鉄ちゃん爺やの興味が有ったものを紹介しまひょ。
先ずはバカげた箱モノの象徴である館内から行きまっせ。
(近つ飛鳥博物館の館内)
常設提示場は大半が撮影がOKでしたが、今回のメイン
特別展示会場は全て撮影が禁止と成ってましたんや。
レプリカが多いので、やや失望の印象がおます。
(仁徳天皇陵 古墳 150分の一 模型)
世界文化遺産に申請しようとしている有名な古墳でんな。
面積では世界一を誇る、前方後円墳とか言いまんねんで。
その創建当時を再現してるというテーマでっしゃろな。
仁徳天皇の御陵とは言えないとかで、大仙古墳とか
伝・仁徳天皇陵とか言う学者も居はりまっけど。
昨年の秋に堺市役所の展望台から写した画像を
貼り付けて置きまひょ。
(仁徳天皇陵 古墳) (堺市役所展望台から撮影)
現在は、ただの森にしか見えへんかもしれまへんな。
この博物館から直線で約20kmぐらい離れてまっせ。
近つ飛鳥とは、何の関連も無い古墳でっけど。
日本一の前方後円墳を強調したいんでしょうな。
(古墳の出土例)
(古墳から出土した 馬の骨格)
現在の競走馬と比べたら随分と小さい馬でっせ。
左側が出土した古代の馬で、右端がサラブレッド。
おそらく、朝鮮半島から伝わったんでしょうな。
(三角縁神獣鏡=さんかくぶちしんじゅうきょう)
これは撮影禁止のマークが有るけど係員が不在
鉄ちゃん爺やが、内緒で写した画像でっせ。
中国から伝わったものか、国内で作られた物か
説明がおまへんので、詳細は不明でしたわ。
古墳から大量に出土する「鏡」なので別に撮影を
禁止するほど貴重な物とも思いまへんけど。
(古墳から出土した 甲冑)
(復元した 甲冑のレプリカ)
鉄ちゃん爺やが博物館内で見つけた資料を紹介しまひょ。
まずは、毎朝の散歩で前を通る小さい神社でっけど
平安時代から式内社の格式を持つ古い高屋神社から。
町内の氏神さまでは無いので拝んだことはおまへん。
(式内社 高屋神社)
(高屋神社の 由緒書き説明板)
物部氏の一族で「高屋連(たかやのむらじ)」と呼ばれ
現在でも「高屋」と言う字名が残ってますんや。
奈良の都へ出仕する我が町では豪族だった一族。
高屋連薬女(たかやのむらじくすめ)という人が男の三つ子を
生んだとのことで、朝廷から絹などの引き出物を授かった
と書かれてまっせ、当時は三つ子って珍しい出来事だったかも。
この時代に、一般女性の名前が載ることも珍しいはず。
ここに書き込まれている「高屋連(たかやのむらじ)」の
「枚人(ひらひと」の墓誌の展示品を発見しましたで。
両方とも続日本紀(しょくにほんき)という国家が作った
書物に書き記されている記録なんだって。
(高屋連枚人=たかやのむらじひらひと)の墓誌)
本物は太子町の叡福寺に保存されているはずなので
レプリカのような感じもしますんやけど。
叡福寺と言うのは聖徳太子のお墓がある地元では
有名なお寺で、我が街から約3kmぐらいの場所。
これは、我が町内の歴史的な資料に違いはおまへん。
奈良時代に常陸の国(現在の茨城県)へ派遣された
国司の四等官で大目(だいさかん)だった人。
常陸の国のトップ「守」は親王である皇族だったはず。
実質は三等官のナンバー3だった人でんな。
現在なら中央官庁ノンキャリ組の課長さんクラス?
(奈良時代の 骨壺)(レプリカ?)
