言われる所以でっかな。

この頃には銅は重要な輸出品で江戸幕府の銅座が大坂に置かれ
銅座の監督下に、泉屋(住友家)・大坂屋・平野屋の3軒が
大半の銅を精錬していたと記録されてまっせ。

住友家は銀を抽出して当時は莫大な利益を生み出したとか。

「南蛮吹き」の秘伝は泉屋(住友家)の他には大坂屋と
平野屋の3軒でしか使用できず独占的な銅の精錬は遠く
ヨーロッパにも輸出され銅の相場をも左右したようでっせ。

ちなみに大坂屋と平野屋は明治維新後に倒産したんだって。

(明治時代初期の ビリヤード場)









日本最古のビリヤードの建物だと記されてまんな。

和洋折衷の不思議な建物なので写してみましたんや。

この辺りは昭和20年アメリカ軍の空襲で焼失したはず?

絵図に有った住友家の本宅も茶臼山へ引っ越した後も
別宅として存続してたが、空襲で全焼してますんや。

再建した物なのか移設した物なのか定かじゃおまへん。

1876年(明治9年)に住友銅吹き所は閉鎖されて
大阪の富島へ移転したが、住友家の本宅だけは残ったとか。

本宅と距離が離れていて奇跡的に焼け残ったのかしら?

(別子銅山で作られた 銅製の橋)



1879年(明治12年)に別子銅山から銅吹き所跡へ
運ばれてきたレプリカの橋のように聞きましたけど。

この橋には、こんな伝説が残っているようでっせ。

「事業は石橋を 叩いて渡るがごとく 確実を旨とすべし」

住友財閥の初代・大番頭に就任した広瀬宰平(さいへい)の
格言だそうで、住友グループでは現在も家訓とされているとか。

彼は明治維新の際にドル箱の別子銅山を明治新政府に
没収されそうになったのを回避させた人物なんだつて。

明治新政府は幕府の銅山とみなして土佐藩に別子銅山を
接収させた際に、新政府の役人にこう述べたようでっせ。

「銅山の経営を 経験の無い者に任せると 

     利益はなく 国家の大損失となる」

住友家最大の危機を救った恩人だとも言えますかな。

結局、明治新政府は諦めて住友家に別子銅山の経営を
任せて、戦後の財閥解体に至るまで存続したようでっけど。

(旧住友本宅跡 現在は銀行の事務センター)





やはり住友グループ発展のルーツなんでしょうな、現在も
三井住友銀行が敷地を保有し管理してるようでっせ。

ビルの向こう側半分ぐらいが旧の住友家本宅になりまぁ。

ビルの手前側は昔の住友銅吹き所跡になりまっかな。

鉄ちゃん爺やが現役時代には、住友銀行の社員寮だった
そんな記憶は有るんだけど、銅吹き所跡は記憶がなし。

(現在の住居表示)



鉄ちゃん爺やが若い頃は、この辺りは鰻谷という地名。

島之内はもっと広いこの辺り一帯の地名だったはず。

船場は太閤秀吉の時代から栄えた街だけど島之内は
江戸時代には危険な銅を精錬する町外れだったのかな?

長堀川と東横堀川が住友銅吹き所を囲むように流れて居て
大量の水を必要とする銅の精錬には最適の場所だったのかも。

蛇足ながら鉄ちゃん爺やが初めて就職した会社の場所も
江戸時代には銅吹き所跡だったと記憶します。

お隣が住友倉庫だった、同じ住友系の銅吹き所だったか
明治時代に逼塞した大坂屋か平野屋の敷地だったのかしら?

ちなみに現在のJR難波駅に近い西道頓堀という場所でっけど。

(東横堀川の表示板)





この場所は東横堀川と長堀川が繋がっている地点でした。

昭和の30年代に長堀川は埋め立てられて消滅ですわ
現在は地下駐車場とその先は地下街に変わってまぁ。

東横堀川にも阪神高速道路が出来て景観が悪く成りましたな。

(末吉橋 西詰めから撮影)





鉄ちゃん爺やが現役時代には市電やバスの停留所も全て
「末吉橋」でしたんや、現在は「松屋町」ですわ。

大坂夏の陣に際し徳川側に協力した平野郷の末吉孫左衛門が
戦後に自費で架けた橋なので「末吉橋」の名前が付いたとか。

この方は江戸時代初期に朱印貿易で財をなした豪商だった。

現在も子孫の方は大阪市の平野区に現存してるんだって。

大坂には「淀屋橋」だとか「末吉橋」など町民が橋を架け
その後も維持費を負担する町人の橋が大半でしたんや。

江戸の街と違い公儀が造ったのは「高麗橋」「日本橋」
他1~2か所ぐらいで、八百八橋の殆どが町人の橋でおます。

江戸時代に大坂人は、お上を全く信用してまへんでしたんや。

大坂の街は自分らで造り、自分らで維持しまっさ~

「お奉行の 名前も知らず 大晦日」

こんな、俳句か川柳か分からないのも、大坂人らしいでっしゃろ。

(松屋町の通り)



東京なら、さしずめ浅草橋と言う感じでっかな。

ここは大阪で現在も人形と玩具の街で有名なんでっせ。

この交差点が昔は「末吉橋」だったはずでんねん。

平成8年に地下鉄の鶴見緑地線が開通してから
駅名も交差点も「松屋町」変わってしまったんですわ。

(地下鉄 松屋町駅)



(地下鉄の トイレ)



この2~3年で地下鉄のトイレが綺麗になりましたで。

臭い、汚いの代名詞だったけど、橋下さんの号令で一掃
これは、彼の残した実績の内では評価が高いかな。

この後は大阪の堺市の方へ足を延ばしましたんや。

次回は堺事件で有名な妙国寺やザビエル公園などを
紹介することにしまひょかな。

ほんなら、今日はこれで、さいなら~♪




























コメント (15)
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