位も正六位上だから貴族にはなれなかったけど
事務官僚としては優秀だった人のようだね。
もう一歩で貴族になれる従五位下ですわ。
でもこの六位と五位との壁は大きかったようでんな。
こんな下級官僚さんの墓誌が見つかるのは
奈良時代には珍しいのかも知れまへんで。
(飛鳥時代の 位を示す帯締め)
(飛鳥時代の 官僚の位ごとの服装)
服装や帯締めで「位」が分かるようで、自分より
位が高いか、低いかで、判断し対応をしたのかも。
当時は位が上の人と出会った際には、膝を付いて
ひざまずくのが礼儀だったんでしたかな。
(近つ飛鳥博物館にて撮影)
(近つ飛鳥博物館の 外壁)
(特別展示の 説明パンフレット)
撮影禁止の為に特別展示は画像がおまへんけど
古墳の特徴や出土した土器や装飾品の変化など
知らない事を、学芸員の方が説明されました。
難しい専門用語ばかりなので省略させてもらいまぁ。
(古代の装飾品)
これぐらいで、本日はお仕舞にさせてもらいまっさ。
ほんなら、さいなら~♪
先ずはバカげた箱モノの象徴である館内から行きまっせ。
(近つ飛鳥博物館の館内)
常設提示場は大半が撮影がOKでしたが、今回のメイン
特別展示会場は全て撮影が禁止と成ってましたんや。
レプリカが多いので、やや失望の印象がおます。
(仁徳天皇陵 古墳 150分の一 模型)
世界文化遺産に申請しようとしている有名な古墳でんな。
面積では世界一を誇る、前方後円墳とか言いまんねんで。
その創建当時を再現してるというテーマでっしゃろな。
仁徳天皇の御陵とは言えないとかで、大仙古墳とか
伝・仁徳天皇陵とか言う学者も居はりまっけど。
昨年の秋に堺市役所の展望台から写した画像を
貼り付けて置きまひょ。
(仁徳天皇陵 古墳) (堺市役所展望台から撮影)
現在は、ただの森にしか見えへんかもしれまへんな。
この博物館から直線で約20kmぐらい離れてまっせ。
近つ飛鳥とは、何の関連も無い古墳でっけど。
日本一の前方後円墳を強調したいんでしょうな。
(古墳の出土例)
(古墳から出土した 馬の骨格)
現在の競走馬と比べたら随分と小さい馬でっせ。
左側が出土した古代の馬で、右端がサラブレッド。
おそらく、朝鮮半島から伝わったんでしょうな。
(三角縁神獣鏡=さんかくぶちしんじゅうきょう)
これは撮影禁止のマークが有るけど係員が不在
鉄ちゃん爺やが、内緒で写した画像でっせ。
中国から伝わったものか、国内で作られた物か
説明がおまへんので、詳細は不明でしたわ。
古墳から大量に出土する「鏡」なので別に撮影を
禁止するほど貴重な物とも思いまへんけど。
(古墳から出土した 甲冑)
(復元した 甲冑のレプリカ)
鉄ちゃん爺やが博物館内で見つけた資料を紹介しまひょ。
まずは、毎朝の散歩で前を通る小さい神社でっけど
平安時代から式内社の格式を持つ古い高屋神社から。
町内の氏神さまでは無いので拝んだことはおまへん。
(式内社 高屋神社)
(高屋神社の 由緒書き説明板)
物部氏の一族で「高屋連(たかやのむらじ)」と呼ばれ
現在でも「高屋」と言う字名が残ってますんや。
奈良の都へ出仕する我が町では豪族だった一族。
高屋連薬女(たかやのむらじくすめ)という人が男の三つ子を
生んだとのことで、朝廷から絹などの引き出物を授かった
と書かれてまっせ、当時は三つ子って珍しい出来事だったかも。
この時代に、一般女性の名前が載ることも珍しいはず。
ここに書き込まれている「高屋連(たかやのむらじ)」の
「枚人(ひらひと」の墓誌の展示品を発見しましたで。
両方とも続日本紀(しょくにほんき)という国家が作った
書物に書き記されている記録なんだって。
(高屋連枚人=たかやのむらじひらひと)の墓誌)
本物は太子町の叡福寺に保存されているはずなので
レプリカのような感じもしますんやけど。
叡福寺と言うのは聖徳太子のお墓がある地元では
有名なお寺で、我が街から約3kmぐらいの場所。
これは、我が町内の歴史的な資料に違いはおまへん。
奈良時代に常陸の国(現在の茨城県)へ派遣された
国司の四等官で大目(だいさかん)だった人。
常陸の国のトップ「守」は親王である皇族だったはず。
実質は三等官のナンバー3だった人でんな。
現在なら中央官庁ノンキャリ組の課長さんクラス?
(奈良時代の 骨壺)(レプリカ?)
位も正六位上だから貴族にはなれなかったけど
事務官僚としては優秀だった人のようだね。
もう一歩で貴族になれる従五位下ですわ。
でもこの六位と五位との壁は大きかったようでんな。
こんな下級官僚さんの墓誌が見つかるのは
奈良時代には珍しいのかも知れまへんで。
(飛鳥時代の 位を示す帯締め)
(飛鳥時代の 官僚の位ごとの服装)
服装や帯締めで「位」が分かるようで、自分より
位が高いか、低いかで、判断し対応をしたのかも。
当時は位が上の人と出会った際には、膝を付いて
ひざまずくのが礼儀だったんでしたかな。
(近つ飛鳥博物館にて撮影)
(近つ飛鳥博物館の 外壁)
(特別展示の 説明パンフレット)
撮影禁止の為に特別展示は画像がおまへんけど
古墳の特徴や出土した土器や装飾品の変化など
知らない事を、学芸員の方が説明されました。
難しい専門用語ばかりなので省略させてもらいまぁ。
(古代の装飾品)
これぐらいで、本日はお仕舞にさせてもらいまっさ。
ほんなら、さいなら~♪